「きゃーーーーー」
「どうされたのですか、翠蘭娘々!」
「翠蘭娘々、お気を確かに! 誰か、誰かすぐ薬師を呼んで!」
誰の声も耳に入っては来なかった。翡翠色の長く艶やかな髪に、同色の宝石のような瞳。どこかで見たことがあるという既視感は、子どもの頃からずっとあった。
両親にそんなことを告げても、ただの気のせいだと笑うだけ。ただ五つ上の兄だけは、私の話を優しく聞いてくれていた。
外国にも精通する兄は、もしかしたら生まれる前の記憶が少し残っているのかもしれないね、と言ってくれていたっけ。そしてそれはある意味最悪な形で当たっていた。
「どうして……どうしてなの?」
「娘々、どうぞお気を確かに」
「きっと、兄上様の婚約で気が動転なさったのですわ」
「お可哀想に、翠蘭娘々……。とても兄上様をお慕いもうしておりましたものね」
「それなのに、あんなどこの骨とも分からぬ娘を連れて来られるなど……」
女官たちは、鏡の前でペタンと座り込む私の背中や肩を撫でながら、必死に慰めてくれていた。
私のことを何よりも溺愛してくれていた兄の婚姻。まさかその兄の相手の顔を見て、過去の記憶が全て戻るなんて思いもしなかった。
「こんなの……こんなのって、ないわ」
「ああ、皆も娘々と同じ気持ちですわ」
「ええ、本当ですよ。あんな取り柄もない黒髪に黒い瞳の娘など」
「おまけに娘々の方が今はまだ身分が高いというのに、馴れ馴れしい」
「何が仲良くしましょう、なんでしょうね。仲良くして下さいならまだしも。それに娘々の気持ちを考えたらそんなことは簡単に言えないはずですわ」
女官たちは、あわよくば自分たちが兄に見初められという淡い期待を持っていた。まぁその気持ちは分かる。兄は父のあとを継いだ、国王なのだから。
そんな兄は王となってからも、私にはとても優しかった。記憶が戻らないままだった、確かに危なかったかもしれない。だってよりによって、ココは私が読んでいた中華風ファンタジーの世界なんだもの。
「このままでは……」
「娘々付きの女官たちは、みな娘々の味方ですわ」
「そうです! 娘々のために、どんなことでも力を貸しますわ」
女官たちは嬉々として目を輝かせているものの、私の考えが正反対とは思いもしないでしょうね。
ブラコン全開で周りから甘やかされて育った翠蘭は、兄の婚約者を虐げた挙句に暗殺未遂事件を起こす。さすがの兄も妹の悪事に目を瞑ることは出来ず、重罪として処刑されるってストーリー。
つまり翠蘭……私は、悪役令嬢ポジなのよね。冗談じゃない。転生先でバッドエンドとか、絶対に認めないんだから。
ある意味、女官たちに担がれて悪事を働く前で良かったわ。小姑になんてなる気もサラサラないし、このままココにいたらどんな作用があるか分からないわ。
元々の翠蘭とは中身が違うとはいったって、ここがラノベの世界である以上きっとイベントが起こるはずだもの。
だから私がやらなければいけないことは一つ!
