人々が早足に歩いていく。中には友人や知人と会話をし、その場に留まっているものもいるが、私を含めた多くの学生は夜遅い時間帯というのもあり、眩く光る建屋からさっさと去っていく。
 沢山の参考書の入った鞄は重く、肩にずしりと食い込んでくるようだった。両手でスクールバックの紐を握りしめ、軽くジャンプをするような加減で肩にかけなおす。
 本日もルーティンをこなし、後は家に帰るだけ。帰ったら家のルーティンもあるわけだけど。
 ふう、小さく息をこぼしながら、鞄の中から紙の束を出した。
 先日行った模試の結果と、問題用紙や先生からのメッセージなどが書き込まれたもの。紙の束となったそれを暗い夜道の中でも読めるのは、頼りない街灯と空にぽっかりと浮かぶ丸い月、無数の煌めく星があるからだ。
 夜の空は雲ひとつもなく晴れていて、それは絵画か夢の景色のように星が瞬いている。ただひたすらに美しい眺めだった。暦上では秋となる今は、星も必死に主張して輝いているのかもしれない。
 ふいに、少し冷たい風が吹いた。驚いて思わず目を閉じ、プリントを握っている手の力が抜けた。「あ、」と小さく声をこぼすと同時に、手に持っていたプリントが全て風に飛ばされて舞い上がってしまった。思わず眉間にシワを寄せて眺めていたけれど、すぐに己の表情が変わったのが分かる。
 舞い上がったプリントの向こうに、一つの廃ビルの側面が視野に入る。その廃ビルの屋上に当たるであろう位置から、ひらひらとプリントが舞いながら落ちるように見えたのは、なぜか季節外れの桜のように思えた。
「……綺麗」
 キラキラと輝く星空をバックに、桜の散り際のように思えたその景色に、小さな思いがこぼれた。
 もし、もし……あのビルから飛び降りたら?
 もしかしたら、私もこうしてキレイに散れるのかも。それなら、それは良い考えかもしれない。

「アンタ、今、何を考えた?」

 廃ビルの方を眺めて、ぼうっとしていたら、突然の第三者の声。プリントの桜はとっくに散り終わっていた。声のした方に目を向ければ、そこには私と同い年くらいの少女が居た。
 金と毛先がピンクのグラデーションの髪色で、緩く巻かれている髪型。少し緩められた襟元とネクタイ。短いスカートと靴下によって、生足の範囲が広い。
 そんな少女は脚を肩幅に広げ、腰に左右の手を添えて、こちらを真っ直ぐな鋭い瞳で射抜いていた。
「ギャルだ……」
 思わず口にした言葉に、目の前の少女はピクリと眉を動かし、鋭い目つきのままこちらに向かって歩いてくる。
 怒らせたのかもしれない。肩を縮こまらせて体も強ばらせていると、相手は私に何かを差し出してきた。それは、先程散らばったプリント類。それも全部ある。いつの間に集めたのか。数枚飛び散ったというのに。
 だが、彼女が拾ってくれたのは違いない。思ったより優しい人なの、かも?
「あ、ありがとう……」
「飛び降りるのには、あのビルは向いてないよ」
 受け取ろうと差し出した手が思わず止まる。伏せていた顔をゆっくりと上げれば、相手は変わらず真っすぐと私の目を見ていた。
 背筋が粟立つような、恐怖に近い感情で汗がドッと溢れた気がする。
「高さ、全然足りない。それにあの廃ビルの下は植え込みがあるからクッションにもなる。着ているコートもパラシュートのような効果をもたらす。落ちたとしても死なずに病院送り、寝たきりになる可能性の方が高い。そんなの不毛じゃない」
「は?!」
 廃ビルの方をあいている手で指さしてから、すぐに私の方へ指先を変える。表情は変えずに淡々と述べてくるものだから、脳内はずっと混乱している。
 何なのこの人。普通じゃない。
 彼女は渡そうとしていたプリントを持つ手を下げて、不機嫌そうに眉も下げて、呆れたような顔で私を見ていた。
「なに?」
「なに? ってこっちのセリフだよ、突然そんな!」
「普通の人は、ビルを眺めて飛び下りて散ろうとは思わない」
 どくん、と心臓が大きく跳ねた。そのままバクバクと激しく動く心臓を落ち着かせるように、心臓のある部位の服を握りしめる。
 まるで心を読まれたようだ。いや、口には出していないのだから、確実に心を読まれたんだ! だって、彼女の発した言葉は、私が心で思い描いていた空想と、彼女への偏見に対する反論だったのだから。
 得体の知れない恐怖に半歩後ろに下がると、少女は半歩前に出る。
「な、何なのアンタ」
「私? 私は金咲星叶……天使見習い、らしい」
 らしい、とは。曖昧な言葉と、天使と言った非現実的な単語に怪訝な目をしていれば、それを察したらしい彼女は手を差し伸べて、こう言った。
火燈(ひとぼし)(ほたる)。アンタを助けに来た」
 助けに来た、なんて安易に口にしてしまう人なんて信用できない。それも、私の名前まで知っていて、現段階で怪しいところしかない相手だ。
 そう、脳では分かっているはずなのに。目の前の彼女の背から、真っ白綺麗な翼が広がって見えた気がした。
 瞬きするとそれは一瞬で消えたけれど、それは確かに自分が求めていた救いだと身体が訴えていた。
 下がっていた脚を戻してから、更に一歩を踏み出して、ゆっくりと彼女の手を取った。そんな私を見て、彼女は初めて笑みを浮かべた。口角を少しだけ上げて、強気な表情だった。
 けれど、掴んだ手はまるで陶器のよう。熱など全く感じず、触るとふるりと身震いをしてしまう氷みたいに冷たかった。
 いつもより大きく感じる白い月が、ぽっかりと目の前に浮かんでいた。反映した街中から少し外れていく道を、星叶と名乗る少女と二人で歩いた。
 歩いた……と言っても、彼女は地面から浮いてまるで幽霊のようについてきたので、歩いているという表現はあまり正しくはないのかもしれない。
 風が強く、ふと見上げた夜空には、うすらと視界に入る家の明かりで、星は先ほどよりもハッキリとは見えなかった。本当に風が強く、はためくと影の髪の毛が闇に踊った。
 暗い街角には人がいない。道を曲がっても、真っ直ぐと歩いても、同じ月光に照らされた淋しい夜だ。透明な空気の中で、時間が変なよどみ方をしている。