もし生まれ変わりというものがこの世に存在しているというのなら、来世は猫が良い。
それも、きちんと私を愛してくれる飼い主の元に居る猫が良い。
野良猫のように自由気ままに町の中を歩いて、すれ違う人々に愛嬌を振りまいて、小さな町のアイドルになるのも良いけれど、やっぱり私は美味しいご飯が確実に与えられ、温かい寝床があり、かわいい、かわいい、と愛でてくれる家族が住む家猫が良い。
「だから人間になるのはちょっと……」
「マジで言ってる?」
ちょっと引き気味な表情で言っているのは、俗に言う天使の姿をした青年であった。
真っ白で大きな羽を背中に生やして、白一式の服装を見に包んで、優しそうな顔つきをしているが、私の言葉によってその美しい優しい表情は「理解できない」とばかりに歪んでいた。
青年は私の頭から足先まで何度か視線を動かしてから、再度「マジで?」と言って困惑の表情をしていた。
そもそも、どうして私が美人な天使と対面しているのか、そこから振り返っていこうと思う。
事の発端はこの見目麗しい天使さまからの一言だった。
「おめでとう! 君は天使見習いに選ばれました!」
パーン! と小さな破裂音が聞こえたかと思えば、こちらに向かって降ってくる色とりどりな紙テープと紙吹雪。
呆然と見上げている私の上に紙テープと紙きれがハラハラと何枚か降りかかった。
「はい?」
「いやあおめでとう! 君みたいな心優しい人こそ! 天使にはふさわしい!」
「いやだから待って待って……」
勝手に話を進めないでほしい。頭にかかって邪魔なテープを引っ張るようにして取るが、そもそもクラッカーの紙テープとは脆く、引っ張っている最中で千切れてしまった。
天使って本当に居るんだ……。ファンタジーのような物かと思っていたけど、こうして実在していたんだな。
見ただけで羽根は最高に触り心地良さそうで、ふわふわだ。今まで、鳥というものにあまり触れてきたことが無いから、鳥の羽根の柔らかさに詳しいわけではないけれど、きっと比べ物にならないだろう。
「すいません。本当に何を言っているのか訳分からないです……」
「だよな。それじゃあ、どこから説明しようか。君の状況から説明するとしようか?」
相手が私の方を指さしてくる。人を指さすな、と言いたくなったが我慢だ。
こくりと頷けば、彼はどこから取り出したのか、白いファイルをぺらぺらと捲り出した。
「名前は金咲星叶。髪を金色に染め、耳にピアスを付け、他者からギャルとかDQNとか言われているが、学業は優秀なのだから質が悪いな」
「貶してる?」
「その一方で、どんな人間にも分け隔てなく接することが出来る、優しい心根の持ち主。まさに人は見かけによらないものだな」
「褒めるなら最後まで褒めてよね」
はあ、と息を吐いてから彼の言う金髪頭を掻く。
「それより、私はどうしてここに?」
「ああ、すまない。記憶がないんだったな」
「そう! 何で記憶がないの!」
「話せば長くなるんだ」
彼は少しだけ嫌そうな顔をするが、私にとっては大事なことだ。睨みつけながら彼の胸ぐらをつかめば、相手は観念したように両手を上げる。
「現世への未練を断つように、見習いは記憶を消す決まりなんだ」
「なんて自分勝手」
小さく舌打ちしながら吐き捨てるように言い放ち、彼の胸元から手を離す。彼は咳払いをしてから仕切り直し、私の最期を説明する。
「簡潔に教えよう。君は信号が青に変わる一瞬前に渡ってしまい、車と衝突。そのまま死亡し、ここにやってきた」
「つまり、ここってあの世?」
「そんな感じ」
「ふーん、なんてあっけない死」
彼曰く、周りの声も聞こえていなかったのか静止の声も無視して、私は飛び出してしまったようだ。そして、そのまま私は車と衝突。当たり所でも悪かったのか、それとも出血多量なのか、まあそこまでは分からないけれど、死んでしまったと。成程ね。
車の運転手に申し訳ないことしたな。と反省すれば、相手は元々スピード違反だったし、更にひき逃げもやったらしい。懺悔を返せ。
「信号無視したから、もしかしてこうした課題をするの? やだー」
「まあそういうことにしておいてくれ。そこでさっき言った通りだ。君には天使見習いとして頑張ってもらう」
「嫌だ」
きっぱりと否定の言葉を口にした。
「死んだ身というのに、なんで働かないといけないの」
「むう、まあそれも一理あるが。簡単に言えば、生まれ変わりや天国へ行く為の試練だと思ってくれればいい」
「試練?」
「そう! 天使見習いとして課題をこなせば、君は天国へと行ける。そして生まれ変わりのチャンスも得られるんだ」
信号無視、せっかちって、そこまで罪が重いの?
「どうだい? 少しは興味出てきた?」
ということで、冒頭に戻るのである。
私は、来世は人間じゃなくて猫が良い。それもできればお金に余裕があって、だからこそ得られる生活水準が高くて、愛されるのが当たり前で、幸福度が高い猫に生まれ変わりたい。
「猫とか家畜って、生まれ変わりの中でも最下層の方なんだぞ」
「そうなの? 人間の方がレアなんだ」
「そうだ」
ふーん、と大して興味なさげに返事をすれば、目の前の天使は盛大な溜息を吐いた。
「あー……もう仕方がない。じゃあこうしよう。課題をすべてこなしたら、その願いをかなえてやる」
意気揚々と提案してきたのを聞いて、内心ガッツポーズを決めた。また人間になるのだけは、絶対に嫌だったから。
「分かりました、やります。それで、アンタの言う課題って?」
「よく聞いてくれたな。それはズバリ、人助けさ。まさに天使らしいだろう?」
人差し指を立てながら、にこにこと笑みを浮かべて言われて、思わず額に手を添えた。
やっぱり辞退しようかな。額に手を添えて、眉間に皺を寄せ、少しだけ天を仰ぎ見る。難易度、高いな。
「はあ……どういう人を助ければいいの」
「うん。君の担当は、自殺を希望している子達を救う事だ」
難易度爆上がりしすぎ。
私はカウンセラーでも何でもない、ただの女子高生だった。アンタ曰くDQNと言われていた女だぞ。そんな奴が、自殺願望者を助ける? 難しすぎるじゃん。
「今の日本という国は、自殺者の数が他国と比べると圧倒的だ。だけれど、自殺という行為は悪と考えられてしまっている。何故か分かるか?」
「あー、知ってる知ってる」
ユダヤ教、カトリック、イスラム教、ヒンドゥー教等、他にもある世界の宗教の多くが、伝統的に自殺を戒めている。その理由は、人間の命は原則的に神のものだという信仰に基づいているからだそうだ。
だからなのか、無宗教の国は自殺率が高いらしい。日本も無宗教、独特な仏教の人が多いからか、自殺を含めた生死に関する文化・社会通念にも、自殺を誘発しやすいベースがあると考えられているようだ。
元々、腹切りだとか、己の死で罪を償う、という文化もあった国だ。よく考えれば、中々に恐ろしい国で育ったものである。
私の話を聞いた天使は頷いて、よく知っているなと感心していた。
「だけど、その道を選んだ数々の人は、心が綺麗な人が多い! 本人は悪くないのに、その道を選んで命を絶ってしまう。勿体無い。本当に残念だ。なのに悪だなんだと言われるのは悲しいことだろう? ということで、自殺者にチャンスを与える。これが事の流れだ」
「チャンス?」
「そう、自殺者は地獄に落とされてしまうからなあ」
悲しげな表情で頷く天使さん。
誰しも、生きている上で一度は考えたことがあるはずだ。天国や地獄など。
良いことをすれば天国。悪いことをすれば地獄。だから良い人で居なさい。そうして育った人だっているだろう。私だってそうだ。特別宗教心があったわけではないが、そういうものだろうと思って生きてきた。
「そうした本当は心が綺麗な人々を地獄に行かせないために、命を助けるって事?」
「そういうことだ。いやあ、流石だな理解が早い!」
ばしんばしん、と肩を勢い良く叩かれてしまった。地味に痛いので止めてほしい。
けれど、そんな大役、私に出来るだろうか。何度も言うが、私の見た目は、そうした心に辿り着いた人にとっては近寄りがたい存在かもしれない。出会ったとしても、話を聞いてもらえない可能性だってあるだろう。それに、そんな簡単に止められたら、世の中の精神科医、心療内科医、カウンセラーなど必要ない。
だが、この課題をこなせないと、私の来世への希望が断たれてしまう。それは些か心苦しい。
それに、そうした人々に少しでも手を貸せるのなら、生前何もできなかったであろう私でも、何か恩でも返せるかもしれない。
「じゃあ、頑張ってみるよ」
「お、決まったんだな」
「うん。でも、期待しないでよ」
「なに、君なら大丈夫さ。寧ろ、君なら願いを叶えるために尽力を尽くすだろう」
それは否めない。今の私は、完璧に、ニンジンを目の前にぶら下げられた馬の状態だ。目の前の天使の思惑通りだ。
多少悔しい思いはあるが、仕方がない。一度死んだ身である私が、天使に逆らうことなど、最初からできないと決まっているような物なのだから。
「じゃあ、最初の課題はこの紙に書いてある。頑張ってくれ」
天使から紙の束を手渡された。レジュメみたいなものだろうか。パラパラと捲ってみれば、最初の課題は私と大して歳の変わらない女子高生のようだ。
烏の濡れ羽色、という言葉の通りの綺麗でサラサラなロングヘア―。けれど前髪も長く重いせいで、表情が少し読み取りづらい。だが、前髪から微かに見える瞳には、生気と言われるような、光が全く見えない。
「移動はそこのゲートを使ってくれ。課題が終わったら迎えに行くからな」
「え? 一人だけでやるの?」
「当然だろう? まあ頑張ってくれよ!」
後出し野郎。小さく舌打ちをすれば、天使見習いがそんな顔をするなと頬を引っ張られてしまった。再度舌打ちが零れた。
「はいはい、分かりましたよ頑張ります」
「応援しているぞ」
にこにこと満面の笑みを浮かべている彼を睨みつけるようにジトリと目を向ければ、手を振られるだけだった。
人々が早足に歩いていく。中には友人や知人と会話をし、その場に留まっているものもいるが、私を含めた多くの学生は夜遅い時間帯というのもあり、眩く光る建屋からさっさと去っていく。
沢山の参考書の入った鞄は重く、肩にずしりと食い込んでくるようだった。両手でスクールバックの紐を握りしめ、軽くジャンプをするような加減で肩にかけなおす。
本日もルーティンをこなし、後は家に帰るだけ。帰ったら家のルーティンもあるわけだけど。
ふう、小さく息をこぼしながら、鞄の中から紙の束を出した。
先日行った模試の結果と、問題用紙や先生からのメッセージなどが書き込まれたもの。紙の束となったそれを暗い夜道の中でも読めるのは、頼りない街灯と空にぽっかりと浮かぶ丸い月、無数の煌めく星があるからだ。
夜の空は雲ひとつもなく晴れていて、それは絵画か夢の景色のように星が瞬いている。ただひたすらに美しい眺めだった。暦上では秋となる今は、星も必死に主張して輝いているのかもしれない。
ふいに、少し冷たい風が吹いた。驚いて思わず目を閉じ、プリントを握っている手の力が抜けた。「あ、」と小さく声をこぼすと同時に、手に持っていたプリントが全て風に飛ばされて舞い上がってしまった。思わず眉間にシワを寄せて眺めていたけれど、すぐに己の表情が変わったのが分かる。
舞い上がったプリントの向こうに、一つの廃ビルの側面が視野に入る。その廃ビルの屋上に当たるであろう位置から、ひらひらとプリントが舞いながら落ちるように見えたのは、なぜか季節外れの桜のように思えた。
「……綺麗」
キラキラと輝く星空をバックに、桜の散り際のように思えたその景色に、小さな思いがこぼれた。
もし、もし……あのビルから飛び降りたら?
