花火の梯子。君と出会ったあの日の花火は人生で一番輝いていた。あの日……君と出会えたのは、あの夜空に輝く花火があったから。

 母が倒れた。

 この秋田に来て3年目の事。
 父が急逝し、慣れない土地で気を張りながら表向きはのんびりとしているかのように思わせながら……心労がたまっていた。
 病魔はそんな母を少しづつ侵していた。

 子宮筋腫、甲状腺機能低下症、高血圧症、もうすでに中高年といわれる年代になっている母、気さくでなんにでも興味を示してまっすぐに進むような性格の母だったけど、こっちに来てから、いいえお父さんが亡くなってからは何か一つの支えを失いその支えを自ら作ろうとしていたようにも感じる。

 「子宮筋腫なんだって。それも結構大きいらしいの。だから子宮ごと摘出しないといけないみたい」
 「うん、訊いた。良性だから切除すれば問題はないって言っていたよ」
 「そうね。悪性じゃなかったことが救いかなぁ。でも、もう子宮なくなちゃうんだよね」
 「何よ今更、まだ子供作る気でいたの?」
 ちょっとからかいながら言ってみた。

 「………そ、そんなわけじゃないけど。何となくね」
 「何となくって」
 「だってあなたがこの子宮の中で育って、そしてこの世に産まれたのよ。それがなくなっちゃう。何となくね……あなたはもうこんなに立派に育ったんだけど……私にとっては沢山の想いがあるの」
 お母さんはおなかのあたりをそっとなでるように手を添えた。

 そして……。
 「あなたにもわかる時が来ると思う。この気持ち」
 「そうぉ……」
 「そうよ、早く雅哉さんの子供宿しなさい。そうしたらわかるから、あなたにもこの気持ち」
 少し顔を赤らめて。
 「そ、そんな、今雅哉は研修中よそれに私だって今は仕事……。そんなこと言ったら、お母さんおばあちゃんって呼ばれるようになるのよ」
 「あら、私は大歓迎よ。おばあちゃんて呼ばれるの。いつになるんでしょうね歩実香」
 「ばか、変なこと言わないでよ。それよりオペは明後日だからね。今は薬で落ち着いているからベッドの上でおとなしくしていてくださいね辻岡さん」

 「はーい。怖い看護師さんです事」
 「まったく!」

 母のオペは予定通り行われた。
 雅哉にもこのことは連絡しておいた。

 「本当か。大丈夫なんだろうな」
 「大丈夫よ。筋腫も良性だったし、摘出さえ出来ればあとは大丈夫だって」
 「そうか、俺もそっちに行ってあげたいけど……」
 「ううん、雅哉はお仕事、研修頑張って、こっちは私がいれば大丈夫だから」
 「……なぁ歩実香」
 「何?」
 「医者になるって大変なことなんだな」
 「どうしたの雅哉。あなたらしくないこと言っちゃって」
 「いや何でもない。ごめん変なこと言っちゃって」

 「大丈夫よ。あなたは本当に頑張っている。そして良《い》い医師になれると思う。私は信じている。私も看護師の業務についたときは本当に大変だった。でも医師と呼ばれる人はその何倍も大変だっていうことをこの目でちゃんと見てきているから。大丈夫きっと雅哉はやり遂げられる。だから頑張って……雅哉」
 「あ、ありがとう……歩実香」
 少し涙ぐんだようなかすれ声が返ってくる。

 雅哉も今、かなり苦しいところにいるんだと感じた。
 出来ることなら、彼の傍にいてあげたい。
 その苦しみを少しでも癒してあげたい。
 でもそれは今は出来ない。
 だから私はあえて……。

 「雅哉、あなたもしかして泣いてんの? 医者になることそんなに簡単だと思っていたの? 苦しいでしょ。苦しいのよ、人の命を預かるのって。甘くないのよ」
 「そうだね……甘くないよ。人の命を預からなきゃいけないんだから。ごめん、こんな時なのに歩実香にまた心配かけさせたね。励ましてくれてありがとう」
 電話は切れた。

 ため息が出るのと同時に後悔の思いも沸いてきた。
 キツイ事言っちゃったなぁ。
 本当はもっと優しいこと言ってあげたかったんだけどなぁ。
 一人、家の窓から夏の夜空を眺めていた。
 スーと一筋の流れ星が目に入る。

 流れ星に三回願い事を言えればその願いが叶う。
 三回なんて無理なこと。目にした時はすでに流れ星は消えているんだから。

 目にしたときにはその姿は、もうすでに……消えている。

 オペから一週間後お母さんは退院した。
 経過は良好。本人は意外とけろっとしているんだけど、ちょっと心配だったから連休をもらった。本当は婦長が気を使ってくれて休みにしてくれた。

 家に帰るなり。
 「ああ、今年の夏野菜だめね」
 何のことはない。何の心配を一番していたかと思えば、畑の野菜たちの事を心配していたようだった。

 「仕方ないでしょ。春に植えたのはちゃんと実ってるんだからいいじゃない」
 「何言ってんの、ちゃんと世話してあげないと野菜って正直よ。雅哉さんの大好きなピーマン、ほら、こんなに実が固くなっちゃってる」
 「あーほんとだぁ。でもいいのもあるじゃない」
 「送ってあげるの?」
 「できれば……」
 「まったく素直じゃないんだから。持って行きたいって言えばいいのに」
 我が母親ながら、私の素直な気持ちを代弁してくれた。
 「ダメでしょ。婦長もお母さんの事心配して私に休みくれたんだから、お母さんをほっといて雅哉の所なんかには行けないでしょ」
 「フフフ、ありがとう。でも歩実香、あなた無理しないでね。自分の気持ちに無理しないで、あなたはいつも自分の気持ちに自分で蓋をしてしまう癖があるから。そして我慢できないくらいその思いをため込んでその蓋を壊してしまう。雅哉さんと付き合う前の事だって、あなたずっとため込んでいたんでしょ。そしてのため込んだ思いがあなたの蓋を壊した。だからあんなにも熱があるのに飛び出しちゃったんでしょ」

 「もぉ、そんな昔の事今さら言わないでよ」
 少し照れながらすねたように言う
 「今のあなた。あの時のあなたの様に見えるのよ」

 我慢している。

 母には、お母さんはわかっていた。私が我慢していることを……
 本当は、本当はものすごく我慢している。
 素直に雅哉に会いたい。そう思う心に……寄り添うかのようにわたしを引き留める気持ち。

 そのはざまで私は今揺れ動いている。

 結局、雅哉の大好きな? 《《ピーマン》》は他の野菜たちと一緒に送ってやった。
 お返しというのだろうか? 数日後一枚の写真がSNSから送られてきた。
 去年、この家でおいしそうに苦手なピーマンをまるかじりしていたあの時と同じ、少し顔がひきつった《《ピーマンまるかじり》》のその姿の写真。
 思わず噴き出したけど……。
 変だな、涙がこぼれてくる。
 その姿、その表情、スマホの中にいる雅哉に触れる……冷たさだけが私の心の中に残る。

 雅哉の影が私の中でささやく。
 「歩実香……、歩実香一緒に……」
 彼の影が私を呼んでいる。
 いいえ、私が彼を呼んでいた……。
 雅哉のいない夏は稲の生長を見るかのように過ぎ去っていく。

 近づく8月の第4土曜日。
 稲穂が実り頭《こうべ》を下げ始める季節。

 まだ夏の暑さはこの秋田にとどまっている。でも、もう時期夏が過ぎ去る季節を迎える。
 青々とした木々の葉も少しづつその役目を終えようとしている。
 時はゆっくりと着実に流れ過ぎ去る。

 そして、雅哉のいない夏の終わりの花火。
 8月の第4土曜日、大曲の花火は夜空に花開いた。
 その日、私の目に映る夜空は黒い闇のような空だった。吸い込まれそうな黒い闇の中に、私の心は飲み込まれてしまった。

 災害はいつやってくるかわからない。そして忍び寄る心の闇は私の心の隙間に入り込んでいく。
 足音も立てずに静かにひっそりと……。

 窓から流れる少し冷たさを感じる風にどこから聞こえてくるのだろう。
 鈴虫の声がわたしをその音色のもとにいざなう。
 向かうはずのない、私の思うこともない世界に。

 私は知らない。

 雅哉とあと花火を一緒に見ることが出来ないことを。
 彼の幻影を私は追い続けていく。
 いつまでも、永遠に……。

 想像を絶する災害が私たちを襲い、恐怖と悲しみの中に生きなければいけなくなることを。



 私は知らない。

 その渦中に私の愛する雅哉が巻き込まれ、彼の人生が変わりゆく事も……。



 私は……知らない。
「はぁー………」
 これは杉村先生に言うべきだろうか?
 それともそのままにしておいた方がいいんだろうか?
 私の夢の中で静かにささやく声の事。
 前はたまにしか見なかった夢。でも今は毎日のように私の夢の中にその人は出てくる。
「巴美……」なんで私の名を呼ぶの?

 あなたは一体誰なの?

