彼と会ったのは、向日葵の森。燦々とよく晴れた正午。太陽と間違えるほど、輝いた子だった。
「陽菜〜!一緒に帰ろ!」
「いいよ、日向」
 幼なじみの自転車の後ろに乗る。風を吹き抜ける放課後。心地いい田舎道を駆け下りていく。
 日向と私は幼馴染。そして私はずっと彼に片思い中。まあ、日向は私の気も知らないけど。花屋の彼と向日葵農家の私。きっと長い付き合いになるからこそ、「恋心」を捨てた。友達でも、ただの幼馴染でもいい。近くに居れさえすれば、それでいい。私を向日葵畑の前で降ろす。
「遠回りなのに、ありがとう」
「全然大丈夫!熱中症になっちゃう方が大変でしょ」
気をつけて、と言って自転車を走らせた。風を颯爽と切っていく。金色の髪が反射して輝く。ダメだと分かっているのに、思うほど好きになる自分が嫌になる。日が暮れる前に花を積んでしまわないと。鍔の大きい麦わら帽子を被って、咲頃の向日葵を切っていく。
 朝日が登る前、水に差しておいた花を店に届ける。水が勢い良く流れる音。ごめんください、というとおばさんが出ていた。彼は走りに出かけたらしい。会えると思って少しお洒落してきたが、仕方ない。早々に帰ってしまおう。
「あれ?陽菜?!」
 驚く日向の声。帰ってきたのか。謝りながら花を受け取った。部活は無所属なはず。なんで?と聞いてみると、なんとなく、と笑った。なにそれ、と言って帰る。
「あ、陽菜!巻いてる髪、かわいい!」
手を振る彼が、好きだ。。浮き足立つ私。何故かざわつく自分もいた。
 次の課外、こんなことを聞いた。日向に好きな子がいるらしい。ざわざわする。その日も誘われたが帰る気になれなかった。あの言葉は嘘なのかもしれない。何度も反芻して飲み込んだ。
 それから日向を避けるようになって、話す機会も減っていった。課外が終わって本格的に夏休みになる。雨の日、いつも通り切った向日葵を店へ持っていく。この時間、日向は走っているのでいない、はずだ。おばさんに花を渡して帰る。
「あ、陽菜!」
 日向がいた。まるで待ち伏せしていたように。私は逃げた。会いたくなかった。追いかけてくる日向。お互い必死だった。当然にも追いつかれ、手を掴まれた。いくら手を振っても離してくれない。
「なんで避けるの」
 一言それだけ言って、手を離した。逃げていいよ、と言ってるようで、少しムカついた。振り返って彼の胸を叩く。
「なんで!なんで追いかけるのよ!私は日向が好きな子といられるようにって避けてるのに!私は、日向が好きで、本当は、一緒にいたいのに……」
陽菜、と呼ぶ声ひとつ。体に強い圧力を感じた。暖かい日差し、日向に抱きしめられている?
「俺が好きなのは陽菜だよ!陽菜にしか可愛いなんて言わないから!」
 両思い、嬉しくないはずがない。雨の降る日、突如にして晴れたのであった。
「花梨ちゃんは、小児がん…白血病です。」

 この一言で、全部が始まった。

「そんな…!!花梨は、花梨は大丈夫なんですよね?!!」
「今のところは…何も言えません…」
「そんな…!!」
 ママがおかおをお手々で、かくしてないてる。パパがお手々のつめのある方をおでこに当てて、ガックリしてる。なんでだろう…?花梨ちゃんは分からないよ?なんでそんなにかなしいの?おしえて?ママ、パパ!

 これは、私の人生譚だ。

「花梨ちゃん、今日からここで寝るのよ。お利口さんにできる?」
「うん!!花梨ちゃんできるよ!」
「お父さんたち、花梨に会いに来るからな。」
 ママとパパはかなしそうなおかおのまま、あたまをなでてくれた。二人はバイバイと言って、どこかへ行ってしまった。本当は一人ぼっち、こわい。
「ママ…パパ…」
 よんでも二人はいない。しぜんとなみだが出てきた。なんでだろう??ぜんぜんかなしくないのに…
「ママ…!パパ…!!」
 そんなときとても小さな声がきこえた。
「だい、じょう、ぶ…?」
 シーンとしたびょうしつにそうひびいた。それはとなりのベッドからきこえた。  そおっとカーテンをあけると、黒いかみの男の子がニコッとわらった。白っぽい、ねずみさん色の目が花梨を見ていた。
「はじめ、まして…僕は、さく。」
「…花梨、です。」
 人見知りだからか、うまく話せなかった。でも、さくはわらうことはしなかった。
「よろしく、ね。」
「う、うん。」
 さくは6さいだと言った。花梨は「お兄ちゃん」とよぶことにした。
 花梨のびょうきはちにわるいやつがいると、先生は言っていた。それをたおすのにびょういんにいるんだって。
 「お兄ちゃん」もびょうきだ。「お兄ちゃん」は生まれてからお外に行ったことがないと言っていた。「お兄ちゃん」はときどき、はっぱ色のマスクをつけるときがあった。かたそうで、お口いっぱいにかぶさるマスクだ。マスクの下のお口がうごかないことが多かった。くるしそうだった。
 それでも「お兄ちゃん 」は元気なときにはカーテンをあけて、よく話しあいてになってくれた。でもいつもいつもおこえは小さかった。
 私もまい日にがいおくすりと、いたい注しゃをやる日びをすごした。お兄ちゃんがとなりにいるから、がんばれた。

 あるあさ、びょういんのおねえさんにかみをとかしてもらうと、くしにかみの毛がたくさんくっついた。まい日やるうちにほとんどぬけてしまった。こころなしか体がだるくて、気もちわるい。食べてもはいてしまうようになって、目に見えるほどやせた。こわい。
 さいきんはパパもママもいそがしいのか、会えてない。5さいながらに自分がびょうきなのだと自かくした。それもじゅうだいなびょうきなのだとも。
「花梨…」
 「お兄ちゃん」が花梨をよんだ。
「なぁに?お兄ちゃん!」
「今日は、元気だね…」
「うん。お兄ちゃんは?」
 やさしい声で、元気だよ、と言った。久しぶりに「お兄ちゃん」に会った。しばらく目をつぶってあのマスクをつけていたからだ。
 「お兄ちゃん」は色んなことをきいてきた。すきな色とか、すきなこととか。花梨はき色がすきで、お外であそぶのが大すきだった。
 ほかにもこんなことをきかれた。
「花梨の、夢は、なんなのかな?」
「夢…」
 ゆめ、っと言われてパッとおもいついたのは1つだった。
「お医者さんになりたいな…!」
 いくらがんばってもなおならない自分のびょうき。それでも、がんばってなおそうとしてくれる先生が大すきだった。
「お医者さん…」
「うん、いっぱい人助けたいの」
 自分みたいな子をたくさんたすけたい。いいね、とさくはほほえんだ。
「お兄ちゃんの夢は?」
 花梨が言ったのだから、さくも言うのがどおりだろう。
「僕の…夢…」

 生まれたときにはここにいた。
『朔くんは閉塞性細気管支炎(へいそくせいさいきかんしえん)です。』
 かん字だらけのよく分からないびょうき。 ただそれは、時どきさくにとてつもないいきぐるしさをあたえた。
 そんなさくの中にゆめはなかった。死んでしまいたい、それだけだ。
 でも、となりに花梨が来てから自分はすこしかわった。ないている花梨を見て、ぼくははじめて人にこえをかけた。
 ぼくのゆめ……かんがえたとこもなかった。ゆめ……
「ランドセルを背負(しょ)って、皆と学校に行きたい…」
 りっぱなゆめだった。
「いいねいいね!一緒に夢叶えようね!」
「うん。」
 朔はうれしそうにわらった。

