二階が少し騒がしいな、と皆で天井を見上げたタイミングで、暁音ちゃんと店長が謝りながら店を後にし、扉の向こうにあるらしい階段を上っていく。
「二階……弟くんかな?」
「大丈夫でしょうか」
那沙さんの言葉に返事をする。
その瞬間、こちらに向けて、扉から何かがすり抜けてきた。
「へ?」
普通ではありえない現象に目を開くと、それは人間の容姿をしたものだった。困ったように頭を掻きながら声をこぼして、こちらに気付かずに独り愚痴りながら歩いてくる。
「門前払いとか、無理すぎんでしょ」
もう会うことは絶対に無いだろうと思っていた。綺麗な金髪を持ち、白い制服を身に纏うその姿は……。
「星叶?」
思わず名を口にしてしまって、慌てて口を手で覆う。
彼女は他人には見えない、霊体のような存在だったはずだ。突然ここに居ないはずの人名を口にしたら、皆に変に思われる。
そんな考えが一瞬で過ったタイミングだった。
「え? 金咲さん?」
「星叶ちゃん?」
私達の近くに立っていた昴さん、向かい合う位置に座っていた那沙さん、それぞれが名を口にした。それは、あの人が初めて出会った時に、名乗ったものと一致している。
私以外に見えないはずの天使見習いの彼女を、三人そろって呼んだ。
「え?」
考えは同じだったのか、私を含む三人同時に間の抜けた声をこぼし、顔を見合わせる。
呼ばれた当人は目を丸くして、額に手を添えて「マジか……」と嘆いていた。
その後、二階の騒動も少し落ち着いたらしい。だが、姉妹に謝られながら、本日は解散を提案された。店に残っていた私達三人は頷いた。
店から出る時に再度謝られたが、気にしないでと言ってから、私達三人と天使を含めた四人が店から少し離れた場所で輪になった。
「聞きたいことは沢山ある。だが最初に問う。何をしたんだ」
昴さんが腕を組みながら、少し頭が痛そうな表情で、代表して彼女に聞いた。星叶は少しだけ視線を泳がせた。
こんな姿、私と話していた時は滅多に見せなかった。我々と彼女との立場が逆転してしまっている。
「えっと、その、怒らせた?」
疑問なんだ。そんな彼女に昴さんは再度溜息である。
「じゃあ星叶ちゃん、私も良い?」
「なに?」
「その子も、課題なの?」
那沙さんの言葉を聞いて、勢いよく彼女の方へ顔を向ける。真っすぐと相手を見る横顔を眺めてから、少しだけ顔を伏せる。
そうか、私の他にも、こんな間近に、彼女と関わっていた人が居たのだ。
彼女の姿が見えるということは、経験上、そういうことだと察する。
ああ、この二人と少し似た雰囲気を感じたのは、星叶と縁があるもの同士だったからか。
「……そうだね、最後の相手だよ」
「そっか」
先ほどの二階での騒動、星叶の独り言曰く門前払い、を合わせる限り、最後の相手は暁音さん達の弟くんだろう。彼も、そうした手段を取ろうとしたところだったのか。
皆の言葉が詰まる。何て言葉をかければいいのか分からないのだろう。実際に私もそうだ。
そんな中、私のスマホに通知が来た。画面を確認すると、お母さんからのメッセージだったようだ。そこでようやく、現時刻を知る。
「ええと、とりあえず……明日は休日ですし、明日集合しません?」
私の意見に、全員が異議なしと手を上げた。
とりあえずと皆の集合場所として選ばれたのは那沙さんの家だった。
私の家は家族が居るから最初に除外。次に一人暮らしをしている二人のどちらかになったけど、男の家に女二人が入るのは気まずいだろう、という那沙さんの配慮で彼女の家となった。
まさかの再会を果たした星叶は、なぜか私の家にいる。ローテーブルを挟んで向き合って座っている。
私の世話をしてくれて、堂々としていたあの時とは違い、体育座りをしている。調子が狂いそうだ。
何か話題を出そうと思えば、最初に口を開いたのは向こうだ。
「最近は上手くいっているの?」
用意していた温かいお茶二人分のうち一つを彼女に差し出していたら、そう問われた。
彼女ってお茶とか飲むのかな、という疑問を抱えていた最中だったのもあり、問われた内容に瞬きしながら、少し間の抜けた声も零れた。
誤魔化すように、自分のお茶を口に含みながら答えた。
「そうだね。おかげで生きやすくなったよ」
あの出来事の後に、いじめっ子たちは退学させられたし。
教師の間でも会議を行ったのか、いじめに対する先生の目が厳しくなったような気がする。それと同時に、生徒は守ってもらえるという意識も混み上がってきたのか、先生と生徒の中が縮まり、実は生徒たちの成績も上がっているという話を小耳にはさんだ。
「私も余計な事に巻き込まれないから、勉学に集中できるしね」
「それは何より」
声が低い。まだ、今日の事を引きずっているのか。
「星叶のおかげだよ」
出来るだけ落ち着かせるように、相手の心に添えるイメージの声色を意識して述べれば、彼女は私の方へ顔を向けた。
「私みたいに、昴さんや那沙さんも助けていたんだね。すごいや」
「……違うよ、自分の為でもあったよ」
「結果救われているんだからwin-winでしょ」
自分のお茶は少しだけぬるめにしていたから、少しだけ冷めてきた。でも口の渇きを潤すには丁度良い。
正直緊張しているのだ。彼女と接していた時は、いつだって彼女が言葉をくれた。私に勇気や生きる気持ちをくれた。彼女の言葉にはいつだって説得力と、不思議な安心感があった。そんな相手に、自分が伝えられる言葉は薄っぺらいものにならないだろうか。
ばくばくと騒がしい心音が体内で響いている中、ゆっくりと星叶に目を向ければ、彼女は驚いたように目を開いている。
「本当に強くなってる」
思わず吹き出してしまった。彼女は少し怒ったのだけれど。
「だから、今度は私達が協力するよ」
「でも、これは私の」
「課題だから?」
しおしおと、気持ちの落ちた猫のようにしぼんでいく彼女。あるわけない耳と尻尾が、ぺしょりと垂れていく幻覚が見えた気がした。
本当に猫みたいな人だ。急に現れて、急に姿を消して、再び見たときは弱っていて。
「別に一人でやれとは言われていないんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ使えるものは使っときなよ」
これは彼女が私に教えてくれたものだ。
「それに何より、そんな状態の星叶を、友達として放っておけないんだよね」
私の言葉を聞いた彼女は、ゆっくりと伏せていた顔を上げる。
水の中に太陽の光が優しく射しこむように、少しだけ沈んでいた彼女の瞳に、ゆっくりと明るさが見えてきた。その姿に、自然と小さく笑みがこぼれた。
「じゃあ、明日は久しぶりに星叶に服とか選んでもらおうかな」
腕を天井に向けて、体を伸ばす。そんな私を見て、彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
小さな礼を述べたのが聞こえたが、彼女の性格から考えるにこれは聞かれたくない独り言の様なものだろう。私は小さく笑みを浮かべながら、聞こえないふりをした。
那沙さんのお宅に向かう途中で昴さんと合流した。彼は片手を軽く上げながら挨拶をしてくれて、そのまま私の隣にいる星叶に目を向け、苦笑い気味だけれど少しだけ顔をやわらげた。
「昨日よりはマシかな?」
「昨夜は見るに堪えない感じでしたね」
私が笑いながら言えば、照れ隠しなのか、星叶に無言で力強く背中を叩かれた。相変わらず力加減が微妙だ。
昴さんも音の響き具合から中々の威力だと察したらしく、私の背中に手を添えながら星叶に叱咤していた。まるで妹とお兄ちゃんである。
けれど、まだ加減が出来るほど彼女の心に余裕はあまり無いのだとも分かる。
教えられた住所とマップを頼りに三人で歩いていけば、とあるアパートの前に那沙さんがスマホをいじりながら立っていた。
先ほど昴さんが、もう少しで着きそうだと連絡したから出てきてくれたのかもしれない。こうしたところが、二人とも真面目でしっかりしている大人だなぁと、惚れ惚れしてしまうのだ。
彼女は私達に気が付くと、笑顔を浮かべて手を振ってくれた。
「お疲れ様。迷わなかった?」
「はい、大丈夫です」
「よかった」
にこりと笑みを浮かべた後、彼女も昴さんと同じように星叶に目を向けてから、先程の彼と同じような顔をした。
「私の時と違いすぎる」
ふふ、と小さく笑みを浮かべつつも、彼女は優しい目で星叶を見る。
「けど、そうだよね。高校生だもん、当たり前か」
この中で唯一社会人としての経験を持つ、大人と括られる彼女だからこそ、なのかもしれない。「今度は大人の私も頼ってね」と那沙さんの優しい言葉遣いと声色に、星叶はそっと視線を逸らした。
照れているのか、それともムズ痒い気分になったのか。元々は自分が手助けをした相手に同じような言葉を返されるのは、不思議な感覚なのだろう。
那沙さんの家は、一Kらしい広さの、可愛らしくも綺麗な部屋だった。清潔感のあるオールホワイトカラーで、置かれている小物も可愛らしく、生活感のあるものはしっかりと収納されていた。
「とても素敵な部屋ですね」
「え? えへへありがとう」