 その姿はぼやけていて見えない。

「おはようお姫様」
 杉村先生が病室にやってきた。
 ベッドの横の椅子に座り私の手にそっと触れる
 杉村先生の暖かい手のぬくもりが私の手から伝わってくる。
「気分はどうだい?」
「悪くはない」
「そうか、悪くなければ大丈夫だね」
 じっと私は杉村先生の顔を見つめた。
 ドクンと胸の中から音がするのが聞こえてくる。
「どうしました?」
「何も……」
「そうですか……」
「あのぉ……先生……」
「ん?」
「な、何でもない……」
「そっか……」
 じっと私の目を見る杉村先生
「何かあったら呼んでください。それじゃ」
 先生の手が私の手から離れていく。
「蒔野さん……お大事に」
 白衣を着た彼の姿が病室から消える
「あっ……」


 また一人になる。また一人になった。
 この病室には私一人しかいない。
 一人っきり……誰もいない私の周りには誰もいない。
 今、現実に私の心の支えになっているのは

 杉村先生

 あなたなんです。

 誰もいない白い世界の中。私の進むべく道は……
 進まなければいけない方向ってあるんだろうか?
 ゆっくりとベッドから起き上がりスリッパを履いて病室から出る。
 なんだろう少し今日はふらつく
 天気は良さそうだ。もうすぐ3月になる。
 外はまだ寒いだろう。でもさす陽の光は暖かさを感じさせる。
 いつもの中庭が見える大きな窓ガラスのあの場所に自然と足が動く。

 ふと見上げると廊下に陽の光が差し込んでいる。
 いつもの椅子に座り空を眺める。
 うっすらと白さを感じさせる青空に陽の光がガラスを透き通り私を包み込む

 暖かい

 暖かい陽の光が窓ガラスと同じように私の体の中をすりぬけていく。
 身体全体に陽の光が入り込む
 静かに瞼を閉じる。
 さっきよりも陽の光は私の躰の中に入り込んでいるように感じる。

 気持ちいい……
 気持ちが安らぐ
 いつかの様に私の体が軽く感じる。まるでこの陽の光に吸い込まれるように
 吸い込まれてもいい。
 誰もいないんだから……
 杉村先生ともあと少しであえなくなる。
 私の昇る梯子はどこにあるのんだろう。陽の光が差す梯子、私はその梯子を上ってもいいんだろうか。それとも地に落ちる暗闇の梯子にこの身を落とせばいいんだろうか。
 生きている。だから苦しい……だけど生きなければいけない。死んでしまうことは私には許されないようなそんな気がする。
 スーと眠りに落ちていくような感覚。
 瞼の奥でまたぼやけた誰かが私を呼んでいた。
「巴美……」
 誰かはわからない。男の子?どうして私の名前を呼ぶの?
 あなたは誰?
 ぼやけ、その姿を見ようとすれば消えてしまいそうになる。
 手を差し伸べればすぐに手の届くところにその人はいる。
 杉村先生?
 ううん、違う。杉村先生とは違う人。
 今の私には思い出すことの出来ない人。本当は思い出せないんじゃなくて思い出したくない人なのかもしれない。

「巴美……ともみ、生きろ。死ぬな巴美、俺の一番大切な人………」

 そしてその姿は消えていく。

 また一人私の所に誰かがその姿を現す。
 ふと気が付くとすぐそばにいるのはお母さんだった。
「お母さん……」
 そっと私の傍に寄り添って私の髪を優しくなでてくれた。
「お母さん……私、お母さん」
 何度も何度も「お母さん」って呼んだ。でもお母さんは何も話してくれない。
 ただ私の顔を見つめていただけだった。
 あの朝、些細なことで喧嘩をした。
 それが最後だった……ほんとうにそれが最後だった。いつも私のために頑張ってくれていたお母さん。
 どうして?どうしてあれが最後なの……
 だけど、映るお母さんは何も返してくれない。
 そして微笑みその姿が消えていく
「待って、お母さん……いかないで、行っちゃやだ。お母さん、お母さん………」

 ……蒔野さん、蒔野さん
 耳元で呼ぶ声が聞こえてくる。
「蒔野さん、大丈夫?」
 ゆっくりと目を開けると私の隣にいる人にしがみついていた。
 看護師さん?違う。服装はここの制服じゃない。
「大丈夫蒔野さん。落ち着いて……」

 誰だろう。

 誰だろう……優しい懐かしい香りがする。
 その女性《ひと》の顔をゆっくりを見ると、優しそうな瞳に綺麗な顔立ちの……さっき見たお母さんより少し歳上のような感じがする女性《ひと》だった。

「大丈夫?大分うなされていたようだけど」
 その女性《ひと》は私の髪を優しくなでながらいとおしそうに私の瞳を見ている。
「す、すみません。わ、私……」
 とっさのことで混乱しながら顔が熱くなるのを感じていた。
「いいのよ。それより落ち着いた?」
 小さく頷いた。

「そう、よかった。それじゃ何か飲み物買ってきましょうね」
「あ、いいです」
「いいのよ、私ものどか沸いちゃったから」
 通路のわきにある自動販売機でジュースを二つ買ってまたもと席に座り
「はい、オレンジジュースでよかった」とにこやかに私に缶ジュースを渡してくれた。
「今日は暖かいわね」
 窓越しにさす陽の光をそれを見上げながらその人は言う。
「蒔野巴美さん……よね」
 また小さく頷く。
「福祉事務所の人?」
「ううん、違うわよ。ここ暖ったかそうだったからお邪魔しちゃったの。迷惑だった?」
「いいえ、そ、そんなこと……でも、どうして私の名前……」
「ごめんね、あなたが手に付けているタグに書かれているの見えたの。これでも私看護師なの。ここの病院じゃないけど………個人の小さな病院なんだけどね」
「そうなんだ……」
 その女性は《ひと》は黙って私の顔を見つめていた。

「あのぉ私の顔に何か……」
「ご、ごめんなさい。私の知っている人にあまりにもよく似ていたから」
「おばさんの知っている人に。す、済みません、おばさんだなんて」
「いいのよおばさんで。もういい歳なんだから……。蒔野さんはよくここに来るの?」
「……病室から近いし、気が付けばここでこうやっている事多いみたいです」
「そう……」
「私、PTSDていうのがひどくなっちゃって、自分でも自分が解らなくなっちゃって……去年雪が降る前にここにずっと入院してるの。そう、自分ではよく分かんないんだけど、夏の終わりに花火大会があってそれが終わったあたりからおかしくなっちゃったみたい」
「そっかぁ、蒔野さん大変な思いをしていたのね。物凄く苦しかったでしょ……一度にいろんなことが起きちゃったのね。でもあなたは偉いわ」
「どうして?」
「だってちゃんと今を生きているんですもの」
 今を生きている……
 本当に生きていると言っていいんだろうか。
 本当は今の私は抜け殻の様なもの……大切な思い出も何もかも失ってしまったただの抜け殻。
 進むべく先も見えないただの抜け殻の存在。

「そうあなたは生きている。大切なこの世に一つしかないあなたの命をあなたは必死で守っている。だから辛い事を忘れようとした。生きるために、あなたは生きることを望んだのよ。失ったものは大きいかもしれないけれど、でもあなたのその命より大きいものはないと思う。あなたは今前に進もうとしている。
 ううん、進まないといけないって自分でわかっているんじゃない」

 声が出ない……下をうつむいて……涙がこぼれてくる。
 どうしたらいいのかわからない。
 生きている事になんの意味があるのかもわからないでも、この女性《ひと》は私が生きたがっていると言っている。
 私の体がこの人の暖かい体に包まれた。

「ごめんね。ちょっと辛いこと言っちゃったかしら」
 抱き寄せられる躰から暖かい温もりが伝わってくる。まるでお母さんに抱かれているようなそんな懐かしい感じがした。
 少しの間私は……自分を取り戻したかのような感じがする。
 いったいあの女性《ひと》は誰だったんだろう。
 お母さんより少し年上、でも綺麗な目と、整った顔立ち。そしてどこか貴賓のある面影。
 何となくここ秋田にいるような女性《ひと》じゃない様な気がする人。
 こっちの人とは何かが違うそんな雰囲気を感じる人。
 昨日、初めて会ったのに、初めてじゃない様な。どこかであっていたかのような人。
 もしかしたら私が解らないだけで……多分、それはないと思う。
 次の日私はまたいつものあの場所で時間を潰した。
 待っていたわけじゃないけど、あの女性《ひと》は来なかった。
「来るわけないよね。いつもいるのはここの看護師さんと先生達、それと入院している人達だけなんだもん」
 でも、あの時別れ際にあの女性《ひと》は言った。
「また今度逢いましょう」って……
 何処の誰かは分からないけど、
 そうどこの誰かはわからない人でも初めて出会ったときから……なんだろう。とても懐かしい想い。そして今まで心の中のどこかで引っかかっていた苦しい想いを、忘れることは出来ないけど何かに包んでくれるようなそんな気がする女性《ひと》
 何となくお母さんの香りがする女性《ひと》

 お母さん。
 私の想いの残り、そして最後にどうして……後悔をしたい。思いっきり後悔をしたい。
 でもその後悔をすれば今の私はまた元の私に戻ってしまいそうな気がする。
 何もかも……何もかも、すべてを受け入れることの出来ない私に。

 ◇◇

「もしもし、雅哉です」
「あら、雅哉さんどうしたの」
「先日は病院におこし戴き蒔野さんに面会していただいたそうで……」
「ああ、その件ね」
「それで……」
「それで、その先は?何を期待しての言葉何かしら」
「あ、いやどうだったのかなぁって……」
「何言ってんのよ。ただ一度会っただけなのに、もう結果を求めるわけ」
「そ、そんなつもりはないんですけど、ただ……」
「そうね正直驚いたわ。あの子蒔野さん……歩実香にほんとよく似ていたから。貴方が何となく少し変わってきたのにもうなずける。でも彼女は歩実香じゃない。彼女は蒔野巴美さん。貴方はその事一番い知っているはずよね。それなのにあえてわざと?私にこの話を持ち掛けたのは?」
「………そうです。わざとです」
「僕は償いをしなければいけません。歩実香にも、そしてあなたにも」
「償い……」
「雅哉さん、あなたその償いのために蒔野さんを利用しようとしているの?歩実香によく似た蒔野さんを私の元に、それで償いが出来たととでも思っているの?」
「………そ、それは……」
「もしあなたがそんな気持ちで蒔野さんを紹介したつもりなら……このお話は聞かなかったことに……してくれない。貴方たち医者という立場もわかるけど、あなたはわかってくれていると思っていた。私の気持ちを……そして歩実香の気持ちを……」


 あなたは……何も、わかっていなかった………

 その言葉を最後に電話は切れた。


 しばらく僕は呆然としながらその場に立ちすくんだ。
「あなたは何もわかっていなかった………」
 その言葉が僕の耳にこだまする。

 僕は……僕は、どうすればいいんだ。

 俺は、どうしたら………

 握るこぶしに汗がにじみ出る。うまく収まることなんかありはしない。
 償い、俺にはそんな言葉以上の事をしなければいけない。
 出来ることならばこの命、歩実香のためならこの命なんかいらない。
 誰のためにある命なんだ俺の命は……
 俺のためじゃない、自分のための命なんかじゃない。俺のすべては歩実香のためにあるのだから。
 歩実香のために……