 その日をさかいに「お兄ちゃん」と会うじかんがへった。

 ちょうしがわるいわけではないらしい。

 ただひたすら何かやっているのだ。

 さびしかったが、声をかけるゆう気もなかったため、そっとしていた。

 ゆきのふるきせつになるころだった。

 ある日のあさ、まくら元に毛糸であまれたぼうしがおいてあった。

 花梨の大すきなき色のぼうしだった。

 そのよこにはたどたどしい字で、「めりーくりすます」とかいてあった。

 カーテンからのぞいてニコニコしてる「お兄ちゃん」がいた。

 その日のひるにはパパママも来てくれ、プレゼントをくれた。

 あたらしいパジャマとかわいいクマのぬいぐるみだ。

 「お兄ちゃん」もたくさんおしゃべりした。

 時かんは風のようにすぎ、バイバイと手をふった後あと、かえっていった。

「このお帽子、お兄ちゃんが作ったの?」
「…う、うん…下手で、ごめんね…」

 やはりそうだった、このぼうしは「お兄ちゃん」があんだのだ。

 所どころゆるいところがあるがけして下手ではない。

「お兄ちゃん、編み物好きなの?」
「うん…お母さんが、教えて、くれた…僕でも、できるから…」

 かたを上下させていきをする「お兄ちゃん」。

 きっとたいへんだったはずだ。

 「お兄ちゃん」だって何かのびょうきだからここにいるのだ。

 かぶってみると、少し大きいもののかぶりごこちがいい。

 かみがなくても気にしなくてすむ。

「ありがとう!お兄ちゃん!」
「どう、いたし、まして…」

 さくはとっても小さくわらった。

 つぎの日、「お兄ちゃん」はねむったままだった。


 気のせいならいいけど、「お兄ちゃん」がおきてる時かんがみじかい気がする。

 いや、みじかくなっている(・・・・・・・・・)気がする。

 あのマスクを付けて、しずかにいきをする。

 ちゃくちゃくと雲の上に行くじゅんびをしているかのように……

 自分もこんなにがんばってちりょうしてるのに、なおっている気がしない。

 あるく力さえもなくなり、たべてはいてねる、そのくりかえし。

 なんでだろう…と何どもかんがえた。

 かみさまは花梨ちゃんたちを見てないのかな。

 ううん、見えてないだけだ。

 きっと…

 ある日のよる、となりからピロピロと音がきこえ、目がさめた。

「お兄ちゃん…?」

 カーテンで分からないが、「お兄ちゃん」の方から音がする。

 ガラガラところがるざつ音とともに、音はとおざかっていった。

 おねえさんにきいてみる。

「お兄ちゃんはどこに行ったの?」

 こまったかおをしたが、大じょう夫よ、とだけ言ってセカセカと歩いた。

 かざと雨がつよい日のよるだった。


「朔は!朔は大丈夫なんですか!!」
「……今はとても危険な状態です。緊急手術をします。」
「お願いします!朔を…助けて…ください……」

 くるしい……くるしい…………

 ぼく、ついにしぬのかな……

 お母さんたちが話してるのをきいたことがある。

 ぼくは長くは生きられない、らしい。

 くるしいな……

 このままもう、しんじゃいたい……

『お兄ちゃん!』

 あ、でも……花梨が1人だ……
 
 きっと……泣く……

 ぼくは…………


 つぎの日も、そのつぎの日も、「お兄ちゃん」はかえってこなかった。

 さびしかった。

 かえってきたのはあの日から一か月たつころだった。

「花梨…」

 花梨をよぶ声はまえよりも小さくかぼそくなっていた。

 クリーム色のほほの少しへこみ、あきらかに元気に見えなかった。

 でも、「お兄ちゃん」がもどってきてくれてとてもうれしいかった。

『手術は成功です』

 あの日ぼくは生きのびた。

 たすけてくれた先生にもかんしゃだけど、何より気力はあんがい大事なことにきづいた。

 生きられてあと4年、ねばるのをありかもしれない……


 ちょうしがわるいのも一時てきなものすぎず、じょじょに気力をとりもどしていった。

 そして花梨にもてんきがあらわれた。

「花梨にドナーが!!」
「良かったなぁ、花梨!」

 びょうきがなおるらしい。

 そのためにしゅじゅつもうけて、ぶじせいこう。

 あるくれんしゅうもして、よくたべられるようにもなった。

 もうすぐでここから出られるらしい。

「お兄ちゃん!元気?」
「花梨、うん。元気だよ。」

 さいきん、声がはっきりきこえるようになった。

 「お兄ちゃん」の声はあたたかくて、やわらかくて、安心する。

 ふかふかのおふとんだ。

「花梨ちゃんね、病院とお別れなんだって!」
「ほんと?よかったね。」
「うん!嬉しいの!」

 うれしいね、と「お兄ちゃん」はわらった。

 まどをあけるとさくらの花びらが入ってくる。

「花梨。」
「ん?」

 かみについた花びらをとってくれた。

「ありがとう!お兄ちゃん!」

 あぁ、「お兄ちゃん」ってよべなくなるのか。
 
 さびしいな…

 おひるになるころにパパママが来て、つかっていたベッドはまっさらになった。

「バイバイ…」

 もう会えないのかとおもうと、しゅんとした。

 「お兄ちゃん」は花梨の目を見て言った。

「……」
「花梨…大丈夫だよ。また会えるよ。」

 そしたらまたお話しよう、と「お兄ちゃん」は言った。
 
「うん…約束だよ?」
「約束、指切りげんまんね。」

 バイバイと手をふる「お兄ちゃん」。

「もう、戻ってきちゃダメだよ!」

 今までで一ばん大きな「お兄ちゃん」のこえだった。

 それきり会うことはなかった。


「花梨!忘れ物してるわよ!」
「えぇ!ありがとう、お母さん!」

 いってきます!っと高々と声を上げる。

 田んぼの間を自転車でこいで、中学校に向かう。

 白血病と言われてから10年、私は中学3年生だ。

 あれから大病を患うことも無く、嘘みたいに元気に生活していた。

 中3となると受験がどうこうなる時期だが、私は既に決まっていた。

「花梨は頭いいから水壱(みずい)高校でしょぉ。」
「まぁねぇ。」

 水壱高等学校、偏差値70の県内1の進学校だ。

 医者になりたい夢はあれから変わってない。

 変わってないからこそ、ずっと目指し続けているのだ。

 幸い偏差値は足りているし、先生からも「大丈夫だろう」と言われている。

 このままもう少し、だった。 

「花梨?ねぇ花梨ってば!」
「…!!ご、ごめん。」
「もう、大丈夫?」

 この頃体調が良くない。

 受験勉強で疲れてるのか、それにしても長続きしている。

 万が一を想定して母に相談すると、心配性な彼女は花梨を大学病院に連れて行った。

「うん…

 急遽、人間ドック並の検査をすることになった。

 先生は神妙そうな顔をした。

「花梨さんは血液がんです。」

 あぁ、そうか。

 またか、と妙な納得をした。

 花梨の人生はまた一変した。

 三日後から入院、高校受験なんて言ってられなくなった。

 みんなには正直に言った。

 可哀想、そんな目で見てくる。

 人生が嫌になってない自分からすれば、良い迷惑だ。

 父親方ががん家系だったから、まぁいつかはまたなると思っていた。

 割り切れている反面やっぱり悔しかった。

 意地でも治して、歳が違えど高校に入ってやる。

 そんな気持ちでいた。


 3日後、4人部屋に私は入院した。

 歳が近い子がいると、先生から言われていた。

 隣のベッドの男の子、歳は私の1つ上。

 男かぁ、苦手。

 そんなことを思いながら、挨拶してみようとカーテンを開けた。

「戻ってくるなって言ったはずだけど?」

 なんだか聞き覚えがあった。

 ただ、その声は「聞き覚えのある声」よりも低く、暖かく小さな声だった。

「こんな所で再会なんて、なんだか縁起悪いな。」
「お兄、ちゃん……?」

 久しぶり、と彼は言った。

 霜田朔、前回入院した時ベッドが隣だった、「お兄ちゃん」だ。

 黒曜石のような漆黒の髪に、アイスグレーの鋭い瞳、陶器のように綺麗な肌は健全だった。

 あれから早10年、正直会いたいと思っていた。

 涙が頬を濡らした。

「花梨は会う度泣くな。」
「え、あ、……なんでだろ、」

 拭っても拭っても、止まりそうにない。

 おいで、とのごとく誘われ、彼の手が頬に触れた。

「張り詰めていたんだな。よしよし。」
 
 頭を撫でる「お兄ちゃん」の手は覆うほどに大きくて、骨ばっていた。

「また一緒に頑張ろうな、花梨。」
「うん……」


 「お兄ちゃん」は私が退院したあともずっと病院にいたと言った。

「じゃあ、あの夢は……」
「いや、叶ったよ。」

 朔の誕生日11月1日に一日だけ学校に行ったと言う。

 小学六年生で、やっと。


 賑やかな教室、話しかけてくれた友達や先生。

 「また会おうね」と別れたらしい。

「普通の日常があんなに暖かいとは思ってなかったから、楽しかった。」

 その時に会った「菖蒲(しょうぶ)」くんは今でもお見舞いに来てくれるらしい。

 ガラガラ、とドアが開く音。

「あれ、朔が女の子と話してるぅ!」
「声が大きいぞ、菖蒲。」

 ガチッとした長身の男子、菖蒲が来たらしい。

