いかづち天龍虹渡る

「……私は水凪様に嫁いだ身や……。……何を、とは望んではおらへんけど、……ホンマにここだけの内緒にしといてほしい……。私がホンマに好きなんは、千臣さんやねん……」

神に背くことを覚悟の上で告白すると、千臣は千代を一層抱き締めてくれた。まるで水凪から、郷の人から守ってくれるかのような抱擁に、涙があふれる。こんな運命づいた自分でなければ、千臣と恋を謳歌できたのかと思うと、歌に定められた運命が憎らしい。ぱたぱたとまなじりから零れる涙を、千臣が指で拭う。そして落ち着いた低い声で千代の名を呼ぶと、約束してくれた。

「千代。今、お前は確かに水凪殿の嫁かもしれない。だが、俺はお前の気持ちを叶えるために、今まで努力してきたんだ。俺に任せてくれないか」

任せる……。任せて、どうなると言うのだろう。

「千臣さん……」

「俺も、お前を離したくないと思っている。俺とお前の気持ちが同じなら、きっと願いはかなうと信じているんだ」

千臣に励まされると、本当にそうであるような気がしてくる。……理由もなく、千臣を信じてみようという気になる。

「千臣さん……。千臣さんの言わはること、信じます……。私の気持ちは千臣さんにお預けします。千臣さんの良いようにしてください……」

ああ、これで私は神に背く巫女となった。でも、この心の高まりを、どうすることも出来なかった……。この身が二つに裂かれても、片方は千臣さんと心だけでも添い遂げたい……。

千代の覚悟を悟ったのか、千臣は千代の肩に手を置き、千代の瞳を覗き込んだ。

「千代。絶対お前の願いを叶える。待っててくれ」

千臣は力強くそう言うと、郷から出た方が良いという千代の提案を受け入れてくれた。

「郷の外れの木立の中に身を潜めていよう。千代は俺に何か言いたいことがあれば、千代の家の裏庭の地面に伝言を書いてくれたら良い。俺は毎日夜に見に来よう。『いろは』は覚えたな?」

千臣の言葉にこっくりと頷く。千臣が深い笑みを湛えて千代を見た。

「暫く会えないが、絶対に千代に悪いようにしない。俺を信じていてくれ」

「はい、千臣さん。私、今までずっと待ってたんやもん。これ以上は、どれだけ長くなっても一緒やわ」

ふふ、と微笑む千代に、千臣もやっと表情を緩めてくれた。二人は宵の闇の中、固く抱き合ったのち、散り散りに別れた。




千代は千臣と別れてから毎晩、庭先に落ちていた枝で千臣に伝言をしたためた。



――――ちおみさんがいなくなったさとは、とてもさびれたさとのよう。ちおみさん、すきです。

――――ちおみさんがすごしたはなれに、ちおみさんのけはいをさがしてしまいます。ちおみさん、すき。

――――なんねんもあわずにいたのに、たったみっかちおみさんにあえないだけでとてもさみしい。ちおみさん、だいすき。



とめどなく溢れる胸の内を毎晩毎晩したためて、時折返事があるのを心待ちにした。美しい文字で返事があると、その場で跳ねたいくらいの高揚感が千代を襲った。そんな、心浮かれる日々を過ごしていた時のことだった。

「千代、これは何をしてんのや?」

瀬良が神社にお供え物の野菜を持って来て、そう言った。瀬良を始め、村の人は文字が読めない。だから千代が何を書いたのかも理解できない。千代は千臣に対する恋文を見つけられた恥ずかしさを押し殺して、都人の真似事よ、とだけ言った。しかし。

「千代。これはなんだ」

瀬良と喋っていたその時、水凪がいつもの朝より早く、神社を訪れた。瀬良に見つかった地面の文字は、他の村の人が見ても意味が分からないミミズが這ったような跡でも、水凪には意味が分かってしまったのだ。

「お前、神嫁ともあろうものが、人間風情に現を抜かすとは何事だ!」

がっと肩を掴まれて、千代がよろける。その拍子に、千臣に貰った首飾りが着物の袷から飛び出た。……勾玉が光っている。

「お前、それを……!」

何故かハッとした水凪が千代の首飾りを奪い取ろうとした、その時。

バチっという音がして、勾玉が水凪の手を弾いた。稲妻が落ちたような音だった。衝撃に水凪が、うっ、と低く叫び、手を引っ込めるともう片方の手で包んだ。……水凪の目が、大桜の木の陰で蛇の目のようにギラギラしてる。