「とりあえず一人になりたいの……。しばらくそっとしておいてくれるかしら?」
やや涙目になりながら女官たちを見上げて小首をかしげる。
兄を盗られ悲しみにくれる妹を演じれば、みんなはさもそれが本当のことのように信じ込み、同情したように涙を流す。
「ああ可哀想な娘々。涙を流されるだなんて」
「もちろんです娘々。こんなに悲しい日など、どこにあるでしょう。しばらくゆっくりお部屋でお過ごし下さい」
「……ええ、そうさせてもらうわ。全て人を下がらせておいてちょうだい」
「「はい、翠蘭娘々」」
女官たちは深々と頭を下げ、みんな出ていった。しばらく泣き暮れる演技をしつつ、外を見れば、言いつけ通り誰もいなくなっていた。
私がまさかココから逃走しようなんて、誰も思っていないのだろう。
本当に完璧な人払いは、周囲に誰もいなかった。私はこっそりと数枚の服と持てるだけの金品を荷物に詰めると、私はそっと部屋を出た。物語の影響力なんて冗談じゃない。
「さぁて、どこに逃亡しようかな~」
異世界でしかないこの世界は、私にとってはどこに行ってもある意味同じなのよね。でもどうせ逃げるのなら、見つからないとこにしないといけないわ。連れ戻されても困るし。
んーーーーー。どうしようかなぁ。
「あーでも、近場は田舎ばっかりだし。職探しも困るかもしれないわね。お金だっていつまでもつか分からないし。それなら木を隠すなら森ということで、隣国である帝国まで逃げちゃおぅ」
ふっふふーん。せっかくだし異世界を満喫しないとね。それに何て言ったって、ココは私の大好きな中華風異世界だし。食べ物もおいしいし、服も好きなのよね。
翠蘭ってキャラも、可愛くて見た目は好きだったんだけど。やってたことは小姑過ぎるのよね。確かヒロインちゃんへの陰口から始まって、虫を部屋に大量に入れてみたり、食べ物に異物を混ぜたり。
それでもめげない彼女に最終的には毒を盛る。それが女官の口からバレて、あっけなく処刑。うん。絶対そんなバッドエンドなんて回避よ、回避。
さぁ、楽しい異世界観光を楽しもう~。
◇ ◇ ◇
「ってもう。本当になんなよの!」
異世界観光を楽しむ余裕などどこへ行ってしまったのか、国を出てからというものめんどくさいことばかりだ。まず国境を超えるのに通行手形が必要というのが盲点だった。
警備兵に身分を明かすわけにもいかず、困っていたところに来た商団の馬車に乗せてもらえた。だけどさすがは商人。一番高価な簪をとられてしまった。
残りの宝石たちであとどれだけ過ごせるかと思っていた矢先、これだ。
「おねーちゃん、一杯一緒にって言ってるだけだろ」
「……やめてください」
酔っぱらった大柄の男二人が、スラリとした長身で切れ長のやや青みがかった黒い瞳の女性の手を掴み、道端で揉めている。
私が進みたい道の方向をちょうど邪魔しており、通り過ぎることも出来ない。邪魔すぎる。ただでさえこっちは結構頭に来てるのに、迷惑過ぎるでしょう。
進むことが出来ずにどうしようか考えていると、その綺麗な女性と目があった。その瞳が明かに私に助けを求めている。もーーーーー。こういう面倒ごとは極力回避したいのに。
私は一度深くため息をつくと、諦めて前を見た。
「彼女、嫌がってますけど?」
「なんだお前。お前みたいなちんちくりんに用はないんだよ」
「そうだ。子どもはおうちに帰って、寝てろ!」
私をちらりと見た二人は、大きく悪態をつきゲラゲラと下品に笑い出す。まぁね。乳もないですし? 身長も大きくはないわよ。だけどクマみたいな初対面の男たちに、そこまで言われるほど私も不細工ではないわよ。
「……ウザ」
「ああん? なんだって?」
「だーかーら、ウザいって言ったのよ! ああ、こんな言葉知らないんだっけ」
この世界にウザいってあるのかな。私は思わず鼻でふんって笑ってやれば、男たちは顔を真っ赤にして女性の手を離しこちらにゆっくりと近づいてくる。
「だれかーーーーーーー!! 強盗よ!!」
出せるだけの大きな声を張り上げたあと、私は男たちの脇をすり抜け女性の腕を掴んだ。そしてそのまま、走り出す。