 ◇◇
 あれから数日が経った。
 あの女性《ひと》は来ない。
 毎日のように私はあの場所に足を運んでいた。
 今日は雨、それは曇り陽の光りはこの窓ガラスを照らしてはいない。
 もう空から落ちる白い雪はその姿をひそめているようだ。3月に入り辺りはまた白一色からいろんなものが見え始めていた。
 今まで白い雪のベールで包まれていた木々に焦げ茶色をした土の色。
 コンクリートの上にはその汚れがちいさな流れをつくりどこともなく流れ去っていく。
 見えていなかったものが見えるようになる季節。
 これが現実の世界。
 雪はその現実の世界をすべて隠してしまう。都合のいいように……
 私と同じように現実の世界を隠そうとしている。
 これが現実……そしてこれが私なんだ。

 窓辺に降り落ちる雨の雫を目にして
 私は地にたたきつけられる雫の様だと思った。
 何度も何度もたたきつけられながら形を変え流れ消えていく。
 私の人生、私の将来、もうそんなものはどうでもいい。

 行く先もない。治る見込みもないこの状況。
 不安と恐怖心だけが私をいつも襲う。

 もう沢山だ……もう疲れたよ

 お母さん。

 私が生きることに何の意味がるのだろう。
 なぜ私は生きているんだろう。

 どうして、私は……生きなきゃ、いけないの
 お母さん、迎えに来て……謝りたい。そしてまた一緒に暮らしたい。
 お母さんと一緒に……あの日の日々の様に

 雨は激しさを増していた。

 外の景色は汚れてきたない。汚い、汚い……
 綺麗な景色が見たい。
 広くどこまでも続く海の色。防波堤に上がると私の髪をたなびかせる潮風
 青い空、どこまでも続く海の広さ
 私は、私はあの海の、あの広い海に私を捨てに行っていたんだ。
 私の捨てた物……
 海……
 潮風……
 青空……

 足は勝手に動いた。
 病棟から階段で一階づつ下に降り、ホールをまっすぐ進んで玄関を出て外に出た。
 雨は止んでいない。振り仕切る3月の冷たい雨の中、私はまっすぐに歩いた。
 海を目指して
 海なんかどこにあるかなんてわからない。
 でも私はただ歩いた。スリッパに雨水がしみ込んでいく。
 患者衣は雨に濡れ裾から雫がたれ始めていた。髪は濡れ、目はだんだんとかすんでいった。でも足だけはしっかりと動いている。
 海、私が私を捨てに行ける場所はあの海しかない。
 私は私を捨てに海に向かった。

 何もわかっていない。
 その意味すらも今の俺には解らない。
 どうすればいいんだ……
 どうすれば。
 その時病棟から連絡が入った
「杉村先生、蒔野さんが……蒔野さんの姿がどこにもいないんです」
 急ぎナースステイションにむかった。
 看護師たちは総出で彼女を探していた。
「さっき下のホール玄関から病衣を着た若い女の子が外に出たのを見た人がいました」
 それを聞き、俺は有無を言わさず外に出た。
 正面玄関の外で大声で叫んだ

「蒔野さん、蒔野さん、蒔野……巴美、巴美」
 ふりしきる雨の中走った。
 電話で警察に捜索願いを要請させた。

 今の彼女の体力ではそんなに遠くには行けまい。現金は持っていいないはず。だとすれば必ずこの近くにまだいるはずだ。
 俺は病院を出て彼女を探し走った。振りしきる雨の中、冷たい雨の中俺は必死に巴美を探した。

 もう……失うのはいやだ。
 これ以上、俺の……俺のたいせつなひとを失うのはいやだ

「ねぇ、さっきの子。病院から抜け出してきたんじゃない」
「そうよね。だってあれって入院している人が着ているのじゃなかった」
 その声に
「すみません。その子どこらへんで見かけましたか?」
 すれ違うその女性たちに声をかけた。
「ああ、ちょうどあの信号を曲がったところだったわよ」
「ありがとうございます」
 もうなりふり構わず走った。無事でいてくれ、ただそれだけだった。
 信号の角を曲がると、向こうに、離れた向こうに彼女の姿が見えた。
 全力で、降りしきる雨の中。その彼女の背を目指し走った。
 ふと目に映るその姿は……歩実香の姿に見え始める。
 俺がどんなに走って彼女を追いかけても彼女は前に進んでいく、歩実香は前に進んでいく。もう歩実香との俺の距離を埋めることは出来ない。
 でも彼女、蒔野巴美との距離は着実に近づいていた。
「ふ、……巴美、巴美」
 叫びながら彼女の歩く背を追いかける。
 そして彼女の手をつかんだ時、振り返るその姿は……歩実香だった。
「杉村先生……」うわ言のような言葉で俺の名を呼んだ
 そして倒れ込むように俺の胸の中に入っていった。
 次第に彼女に意識が薄くなり始めたころ
 うわごとのように彼女は言う

「和也《かずや》また来てくれたんだ……」

 彼女は俺の胸の中で意識を失った。
 大曲の花火も終わり、秋田の夏は終わった。
 木々は緑から赤く色を染めた葉を着こなし始め、農家の人たちは稲刈の準備に追われる時期になった。
 将哉のいない夏は終わった。
 お母さんの経過も順調でもうすでに仕事にも復帰している。冬野菜も今年も作らないと、と、意欲を見せているけど、あまり無理をさせたくはない。
 ご近所で農家を営んでいるおばさんに今年は手伝ってもらい、大根、白菜、だけは何とか畑にまくことが出来た。
 「あーあー、やっぱり本職の人ってすごいね。私なんか家庭菜園で自分の好きなようにやっていたから今年はほんと勉強になったわ」
 「よかったじゃない、おばさんも解んない事あったら何でも聞いてって言っていたし」
 「ほんと助かるわ」
 「それじゃ行ってくる」
 「気を付けてね」
 今日は日曜日、母の個人病院は休みだけれど、私の勤める病院は入院患者さんもいる。土曜日曜祭日などはあまり関係なく仕事が入る。
 ほとんどの人たちは休みの日だ。
 将哉は今日は休みなんだろうか……
 彼との連絡のやり取りはまた減った。
 どんなに長くても三日に一度は電話をしたりメッセージを送ったりしていたけど、今は一週間を過ぎてもお互い連絡をする事もなくなった。
 忙しいのだろう。そう思う心に、また将哉に触れれば私の心は揺らぎ苦しむのを知ってしまったからだ。
 ふと目にするスマホ、ちょっとのメッセージでもいい、でもそれすら今は送らなかった。
 いつもの様に車のエンジンをかけ、職場である病院を目指す。
 日曜日ともあって道路はすいていた。時間には余裕があった。
 信号も今日は順調だ。赤信号で止まる回数は少ない。
 順調だ……
 信号も青だ。何も考えることなく先を進む。

 一瞬、車の前に黒い影のような、全面を覆いかぶさるような黒さ、思わずブレーキを踏んでハンドルを思いっきりきる。
 《《ガシャン》》という音、車は対抗車線の縁石に乗り上げた。
 呆然としながら、今自分がどうなっているかのかさえわからない。
 周りを見る。体に痛みはないようだ……
 恐る恐る信号の方を見る。
 そこには自電車から転げ落ちた子供が道路に横たわっていた。
「大丈夫……」車からその子の所に駆け寄った。
「痛い痛い」と泣き叫ぶ男の子
 大きな外傷と出血はないようだ。すぐに救急車を呼んだ。
 その間、男の子は痛みを訴えていた。
 その子に触れようとしたが体が動かない。
 こんな時どんな処置をすればいいのか……病院だったら、私は看護師として何をやってきていたんだろう。
 助けて、誰か助けて……
 遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
 痛がる男の子、その子に私は何もしてあげれない。
 雅哉……雅哉、頭の中で雅哉の名を何度も呼んだ。
 救急車が到着して、救急隊員が男の子の処置にあたった。
 私は何も出来ないただ、その場に立ちすくんでいることしかできなかった。
 一人の救急隊員が
「大丈夫ですか?」と私に聞いてきた。でも私はただ頷くことしかできない。
 そのあと警察が来て事故の状況を聞かれた。
 その間の事はほとんど頭の中が真っ白になっていてあまり記憶にない。
 ただ覚えているのは

 青信号だった。急に前に何かが飛び出してきて……

 ただそれだけ……

 それだけを言うことだけしかできなかった。


 男の子の飛び出し。
 男の子は信号を見ていなかったという。
 保険会社からの連絡で、男の子のけがは幸いにも命にかかわるような大きな怪我ではなかった。でも左足の骨にひびが入っていた。
 男の子が搬送された病院に訪れた時、私はどんなことを言われようとも仕方がないと覚悟して謝罪を男の子とその両親にした。
 警察からも言われていた。信号無視をしたのが男の子であっても車を運転する側にはそれ以上の責任があることを。
 深々と頭を下げ、両親に、男の子に謝罪をした。
 男の子のこの両親からは
「この子がちゃんと信号を見ずに飛び出したのがいけなかった。ほんとうにご迷惑をおかけしました」
 と詫びられたが責任としてはこちらの方が重い。
 男の子は検査と治療のため1週間ほど入院した。
 多くの人たちに迷惑と心配をかけてしまった。
「防ぎようがなかったよ」
 秋ちゃんが慰めるように私をかばってくれる。
 確かに防ぎようがなかったのかもしれない、でも人を幼い子を傷付けてしまった。