私と昴さんが腰かけていたら、彼女は四人分のジュースを用意してくれた。私の言葉に彼女は照れながらも礼を述べ、それぞれの前にコップを置いていく。
「でも、ちょっと前まではすっごい汚かったよ」
ね? と星叶に同意を求めると、彼女は何度も首を縦に振った。
「めっちゃヤバかったよ。一緒に掃除した」
「そうなんだよねえ」
頷きながら呟いて、彼女も腰かけた。
昨日も星叶はお茶を飲んでいなかったけれど、飲み食いはやっぱりしないのかな。そんな疑問を抱えながらオレンジジュースにささったストローを口にくわえて吸う。オレンジジュースの酸味が口内に染み込んできた。
部屋が静寂に包まれて、少し気まずいなと思っていると、昴さんが手を上げる。
「えっと、どうします? 早速本題に入ります?」
「そうしましょう」
この沈黙に少し耐えられなくて、食い気味に頷いた。
「えっと、昨日は最後の課題の相手を怒らせた、って話を聞いたところだったな」
昴さんが星叶に確かめるように問うと、彼女は胡坐をかいて、ぽつぽつと話し始める。
「まず、最後の課題である〝水月晶斗〟に会いに行った」
「何かしてた?」
「アンタらと同じだよ。死のうとしていた」
私達と同じという言葉に、ここに居る全員の心臓が大きく跳ねたことだろう。
現に私だって、息を小さく飲んで、心臓は大げさなほどに騒いだ。ここに居る人達が、死のうとそれぞれ行動をしていたのだと、改めて認識した。
「えっと、その人については詳しく知らないの?」
話題を逸らす意図も込めて、星叶に問う。
彼女がずっと課題と口にしているのだから、私がやっている学校の課題のように、何か教科書のような、資料集のようなものを持っているのかなという憶測だ。
それに、私と出会った時、彼女は私の名前をもう知っていて、私の状況すら理解していた。ということは、前もって何かで予習していた。ということにならないだろうか。
私が問いかけると、彼女は思い出したように、どこから取り出したのか分からない紙の束を私達に見せて私に手渡した。
予想が当たっていたのと、どこから取り出したのという疑問で驚きの声がこぼれたが、何とか礼を述べて受け取る。
そのままテーブルの上に置けば、那沙さんと昴さんが覗きこんで見る。
表紙には『課題四 水月晶斗』と書かれており、証明写真のようなブルーバックな背景に、正面を向いている写真が貼ってある。
「この子が」
ぽつりと呟きながら紙をめくって、詳細に目を配る。
水月晶斗。
花巻台高校一年生。家族構成を見ると、見慣れた名前も表記されている。私達の想像通り、灯彩さんと暁音さんの弟だ。
彼が心に抱えているものは、親密な人が目の前で交通事故に寄り亡くなったのを目撃したこと。
「目の前で交通事故によって人が亡くなるのを目撃した場合、他人でもカウンセリングが必要になるくらいだ。親密な相手なら余計に心を病むことがある」
昴さんが口にすると、思わず彼と同時に口を噤む。
もしかしたら、私達も、家族などに同じ思いをさせていたのかもしれない。という思いが、今更ながら大きくなったのだ。
「……人の死が原因なのは難しいと思うけど、大丈夫?」
那沙さんが問うと、星叶が立ち上がった。
「……監視してくる」
「え、ちょっと」
私達が何か言う前に、星叶は開いていた窓から出てベランダから飛び降りた。悲鳴を上げそうになったのをこらえて、慌てて窓からのぞき込めば、そこに彼女の姿は無かった。
姿を消したのか、それとも天使の羽根で移動をしたのかは分からないが、その身を落としたわけではなさそうだ。
「もう!」
思わず声を荒げて、ベランダの手すりを力強く殴った。
「……少し疑問なんだけどさ」
星叶が居なくなった後、昴さんがぽつりと呟いた。
那沙さんと共に彼の方に顔を向ければ、彼は考え込むように顎に指を添えて少々思考する。
考えが決まったのか、それとも話す決意が決まったのか、少ししてから浮かんだ疑問を口にする。
「そもそも、なんで金咲さんは、天使をやることになったんだろう」
その問いに、ぱちりと瞬く。何の違和感もなく、彼女を受け入れていたけれど、彼が疑問を口にして、謎の違和感が霞にまかれているような気分がする。
「そういえば、星叶ちゃんは交通事故で亡くなった高校生、なのよね」
「それに少し違和感があるんですよね」
「違和感?」
私が問えば、彼は小さく頷いた。
最初は何が違和感なのかと首を傾げたが、ふと学校で習った倫理の授業を思い出す。
そうか、死者の善人に括られる人は天国に、悪者は地獄に、と日本人の多くは言われて育ってきただろう。だが彼女は亡くなった後に天国に行くことは無く、天使として私達の前に現れた。
彼女は車に轢かれて亡くなったという。それは決して悪行と言われる部類ではなく、逆に無慈悲な出来事で、ルールを守っていたとすれば寧ろ被害者側である。
じゃあ生前に何か問題を起こしたのか。となれば、問答無用で地獄に落とされるかもしれない。
それなら、どうして彼女はこうして天使にされて試練を与えられた?
「そりゃあ、罪を抱えていたら、簡単には天国には行けないからさ」
昴さんとは別の男性の声がして、全員の体が固まる。油をささずにずっと放置されていたロボットのように、ぎこちなく、ゆっくりと声のした方に全員が顔を向けた。
真っ白な服一式を身に纏い、服と比例するように真っ白というよりは銀に近い髪色で、全体的に色素が薄いという印象。そして何より、背中には白くて大きく立派な翼が存在していた。
全員が突然の事に呆気にとられ言葉を失った。だが、変に大きな声も動きもせず騒がないのは、目の前の男と同じような翼をもつ女の子と、前もって接してきてしまったからだろうか。
けれど、まだ人間味のあった星叶と違い、男は完全に、この世の生物ではないと思わせる何かがあった。
「なんだ、もっと大きな反応を楽しみにしていたのに」
白い手袋をしている手を顎に添え、こちらを少し不満そうに見つめながら眉をひそめた。
そんなことを言われても、状態な私達を見て、相手も諦めたらしい。小さく息を吐いて、自分の胸元に手を当ててようやく笑みを見せた。
「遅くなったな。俺は金咲星叶の監視を対応している者だ。名前は無いから好きに呼べ」
「……もしかして、星叶が上司とか言っていた人?」
「え? そう呼んでたの? まあ間違いではないから、まあ良いか」
あの人の話に度々登場してきた上司とやらで、認識は大丈夫なようだ。そうか、彼女は彼と共に私を助けてくれたわけだ。
「えっと、色々とお世話になりました」
私が頭を下げれば、昴さんと那沙さんも続いて頭を下げる。そんな私達を見て、彼は変わらずに笑みを浮かべている。
「礼儀正しいな君達は。まあそこまで気にしないでくれ」
ははは、と人当たりのよさそうな、からっとした笑い声をこぼす。
にわかに相手が天使であるとは思いにくいのだけれど、それでも彼の背からずっと消えない純白の翼と、その人間離れしたおそろしい美貌は、やっぱりそうした相手なのだと本能が認識する。
私はこれまで、こんな摩訶不思議な美貌の青年を見たことがない。
「それより、罪ってどういうことですか?」
「そ、そうだ。それが気になっていたんです」
昴さんの問いかけに同意するように、思わず正座しながら、相手と向き合う。
「彼女は事故で亡くなったんですよね。それ以外に罪でも?」
「良いや? 彼女は、見た目こそ派手かもしれないが善良な人間だった。ただ、死ぬときに罪を背負ってしまったわけだ」
死ぬときに罪を背負ってしまった。
その言葉の意味を理解できない程、私達は彼女と共に居たわけではない。
彼女が私達の行動で、最初に、必死になって止めた行為。
「まさか」
「表向きでは事故死となっているが、事実は、金咲星叶は自ら道路に飛び込んだ自殺者だ」
全員が息を飲む。嫌な予感が的中した。それと同時に過る、友人と話した過去のこと。
暁音さんが話していた、幼馴染の亡くなったときの話。それと晶斗くんが心を痛めた理由の類似性。
暁音さん達の幼馴染の変貌、最初は些細だった。だんだんと一緒に居るのを避けられるようになり、最後に見た彼女の姿は、彼女たちが知っている強いものではなかった。そして彼女の弟である晶斗くん曰く『彼女はいじめられてるんじゃないか』という予想。それから暫くしたら、彼女は亡くなってしまった。
そしてこうとも言っていた『死因は事故死なんだけど、弟曰く飛び込んだように見えたって』と。
これは偶然だろうか。いや、そんな短期間に、似た死因が重なる確率の方が低いだろう。
「まさか」
私がぽつりと呟くと、昴さんと那沙さんが私の方へ顔を向ける。
「星叶の死が、晶斗くんの原因になるわけ?」
どうか、この推理が外れていてくれ。そんな願いを込めて拳を握りながらも口にしたが、真実とは残酷なものだ。
「その通り」
ぐ、と唇を噛みしめ、胸元に当たる部位の服を握りしめる。
小さく「星叶」と友人の名が口からこぼれた。
私の姿は、対象者以外の目に映ることは無い。まあ、偶に鋭い子供や年配の人が私の方を見てくることはあったが。何でだろう、純粋な心を持っているから? 邪神が無いから、とか?