急に何が起こったのか理解できない男たちを置き去りに、私たちは日が傾きかけた町の中を駆け抜けて行った。
「はぁはぁはぁはぁ」
手を引いたまま、見知らぬ町の中をどれだけ走っただろうか。角という角を曲がり、気づいたら奥まった暗い路地に私たちはいた。さすがに引き離せたことだけは分かる。肩で息を整えながら、私は繋いだ手を離した。
「ここまで来れば、さすがに大丈夫そうね」
「どうして助けたんですか?」
私は予想もしていなかった返しに、思わず女性を見上げた。ありがとうございます。と、そんな台詞が返ってくると思ってたのに。もしかしてありがた迷惑だったのかしら。
あー。私の悪い癖ね。相手のコトを良く知りもせず、確認もせず。ただ困ってると思ったら、すぐに手を出してしまう癖……。前世でもコレで何度か失敗してるのに。
生まれ変わっても、人ってこんなにも変われないものなのね。自分で自分にがっかりする。
「困ってそうに見えたから勝手に助けてしまったのだけど、迷惑だったのなら謝るわ」
「ああ!」
切れ長の美しい瞳を驚いたように丸くさせたあと、彼女はポンっとまるで納得したように自分の手を自分で叩いた。
んんん? なんかこの娘の反応、何から何まで良くわからないわね。
「そういう意味で聞いたわけではないんですよ。ただ単に好奇心で聞いたんです」
「好奇心?」
「だってそうでしょう。相手は熊のように大きなゴロツキ二人。しかも絡まれてる女性すら、自分より大きな人」
「体格って、何か関係あるの?」
「フツーは?」
「そう……」
確かに言われて見れば、あの中で一番非力なのは私よね。そして現実問題、武術が出来るわけでもなければ、体力が有り余るほどあるわけでもない。
でも私にはそんなこと気になりはしなかった。だって目の前に困ってる人がいる。ただの偽善でしかないけど、見て見ぬふりが出来ないタチなのよ。
「困ってる人がいたら、その人が大柄だろうが自分より強そうだろうが、あんまり関係なくなってしまうのよね」
「優しいのですね」
「そうでもないわ。ただ単に見過ごせないだけ。だって見過ごしたら、自分が後悔しそうで嫌だから」
「でもそれだけでは、中々出来ることではないですよ?」
「そうかしら」
「ええ、そうです」
これは褒められてるって思ってもいいのかしら。なんかそれはそれで変な感じ。今まで一度だってそんな風に言われたことなんてなかった。
でもそれでも私は私のしたい様にしてきたから、他人からどう思われたって気にしないで生きて来た。気にしたところでこの性格は直らないし、どうせ自分勝手な人助けを辞めることは出来ないのだから。
「今日はありがとうございました」
「あなたみたいな美人が一人で町中をフラフラと歩くものではないわ」
「ですね。初めて来たのですが失敗しました」
着ている漢服も絹のようだし、どこかのお金持ちの娘か何かかしらね。家出って感じには見えないけど。でも帝国とはいえ、女性一人で歩くのはあんまり良くないみたい。
私も宿とかを探して、明日からどうするか決めないとね。
「ところで、お礼をしたいのですがうちに来ませんか?」
「お礼だなんて、そんなの大丈夫よ。ただ一緒に走っただけだし」
「いえいえ。それでも、です!」
「でも……」
「どこか行く予定があったりしますか?」
んーーー。そう言われてもなぁ。行く宛は決まってはいないけど、お礼っていうには大げさすぎるのよね。
どうしようかと考える私の手をにこやかな顔で掴むと、有無を言わさずぐんぐんと歩き出した。
「ちょっと、本当に困るんですけど?」
「行く宛もないならいいではないですか」
「でも」
「でも?」
明らかにくぐってはいけないだろうと思われる朱塗りの門の前まで私たちは来た。
おそらくココは裏口なのだとは思う。しかし朱塗りの門の中には明らかに屋敷とは思えない建造物がある。帝国の町の中心。朱塗りの門ってさぁ、どう考えてもいい予感はしない。
どこかいい育ちの娘とは思ったけど、後宮の女官か何かって感じかしら。どっちにしても私はそういった権力系に関わりたくないのよ。ただでさえ、危うい悪役ポジなんだから。こんなところで巻き返されても困るの!