「何、もしかして彼女?!」
「なわけあるか。花梨だ、前話しただろ?また隣の病床になったんだ。」
「あぁ!なるほどなぁ!」

 チラッとこっちを見ては「ほぉん」と意味深気に言う。


「え、可愛くね?」

 花梨には聞こえないくらいの声で菖蒲が言った。

「は、?」
「だから、可愛いよなって。」
「ノーコメントで。」

 なんだよぉ、と茶化してくるがフル無視。

「えぇっと、何を話して…」
「ん?花梨ちゃんがかわ」
「おいおい!」

 えぇ…不満そうな菖蒲の顔。

 それに呆れる朔。

「ふふふっ!」

 無意識に笑えた。

 三人で話すのは楽しかった。

 菖蒲は毎週水・日に来た。

 病院なのになんだか楽しかった。

 中学校ではみんなの顔色を伺っていたからかもしれない。

 気楽に過ごしていた。

 一方、闘病はやはり辛い。

 抗がん剤の副作用で髪はまたも抜け落ち、腹の底からムカムカし吐き戻してしまう。

 移植したというのに…

「健全な骨髄に変わりなかったんです。でも、貴女の体内でまた異常をきたし、がんになってしまったんです。」

 先生は答えた。

 仕方ないことなのか、私はがんと一生向き合っていくことを強いられたようだ。

 しょぼんとしたまま病床に戻った。

「どうした、花梨。」

 暖かい陽だまりのような声。

 彼の声が聞こえた瞬間、重い気持ちが飛んだ。

 自然と笑みを浮かべられる。

「ううん!大丈夫そう!」
「そうか。」

 目を細めて口角を上げる、優しい視線で心がいっぱいだ。

 それから三ヶ月、私は通院制の治療に切り替え、病院を出た。

 高校は浪人を選択し、水壱高校を目指し続けた。

 いつか、彼が檻から出られるようにと…

 勉強、勉強、勉強…

 無事に高校に合格してからも、それなりの青春、闘病、恋愛皆無、主軸は勉強だった。

 けして楽じゃなくても頑張れた。

 「お兄ちゃん」のためだから…


 闘病生活3年目、高校2年生の時だ。

 ある程度大学を決め、受験勉強がてら塾の帰り、母から手紙を貰った。

 宛名は「霜田一久(かずひさ)」。

 聞き覚えのある名字に焦りと戸惑いを感じた。

 中には手紙が一枚。

 声に出して読んでみる。

「息子 霜田朔につきまして 20〇〇年11月8日永眠致しましたので謹んで皆様にお知らせいたします 故人への生前中のご厚誼には深く感謝申し上げます

尚 葬儀は下記のとおり行います

通夜式 11月18日 18時より
葬儀式告別式 11月19日 11時より
葬儀会場 セレモニーホール△△(住所 〇〇市… 電話 0123ー45ー6789)
喪主 霜田 一久(父)

20〇〇年11月10日
霜田 一久」

 声が震えて、上手く出ない。

 「お兄ちゃん」が、朔が…死んだ???

 そんな…え、??

 退院してからも、通院の度に顔を見せていた。

 相変わらず小さい声、それでも毎回楽しそうに話していた。

 また明日治療に通院する予定で、お見舞いに行くはずだったのに…

 この前行った時だって、「またね」と行って帰ったのに…

 私が医者になった時、「治療してもらうんだ」と言っていたのに…

「お兄ちゃん…朔ぅ…!!!なんで…なんでぇぇ!!嫌だよぉ!逝かないでよぉ!!まだ話してないこと、あるのに…『またね』って言ったじゃん!!私が治療するんだよぉ!嘘つきなんだぁ…うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 すぐ飲みこむことはできなかった。

 私の中に渦巻く「何か」がモヤモヤして気持ち悪い。

 ひたすら吐き出したくて、嗚咽を漏らす。

 その日は一晩中泣いた。


 11月18日、私は母に連れられ隣県に来ていた。

 大きくもなく小さくもない、一軒家だ。

 私たちを迎えてくれたのは、一久さんと紅葉さん。

 朔の両親だという。

 ダメだ、また涙が出てきそうだった。

「あ、花梨ちゃん…」

 外の様子を見に出てきたのは、菖蒲だった。

「菖蒲さんも…来てたんですね…」
「まぁ、案内が来ちまったからな…」

 曰く、菖蒲は朔を看取ったらしい。

 中に入ってお供えした後、聞かされた。

「ほんと、静かだったよ。」

 また、朝を迎えるために眠るみたいに…

 その姿はとても美しい。

「花梨ちゃん。朔の友達になってくれてありがとう。」

 紅葉さんは感謝を口にした。

「え、?」
「きっと、花梨ちゃんがいなければ、朔はこんなに長生きしなかった。」

 付け足すように一久さんが言を吐く。

 話された事実。


 朔は生まれてすぐ、「10歳まで生きるのが限界」、と宣告された。

 彼自身、諦めていた。

 行動が表していた。

 欲を見せず、言われた事をこなす。

 死を待つ人形だ。

 ただ、花梨に会ってから、朔は変わった。

 帽子を作りたいと、学校に通いたいと、生きたいと、言った。

 目に光が入った、と一久さんは言った。

 いきいきとした朔は、一時期は快方に向かった。

 ただやはりというべきか、あくまで「一時期」でしかなかった。

 10歳を超え、病気の進行は遅くなった。

 しかし、大きくなった体に自身で取り込める酸素量じゃ足りない。

 重ねて体力不足、低い免疫の数値、未発達の臓器……

 いつ亡くなってもおかしくなかった。

「宣言されていた10歳が過ぎていたから、仕方なかったんだよ。」

 有効的な治療法がなく、19歳まで生きた朔は、豊麗な人だった。

 否、豊麗な人だ。

 垂れ流していた涙を初めて拭った。

「朔は私の中でずっと生きてる…」


 ほんと好きなんだな。

 話の中でそう思っていた。

 俺は朔を看取った一人だ。

 彼の両親が来る前、病室に一人彼を見守っていた。

「やっと…死ねるな……」
「…………」

 怖いくらいに小さな声。

 ただ、おかしいくらいにはっきりと澄んだ朔の声だった。

「やっと…死ねるのに…死にたく…ない……」

 彼は涙を流した。

 死にたくない、と連呼した。

「また…花梨が…来…て…話す…て…やくそく……し…て…」

 だんだんカタコトになる言の葉。

「また…」
「うん。」
「しょうう…おくは……ここおの……なかえ…生き続けるよ。」

 その後、彼の両親は来てすぐ、彼は息を引き取った。

 口だけこう、「あ」「い」「ん」と言ったのを覚えている。


「あぁ、そうそう。」

 そう言って、紅葉さんが出したのは、黄色いマフラー。

 編み目の揃った、きれいな物だった。

「これ。朔が貴女にって。」
「え、?」

 どうも温かそうだ。

 そういえば朔に言ったことがあったな。

『外寒くなってきたのに、ずっと使ってたマフラー破けちゃってぇ。』
『ドンマイだな。……』

 ふと思い出す日常の一部に、胸が苦しくなった。

 覚えててくれたんだ。

 なんとも言えない、平凡でかつ平和な会話だったはずだ。

 ほんとに……もう……

「ダメだってぇ」

 笑みを含んで泣いた。

 本当にダメだ…

 なんとも言えない、この呪いが気持ち悪くて仕方ない。

 大好きなのに、大嫌いだ。

「花梨ちゃん…おこがましいかもしれないけれど一つだけ。」

 どんなに楽しい毎日でも、大きくなって結婚して家庭を持っても、心の底何処かでいいから朔を忘れないで。

 それを最後に私は家を出た。

「朔、元気してるといいな。」
「……」

 首に巻いたマフラーに顔を埋めて、小さく「うん」とだけ言った。

 その日そのままお通夜に参加した。

「お兄ちゃん…ありがとう。」

 棺桶の中に眠る朔は、本当に美しかった。

 城の中に独り眠り続ける茨姫……

 なんて儚いのだろう…

 朔の遺体には綺麗な宵闇色のスーツがかけられていた。

 どうやら「20歳になったらか着たい」と言っていたらしい。

 着ている姿が目に浮かぶ。

 あぁ、よく似合うなぁ…


 あの日からまた10年が経った。

 私は無事に高校から大学の医学部と卒業して、医者として働いていた。

 がんの方は寛解にはいかずとも、まともに生活できるくらいには回復していた。

 そして今日は、私たちの結婚式だ。

「うわぁ。そのドレス、朔好きそう。」
「だから選んだんだもん。可愛いでしょ?」

 相手は菖蒲、まぁ偶然よりか必然(・・)に強い気がする。

 そのドレスとは、お色直しのドレス。

 満月の美しい夜空のような…そんな藍色のドレスだ。

 散々両親らには反対されたが、フル無視してこのドレスにした。

 朔の好きな色だから。

「だろうな。」
「うん…見てほしかったなぁ。」

 生憎外では雨が降っていて、少し部屋が湿っぽい。

「見てるよ。だって、あいつ花梨大好きだし。」
「あっ…ふふ。そうだよね。私もお兄ちゃん大好き!」
「おいおい!新婚早々不倫かよぉ。」

 自然と笑みが溢れる。

 披露宴が始まって、ワイワイガヤガヤと賑やかになってきた頃。

「さぁ、ここでお二人の共通のご友人からメッセージを頂戴したいと思います。」

 私達は驚くに驚いた。

 そんなコーナー設けていなかったからだ。

 共通の友人?