まあ、今は他人の目は気にしている場合ではない。
私の最期の課題の相手である、水月晶斗。
彼がまた、そうした行為をしない様に見張っておかないといけない。もし亡くなったりでもしたら、それだけで私の課題は失敗だ。そうなったら、と考えるのも恐ろしい。
宙に漂うことが出来ることを良いことに、向こうからすれば死角となるが、私からはちゃんと彼の部屋を覗き見ることが可能な場所を見つけて、監視をしている。
今のところ、彼は再びそうした行動に移ってはいない。私の視線でも感じるのか、偶にこっちの方へ目を向けるが、残念だが私は姿を消すことも可能だ。本当に、幽霊と言った方が近いかもしれない。
一人目の課題であった蛍の後は、ほとんど身を隠していたと言っても良い。昴と蛍が対面したときは勿論、まさか那沙が蛍の家庭教師となったから、ずっと姿を消して見守っていた。
けれど、この胸のざわめきは何なのか。嫌な予感、というものなのだろうか。天使見習いという立場の私でも、そうした予感を察知することも可能なのだろうか。
それだったらよいのだけれど、という思いが溢れてくる。
そう、彼だけじゃない。水月家を見ると、偶に胸が苦しくなる。晶斗の姿を見る時が、一番胸がざわざわと煩い。私の知らない何かが、必死に何かを訴えてくるように。
上司は、私が生きていた時の記憶は消したと言っていた。それは理解している。生前の記憶があったら、未練がましい行動をとってしまうかもしれないから、その行為自体は十分理解できる。
「監視は順調か?」
対象を眺めていた時、後ろから翼をはためかせる音と、聞きなれた声が聞こえたので振り向いてみると、上司の姿がそこにあった。
まさかこの世、現世で上司と会うとは思っておらず、ただ目を丸くしてしまう。返事をしようと思っても、うまく言葉出てこない。あ、とか、えっと、とかコミュ障みたいな返事ばかりしてしまった。
「なんとも」
暫し経った後の返事がこれ。それでも相手は怒ることはせず、そうかと言葉を返して、私と同じ方向に目を向けた。
どうやら、本日の対象者は何かの雑誌を読んでいるようだ。表紙が風景の写真だったのと、タイトルが大きく短い単語で主張していたので、旅行雑誌かもしれない。何でそんなものを、という疑問が浮かぶ。
もしかして、ここではないどこかで死のうとしているのでは……。
眉間に皺を寄せて眺めている私を、上司はまじまじと眺めていた。
「何ですか」
「いや。人間は大変だよなって」
「他人事すぎる」
実際に他人事なんだろうけれど。彼はれっきとした天使で、私は死んだ人間に翼が生えた、まがい物みたいな天使見習い。彼は人間に対して、関心意欲はあまりないのかもしれない。本当は、人が亡くなっても、生きていても、どうでも良いのかもしれない。
ああ、上手くいっていないからって、最低な考えが過ってしまった。慌てて首を横に振って、邪な考えを振り払おうとする。
「そんなに他人事でもないさ」
「え?」
「俺もお前と同じだから」
まさかの返答に驚きの声をこぼし、上司の方へ目を向ける。すると、彼はゆっくりと、その手にしている、汚れのない真っ白な手袋を外す。手袋が外された左手は、手袋をしていなくても肌は白くて、男性の手らしく骨ばっている。
だが、白いからこそ、あるものが目立つ。それは、赤い痣――いや入れ墨だ。痛々しいものが見える。
手の甲に入れ墨は痛いだろうな、と現実逃避をしそうになった時に、彼はその模様をよく見えるように、私に手の甲を見せてくる。
赤いバツ印の模様が彫られていた。
「それは何?」
「不合格者の印」
「不合格?」
それに、私と同じってどういうことだろうと首を傾げれば、彼は小さく笑いながら、手袋でその印を隠していく。
「今までの見習いには見せたことは無かったんだけどな。お前はどこか放っておけない、似た感じがして」
今までの、ということは、彼は過去にもこうした課題を別人に出していたことになる。
「今までの人は合格したの?」
「半々だな。合格した人は、今は幸せに生きているさ」
「……幸せなら、良いんだけどさ」
不合格の人は、やっぱり地獄行きなんだろうか。嫌だな、そう言った知識は無いから憶測でしかないけれど、火に炙られたり潰されたりするのは嫌だな。
「安心しろ。不合格者は、俺と同じような仕事をしている」
「安、心?」
何に安心しろというのか分からないが、とりあえず地獄に行ったわけではないようで、こっそりと安堵する。
「相変わらず心が綺麗なようで」
「なにそれ」
「だから言っただろう? 最初に」
再度首を傾げて、彼との最初の会話を思い出そうとするが、どのことを言っているのか思い出せない。
そんな私を見て、彼は小さく苦笑いを浮かべた。
「本人は悪くないのに、その道を選んでしまう」
彼がヒントのように告げた言葉を聞いて、私の中で何かが弾けた。ダムが決壊するように記憶の洪水が頭の中を駆け巡る。
『だけど、その道を選んだ数々の人は、心が綺麗な人が多い! 本人は悪くないのに、その道を選んで命を絶ってしまう。勿体無い。本当に残念だ。なのに悪だなんだと言われるのは悲しいことだろう? ということで、自殺者にチャンスを与える。これが事の流れだ』
彼と出会って、課題の説明をされた時に言われた言葉だ。これは、課題の対象者の事を表していると思っていた。いや、それも含まれているのだろうけれど、彼等だけの話じゃない。
「まさか」
口角が引きつる。取り返しのつかない絶望に陥って、青ざめた顔になっていくのが自分でも分かる。
そんな私の様子を見て、目の前の天使は一瞬、すごく気弱な笑顔を作った。ふ、とため息をつくような、悲しい笑い方だった。
すべての音声が途絶えた。誰かが背後にまわって、私の両耳にこっそりと栓を詰めたような密封感と圧迫感。思わず両耳を押さえて、頭を抱えるような姿勢になる。
隠されていたはずの記憶が、頭の中に溢れ出した。塞いでいた蓋を押しのけ、泥水のように、記憶が流れてくる。
毎日毎日聞かされ逃げ出してしまいたい喧騒が、脳の中を爆音で駆け回り頭が割れそうになる。毎日のようにこちらを見る嘲笑の顔と声。
私の頬を一滴の雫が流れる。それを拭うこともせず、ゆっくりと顔を上げる。
目の前のように、私も無理に笑みを作ろうとしたが、強張った頬が震えてしまう。そして、頑張って自然な笑みを見せようとした。精一杯自然に。でも、精一杯やることで、既にもう自然ではない。
「なんで、こんな」
「言っただろう? 他人事と思えないと」
断片的な記憶が、どんどんと繋げられていく。鮮明になっていく映像と比例するように、胸の奥からどんどんと感情が色々な手段を使いあふれ出る。
それはもう嗚咽に近かった。
この世界から抜け出す方法を、いつだって探している。
けれど、それはいつも叶うことのない夢として終わる。私が私で居続けて、この世界にしがみついて生きていく限り。
「いい加減にしてよ!」
いつも通りの怒鳴り声で目が覚めた。
夢うつつでぼんやりとした空気に浸ることもできず、嫌でもこの世界に呼び起され、逃げ出すことを許されない。はっきりと覚醒した体に、嫌でも耳に入ってくる内容はいつもの両親の喧嘩だ。
二人はいつものように一階で互いに言葉で殴り合う。私の部屋は二階だというのに、ここまで聞こえるなんて、朝から近所迷惑すぎるだろう。結局、嫌な目、可哀そうな目で見られるのは私だというのに。
今日は月曜日。何もかもが憂鬱な一日のスタートだ。
「最悪」
そう呟いた声は誰にも聞こえることは無い。着替えるのは、いつも食事の後。家から出る寸前まで、汚さない様に。
ベッドから降りてすぐに置いてある姿見で自身の姿を見れば、生気などまるで感じないような顔色だ。いつものことか、と気にすることも無く、慣れてしまっている自分も嫌になる。
ゆっくりと階段を下りれば、リビングは殺伐とした空気が張り詰めていた。まるでガソリンが気化した空間に、ちょっとした火花でも爆発するような。
母は食器を洗っていて、父は出社の時間までテレビを見ている。ちょっとした動作、言葉で大爆発してしまう部屋。
朝ごはんなど用意されていない。母が適当に買ってきた食パンを一枚手にしてお皿の上に置く。コップに牛乳も注いで、その二つをテーブルの上に置いてから椅子に腰かける。
母は日々家事や仕事などに追われ、最近では父の浮気が発覚して、すっかり精神が弱っている。父は家庭に全く関与しようと思わず、仕事一筋という雰囲気を出しているが、その実、アルコール中毒一歩手前だし、女好きの浮気野郎。
両親の稼ぐお金は、父が消費している。最近では母も当てつけのように、浮気をしていることを知っている。
そこまでして夫婦でいる必要はあるのか。共に、もう一緒に居る気持ちなど微塵も無いだろうに。子供である私の事を気に掛けることも、興味を持つことも無いくせに。
「なに? こっち見ないでくれない?」
食パンを食べている最中、無自覚にいつの間にか母を見つめてしまったらしい。内心、しまった、と焦りの感情が沸き上がる。気を付けていたはずなのに、自分で火種を作ってしまった。
「アンタのその目、本当に嫌い。何か言いたいことでもあんの?」
ここでなんて言葉を返すのが正解なのか、未だに分かっていない。ただ、目を逸らせばそれはそれで怒られるし、どういう行動をとればいいのかもわかっていない。
母から目を逸らせないでいると、それがついに癇に障ったらしい。
母親は苛立ちを隠さない目で、私に向かってスポンジを投げつけてきた。
ベシャ、と音を立てて私の体に叩きつけられる。泡がついたままで水分が多く含んでいたため、しっとりと冷たい。そのまま地面に落ちて、私はそれを拾う。母は、まだ怒号を貴方にまくし立てる。ヒステリックな高い声が実に不愉快だ。
そんな母の声を聞いて、父が「うるせえぞ」と怒鳴り散らす。血が上って赤くなった顔の父は、力任せに机を拳で思い切り叩く。それが火種となったのか、二人がまた怒鳴り声が飛び交う空間となってしまった。
