瑠璃帝の後宮では日々大勢の妃たちが寵を競っているが、未だ勝者が現れないのは理由がある。
 今の事実上の後宮の主は、その名を寧々(ねいねい)公主という。瑠璃帝の妹君で、御年十歳、やんちゃな盛りのお姫様だった。
 寧々公主は本日も華奢な手足を投げ出して、侍女たちに憤慨する。
「つまんなーい!」
 寧々公主は人形のように愛くるしい面立ちをしかめ面に変えて当たり散らす。
「あれもだめ、これもだめ! わたくしは公主のはずでしょう。一番はお兄様に譲るとしても、その次にこの世の遊興のすべてを楽しんでいいはずだわ」
 寧々公主は皇帝陛下に絶対の重きを置き、幼いながら理論立てて話すために、侍女たちはうかつにいさめることもできないのだった。
「近頃の妃たちはわたくしを宴にも招かないし」
 その結果、大いなるわがまま公主が後宮に君臨して、後宮の妃たちを委縮させている現状があった。
「どこかにわたくしをうならせる、骨のある妃はいないのかしら」
 寧々公主は聡い公主だった。妃たちが自分を恐れているのを理解していながら、根性がないと苛立っていた。
 困り果てた侍女たちの一人が、ふいに寧々公主に耳打ちする。
「公主様、近頃後宮入りした中に、少し変わった妃が……」
「ふうん?」
 寧々公主はくるくると巻いた黒髪を手でもてあそびながら、侍女から聞いた名前を口にする。
「平凡妃? お兄様が宝珠宮に部屋を取らせたって? なに、どうしてあなたたちはそういう話をもっと早くわたくしに伝えないの」
「し、しかし。公主様」
 侍女たちは互いに顔を見合わせながら言葉を濁す。
「公主様のお側に近づけるには、いささか不気味な妃でございまして……」
 寧々公主は話のわからない公主ではなく、侍女たちから平凡妃の使う妖術に耳を傾けた。
 なぜか宴の最中に妃たちが眠ってしまう、天井の絵を動かす、臣下たちを道に迷わす……それらを聞き終わった公主は、ふんと鼻で笑ってみせた。
「どんな怪異かと思えば、子どもだましのいたずらではないの。でもまあ、いいわ。あなたたちが怖がっているなら、わたくしが少し叱って来てあげる」
 寧々公主は時々見せる面倒見の良さで、さっと椅子を立つと準備を整え始めた。
 寧々公主の来訪はいつも突然である。平凡妃の元に公主の来訪の使いが来たのも、廊下を挟んだほんの向かいの部屋に寧々公主がやって来ているときだった。
 侍女のシーファは寧々公主を畏れながら平凡妃にうかがいを立てる。
「唐突なご来訪でございますが……凡妃様、お支度をされないわけにも参りません」
 平凡妃は眠たげにまばたきをすると、いたずらを思いついたようにほほえんだ。
「お庭でお待ちしますとお伝えして。今日は風が強いから、たぶんよく飛ぶわ……」
 平凡妃が付け加えた言葉に、シーファはきょとんとしてうなずいた。
 まもなく寧々公主は庭に出て、平凡妃の待つという東屋に向かった。確かにそこには女人と侍女が膝をついて控えていて、寧々公主は歩く姿も花のようにそちらに近づく。
 東屋に寧々公主が着いたとき、東屋に控えていた平凡妃は口を開いた。
「寧々公主のご来訪、大変畏れ多く存じます。後宮の秩序たる公主様は、さぞ私の所業にお怒りでしょう」
 平凡妃がシーファに言った通り、風の強い日だった。渦巻くような風が、平凡妃の衣の裾を揺らしていた。
 平凡妃は身を屈めると、恐れ多いとばかりに顔を覆う。
「……しかしご容赦を。寧々公主様のご威光の前には、私は紙人形に過ぎません」
 平凡妃はふいに紙人形のように薄くなって、ぴゅうっと風に吹き飛ばされた。
「え?」
 寧々公主以下侍女たちは、息を呑んで唖然とそれを見上げる。
 引き留めようにも平凡妃はもう屋根の彼方まで吹き飛んでいて、それが人なのかどうかもわからなくなっている。
 すぐに後宮は大騒ぎになったが、平凡妃の行方は知れなかった。
「あら、おはよう」
 ところが翌朝にシーファが宝珠宮の平凡妃の寝室に入ると、何事もなかったかのようにあいさつを返した平凡妃の姿があった。
 どこへ行かれたのですか問いかけたシーファに、平凡妃はおっとりと答えた。
「まさか、人間が紙のように吹き飛ぶはずがないわ。ずっとここで午睡をしていたわよ」
「ですよね」
 シーファは自分の見間違いだったのだとほっとした。そういうところが素直な女官だった。
 後宮一同は紙人形の妖術を知りたがったが、結局誰も平凡妃から答えを引き出せなかった。
 寧々公主すら、「確かに不気味ね」とうなってしまった、そんなある日の不可思議な出来事だった。