 大学も学部の違う私たちに、共通の友人は少なかった。

 名前が思い浮かぶも、彼らが前に出る様子はなかった。

「右前のスクリーンにご注目!!」

 自然と目をやる。

『こんにちは、霜田朔です。皆さん、はじめまして。そして、花梨、菖蒲、結婚おめでとう。』

 幻覚でも見てるのかと思った。

 でも、いくら目を擦っても、頬を抓っても、朔がいた。

 『なんとなく、直感的に「二人は結婚するんじゃないか」って思ってました。この動画を見ているということは、勘が当たったようですね。ちなみにこの動画の前にもう二本ほど撮っています。』

 朔らしいというか、「お兄ちゃん」らしいというか。

 朔は穏やかに話した。

『ふたりとも元気ですから、きっと家庭も賑やかでしょうね。今、花梨は18ですから、結婚はもう10年後くらいか。まぁ、僕も会場にいると思います。きっと…これを見たら恥ずかしくなって退場しちゃうかもしれないですね。』


 しばらく聞いていなかった「暖かい声」。

 天日干しした布団をそのまま掛けられた。

 柔らかい暖かさが私たちを包む。

『いやでも、悔しいですね。まさか花梨を菖蒲に取られるとは。僕ももう少しアプローチしておきゃよかった。なんなら「ちょっと待ったぁ!」って会場に入ってみたいですね。なんて!』

 会場にぱっと笑いが起きる。

 そんなハプニングがあっても楽しかったかもしれない。

『そういえば、二人はまだマフラーと手袋を使ってますか?もうなかなか古くなってしまっているでしょう。花梨には黄色のマフラー、菖蒲には紫色の手袋。あれ、作るの大変だったんです。大切に使ってくださいね。』

 自然とポロポロ涙が流れる。

 でも、全く悲しくない。

『どれどれ、そろそろ花梨が泣く頃かな。』

 見事に言い当てられ、クスッと笑った。

「泣いてるよ、全く!!」

 聞こえてるかな。

 いや、絶対に聞こえてる。

 朔は今日ここに来ているから。

『きっと、花梨のことだから、藍色のドレスでも着てるかな。それで菖蒲笑ってそう。…やっぱり、行きたかったなぁ。』

 小さく細かく震えた声。

 初めて、泣いた「お兄ちゃん」を見た。

『まぁ、できないから動画を撮ってるんですけどね。…とにかく、二人ともお幸せに。僕は天国から二人を見守ることにします。菖蒲、花梨を泣かせたら来世、いや来々世まで呪うからな?友人挨拶は以上です。20〇〇年11月7日、霜田朔より。』

 あぁ、そっか…

 どうやら、彼はしたいことやって、星になったようだ。

 スッと腑に落ちた。

 動画には「次の日、霜田朔は急遽容態が悪化し永眠いたしました。」

 最後にそう流れた。

 シーンとした会場の中、菖蒲はドアを勢いよく開けた。

「朔の馬鹿野郎ぉぉ!!」

 空へ大声で叫んだと思えば、泣き出したのだ。

 それも大号泣。

 全くやめてほしいものだ。

 出づらい声に抗って、私も空へ叫んでみた。

「朔、このドレス見て!可愛いでしょう!!お兄ちゃんの好きな藍色だよ!!」

 綺麗な青空には大きな七色の橋はかかっていた。

 「はいはーい、新婚さーん!?そのまま、キスおねがいしまーす!」

 カメラマンがそういうと、泣きじゃくった赤い目がこちらを見る。

「かりぃん…」
「はいはい、そろそろ泣き止んだら?」

 クスッと笑い一つ、互いの唇を重ねた。

 その写真が一番美しくて、思い出のある物となった。


 豊麗な君へ

 お誕生日おめでとう。

 超突然ですが、問題です。

 デデン!!

 私たちの結婚記念日はいつでしょう?











 答えは……君の誕生日。
 
 自分は自分が分からない。
「ただいま、お母さん。」
「おかえりなさい。どうだった、テストは?」
「全部95点超えました。」
 いわゆる教育ママのもと医者になるように育てられた神楽透桜子(かぐらとおこ)はトロッコである。(あやかし)という「人ならざる者」がいるこの世の中で、学歴は大切だ。そんな仏はトロッコに言った。
 「いい子でいてね。」と。透桜子は頷くことしか出来なかった。
「なんで100点取れないのかしら。学校のテストでしょう?」
「っ……100点もあります。古典とか歴史とか!」
「いいから、早く勉強しなさい?」
 透桜子はとうの昔に諦めていた。
「はい。」
 今日は友達から「遊びに行かないか」と誘われていた。ただ5時半という馬鹿げた門限のおかげで断っていた。

 夕飯時、大好きなアラビアータと大嫌いなバターソテーが出た。仏は透桜子の好みを知らない。意図的に避けると「せっかく作ったのに」と嫌味を言われ、美味しいと無理にでも口にすると「また作ってあげるわ」とリピートされる。
 透桜子はどうすればいいか分からない。どちらから食べるべきかと。特に決まりはないのに、独裁的ルールに縛られていた。
 迷った末にアラビアータに手を伸ばした。
「あら?バターソテー好きよね?食べないのかしら?」
「好きなものは後に食べる派なんです。」
 いい具合に誤魔化せた。
「でも、食べてちょうだい?お母さん頑張ったのよ?」
 伸ばした手をソテーに向けた。口に運んで咀嚼する。絡みつくようなバターの濃厚さが透桜子は好きじゃなかった。
「うん。美味しいです、お母さん。」
 いつか仏は言った。「未熟者は我慢してこそ礼儀である」と。子供はまだまだ未熟者なのだ。我慢して、我慢して……失礼の……ないように……

 透桜子は疲れていた。身体的ではない、根本的に、心的に疲れていた。同じような毎日に飽きていた。
 ただ起きて食べて勉強して食べて勉強して寝る。それだけで一日が説明できてしまう今を退屈に思っていた。

「透桜子さん、これ。」
「あ、ありがとう。」
 いつの間にかペンを落としていたようだ。それに気づいてなかった。
「…………」
「透桜子さん、疲れてる。」
「え、?」
 断定的だ。知っているような口ぶりである。。だが、話している彼とはそう接点があった訳でもない。ただのクラスメイトである。確か名前は荒木羅刹(あらきらせつ)
「なんで……」
「……そう見えたからだ。透桜子さんから生気が感じない。」
 今透桜子は親不孝である。もしかしたら、羅刹は自分をどうにかしてくれると、透桜子は思っている。無論、羅刹もその気でいる。
「私……」
「死にたい、なんて言うな。……分かった。今夜、必ず迎えにいく。」
 何を言っているのかさっぱりだった。迎えの意味も、羅刹が透桜子に関わる意味も。でも透桜子からしたら、あの仏から抜け出せればそれでいいのだ。透桜子は少し頷いた。

 夜、風呂も済ませ寝る前に本を読んでいた。毎日の日課である。何気にこれを楽しみに生きていたのかもしれない。
「透桜子さん、」
 急に名前を呼ばれて驚いた。ベランダの方からである。透桜子は本を閉じ、小さく距離を縮めた。
 ベランダの塀に知らない男。いや、知っているようで知らない男がいた。背は3m、額には1本の角、長い宵闇(よいやみ)色の髪を揺らした、筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした男だ。
「鬼……」
 後退り(あとずさり)した。怖い、死ぬかもしれないと思うと、逃げ出したかった。死にたいのに……死にたくない……と思ってしまった。
 でも、知っているのだ。この黄金の瞳も、宵闇の髪も、北極海のような冷たい声も。
「透桜子さん、迎えに来た。」
「……荒木…くん?」
 鬼はひとつ頷いた。そして透桜子を呼ぶのだ。「来い。」と。
 足音が聞こえる。仏が起きてしまったようだ。時間が無い。でも透桜子は自己決定力が欠けている。
 手を伸ばす鬼に透桜子は惹かれる。逃げ出したい、彼と一緒に。一歩二歩三歩と近づいて、手を掴んだ。その時。
「透桜子!どこに行くの、透桜子?!」
 呪いの声である。が、透桜子にはもうその呪いも効かない。手を引かれ羅刹に身を委ねる。羅刹はほんと少しだけ笑っていた。
「今宵、娘を攫わせてもらおうか。」
 透桜子はこの時少しでも羅刹を格好いいと思ってしまった。