毎日の光景。だからと言って、この空間に慣れることは無いのだろうけれど。
頭と耳がズキズキと痛くなる。ばくばくと心臓の鼓動が体内に響き、体が微かに震えていく。得体のしれない感情が増していく。
椅子から立ち上がって、注いだ牛乳を、申し訳ないなと思いながら排水に捨てて、コップとお皿を置いて、パンを無理やり口の中に放り込み、空間から出ようとする。
「どこに行くの」
「……部屋に。学校、準備しないと」
「アンタは良いわね、嫌になったらこうして逃げれて」
母親の言葉を背に向けられ、少しだけ視線を両親のいる方へ向ける。
逃げられる、なんてどこから出た言葉なのか。子供である私は、まだ一人で生きていくには難しいのに。この世界から逃げ出したくても、それも叶わないというのに。
何も言い返さない私に腹が立ったのかもしれない、母は再度頭に血を上らせ、置いたばかりのコップを手に取って、こちらに向かって投げつけてきた。
「言いたいことあるなら言いなさいよ! いい加減キモイんだよ!」
その言葉と共に、体にぶつかったガラス製のコップが私に傷を作る。ぶつかったときは割れなかったけれど、地面に落ちた瞬間にガラスは割れて、破片が飛んできて素肌に傷を作り血が薄らとにじむ。
ずきずき、と至る所が痛む。どこが痛いかなんて、もう、分からなくなってしまった。
「ごめん」
小さく謝って、落ちて割れたコップの破片を手に取って集める。その際にガラスで手が切れて赤くにじんでいくけれど、気にすることも許されない。
全部拾ってからようやく両親に背を向けて、廊下で新聞に包んで、それを持って部屋に向かう。後日、今までのゴミもまとめて出そう。
部屋に着いた頃には、手は真っ赤になっていて、二階にある洗面所で血を洗い流す。真水が傷口に沁みて痛い。洗い流してから、自分の部屋で傷口の手当てをする。両手が傷だらけだから、今日一日不便かもしれないな。
改めて洗面所に向かって、学校に向かう身支度をする。歯を磨いて、顔を洗って。その際もずきずきと手が痛んでいやになる。
部屋で制服に着替えて、鏡を取り出してメイクをする。
髪の毛は、自由な校風であるのを良いことに、入学と共に髪を染めた。何度も脱色してから、毛先に色を入れた。ピアスをつけるために、何か所も穴をあけた。ネットを使って、メイクを学んだ。誰からも教わることは無く、何でも独学でやってきた。
最後に姿見の前に立って、おかしな部分は無いか、ネクタイは曲がっていないか、と確認をする。相変わらず顔は無表情で、顔色も化粧では誤魔化せてはいないけれど、誰も気にしないだろう。
時間を確かめてから、教科書の類でズシリと重みのある傷だらけのスクバを手に取って、部屋を出る。両親はまだ家に居るのか怒鳴り声が聞こえる。その騒動に隠れるように、こっそりと家を出た。
扉を閉めてしまえば、不思議なことに家の喧騒などあまり聞こえなかった。いっそ、誰かが不審に思って、警察とか呼んでくれないだろうか。
そんな無駄な他力本願でいるからダメなんだろう。重い足取りで学校へ向かう。
まあ、学校に辿り着いたと言っても、そこが安置というわけでもないのだが。
教室に向かおうと廊下を歩いている途中、足が止まる。教室の入り口でたむろって、私の居場所を奪っていく相手が居る。
常に私に敵意に似た感情をぶつけ、私の存在を否定する。彼女はお仲間である複数人の生徒に囲まれて、甲高い声を響かせながら笑っている。
小さく息を吸って、意を決して彼女たちの横を通り抜けることにした。
私の足音が聞こえたのだろうか。さっきまで騒いでいた彼女たちは一斉に静まって、私の方に視線を向ける。気味悪い視線から逃れるためにも、気にしていないそぶりで足早に去ったが、背後から嫌に耳に届くあの女たちの嘲笑が、更に気分を酷く害する。
彼女達に何もしていないにも関わらず、なぜこのように軽蔑されなければならないのだろうか。だが、私を襲う理不尽は今日も手加減をしない。
机は相変わらず落書きされているし。周りから聞こえるのは、くすくすと馬鹿にされるような笑い声。家に負けずと、耳障りの声だ。
気にするそぶりを見せずに、唇を少し嚙み締めながら、鞄の中に入っていた除光液で机の落書きを黙々と落としていく。そんな私の様子を見て、舌打ちや「つまんねえの」という小言が聞こえたが無視。
ゴミを捨てようとゴミ箱に向かえば、思わず目を開く。ゴミ箱にはクラスメイトが捨てたお菓子やジュースのごみと一緒に、私の筆箱が入っていた。
ああ、油断した。昨日の帰り道、筆箱を忘れたことに気付いて、すぐに取りに戻ればよかった。ゆっくりと取り出していたら、一層視線を感じる。振り向いてみれば、クラスの女子がこっちを見て笑っていた。
「どうかしたの? ゴミ箱なんか見つめて」
ここにも、私の居場所など存在しない。軽蔑し、見下す声。
わざわざこんな私に声をかける者は誰もいない。立ち尽くしていても、邪魔になるだけだし、これ以上ここに居たらショックを受けていると思われる。弱みを見せることになる。
自身にとってはゴミではないものを取り出し振り返ると、勢いよくすれ違いざまに誰かの肩がぶつかる。思わず体がよろけてしまう。振り返ると、相手は嘲笑をしながら、私の背中を見ていた。
筆箱を手に取って洗いに向かう。いくら自由な校風と言っても、私の容姿は周りからすると目立つ。まわりからの視線が突き刺さる。こちらを見て、こそこそと話している人物を横目で見れば、相手は大げさなほどに肩を跳ねらせて、睨まれただとか泣き言を言う。
授業が開始して、落書きをされ破かれたノートを開いて授業を受ける。学校の教師達は、誰も彼も見て見ぬふりだ。寧ろ、いじめられる人物犠牲者を出すことでクラスが団結しているのだから、先生からすれば願ったり叶ったりだろうか。
自分の皮肉にこそりと笑みを浮かべれば、教室内でスマホの電子音が響く。基本的に自由な校風だが、授業中は別だ。先生は生徒である私達の方へ体を向ける。犯人は誰かと問いはしないけれど、きっとそうした類の事を聞きたいのだろう。
私は普段からスヌーズのマナーモードなので関係ないのだが、クラスメイトはざわめき、続々と声をこぼす。
「金咲じゃね?」
「うわメーワク」
「怒られろ」
「教室から出てってくださーい」
先生の視線がこちらを向く。新人である先生が戸惑いの顔をしているのが分かる。私は小さく息を吐いてから、ポケットをいじるふりをしてから、小さく手を上げた。
「私です。電源切ったので続けてください」
「そ、そう? それじゃあ、続けるわね」
私の行動と、先生の即断にクラスメイトは少しつまらなさそうな空気となる。
こんなのは日常だ。毎日毎日、こんな空気の中で私は生きる。
世論やネットでは色々な言葉であふれている。若者は未来が沢山ある、選択肢がある、世界は広いと。それでも、私たち学生が生き抜かなければならない世界、現実は、この狭い学校内か家庭で終わってしまうのだ。
私はその狭い世界、現実では、どちらも歓迎されず弾かれている。
私がこの世界で生きる必要性が見いだせない。
学業が終わる寸前に、私は自身の机や荷物を再確認する。学校に留まる時間が終了した瞬間に、この世界から飛びだすために。
スクールバックの中に、明日の授業の予習や、今日の授業の復習で使う教科書やノートなどをしまい込む。
終業のチャイムが鳴ると同時に、私は席から立ち上がり、まずは引き出しの中を確認する。何も入っていない、大丈夫だ。続いて鞄を肩に背負って、鍵付きのロッカーを確認する。何も不備はない。本日使わない道具は、全てここに入れておく。一度鍵をし忘れ、体操着にカッターの切り傷が刻まれていた時があった。二度と、あんなへまはしないと心に決めている。
早足で学校を去る。当時の私は、犯人と立ち向かう勇気も、何より気力も、全てが無かった。だから全ては己が我慢すればいいのだと、自分に言い聞かせていたのだ。
「星叶さん」
玄関でローファーに履き替えた時、玄関で声をかけられた。私をそう呼ぶ人物は限られていた。姉弟そろって幼馴染な水月家の末っ子である、水月晶斗。今年入学したばかりな、二歳年下の男子。
彼は薄く笑みを浮かべて、私に向かって手を振っていた。周りの視線など気にせず、彼はこちらへ寄ってくる。
「今日も帰りに寄ってく?」
「そうさせてもらおうかな」
「うん、わかった」
にこり、と笑みを浮かべた彼は顔がほころんでいて、私でも彼が喜んでくれているのだと察する。彼と並んで学校を後にしようとすれば、彼は私の手に包帯が巻かれているに気が付いた。
「星叶さん、それ」
「目ざといね。コップを片付ける時に手を切ってさ」
「……今度からは、箒とかで片づけてよ」
「そうだね」
きっと、彼らには色々と気付かれている。
私は一度も家庭事情を話したことも、学校での愚痴も話したことは無い。まあ、家の門限は緩くて夕飯は各自で済ますとか、テスト面倒いなとか、そうしたことは口にしていたけれど。表立って、大げさに心配されるようなことは、口に出したことは無い。
それなのに、彼ら姉弟はいつだって聡い。長女である灯彩さんも、同い年である暁音も、年下である晶斗も。全員が私を心配してくれているのは分かっている。勘づいているのも分かっている。
それでも、私は彼らにも弱みを見せることは無い。
学校からしばらく歩けば、彼の家であり、お姉さんが経営しているカフェに辿り着く。
灯彩さんもいつも通り笑顔で迎えてくれて、続いて弟と同じことを心配して、同じように怒る。
馴染みのある席に座って、一緒に勉強していれば、予備校帰りの暁音も帰ってきて、三人で一緒に夕飯を食べる。その後も一緒に話したり、二階の彼らの住居で一緒に遊ぶこともあれば、勉強もする。その日は、確かゲームをしていた。
暫く水月家に滞在していれば、私のスマホが通知を知らせる。メッセージの送り主は母だった。