 この事故がきっかけかはわからない。
 前から眠りは浅かった。いいえ、寝ることが出来ない日々が続くことがあった。
 目を閉じると雅哉の事が頭に浮かんでくる。
 そして事故を起こしてから……あの一瞬の光景が写し出される。
 最近は仕事でもミスが多く重なり始めていた。
 仕事が終わり自分の部屋で眺める外の景色。
 その景色を眺めると無性に悲しさがこみあげてくる。
 そして襲い掛かる孤独感。
 誰もいない一人っきりの空間の中に私は閉じこもってしまっている。
 そんな私の状態を婦長は見逃さなかった。
「辻岡さん、一度精神科を受診した方がいいと思う。仕事はしばらく時間を減らしましょう」
 自分ではそんなに自覚はしていなかったが、周りからは私の変化が著しく変わっていくのが分かるのだろう。
 言われるがままに私は精神科の受診を受けた。
 医師からは
「精神的な疲労が原因でしょう。軽い心身症の症状がありますね」
 そう告げられた。
 まずは十分な睡眠を取ることが出来るように軽い睡眠薬と気持ちを落ち着かせる薬を処方してもらった。
 だが、処方してもらった薬は効かなかった。いいえ、私が飲むのを拒んでいた。
 飲んで楽になればそれで私は済んだかもしれない。
 でも傷つけてしまったあの男の子の事を思うと、事故の事を思い、誰かにこの不安な気持ちを支えてもらいたかった。
 そう雅哉にこの崩れかけている私の心を支えてもらいたかった。
 雅哉に電話をかける……
 聞こえてくるのはコール音だけ。
 雅哉は出なかった。
 着信履歴もあるはずなのに、そのあと雅哉からは返ってくることはなかった。

「あなたは自分の気持ちの蓋をしてしまう。そしていつかその蓋が壊れてあなたはどうしようもなくなってしまう」
 お母さんから言われたことがある。

 そう私は、自分に蓋をする。
 どんなに思いがこみあげてもその想いを閉じ込めるように蓋をしてしまう。
 その蓋が壊れるまで……
 でも今回は違う。私は自分の蓋を閉め、その想いにまた壁を作ろうとしていた。
 もしも蓋が壊れても、はじけだせないように。
 だから……外見は明るくふるまうように、仕事をしていればこの胸の中で沸く想いを忘れることが出来るよう、無理を無理と感じないように仕事へ向かった。

「歩実香、あなたまた無理しているでしょ」
 お母さんが心配そうに私に語り掛けてくる。でも私はその言葉に刃《やいば》を向ける。
「私の事を心配している余裕があるんなら自分の事をもっと考えてよ」
 もう季節は木々の葉が真っ赤に燃えゆくように色ついている季節になっていた。
 家ではお母さんとぶつかるようになり。一人きりで過ごす時間が増えた。
 今の私は仕事をすることで自分を忘れることが出来るような気が強くなっていた。

 もう……雅哉の声を一ヶ月訊いていない。
 今、雅哉の声を訊けば……私はたぶん、自分の作った壁を自分で壊し、また雅哉に迷惑をかけてしまいそうで怖かった。
 今一生懸命に頑張っている雅哉に重荷を背負わせることは出来ない。
 これは私が作った自分の壁、そして私が締め切る自分の蓋
 会いたいと思う気持ちが強くなればなるほど私のこの壁は次第に厚さを増していく。
 雅哉に対する壁は次第に厚さを増していくのを私は自分で感じることさえも出来ないほどになっていた。
私の心はもう悲鳴を上げていた。
どうにもできない、そしてどうしたらいいのかさえ分からない。
それでも雅哉への想いは変わらない。その想いは募れば募るほど苦しいく胸が締め上げられる。
もう誰でもいい。
誰でもいいこの苦しみから私を開放してもらいたい。
飲むのを拒んでいた薬も飲んでいる。されどこの苦しみは消えることはない。
「辻岡さん、お薬は単なる補助にしかすぎません。症状が以前より重く感じるのならまずは環境を少し変えてみてはいかがでしょう」
医師からのアドバイスはいつもこんなものだった。
薬も少しづつ強い薬に変わっていった。

そんな私を気遣って和ちゃんと同じチームの看護師達と飲みに行くことになった
「歩実香最近ほんと自分いじめてるよ。今日はたまっているものみんな吐き出してスッキリしよ」
ほとんど無理やりと言ってもいい感じに私は彼女たちに連れ出された。
久しぶりに飲むビール。外は寒さを感じるがこの冷えたビールを飲むと少し気分がすっきりするような感じがした。
一人で飲むビールはただの飲み物でしなかったのに……
久しぶりに何となく心が軽くなるような気がする。
「歩実香はさぁ、我慢しすぎなんだよ。もっとさぁ自分に甘えてもいいんじゃない」
「そうそう、何でもがむしゃらっていう感じじゃないけどなんだろうけど責任感は異常に強いよね」
「そんなぁ、私そんな風に見られていたの?」
「はははは、冗談、冗談。でもさぁ最近我慢しているのは見え見えだよ。彼とはうまくいっているの?」
「んーまぁね、何とかね」
「でもすごいよね東京とこの田舎の秋田で遠距離恋愛だなんてよく持つわね」
「そうぉ、電話だってほとんど毎日の様にしているし、そんなに距離感ないなぁ」
「はぁ、私には無理だなぁ。いくら電話でつながっていてもやっぱ傍にいてくれないと寂しいし」
一人がしみじみという
秋ちゃんは私が雅哉と一ヶ月連絡を取っていないことを知っているでも、彼女はそれをみんなの前で言うことはなかった。
今日は秋ちゃんはうちに泊まることにした。
「ねぇ、歩実香、なんであんな嘘言ったの?」
「え、嘘って」
「もう一ヶ月も連絡とっていないんでしょ。あなたあの事故以来また我慢しているようで心配なのよ。それに彼に事故の事も話していないんでしょ」
「いいのよ、雅哉は今頑張っている。そこに私は重荷になりたくない。きっと雅哉も同じ事思っているんだと思う。私の声を訊けば多分甘えてしまうんだってことを」
「ふぅ、なんか違うような気もするんだけどなぁ」
秋ちゃんは缶ビールを開けごくごくとビールを流し込んで
「うちはさぁ、結婚早かったじゃん。私がまだ看護学校にいた時に結婚しちゃったんだけど、まだ二十歳そこそこで結婚。結構まだ早いって反対されたんだけど、私も彼も待ってられなかった。て、言うより私の方が我慢できなかったんだと思う。我慢して、お互いに疲れ果てるのって私には出来なかった。もしあの時、みんなが言うように遅らせていたら今の家庭はなかったんじゃないかなぁって思う。そりゃぁさぁ、歩実香の家の事情も分かるけど、一番傍にいてほしい時に傍にいてほしい人がいないって物凄くつらいと思うの」
「うん……そう、……」
一口ビールを流し込んだ
秋ちゃんの言うことは最もだ本当は秋ちゃんと同じ。
出来ることなら今すぐにでも私は雅哉と一緒に暮らしたい。お互いに共通した時間を過ごしたい。そう思う。
出来る事なら……
でもそれはもしかしたら雅哉の夢をつぶすことになるんじゃないのか。いつしか私はそう思うようになっていた。今我慢しているのは私のためでもあるけど私が一番愛している人のためでもあるんだとそう自分に言い聞かせている。
だから私は自分に蓋をして、壁を築いている。
その壁を壊すのは私次第かもしれない。その壁を壊し蓋を開けることは簡単なことかもしれない。でも……そうしたら、そうしたら雅哉はどう思うんだろう。
今は我慢の時、秋ちゃんにはわからない私と雅哉が過ごした時間。それがあるから私は何とか我慢できているのかもしれない。
私は……秋ちゃんの様に素直にはなれない。そんな自分が物凄く歯がゆい。

秋は次第にその濃さを増していく。
あの暑い夏の面影はほんの一ヶ月でがらりと変わってしまった。
冷たい秋風が吹く季節。私の心の隙間にもその風は入り込んでいく。
冷えゆく私の心。暖かさをどこかで求め始めているのに私はいまだに気が付いていなかった。
心の中に吹く隙間風が、私の運命を大きく変えようとしていた。

◇◇
久しぶりに雅哉からSNSのメッセージが送られてきた。
「元気か歩実香。最近連絡が取れなくて申し訳ない。こっちは今ようやく各診療科の研修に入ることが出来た。今までほんとうに雑用や指導医の指示に振り回され続けていたけど、何とか医者らしい仕事になってきた。とはいってもまだまだ怒られっぱなしだけどな。
でもこれからが本当の意味での研修が始まったようにも思える。多分これから今以上に忙しさは増すんじゃないかな。何とか乗り切っていくよ……
歩実香も大変と思うけど、頑張って」

ほんとうに久しぶりのメッセージだった。
このメッセージを私は何度も読んだ。何度も何度も……
それだけで胸の中で渦巻いていたものが和らいでくるような感じだった。
もちろん返信もした。
でも、いざ書こうとしたとき、私の頭の中には雅哉に伝えるべく言葉が浮かんでこなかった。何を伝えればいいんだろう。事故を起こしたことをいまさら告げるわけにはいかない。最近起きたことなんか毎日仕事の事だけしかない。
本当は心の奥底にしまい込んでいる想いを吐き出したかった。多分、メッセージでは伝えることが出来ないくらいいっぱいの想いがあふれ出てきてしまいそうな、そんな状態。メッセージだけではどうにもならなくなる。
雅哉の声を訊くだけでは済まなくなる。
雅哉の姿をこの目の中にいれたくなる。そして雅哉のぬくもりを感じたくなる。
もう止めることは出来なくなるだろう。
そう私の壁は崩壊し、私の蓋は破裂したように吹き飛んでしまう。
そうなれば私はもう止めることが出来ないだろう。今でさえ必死に我慢をしている。
この我慢がいつまで続くのかはわからない。そしていつまで耐えられるのかもわからない。
ただ、このメッセージは私にとって一番の救いになっているんだと思っていた。

返信には
「メッセージありがとう。大変だけど頑張って」とだけしか書けなかった。
これ以上は私には無理だった。
あふれだす想いを抑え込むのに必死だったから。
そして私の心を揺さぶるきっかけにもなった。