 トロッコはレールを進み続けたがために、崖から落ちてしまった。

 瞬く間に桜が吹雪き、目を開ければ知らぬ屋敷の前だった。
「ここ、は、?」
(われ)の家だ。」
 ここで初めて羅刹の一人称が「我」だということを知った。屋敷は実に静かで、和やかな雰囲気だった。木の匂いが不安な心を(なだ)める。
 透桜子は聞きたいことが沢山あったが、その日は寝ることにした。安堵か、はたまた疲労か、布団に入るなり睡魔に飲み込まれた。
 朝、起きると驚くほどに体が軽かった。目覚めもよく清々しい。そこで、羅刹の家にいるのだと思い出した。
 戸を叩く音、3回。恐る恐る部屋から出てみれば、着流し姿の羅刹がいた。
「おはよう……ございます……」
「おはよう。今日は花見日和だな。」
 縁側の向こうを見れば、庭の桜が見事に咲いていた。
「今日は学校もない。桜でも見ながら話さないか?」
 羅刹は無口な反面、誘い上手で博識だ。
 透桜子と着流しのまま、髪を()かして縁側へ向かった。縁側には緑茶と餅が置いてあった。
「我は朝餉(あさげ)は取ったから、好きに食べてくれ。」
 昨日の夜は不安と緊張からあまり食べていない。それもあるのか今はとてもお腹が空いている。
「いただきます……」
 餅を頬張る透桜子を羅刹は見つめている。傍から見れば恋人のようだ。考えてしまうと透桜子はとても気恥ずかしくなった。一方、羅刹は柔らかく笑っていた。
「な、なんで……私をここに……?」
 透桜子は餅を飲み込むと、1番気になってたことを聞いた。羅刹は少し目を大きくして、一拍置いて言った。
「気になっていたからだ、透桜子さんのことが。」
 意外な返事に餅が喉に詰まりそうになる。
「気になる……?」
「いつも空を見ていて、自由になりたそうな。そんな感じだ。違かったらすまない。」
 よく見てる、という感想だ。透桜子は羅刹のことは知らない。あまり見ない名前の上背のある静かな男子、といった印象だ。
「見てるね、驚いた。」
「どうも目を引かれてな……うっ……」
 羅刹は珍しく目を逸らした。肩を叩いてもこちらを向こうともしない。そういえば、昨日のような体格も角もない。
「荒木くん……?角は?」
「閉まった。怖がるかと思って、背も縮めた。」
 逸らした視線が帰ってくる。羅刹の頬は薄く紅色に染まっていた。
「照れてるの……?」
「な、!……迷惑か?」
 それはどう取るべきか透桜子は悩んだ。悩んだが、感性に従うことにした。
「案外……迷惑じゃないかもしれない。」
「なら、一つだけ。実家に帰りたいか?」
 羅刹は不器用だが、確信犯である。透桜子は少しだけ羅刹に身を寄せてみた。
「帰りたくないって言ったら……迷惑?」
「いや、全く。」
 羅刹の言葉を信じた。透桜子は彼の家に身を寄せることにした。

 その日から透桜子と羅刹の不思議な関係が始まる。友達以上恋人未満な2人だけの関係だ。

 「人ならざる者」が住む世界、(よう)は魔法が当たり前の世界だ。多種多様な種族と生活。透桜子にとって毎日が新鮮だった。
 透桜子にとって母親は仏であり、レールであった。それがなくなってしまえば、何をすればいいか分からない。透桜子は選択できないのだ。それは彼女の精神にも支障をきたし、適応障害を発症していた。
 羅刹は地球の高校に留学に来ている形だった。透桜子は羅刹が妖の学校に戻ると同時に高校を辞めた。代わりに家庭教師を雇ってくれた。お金がかかるからと断ったが、大丈夫と聞かなかった。どうやら羅刹は鬼一族の本家らしく、裕福な育ちだった。学ぶことは嫌いじゃない。羅刹の言葉に甘えた。

「透桜子さん、」
「おかえりなさい、荒鬼(あらき)くん。」
 羅刹の苗字は荒木でなく荒鬼だ。人間に紛れるための策だったらしい。羅刹の学校は寄宿制だが、今日から連休により帰省していた。
「ここは荒鬼の家だから、荒鬼くんと呼ぶと……混じる。」
「じゃぁ……羅刹くん?」
 透桜子は無感情で言った。だが羅刹は驚いたっていったらありゃしない。荒鬼のままでいい、と言い捨て自室に戻ってしまった。
「あんな兄貴初めて見たわぁ!」
「そうだね、俺を初めて見た。」
 後ろから男女二人の声。驚いて振り返った。
「おぉ!驚かせてすんません。弟の(いばら)です!」
「初めまして、妹の伊吹(いぶき)です。透桜子さんですよね?」
「え、……あ、……」
 上手く声が出せなかった。ただ首を激しく縦に振った。
「へぇ……可愛いですね、透桜子さん。兄さんもそう思うよね?!!」
 伊吹が声を張り上げて羅刹に聞いた。着流しに着替えた羅刹はなんの疑問も抱かずに言った。

「透桜子さんは可愛いに決まってるだろう。」

 透桜子はきょとんとした。彼女を目にした羅刹もまたきょとんとした。可愛い……?可愛い?!透桜子は何度も反芻した。一方、事態を把握した羅刹は照れ隠しできてない。やっと飲み込めた透桜子も頬を熱くした。
「あははは!引っかかったね、兄さん。ちょろいなぁ。はぁ……面白い。」
「伊吹……貴様……」
「睨まないでよ。俺は恋のキューピットなんだから。末永くお幸せに。」
 茨は笑う他なかった。玄関には2人しか残らず、どうも気まずくなってしまった。
「わ、私……ほうき片付けてくる。」
「っ!待て。」
 手を掴まれた。そのまま羅刹の中に包まれた。透桜子より一回りも二回りも、いやそれ以上に大きい体に抱きしめられている。
「心臓がうるさいな。」
「どっちのかも分からないのに。」
「どっちのじゃない。どっちも、だ。」
 茨と伊吹は影からそっと二人を見ていた。

 その日の夜、宴が開かれるという。鬼一族の当主である羅刹の父を始め、分家当主一族、老鬼院の長老方が集まる。
「無理して出なくて良い。……怖いだろう?」
 透桜子は悩んだ。未だに決断することは苦手だった。が、
「……行く。」
「そうか。」
 そっけない反応が気になって見上げると、三日月は微笑んでいた。
 そうと決まれば早く、透桜子は美しい着物に着替えさせられた。金と紅の映える(かんざし)に、紅梅(こうばい)色の綺麗な着物だった。
「透桜子は紅も蒼も似合うだろうな。」
 そういう羅刹もいつもと違う。背丈は3m、一角の生やし、鋭い瞳孔が見える。月が輝く宵闇には鮮やかな蒼の袴がよく合っている。

 宴は既に始まっている。大勢いるようで、掠れた老人の声から年頃もしくはそれ以下の娘の声まで聞こえた。
「失礼する。」
 羅刹の一言で会場が静まり返る。戸を開けた途端、視線は透桜子に集まった。
 本当に鬼の宴のようだ。
「人間……!」
「こら!やめなさい、瑪珠(めず)。」
 瑪珠と呼ばれた娘は赤茶色の長い髪を高くひとつに縛っている。
「だって、人間よ?!羅刹様の隣に人間がいるなんて、いけないわ!」
「瑪珠!!」
 瑪珠は止まらない。隣にはよく似た、色違いのような娘がいた。
琥珠(こず)もそう思うでしょう!?」
「羅刹様のお勝手でしょうに。」
 琥珠は至って冷静だった。そんなこと関係ないかのように羅刹は透桜子と席に着く。透桜子は上座、羅刹よりも上に座らされた。
「ちょっと、人間!なんであんたみたい愚民が羅刹様より上に座るのよ!分を弁えなさい!」
 吠えたのは瑪珠だ。透桜子は怖くなって勢いよく立ち上がった。月が流れる。
「瑪珠、いい加減にしろ。これは我の意向であり、透桜子さんは関係ない。それ以上の物言いなら退出してもらう。」
「っ……!」
 流石に瑪珠とて羅刹に言い返せる力はなかった。透桜子は改めて羅刹が本家の子息なのだと認識した。