『いつ帰ってくるつもり?』という短いメッセージが表示されている。文面だけで、不満がこぼれ出ている。また、父と言い合いでもしたのだろうか。それで、私で憂さ晴らしでもしたいのだろうか。
「そろそろ帰るよ」
「じゃあ送ってく」
晶斗が立ち上がって、暁音が「またね」と笑顔で手を振ってきた。私は包帯が巻かれている手で振り返す。
この空間だけは、私が生きるのを許してくれる場所だった。それでも、最近、母親からの監視が厳しい。毎日気を抜くことは許されない。私は、どこでもいつでも、気を張って生き続ける。
「海に行きたくなってきた」
「海に行ってどうする」
唐突な私の言葉に、隣に居た彼は驚いたようだが、すぐに呆れたような言葉を返す。
「……死ぬ、とか」
「死んでどうするの」
どうするんだろう。私はぼうとした顔のまま、聞き返してきた彼の顔を見つめていた。
「死んだら、それまでなんじゃない?」
「そうとも限らないじゃん」
怒りではない。呆れが滲む口調である。言われてみれば、と改めて彼を見る。確かに、輪廻転生とか言ったりするからな。
それでも、私は死んで生まれ変わったとしても、また人間になるのは嫌だな。また、こうした苦痛を毎日味わうのは、もう今世だけで十分だ。少しだけ考えこんでから、答えが見つかり、思いつきを声に出した。
「猫になりたい」
その声は彼に届いていただろうか。分からない。それでも、答えが出た様な気がする。
そっか、そっか。私は、さっさとこの世界から去ってしまいたかったのだ。
信号がもう少しで赤から青に変わる。隣の彼はまじめだから、ちゃんと信号が変わってから、左右を念のために確認し渡るのだろう。
いつもより早く、足を一歩早く踏み出した。後ろに居た赤の他人であろう人が、声を荒げていた気がする。危ないだったか、止まれだったかは覚えていない。
ただ、案外、人間も捨てたもんじゃなかったんだなあって、最後の最後に思っただけ。
――ドッ! と大きな衝撃が私を襲い、世界が大幅に揺れた。
生まれて一度も味わったことのない大きな痛みを感じてすぐ、そこからは何が起こったのか、自分でもはっきりと分からない。ただ、体が無様に地面に転がったのが、自分でも分かったのが阿保みたいで面白かった。
脳が現実逃避でもしているのか、痛みが分からない。視界もぼやけてきて、鼓膜も破れたのか周りの音も良く聞こえない。口から何かがこぼれ出ていたのは分かって、それが一番不快だった。
ぼやける視界の中、必死に声を荒げている人物が居たのは分かる。きっと、晶斗だったのだろう。
彼には、後ろに居た関係のない人達には、酷いものを見せてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思う。
それでも何故だろう、私の心はこんなにも軽くなっていた。
本当はね、いつだって思っていたの。
何で私の家庭は、皆の家みたいな安心できる場所なんかじゃなくて、あんなに荒れているのかなあって。何で私は学校の皆と、友達になったり楽しく毎日を過ごせなかったのかなあって。
ううん、そんなの今更なんだよね。でも、私がもう少しでも誰かを庇えるほど力があったり、優しい言葉をかけることが出来たら、逃げ出さずに家の手伝いをしていたら、お母さんだけでも味方だったかもしれない。
学校でも、話すときに笑顔を見せていたら、嫌なものを嫌だと言えていたら、先生に相談できていたら、もしかしたら友達は出来ていたはずなんだって。
自分を中心に、どんどんと流れていく赤い液体。いうことを聞かない体。噎せ返るくらいに濃厚な、錆びた鉄の匂い。
ああ、私はここで終わりなんだと、漸く終えることが出来るのだと喜ぶ自分が居た。
もう、何もわからない。どんどんと暗闇が私を引きずり込んでいく。
私はこの世界で生きるのに向いていなかった。ただそれだけだった。おしまい。
プツン。そこで、私は完全に意識を閉ざした。
「おめでとう! 君は天使候補生に選ばれました!」
はずだったのだ。
パーン! と小さな破裂音が聞こえたかと思えば、こちらに向かって降ってくる色とりどりな紙テープと紙吹雪。
呆然と見上げている私の上に紙テープと紙きれがハラハラと何枚か降りかかった。
すべてを失ったはずの私の前に、天使が立っていたのだ。
目が覚めると、小屋の隅から青白い日光が、じんわりと部屋を明るくしてくしていた。夢の世界から追い出されたようで、暫しの間ぼうとしていたが、ゆっくりとオレの目は覚める。
少し重たい瞼を何度かパチパチと瞬きする。体内が渇いているようで、枕元に置いてあったペットボトルの水を飲んで渇きを潤した。
この時間にふと起きた自分は、天使さんにだって見つかっていないような気がする。
そういえば、ふざけたあの人はどうしたのだろうか。来るなと自分で言ったのに、どこか姿を探してしまう、未練がましい自分が気持ち悪い。
ベッドから足を降ろし時間を確かめる。まだ早い時間かと思ったが、季節的の事を考えていなかった。時間は、一般からすれば目が覚めていたかもしれない時間だ。
それでも、ここ最近の自分の中では上出来。そもそも、今までの自分は滅多に寝ることもできなかった。寝ると、あの時の惨劇が鮮明に思い出されるから。
なのに、今夜はうなされることも無く、悪夢も夢も何も見ないで十分な睡眠をとることが出来ていた。
家の中で姉たちが歩く音が聞こえる。灯彩姉さんはこれから俺達の朝食を作ってから、その後は店の支度でもするのだろう。暁音姉さんは朝食を食べて、休日だがどうするのだろう……そうだ、あの人は休日も早起きだったことを思い出した。
学校も、どれだけ通っていないだろう。あの人が死んでから、学校に嫌悪感を抱え、あの人の同級生達をこっそりと呪い、学校に通うことも無く、ただぼうとして生きている。
そんな自分が、このままこの世界を生きていても良いのだろうか。生きているだけで何もしないオレは家族に迷惑をかけるし、かといって学校に通って勉学に励んだり、あの人が死んだ原因を無くすこともできないし、働いて金を家に入れるわけでもないし。
それじゃあ、今の俺はどうして生きているのか。さっさとこの世界から消えてしまった方が良いんじゃないかって。あの人の元に、オレも行った方が楽な気がして。
――海に行きたくなってきた
あの人の最期の言葉が脳裏に過る。
――……死ぬ、とか
そう、彼女は海に行きたがっていた。いつかあの人を含め皆で遊びに行きたかったから、こっそりと買った旅行雑誌。居なくなったから意味はなくなったと思ったが、気がつけば雑誌内に載っている海のページをひたすらに眺めた。
青く透き通る海の写真を眺めていると、あの人の最期と正反対な色で頭がいっぱいになり、思考をごまかしていた。
久しぶりにクローゼットを開き、選んだものはこの季節に丁度良いものたち。姉達とあの人が一緒に買い物に行った際に、付き添いに出た時、荷物持ちの礼にと姉が買ってくれたもの。そんなこともあったな、深く思い出すといけないから、慌てて袖に腕を通す。
久しぶりに自分から部屋を出たこと、服を着替えている事。それらを踏まえて、二人の姉が心底驚いたような表情をする。
「……朝飯、ある?」
少し居心地が悪くなって問いかければ、灯彩姉さんが相変わらずの笑顔でうなずいて、オレの朝食を準備してくれる。暁音姉さんは驚いているけれど、すぐに朝食の準備途中だったことを思い出している。
「おはよう晶斗」
暁音姉さんが久しぶりに朝の挨拶をしてくれた。こくり、と頷けば姉は少し乱暴にだけれど頭を撫でてきた。
「どこかに行くの?」
「……そう」
「そっか。あ、もしかして電車とか乗る? 乗れるお小遣いある?」
「あるよ」
少しだけからかいながら姉は笑う。一番上の灯彩姉さんはもはや親心でオレを見るけれど、暁音姉さんは年が近いからこうしてよくからかってくる。
そう、そういう人達だったことすら忘れるところだった。
朝食の準備が終わったらしい。灯彩姉さんに呼ばれて、全員で久しぶりにテーブルを囲って朝ごはんだ。テーブルの上には、フレンチトーストが置いてあった。昨夜から仕込みでもしていたのか、ふわふわのパンに甘みが染み込んでいる。黙々と食べているオレを見て、二人の姉は嬉しそうな笑みを必死に隠そうと、会話をしながら食事をする。そんな二人の姿を見て、久しぶりに心臓が締め付けられるような気分がする。
食事を終えて片づけている姉の元に皿を持っていけば、姉は礼を述べながら服を着替えた俺に問う。
「どこか行くの?」
「まあ」
「お小遣いあげようか」
「いらない」
一個上の姉と全く同じことを問われ、思わず眉間に皺を寄せた。
「帰る時とか時間は連絡をしてね、ご飯とか用意しないといけないから」
「……わかった」
即座に返答しなかった俺に姉は少し首を傾げたが、頭を撫でようとしたが手がびしょびしょで泡まみれだったことに気付いて、肩で俺の腕をつついてくる。
「気を付けてね」
「うん」
礼を述べてから皿を置いて、洗面所に向かう。姉と並んで歯を磨く。久しぶりの構図な気がした。いつだって朝は洗面所の争奪戦だったのだが、最近は姉が広々と使えていたことだろう。今日は狭くして申し訳ないな。
姉に先を譲ってもらったので、口をゆすいでから吐き捨て、顔を適当に水で洗う。顔をタオルで拭って顔を上げると、姉がこっちを見ていた。
「洗顔しないの?」
口に歯磨きを咥えたままだったから、口元を手で覆い、泡でモコモコの口内だったからちゃんとした発音ではなかったが、多分そう問うてきた。
ああ、そういえば。ちょっと前までは、洗顔もちゃんとしていたような気がする。
「忘れてた」
俺が素直に答えれば、姉は大して興味なさそうに「ふーん」とだけ返事をした。興味ないのなら聞かないでほしい。
口元を拭いながら、洗顔の泡を立てながら姉はこちらを見る。
「まあ気を付けてね」
