衣切り事件の前からそうだったが、平凡妃は侍女シーファの人柄をとても気に入っている。
几帳面で、生真面目に受け答えし、まさかわざと衣を切ったりなどしないと信じていられる誠実さを持っているのが、シーファだった。
ある朝、いつものように正確な時間にお茶を淹れてくれたシーファに、平凡妃はその身の上をたずねた。
「シーファはどうして後宮に?」
「年頃だと両親に嫁がされそうになって、逃げてきたのです」
「あら」
シーファは行儀がよく、きちんとしつけられた子どもという印象だった。だから親から逃げてきたというのは、平凡妃には意外だった。
「相手の方のことが気に入らなかったの?」
「だって殿方って、私の胸ばかり見るでしょう?」
平凡妃はあえて口にはしなかったが、確かにシーファの胸はずいぶん大きい。地味でゆったりとした女官服を着ても目立つのだから、目を留める男性は多いことだろう。
シーファは満足そうにうなずいて言う。
「女性ばかりの後宮ならそういうことがなくて安心です。衣食住も保証されますし、今の生活が気に入っています」
平凡妃はその言葉を聞いて、そうねとつぶやいた。
「胸を気にしない殿方も、世の中にはいるのだけど……」
とはいえ本人が後宮を気に入っているなら、無理に外の世界を勧めるのもどうかしら。平凡妃はそう思って、そっとしておくことにしたのだった。
一方、衣切り事件の前から薄々気づいてはいたが、瑠璃帝は乳兄弟の挙動不審を見かねて、ついに言葉をかけることにした。
「柳心よ、何か気がかりがあるのではないか」
瑠璃帝は就寝前のひととき、茶を出してくれた柳心に思わずそう言ってしまった。
うっかり屋で、何かと抜けていて、側近としてはいささか頼りないが、誠実さだけは山より高い柳心のことを、瑠璃帝は一番信頼していた。
柳心はそのうかつさで、瑠璃帝の問いに大慌てで答えた。
「とんでもない! 気になる女官がいて夜も眠れぬだけです!」
「私はそなたが、皇宮という複雑な場所で生きていけるのか心配でならない」
瑠璃帝はため息をついて、ふと問いかける。
「どこの女官だ?」
女人にだまされそうではあったが、柳心はいい年して女人に一切興味を示さなかった。瑠璃帝はにわかに興味がわいて、柳心からその名を聞きだそうとする。
柳心は子犬が耳を垂れるようにしぼんだ声で言う。
「名前も、どなたに仕えているのかもわからぬのです……。すみれのように可憐で、小さく小さく、守ってさしあげたいような女官だったのですが」
瑠璃帝は柳心ののろけのような話を聞いているうち、平凡妃の顔がぽっと頭に浮かんだ。
「……いや待て」
平凡妃のどこが可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような女人だ? 確かに小柄だが、あのふてぶてしさに柳心の言う特徴はまったく重ならない。
ただ柳心の切れ切れの話をつなぎ合わせると、そこは宝珠宮であったり、瑠璃帝が平凡妃と遭遇した東屋であったり、平凡妃が吹き飛んだ屋根の真下であったりした。すぐ側で平凡妃がほくそ笑んでいる光景がありありと浮かんでくる。
瑠璃帝ははたと思い当たって声を上げる。
「ああ、そうか。あの女官だ」
「えっ! 陛下はご存じでいらっしゃるのですか!」
瑠璃帝はうなずいて、柳心にその女官を伝えようとした。
可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような印象で、なおかつ状況証拠からいって間違いない。
「あの、胸の大きい……」
「胸?」
瑠璃帝は男性として一番大きい印象の部分から口にしたが、柳心はきょとんと目を丸くした。
柳心は不思議そうに瑠璃帝に問い返す。
「胸、大きかったですか?」
「うっ……」
そんな純真な目で自分を見ないでほしい。瑠璃帝は変な顔をして、自分の認識をひどく恥じた。
自分は当たり前のように胸の印象を記憶していたが、恋に落ちた男にはあの胸さえ見えていないのだ。恋は盲目とはこういうことか……。
悩みが一つ増えた瑠璃帝の夜だったが、その翌日が平凡妃の舞う日だった。
宴の始まる半刻ほど前、シーファは裏手の由緒ある神木の前で平凡妃の舞の無事を祈っていた。
そこに柳心が走って来て、シーファに気づかないまま目を閉じて祈りの言葉をつぶやく。
「は……ぁ、はぁ、どうか、陛下が心を注げる妃に出会えますように……!」
その言葉を聞いていたシーファは、彼女らしくもなく思わず振り返った。
シーファは少しの間まじまじと柳心をみつめて、あらぬ方を見ながら思う。
……このひと、なんだかかわいい。
その夜、二人は席もずいぶん離れていて、まだ会話もしなかったけれど。