もしかしたら、私もこうしてキレイに散れるのかも。それなら、それは良い考えかもしれない。
「アンタ、今、何を考えた?」
廃ビルの方を眺めて、ぼうっとしていたら、突然の第三者の声。プリントの桜はとっくに散り終わっていた。声のした方に目を向ければ、そこには私と同い年くらいの少女が居た。
金と毛先がピンクのグラデーションの髪色で、緩く巻かれている髪型。少し緩められた襟元とネクタイ。短いスカートと靴下によって、生足の範囲が広い。
そんな少女は脚を肩幅に広げ、腰に左右の手を添えて、こちらを真っ直ぐな鋭い瞳で射抜いていた。
「ギャルだ……」
思わず口にした言葉に、目の前の少女はピクリと眉を動かし、鋭い目つきのままこちらに向かって歩いてくる。
怒らせたのかもしれない。肩を縮こまらせて体も強ばらせていると、相手は私に何かを差し出してきた。それは、先程散らばったプリント類。それも全部ある。いつの間に集めたのか。数枚飛び散ったというのに。
だが、彼女が拾ってくれたのは違いない。思ったより優しい人なの、かも?
「あ、ありがとう……」
「飛び降りるのには、あのビルは向いてないよ」
受け取ろうと差し出した手が思わず止まる。伏せていた顔をゆっくりと上げれば、相手は変わらず真っすぐと私の目を見ていた。
背筋が粟立つような、恐怖に近い感情で汗がドッと溢れた気がする。
「高さ、全然足りない。それにあの廃ビルの下は植え込みがあるからクッションにもなる。着ているコートもパラシュートのような効果をもたらす。落ちたとしても死なずに病院送り、寝たきりになる可能性の方が高い。そんなの不毛じゃない」
「は?!」
廃ビルの方をあいている手で指さしてから、すぐに私の方へ指先を変える。表情は変えずに淡々と述べてくるものだから、脳内はずっと混乱している。
何なのこの人。普通じゃない。
彼女は渡そうとしていたプリントを持つ手を下げて、不機嫌そうに眉も下げて、呆れたような顔で私を見ていた。
「なに?」
「なに? ってこっちのセリフだよ、突然そんな!」
「普通の人は、ビルを眺めて飛び下りて散ろうとは思わない」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。そのままバクバクと激しく動く心臓を落ち着かせるように、心臓のある部位の服を握りしめる。
まるで心を読まれたようだ。いや、口には出していないのだから、確実に心を読まれたんだ! だって、彼女の発した言葉は、私が心で思い描いていた空想と、彼女への偏見に対する反論だったのだから。
得体の知れない恐怖に半歩後ろに下がると、少女は半歩前に出る。
「な、何なのアンタ」
「私? 私は金咲星叶……天使見習い、らしい」
らしい、とは。曖昧な言葉と、天使と言った非現実的な単語に怪訝な目をしていれば、それを察したらしい彼女は手を差し伸べて、こう言った。
「火燈蛍。アンタを助けに来た」
助けに来た、なんて安易に口にしてしまう人なんて信用できない。それも、私の名前まで知っていて、現段階で怪しいところしかない相手だ。
そう、脳では分かっているはずなのに。目の前の彼女の背から、真っ白綺麗な翼が広がって見えた気がした。
瞬きするとそれは一瞬で消えたけれど、それは確かに自分が求めていた救いだと身体が訴えていた。
下がっていた脚を戻してから、更に一歩を踏み出して、ゆっくりと彼女の手を取った。そんな私を見て、彼女は初めて笑みを浮かべた。口角を少しだけ上げて、強気な表情だった。
けれど、掴んだ手はまるで陶器のよう。熱など全く感じず、触るとふるりと身震いをしてしまう氷みたいに冷たかった。
いつもより大きく感じる白い月が、ぽっかりと目の前に浮かんでいた。反映した街中から少し外れていく道を、星叶と名乗る少女と二人で歩いた。
歩いた……と言っても、彼女は地面から浮いてまるで幽霊のようについてきたので、歩いているという表現はあまり正しくはないのかもしれない。
風が強く、ふと見上げた夜空には、うすらと視界に入る家の明かりで、星は先ほどよりもハッキリとは見えなかった。本当に風が強く、はためくと影の髪の毛が闇に踊った。
暗い街角には人がいない。道を曲がっても、真っ直ぐと歩いても、同じ月光に照らされた淋しい夜だ。透明な空気の中で、時間が変なよどみ方をしている。
二人で家に向かっているというのに、私達の間に会話などなかった。向こうから話しかけられることも無かったし、私自身がまだ後ろにいる彼女のことを異質のように思っているのかもしれない。いつだって一人で歩いていたから、誰かと歩く時に何をすればいいのか分からないのが、本音かもしれないけれど。
予備校から暫し歩いていれば自宅にたどり着いた。玄関の方へ向けて足を進め、私一人分の足音だけが聞こえる。私が玄関に近づけば、動くものを自動で認識するセンサーがパッと灯る。仄かに明かりが灯ってくれたおかげで、周囲は真っ暗ではなくなった。周りに誰も居ないのを確認してから、鍵を差し込んで回す。カチャリ、と鍵が開かれる音がしたが、少し家の中で響いたかもしれない。まるで泥棒みたいだ、なんて苦笑い。
猫のようにするりと滑り込むようにして家の中に入り、家の中から鍵を閉めなおすのも、靴を脱ぐのも、音をできるだけ立てない様に動作をこなしていけば、パッと階段の電気がついた。
慌てて顔を上げれば、そこに立っていたのはお母さんだった。パジャマに着替えてはいるけれど、目元は全く眠そうではない。私が帰ってくるのを待っていてくれたのかもしれない。
その証拠に母は私を見て、にこりと笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。夜遅くまで頑張って偉いわね」
こちらの方へ寄ってきて、思わず視線が泳ぐ。私自身にやましい考えがあるわけではない。ただ、私の隣には客人にしては時間を考えていない人物がいる。それも、自称天使見習いで見目はギャルといった存在だ。
そう、彼女が居たから、私はこそこそと泥棒のように家の中に入ったのだ。いかにも叱られるのが嫌な子供のような動きだったが、母は深く追求することは無く、ただどういうことかと、私の隣に目をやる。心臓がバクバクとうるさい。何と言い訳をしよう、ただその考えで頭がいっぱいになる。やましい考えはないと言ったが、こんなに緊張している時点で矛盾にも程がある。
「どうかしたの?」
母は首を傾げた。その言葉に意を突かれて間抜けな声が出て、母にまた首を傾げられたが慌てて首を横に振る。
「何でもないよ。えっと、ただいま」
「そう? もしかして疲れているんじゃない?」
その通りかもしれない。母に星叶が見えていないのだと安堵こそしたが、それはつまり、私はこの世のモノじゃない存在を連れてきてしまったと、確信もしてしまったから。
少しだけ苦笑いを浮かべながら、大丈夫だと答えたけれど、まだ心は落ち着いてはくれない。
「えっと、そうだ。これ模試の結果」
本当は明日にでも渡そうと思っていたが、話題を逸らす意味も込めてここで渡してしまおう。風に思いっきり飛ばされたくせに、一枚一枚に目立ったシワは全然ない紙の束。母も突然のことに驚きながらも笑みで受け取り、渡された用紙に目を配る。
「まあ! A判定じゃない!」
「うん。だから早く見せようと思って」
薄く笑みを浮かべながら、肩からおろしているスクバを担ぎなおす。何とか少しの不自然さは誤魔化せたようだ。母は結果を見て、本当に嬉しそうにしていて「お父さんにも言わなきゃ!」と少しわくわくしているようだ。
「それじゃごはん温めておくから、お風呂に入ってきたら?」
「うん、ありがとう」
礼を述べてから、まずは荷物を置いて着替えを取りに行くために、駆け足気味で自室のある二階を目指す。
「A判定なんてすごいじゃん」
ずっと黙っていた星叶が口を開いてきた。彼女の言葉に、「あぁ」と小さくこぼれるような返事をした。
「だって、優等生だもん」
声のトーンが下がったのが己でも分かる。すごい、とか褒められても、そうだろうなとしか思えなくて。そう言われるように、思われるように私は優等生をしているのだから。彼女は「ふーん」と対して興味なさげに返事をしたのだが。
じゃあ聞くなよ。と心の中で愚痴りつつ、部屋についてから鞄と羽織っていたコートを放るように置いて、棚から着替えやタオルを取り出した。
「風呂に入ってくるから」
「行ってら。ゆっくりしてきなよ」
彼女は放ったコートを健気にハンガーに通して、シワにならない様にと干していた。まるでお母さんじゃん、なんて遠い目をしつつ見守って、ドアノブに手を触れる。その瞬間に思い出したように「そうだ」と声がこぼれて振り返る。
「お母さんには見えないんだね」
「そりゃそうだ。幽霊みたいなものだもん」
成程、そういうものなのか。小さく納得してから部屋を出た。
「……天使じゃないのかよ」
私の小さなツッコミは誰に聞かれることも無かった。
お風呂はいつだって出来るだけ早く済ませたい。髪や体を洗うときは一応丁寧には行っているが、湯船に浸かっている時間は一瞬なのがほとんどだ。シャワーだけの時だって多い。
けれど、今日はどうしてかゆるりと湯船に浸かっていた。水分がまだ多く含まれている髪の毛で頭が重いが、肩までお湯に沈むように体を伸ばせば、安堵のような息がこぼれた。湯はさらりとして熱かった。強張っていた身体のこりがほぐれてきて、揉みしだかれたように、背中の筋肉が緩んでいつもよりのびのびと広がった。
身体も心も披露していた様だ。いつの間にか出来ていた何か所かのすり傷にお湯がしみて、ちょっと痛い。
