大曲の花火も終わり、秋田の夏は終わった。
木々は緑から赤く色を染めた葉を着こなし始め、農家の人たちは稲刈の準備に追われる時期になった。
将哉のいない夏は終わった。
お母さんの経過も順調でもうすでに仕事にも復帰している。冬野菜も今年も作らないと、と、意欲を見せているけど、あまり無理をさせたくはない。
ご近所で農家を営んでいるおばさんに今年は手伝ってもらい、大根、白菜、だけは何とか畑にまくことが出来た。
「あーあー、やっぱり本職の人ってすごいね。私なんか家庭菜園で自分の好きなようにやっていたから今年はほんと勉強になったわ」
「よかったじゃない、おばさんも解んない事あったら何でも聞いてって言っていたし」
「ほんと助かるわ」
「それじゃ行ってくる」
「気を付けてね」
今日は日曜日、母の個人病院は休みだけれど、私の勤める病院は入院患者さんもいる。土曜日曜祭日などはあまり関係なく仕事が入る。
ほとんどの人たちは休みの日だ。
将哉は今日は休みなんだろうか……
彼との連絡のやり取りはまた減った。
どんなに長くても三日に一度は電話をしたりメッセージを送ったりしていたけど、今は一週間を過ぎてもお互い連絡をする事もなくなった。
忙しいのだろう。そう思う心に、また将哉に触れれば私の心は揺らぎ苦しむのを知ってしまったからだ。
ふと目にするスマホ、ちょっとのメッセージでもいい、でもそれすら今は送らなかった。
いつもの様に車のエンジンをかけ、職場である病院を目指す。
日曜日ともあって道路はすいていた。時間には余裕があった。
信号も今日は順調だ。赤信号で止まる回数は少ない。
順調だ……
信号も青だ。何も考えることなく先を進む。
一瞬、車の前に黒い影のような、全面を覆いかぶさるような黒さ、思わずブレーキを踏んでハンドルを思いっきりきる。
《《ガシャン》》という音、車は対抗車線の縁石に乗り上げた。
呆然としながら、今自分がどうなっているかのかさえわからない。
周りを見る。体に痛みはないようだ……
恐る恐る信号の方を見る。
そこには自電車から転げ落ちた子供が道路に横たわっていた。
「大丈夫……」車からその子の所に駆け寄った。
「痛い痛い」と泣き叫ぶ男の子
大きな外傷と出血はないようだ。すぐに救急車を呼んだ。
その間、男の子は痛みを訴えていた。
その子に触れようとしたが体が動かない。
こんな時どんな処置をすればいいのか……病院だったら、私は看護師として何をやってきていたんだろう。
助けて、誰か助けて……
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
痛がる男の子、その子に私は何もしてあげれない。
雅哉……雅哉、頭の中で雅哉の名を何度も呼んだ。
救急車が到着して、救急隊員が男の子の処置にあたった。
私は何も出来ないただ、その場に立ちすくんでいることしかできなかった。
一人の救急隊員が
「大丈夫ですか?」と私に聞いてきた。でも私はただ頷くことしかできない。
そのあと警察が来て事故の状況を聞かれた。
その間の事はほとんど頭の中が真っ白になっていてあまり記憶にない。
ただ覚えているのは
青信号だった。急に前に何かが飛び出してきて……
ただそれだけ……
それだけを言うことだけしかできなかった。
男の子の飛び出し。
男の子は信号を見ていなかったという。
保険会社からの連絡で、男の子のけがは幸いにも命にかかわるような大きな怪我ではなかった。でも左足の骨にひびが入っていた。
男の子が搬送された病院に訪れた時、私はどんなことを言われようとも仕方がないと覚悟して謝罪を男の子とその両親にした。
警察からも言われていた。信号無視をしたのが男の子であっても車を運転する側にはそれ以上の責任があることを。