二人がこっそり会うようになるのは、もう少し先の話。
几帳面で、生真面目に受け答えし、まさかわざと衣を切ったりなどしないと信じていられる誠実さを持っているのが、シーファだった。
ある朝、いつものように正確な時間にお茶を淹れてくれたシーファに、平凡妃はその身の上をたずねた。
「シーファはどうして後宮に?」
「年頃だと両親に嫁がされそうになって、逃げてきたのです」
「あら」
シーファは行儀がよく、きちんとしつけられた子どもという印象だった。だから親から逃げてきたというのは、平凡妃には意外だった。
「相手の方のことが気に入らなかったの?」
「だって殿方って、私の胸ばかり見るでしょう?」
平凡妃はあえて口にはしなかったが、確かにシーファの胸はずいぶん大きい。地味でゆったりとした女官服を着ても目立つのだから、目を留める男性は多いことだろう。
シーファは満足そうにうなずいて言う。
「女性ばかりの後宮ならそういうことがなくて安心です。衣食住も保証されますし、今の生活が気に入っています」
平凡妃はその言葉を聞いて、そうねとつぶやいた。
「胸を気にしない殿方も、世の中にはいるのだけど……」
とはいえ本人が後宮を気に入っているなら、無理に外の世界を勧めるのもどうかしら。平凡妃はそう思って、そっとしておくことにしたのだった。
一方、衣切り事件の前から薄々気づいてはいたが、瑠璃帝は乳兄弟の挙動不審を見かねて、ついに言葉をかけることにした。
「柳心よ、何か気がかりがあるのではないか」
瑠璃帝は就寝前のひととき、茶を出してくれた柳心に思わずそう言ってしまった。
うっかり屋で、何かと抜けていて、側近としてはいささか頼りないが、誠実さだけは山より高い柳心のことを、瑠璃帝は一番信頼していた。
柳心はそのうかつさで、瑠璃帝の問いに大慌てで答えた。
「とんでもない! 気になる女官がいて夜も眠れぬだけです!」
「私はそなたが、皇宮という複雑な場所で生きていけるのか心配でならない」
瑠璃帝はため息をついて、ふと問いかける。
「どこの女官だ?」
女人にだまされそうではあったが、柳心はいい年して女人に一切興味を示さなかった。瑠璃帝はにわかに興味がわいて、柳心からその名を聞きだそうとする。
柳心は子犬が耳を垂れるようにしぼんだ声で言う。
「名前も、どなたに仕えているのかもわからぬのです……。すみれのように可憐で、小さく小さく、守ってさしあげたいような女官だったのですが」
瑠璃帝は柳心ののろけのような話を聞いているうち、平凡妃の顔がぽっと頭に浮かんだ。
「……いや待て」
平凡妃のどこが可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような女人だ? 確かに小柄だが、あのふてぶてしさに柳心の言う特徴はまったく重ならない。
ただ柳心の切れ切れの話をつなぎ合わせると、そこは宝珠宮であったり、瑠璃帝が平凡妃と遭遇した東屋であったり、平凡妃が吹き飛んだ屋根の真下であったりした。すぐ側で平凡妃がほくそ笑んでいる光景がありありと浮かんでくる。
瑠璃帝ははたと思い当たって声を上げる。
「ああ、そうか。あの女官だ」
「えっ! 陛下はご存じでいらっしゃるのですか!」
瑠璃帝はうなずいて、柳心にその女官を伝えようとした。
可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような印象で、なおかつ状況証拠からいって間違いない。
「あの、胸の大きい……」
「胸?」
瑠璃帝は男性として一番大きい印象の部分から口にしたが、柳心はきょとんと目を丸くした。
柳心は不思議そうに瑠璃帝に問い返す。
「胸、大きかったですか?」
「うっ……」
そんな純真な目で自分を見ないでほしい。瑠璃帝は変な顔をして、自分の認識をひどく恥じた。
自分は当たり前のように胸の印象を記憶していたが、恋に落ちた男にはあの胸さえ見えていないのだ。恋は盲目とはこういうことか……。
悩みが一つ増えた瑠璃帝の夜だったが、その翌日が平凡妃の舞う日だった。
宴の始まる半刻ほど前、シーファは裏手の由緒ある神木の前で平凡妃の舞の無事を祈っていた。
そこに柳心が走って来て、シーファに気づかないまま目を閉じて祈りの言葉をつぶやく。
「は……ぁ、はぁ、どうか、陛下が心を注げる妃に出会えますように……!」
その言葉を聞いていたシーファは、彼女らしくもなく思わず振り返った。
シーファは少しの間まじまじと柳心をみつめて、あらぬ方を見ながら思う。
……このひと、なんだかかわいい。
その夜、二人は席もずいぶん離れていて、まだ会話もしなかったけれど。
二人がこっそり会うようになるのは、もう少し先の話。