「透桜子さん、何か食べるか?我が取るから。」
 鬼の背丈に合わせているからか、座卓だが少し高い。幼女が座って顔しかでない、そんな状態だ。いや、それよりも食べにくいだろう。透桜子は膝立ちして料理を見渡した。並んでいるのは和食。家庭的のものから料亭的なものまである。比較的和食は好きだ。
「筍……」
「土佐煮だな。他は?」
「角煮食べたい。」
「分かった。」
 筍と角煮を小皿に分けてくれた。
「食べづらいだろう。下で食べていい。」
 言葉足らずな羅刹だが、やはり優しい。老人も、もちろん瑪珠も何か言いた気だが、言える雰囲気ではなかった。そんなことお構いなしに透桜子は料理も頬張る。
「美味しいか?」
「うん、角煮美味しい。」
 透桜子は幸せそうに笑った。こればかりは羅刹の仏頂面も緩む。
「あはは!羅刹が宴を楽しそうにしてるの、初めて見たよ。」
 羅刹の父、百夜(ももや)が言った。百夜は羅刹と違って柔らかい印象がある。その隣の温羅(おんら)ー羅刹の母ーは厳しいがよく気遣ってくれて家事終わりには菓子を出してくれる。
「はぁ……そんな調子だから、いつまで経っても娶らない(あと)を作らない。次代の自覚はあるのか?全く……」
 一老鬼(ろうき)が言った。羅刹の顔が曇る。これだから宴は好きじゃないのだ。この世の中、10から結婚でき、後継ぎを考え始める。一方、羅刹はもう17になろうとしている。本家の嫡男からしたらだいぶ遅い。
「まさか、その人間と結婚するだなんて言わないでしょう?!」
 間髪入れず瑪珠が吠えた。ビクッと透桜子の肩が跳ねる。角煮の汁が着物に零れてしまった。
「あ、……」
「あらまぁ、綺麗なお着物が台無しですね?衣1つ綺麗に保てないなんて、なんて下品な。まぁ今の着物の方がお似合いですけどね。」
 透桜子を非難する瑪珠。どうにも会場にいたくなかった。泣くのを我慢して、でも流れてくるのだ。
 静まる会場に声1つ。
「ねぇ、瑪珠。とりあえず出てってくれない?」
 琥珠の声だった。瑪珠含め一家が動揺していた。その時、琥珠は初めて瑪珠を「瑪珠」と呼んだのだ。
「こ、琥珠……?」
「ちゃんと言わなきゃダメかな?宴の邪魔なんだって。『人間』だの『愚民』だの。人間だから何が悪いのよ!愚民?あんたが1番愚民だよ!」
 そんなんだから羅刹様も縁談を切るんだ、と琥珠は言った。瑪珠はたまらずに会場を後にした。
「姉の無礼をお許しくださいませ、透桜子様。」
「え、……あ、」
 透桜子は「様」と付けられて、動揺した。琥珠は深々と頭を下げている。
「わ、私に『様』なんて……やめて下さい。顔を上げて下さい。大丈夫ですから。」
「透桜子さん……なんてお広い御心を……!」
 琥珠は憧れの眼差しを向けた。
「この琥珠、透桜子さんを婚約者様に推薦します!羅刹様、このお方を絶対離してはいけませんよ!」
 先程までさっぱりしていた琥珠だったが、急に熱が入ったようだ。百夜は思わず笑ってしまった。
「琥珠らしくないね。でも、良いじゃないか。羅刹は元々その気でしょ?透桜子ちゃんはどう思う?」
 羅刹はその気でいる。もう母親のもとには帰りたくない。もっと、羅刹と……
「居たい……もっと、ここに居たい。」
 ふと、羅刹の顔を見上げた。羅刹の頬は今までに見たことないほどに赤く染まっていた。少しばかり可愛いと思ってしまった。
 荒れていた宴の席も温かい空気に包まれた。

 時間は風のように過ぎ、月は西に傾いている。それでもなお透桜子は寝れそうになかった。独り布団の中で目を瞑っては、眠れずに目を開ける。耳を澄ませば、風、それに揺れる草木の音、混じって笛の音がした。リコーダーやフルートのような西洋の笛じゃない。心落ち着くような、温かい柔らかい音だ。
 気になってしまってはしょうがない。音を頼りに辿ってみることにした。廊下を抜けて、縁側に出て、その向こうの屋根の上。月の背後に横笛を吹く鬼、一人。髪が風に靡きながら、美しい旋律を奏でていた。
「羅刹くん……」
「ん?あぁ、透桜子さん。起こしたか?」
「ううん。元々寝れなかった。」
 颯爽と降りてきては、縁側に座った。手招いて透桜子を呼ぶ。少し離れたところに透桜子も座った。
「遠くないか?」
「意識してしまって、仕方ないので……」
 この距離でさえ緊張しているのに、これ以上はパンクしてしまう。羅刹は立ち上がって移動した。呆れられたか、と怖くなる。
「これでいいだろう。」
「ち、近い……」
 羅刹は全くといって呆れてない。むしろ毎日毎日愛おしくなる一方だった。羅刹は透桜子も囲うように座った。軽く抱きしめ、お互いの体温が伝わる。春の冷たい風が体を冷やすのに、顔だけ熱くなった。
 あの唐突なきっかけから、こんなに身近な人になるとは、透桜子は思っていなかった。
「なんで私を、助けてくれたの?」
 前聞いた質問をもう一度聞いてみた。
「……我はずっと、透桜子さんに惹かれていた。確か、転校初日歴史の授業の後だったはず。」
 歴史の授業……それは転校来たばかりで何も分からなかった羅刹に透桜子が休み時間に教えたのだ。歴史は透桜子の得意科目でもあった。
「あれだけ?」
「きっかけは。誰も我に声はかけてくれなかったから、特に印象に残っている。」
 ただそれだけ、あの少しの時間がこの関係に繋がったという。ほんと人生何があるか分からないなと、つくづく思った。
 羅刹は先程より少し強く抱きしめた。 
「温かい……」
「……うん。」

 鼓動が鳴り合う真夜中の恋。

 それは囚われた人間の娘と孤高な鬼の青年の運命の出会いである。
「こっち!こっちだよ、海琴くん!」
「薺……!ちょっ、待って!」
 よく晴れたある日の原っぱで、海琴は初めて走った。一九歳の彼にとって念願である。

 地球との平行世界・妖に存在する不治の病をご存知だろうか。その名も「魔力性筋萎縮硬化症」魔力が全身の筋肉を纏わり付いて硬くなり、全身が動かなくなりそのまま亡くなる。魔法が全てであるこの世界で致命的であるにもかかわらず、未だ確たる治療法はない。

 海琴もその一人だった、つい先日まで。歴史が変わったのは今から三週間ほど前である。命わずかな海琴のもとに、名医・桜子の弟子・リンがやってきた。リンは昔、同じ病の友人を治療した経験があったのだ。惜しくもその友人は完治せず、半年後に亡くなってしまったが、それが海琴への治療に繋がった。幾度の手術の後、世界初の完治へと漕ぎ着けたのである。

「海琴くん!早く!」
「待って……!はぁ……はぁ……あはは……!」
 海琴は子供らしく無邪気に笑った。
「走るのって……結構疲れるけど……楽しいね、薺……!」
「んふふっ!でしょう?ほら、もうちょっとだよ!」
 幼なじみである薺にしばらく片思いしているが、一度としてその気持ちを伝えたことは無い。それは海琴自身が死を受け入れていた証拠である。
「ほら着いたよ!」
 着いたのは春の花が満開に咲き誇る花畑だった。
「っ……!?ここって……」
「私達が初めて会った場所。覚えてる?もう一〇年も前なんだって。」
「そっか。もう一〇年も経つんだね。まぁそうか、ついこの前久しぶり会ったんだから。」
 それ以外に、薺と海琴は二度ほど幼い頃に会ってから一〇年も会えていなかったことも相まったのだろう。
「感動の再会の後すぐ、死ぬかもなんて、本当にドキドキしちゃったぁ。でも、良かった……」
 花畑の中で薺は花の精霊の如く柔らかい笑顔を見せた。それは昔から変わらない笑みだった。
「っ……!!…………薺、」
「んぅ?どうしたの、海琴くん?」
 薺の手を取り、自分の胸へと誘う。ドクドクと心臓の音が薺に伝わる。
「わぁ……!うふふっ!生きてるってやっぱり嬉しいね。」
「……うん。君にも会えるし、恋だってできる。」
「えっ……///!」
 鼓動が速くなっていく。
「海琴くん……?」
「……薺が好きだ……ずっと好きだった。一目惚れして……それから……ずっと」
「……ぅっ……ぅぅっ……!」
 告白してみれば薺が泣いているではないか。
「えっ、そ、泣くほど嫌だった……?」
「違う……違うよ……すごくすごく……嬉しいの……!一〇年間ずっと会いたいって思ってた……!大好きなんだもの……!なのに……再会できたら……海琴くん……」
「っ!ごめん、薺。僕はもう大丈夫だよ。」
「……ぅっ……ぅぅっ……うぁぁぁんっ……!」
 泣きじゃくる薺を一回りも二回りも大きな身体で抱きしめる。
「泣かないで……薺。」
 そっと雫を拭ってあげると、またいっぱい涙を溜める。海琴は薺の前で跪いた。
「結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
「っ……///!はい!よろしくお願いします///!」
 海琴は薺を高く抱き上げ、クルッと一周してみせた。
 俺は文也、個人のファッションデザイナーをしている。俺には少し変わった家族がいる。
「ただいま、文也。」
「おかえり、健人。早かったな。」
 俺のパートナー(多分、妻)の健人。妖人で、男性でありながら子宮を持つフェアリーである。地球で芸能活動しながら、妖では魔法総督局に所属している。どちらも忙しいというのに、疲れた顔ひとつ見せない超人だ。
「おかえりなさい!お父さん!」
「ただいま、陽葵。」
 長女、陽葵。健人譲りの音楽センスを武器に、アイドルグループでセンターをしている。健人曰く、魔法は苦手そうだがそこらのモブよりずっと強い、とのこと。
「ちょっと待ってて!今、六華と夕食作ってるから!」
「それは楽しみだな。」
 次女、六華。大人びた容姿を使いこなし、ファッションモデルをやってる中学生。さっぱりしていてクールだが、結構甘えん坊。魔法の才能はピカイチで、歳に見合わぬ強さを持つ(らしい)。