深々と頭を下げ、両親に、男の子に謝罪をした。
男の子のこの両親からは
「この子がちゃんと信号を見ずに飛び出したのがいけなかった。ほんとうにご迷惑をおかけしました」
と詫びられたが責任としてはこちらの方が重い。
男の子は検査と治療のため1週間ほど入院した。
多くの人たちに迷惑と心配をかけてしまった。
「防ぎようがなかったよ」
秋ちゃんが慰めるように私をかばってくれる。
確かに防ぎようがなかったのかもしれない、でも人を幼い子を傷付けてしまった。
この事故がきっかけかはわからない。
前から眠りは浅かった。いいえ、寝ることが出来ない日々が続くことがあった。
目を閉じると雅哉の事が頭に浮かんでくる。
そして事故を起こしてから……あの一瞬の光景が写し出される。
最近は仕事でもミスが多く重なり始めていた。
仕事が終わり自分の部屋で眺める外の景色。
その景色を眺めると無性に悲しさがこみあげてくる。
そして襲い掛かる孤独感。
誰もいない一人っきりの空間の中に私は閉じこもってしまっている。
そんな私の状態を婦長は見逃さなかった。
「辻岡さん、一度精神科を受診した方がいいと思う。仕事はしばらく時間を減らしましょう」
自分ではそんなに自覚はしていなかったが、周りからは私の変化が著しく変わっていくのが分かるのだろう。
言われるがままに私は精神科の受診を受けた。
医師からは
「精神的な疲労が原因でしょう。軽い心身症の症状がありますね」
そう告げられた。
まずは十分な睡眠を取ることが出来るように軽い睡眠薬と気持ちを落ち着かせる薬を処方してもらった。
だが、処方してもらった薬は効かなかった。いいえ、私が飲むのを拒んでいた。
飲んで楽になればそれで私は済んだかもしれない。
でも傷つけてしまったあの男の子の事を思うと、事故の事を思い、誰かにこの不安な気持ちを支えてもらいたかった。
そう雅哉にこの崩れかけている私の心を支えてもらいたかった。
雅哉に電話をかける……
聞こえてくるのはコール音だけ。
雅哉は出なかった。
着信履歴もあるはずなのに、そのあと雅哉からは返ってくることはなかった。
「あなたは自分の気持ちの蓋をしてしまう。そしていつかその蓋が壊れてあなたはどうしようもなくなってしまう」
お母さんから言われたことがある。
そう私は、自分に蓋をする。
どんなに思いがこみあげてもその想いを閉じ込めるように蓋をしてしまう。
その蓋が壊れるまで……
でも今回は違う。私は自分の蓋を閉め、その想いにまた壁を作ろうとしていた。
もしも蓋が壊れても、はじけだせないように。
だから……外見は明るくふるまうように、仕事をしていればこの胸の中で沸く想いを忘れることが出来るよう、無理を無理と感じないように仕事へ向かった。
「歩実香、あなたまた無理しているでしょ」
お母さんが心配そうに私に語り掛けてくる。でも私はその言葉に刃《やいば》を向ける。
「私の事を心配している余裕があるんなら自分の事をもっと考えてよ」
もう季節は木々の葉が真っ赤に燃えゆくように色ついている季節になっていた。
家ではお母さんとぶつかるようになり。一人きりで過ごす時間が増えた。
今の私は仕事をすることで自分を忘れることが出来るような気が強くなっていた。
もう……雅哉の声を一ヶ月訊いていない。
今、雅哉の声を訊けば……私はたぶん、自分の作った壁を自分で壊し、また雅哉に迷惑をかけてしまいそうで怖かった。
今一生懸命に頑張っている雅哉に重荷を背負わせることは出来ない。
これは私が作った自分の壁、そして私が締め切る自分の蓋
会いたいと思う気持ちが強くなればなるほど私のこの壁は次第に厚さを増していく。
雅哉に対する壁は次第に厚さを増していくのを私は自分で感じることさえも出来ないほどになっていた。