また同じことを言われた。返す言葉が思い浮かばないので、また首を縦に振るだけで終わらせた。
そのまま部屋に戻って、小さな鞄の中に物を詰め込んでいく。財布と、スマホだけあれば十分だろう。そういえば、電子マネーをチャージしていただろうか。スマホを確認してみれば、ちゃんと残高は残っている。そりゃあそうか。ずっと電車にも乗っていないし、買い物もしないし、外にもずっと出ていないし。
身支度も整えて家を出る。家から出るまで、こっそりと姉達に見守られていたのは視線で察した。休日の朝だからか学生の姿は全く見えず、社会人であろう大人数名は少し駆け足気味で道を行く。マウンテンバイクを漕いでいるスーツの男性を、同じようにスーツを纏っている別の男性が恨めし気に見ている。
秋の朝日を浴びながら、少し冷えた空気を全身に浴びながら、周りの朝時間とは違う時間を生きているような気がした。ゆっくりと一歩ごとに、久しぶりな足の下のアスファルトを踏みしめながら駅に向かって歩を進める。
この世界から逃げよう。その気持ちだけで、逃げ道に向かい歩みを進めていた。
あの人が亡くなる寸前に呟いた言葉が脳裏に過る。海に行きたい、という気持ちが分かってしまう。ドラマなどでも最後に海に逃げるシーンがあるが、それを沸々とさせる。人間は元々海の生き物だったと言われているから、故郷に帰りたい、逃げたくなるのかもしれない。
駅が近くになると人の数も多くなった。電子マネーを使って改札口を通る。そのまま階段を上って、目的の番線に向かって行く。この時間にこの方角を使う人は居ないのか、誰ともすれ違わないし、誰もオレの後ろをついてこなかった。
ホームに辿り着いて、小さく息を吐く。目的の電車が来るまでは、暫くかかりそうだ。
朝のぼんやりとした輪郭の景色をぼうと眺め、数少ない人々の動きを遠目に眺めている。
きっとこの行為には何も意味がない。死んだあの人の願いをオレが叶えようとする、とか。なんて滑稽なんだ。
いや、あの人の願いを叶える、とか格好つけて言ってみたが、本心は自分勝手だ。逃げ出したい、その一心。あの日の出来事から閉鎖された心と世界は、息苦しく、生き苦しい。だから楽になりたい、それだけ。
ていうか、わざわざ海にまで行かなくても、いっその事。
「電車だけは止めときな」
誰かがオレの隣にやってきたのか、横から声がする。この声は知っている、この止められ方も、知っている。
ゆっくりと首を横に向ければ、金髪のロングヘア―を巻いて、真っ白な制服を身に纏っている彼女が居た。
また出た、来るなと言ったのに。アンタを見ると、あの日の出来事が鮮明に思い出されて苦しいから。
無言で睨みつければ、ゆっくりと彼女がこちらに目を向けた。そして、その顔にただ目を開く。夜中にオレの自死を止めようとしていた時の力強い瞳ではなく、死ぬ前と同じような目をしていた。目の輪郭が少しぼんやりとしていて、地球のように生命力のあった瞳は、まるで干からびた星のように命を感じない。いや、彼女は死んでいるのだから、命が無いのは当然なのだけれど。
でもその瞳を見るだけで、悔しくて、虚しくて、寂しくて、唇を噛みしめて涙をこらえることしか出来ない。
「電車に轢かれた死に様は見れたもんじゃないよ。それに、迷惑料って半端ないし。そのお金って家族が払うんだから。灯彩さん達に迷惑かけるの嫌でしょ」
「え、姉さんの呼び方」
「死にたいなら他のやり方考えな」
まさかの言葉に目を開いた。電車に飛び込むのは止めたけれど、死ぬこと自体を止めることはしなかった。
「……他のやり方なら、死んでも良いの」
「しょうがないよ。アンタのそれは私のせいなんでしょ」
目に力は感じないけれど、彼女の沈んだ瞳には引き込まれるような別な力があった。
「死んで楽になりたいくらい苦しいのも分かるよ。私には、アンタを止める資格は無いから」
ああ、そうだ。気付いていた。皆気付いていたんだ。この人がいつも怪我している理由とか、家に帰りたくない理由とか、ボロボロな鞄の原因とか。大人もオレ達も、皆。でも、この人が助けを求めないから。
アンタがオレを止める資格が無いというのなら、あの時のオレ達も、止める資格は持っていなかった。
「……海に行こうと、思って」
「そう」
「星叶さんが、行きたいって言っていたから」
「じゃあ、着いていこうかな」
海に行って死にたいとか言っていたけれど、どうやって死ぬのか分からない。溺死になるのかな。偉人に、恋人と海で心中しようとした人が居たが、失敗したんだっけ。じゃあ難易度は高そうだな。
電車がやってくるアナウンスが流れる。少しすれば、誰も乗っていない電車がやってきた。一つ前の駅が始発だったはずだけれど、面白いくらいに人が居ない。
最初にオレが乗り込めば、星叶さんも一般人のように歩いて乗車した。がらがらの電車の、ボックス席に腰かける。隣に星叶さんが座った。足を組んで座っていれば、偶に彼女の素足と触れ合う。だが、こうしたことは日常茶飯事だったから、互いに声を出すことは無かった。
電車もまた、小さな世界だった。誰もいない車両に人間はオレ一人、それと隣に彼女だけが座っている。何だか寂しくなって思わず視線を下げる。
そろそろ電車が出発するのだろう。アナウンスとベルが鳴ると同時に、ドタドタと駆け込んでくる大きな足音がした。
どこか現実離れした空気から、現実に腕を引かれて呼び戻された気分がした。駆け込み注意のアナウンスが響くなか、足音と誰かの息切れが近づいてきた。
「驚かせないでよね」
落としていた視線を上げる。そこには息切れをして、肩を大きく上下に動かしている女子が、オレ達の方を軽く睨みつけている。
「あんた、は」
確か暁音姉さんの友人だった気がする。偶に窓の向こうに見えた程度で、ハッキリと顔を見たことは無いけれど、この声は聞き覚えがあった。
正直に言えば、俺達は初対面のはずだ。何故だろう、という疑問よりも先に、星叶さんが腰を浮かせたが、彼女はそのまま肩を押して無理矢理座らせると、その向かい側に腰を下ろした。
彼女の姿は見えないはずだし、扉を通り抜けるくらいだから、幽霊みたいに普通の人は触れられないはずだ。なのに、この人は星叶さんに触れていたし、どこか彼女を睨みつけている様にも見える。そして当人は、過去では見たことないくらいに縮こまっていた。
電車はゆっくりと発車して、ゆらゆらと体も揺れる。
目の前の女子の隣、俺の前には大人の女性がゆっくりと座り、それとボックス席に入る場所には一人の男性が吊革に手をぶら下げながら立っていた。
「いきなりごめんなさい晶斗くん。私は阿土那沙。暁音ちゃんの臨時の先生をさせてもらっていて、灯彩さんにはお世話になっています」
にこり、と柔らかい笑みを浮かべる。二人の姉と知り合いだという彼女は、ふと視線を動かし、星叶さんの方へ目を向ける。どうしたのかと問えば、何でもないと笑みを浮かべるが、その笑みが怒っている様で少し怖く思えた。
「俺は木之上昴。君のお姉さんのお店でバイトさせてもらっている」
よろしくな、と人当たりの良い笑みを向けられる。彼も那沙と名乗った彼女と同じように、星叶さんのいる方へ目を向けた。
「えっと、皆さんは星叶さんが見えるんですか?」
「そうだね」
そう答えたのは星叶さんの前に座った、姉さんの友人。彼女は目の前の彼女から俺の方へ視線を移して、胸元に手を当てる。
「私は火燈蛍。学校は違うんだけれど、暁音さんの友達。予備校が一緒なんだ」
彼女曰く、予備校で知り合ってから仲良くなり、それからうちにもよく通うようになったんだそうだ。ここに居る全員が、姉さん達と星叶さんと関わりのある人。
俺の事も、姉さんから話を聞いたと言われ、名を知られていることなどを理解した。
「えっと、何で全員ここに」
「まあ、晶斗くんにもだけど、星叶に用があって」
蛍さんの少し鋭い目が星叶さんを刺す。
「上司さん? が来たんだよね。それで駅に行ったって教えてもらった」
怒られている彼女は、必死に目を逸らして窓の向こうを見ている。このまま逃げようとすればいいのだが、蛍さんに手首を掴まれていて逃げ出せないようだ。
昴さんはオレ達が逃げ出さないように立っているのかもしれない。けれど、周りにいる彼女達の纏う空気そのものは怖くない。それが少しだけの救いだった。
「晶斗くんも、お姉さん達を困らせちゃだめだよ」
「すみません……」
那沙さんに促されて、今度はオレが縮こまる時間だ。もしかして、姉さん達は俺との些細な会話で、様子が変だと気付いたのかもしれない。それで、どうしようかと相談した、とか。
ありえる。今朝の俺を見れば、嫌な考えが過る可能性もある。だって、ずっと部屋に籠っていた弟が急に外へ出た。けれど、表情はまだ浮かない顔をしている。最悪の手段を想像していてもおかしくない。
逃げようとしたとは口が裂けても言えない。何て言い訳しようと目を泳がせていれば、目の前の彼女の方が困ったように眉をひそめた。彼女に嘘は通用しない。だが嘘をつかねばならぬときもある。それ以上は聞いてくれるなど何重にも予防線を張ればきっと何も言わないだろう。
「えっと、なんで皆さんは星叶さんが見えるんです?」
「君と同じだからさ」
話題を逸らした俺の問いに、今度は昴さんが答えた、顔を上げて彼の顔を見れば、彼は少しだけ苦笑いを浮かべる。
オレと同じ? 周りにいる彼女達にも目を配ると、少し寂しそうな笑みを浮かべたり、少し目線を泳がせたりする。
自分との共通点があまり浮かばない。年齢と性別も見目も違うし、性格も少し違いそうだ。姉との知り合いというのは共通点だけど、それで星叶さんが見えるのはあまり関係ないような気がする。
彼女は、確か天使見習いとかあまり意味の分からないことを言っていた。それで、オレを助けに来たとか言っていて。
そこで一つの事を思い出し、顔を彼の方に向ければ、昴さんは口元に人差し指を添えていた。