それでも、温かいお湯に浸かっていれば、誰かの優しさに包まれているような気分がして、心地よい。これからは、ゆっくりとお湯に浸かる時間を取ろうか。
いつもよりずっと長い時間お風呂場に滞在して、温まった体のまま脱衣所から出る。すぐそばにあるダイニングのテーブルに『ご飯は部屋に置いておきました』という置手紙があったので、素直に部屋に戻る。
扉を開けば醤油を甘く焦がしたような香ばしいにおいが、私を包み込むようにして出迎えた。生姜焼きだろうか、と目を配ると、星叶がベッドに腰かけて何かを読んでいるのが見えた。何を読んでいるのだろう、と疑問を持ちながら一歩一歩と近寄れば、それはすぐに分かった。それは、学校で使っている私の勉強ノートだ。
「っ! 何してんの!?」
息を飲んだのは一瞬で、すぐに少し声を荒げながら彼女に飛び掛かろうとすれば、彼女はひらりと躱し、私がベッドにダイブすることとなった。慌てて顔を上げて睨みつけても、彼女は全く怯まない。
「見るなとは言われてないし」
「普通は勝手に見ない」
「アンタ、いじめられてんだ」
星叶が私に見せてきたのはノートのとある一ページ。油性ペンで真っ黒に塗りつぶされて、修正ペンで数々の暴言が書かれている。消したくても消すことなど出来ない暴言の数々。
話を逸らされたことよりも、見せつけられた現実に唇をぐっと噛み締めて、こぶしを力強く握る。唇は歯が、手の平は爪が食い込んで、それぞれがじんじんと痛んでくる。
「そうよ、それが何」
平然を装おうとしたけれど、噛み締めていた唇は震えてしまい、それにつられるように声も震えた。
私へのいじめが始まったのはいつだったか。今の私は高校三年生で、たしか高校二年生になって暫く経った後からだ。クラス替えのない学校だから、学年が上がってもいじめは変わらずに続いていた。
「友達は?」
「居たらこんなことになる訳ない」
クラスの全員は敵。味方など存在しない。友達だと勝手に思っていた相手も敵に回った。
私はクラスで完全に孤立している。
「ふぅん? うわ、暴言のボキャブラリー無さすぎ。ゴミとかバカとか死ねしかない」
「口にしないでよ!」
何でわざわざ言うわけ? 意味が分からない。アンタもそう思っているって遠回しないじめ? もしそうなら天使じゃなくて悪魔である。即座に家から出て行ってもらいたい。
「誰かに言わないの?」
「うるさいなあ! アンタには関係ないでしょ!」
私は精神的に弱いくせにプライドが高い。
だから、弱味は他人に絶対に見せたくないし、弱っているのを見られたくない。プライドが高いのと並列して、相手を疑っている、という悲しい感情もあるのだが。
弱音を吐いているのを見られたくない。弱い奴だとは思われたくないから。
「関係あるよ」
まっすぐな声で言われて、思わず呆ける。
「言ったじゃん。アンタを助けるために来たって。そしてアンタは私の手を取ったでしょ」
そう言って差し出された手のひらを見て、彼女と手を交互に見てから、何かが胸から口に向かってこみあげてくるような感覚がする。だんだんと己の表情が歪んでいくのが分かった。
「辛いから、消えたいとか散りたいとか思ったんじゃないの?」
「……そんなこと、アンタに言われなくても分かってる」
「それじゃあ、」
「うるさいって言ってるじゃん!」
己の感情や考えの制御が出来ず、彼女に向かって啖呵を切って、足を踏み下ろした。まるで癇癪を起こした赤ん坊のようだ。それが自分でも馬鹿みたいに思えて、涙が勝手に出てくる。
「どれだけ頑張っても、認められるどころか、挙句こうして馬鹿にされて。それがどれだけ辛いかなんて、私が一番分かってる!」
ボロボロと大粒の涙がこぼれ出た。己の感情も涙も、自分勝手に出てくる。
小さい頃から勉強が得意だった。地元で一番の進学校に行った。親が、皆が喜んでくれると思ったから。大学だって、地元唯一の国立で偏差値の高いところを目指すことにした。そうしたら、親も先生も喜んでくれたから、だからもっと勉強しようと思った。
そうしたら、常に学年上位の私が気に食わなかったらしい。最初はクラスの一部が、私を目の敵にした。敵はウイルスのように伝染した。
毎日が気持ち悪くても、惨めでも、きっと誰かが助けてくれる。ただ、漠然とそう願っていた。だけど、己で救いを求めなければ、誰も気づいてくれないし救いも来ない。助けの求め方も分からない。どうすればいいのか分からない。
「だから、もうこれ以上頑張ったって意味ないじゃない……」
しゃくりあげながらこぼした言葉を、星叶は静かに聞いていた。
同い年くらいなのに、赤ん坊を眺める親の様な、包み込むような顔をして私を見ている。そんな顔を見て、横隔膜が痙攣していたのが落ち着いていくような気分だ。
「蛍の努力は、私を含めた天使全員が認めてるよ」
「……え?」
彼女の真っすぐな声を聞いて、思わず間の抜けた声がこぼれた。
「そうでなきゃ、わざわざ私とか、天使が救いに来ないから」
「でも」
慰めてくれる彼女の言葉にも素直になれないでいると、星叶はゆっくりと私の手を掬いとる。手は冷たいはずなのに、彼女の真っすぐな目と声と言葉のおかげか、彼女自身のぬくもりのようなものが伝わってくるようだった。
「だから、考えていこう。まずは私たち二人で、そうして皆で。無くしちゃった大切なもの、一緒に取り戻してさ、最後は絶対に幸せになってやろう」
優しい声色なのに、なんて力強い言葉なんだろう。先ほどとは違う意味がこもった涙がこみ上げそうになって、胸元がじくじくと熱くて仕方がない。
そんな私の様子を見て、彼女は温かい笑みで見守りながらも、真っ直ぐとした目で私を射抜いて言葉を続ける。
「それじゃあ、アンタの居場所づくりが課題かな?」
「居場所?」
「そう、人間は心休まる相手や場所が必要な生き物だからね」
繋いでいる手を上下にゆるく振ったり、ちょっと手遊びしながら彼女は言う。彼女の提案に、頭の上にはハテナマークが沢山浮かんでいる事だろう。
彼女に繋がれたてのまま、人差し指で自室の床を示した。
「家は?」
「うーん、悪くないんだけど、今のアンタには少し早いかな」
なんだそれ。
繋いでいた手をゆっくりと丁寧にほどいて、顎に指を添えながら彼女は少し困ったようで、それでいてちょっとだけいじわるな表情を浮かべた。
普通は家こそ一番の居場所なものだろう。と言い返したいのに、言い返せない自分が居た。脳裏に過るのは優しい表情を浮かべる両親だけれど、それと同時に胸が嫌にざわめいた。
「よし。方針が決まったことだし、今日はご飯を食べて、さっさと寝る!」
「え、まって勉強」
「一日休むだけで自信無くなっちゃうんですかあ?」
さっきまでの優しそうな彼女はどこへ行ったのか。ニヤニヤと意地の悪い顔をしながら首を傾げつつ、目をのぞき込んでくる。彼女の言葉に、カチンときて「そんなことない」とムキになって言い返した。そんな私を見て、彼女はニッと強気な笑みを浮かべる。
「そういうこと。ほら、さっさと食べな」
「もともと誰のせいよ……」
小さく愚痴をこぼしながら、箸を手に取って、いただきますと食事の挨拶。お肉に箸を伸ばして、そのまま口に含む。
お母さんのご飯は、冷めていてもおいしかった。
いつだって寝起きは最悪なものだった。スマホのアラームは五分や二分などの分刻みにセットして、数回聞いてからようやく重たい身体を起き上がらせるのだ。
けれど、その朝はぱちりと目を覚ました。
はじめに目に飛び込んできたのは、カーテンの隙間から覗く透明な青空だった。前日と同じように雲一つない天気なのに、急に別世界にやってきた新しい人間になっているような気分がした。
目覚めは心地よく、起きた後の疲労感が無いように思えた。ふと、昨夜のことが、夢の内容を思い出すように浮かんでくる。まさに、夢のような出来事があった気がするが。
昨日泣いたはずなのに、目が腫れていない。目元に手を添えても、熱は感じない。
「おはよう」
部屋の中から朝の挨拶の声がかけられた。ゆっくりとそちらに目を動かせば、昨日出会った星叶がスチームアイロンを手に取って制服のしわを伸ばしていた。やっぱり母親、それか家政婦のようにも思えてきてしまった。
「何? 幽霊でも見たような目で」
実際そのような存在だと自分で言っていただろう。という言葉は抑え込んだ。
昨夜出会った彼女は天使見習い……らしいが、未だに現実離れしていて、逆に脳は簡単に受け入れてしまった。にわかには信じられないが、背中から羽が生えたような姿の彼女を思い出せば、信じることしか私にはできなかったわけで。
それで、昨夜ご飯を食べながら、食べた後も泣き続けた後、彼女が目元を少し冷やしてから柔らかいタオルで温めてくれたのだ。しかも化粧水などでの保湿マッサージ付き。至れり尽くせりだった。そうした道具は彼女の私物らしいので、自分でもできるように彼女にお勧めなど教えてもらおうか。
「着替えてから朝ごはん派? それとも食べた後着替える派?」
「着替えてから朝ごはん」
「オッケー」
彼女が皺を伸ばしたいつもよりパキッとしたセーラー服を渡されて、着替えようと思えば、熱された服の匂いがかすかにした。それが何だか心地よい香りで、胸のあたりまで温かいもので満たされる気分がした。彼女はローテーブルの上に置き鏡をセットしていた。首を傾げつつ、彼女の動作を見守りながら着替えていく。スカートのプリーツがいつもよりも整って綺麗な形をしていた。
「こっちおいでよ」
そう言って、彼女は自身の前に当たる位置の床をポンポンと叩いた。どうしたの? と問いかけつつも言うことを聞けば、彼女はヘアブラシなどを手に持って、満面な笑みを浮かべる。さらに疑問だ。座った私の後ろにいる彼女は、丁寧な手つきで私の髪先を手で掬う。