木々は緑から赤く色を染めた葉を着こなし始め、農家の人たちは稲刈の準備に追われる時期になった。
将哉のいない夏は終わった。
お母さんの経過も順調でもうすでに仕事にも復帰している。冬野菜も今年も作らないと、と、意欲を見せているけど、あまり無理をさせたくはない。
ご近所で農家を営んでいるおばさんに今年は手伝ってもらい、大根、白菜、だけは何とか畑にまくことが出来た。
「あーあー、やっぱり本職の人ってすごいね。私なんか家庭菜園で自分の好きなようにやっていたから今年はほんと勉強になったわ」
「よかったじゃない、おばさんも解んない事あったら何でも聞いてって言っていたし」
「ほんと助かるわ」
「それじゃ行ってくる」
「気を付けてね」
今日は日曜日、母の個人病院は休みだけれど、私の勤める病院は入院患者さんもいる。土曜日曜祭日などはあまり関係なく仕事が入る。
ほとんどの人たちは休みの日だ。
将哉は今日は休みなんだろうか……
彼との連絡のやり取りはまた減った。
どんなに長くても三日に一度は電話をしたりメッセージを送ったりしていたけど、今は一週間を過ぎてもお互い連絡をする事もなくなった。
忙しいのだろう。そう思う心に、また将哉に触れれば私の心は揺らぎ苦しむのを知ってしまったからだ。
ふと目にするスマホ、ちょっとのメッセージでもいい、でもそれすら今は送らなかった。
いつもの様に車のエンジンをかけ、職場である病院を目指す。
日曜日ともあって道路はすいていた。時間には余裕があった。
信号も今日は順調だ。赤信号で止まる回数は少ない。
順調だ……
信号も青だ。何も考えることなく先を進む。
一瞬、車の前に黒い影のような、全面を覆いかぶさるような黒さ、思わずブレーキを踏んでハンドルを思いっきりきる。
《《ガシャン》》という音、車は対抗車線の縁石に乗り上げた。
呆然としながら、今自分がどうなっているかのかさえわからない。
周りを見る。体に痛みはないようだ……
恐る恐る信号の方を見る。
そこには自電車から転げ落ちた子供が道路に横たわっていた。
「大丈夫……」車からその子の所に駆け寄った。
「痛い痛い」と泣き叫ぶ男の子
大きな外傷と出血はないようだ。すぐに救急車を呼んだ。
その間、男の子は痛みを訴えていた。
その子に触れようとしたが体が動かない。
こんな時どんな処置をすればいいのか……病院だったら、私は看護師として何をやってきていたんだろう。
助けて、誰か助けて……
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
痛がる男の子、その子に私は何もしてあげれない。
雅哉……雅哉、頭の中で雅哉の名を何度も呼んだ。
救急車が到着して、救急隊員が男の子の処置にあたった。
私は何も出来ないただ、その場に立ちすくんでいることしかできなかった。
一人の救急隊員が
「大丈夫ですか?」と私に聞いてきた。でも私はただ頷くことしかできない。
そのあと警察が来て事故の状況を聞かれた。
その間の事はほとんど頭の中が真っ白になっていてあまり記憶にない。
ただ覚えているのは
青信号だった。急に前に何かが飛び出してきて……
ただそれだけ……
それだけを言うことだけしかできなかった。
男の子の飛び出し。
男の子は信号を見ていなかったという。
保険会社からの連絡で、男の子のけがは幸いにも命にかかわるような大きな怪我ではなかった。でも左足の骨にひびが入っていた。
男の子が搬送された病院に訪れた時、私はどんなことを言われようとも仕方がないと覚悟して謝罪を男の子とその両親にした。
警察からも言われていた。信号無視をしたのが男の子であっても車を運転する側にはそれ以上の責任があることを。