ゆっくりと那沙さんを見れば窓の向こうを眺めて、何も言わなかった。蛍さんは変わらずに星叶さんの手を握っていて、ぼうっとどこかを眺めていた。
そんな彼女たちの事を口にしない昴さんにも、オレに対して根掘り葉掘り聞き出したりしない優しさに、少しだけ申し訳ない気持ちが沸いた。
「……広い」
「海だもんな」
「んー! 気持ちいい!」
かたん、ことん、と鳴っていた電車の枕木の音は、今度はざざん、ざぶん、という波の返す音になる。
砂浜は白々とひろがって、見通しがよくきいた。優しい陽光と、秋の空色と相まって淡い色の海。耳元で、しきりに風が鳴っている。少しだけひんやりとした潮風が、心をすり抜けていく。
蛍さんは海の広さに感動して、そんな彼女の言葉に昴さんは冷静に言葉を返す。那沙さんは海風に当たられながら体を伸ばしていた。
ちらりと横を見れば、蛍さんの隣にはいるけれど、彼女の手から解放された星叶さんが、真っ直ぐと海を眺めていた。凪いた海のように、ただ静かに、この景色を眺めている。
「なんだか、落ち着くね」
風が強くないから波もそんなに高くないから、波音も穏やかだ。海のシーズンも過ぎたようだから、人の姿も見えない。
「月並みな感想だけど、海って広いんだ」
蛍さんも言ったな、と思ったけれど、星叶さんの言葉に蛍さんは気にしていないようだ。
「自分が居た世界の小ささが分かるよ」
「自分が居た世界?」
星叶さんを挟んで隣にいる蛍さんの言葉に問いかければ、彼女はこちらに向けて小さく笑って、再び海の方へ顔を向けた。
「星叶に助けてもらえるまで、私の世界はひどく狭かったからさ」
その横顔が、星叶さんに少し似ていた。顔つきや髪型など違うのに、少し遠くの、届かないようなものを見つめるような、寂しそうな顔つき。
「少し遊んでいきます?」
「そうね、靴ぬいじゃお」
少し前に居る昴さんと那沙さんがそれぞれ、靴と靴下を脱いでいく。そして振り向いて、俺達の方へ笑みを浮かべる。
「蛍ちゃんと晶斗くんも靴脱いだら? 砂が入っちゃうよ」
「ここの砂浜、危ないもの落ちてないと思うよ」
後ろに居た高校生三人の俺達は顔を見合わせる。最初に動いたのは蛍さんで、彼女も靴と靴下を脱いで裸足となった。彼女の目が、俺も誘っている。
少しだけ迷ってから、結局脱いで裸足となる。ズボンをはいている人たちは裾をまくって、俺も真似して汚さない様にと気を付けている。
「もう冷たいかなあ」
ざざ、と穏やかな波が足元を濡らすあたりまでやってきて、那沙さんはそうっとつま先を濡らした。ひゃ、と短い声をあげて、少し大きな波に足元をさらわれてゆく。
「冷た! 浸かったら風邪引くわ」
「気を付けてくださいよ」
「水の掛け合いっこをしてみたいけれど、風邪を引かせたら良くないよね」
なんて言いながら、那沙さんが少しだけ力強く海面を蹴った。それは昴さんの足首にかかり、彼は小さく声を上げた。
「言葉と行動一致させてください」
そう言いながら彼もやり返すけど、その水の量は少なく濡れる範囲は控えめだ。
「……私達も行こうか!」
ぐい、と蛍さんはオレと星叶さんの腕を引っ張って、星叶さんの事は腕の中に閉じ込めた。と、オレ達の足元もじゃぷんと波に濡らされていく。足の下の砂がずずずと引っ張られてゆく感触がくすぐったかった。
「うわ、くすぐった」
「面白いね、この感覚」
ざあ、ざあと何度も繰り返されるその感触。こんなの久しぶりだな、と、冷やされる足の裏を楽しむ。
星叶さんはどうだろうかと彼女を見れば、彼女の足は沈むことは無く、ただ水の流れを眺めている。けれど、どこか顔が輝いているように見えるから、それはそれで楽しんでいるのかもしれない。蛍さんは星叶さんを腕の中から解放して、大人組の方へ歩いていく。
そんな彼女を見送っていれば、三人で波打ち際を歩いて楽しそうにしている。波打ち際、ぎりぎりのところに足跡をつける。それはすぐに波にさらわれて消えてゆく。
「……迷子になりそう」
「ん?」
「足跡。消えちゃうから」
ぽつり、と隣にいる彼女が呟いた。あの人達はまっすぐに歩いているだけなので、そんなことないのだが。
それでも、彼女の気持ちが微かに伝わってくるような気がした。
「いや、だからこそ、消えるのにここはちょうど良かったのかもしれない」
「……オレは、ずっと一緒に居たかった」
ぽつり、と言葉を紡げば、彼女は俺の方へ顔を向ける。自ら命を断とうとした俺の前で再会したときの、真っ直ぐで強そうな瞳とは違って、彼女が亡くなってしまいそうなときに似た、不安定な瞳。
彼女が命を絶つ前や、子供の頃は強そうな瞳をしていたのに、どうしてそんな目になってしまったのか。
「だから、オレ、アンタの後を追おうと、死のうとして。でも、出来なくて。覚悟も何も無かった」
大切な彼女が目の前から消えて、最初に責めたのは己の事。
どうして彼女の事を助けられなかったのか。彼女が命を投げ捨てる前に、何故もっと一緒に居なかったのか。沢山自分の事を責めて、責めて、苦しくて。
じゃあ死のう、楽になろうって思ったのに、彼女に止められて。
鼻の奥がツンと痛み、目の縁から涙が染み出てくる。ここで泣くのは卑怯だと分かっているくせに、己の体は言うことを聞かない。瞼を焼くような熱い涙が目から流れ出る。目元を擦って、何とか拭って涙を止めようとするも、瞬きをするたび、また涙が海の中にこぼれ落ちていった。
目の前の彼女はじっとオレを眺めていたがオレの頬に手を添えて、一緒に涙を拭おうとしてくれた。冷たい手が火照った顔に気持ち良かった。
「覚悟がある方が良くないんだって」
「星叶さんにはあったじゃん」
「私のは覚悟とか綺麗な言葉じゃないよ」
くすくすと笑いながら、彼女は海の方へ目を向ける。
「やっぱり、こんなきれいな海で死ぬのは申し訳ないから、止めといてよかったかな」
彼女につられるように、海の方へ目を向ける。そこには太陽の光で眩しいくらい輝いている海面が見えた。
「水月家はね、私にとって唯一の居場所だったよ。だから、自分を責めないで」
「っ、オレは」
消えていく、きっと。
出会ったことも、一緒に過ごしたことも、笑いあったことも。オレのこの今の記憶が、思い出が、足跡のように消えていくのが怖かった。あの赤で塗りつぶされていくのが、怖かった。
思わず目の前の彼女の肩を勢いよく掴む。驚いた彼女はバランスを崩し、背中から倒れそうになる。それにつられて、オレの体もまた倒れていく。
バシャン! と大きな音と水柱を立てて、俺達は共に海へ転んだ。遠くからオレ達の名を叫んでいるのが聞こえた。全身が冷たい水に沈み冷えていくのが分かる。
海水に全身沈んだ体を起こして、頭のてっぺんから海水をこぼしながら、未だにお尻は海水に浸かりながらしゃがみ込む。
「星叶さん、すみません……」
「……ふ、」
やってしまった、と頭を軽く下げていると、目の前から我慢していた声をこぼすような音が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げれば、目の前にいる彼女の瞳はキラキラと澄んでいて、向こう側の世界がすけて見えそうなほど綺麗で、輝いた。そんな瞳を閉じるほど、顔をくしゃりとさせ顔一杯に笑いを広げ、声を上げて笑っていた。
海水に濡れてびしょびしょだけれど、太陽光に当たって輝いているように見える金髪と、白い制服が余計に顔を明るく見せている。
彼女がこんなに笑っているのをはじめてみた。それはこちらに駆け寄ってきた彼女たちも同じだったようで、驚いているのが雰囲気でも察せられた。
「あはは! まさかこんなに濡れるなんて思わなかった!」
「……はあ、当たり前じゃん」
少し呆れたような声色で蛍さんが言う。そんな彼女たちの声を聞いて、更に彼女は笑う。
暫し笑ってから、彼女は笑いつかれたのか、何とか声を押さえていく。まだ頬は緩んでいるし、笑いすぎて涙は浮かべているけれど。
「はあ、笑った。生きている時と今も含めて、一番笑った」
「ブラックジョークすぎる」
「でも実際にそうなんだもん」
昴さんの言葉に、星叶さんは唇を少しだけとがらせる。
ああ、なんだか懐かしい。まだ彼女の家庭がまだそこまで崩壊していなくて、まだいじめも無くて、ただ楽しく一緒に遊んでいたあの時のような笑顔だ。
「こうして笑えたのアンタ達のおかげなんだよ」
「え?」
「あはは、私、生まれ変わるならアンタ達の傍にいる猫になりたいなあ」
濡れた髪の毛を掻き上げながら、彼女は嬉しそうな顔でそう口にした。
上書きされていく。彼女の最期の姿が、太陽の光に当たりながら満面の笑みを浮かべ、嬉しそうな声をこぼす、眩しいものへと。
ぼろ、とまた止まりかけた塩水が流れる。あーあー、と星叶さんは苦笑して、手の平でぐいとオレの目の淵をぬぐった。
「大洪水じゃん」
ぽん、と頭を抱えられて、そのまま彼女の胸元に引き寄せられた。自身も濡れているから気にしないようだ。俺としては、異性の胸元に顔を預けられて少し混乱したが、彼女がゆっくりと濡れた頭を撫でてきたので、甘えるように胸元に頬を寄せる。ひどく冷たい身体だ。濡れて冷えたからではなく、もう彼女は人間ではないから。
「ずっとずっと、お礼言いたかったよ。本当にありがとね」
泣き止ませる気ないのだろうか。ぼろぼろと止まることを知らない涙が止まるまで、ここに居る全員が、静かに俺達を見つめていた。
さくさくと砂浜を踏み鳴らして、オレ達は荷物のところへ戻る。
「しかし、全身びしょ濡れだなあ」
「新しい服、買う? あ、お金ある? 私が買う?」
「あります!」
昴さんに少し笑いながら呆れられ、那沙さんが心配そうに彼女のお金で買おうと提案してきたので、必死に自分で買うことを訴えれば、蛍さんと後ろに居る星叶さんに笑われた。
振り向いて、笑うなと言葉を返そうと思えば、思わず小さく声がこぼれ、足が止まる。彼女はどうしたのかと聞いてきた。
「足跡」
オレの言葉を聞いて星叶さんが振り返る。そしてすぐに、小さく微笑んだ。
