瑠璃帝が宝珠宮を訪れたことは、臣下たちに論議を巻き起こした。
 他に身分高く、見目麗しい妃が勢ぞろいする後宮、その中でなぜよりにもよって平凡妃に目を留められたのか。いや、平凡妃は身分が決して低いわけではなく、見目も平凡であるだけだが、平凡は平凡に他ならず、平凡以上の美点でない。
 平凡という言葉が湯水のごとく飛び交う臣下たちの議論は、瑠璃帝が聞いたら心を痛めただろう。
「女人に平凡、平凡と繰り返すのは無礼と言うに」
 そしてそのことはもちろん瑠璃帝の耳にも入っていた。のみならず、彼の君が一番しきりに平凡と繰り返していた。
 しかし宝珠宮から戻った瑠璃帝は、少年のような快さをまとって臣下に話した。
「天井絵の妖術は悪くない心地がした。また立ち寄っても良い」
 瑠璃帝は恋の熱病にかかった風ではなく、いたずら仲間をみつけたような表情をしていた。
 そのことは瑠璃帝の心ではなく、臣下たちの心を揺らした。平凡だろうと、瑠璃帝が後宮に立ち寄るきっかけになればよい。次にお召しになる姫を選んでおいて、ここぞというときにお側に近づけるのだ……。
「……だから無礼だと言っているのだ。女人に対して」
 ある日、瑠璃帝は臣下たちに控えめに悪態をついて、執務室を抜け出した。
 とはいえ瑠璃帝は勤勉な君主で、半刻もしないうちに執務室に戻って来るのが常だった。だから臣下たちは遠巻きにお側に控えながらも、何も言わずにお戻りを待っていた。
 ところが瑠璃帝を警護する臣下たちが、先ほどから道に迷っている。
「は?」
 瑠璃帝がそれに気づいたとき、臣下たちはもう瑠璃帝を見ていなかった。蝶々でも追っているかのようにあっちへうろうろ、こっちへうろうろしていて、瑠璃帝はその光景に目を疑った。
 瑠璃帝は心配になって、たまらず臣下に声をかけようかと思った。しかしはたと手を打って思う。
「……今なら好きな場所に行ける、のか?」
 誰にも見とがめられずに一人歩きできるというのは、少し魅力だった。それにこういう怪異を起こす人物に、今なら一人心当たりがあった。
 午後のひととき、瑠璃帝は猫が練り歩くような宮の間の裏道を散策し、厨房の湯気の匂いで夕餉の献立を予想した。
 そういえば子どもの頃も同じことが楽しみだった。瑠璃帝は弾んだ気持ちで歩いていて、何気なく後宮に入り込んでいた。
 ふと見やった東屋には、平凡妃が扇で紙の蝶々を飛ばして遊んでいた。瑠璃帝と目が合うと、ひらりと舞った紙の蝶々を手でつかまえて言う。
「先刻はお楽しみでしたね」
「誤解を招くようなことを言うでない」
 瑠璃帝は憮然として思わず言い返してしまってから、ひとつ息をついた。
 平凡妃の隣に歩み寄って、瑠璃帝は平凡妃に言葉を投げかける。
「そなたの妖術は、使いようによっては戦にでも役に立ちそうだが?」
「おや物騒な」
 平凡妃はわざとらしく扇で口元を押さえて怖がってみせる。
 彼女はほほえんで瑠璃帝に答えた。
「そうならないために、期限付きの妃なのですよ」
「期限付き?」
「しかも陛下には妖術を使わないというお約束なのです」
 期限とはいつまでか、誰との約束なのかと、瑠璃帝はなお問いかけようとした。
「陛下! ここにおられましたか!」
 しかしまもなく臣下たちが群れを成してやって来て、瑠璃帝を取り囲む。
 平凡妃は今日も悠々と羽衣をたなびかせて、泉の向こうに歩き去って行った。