「まとめてあげるよ」
「ええ?」
「本当は前髪もいじりたいんだけどね」
流石にキャラ変しすぎになるかな? と思って止めたらしい。まあ、その通りだ。
きっと誰が見ても『重い』と言ってきそうな前髪は、今の私にとっては防壁のようなものだった。その分、暗い人とかのイメージも持たれるのだけれど。
ていうか、前髪だけでなく後ろ髪をまとめる、というのも少しためらってしまう。だって、ほら、後ろの人、上の方に髪を持ち上げているもの。これは俗にいうポニーテールになりそうだし。普段はまとめるとしたら下できつく一つ結びだから、首筋が空気に触れて少し違和感。
「綺麗な髪してるよね」
「え?」
ていねいに、ていねいに、櫛で髪を梳かして一つに束ねていきながら彼女は言う。
「烏の濡れ羽色って、こういうのを言うんだなって、見た時に思った」
ギャルな風姿をしている彼女から、そういった綺麗な言葉が出て来るとは思いもしなかった。偏見と言われてしまえば申し訳ないのだが。
青や紫、緑などの光沢を帯びた美しい黒色を言うと聞いていたから、褒めてもらっているのはすぐに分かったけど。天使……純白という言葉の通りに白い羽を背中に一瞬でも見せた彼女に言われるのは、何度も不思議な気分だ。
悶々と考えていると、ヘアアレンジが終わったらしい。ずっと丁寧に扱ってくれて、引っ張られて痛いなどの思いはしなかった。彼女は、こうして髪の毛をいじるのも好きなのかもしれない。満足気な声と表情をこぼし、置いていた鏡を持って、私に見せてくれる。思った通り、真ん中より少し高い位置で一束の綺麗なポニーテールが出来ていた。
「派手じゃない?」
「これで派手なわけ」
目を真ん丸に開いて、心底驚いたと言わんばかりの表情をする。まあ、貴方からすれば全く派手じゃないだろうけれど。普段は自分ではやらないヘアアレンジというだけで、なんだか心が少しそわつくような、浮つくような、不思議な気持ちになるに決まっている。
不思議な心持ちでポニーテールの毛先をいじっていると、朝食の時間になったようだ。お母さんに名前が呼ばれる。
「えっと、ありがとう」
照れながらも礼を述べて、部屋を出る。
朝のダイニングに向かえば、父がもう椅子に腰かけていて、母がキッチンで全員分のご飯を盛り付けていた。みそ汁の香りが届いたので、どうやら本日は和食のようだ。
最初に気付いたのは父だったようで、優しい顔で「おはよう」とあいさつをくれた。だからそれにこたえるように口角をゆるりと上げて、柔らかい声を意識して「おはようお父さん」と返した。
席に着くと同時に父はそのまま私に向けて話を続ける。
「母さんから聞いたぞ。もうA判定なんてすごいじゃないか」
「ありがとう。でも期間はまだあるし、最後まで気は抜かないようにするよ」
「そうか。無理はするなよ」
優しい心遣いに頷いて、再度礼を述べる。
「あら、今日はかわいい髪型なのね」
「あ、うん。……長くなってきたから、まとめようと思って」
「良いじゃない、似合っているわ」
朗らかな笑みを浮かべながら朝食を並べる母。私もまたつられるように笑う。
我が家の食卓は、少しだけ良いものが並ぶ。一流企業の部長という役職についている父。地元で一番大きい病院で働く薬剤師の母。生活水準と呼ばれるものは、我が家は高い方に括られるのだろう。父と母は共に働いていて、それでも私を大切に、大切に育ててくれた。
そんな両親のもとに居て幸せなはずなのに、なぜかいつも心が苦しくなる。申し訳なくなる。贅沢だと罵られても仕方がない。
人からすればエリートと呼ばれるかもしれない両親が自慢できるような娘になるために。両親から見限られない様に。良い子で居続けなければ。
ふ、と顔を上げれば、父の後ろで星叶が父を凝視していた。ぎょっと目を開いた私を見て、父はどうしたのかと問うたが、何でもないと慌てて首を横に振った。
どうやら、父も彼女が見えていないようだ。
「い、いただきます」
少しだけ心が騒がしく慌ててしまったが、食膳の挨拶をしてから、ご飯を口に運ぶ。今日も変わらず、お母さんのご飯は美味しかった。
朝食も終えて身支度と学校の準備も完了。学校に行ってくると家から出たら、隣には星叶がさも当然とばかりに立っていた。
「え? 待って、学校にもついてくるの?」
「まーね。対象の子がどんな感じかきちんと知らないと」
「そ、っか」
星叶が学校についてくる。
私が一番苦しいと感じている場所。原因のあるところ。私が一番、弱くなってしまうところ。見られてしまう、恐怖が沸き上がる。
そんな私の一面を見て、彼女に幻滅でもされたらどうしよう。
暫し悩んだが、首を横に振る。そんなことは無いはずだ。だって、彼女には散々弱いところを見せたのだから、今更心配するようなことは無いはずだ。
けれど、胸がきゅっと締め付けられたような気分がして、目頭が熱くなったような感覚がする。まるで気持ち悪い泥沼へ沈められたように息苦しい。希望の光など届かないような、そんな暗闇にどんどんと己が沈んでいく。いつだって、通学の時間を迎えるたびに私は溺れて、助かることは無い。
「……学校休む?」
彼女の言葉を聞いて、ハッと意識を引っ張り上げられた。酸素が深く入り込んできて、体中に心地よい空気が染み渡っていくようだった。泥沼から助けられた。
「大丈夫」
「そっか」
小さく深呼吸をしてから、一歩を踏み出す。
学校が近づくにつれて、いつだって足が重くなっていく。一歩踏み出すたびに、泥沼に足を踏み込んで、そのまま吸い込まれそうになる感覚。肩にも重いものでも乗せているんじゃないかと思わせるほど、段々と背が丸くなる。
例え怖いものから逃げようと学校を休んだとしても、休んだ分の授業は変わらずに進んでいく。知らないものが増えるのは恐ろしい。
だから私は意地でも学校に向かっていた。泥沼に沈んで今にも潰れてしまいそうになりながらも、学校へ向かうのだ。
「背筋伸ばす!」
バシッと背中をたたかれた。「いてっ」と声をこぼすと、周り居た数名の生徒がこちらを見た。足首をくるくる回して、挫いてしまって思わず声がこぼれてしまったんですよ、とアピールをして、最後に小さく咳をして誤魔化す。
「ビックリした」
「あまりに見ていられなくて」
誰にも聞こえない程度の小声で言えば、彼女の返答に少しだけ眉間に皺が寄った。どうやら彼女の美意識に反してしまったようだ。彼女にはそういったこだわりとか、身への思いが強いんだなと感心した。
けれど、彼女のおかげで体の中に再度空気が入ってきた。それがどれだけ助かったかは、ちょっと痛かったので教えないでおく。
両親のように彼女を可視できる人は居ないようで、私の後ろをふわふわ浮きながらついてくる彼女を見ても誰も驚かないし、目も向けない。
学校にたどり着いて玄関にある己の下駄箱を開ければ、上履きの上に折りたたまれた紙が置いてあった。小さく息を吐いて開いてみれば、思った通りの内容。私への罵詈雑言ばかりが書かれたこの紙は、最早呪物と言っても過言でもないだろう。再度背が曲がりそうだったけれど、さっき痛みを思い出して慌てて元の姿勢に戻す。
「……その紙貰って良い?」
「え? ヤダ」
「ヤダがヤダ」
自分への悪評や暴言が書かれている紙を、誰かに見られて、更に貰われるなんて嫌に決まっている。だが、天使である彼女には関係ないらしい。星叶は私の手からその呪物をかっさらった。
「あ、」
「どうせ要らないでしょ。捨てとくよ」
それだけ言って、彼女は自身のポケットに乱暴に押し込んだ。グシャッと言ったから、随分な扱いを受けたみたいだ。私に見えないようにしてから、教室に行けと指をさして促す。
「でも、靴に直接書いたりはしないんだ」
「……先生の目に入るとマズいでしょ」
「ああ、成程? エリート校は大変そうで」
少し小馬鹿にした言いようだったな。だけれど、彼女の意見には私も同意してしまう。
先生の目に入ると何故マズいのか。それは彼女が言った通りに、この学校がエリート校と呼ばれていることに関連してくる。
私が暴言の書かれた靴を履いていたら先生はどうする? この学校にいじめがあると発覚し、そして犯人探しをするだろう。いじめの隠蔽などをする学校もあるだろうが、我が校は頭の良い生徒が数多く在籍している場所だ。それは親も同じようなもの。汚い靴を履いて学校内を歩けば、それは全校生徒にいじめられていると公表しているもの。その噂はすぐに広まるだろう。それなのに学校が協力をせず、いじめの隠蔽など行ったら、学校の評判はがた落ち。だったら、いじめの主犯を見つけ事件を解決させた方が学校としても楽な道なのだろう。だからなのか、この学校の先生はいつも鋭い目をしている。あくまでも、この学校の場合の話だが。
もし履かなくてもスリッパを借りたら? そうした場合は、それはそれで「何か理由があるのでは?」と探ってくるだろう。
そうした先生の動きを、いじめの主犯たちは望まない。だからこそ、こうした手を使ってくるわけだ。
彼女を連れて教室に向かう。扉越しでも、室内が盛り上がっているのが聞こえた。小さく呼吸をして扉を開ける。すると、賑やかだった教室が一瞬、時が止まったように静かになった。
教室に足を踏み入れると、少しずつ声が戻ってくる。
「今日も真面目だねー」
馬鹿にしたような、少しの煽りを込めた声が私に向けられた気がした。自意識過剰ではなく、確実に己に向けられた言葉なのだと分かってしまうのが嫌だ。気のせいだったらよかったのに、と願ったのは最初のころだけ。今ではもう諦めてしまった。