「ココ、後宮ではないの?」
「んー。まぁ、そうなるかな」
「許可なく余所者はここには入れないわ」
「大丈夫、大丈夫。許可、するから」
「は?」
今、なんて言った? 許可を取るじゃなくてするって言ったわよね。
後宮に入る許可を出来る人間なんて、そうそういるわけではない。しかも私はただの旅人であり、悪う言えば身元不明人。
そんなどこの馬の骨とも分からぬ者に許可を出しても怒られない人間ってさぁ……。
「どこに行かれていたのですか春蕾! ワタシどもがどれだけ探したというのです!」
艶やかな紅色の長い漢服を身に着け、黒くやや長めの髪を靡かせながら一人の宦官が駆け寄ってきた。
宦官は娘の腕を無造作に掴んだあと、その後ろにいた私をジッと上から下まで確認するように嫌そうな目で見てくる。
そんな目で見られなくたって、別に私が無理やりついてきたワケでも何でもないのよ。だいたい助けた相手にする目つきじゃないし。
それに春蕾だっけ。ちゃんと説明しなさいよね。
「んんん? 春蕾?」
「ああ、名前言ってなかったね」
しなやかな動きで宦官が掴んだ手を振りほどいたかと思うと、春蕾はこちらに向き直った。そして満面の笑みで私の両手を取る。
「ちょっと待って。春蕾って、男の名前なんじゃないの? しかも……」
そう。この名前は女の名前というよりは男の名前。しかも兄の口から一度だけこの名前を私は聞いたことがあった。
前帝の弟であり、病死した兄に変わってつい最近今帝となったそのお方だ。
「待って待って待って待って。なんで女装!」
「ん-、趣味?」
「辞めてよ紛らわしい!」
「ダメかな」
「ダメでしょう。何考えてんの! い、いえ。仮にいいかもしれないけど、私を巻き込まないで下さい」
「でも助けてくれたんでしょう」
「それはそれ、これはこれ。お礼とか本当にいらないので、ココで失礼します」
なんで皇帝が女装なんてして町中フラフラ歩いてるのよ。どんなフラグなの。絶対に危ないヤツじゃないの。付いてなんて行かないわよ。
ある意味、入り口で宦官が声かけてくれて良かったわ。まぁまぁなんて言われて着いて行ったら、大変なことになっていた。
明らかに宦官が怪訝そうな顔をしているけど、むしろ私は被害者なのよ。
「待ってくれ。騙していたことは謝るが、君にはお願いしたいことがあるんだ」
「おやめください。そんなどこの者とも分からぬ者を中に入れようなどと」
「どこの骨とか言われるつもりもなければ、こちらからも願い下げです」
陛下のために言ってるのは分かるけど、この宦官は大概ね。私だって好きでココにいるわけじゃないっていうのに失礼にもほどがあるわ。
「梓睿いい加減にしないか! この娘は危険も省みず、しかも損得すら考えずに俺を助けたんだぞ」
「……申し訳ございません」
「まだ名前を聞いていなかったね」
「……翠蘭です」
「君の髪と瞳の色にぴったりの美しい名前だ。翠蘭、俺に力を貸してほしいことがあるんだ」
「謹んでお断りいたします」
「そうは言わずに、まず話を聞いて欲しい」
私はため息を付きながら春蕾を見た。白く長い指に、ややか細い腕。
私よりも春蕾は華奢であり、どこからどう見ても女性にしか見えない。これで男性……しかも皇帝なのよね。全然そんな風には見えない。
確か前帝が病気にて急逝されて、弟だった春蕾がそのまま今帝になるしかなかった。
なんかこう見ると、皇帝の器じゃないっていうか皇帝って人とイメージがかけ離れているわね。
「俺を助けてくれ、翠蘭」
瞳を潤ませながら、春蕾は真っすぐに私を見た。
ううう。ある意味卑怯ね。私の性格をさっき知って、断れないと思っているからこんな作戦に出るんでしょう。でもいくら私でもそこまでは優しくないのよ。
「そんな手には引っかからないんですから」
「頼む……この伏魔殿のような中では、中の人間など誰も信じられない。俺には君の助けが必要なんだ」
「……」
「頼む……助けてくれ」
その瞳も声も、私には悲痛な叫びに思えた。
それほどまでに……見ず知らずの私に縋りつきたくなるほどの苦しみ。
私の胸のどこかが小さく痛む。彼の瞳は昔見たことがある。そう……私が捨てた過去に。
だからこそ、彼を助けることがなにを意味するのか。どんな結果になるのか。分かってはいても、どうすることも出来ない自分がいた。
「分かりました」
「ありがとう翠蘭」
喜びながら私を抱きしめた春蕾からは、百合の花の匂いがした。
「君が引き受けてくれて嬉しいよ。俺の妃となってこの後宮を制圧してくれ」
「「は?」」
思わず宦官と私の声が重なる。
今春蕾はなんて言った? いや、助けるなんて簡単に返事はしちゃったけどさぁ。それにしても妃ってなに、妃って。そういうのはビジネスライクでなれるものでもないのよ。
「むーーーーりーーーーー」
叫ぶ私を無視し、春蕾は誰よりも狡猾そうな笑みを浮かべた。
騙された。失敗した。そんなことを思うのにさほど時間はかからなかった――