 至って普通の家族だ。だがそれももうしばらく見ていない。

 健人が妖の仕事で遠征に行ってしまった。予定では一ヶ月と言っていたのにも関わらず、もう二ヶ月になろうとしている。
「お父さん……帰ってこないね……」
「だな。」
「心配……怪我してないかな……大丈夫……かな……」
「ママのことでしょ?大丈夫よ……きっと。」
 きっと一番辛いのは六華だ。彼女は根っからのママっ子だ。いくら大人びていようと、中学生。大好きなママに会えないだけ、相当ストレスだろう。
 俺の携帯に着信が来る。相手は舞人<まいと>、健人の父親だ。
 そういえば以前もこんなことがあった。昔健人が戦闘に出た時、仲間を庇い攻撃を受け殉職した、と彼から電話を受けた。その後、蘇生術で健人は復活したが……
 嫌な思い出がぶり返し、怖くて電話に出れない。一度切れてしまったが、数分後また電話が来る。
「もしもし……」
 恐る恐る電話に出る。
『もしもし、文也で間違いないか?』
「はい……どうかしましたか?」
 平静を装っていたつもりだが、手汗が止まらないあたり動揺している。
『健人が、…………』
「っ……!!」
 俺は思いっ切り、家を飛び出した。
「ちょっ、お父さん?!」
「っ!待って、私も行く!」
 後ろから娘たちが付いてくる。

 転送魔法にて、妖・魔法総督局。エントランスに舞人が立っていた。
「陽葵と六華も来」
「ママは無事なの?!早く会わせて!」
 六華が舞人に飛びつく。今までのストレスが爆発して、感情をコントロールできていない。
「……??六華か?どうしてここに?」
「へ、……?」
 舞人の後ろから声がした。爽やかな海風のような声だ。鮮やかなコバルトブルーの髪が見える。紛うことなき健人だ。
「ママ……ママ、!ママ!!」
 六華は一目散に駆け寄り抱きついた。健人の胸に顔をうずめ、彼のシャツを濡らす。
「文也も陽葵も、なんでここに?」
「舞人さんから電話が来て、『仕事に夢中で帰ろうとしないから、連れ帰ってくれ』ってさ。」
「そうだったのか。」
 どうやら今回の遠征で、健人は怪我しなかったものの、負傷者が多くその救護や代行を休みなくしていたらしい。どおりで帰ってこないわけだ。
「六華、一回離れよう。もう三日も四日も風呂に入ってないから、臭いだろう?」
「…………嫌だ……今、ママを噛み締めてるの……怖かったの……」
 健人は根負けして、優しく六華の頭を撫でた。
「…………温かい。」
「そうか。」
 俺は手を伸ばした。
「帰ろう?」
「……あぁ。」
 手を取るやいなや、健人は俺にキスした。

「ふぅ……」
「スッキリしたか?」
「あぁ、やっぱり風呂はいいな。」
 髭を剃って、体も頭も綺麗さっぱり洗ってきたようだ。
「私何気に髭あるお父さん初めて見たかも!」
「確かに……珍しくて、写真撮った……!」
「え!ちょうだい!ダンディお父さんw」
「やめてくれ……」
 六華も陽葵も先程の不安は飛んでいき、明るさを取り戻した。

「健人、髪乾かしてやる。」
「ありがとう、文也。」
 娘たちが風呂に入っている間に、夫婦水入らずの話をした。俺がソファーに座り、俺の足の間で胡座をかく健人。
「髪長くなってきたな。切るか?」
「んー……まだ切らないつもりなんだ。」
「なんで?」
「今度着る文也の服は髪が長い方が似合うと思って。ウルフにしようと思うんだが、どうだろうか?」
「ははっ!いいじゃねぇか。」
 結局健人は仕事人でいつもモデルだの妖だの考えてる。そんな健人が俺は好きだ。
「ただこまめに帰ってきてくれ?」
「すまない……随分心配をかけたみたいだな。」
「まぁな。でも怪我してないだけ良かったわ。」
 健人の誕生日に奮発して買ったマイナスイオンドライヤーで髪を乾かす。どれだけサラサラに乾かせるか、最近の趣味になってきている。
「ほら、終わったぞ。」
「ありがとう。文也が乾かすといつもサラサラだな。」
 時々見せるか弱い姫のような柔らかい笑みがすごく落ち着く。出会った頃はお互い警戒心剥き出しで喧嘩ばかりしていたが、今ではそんなことない。
「ぱぱぁ、髪乾かしてぇ……!」
「おぅ。おいで、陽葵。」
「むっ……パパは今お父さんのだからダメだ。」
「いいでしょぉ?さっきまでイチャイチャしてたじゃん!」
 パパの取り合いが見れるのも、案外嫌じゃない。あぁ、平和……ずっと続けばいいのに。
 魔法局、それは国際的に活動するエリート魔法士団体。基本的に特別優待魔法士しか入局できず、皆の期待と憧れを背負っている。
 その中でも特別異質な局がある。その名も魔法暗殺局。魔法裁判局および魔法検察局、魔法法律局が一致する罪人をその場で処す、その役目がある。

 そんなサイコパスの塊のような場所に俺・冴玖磨(さくま)はいた。俺としては、悪魔の筆頭分家下っ端でも能力だけは認められてここにいるだけマシだと思っている。そんな俺も今日から新人の教育係になった。
「…………」
(おいおい冗談でしょ……?!)
 鮮やかな紫苑色の髪に、みずみずしい赤紫の瞳。正直見覚えしかなかった。
「えっと……俺が教育係の冴玖磨です。よろしくね。」
 上手に出るのを躊躇う。それもそうだ。相手はフェアリー本家末席、現役一の魔法の天才と有名な綾野蓮華(れんげ)。齢一一で特別優待魔法士の資格を獲得し、兄・健人の記録を四歳も更新した縁に綾野潤や侑李、和也と名のある魔法士がいるエリート一家のエリート。
「な、なんで君みたいなエリートとがこんなところに……?」
「……貴様に関係あるか?」
 初対面の(一応)先輩の俺に貴様呼び……俺とて天下の綾野家に口出しできるほど身分は高くないが。
「一応、先輩って呼んでほしいな……」
 にしてもこの子……
「背大きいね。一九〇はある?フェアリーって悪魔と同じくらいなんじゃないの?」
「……先輩が小さいんだろう?」
 何も返されないと思っていたので、すごく驚いた。
「俺は悪魔の平均より大きいからね!」
 と言っても一五五センチなのだが。そういえば、さっき先輩って呼んだし、結構聞き分けの良い子なのかもしれない。

「おい、冴玖磨!新しい案件だ。」
 教育係になって三日目、初めての案件が来た。
「蓮華!案件だよ!行こう!」
「…………はい。」
 こんなエリートが魔法総督局に入らなかったのはいつまでも謎だが、こちらとしては万々歳だ。

 だって……

 罪人の住む豪邸。金はあるところにはあるのだな、と思わせる。その家でドロドロと溶けていく罪人の姿があった。蓮華の潜在魔法「fusione(融解)」、万物を溶かす魔法はこの界隈において最高に役に立つ。彼の莫大な魔力によって成り立つその魔法のおかげで速く楽に仕事が終わる。見事なまでにありがたい。フェアリーなこともあり、魔力切れの心配もない。
「終わった。」
「終わりました、ね?ありがとう。ほんとに速くて助かるよ。将来が楽しみ!」
 蓮華の肩を二、三回叩いた。蓮華は嫌だったのか、そっと顔を背けた。
「なに?……照れ屋?おい、蓮華ぇ!!」

 無口な蓮華が話すようになったのは教育係からバディに変わった三ヶ月後のことだった。
「先輩、次の案件です。」
「ん〜、見る感じ危なそうだし、用心していこうね。」
「むっ……俺はフェアリーです。そこらの奴らに負けません。」
「分かってるけど、油断禁物だよ、蓮華。」
「……はい。」