「辻岡さん」
私の後ろから優しく問いかけるように声をかけた人。
前に私に声をかけ、食事に誘おうとしたあの医師

真壁信二《まかべしんじ》

後ろから私の肩をポンと軽くたたき
「最近元気なさそうだけど大丈夫?」
と耳元で囁くように言う。

真壁先生にはきおつけな。

これはこの病院の女性看護師たちの暗黙の了解のような言葉だった。
この真壁信二医師。彼は心療内科の医師。
精神科と内科の中間点的な感じの診療を行っている。彼の口癖は
「うちに来る患者さんはほとんど高齢の科患者さんが多くてね。若い君たちを見ているだけで気持ちが癒されるんだよ」
年齢はまだ三十代前半。学生時代、何のスポーツをやっていたかはわからないけど、引き締まった体に少し色黒の肌、顔立ちはイケメンというわけではないけど適度にととなった顔立ちというべきだろうか。まぁ、ぱっと見どこかの俳優ぽい感じの雰囲気も漂わせている。
「どうだい最近はおちついてきている?精神科から話は聞いているよ。もし何かあったら遠慮なく僕にも相談してくれ。心療内科だからね力になれると思うよ」
「ありがとうございます」そういって軽くこの場を流そうとした。
「そうだ、今度僕の方に受診するようにすればいい。精神科よりはもっと幅広く見ることが出来るからね。今度予約入れといてあげるよ」
「そ、そんな。いいです。だいぶ落ち着いてきていますんで」
「そうか、落ち着いてきているか。それならなおさら僕の方だね。
精神科からフォローダウンされてくる患者さんが多いからね……そうだ火曜日。火曜日の10時はどうかな予約入れておくから。精神科の先生には僕から言っておくからね。それじゃ待っているから」
ほとんど一方的な彼の言葉に唖然としながら私は火曜日の10時に彼の診察室に入った。
「よく来てくれたね辻岡さん」
 私は彼、真壁信二《まかべしんじ》医師が強引に予約を入れたその日、彼の診察室に赴いた。
 モニターを見ながら彼は呟く
「ふーん、そうか……」
「ねぇ辻岡さん。お薬ちゃんと飲んでいるよね」
「はい、飲んではいますけど」
「そっかぁ、じゃ、最近食欲落ちてきていない?」
「………あんまり食欲は、ない、です」
「だろうね。この薬の副作用なんだ」モニターに記載されている処方記録を指さした。
「お薬変えてみよう。まずは食べることを最優先させないと。栄養が取れないと躰が弱るからね。心は健康な躰でないと元に戻せないんだよ」
 意外とまともなこと言うんだこの先生。
「ん、どうした」
 先生の顔を見ていると不思議そうに私の顔を見て言葉を返す。
「以外だなぁって。ちゃんと仕事してるんですね」
「参ったなぁ、僕ってそんなに評判悪いのかなぁ」
「めちゃくちゃ悪いですよ」
「ほんとに?」
「ええ、看護師仲では真壁先生には気をつけろが暗黙の了解ですからね」
「はぁ、そんなにひどいんだ。確かにあんまり好かれてはいないと思っていたんだけど、そこまでひどいとは」
 彼ははにかみながら頭を掻いた。
 その表情がどことなく将哉の表情に似ているような感じがした。
 そして肩をがっくりと落として、寂しそうに
「じつはね、僕結婚を前提に付き合っていた彼女がいたんだ。彼女もこの病院の看護師でね、今はもう退職しているんだけど……」
「そうだったんですか?でもどうして」
 真壁は顔を上げ照れ臭そうに
「はははは、僕二股かけられていたんだ。彼女別の病院の医師とも付き合っていてね。いきなり、私結婚しますから僕との婚約は解消しますって」
「ひどい……」
「まぁそこまでだったら、僕と彼女の問題だけだったんだろうけど、僕たちこの病院では付き合っているのはみんな知っていたからね。彼女もバツが悪かったんだろう。みんなに僕が二股かけていたようなことを言いふらしてこの病院を早々に辞めていったよ」
「だからあんなうわさが……」
「だろうね」
「それじゃ先生の方が被害者じゃないですか。私そういうのって物凄く許せないんです」
「解っているよ。でもね、今思えば僕にも非がなかったと言えばそれは嘘になると思うからね」
「じゃぁ、やっぱり先生も二股かけていたんですか?」
「いいや僕はそんなことは絶対にしないよ。これでも僕は想った人、僕は本当に愛した人には一筋なんだ。それでも彼女には僕の想いは完全に届いていなかったんだと思う。彼女の気持ちをしっかりとつかむことが出来ていなかったんだと思うんだ。そして彼女を理解してやることを僕は怠った。だから彼女は僕を見切ったんだと思う。僕はそれを素直に受け止めただけさ」
 この話が本当なのかは分からない。
 それでも彼の瞳には遠くを見ているようなそんな悲しみ苦しみを見る事が出来る。
 同じとは言えないけど、私も今、将哉と離れて暮らしている。その辛さは身をもって今この躰を苦しませている。
 だからだろうか、嘘をついているようには思えない。そしてこの人のやさしさと強さを私は少し感じた。
 将哉が私を思ってくれているかのような感覚が今この真壁信二を目の前にして湧き上がる様な気がした。
「噂ってホントあてにならないものですね」
「なぁ辻岡さん、この話、ここだけの事にしておいてくれないか」
「どうしてですか先生は何も悪くはないんだから堂々と否定なさればいいんじゃないんですか」
「いいんだよ。僕が騒ぎ立てれば、僕自体がみじめになるからね。どっちに転んでも僕の立場は良くならない。それなら今の方がまだましだよ。医者としての立場は少なからずもここでは保たれているからね」
 確かに看護師仲間の間ではあんな風に言われているけど、医師としてはみんな彼の事は認めているし尊敬はしている。
 彼は医師としての自分の道を選んだんだ。
「解りました。この話はここだけの事にしておきます」
「そうしてもらうとありがたいよ。それじゃ、お薬処方しておくから……それと」
 少し話しづらそうに
「辻岡さんの彼氏、多分物凄く頑張っていると思う。僕なんか足元にも及ばないくらいにね。僕はあの初期研修の2年間ただ、その時間を消化すればいいとばかり思っていた。でも今になって思うよ。あの時の時間は医師として決して忘れてはいけない時間であって本当に大切な時間だったと言う事を」

 君の彼は良い医者になれると思う。そしてその彼を君は影ながら思い支えている。
 羨ましいよ
 僕にあの時君の様な女性が傍にいてくれたら今の僕は変わっていたのかもしれない。
 君が今心を患ってまでも彼の事を想い、耐えているのを君の彼は分かっていると思う。あの雑務の中くじけそうになりながら、必死に君の彼も耐えているんだと思う。だからあえて君に連絡もよこさない。だから君に彼が今おかれている状態を言わないんだと思う。
 君たちはお互いを理解しあえているだから苦しい。
 その苦しみは君たち二人の想いの重さなんだと思う。だから、辻岡さん。

 君の彼を大切にしてあげなさい。

 真壁信二、彼のこの一言に私はどれだけこの瞬間救われたような気持になれたんだろう。
 涙が勝手に頬をつわり零れ落ちて言った。
 気持ちが和らぐ。彼のこの一言で私が耐えていたことを認めてもらえた事を、分かってくれる人がいる事に気持ちが安らいだ。

「今日の診察はここまでにしましょう。念の為2週間後血液検査をしましょう。お薬の効きと体の状態を確かめるためにね。

 大丈夫だよ。後少しの辛抱だ。
 彼も十分に分かっている君の気持ちを……それではお大事に」

 真壁信二医師。彼は噂とは全く正反対の男性《ひと》だった。

 それから2週間後の診察の後、私は彼の誘いを素直な気持ちで受けた。

 体の栄養は足りなければその栄養を補えばいいい。でも心の栄養はそうはいかない。

 心の栄養はゆっくりと沁みるように取らないと意味がないからね

 駅にほど近いホテルのレストランで食事をし、ラウンジバーで二人でたわいもない話をしながら時を過ごす。
 この時に流れるピアノの音が私の心を少しづつなごませてくれた。
 彼は紳士だった。
 私には想う人がいる事を理解してくれている。
 だから、私を求めることはなかった。
 いつしか私と彼、真壁信二はお互いに秘めたものを分かち合える友達の様な関係になっていた。
 そう彼はどんなことがあっても私を求めることはない。そして私も彼を求めることはない。
 それはお互いに密かに培う信頼関係の様なものだと思う。
 彼はもしかして初めから、私に声をかけたのは私が病んでいるのを感じたから?
 もしそうだとしたのならそれはそれでいいし、もしかしたら本当は下心がその時はあったのかもしれないけれど、今は私達はにはそんな思いはない。

「歩実香、最近真壁先生とよく出かけてるみたいだけど、あなた本当に大丈夫なの?」
 秋ちゃんが何度も心配して私に訊いてくる。
 私はにこっと笑いながら
「大丈夫よ、真壁先生みんなが想っているような男性《ひと》じゃないから」
「でもうまい事ばかり言ってしまいにはポイされてしまうんじゃない。そんな事していたら将哉さんをあなた裏切る事になるんじゃないの」
「そんなに心配?」
「うん、とっても心配」
「それなら今度一緒にどこかで飲みに行かない。噂だけを信じてじゃ本当の姿は見えないものよ」
「えええ!、私も一緒に……」
「そう、秋ちゃんも一緒に」
「わ、分かったわよ。行ってやろうじゃないの。もし歩実香にちょっとでもいやらしい事したら私その場で奴の頬殴ってやるから」
「おいおい、そんな事何もないって」
 そんなことを言いながらも真壁信二と共に時間を過ごしてみると、秋ちゃんも彼の一面を実際に見る事になり
「ええ、そうだったんですか!本当の話なんですよね」
「君にまで話すつもりはなかったんだけど、本当の事だよ」
「でもどうして歩実香にだけそんな話しをしたんですか?」
「彼女は恋するあまりに自分の心を病んでしまった。ふと彼女を見かけた時、このままではどんどん悪化していくのが解っていたからね。だから強引だったけど精神科のただ点数稼ぎの診察ではどうにもならいと思ったから僕の所によこしたんだよ。君にもわかるだろ。彼らの診療の目的を」
「た、確かにそりゃ私は看護師だから、医師の指示には反論できないけど、噂は訊いています。とにかく保険点数を多くして行く方針だって行く事は」
「うん、そうなんだ。確かに病院も商売だからね。利益が出ないと病院の経営は成り立っていかない。でも患者さんのためになる事以上の過剰な行為は慎むべきだし、あまりにも営利に走りすぎることは信頼も損ねてしまうからね」
 同席した秋ちゃんも信じられない様な顔をしていたけど、この真壁医師の事を誤解していたことを確信していた様だった。
「真壁先生、私達誤解していたようです。本当は患者さんの為のを一番に考える先生だったんですね。それに女性をおもちゃの様に扱う人だとばかり思っていました。ごめんなさい」
「そんなに恐縮されても困るんだけどなぁ。実際僕も一介の男なんだから女性を求めたい気持ちがないわけじゃないからね。でも辻岡さんは別だよ。僕には到底入り込めない彼との関係があるからね。それに主治医が患者に手を出したらそれこそ職権乱用だよ」
 彼は笑う様に言う
「そっかぁ、分かった。歩実香の事これからも見守ってやってください。でも彼との間を裂くようなことちょっとでも聞いたら私が許さないから覚えておいてください」
「辻岡さん、いい同僚、いやお友達がいて羨ましいですよ」
「本当にそうですね」秋ちゃんの顔見ながら微笑んだ。
「な、何よ。照れるじゃない。すいませんビールジョッキお替り」
 照れ臭そうに秋ちゃんはビールのお替りを店員に大声で叫んだ。