「……そうだね」
四人分の、裸足の足跡。今度はしっかりと、何にもさらわれることなく、残っていた。
ただ、後ろに居る彼女の足跡だけは無かったけれど。
それが寂しいという気持ちは、正直ある。それでも、俺だけではない足跡が残っているというのは、心に安らぎを持たせてくれた。
「単純かな、オレ」
「優しくされたり、楽しんだら元気になるのは当然だよ」
そこで彼女は小さく息を吸った。
「良かったねえ」
「……星叶さん、本当にありがとう」
「全然? 付き合ってくれてありがとうね、生きていた時も、今回も」
後ろの太陽の光で反射した海の眩しさに負けないくらい、彼女の顔が輝いて見えた。
わけのわからない、形もない不安。それでも引きずって、跡だけ残して、何とか必死で足を動かしていく。
それでいいのだ、と、彼女は肯定してオレを生かす。
「本当は、まだ居なくならないでほしいよ」
彼女の手の指先を、力なく掴む。離したくなかった。まだまだ彼女と共に居たかった。
初めて星叶さんに出会った時から、彼女はオレの憧れだった。ずっと傍にいる人なんだと、信じて疑わなかった。
「あの日はひどいことを言って、追い出してごめん」
さっきより握る力が強まる。そんなオレを彼女は笑うのだ。
「馬鹿だなあ。気にしてないよそんなの」
「うそつき」
彼女の噓は分かりやすい。本当はちょっとは傷ついていただろうに。
そんなオレを見て、彼女は小さく息を吐いてから笑みをこぼす。
「だったら言うのが遅い!」
「う、おっしゃる通りで……」
「だから、これからは気をつけなさい。新しい出会いや、大切な家族たち相手には」
彼女の言葉を聞いて、ゆっくりと振り向く。そこにはもう身支度を終えた皆が、こちらを温かく見守っていた。
好きなだけ話せばいいと、一緒に居ればいいと、言われている気がした。
「私、死んでから気付いたよ。この世界も案外捨てたものじゃなかったって」
「もっと早く気づけよ」
「皆と出会ってから分かったの。だから晶斗も、今まで以上に踏ん張ってみせないとね。簡単に倒れちゃダメ。もしも、もう無理だとか思ったら、後ろに居る皆を呼ぶんだよ」
彼女の手を握って、そのまま頬に添える。そんなオレの姿を見て、彼女はまたしょうがないなと言わんばかりの表情を見せる。すり、と優しく最後に頬を一撫でして、彼女は微笑む。
「もうこの姿では会えなくなるけれど、大丈夫。絶対に」
「言い切れるんだ」
「勿論」
満面の笑みを浮かべ、彼女は宣言する。
「これからどんなに辛いこととか色々なことがあったとしても、私達が一緒に歩いてきた足跡は消えないよ」
そう、かもしれない。
「そうだといいな」
ぽつりと願いを口にすれば、晴れ晴れした微笑を口角に漂わせ、星が瞬くような笑みを見せた。
ぱちぱちと星が弾けたように瞬きをすると、星叶さんは静かに優しく、温もりだけを残して、オレ達の前から消えていった。
思わず天を見上げていると、後ろからオレの名前が呼ばれる。彼女が作ってくれた、オレ達の居場所。
振り向いて、真っ直ぐと前を見て歩けば、皆も満足そうに微笑む。それにつられて自身の口角も上がったのが分かる。
今の自身の足元が、さらさらと消えていく脆い砂のようなものだったとしても、きっと周りの大切な人たちが助けてくれる。
本当は生前の彼女を助けたかった。助けられなかった、とこれから先も悔やむことがあるかもしれない。
楽しさを、達成感を、幸せを、温かさを、アンタに届けたかった。
それでも、オレが生きている限り、オレが金咲星叶を忘れない限り、アンタは死なないんだろう?
だから、アンタの分まで生きて、たくさんのことを経験してやる。他人に迷惑かけてやる、他人に期待もしてやる、他人に愛も捧げてやる、他人を大切にしてやる。
アンタの分まで。
それが天使となった彼女の願いであり、オレの居場所なのだろう。
あの人はね、と誰かが言う。あの人は、強い子だったんだよと。
あの人はな、と誰かが言う。あの人は、真面目な人なんだよと。
あの人はね、と誰かが言う。あの人は、優しく真っ直ぐな人なんだよと。
あの人はね、と親しくしてくれた皆が言う。
最初は怖く見えるかもしれないけれど、本当は優しくて、個人を受け入れてくれて、話を聞いてくれて、褒めてくれて、真面目で真剣に取り組んで努力家で強い人だと。
けれど、「あの人は」と、とある人は言う。
あの人はとても弱い人だった、と。
始終やわらかい目色で私達を見守ってくれていた、私の世話をしてくれた天使さまが、子供に読み聞かせをするように、優しい顔と声色で言葉を綴る。凪いた海のように澄みきった、親切な目。
私はただの一般人だった。
これと言って秀でたものは特にない、それこそ普通な女である。
ただ私の家庭は、一般的な家庭より居心地は悪かったかもしれない。物心ついた頃から両親は飽きることなく喧嘩をしており、私は家での存在を許されていない気分となった。
きっかけはもう何だったのか覚えていないけれど、突如として学校でいじめが始まった。くだらないと自分に言い聞かせてはいたが、季節が過ぎていくごとに感覚はマヒしていった。
幼馴染である彼女達には迷惑をかけたくなくて、いつだって何でもないと嘘の笑顔を浮かべていた。心配されているのを、勝手に無視をしていた。これは自分の問題だからと、助けの求め方も忘れてしまった。
それが寂しかった。けど、どうしたらいいのかが分からなくて。私はきっと、一人になってしまう人間なのだとあきらめてしまう日もあった。
ずっとどこかで信じていた。この状況を我慢し続けて耐えていたら、いつか、世界から抜け出すことが出来るのだと。
「だけど私は嫌われ者だったから」
「それでも、君には新しい友達が出来たじゃないか」
「……本当に?」
本当に? そうかなあ?
思わず相手の方へ顔を向ける。泣きそうになってしまう。友達という言葉が、ひどく嬉しいという思いもあれば、不安にもなる。何かを失ったり心が弱ると、不安になる。
「当然だ」
優しい笑みを浮かべた天使さまは、人間に慈悲を与えるような穏やかな声で言ってくれる。
「えらかったな」
まさか、今更、こうした言葉をもらえる日が来るとは思わなかった。
「がんばったな」
どこか、半分諦めていた。そのような言葉が届くことを。
自分でも気づかないうちに、瞼から筋を引いて涙がこぼれる。溢れ出た涙が、頬からポタポタと雨だれのように大粒になって落ちていく。
頭をゆっくりと撫でられる。相手の手からなぜか熱が伝わってくるようで、それが酷く懐かしく涙が溢れて、視界がどんどんと滲んでいく。まるで湧き水みたいに、止まることのない涙は、何だか胸に温かいものを与えてくれるような気がした。
強くなりたいって、ずっとずっと思っていた。強くなるという定義は、人によって考えが違うのかもしれない。
私は物心ついた時からずっと考えていたけれど、何で強くなりたいのか、と聞かれたら、一番に思い浮かぶのは自分の為で。自分を守るために、いつだって強くなりたがっていた。
弱い自分を否定し続けたら、気が付いたら修正できない程ボロボロになっていて、それでも頑張って、また強さを求めた。
もう嫌だも逃げたいも怖いも言えなかった。
失望の眼が怖くて悪いか、呆れられたくないと、見栄を張って悪いか。
だって情けない姿を見せたら、もう誰からも力を貸してもらえなくなる。
だから走り続けてきた脚と心はボロボロで、何度も転んで大怪我もして。そしてある日、ぽきりと心が完全に折れて、私は己の世界からさようならをしてしまった。
後悔はしていない。私は解放されるためにその道を選んだから。
「だけど、最後に皆と別れる時、勝手に寂しくなっちゃった。ひどい奴だよね」
「そうだな。俺達は、ずっとひどい奴と言われ続けるだろう」
自ら命を捨てた卑怯者。そう指をさされても仕方がないだろう。それでも、私達はこれしか道を選べなかった。
「それでも、課題をすべてこなしたのは本当に立派だった」
泣き続けている私の頬を、天使さまは手で優しく拭ってくれた。
「だから、次はどこでどういう世界を生きたい?」
選んでいいの? そう問いかければ、勿論だと相手は頷いた。
「許されないんじゃない?」
「許されるよ」
「そうかな……? そうだと良いな」
今度は自身が笑みをこぼす番だった。
相手が手を差し伸べて、こちら側も手を差し伸ばす。
「私は、水月家の猫になりたいなあ」
ゆっくりと言葉を紡げば、天使さまは何度か頷いて、任せておけと笑みを浮かべた。私の手を取って、ゆっくりと足を進める。
「次の命では、自分を大切に」
親が子に言いつける様に、けれども優しい声色で相手は言う。
悔いの無いように物事を選ぶのは難しい。ずうっと悔いのある物ばかり選んできただろう。
悔いの無いようにと思ったものが、後々に悔いを産む。そうして今まで過ごしてきた。だから、今回選ぶことも、後々の後悔に回るのではないか。そう思ったのだ。
産まれた時に比べて、沢山の事を学んできた。大切な誰かとの永遠の別れも経験したし、悔しい挫折だって経験したし、悲しくて涙で枕を濡らしてもきたし、一人で辛さを我慢だってしてきたし、大切な出会いだって経験したし、夢だって見てきたし。
きっと、産まれた時と比べたら、随分と人間らしくなった。
あの人はね、と皆が、誰かが、言う。
だから、だから何だって言うんだろう。他人から見えた我々への評価に、我々は生かされていたのだ。結局こういうモノだ。
「は、はは……」
どうしよう。笑えてきた。本当にその通りだったなと思う。死んだ後に全て気付くなんて、なんと滑稽なのだろう。けれど、けれど、もう良いか。
新しくできた道の先に、誰かが立っていた。誰かが、ゆっくりと、新しい私の名を呼んだ。
振り向いた先に、天使さまはもういない。後は己の足で、この道を歩いていくだけ。己が選んだ命を、今度は最後まで、生きていくだけ。
「今までお世話になりました!」