席に向かう途中で誰かの机にぶつかった。慌てて謝ろうとするが、「うわ、最悪ー!」という声と共に、ぶつかったところを手で拭い、誰かに擦り付けた。「止めろよ~!」なんて言いながら蛍菌を押し付けあっている。
子供かよ。ていうか、今の子供ですらやっているのかな、これ。
そう思っているのに、そうだと分かっているはずなのに、悔しくて悲しくて虚しくなる。
自分の席につけば、思わず目を丸くした。
「先生に見つかると大変だったのでは?」
「……まあこういうこともあるんでしょ」
机には油性ペンを使われたであろう、私への悪口と暴言が書かれていた。私の机が他者より暗い色だから、少し遠くから見れば見えにくくて分かりにくいけれど。
ぐ、と唇をかみしめる。どこからか、いや、クラス中からクスクスと笑い声が響いてくるようだった。
本当に、本当に、どうして、なんで私がこんな目に? 私が君たちに何をした? 悪いことでもした? 非道なことでもした?
鞄からウェットティッシュを取り出して、机上を必死に拭う。
ここで泣いてみろ。それこそ相手の思うつぼだ。私が泣いて、辛そうな表情を見たがっているのだ。そんなの、絶対に見せたくない。泣いてやるか、弱みを見せてやるものか。
強く自分に言い聞かせて机を拭っても、私の心を突き刺す言葉は消えにくい。
「……鞄の中、見てみ」
天使の言葉がスッと頭に入ってきて、彼女の言葉に従うように、しゃがみこんで鞄の中を漁ってみる。すると、見慣れないものが入っている。屈んでその見慣れないものを鞄の中で握って眺めていると、彼女が向き合うように屈んで口元に手を添えてこっそりと口にした。
「クレンジングオイル、まあ化粧落としってこうした油分の汚れに良いのよ」
誰にも見られていないのだから、星叶はこそこそ話さなくても良いのにな。ていうか、いつの間に鞄の中に仕込んだんだか。
一緒に入っていたコットンに染み込ませて、机の汚れを擦る。少しずつ暴言が消えていくのは、何だか気分がよかった。
「同じ性質だからね、落ちやすいの。擦りすぎると色落ちするかもだから気を付けて」
「うん」
「不安になってきたら消しゴムでこすってもいいよ。机つるつるだし摩擦熱で消えるかも」
ごしごしと擦っていく。綺麗になっていく机を見て、思わず笑みがこぼれた。
「おばあちゃんの知恵袋みたい」
「はー? 知識ですー」
「そうだよね、ごめんごめん。……ありがとう」
一人だったらどうしたら良いか分からず、ただひたすらに雑巾などで拭いて、先生が来るまでに間に合わなくて、必死に一日中必死に隠していたのだろうなと想像できた。だから、「大丈夫だ」と、星叶に言葉では言われていないけれど、そんな思いが伝わってくることが、どれだけ嬉しくて助かったか。
想像よりも早く暴言は消え去ってくれて、星叶のいる方へ顔を向けて、再度礼を述べながら笑みを浮かべた。
生徒が学校内で行動する場所は案外限られてくる。何故か、と問われれば〝使用時以外は鍵がかかっている教室ばかりだから〟である。特別室、特に危険な薬品や器具のある化学室や調理室は勿論だが、美術室や家庭科室など、実技科目で使うような教室は高確率で鍵が閉まっている。屋上も絶対禁止で、バリケードのように扉の前は封鎖され、誰かが学校で一番高い場所に立っているのを見たことも無い。特別な理由がない限り、学外に出るのもダメ。
そうなると昼休みという自由時間、昼食をとる場所はどこか、となると皆は大体同じ場所にいる。
各自教室や中庭、体育館や渡り廊下等、定番なところに人は集まる。因みに我が校は学食が存在しない。地元の他校に、ある所はある、とも聞いたので、少し羨ましいなと最初は感じたものだ。まあ、それは高校生活の途中で考えるのをやめたが。
私の休み時間で過ごすのは、先程述べた特別教室が多く設置されている棟の、三~四階にかけての踊り場。この階段の一番下まで下りれば音楽室があり、色々な楽器の音が聞こえるので吹奏楽部員が練習しているようだが、この階にかけては利用したり用事がある人も居ないのか、ここで過ごすようになって二年近く、一度も人と出会ったことは無い。
なので、他人から姿の見えない人物と会話をしながら食事をするには、もってこいの場所なのである。
「今日一緒に行動してて分かったけど、本当に陰湿なのばかりなんだね」
お母さんお手製のお弁当に入っていた、卵焼きを口に運ぼうとしていた時だった。星叶が私の数段後ろで腰かけながら言うものだから、卵焼きをゆっくりと弁当箱に戻して、彼女の顔を見るために首を後ろに向けて捻る。
「そう思う?」
「思う」
即答だ。彼女は少し呆れながら、膝に肘を置いて頬杖をつく。
「特別目につく物。制服や靴には手を出さないけど、先生が目にしないノートや私物はぐちゃぐちゃにするか捨てられる」
「うん……」
他校では提出する機会も多いかもしれないが、我が校はノートなどの類を提出することは無い。中学生時代には、提出する機会は多々あったが。
この学校は勉強でも何でも自主性を推奨している。勉強を望んで入学する人が大多数だからだ。だから、宿題というものもあまり存在しない。個人で使うものを先生が目にする機会は、滅多に無い。
「嫌に賢い奴ばかりだから中々ボロを出さないし、先生などの目のつかない、耳の届かない場所での暴言は多い。アンタの性格を見越してる」
その通りだ。私が他人に弱いところを見せたがらない、意地になりやすい、その割には弱気な性格を相手は知っている。一番私にとって辛いと感じるものを理解している。
私だって最初は一人で立ち向かおうとした。
けれど、やった人間は絶対に認めない。
周りの人間も、チクったら次は自分がやられると分かっているから、全員が口を噤むか同調してくる。
「そう、だね。私がこんなだから」
ポツリと呟いた私の言葉を聞いて、後ろから「はあ?」と大きく響くような素っ頓狂な声がして、小さく肩が跳ねる。
「何? もしかして自分のせいだと思ってんの?」
「え、まあ。星叶の言う通り、こんな性格だし……」
私が慌てて口にすれば、彼女は額に手を添えて首を横に振りながら、呆れたように深いため息を吐く。
そしてすぐに階段をドスドスと――彼女は生身ではないので音はしないが、生身の人間だったらそう音が響くだろうと思った――力強く足を踏み下ろして降りてきた。
しゃがみこんでいる私の視線と合う場所まで降りると、彼女は腰に手を添えて腰を曲げ、ズイッと顔を寄せてきた。唐突な迫力のある行為に、思わず体が仰け反る。
「確かにアンタは大人しいし、そのくせ弱みを見られたくないからプライドが高くて、人に頼るのが下手くそな奴だけど!」
ボロクソに言うじゃん。グサグサ、と言葉の矢が体中に刺さった気がする。
「あいつらは無理やりくだらない理由をこじつけて、アンタをいじめて私欲を満たしたいだけ。いじめている奴が、完全に悪いの!」
心の中で体中に刺さっている矢を引き抜いている気分でいると、彼女はきっぱりと鋭く強い語気で言い放つ。その力強さと言葉の内容に目を瞬かせ、ずっと欲しかったはずの言葉をもらったはずなのに、簡単に自分は受け入れてくれない。心の中の私が自信を無くしているのか、それでも、と首を下げた。
「でも」
「でもじゃない! 何があっても暴力は暴力で、犯罪は犯罪に括られるでしょ?」
彼女の正論に、自動的に首を縦に振る。
「それと同じ。先に手を出した、実行した奴が負け。ただの馬鹿。そんな相手に対して、自分を卑下する必要なんてこれっぽっちも無い!」
腕を組んで胸を張りながら一括する彼女の声は、怒りの感情が表に大きく出ているようだったが、彼女の隠せない優しさと慈悲が籠っていた。
今までの自分だったら委縮していたかもしれない迫力だったが、私の胸が内側からじんわりと熱を持った気がした。そのまま熱は込み上がってきて、目頭が熱くなって涙が出そうになった。
「そう、なのかなあ」
「そう。だからアンタはアンタの味方、居場所を作るべきだって話になる訳」
声のボリュームは下がって、今度は私の横に並ぶように腰かけてきた。成程ね、そこで彼女に提案された話に戻る訳ね。
「でも、急に言われてもどうすれば」
味方と居場所の大切さは、彼女の説教によって分かってきたつもりだが、だからといってすぐに作れるわけではない。そもそも、作れていたらこんな思いもしていないし目にも遭っていない。特に私のような人間は。
目を泳がせて困っていると、星叶はそのまま、ふふんと自信満々な表情で提案する。
「私に案がある!」
*
学校に着くタイミングは、遅刻はせずに独りになる隙をあまり与えない時間を計算している。逆に下校時は、先生に用事を頼まれない限り、即座に教室から出て、誰とも会話もせずに早足で学校を去る。予備校に行くのは、学校から直接向かう。たどり着いたら、授業開始の時間までは、早めに席を確保しておいて、学校の予習復習を済ませておく。
だから、本日もその予定で行くのだと決めていたし、思っていったのだが。
「こんなギリギリの時間に着いたら、絶対に席なんてない……」
肩に重いものでも背負っているのか――実際に参考書などが入っているので、間違いではないが――と言わんばかりに背中が丸まっていく、がまた星叶に背中を叩かれそうなので慌てて背筋を伸ばした。
星叶の言う案とは、授業開始ギリギリの時間をめがけて予備校に向かうというものだった。全く意図が読めなかったが、彼女の言う通りに、私は学校の図書館で時間をつぶしたり、それでも時間が余ったので星叶が行きたいという場所に連れていかれたり、本屋で歩き回り結局は数冊を買い込んでしまった。