 それからすこしの変化があった。

 病院内の看護師たちの真壁医師を見る目が変わった事は言うまでもない。
 あの不名誉な噂は今はもう彼は浴びることはなかった。

 真壁医師との出会いそしてフォローのおかげだろ。
 私の心の苦しみは少しづつ和らいでいった。そして、将哉にもこの苦しみが、同じ苦しみが将哉も感じているんだと言う事を分《わ》かちあえているんだと言う一つの気持ちが私を開放に導いてくれた。

 あともう少しの間。私達はこの苦しみをお互いに楽しもうと、誓い合った。
 彼が医師として活躍できる日を夢見て
 将哉は、私が彼の医師としての姿をこの目で見られるように


 時に、災いは忍び寄る。

 災いは音を立てずに私に襲い掛かった。
 崩れ行く体に、崩壊する私の心。
 もう修復をする事さえできないくらい崩壊した私の心はこの体の存在を否定し始めた。
 支えてもらえることさえできない。支えてもらう事を拒むこの心は、私のその存在を消し去ろうとしていた。

 そう、私の心は 崩れる……
鳴り響く救急車のサイレンの音
体 全身に痛みを感じる。薄っすらと見える救急隊員の人の影そしてこだまするように何度も遠ざかる声の音

「解りますか?」
声を出そうにも声が出ない
今自分がどうなっているのかさえ分からない。私は今どうんな姿でいるのだろう。
ただ聞こえてくるのは……彼のあの優しい声が私の頭の中で何度も何度も囁《ささや》く
「歩実香、歩実香」……と
おぼろげに浮かんでは消えゆく彼の姿。
将哉、どうして消えるの将哉……消えないであなたの姿は私から消える事は無いんだから……

救急車のサイレンの音が止まった。ゴトン、ゴトンと体が揺さぶられる感じ。
どこかの廊下を私は流れるように運ばれる。
「辻岡さん、辻岡さん」何度も私に呼びかける声がする。
ここは何処?
「歩実香」泣き叫ぶように私の名を呼ぶ人。薄っすらと見える秋ちゃんの顔。
制服姿の彼女の姿。ここは病院?
私は……搬送されている……

いち、に、さん。
「辻岡さん服切りますね」
「ライン取れました」
「心拍87、血圧120の70」
私を診察する医師が思わず声を出す「これは酷い」
私の体は至る所に青あざが残されていた。
CT
そんな言葉が耳に入る。
慌ただしくそれでも的確に指示とその指示に背《そむ》くことなく動く人たち。
私のいる病棟の動きとは違う動き方
体が痛いどこかは分からないけど体が痛い……ただ今はその痛みに耐えるのに精一杯
声を出そうにも声なんか出せない。
痛みと……痛みと次第に湧き上がる恐怖
ドクン、ドクン、と心臓が鼓動する度その恐怖は痛みをも支配し始めて来た。
「うん、 内臓の方は大丈夫そうだね。頭部の方も幸い軽い打撲程度の様だ」
内臓、打撲……私はどうしたんだろうか?
また事故を起こしたんだろうか……
いいえ、今日は私は車は運転していない。
それならどうして、私は、わたしは、私の意識はゆっくりと静かに落ちて行った。


「今日も忙しいのに時間をつくってもらって済みません」

「なぁに僕は時間はいくらでも取れるからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」
真壁信二、彼との食事は今や日常化していた。

「でも先生、どうして私とこんなにも付き合ってくれるんですか?」
「どうしてって、君と一緒に食事をしたり他愛もない話をするのが楽しいからだよ」
「そんなこと言って、本当は下心ありありなんじゃないんですか」
「あ、やっぱわかる。そう僕も一介の男だからね。こんなにも美人の彼女を持てたならほんとに幸せだと思っているよ」
「ほぁら、やっぱり本性を表してきた」
「あははは、やっぱりわかっちゃっタ。なんてね、冗談だよ。君が少しづつ元気になっていく姿を見るのが僕にとって今は何だろう……楽しいと言うのかな、主治医として経過観察も兼ねていると言ったら職権乱用になるかなぁ」
「そんなぁ」
「でもね本当の所は君に感謝しているんだよ」
「私に感謝ですか?」
「そう君に感謝してるんだ」
「どうして?」
「まぁ、初めはかなり強引だったけど、君とこうして接点を持てるようになって僕の気持ちもそして病院でみんなが僕を見る目が変わってきてくれたからさ。ついこの間までは君たちナースの間では真壁信二には気を着けろ。あいつは平気で婚約者を裏切る酷い奴だって思われていたんだろ。それが今はどうだい、そんな噂なんか誰一人口にするような人はいなかくなったし、第一、僕に対する接し方が物凄く変わってきてくれたんだ。そのおかげかもしれないけど今は物凄く仕事にも打ち込めるし充実しているんだ。そしてプライベートにもね」
「先生のプライベート?」
「そ、プライベート。僕はこうやって君と話せるようになってようやく気が付いたんだ。僕自体が心身症に陥っていた事にね。心療内科いわば精神分野を専攻している割に自分の事は何も解っていなったていう事にね」
「先生が心身症ですか」
「ああ、僕は彼女、そう結婚を前提に付き合っていた彼女と別れた時、本当の自分の気持ちを閉じ込めてしまっていたんだ。本当は僕はあの時、物凄く傷ついていたんだ。それを自分は傷ついてはいないと自らその想いを封じ込めた。本当は僕はあの時、もっと自分に素直であるべきだったんだと思う。怒りや悲しみそんな思いを僕は封じ込めずにさらけ出して全部出してしまえばよかったんだ。そうすれば今まで僕は彼女の事をここまで引きずることはなかったんじゃないのかな」
表に出さない。いいえ出せない気持ち。それを自ら封じ込める。
私と同じ
「じゃ、先生も私と同じだったと言う事ですか?」
「まぁねそいう事になるのかなぁ」
「なぁんだそれじゃ私を診察しながら自分も診察していたっていう事でしょ。やっぱりそれって職権乱用じゃないですか」
「やっぱりそうか?」
「そうですよ」
「はぁ、やっぱりそうか。これじゃ医師失格だな」
「ですね。でも彼が言っていました。ある指導医から医者である前に人であれってね」
「医者である前に人であれか……なんだか胸が痛いね。君の彼、将哉君凄くいい指導医の下で研修を行えているんだね。医者も一人の人間なんだ。来院してくる患者さんと同じ、僕らは神でもなんでもない、ただ少しばかりその知識があるだけに過ぎない、そして医療と言う行為を行ってもよいと言う免除を持っているに過ぎないただの人だからね」
「でもそれってすごい事なんですよ先生」
「確かにタダで手に入るものじゃないからね。膨大な知識を習得するその時間と労力、並大抵の事では出来ない事だと思うよ。そこに今僕はいる。だからこそさっきの言葉は胸に響く。僕も一人の人間、人でありたいと」
「一人の人間ですか……」
「ああ、一人の人間として僕もようやく恋をしたいと思う様になったていう事さ」
「ええ、先生恋してるんですか。……わ、私じゃないですよね」
「あははは、安心しな、君じゃないよ。君に恋心を持たなかったと言うと嘘になるけど、僕がいくら君を愛しても君は僕を愛することはない事は解っているからね。だから僕は君とは良き友達でいてほしいと思うんだ。お互いのこれからの幸せを見せあい合えるようなそんな友達」
真壁先生は少し照れている様だった。ちょっとカッコイイかもと思う私の心が弾んでくる。
でも、それはこの人を愛すると言う事には変化はしない事は解っている。
お互いに、そう……分かり合える同じ気持ちを持ち、同じ苦しみ分ち合える友達として、支え合える人だと言う事に

帰りに
「今日はタクシーで近くまで送って行くよ」
そう言ってくれた。でも今日は……今日は一人で帰りたかった。気持ちは物凄く良かった。何か今まで重くのしかかっていたものが少しづつ時離れていくのを実感できた日の様だった。
途中で何か将哉にプレゼントも買いたかった。
寒くなって来たこの季節、将哉の事だからまた去年と同じコートを羽織るんだろうな。
そんな事を想いながら街の明かりに照らされる自分の影と共に将哉に似合いそうなコートを探し歩いた。その時間があの時の私の幸せな時間《とき》として刻まれていく。
離れ離れになっても、例え離れていても心は寄りあえる。
将哉を想う心があれば……どんなに辛くても乗り越えていける。そう彼に出来る事を私は私の想いのまま行えばいい。そう、将哉も将哉の出来る事を今頑張ってくれるだけで私は幸せなんだ。
私は将哉がいるからどんなに苦しくても耐えていける。
私の存在は将哉のためにあるから

片手に将哉に送るコートの入った袋を手に私の心は一歩、歩くごとに軽くなっていくような気がする。
彼に出来る事そう私にしか出来ない事を……私は支え、支えられている事の喜びをかみしめながら、秋風の吹く街の中を歩いていた。
少しづつ頬を指す風は冷たさを増している。
秋の風が私の髪を少したなびかせた。
先行くむこうに街の明かりが、大きな影を作り出した。
私の影もその大きな黒い影の中に飲み込まれていく。