 次の案件は闇オークションだった。闇オークションは案外定期的にあり、その度主催者を殺めている。それなのに一向に無くならないのは、それだけ飢えた貴族がいて、需要があるからだろう。俺自身闇オークションの案件は腐るほどやってきた。

 オークション当日、俺らは仮面をかぶり、客に紛れて潜入する。
「蓮華?勝手な行動しないでね。」
「なんでですか。」
「オークションって貴族の集まりなんだよ。君よりは下手かもしれないが、集まれば、ね?衆少成多だよ。」
「…………」

 蓮華は終始何かを気にしているようだった。
「蓮華?大丈夫?」
「…………」
 頻繁に首を振り周りを見てるようだ。それはオークションが始まってからも同じだった。
「五〇〇〇万円から!」
「五二〇〇万円!」
「五三〇〇万円よ!」
 珍しい毛並みの獣人の子や美しい容貌の雪女の娘など、出てくるのは子供ばかり。貧困が激しく親に売られたのだ。
(可哀想に……)
 一方の蓮華はどこか一点をずっと見つめている。
「蓮華……?」
「……いた。いたぞ!貴様!!」
 と思えば急に声を張り上げ怒鳴り始めた。
「蓮華!落ち着いて!」
「よくも兄貴を!俺が許さねぇ!!」
 ある一人の貴族に殴りかからんばかりの怒りをぶつけている。
「綾野蓮華よ!」
「あいつって確か、暗殺局に……」
「あいつら!魔法局の奴らだ!捕らえろ!」
 周りは段々と俺らの存在に気付き始めた。このままでは案件どころか生きて帰れるかも怪しい。
「蓮華!引き返すよ!蓮華!」
「貴様……!許さねぇ!よくも……よくも兄貴を!!」
 完全に熱くなっていて何も聞こえていない。
(あ゛ぁ!もう……!)
 これは後で説教コースだ。
「隙ありぃぃ!!」
「っ!(まずい!)……くっ!」
 天才的な実力の蓮華があっけなく捕まった。それもそうで、前言った通りここは貴族の集まりだ。たとえ一人で強くとも、弱い力の集まりには勝てやしない。
「これくらいの縄……っ!」
「動くな馬鹿野郎。死ぬぞ。んだから言っただろうが、勝手な行動すんなってさ。」
 目の前で何人「殺した」と思ってる。

 俺は捨てられるようにここに入れられた。入った時、同期は俺含め六人。年は皆バラバラ、俺は下から二番目。殴り合いの喧嘩もしたが、結局仲良く飲みに行ったり、旅行に行ったりした。そんな仲間だった。
 その同期も四年としないうちに皆死んだ。俺の目の前で、皆。守りきれずに死んだのが二人、俺を庇って死んだのが一人、敵との相打ちが二人。俺が「殺した」も同然だった。最後の一人は俺より三つも下で、俺を「冴玖磨さん」と言って慕ってくれていた。そいつさえ守りきれずに、自分の腕の中でそいつは死んだ。
『さ、くま……さん……』
暁都(あきと)!暁都!しっかりしろ!』
『さ、くま、さん、ぜ、たいに、おれ、らの、こと、わすれ、ない、で……やく、そく、で、す
……』
『暁都?おい!暁都!あきとぉぉぉ!!!』

 大切なバディが、仲間が死ぬのはもう見たくない。一人で戦う術も手に入れて、バディを組まずに二年過ごした。そして来た、蓮華の存在。まず死ぬことはないだろうが、若い芽を摘ませないのも先輩の役目だろう。

「お前らも動くな。俺は魔法暗殺局・第零特別班班長、奈利(なり)冴玖磨だ。」
「第零特別班……班長……だと……」
「今まで……何人の……主催者が……こいつに……」
「えぇい!ビビるな!行け!殺せ!!」

 バンバン!ドドドトド!グサッ!ザクッ!ビシャッ……!

(なんて銃とナイフの捌き……)
 一〇分足らずで向かってきた敵を全滅させた。中には紛れて逃げる輩もいた。主催者は腰を抜かし怯えていた。
「用は君だけだったんだけどね。まぁいつか殺される運命だったのが、今日になっただけか。」
「ぁ……ぁぁ……」
「どう死にたい?絞殺?射殺?撲殺?溺殺?ゆーっくり血を抜いて徐々に死ぬのもありだね。俺はそれが一番好きなんだ。」
「ぇ……ぁ……まっ……」

 ザクッ!プッ、シャァァァァァ……!

 何か言う前に奴の首を掻っ切った。血が大量に吹き出し、俺の肌を赤く染めていった。

「まぁそんな殺り方、時間かかって仕方ないけど。」
 血生臭いスーツで頬を拭った。
「大丈夫かぁ。今縄解くからな。」
「……ありがとうございます。」
「蓮華もまだまだ新人だね。でも、単独行動はダメ。分かった?」
「分かりました……すみません……」
 蓮華の視線の先には先程まで怒りをぶつけていた奴の遺体があった。
「……あいつ……兄貴のこと……強姦……したんです……いつか……絶対……殺すって……決めてて……」
「うん。」
「今日の……客の……名簿に……名前が……あって……絶対……ぜったい……」
 蓮華にも彼なりの敵がいた。そう熱くなるのは俺にも分かる。蓮華の瞳に涙が浮かんでいるのが見えた。
「もう大丈夫。よく頑張りました。」
「俺……何も……」
「いいのいいの。ほら、帰るよ。着替えたらどっか食べに行こうか!今日は先輩が奢ってあげよう!」
 蓮華の手を引っ張り立ち上がらせ、ホールを後にした。
「…………そんな、先輩が俺は好きです。」
「っ?!今なんて?!」
「…………」
 蓮華はそれから一度も口を開かなかった。

 一応、無事に案件は終わり、俺はしばらく休養することにした。 怪我があった訳では無いが、激しい戦闘で疲れているだろう、と蓮華に散々休めと言われ、仕方なく休んでいる。
「暇だな……」
『俺は好きです』
「わぁぁ!!」
 なんとなくぼぉーとしていると、蓮華の言葉を思い出してしまった。返事も何もしていないが、蓮華は普通だった。何事もなかったかのように……
(返事しないとな……)
 とは思いつつどう返事すべきか悩んでいる。そもそもあんなエリートが俺を好きである理由が全く見えない。聞くにも聞けない。
 そんなこんなしていれば、玄関チャイムが鳴った。
『遊びに来ました。』
 噂をすれば蓮華である。
「仕事は?」
「終わらせました。明日休みも貰いました。」
「最高に手際が良いね……」
「ありがとうございます?」
「ばぁか、皮肉だよ。」
 このところ蓮華に耳と尻尾があるように感情が分かる。今はしゅんっと耳を垂らしている。
「俺の趣味で良ければ映画が何本かしかないけど……」
「……先輩って純粋ですね。俺が本当に遊びに来たと?」
「げっ……返事待ち、ってことだよね。」
「はい。」
 誠実な瞳でこちらを見つめてくる。
「なんで俺なのかだけ聞いてもいい?」
 ここで聞かなければ、もう一生聞けない気がした。

「俺は……昔から腫れ物を扱うように接しられました。」
 始まったのは蓮華の生い立ちと入局理由の全てだった。
 幼い頃から神童の如く躍進してきた蓮華は、「普通の人」として見られなかった、という。機嫌を損ねぬよう、蓮華の好きなように、と。
「家族だけは違ったんです。特に姉と兄は。俺は彼らに危害を加える奴をことごとく排除したい、だからここに入りました。」
 蓮華は一歩近づいて、俺の頬に触れた。
「初対面で先輩は俺を後輩として見てくれましたね。そんなの初めてだったんです。敬語じゃないのも、むしろ先輩って呼んでと言ったのも。」
 凄く嬉しかったんです、彼はそう続けた。
「そ、そんなのたまたまじゃない?」
「そんなことありません。その動じない性格も、中性的な可愛い顔も、小柄で程よい肉付き体躯も、好きです、先輩。」
「っぅ……///」
 少し屈んで俺の瞳をじっと見てくる。
「返事をくれませんか?」
 そんなこと言われてしまったらどうしようもないでは無いか。
「俺、恋愛経験ないけどいい?」
「俺もありません。むしろ二人で探していきましょう?」
「……いいよ、俺でよければ。」
「先輩がいいです。」
 蓮華は俺を軽々と抱き上げると、熱い熱いキスを交わした。

 二九歳サラサーアサシン、二二歳新人アサシンと付き合うことになりました。力哉(りきや)さん、一朔(いさく)さん、鬼丈(きじょう)さん、(ゆかり)ちゃん、そして暁都。俺はもう少し頑張ってみることにします。