深々と頭を下げ、両親に、男の子に謝罪をした。
男の子のこの両親からは
「この子がちゃんと信号を見ずに飛び出したのがいけなかった。ほんとうにご迷惑をおかけしました」
と詫びられたが責任としてはこちらの方が重い。
男の子は検査と治療のため1週間ほど入院した。
多くの人たちに迷惑と心配をかけてしまった。
「防ぎようがなかったよ」
秋ちゃんが慰めるように私をかばってくれる。
確かに防ぎようがなかったのかもしれない、でも人を幼い子を傷付けてしまった。
この事故がきっかけかはわからない。
前から眠りは浅かった。いいえ、寝ることが出来ない日々が続くことがあった。
目を閉じると雅哉の事が頭に浮かんでくる。
そして事故を起こしてから……あの一瞬の光景が写し出される。
最近は仕事でもミスが多く重なり始めていた。
仕事が終わり自分の部屋で眺める外の景色。
その景色を眺めると無性に悲しさがこみあげてくる。
そして襲い掛かる孤独感。
誰もいない一人っきりの空間の中に私は閉じこもってしまっている。
そんな私の状態を婦長は見逃さなかった。
「辻岡さん、一度精神科を受診した方がいいと思う。仕事はしばらく時間を減らしましょう」
自分ではそんなに自覚はしていなかったが、周りからは私の変化が著しく変わっていくのが分かるのだろう。
言われるがままに私は精神科の受診を受けた。
医師からは
「精神的な疲労が原因でしょう。軽い心身症の症状がありますね」
そう告げられた。
まずは十分な睡眠を取ることが出来るように軽い睡眠薬と気持ちを落ち着かせる薬を処方してもらった。
だが、処方してもらった薬は効かなかった。いいえ、私が飲むのを拒んでいた。
飲んで楽になればそれで私は済んだかもしれない。
でも傷つけてしまったあの男の子の事を思うと、事故の事を思い、誰かにこの不安な気持ちを支えてもらいたかった。
そう雅哉にこの崩れかけている私の心を支えてもらいたかった。
雅哉に電話をかける……
聞こえてくるのはコール音だけ。
雅哉は出なかった。
着信履歴もあるはずなのに、そのあと雅哉からは返ってくることはなかった。
「あなたは自分の気持ちの蓋をしてしまう。そしていつかその蓋が壊れてあなたはどうしようもなくなってしまう」
お母さんから言われたことがある。
そう私は、自分に蓋をする。
どんなに思いがこみあげてもその想いを閉じ込めるように蓋をしてしまう。
その蓋が壊れるまで……
でも今回は違う。私は自分の蓋を閉め、その想いにまた壁を作ろうとしていた。
もしも蓋が壊れても、はじけだせないように。
だから……外見は明るくふるまうように、仕事をしていればこの胸の中で沸く想いを忘れることが出来るよう、無理を無理と感じないように仕事へ向かった。
「歩実香、あなたまた無理しているでしょ」
お母さんが心配そうに私に語り掛けてくる。でも私はその言葉に刃《やいば》を向ける。
「私の事を心配している余裕があるんなら自分の事をもっと考えてよ」
もう季節は木々の葉が真っ赤に燃えゆくように色ついている季節になっていた。
家ではお母さんとぶつかるようになり。一人きりで過ごす時間が増えた。
今の私は仕事をすることで自分を忘れることが出来るような気が強くなっていた。
もう……雅哉の声を一ヶ月訊いていない。
今、雅哉の声を訊けば……私はたぶん、自分の作った壁を自分で壊し、また雅哉に迷惑をかけてしまいそうで怖かった。
今一生懸命に頑張っている雅哉に重荷を背負わせることは出来ない。
これは私が作った自分の壁、そして私が締め切る自分の蓋
会いたいと思う気持ちが強くなればなるほど私のこの壁は次第に厚さを増していく。
雅哉に対する壁は次第に厚さを増していくのを私は自分で感じることさえも出来ないほどになっていた。