その影に飲み込まれた時私のすぐわきに一台の車が急停車した。
一瞬だった……
車から降りて来た黒い影に私は口をふさがれ殴られた。
意識が遠くなる……
無理やり私のバッグを剥ぎ取ろうとするその黒い影
そしてさっき買ったばかりの将哉に送るコートに手をかけた時。私は反発した。このコートは私の大切な人のための物。
誰の手にも触れる、触れさせることは嫌だ
反抗する私の体をその黒い影は蹴り上げ殴り上げた。それでも必死に私はそのコートを守ろうとした。

「誰か……助けて」

大声で叫ぶ声はビルの狭間にこだまする。
そのまま車に押し込まれた
もうろうとする意識の中、私の衣服は剥がされた。

今何が起こっているのか解らない。理解が出来ない。ただ私の躰にかぶさりのしかかる黒い影だけが私の消えゆく意識の中でかすかに感じることが出来た。

「いやー……嫌だ。嫌だやめて助けて……いっ……や……だ……」
抵抗する力も尽き果て、もう躰は言う事を効かない。
まるで悪夢を見ているかのように時間は私に暗闇の影の時を落とした。

見知らぬ場所に私の躰は物の様に投げられる。

冷たい風が物となった私の躰をつけぬけた。
ぽつり、ぽつりと黒い空から冷たい涙の雫が落ちはじめ、私の心に染み込ませた。
雫は私の心を壊し始めた。
ようやく明るい光がまた差しかけていた私の心を冷やし溶かし崩し始めた。

冷たさも、もう苦しさもその時は何も感じなかった。

もう……物となった私の心は……黒く固まってしまった。
あれから数日が過ぎた。
ベッドの上に躰を横たわらせただ天井を見つめるだけの時間。
まだ躰は至る所痛みが走る。
私の意識がおぼろげながら戻ったのはここに搬送されてから二日目の事だったらしい。
食慾はない。出された食事に手をつけることはなかった。
ただ病室の天井を眺める。
涙がただ流れて来る。
何で涙が流れてくるんだろう。
私の手に暖かい手のぬくもりを感じる。疲れ切った顔に消衰しきった顔のお母さんの姿が目に入る。
でも、すぐそばに居るお母さんに話しかける事すらこの躰は許してくれない……。躰?多分心が許してくれないんだと思う。
私の心は何処に行ったんだろう。遠くて近い過去の事柄が目を閉じると浮かんでは消えていく。
遠くて近い過去……そのおもいでを思い出そうとも今はしない。

ただ、私は病室のベッドに横たわり天井を見つめている。

それから数日後警察の人が来てあの時の事を聞きに来た。女性の人だった。ゆっくりと優しく話しかけるように私に問いかける。
覚えていることは話したつもりだった。でも私がされたことは覚えていない。ただ黒い影が私の体を壊し始め、そして聞こえた激しい息づかいが私の耳に入っている事しか覚えていない。
私の主治医は真壁先生ではなかった。
まだ、救急病棟の一室にいるんだろう。
来る看護師も私とはあまり面識のない人ばかり。
「辻岡さん、気分はどうぉ?」
私と同年代くらいの人だけど、話しが盛り上がる事は無かった。私はただ頭をこくりと頷くだけ。
まるで抜け殻の様な、人形が頭の重さに耐えかねて下に曲がる様な感じに頭を落とす。
不思議とあの時の恐怖は沸いてこない。
ただ私に襲い掛かるのは無機質な白い霧だけ。
そう私の心は白い霧に包まれたままだった。
白い霧。前も見えないほど濃い霧の中、私はただその中を歩いている。
何処に歩いているんだろう……わからない……歩く先になにがあるのかも私にはわからない。
その霧の中に沁み込むように黒い影が私の後を追いかけてくる。
黒い影……その影を振り返り見る。
その影を見るとき一瞬、あの笑顔の彼の顔が浮かぶ。
2回目に警察の人が来た時、現場に落ちていた私の私物を持ってきてくれた。
鞄はなく財布も携帯も無くなっていた。
その婦人警官は言う
「辛いでしょうけど、辻岡さんの証言がないとあなたを襲った犯人を捜索することが出来ないの。私がもしあなたなら多分こんなに辛い事を話すこと自体、とても勇気がいる事だから無理かもしれない。でも犯人はまた別な女性《ひと》を襲うかもしれない。あなたと同じ被害者を増やしたくない。だから、辛いけど……」
最後に透明のビニール袋に入った。
ぼろぼろになった外装の……あのコートが入ったケース。
「このコート男性物の様だけど、あなたの所持品で間違いない?」
手渡されたそのコートを手にして

私は……私は、泣いた。声を上げて泣いた。

私が必死に守ろうとしたもの……それはコートなんかじゃない。
本当に大切にしていたもの。それは、将哉との想い。将哉と繋がる想い。

でも、そのコートを手にした時私のこの繋がる想いは音を立てて途切れた。
もう、将哉と繋がれない自分がこの濃い白い霧の中にいるのを見てしまったから……

それから10日後、私は退院した。

新しく携帯を購入して回線が元に戻ったのは退院してから2週間が過ぎてからだった。
SNSアカウントを復活させ開いてみるといきなり将哉からの数件のメッセージと着信履歴が表示された。
メッセージを開いてみると虫の知らせと言うものが本当にあるかのように、私を心配するメッセージが記載されていた。

将哉には何も知らせていない。

お母さんにも将哉には知らせない様に頼み込んだ。
今彼は本当に頑張っている。
だから私はあえて知らせる事を拒んだ。
来たメッセージを一つ一つ読みながらそのメッセージを削除する。
最後……将哉のアカウントを削除しようとした、その手が止まる。
どうして……震える手、涙が込み上げてくる。もう、私は将哉とは繋がる事は出来ない。

でも……消せない。

私は壊れてしまった。純粋に一人の人を愛することが出来ない女《ひと》になった。例えそれが事故、犯罪に巻き込まれた事であったにせよもう私の心は崩れてしまっている。この崩れた心を私は将哉に向けさせたくはない。
私は意地っ張りだ。
こんな時でも私はまた我慢をしようとする。
本当は……頼りたい。今私に一番必要なのはあの暖かい心を私の傍に……いてほしい。
この事を知らせれば将哉は必ず私の元に来るだろう。
そう彼のすべてを捨ててまでも、私の傍に寄り添ってくれるだろう。
そうありたい。でもそれは私が許さない。
許してはいけない。
将哉の未来をこの私が潰してしまう事なんて、そんな事出来るわけがない。
だから私は何も言わない。

仕事も休業状態。昼も夜ともわからない時間の流れだけが私を置き去りに流れていく。
事件のトラウマが暗がりの風を見るたびに浮かび上がる。
その恐怖と不安。そして罪悪感。
自分を責め自分を傷つけ自分を苦しませた。
そんな闇の中に身を隠す様にしていた私へ、あの真壁医師が訪ねて来た。
その私の姿を見るなり
「辻岡君、ダメだよ。駄目だよ辻岡君……せっかくあの笑顔が戻ってきたと思っていたのに。こんなことになって……ぼ、僕のせいかもしれない。僕は君に償いをしなければならない。しかし、僕に今できることは何もない。悔しいが今僕には君にしてあげられることは本当に何もないんだ」
涙を流し、私に詫びを入れる彼の姿
その姿を私はこの瞳の奥深くに押し込んだ。そして一言彼に言った。

「傍にいて……」

彼はゆっくりとその顔を上げた。
彼の目から流れる涙がほほを伝わる。その涙を私の手がすくい上げる様に彼の頬を拭《ぬぐ》う。
そっと彼の唇に自分の唇を重ね合わせる。
温かさが伝わる。
行き場を失った私の心が何かを求めていた。
「傍にいて」
私の傍にいてほしい。私を守る人が傍にほしい……耐え切れぬ悲しみが躰すべてを包み込んだ。
私の本当の心の叫びを広い上げて……受け止めてほしかった。

芽生《めば》える私の中に……忘れよう。すべてを……すべてを忘れれば私はこの悲しみと苦しみから解放される。
解放されたい。すべてから……
目の前にある温もりを求めた。
遠くにある遥かなる温もりをも忘れるために。
今、手の中にある温もりを

「歩実香、歩実香……」
将哉の声がだんだんと小さくなっていく。
消えゆく私の心。掴みえない私の幸せが崩れていく。私の心が崩れる様に崩れ切る心にまた冷たい晩秋の雨が私の心の中に降り注いだ。

私は……歩実香はもういない。

何もなくなった私の中に雨は降り続ける。何もかもすべてを洗い流すかのように。
もう何もなくなった抜け殻は傍にいる温もりさせえ、感じる事が出来なくなっていた。そう抜け殻、何もない抜け殻、それは私が望んだ事。
苦しみから逃れるために私が求めた結果。
将哉と言う私の大切な想い出もすべて崩れ流れ去ってしまった。
残ったのはただ広がる平坦な荒野の様な空間だけが私を支配していた。
何もなくなった。
すべてを失くした。
今の私にあるのは……何もない自分だけ


僕が想う歩実香への想いは永遠だとばかり思っていたあの時は……
心の中に潜む災害そして忍び寄る閉ざされた未来への道。
僕らは永遠に、どんなに離れていても。
どんなに苦しくても……二人で乗り切っていけるんだと思っていた。
忍び寄る災いという名の傷に僕は立ち向かわなければいかなくなることを受け止める事すらなかった。

「杉村、明日からは外科の研修だな。お前の第一専攻だろ、頑張れよ」
「はい、またいろいろとお世話になると思います。短い間でしたがありがとうございました」
「ああ、頑張れ……杉村」
本日より研修に入ります「杉村将哉(すぎむらまさや)」です。宜しくお願い致します。
外科の医局の朝、先輩医師達は何となく機嫌が悪い。
当直明けの医師はもう早く休みたい。そんな表情を露《あら》わにしながらこちに目を向けることなどない。
研修医は本当に短い周期で各診療科をたらい回しの様に渡り歩く。
それも毎年の様に行われる恒例行事の様なもの。先に研修に入ったグループはどんな感じだったんだろう。
そんな事を想いながら、僕は今、自分が最も専攻する外科の研修に入る。