結果、彼女の計算通りに、授業の開始時刻の十分前に到着という形になってしまった。
背筋は曲げなかったが、深いため息を吐いた。
「良いから良いから! 急いで教室に向かいな!」
「誰のせいだと」
星叶が走るポーズをとるので、私は心を急かしながら予備校のある建屋に駆け込んだ。
自分の教室を目指して早歩き気味の小走りをしたせいか、いつもより大きな音を立てて教室に飛び込んでしまった。教室の中は、思った通りに生徒であふれている。大きな音がしたからか、教室の数名にこちらへ目を向けられて、思わず声と息を詰まらせた。
慌てて周りを見渡すも、案の定、いつも私が座っている席は先客が居た。深いため息を吐いて顔を手で覆い、指の隙間から思わず星叶を睨みつけてしまった。
自由席、と言われても、人間とは自然と己の縄張りを主張する生き物だ。それは私にも含まれている話であり、寧ろ私は縄張りを主張している側の人間だった。
いつも誰かが座っているな、と周りが思い込めば、自然とその席を人は避けて別の場所を選ぶ。それを繰り返していけば、自然と自由席だったはずなのに固定席となっていく。そうした〝暗黙のルール〟のようなものが、この予備校にも存在していた。
だが、今日はいつもいるはずの私が居ない、というのもあったのだろう。私の席を腰かけているのは、最近入ったばかりだと思われる学生が腰かけていた。教室は半分人間が固定気味になっていたので、記憶に薄いがそう確信した。
きっと、暗黙のルールのようなものを知らないし、周りも別に席が決まっているわけではないから声もかけなかったのだろう。
仕方がない。誰も悪くない。まあ原因を無理やりにでも作ろうと思えば、作れるのだが。隣にいる星叶へじとりとした目を向けてしまった。
けれど、そんな目を向けられているはずの彼女は、私の視線など気にせずに教室内を見渡している。そしてとある場所に視線を固定した。彼女につられて向けた先には、三人掛けの席に一人で座っている女の子の姿だ。空いている椅子に鞄も置いていないから、席の予約もされていない。
「あの席にしなよ」
星叶は笑みを込めながらその席を指さす。
他にも空いている席はあるが、同年代の女性の方が少し気は楽だろう。学校の女子が怖くて多少の不安はあるが、異性と関わるよりは緊張はしない、はずだ。
小さく頷いてから、その席に向けて足を進める。近づいてみると、左端に腰かけている彼女の隣の椅子、真ん中には荷物は置いてあるが、一番右の席には何も置かれていない。
私が近づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。黒髪でボブヘアーだがふわふわな髪質なのか、まるでパーマをかけた様なくるくる加減が可愛らしい。くりっとした丸く大きな瞳に、鏡のように私が映っているような気がして、少し腰が引けてしまう。
そんな私を星叶は許してくれるはずもなく、半歩下がりそうな私を、背中を叩いて活を入れてきた。結局背中を叩かれる羽目になってしまった。
「えっと、この席って空いてます……?」
右側の席に当たる机を指先でトンと叩きながら問えば、彼女は私の顔を見て少し意表をつかれたような表情をしてから、すぐに意識を戻すようなそぶりをして首を何度も縦に振った。
「空いてます! どうぞ!」
声が少し大きくて今度は私が驚く番だった。驚いたことで少し仰け反ってしまったが、慌てて礼を述べてからゆっくりと席に腰かける。
予備校の授業で使うテキストやノート、筆記用具類を鞄から取り出している最中、隣からずっと視線を感じていた。
何故見られている? 何かおかしな点でもあっただろうか。それとも、ギリギリに駆け込んできた私を睨んでいる?
分からない。だからこそ、どうしたのかと声をかけるのは恐ろしい。
「あの……」
一人で悶々と考え込んでいたら、左から声をかけられた。この場で左から声をかけられるのは、彼女しかいない。少しだけ弱々しい彼女の声を聞いて、怒っているわけではないのだと瞬時に判断した私は、少しだけゆっくりとした動作でそちらに顔を向けた。
「どうか、しました?」
「えっと、その、頼みごとがあって……」
怖がりで人に接することに恐ろしさを感じている私だから、声は少しだけ震えていたし、彼女に負けずに弱々しいもので恥ずかしくなった。けれど、彼女は目線を少し泳がせながら、両手の指先を合わせて指遊びをするようにしながら、私に頼みごとをしてきた。
不安、心配なときにする動作なのだろうとすぐに察した。首を傾げてから頷いて、何かと問えば、今度は真っすぐに私の顔を見て、内容を口にする。
「テキストを、忘れてしまったので……一緒に見せてもらっても大丈夫ですか?」
彼女の願い事に、思わず数回の瞬き。ちらりと机上に目を向ければ、彼女の言う通りにテキストだけが置かれていない状態だ。
これは確かに、頼みごとをするのは勇気がいるだろう。この予備校に通っているということは、全員がどこかの有名大学などに進学希望する人達ばかりだ。己の勉強に集中したい人ばかり、だと思う。実際に私も集中できるからという理由も含めて、この予備校を選んだわけだし。そんな相手に、テキストを見せてほしいと頼むのは、私でも、いや私だからこそもっと勇気がいる。
隣に誰も来ないから、見せてもらえる人も現れないし、大層慌てただろうし、不安も大きかっただろう。
「大丈夫だよ」
頷いてから、テキストを彼女からも私からも見える位置に置けば、少し伏せ気味だった彼女の顔が弾けるように上がって、驚いたような表情をしてから、すぐに安堵したような満面の笑みを見せてくる。
「ありがとう!」
彼女は自身の鞄をさっきまで自分が座っていた位置に動かして、私の隣の席に移動してきた。確かに見るにはこっちの方が不便はないけれど、急に隣に人がやってきたから少し驚いてしまった。
驚いている私を見て、今度は人当たりのよさそうな笑みを彼女は浮かべた。
「えへへ、本当にありがとう。めちゃくちゃ焦ってたから本当に助かった」
両手で口元を挟むようにして、その指の隙間から「ふふふ」と笑みがこぼれ出てきた。コミュニケーション能力の高い子だ。
少しだけ呆けていると、彼女は口元から手を外して、今度は自身を指で示した。
「私、水月暁音。今日はよろしくね」
自己紹介をされたのなら、こちらが無視をするわけにもいかない。
「私は火燈蛍」
胸元に少し手を添えて名乗れば、彼女は少し驚いたような表情をする。どうしたのかと問えば、すぐに笑顔で何でもないと首を横に振るのだけれど。
疑問を抱えていれば、講師が入ってきた。私達は慌てて体の向きを教卓と向き合うように正面を向いて、姿勢を正した。
予備校の授業はそつなく行われた。テキストを一緒に見ていた水月さんも、私も、両者共に問題なく終わることが出来て良かった。
この後はいつも通り、自習室で本日の授業の復習や予習など色々な勉強をして帰る予定……なのだけれど。なぜだろう。隣から凄い視線を感じる。鞄に道具をしまっている私を、ずっと見ている。
もしかして、テキストが見えにくかったとか、勉強中の私の態度が酷かったとか、そういった文句だろうか。
少しだけ冷や汗を流していると、「ねえ」と隣から声をかけられて、驚いて肩を跳ねらせつつ、彼女の方顔を向ける。怒った表情を向けられると思ったが、その顔は少しだけ緊張でもしているのか強張っているようにも見えた。予想外の表情に思わず瞬く。
「今日は本当にありがとう」
「え? いや、全然大丈夫だよ」
「ううん。最初本当にどうしようかと思っていたから、気持ち的にも助かったんだ」
にこにこと笑みを浮かべながら言うもので、同年代の子にここまで感謝も笑顔も向けられるのも久しぶりで、嬉しいながらも照れてしまう。ここまで感謝されるとは思っていなかったから。
「それでね、火燈さんにお礼がしたいなって思って」
「そ、そこまで大げさにしなくても大丈夫だよ?」
慌てて両手を振っていると、彼女は少しだけ視線を泳がせてから、己の心の中で考えて、それを話すことに決めたらしい。一瞬で真っすぐと私を見て、口を開く。
「えっと、正直にいうと火燈さんと友達になりたいとずっと思っていたの」
彼女の言葉に、一瞬思考が放棄されてしまったが、すぐに変な声が出てしまった。
「へ?」
「テストの順位でいつもトップ争いしてて、すごい勉強熱心な姿を見ていたから。いつか話してみたいなと思っていたの。だから、今日、隣に来てくれた時、今日しかないって思った」
自身の両手を握りながら、少しは緊張をしているらしいが、真っ直ぐと私の目を見続けている。それだけ本気なのだろうと自然と察せられた。
けれど、友達か。ここ数年で縁の無くなってしまった甘い単語に、心が揺れる。
友達になってほしいと言ってもらえるのは嬉しい。勉強している私を否定しないでくれる彼女を、素敵な人だと簡単に感動してしまう。それと同時に、本当に彼女を信じて良いのかという、寂しくも最低な考えも浮かんでしまう。
少し戸惑っていると、目の前の彼女の眉が下がっていく。
「やっぱり、急だったし、なんか都合のいいような言葉になっちゃったし、迷惑だったかな」
眉を下げながら苦笑いを浮かべて。そんな顔をさせたいわけではなかったから、私の中に残っていた良心がツキリと痛んだ。
それと同時に、ずっと見守っていたらしい星叶が口を開いた。
「思いを受け取るだけ受け取ってみれば?」
他人には見えない彼女を見るために、振り向いて後ろを見るのは不自然だ。振り返ることはできない。私の両肩に、彼女の両手が、ぱらぱらとピアノを弾くように流しながら乗せてきた。
