平凡妃の意識が戻らないまま、五日のときが過ぎようとしていた。
 瑠璃帝はすぐに平凡妃を医師に見せたが、彼女の呼吸も心音も止まっていた。だが体温は失われておらず、いつ目覚めてもおかしくないという不可思議な状態だった。
 瑠璃帝は遠方からも医師を呼び寄せ、儀式の類も手を尽くして施したが、平凡妃は目覚めなかった。
 臣下たちも驚くほどやつれていく瑠璃帝に、臣下たちは恐々と告げる。
「怪異に手を染めるあまり、怪異に連れていかれたのでは」
「……怪異ではない」
 日頃は頼りにする優秀な臣下たちの言葉も、今は何一つ聞きたくなかった。
 苦しげに臣下の言葉を否定した瑠璃帝に、臣下たちは問い返した。
「陛下?」
「私は誤解していたのかもしれぬ。私は彼の女人を、不可思議な存在のように考えていたが……」
 瑠璃帝は唇を噛んでうめくようにつぶやく。
「……本当はわかりやすく繊細で、感性豊かな女人なのだろう」
 男女の仲を怪異だと悲鳴のように叫んだ平凡妃の声が、今も瑠璃帝の耳に残っている。
 荒れ狂う嵐の中に平凡妃が消えた光景、そのすべてが夢だとは思えなかった。
 瑠璃帝は寝台に座り、そっと労わるように平凡妃の頬に触れる。
 彼女が眠りについてから毎日、こうして側で話しかけたが答えはない。
「どうか起きて、またとぼけた悪戯を仕掛けてくれぬか?」
 瑠璃帝は苦い表情で言葉を続ける。
「今度は急がず、時期が来るまで待とう。そなたのくれた、可笑しな日常が恋しくてならんのだ……」
 瑠璃帝の声が震えたが、今日も平凡妃は沈黙したままだった。
 平凡妃が眠りについて五日が経ったとき、彼女の実家から母親がやって来た。
 瑠璃帝は時間を作って平凡妃の母を迎えると、彼女は深く息をついてしばらく黙っていた。
 やがて平凡妃の母は意を決するように顔を上げると、一つの秘密を打ち明けた。
「信じていただけるかはわかりませんが……娘は、自分の余命は残り一月だと言って後宮に入ったのです」
「なんだと?」
 平凡妃が後宮入りしたのは前の新月の夜だった。瑠璃帝は息を呑んで、慌てて日を数える。
 瑠璃帝は青ざめて信じがたい事実を告げる。
「……今日でちょうど一月だ」
 平凡妃の母は力なくうなずくと、思い出すように言葉を口にする。
「あの子は昔から、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言いました。後宮入りも、大いに家名を上げてから最期を迎えるのだと笑っていて」
 平凡妃の母は袖で目頭を押さえて言う。
「そんなの、悪い冗談ですよ……! 母が信じるわけがありません」
 平凡妃の母は気丈にも顔を上げると、瑠璃帝の前でひざまずいて何かを差し出した。
「持って参ったものがあります。あの子が形見だと言って私に残したものです。呪術にでも何でもお使いになって、あの子を呼び戻してください!」
 ふんと鼻息荒く言い切った彼女の手には、瑠璃帝の手のひらに収まるような木彫りの人形細工があった。
 滞在していくよう引き留める瑠璃帝に無理に笑って、平凡妃の母は帰っていった。娘の死など信じないというその態度に、瑠璃帝は少し力を分け与えられた気がした。
 瑠璃帝は臣下たちに命じて、平凡妃が母に残した人形細工を調べさせた。
 それはほのかに笑っている女人の人形で、天人が着るような羽衣を身にまとっていた。中に何か詰まっている様子もなく、お守りの域を出ない代物だった。
 それ以上の手がかりはつかめないまま、夜がやって来た。
 瑠璃帝は、否応なしに一月前の新月のときを目の前に描いていた。
「何か……手はないのか」
 特徴がないのが特徴的だの、不気味だの、散々に彼女を言っていたのが惜しまれた。瑠璃帝は庭に出て暗黒の空を仰ぎ、考えに沈んだ。
 叶うなら出会った頃に時を戻し、彼女の繊細な感性を理解してやりたかった。それができなくとも、せめて初夜の夜に、彼女をできうる限り優しく包めばよかったのだ。
 後悔に打ちひしがれながら体が冷えるまで暗闇に立ちすくんで、ふと瑠璃帝は思い出す。
「……そういえば」
 腕に抱いた木彫りの人形をみつめて、どこかでこの顔を見たなと思う。それはつい最近の出来事のはずで、帰ったら平凡妃に話してやろうと思っていた。
 帰ったら……そう、後宮から少しばかり離れたところにある、豊穣の女神の廟に行ったときのことだ。
 瑠璃帝は夜着姿のまま、宮の階段を上り始めた。途中からは走っていて、臣下たちが見たら目をむいたに違いない勢いだった。
 石段を上り詰めた高台に建つ豊穣の女神の廟で、瑠璃帝は息を切らしながら立ち止まる。
「似ている……」
 豊穣の女神の石像も、木彫りの人形も、そして平凡妃も。三者共に、ほのかに笑う顔がそっくりだった。
 廟の扉を押すと、それはひとりでに内側に開いた。その向こうに、天上に続くような階段が現れる。
 瑠璃帝はごくりと息を呑んで、祈りの言葉を口にする。
「女神に告げる。……会わせてくれ、彼女に」
 真昼のように明るいその最中に、瑠璃帝はゆっくりと足を踏み出したのだった。