私の姿は、対象者以外の目に映ることは無い。まあ、偶に鋭い子供や年配の人が私の方を見てくることはあったが。何でだろう、純粋な心を持っているから? 邪神が無いから、とか?
 まあ、今は他人の目は気にしている場合ではない。
 私の最期の課題の相手である、水月晶斗。
 彼がまた、そうした行為をしない様に見張っておかないといけない。もし亡くなったりでもしたら、それだけで私の課題は失敗だ。そうなったら、と考えるのも恐ろしい。
 宙に漂うことが出来ることを良いことに、向こうからすれば死角となるが、私からはちゃんと彼の部屋を覗き見ることが可能な場所を見つけて、監視をしている。
 今のところ、彼は再びそうした行動に移ってはいない。私の視線でも感じるのか、偶にこっちの方へ目を向けるが、残念だが私は姿を消すことも可能だ。本当に、幽霊と言った方が近いかもしれない。
 一人目の課題であった蛍の後は、ほとんど身を隠していたと言っても良い。昴と蛍が対面したときは勿論、まさか那沙が蛍の家庭教師となったから、ずっと姿を消して見守っていた。
 けれど、この胸のざわめきは何なのか。嫌な予感、というものなのだろうか。天使見習いという立場の私でも、そうした予感を察知することも可能なのだろうか。
 それだったらよいのだけれど、という思いが溢れてくる。
 
 そう、彼だけじゃない。水月家を見ると、偶に胸が苦しくなる。晶斗の姿を見る時が、一番胸がざわざわと煩い。私の知らない何かが、必死に何かを訴えてくるように。
 上司は、私が生きていた時の記憶は消したと言っていた。それは理解している。生前の記憶があったら、未練がましい行動をとってしまうかもしれないから、その行為自体は十分理解できる。
「監視は順調か?」
 対象を眺めていた時、後ろから翼をはためかせる音と、聞きなれた声が聞こえたので振り向いてみると、上司の姿がそこにあった。
 まさかこの世、現世で上司と会うとは思っておらず、ただ目を丸くしてしまう。返事をしようと思っても、うまく言葉出てこない。あ、とか、えっと、とかコミュ障みたいな返事ばかりしてしまった。
「なんとも」
 暫し経った後の返事がこれ。それでも相手は怒ることはせず、そうかと言葉を返して、私と同じ方向に目を向けた。

 どうやら、本日の対象者は何かの雑誌を読んでいるようだ。表紙が風景の写真だったのと、タイトルが大きく短い単語で主張していたので、旅行雑誌かもしれない。何でそんなものを、という疑問が浮かぶ。
 もしかして、ここではないどこかで死のうとしているのでは……。
 眉間に皺を寄せて眺めている私を、上司はまじまじと眺めていた。
「何ですか」
「いや。人間は大変だよなって」
「他人事すぎる」
 実際に他人事なんだろうけれど。彼はれっきとした天使で、私は死んだ人間に翼が生えた、まがい物みたいな天使見習い。彼は人間に対して、関心意欲はあまりないのかもしれない。本当は、人が亡くなっても、生きていても、どうでも良いのかもしれない。
 ああ、上手くいっていないからって、最低な考えが過ってしまった。慌てて首を横に振って、邪な考えを振り払おうとする。

「そんなに他人事でもないさ」
「え?」
「俺もお前と同じだから」
 まさかの返答に驚きの声をこぼし、上司の方へ目を向ける。すると、彼はゆっくりと、その手にしている、汚れのない真っ白な手袋を外す。手袋が外された左手は、手袋をしていなくても肌は白くて、男性の手らしく骨ばっている。

 だが、白いからこそ、あるものが目立つ。それは、赤い痣――いや入れ墨だ。痛々しいものが見える。

 手の甲に入れ墨は痛いだろうな、と現実逃避をしそうになった時に、彼はその模様をよく見えるように、私に手の甲を見せてくる。
 赤いバツ印の模様が彫られていた。
「それは何?」
「不合格者の印」
「不合格?」
 それに、私と同じってどういうことだろうと首を傾げれば、彼は小さく笑いながら、手袋でその印を隠していく。
「今までの見習いには見せたことは無かったんだけどな。お前はどこか放っておけない、似た感じがして」
 今までの、ということは、彼は過去にもこうした課題を別人に出していたことになる。
「今までの人は合格したの?」
「半々だな。合格した人は、今は幸せに生きているさ」
「……幸せなら、良いんだけどさ」
 不合格の人は、やっぱり地獄行きなんだろうか。嫌だな、そう言った知識は無いから憶測でしかないけれど、火に炙られたり潰されたりするのは嫌だな。
「安心しろ。不合格者は、俺と同じような仕事をしている」
「安、心?」
 何に安心しろというのか分からないが、とりあえず地獄に行ったわけではないようで、こっそりと安堵する。
「相変わらず心が綺麗なようで」
「なにそれ」
「だから言っただろう? 最初に」
 再度首を傾げて、彼との最初の会話を思い出そうとするが、どのことを言っているのか思い出せない。
 そんな私を見て、彼は小さく苦笑いを浮かべた。

「本人は悪くないのに、その道を選んでしまう」

 彼がヒントのように告げた言葉を聞いて、私の中で何かが弾けた。ダムが決壊するように記憶の洪水が頭の中を駆け巡る。

 『だけど、その道を選んだ数々の人は、心が綺麗な人が多い! 本人は悪くないのに、その道を選んで命を絶ってしまう。勿体無い。本当に残念だ。なのに悪だなんだと言われるのは悲しいことだろう? ということで、自殺者にチャンスを与える。これが事の流れだ』

 彼と出会って、課題の説明をされた時に言われた言葉だ。これは、課題の対象者の事を表していると思っていた。いや、それも含まれているのだろうけれど、彼等だけの話じゃない。
「まさか」
口角が引きつる。取り返しのつかない絶望に陥って、青ざめた顔になっていくのが自分でも分かる。
 そんな私の様子を見て、目の前の天使は一瞬、すごく気弱な笑顔を作った。ふ、とため息をつくような、悲しい笑い方だった。
 すべての音声が途絶えた。誰かが背後にまわって、私の両耳にこっそりと栓を詰めたような密封感と圧迫感。思わず両耳を押さえて、頭を抱えるような姿勢になる。
 隠されていたはずの記憶が、頭の中に溢れ出した。塞いでいた蓋を押しのけ、泥水のように、記憶が流れてくる。
 毎日毎日聞かされ逃げ出してしまいたい喧騒が、脳の中を爆音で駆け回り頭が割れそうになる。毎日のようにこちらを見る嘲笑の顔と声。
 私の頬を一滴の雫が流れる。それを拭うこともせず、ゆっくりと顔を上げる。
 目の前のように、私も無理に笑みを作ろうとしたが、強張った頬が震えてしまう。そして、頑張って自然な笑みを見せようとした。精一杯自然に。でも、精一杯やることで、既にもう自然ではない。
「なんで、こんな」
「言っただろう? 他人事と思えないと」
 断片的な記憶が、どんどんと繋げられていく。鮮明になっていく映像と比例するように、胸の奥からどんどんと感情が色々な手段を使いあふれ出る。
 それはもう嗚咽に近かった。