元々、こうした状況を作ったのは後ろに居る彼女だ。わざと一人で座らせないようにして、自分から他人に声をかけて、相席をさせるようにしてきた。
「居心地がいいと思えば関係を続ければいい。悪いと思ったらそっと距離を取ればいい。付き合う人間を選べるほど、人という存在は沢山いる」
耳元で囁くように紡がれた言葉。もし我々の姿を他人が見えるとしたら、悪魔にそそのかされている人間のようにも見えるかもしれない。
だが、囁いてくる彼女は悪魔ではなく天使。星叶の言葉は、そっと背中を押してくれる風のようにも思えた。あくまで彼女は私に判断をゆだねさせる。きっかけは作るが、結果は私が作り出さないといけない。そこがきっと、天使と悪魔の違いなのかもしれない。
こっそりと手を握って、目の前の彼女に向かって、ゆっくりと笑みを浮かべた。
相手の言う迷惑という言葉を否定しながら、首を横に振って口を開く。
「ううん、嬉しいよ。少し戸惑っちゃったんだ。よろしくね」
私の言葉を聞いた彼女は心底嬉しそうな表情を浮かべて、礼を述べてきた。礼を言うべきは誘われた私の方なのにな、なんて少しだけ苦笑いになってしまった。
水月さんに一緒に帰ろうと誘われたので、頷いて肩を並べ予備校から出た。
外を走る車のライトに、思わず目を眇める。予備校を随分久しぶりに早く出る。いつもだったら車の通りも少ないのに、今日はまだ車が多く走っている。よく考えてみると、いつも危ない時間に外を一人で歩いていたんだなと気付いた。
隣を歩いている水月さんは色々な話題を口に出してくれるので、私達の間に気まずい空気が流れることは無かった。きっと、彼女は学校でも人気者なのだろうな、と考えると少し胸が痛んで、自分のクラスメイトが脳裏に過ったが何とか影を振り払った。
「あ、うちはここだよ」
もう別れるのか、と少し寂しい気持ちが沸き出てきて自分でも驚いた。動揺してしまったのは、他人にもバレやすいだろう。必死に誤魔化そうと思ったが、そんな心配はなさそうだ。
彼女はとある建屋を指で示していた。どこか北欧風をイメージさせる、可愛らしい外観の一軒家。一階が白で、二階より上が淡いブルーのツートンで、三角屋根を合わせてシャープでおしゃれな印象にさせる。小さな人形のハウスと言われても疑問は持たなそうだ。
よく見ると、外に折り畳み式の黒板ボードが置かれて、外壁に可愛らしい装飾がされている。ボードは『本日の日替わりメニュー』と『アルバイト募集中』の二つが置かれている。
「もしかして、カフェ?」
「うん。お姉ちゃんがやってるんだ」
壁にはおしゃれな文体で『café 寄り道』と書かれてあった。彼女曰く、一階がお店で、二階より上が住居のようだ。もしかして、彼女は両親と共にではなく、姉と一緒に暮らしているのだろうか。
疑問を口にする暇もなく、水月さんが扉を開いた。
――ちりん。扉を引っ張れば、来客を知らせる高く澄んだ鈴の音が聞こえた。
「お姉ちゃんただいま」
カフェのはずだけれど、ただいまと挨拶をするのがどうも不思議な感覚がして、瞬きを数回しつつ、彼女の数歩後ろで待っていた。
「あら、暁音おかえり」
挨拶に返事をしたのは、多分お姉さんだろう。水月さんの肩越しに見えた容姿は、柔らかそうな茶色の髪を一つにまとめられ、優しそうな笑みを浮かべていた。
カフェ独特の珈琲や紅茶などの合わさった、香ばしくもとろりとした眠気を感じる。そんな空気とお姉さんはよく合っていた。
店長であるお姉さんは、隠れていたにもかわらず私に気が付いて、少し驚いてから笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
「お姉ちゃん。この子、同じ予備校に通っている火燈蛍ちゃん」
「友達?」
「そう!」
満面の笑みで言うものだから、思わず面食らってしまった。確かに友達になってほしいと言われ、私もそれに賛同したけれど、ここまで堂々と言われると聊か照れてしまう。
お姉さんは嬉しそうに、妹と似た笑みを浮かべる。
「そうなの。じゃあ蛍ちゃん、暁音と仲良くしてくれると嬉しいわ」
「あ! お姉ちゃんだけ名前呼び! ずるいよ、私も蛍ちゃんって呼んでも良い?」
また、だ。キラキラとした、期待に満ちた、眩しい瞳で見られる。何だかむず痒いと思いつつ、決して不快ではないので頷いた。寧ろ、喜びに心をくすぐられているくらいだ。
「やった! じゃあ私のことも名前で呼んでよ」
「え、えっと……じゃあ暁音、さん?」
「んー、及第点」
少しだけ口をとがらせてからも、彼女は笑みを浮かべた。さん付け呼びはまだ少し距離を感じるのかもしれないが、私からすれば下の名前で呼ぶこと自体、少し難易度が高いのだ。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
それと同時に、どうして星叶にはすぐに名を呼べたのだろう、という疑問も浮かぶ。
「じゃあお姉ちゃん。私達ここで勉強してるね」
水月……いや、暁音さんの言葉に驚いて小さく声をこぼす。そんな私の様子に気付いて、彼女は人当たりの良い笑みを浮かべた。
「蛍ちゃんっていつも予備校で勉強しているんでしょ? その時間を奪っちゃうのは申し訳ないから。ここで一緒に勉強してってよ」
良いのだろうか。そんな思いで目を泳がせて、まともな言葉が出てこなくて。えっと、とか、その、とか弱気な言葉がこぼれたけれど目の前の姉妹は大して気にしていないようだ。
「逆にここで集中削がれないかしら?」
「そんなことないです! むしろ、心地いいですし……集中もできそうですし」
まだ入店して数分しか経っていないのに、このお店のことなど詳しくないのに、ぽつぽつと言葉が自然と出てくる。そんな私を見て、二人は嬉しそうに安堵の表情を見せるのだけれど。
「じゃあ飲み物でもどう?」
「私はオレンジジュース! 蛍ちゃんは?」
えっと、と言葉を詰まらせつつ、アイスコーヒーを頼もうと思えば、星叶が耳元で少しドスの聞かせた低い声で囁く。
「珈琲なんて飲むなよ。眠れなくなるよ」
脅しのような囁きだった。私の思考がまるわかりだったようだ。今は横に居る彼女から、親から隠し事をする幼い子供のように視線をそらして冷や汗を流して、新しい友人と同じオレンジジュースを頼むことにした。
「えっと、躓いちゃったのはここなんだけど……」
「ここはね、少し公式を組み合わせるんだよね」
暁音さんが予備校で分からなかったという場所は、運良く自分では理解していた数学の解き方だった。公式の名を口にすれば、彼女はすぐに解き方を思い出したようだ。カリカリとシャーペンを動かし、「こう?」と問われ、確認してみれば何も問題はないようなのでこくりと頷けば、彼女はパッと顔を明るくした。
「本当にありがとう! 助かった~」
「先生早口だもんね」
「そうだよね! 少しでも疑問を持った瞬間、もう置いていかれているの」
はあ、と深いため息を吐きながら、彼女はテーブルの上で腕を組んで、腕の上に顔を突っ伏した。彼女の行為に少しだけ動揺してしまった。なんて声をかければいいのだろうとか、どう接するのが正解なのか。人と接し慣れていないせいでコミュケーション不足だ。泣きたくなってきた。
「えっと、暁音さんって、どこの学校通ってるの?」
「私? 東だよ。ああ、私服だから分かりにくいよね」
ここら辺では唯一の私服校。偏差値も高いが、部活も盛んだと言われていたはずだ。何個かの部活はインターハイに出場と、地元の新聞にも載っていた。
「蛍ちゃんは穂坂だよね。セーラーだからすぐに分かった」
「ここら辺、セーラーはうちだけだからね」
「それに地元で一番の進学校だし」
地元で一番の進学校、という言葉に思わず苦笑いだ。そんな私の姿を見て、彼女は少しだけ首を傾げるけれど。地元で一番頭が良い、と言われているのが、在学している県立穂坂高校で、有名大学への進学者数は中々の物。というのがウリなのだそうだ。先輩たちの実績のおかげで、自称進学校にならないのが救いである。
学生という身の自分が、大金をポンッと用意できるわけではない。大人でも簡単ではないのは分かっているつもりだけれど。だから、私は親に迷惑をかけないように、公立でなるべくお金のかからない、それでいて将来有望とも思われるように、自ら穂坂高校を選んだ。目標があるだとか、夢があるだとか、何か理由を述べれば、優しい両親はどこを選んでも了承してくれるかもしれないが。
だけど、そんな優秀な頭脳が集まるはずの学校で、私はひどく馬鹿な行為を受けている。己で馬鹿だと分かっているのに、その行為が苦痛だと感じているのだから、人間とは本当に面倒な生き物だ。
「蛍ちゃんどうかした?」
「何でもないよ」
少し考え事をしていたのだと、心配をかけないように頑張って笑みを浮かべるけれど、鏡を見ないでも分かる。きっと、自分は不格好な笑みを浮かべていたのだろう。暁音さんは少し疑問を持ったようで、首を傾げながら口を開こうとする。
その瞬間が、ひどく恐ろしいと感じた。小さく息を飲んで、心臓が大きく飛び跳ねる。己の苦衷を見られるのが怖い。他人に弱い自分を見せるのは恐ろしい。
どうしよう。そんな思いが頭の中で埋め尽くされそうになった時。
「はい、ケーキだよ」
ことり、と小さく音を立てながらテーブルの空いているスペースに、ケーキの乗ったお皿が置かれた。声をかけられたことと、突然視界にケーキが飛び込んできたことにびっくりしていると、一人の男性が優しい笑みでこちらを見ていた。
誰か、と思ったけれど暁音さんが親し気にお礼を述べて、彼も会話を続けていたので、きっとバイトの人だと考えが行きついた。ぺこりと頭を下げたけれど、どうしてケーキ?