「みんな、また医者の卵がまた来た。宜しく頼む」
医局長が決まりきったような口調で僕らを迎え入れる。
「さて、今日のカンファは?」
カンファと言っても大まかな引継ぎにしか過ぎない。外来担当の医師は早々に医局を出て行く。
「さて今日のオペの予定は2件か。まぁ、そんなに難しくないだろうから今日の所は安泰だな」
オペかァ……僕らが自らメスを握る日は何時の事になるんだろう。
少し胸が高鳴った。
だが結局外科の研修1日目は雑務に追われる日となった。
「今日はこの資料二人でやってもらおっかな」
女医の笹山医師がにっこりとしながらデスクに山積みの資料を指さす。
やっぱり初日から現場には向かうことないんだ。
僕と一緒に今日付けで配属になった山下と顔を見合わせながらため息をついた。
山下剛《やましたつよし》彼とは同じ大学の同期。偶然にも彼もこの病院で研修を行う事になったのは僕にとって幸いと言うべきかもしれない。
何せ彼は同期のなかでも成績は優秀でトップクラスのエリートなのだ。浮きもせず沈みもせずおよそ中間の位置を保つ僕にとっては少し憧れの人物でもあるのだ。
「なぁ杉村、外科の噂聞いているか?」
「外科の噂って?」
「なんだ聞いていないのかよ。ここの外科医局相当厳しいらしいぜ」
「相当厳しい?そりゃ、外科だし他の所よりは厳しいかもね」
「そう言う意味じゃなくてさ。人使いが荒いと言うかさ、前のグループで一人脱落者が出たらしいんだこの外科の研修中に」
「え、そうなんだ」
「なんでも精神的に行き詰まったらしい。まぁ研修といえど、俺ら一応は給料もらっている訳だし仕事といえばやらざろう得ないわけだし。押し付けられるのはほとんどが雑務らしい」
「そうか、雑務専門業務主体ということか」
「ま、これも仕方がないよ。僕らはまだ基礎知識しか解らない。現場でのあの状況を瞬時にクリアできるほどの経験も技術も無い。それをこの2年間で全て身につけることなんて到底不可能なことなんだと思う」
「たしかにな、今まで研修してきた科も僕たち研修生は直接的な医療行為はほとんど手をかけることは無かった。良くて患者さんの症状を訊いたりカルテの見直しをしたり。そんなことしか無かったな」
「そうさ僕らはこの2年間で医者という姿をしながら雑務とその雰囲気を味合う期間なんだよ」
「はぁ、やっぱそうなのかなぁ……」
「そうさ」
二人でこの先果てしなく続きそうな雑務の嵐に気を落としながら資料をながめていた。
5時を少し回ったころ
「お二人ともお疲れさん。資料の方は処理できたかな」
笹山医師が僕らを覗き込むようにに言う。
「なんだなんだ、その疲れ切ったような顔は。こんなんじゃ外科は務まらないよ」
そうは言いうものの、あの資料の山を手分けしてまとめるのにも相当な労力は必要だ。
「それじゃ今日はもう終わりだし、飲みに行くよ」
ボンと、僕ら二人の方に力強く彼女は手を落とす。
その時横眼で見えた彼女の特異的なサイズの胸が揺れるのを思わず目にしてしまった。
その時思わず、歩実香の胸とはサイズがはるかに違う……
そんな事を思う自分がいた。
こりゃ、まずいな……
「さ、行くよ」
笹山医師は僕らを誘い出した。
断る理由もなくまして初日から断ればこれからの事もある。ここは素直についてくべきだと悟ったが。
「済みません笹山先生、せっかくのお誘いなんですけど、実は先約がありまして」
山下は淡々とした態度で笹山医師の誘いを断った。
笹山医師は少しむっとした表情をしたが
「あ、そ、それじゃ杉村君行くよ」
「あ、はい。今準備します」
取るのも取らず白衣をロッカーに押し込んで、笹山医師の後に付いた。
「まったく山下君、先約があるんでなんて……多分他の先生から御呼ばれされていたんでしょうけど。その点、君はフリーらしいからいいわよね」
少し鼻歌交じりに職員玄関までの廊下をコツコツとヒールが床を叩く音を響かせながら歩いていく。
その後ろ姿は確かに女性ではあるがそれ以上になんだろう……威圧感?いや、彼女が背負う何かを感じていた。
駅前の彼女の馴染の居酒屋。
病院からさほど離れていない、大衆居酒屋。仕事帰りのサラリーマンが各々酒を煽り上司の愚痴をさかなに酔いに興じていた。
「杉村君、こういうところあまり好きじゃない?」
「いいえ、そんな事ありません」
「そっか、じゃ、すみませーん生2つ。後はいつもの様に適当に」
「ハイわかりました」いつも来ているんだろうもう顔なじみの様にその店員とも会話する笹山医師。
早々に運ばれてきたビールジョッキを片手に
「それでは、杉村くんようこそ地獄の一丁目に」
含みのある笑いと言葉を耳に僕はグラスを傾けた。
「地獄の一丁目ですか……」
「そ、地獄の一丁目。外科はどの科よりも過酷でそして理不尽なところ。そこに今、あなたは研修生として今日から入った。まぁ適当に時間を過ごして、ここを乗り切るか、もしくは精魂尽きるまで雑務と研修に勤しんでボロボロになるかはあなた次第だけどね」
「あのぉそれって僕にこの先どうあれといいたいんでしょうか?」
「あははは、それはあんた次第ということだよ。杉村雅哉君。時に、辻岡歩実香君は元気かな?」
「歩実香……いや辻岡の事をご存じだったんですか」
「知るも何も歩実香ちゃんとはいい仕事仲間だったそしていい友達でもあった」
「そうだったんですか。知りませんでした。彼女仕事の事はあまり話さないもので」
「そうかぁ、私にはよく君の事話していたなぁ。今はまだ医学生だけどこれから医師免許を取って研修をして君はきっと立派な医者になるってまるで自分が医者にあるかのような感じで話していたな」
「そうでしたか、歩実香がそんなことを……」
「そ、だから私は君にとても興味があった。今日は山下君、誘い受けているの知っていたんだ。多分来ないことを前提にとりあえず二人に声をかけた。君一人を名指しで呼んだら彼のプライドに刺さるかもしれないからね。それに多分君は山下君に遠慮すると思ってた」
そこまで計算してこの人は僕を誘ったのか……
「変な感情は持たないでよ。ここ外科の医局では物凄く人間関係が複雑なの。根回しがあってこそ今は成り立っているといった感じかな。私なんかそういうのあんまり得意じゃないからよくはじかれるけど、もう慣れた」
「人間関係ですか?」
「そ、人間関係……あそこは病院というよりもお役所みたいなところだと私は思っているの。それってこれから医療の現場に従事する君に話すべきことじゃないだろうけど、人の命を預かる聖職……今はその前に自分の建前と自分の地位の維持を優先することが最重要視されているといっても過言じゃないわ」
医者になるということを夢見て今まで頑張ってきたが、この言葉にはかなりの衝撃を受けた。
医者は人の命を預かる仕事。いわば技術者ともいうべきだろうか。そのために日夜身を制してみんな頑張っているのだと思っていたが現実はそんなもんじゃないような気がしてきた。
「前途ある君にこんな話をして意欲喪失?もしそうだったら無理なことは言わないわよ早く別な道を見つけるべきね」
焼き鳥をほほ張り、ビールを流し込むその彼女の姿を僕は見ながら
「ならば僕はこの外科の研修でどう立ち振る舞ったらいいんでしょうか?」
「はぁ?立ち振る舞う。あははははは、そんな言葉で通用するようなところじゃないって言っているの。貴方はまだ現場を知らない。だからまだそんなことを言ってられる。まだ医者はかなり優遇されているでもね看護師たちはその優遇は受けられない。貴方の彼女歩実香ちゃんだってその通り。現場でその技術と動き方を身に着けないといけないのよ。彼女は本当にいい子だった。秋田に行くと聞いてどうしても行かないといけないのかと何度も私は引き留めたんだが、彼女自体その意思も堅かった。今、目の前にいる君には申し訳ないけど、同じ女として彼女は、私には出来ないことをちゃんと前を向いて進んでいたんだから」
ちゃんと前を向いて進んでいた……
歩実香はどれだけ過酷な状態にあっても私には守るべき人がいる、そして支えてくれる人がすぐそばにいるから頑張れるんだ……その言葉がよみがえってくる。

「ねぇ、杉村君。君は医者って何だと思う」
唐突に訊かれ言葉に詰まっていると、笹山医師が

「医者ってね、何にもできない人の事を言うの。医者であるがゆえに医療の事しか頭にない、そして身体もその事にしか反応しない。それってまるでロボットよね。でもね私たちを頼ってくる患者さんたちは人間なのよ。人なのよ。

人はね、いろんな感情を持っている、そしてその人それぞれの生活がある。決まりきったマニュアルですべて解決できるものじゃないと思うの。

私は……医者である前に

一人の人間人でありたい。

暖かい血の通う人間でありたいといつも思っている」

一人の人間でありたい。暖かい血の通む人間でありたい。
彼女のその言葉がこれからの僕の人生に大きくかかわることは今まだ気づくことさえなかった……でもなんだろうその言葉は僕の心の奥底に浸透していくような気がした。

「さて、もういい時間ね。明日もあるし、そろそろお開きにしましょうか」
「今日はお際頂いてほんとうにありがとうございました」
「どういたしまして、指導医と受講生の顔合わせだから」
「指導医?」
「そ、あなたの指導医はこの私、そしてあなたはその受講生。明日からしごくから覚悟しておいてね」
ちょっと小さな声で
「お手柔らかにお願いします」
「なんだなんだ、そん小さな声はもっとしゃんとしろ杉村雅哉」
思いっきり背中をたたかれてしまった。

笹山医師とは店の前で別れた。

僕は、《《去年まで来ていたコート》》を今年も羽織り、冷たく冷えた秋風を感じそのコートの襟を立て駅えと向かった。