「店長から頼まれたんだ。是非食べてほしいって」
「え?」
「ほら、勉強には甘いものが良いからね」
にこにことお兄さんは笑みを浮かべる。その考えには納得するのだけれど、突然現れた優しく甘いにおいを届けてくれるケーキに戸惑っているのだ。だって、私は注文もしていないし。
「蛍ちゃん食べてみて! お姉ちゃんケーキを作るのも上手だから」
「で、でも……」
「あ、お金は気にしないで!」
いや、気にするんだよなあ。これが誰かの家で出されるおやつだったら、ここまで悩んだりもしないし、折角の好意だからありがたく頂くのだろうけれど、ここはお店だ。自店だから自宅でもある、と言われてしまえばお終いなのだけれど。
戸惑っていると、バイトのお兄さんが私の様子を見てくすりと笑う。
「真面目な子だね」
「そうでなきゃ、こんなに真剣に教えてくれないよ」
「それは確かに」
お兄さんと暁音さんが話をしている中、私はテーブルに置かれたケーキに目を奪われていた。ケーキなんて、どれくらいぶりだろう。誕生日とか、クリスマスとか、特別な日に食べるイメージしかない。こうして外でケーキを食べた記憶が、遠い昔のようだ。
「店長が、暁音ちゃんと友達になってくれたお礼なんだって。是非貰ってあげてよ」
お兄さんの声色や目から嘘は感じられない。ちらりと横目でお姉さんを盗み見れば、他のお客さんに注文されている品でも調理しているのか、フライパンを手際よく振るっている。
よく見えるオープンキッチンに居るお姉さんをずっと見ていれば、視線を感じたのかもしれない。彼女と目が合った。すると嬉しそうな笑みを見せてくれた。その表情は、どこか見覚えがある。そう、私が幼い頃に、自宅に友達を招いた時に迎え入れたお母さんが浮かべた、嬉しそうな表情と似ている。
自分でも分かる程に顔を赤くして、礼を述べるために頭を下げた。
「じゃあ……いただきます」
手を合わせて礼を述べてから、ケーキにフォークを突き刺した。シフォンケーキにメレンゲ状のクリームがかけられ、トッピングとして可愛らしい果実。ケーキにクリームをつけて口に運ぶと、ふわふわな生地に、さっぱりとした甘みが広がるしっとりとした舌触りのクリームがじわじわと広がって、とても美味しい。自分の目が輝いたのがハッキリとわかる。
「とっても美味しい」
「でしょ?」
「これは毎日食べたいなあ」
半分冗談だが、それでもこんなにおいしいものを毎日幸せだろうと、もう半分は本気で口にすれば、目の前の暁音さんの目が今まで以上に輝いた。
「じゃあ! これからも帰りに寄ってよ!」
「え? でも迷惑じゃ……」
「大丈夫だよ。この時間の常連さんは私が居るのに慣れてるし」
彼女が腰を捻りながら振り返れば、店内に居る何組かのお客さんがニコニコと笑みを浮かべながら頷いたり、こちらに手を振ったりしていた。
ほらね? と問い返されて、呆気に取られてしまう。このお店の居心地がいいのは、ここの空間に居る人間の心が温かいからなのだろう。
椅子の引く音に気を配ったり、咳をするのも我慢したり、物を落とさない様に余計なものを出さない様になど、ずっと気を張り詰めている予備校の自習室とは違う。確かに向こうは静かで、周りの人たちも集中しているから、負けられないなという気持ちも沸いて出るけれど、私は安らかな時間が流れるこの空間の方が居心地よく感じた。
ああ、これが星叶の言っていた居場所の様なところなのだろうか。
小さく笑みがこぼれてから、何度目かの礼を込めて頭を下げた。
「じゃあ、よろしくお願いします。あ、でもケーキ代などは払います……」
私の言葉を聞いて、暁音さんは少し驚きながらも、心底嬉しそうに笑みを浮かべて喜んでくれた。
「そういえば蛍ちゃんって大学はどこ志望なの?」
「え? えっと、穂坂……」
「穂坂なんだ。でも蛍ちゃんなら楽勝じゃない?」
少しだけニヤニヤとしながら彼女は言う。
高校と同じ名の大学を選んだのは、地元で唯一の国公立だからだ。国公立なだけあって偏差値も低くはない。折角大学進学を許されるなら、親に迷惑をかけない様にと、学費が少しでも下がるように、独断で決めた。
暁音さんの言葉に少し苦笑いを浮かべながら、オレンジジュースをストローですすった。果汁百パーセントらしく、甘酸っぱいさわやかな味わいが思考をリフレッシュさせてくれる。
「暁音さんは?」
「私? 私はね花影」
彼女が口にした大学名に思わず目を丸くする。花影といえば、ここからバスで少し時間がかかる場所にある、県内では一番偏差値の高い私立大学だ。優秀で有名な卒業生を多く送り出したこともあり、県外からも希望者が多くやってくる。
進路相談を担任や予備校の先生にした時に、他校のパンフレットを渡され、その中に花影大学が入っていたことも覚えている。
「その大学、かなり評判いいね」
私の隣に座り続けていた星叶が、彼女のスマホをいじりながら言う。画面を指でタップして、画面をスクロールでもしているのか、彼女の大きな瞳にスマホの光が流れるように反射する。
「学生に理解のある教員の方ばかりで、とても居心地が良いです。勉強する環境が整っています。他の大学では得られない知識がたくさん得られると思います。結構自由だしアンタ好みそうな場所だ」
彼女の言葉を耳に入れつつ、目の前の友人にも目を向ける。すると、どこか顔に少しだけ影を帯びている様にも見えた。
「どうして、その大学に?」
「うーん、法学部があるっていうのが一番かな」
驚いた。私の周りに、法学部を目指す人を聞いたことが無かったから。まあ、友達が居ないからという理由も含めてだけれど。それでも、花影の案内では、二年までは学習する学部をはっきりと決めないでも大丈夫だとあった。それでも、彼女ははっきりと明確な学科希望がある。
彼女にはハッキリとした目標が存在しているのだろう。大した考えも無く、人目を気にして、何がやりたいかもわかっていない私とは違う。
「法曹三者のどれかを目指しているの?」
「まあ、そうかな」
簡単なことじゃない。大学卒業の後に大学院などに通ったり、司法試験などを受けてその後数年の経験を得る必要だってある。合格率の低い狭き門をくぐらないといけない。それぞれ夢を叶えるための先が長い。それでも、彼女は真っすぐと未来を見ていた。
「どうしてそこまで?」
「……法律ってさ、人を守るためにも存在していると思うの」
「例えば?」
「……人権、とか?」
にこ、と笑みを浮かべた彼女を見て、自然と体に力がこもったのが分かる。真っすぐで力強い声や言葉に、心をわしづかみにされているような気がする。
そこまで彼女を奮い立たせるきっかけがあったのだろうか。そんな思いで彼女を見れば、すぐに私の考えなど察したらしい。笑みを崩さないまま、コップに入っているストローをくるくると回しながら語る。カラコロと氷の透き通った音が響くように思えた。
これ以上踏み込むのは、失礼だろう。小さく謝れば、気にしないでと、すぐにさっきまでの眩しい笑みに表情を変えた。
そっか、彼女が真っすぐに前を見ているように感じたのは、ハッキリとした目標があったから。
それじゃあ、私は?
「知識って、自分や大切な人を守る手段でもあると思うんだ」
彼女は優しくも真っ直ぐな声で言い放つ。
自分や大切な人を守る手段の一つ。ぽつり、と言葉を反復する。そうした考えは持ったことが無かった。いつだってただ身に着ければいいと思っていた。
「まあ、勉強は場所を選ばなくてもできると思うけど」
それは確かに。
社会人の知識は、社会人でしか得られない。けど、勉強に関しては、近年では場所や人を選ばなくなってきた。
「そうだね」
笑みを返したけれど、私の心は少しもやもやしているようにも思った。それは何が原因なのか分からない。今までの自分の考えに疑問を持ったのか。違和感を抱えたのか。
私は今まで、自分の声を素直に聞いていただろうか。
そんな疑問が脳裏から離れなくなった。
「今度、花影のオープンキャンパス、行ってみようかな」
ポツリと呟いた独り言なのに、目の前の彼女には聞こえたらしい。パアッと目を輝かせたのが分かった。