「おのれ、術を仕込んでいたか」

「……みずなぎさま……?」

「水凪様、どないしはったんですか?」

水凪の様子に困惑した千代と瀬良に対し、水凪が再び千代に襲い掛かる。

「それを寄越せ!」

水凪が千代に掴みかかろうとした、その一瞬前。千代を背後に、どこからか現れた千臣が水凪の手を薙ぎ払った。パン! と大きな音がして、腕ごと払われた水凪がよろける。

「千臣殿! まだ郷に居られたんか!」

千臣の登場に驚く瀬良に構わず、水凪と千臣が千代を挟んで対峙した。

「うっ! 泥棒猫めが! そこを退け!」

「なにゆえ千代を襲う。千代は巫女であると同時に、一人の人間だ」

「千代は俺と婚姻の契約を交わした! お前が立ち入る隙は無い!」

ギラギラとした目で千臣を睨みつける水凪に、千臣は静かに問う。

「神の名で人を縛り、生きざまを制限する方法が、本当に正しいのか。人は、心において自由であるべきではないのか」

「うるさい! お前ごとき、水に飲まれてしまえ!」
水凪がそう言い、殴りかかる右手の中に水の渦を作り出すと、それがみるみる巨大になり、投げ出した拳と共に千臣を襲った。当然、巨大な津波のような水は千臣を押しのけ、その場には千代だけが残る筈だった。……しかし水凪の意図に反し、千臣は水を被ってもその場に佇み、いや、水に触れたような気配も見せない。水凪はその様子に驚愕し、目を見開いた。瀬良もまた、驚愕の目で千臣を見つめる。

「お、お前、何者だ……!」

水凪の怒号に対し、千臣は冷静なままだ。

「俺は、千代を愛するもの。そして、今度こそ千代の手を取ると決めたものだ」

まっすぐに水凪を睨み返す千臣の視線にたじろいだ水凪が、次の瞬間、何も言わずにその場で飛び上がって、神社の屋根伝いに森の方へと消えていった。水凪と千臣のやり取りに呆然としていた千代を、千臣がやさしく腕に抱く。瀬良は、水凪が跳び退った方角と、千代を交互に見比べた。

「……、なんやったの、今の水凪様は……」

「気にするな。千代は俺を信じて居ていてくれればいい」

信じて……。でも、水凪の水は草も濡らしたのに、今それを被った千臣が一滴も水に濡れていないのも気になる。不安そうに千臣を見上げると、千臣は目を細めて微笑んでくれた。

「心配いらない。千代が願ってさえくれたら、俺はなんだってできる」

千臣はそう言うが、千代の目の前には神との婚姻に、郷の少雨と、千臣では手の施しようのない問題がある。これらをどうにかしない限り、千臣と並んで立つことすら、許されないような気がした。

「千臣殿、あんた一体、なにもんなんや」

瀬良の問いに、千臣は答えない。瀬良が、二人を物の怪を見るような目つきで見つめていた。




例年だったらもう雨が降っている頃。相変わらず空はからりと晴れ上がり、太陽の光が地に降り注いでいた。雨雲と言わず綿雲さえも空に見受けられず、村中に雨への心配が広がっていた。水凪は相変わらず姿を見せず、悪いことに、何故か今年に限ってこの時期に咲くはずのない渇きの大桜が春に続きもう一度花をつけた。

ひとつ、ふたつと増えていく桜の花は、やがて満開になって風に揺れた。言い伝えの中だけで聞いていた奇妙な現象に人々の不安が最高潮に達した、そんな時だった。

「あいつが悪いんだ。今まで平穏だったこの郷にこの前から住み着いているやつ。あいつが水凪様を怒らせたんだ。俺、見たんだ。あいつは以前、泉に入って神様の泉を汚した。それに、千代を取り合って、喧嘩になってた。だから神様がお怒りになったんだ」

瀬楽だった。千臣に対して疑心暗鬼になりすぎた瀬楽が、村人に触れて回っていた。村人はそれまで好意的だった態度を変えた。千代に返事を書きに来た千臣は、彼を血眼になって探していた村人に捕まってしまった。

「あんた、神様の泉を汚したっていうのはホンマか」

「そう言えばあんた神様に向かって拳を振るっとったな」

「千代は神嫁なのに、それを取り合ったってホンマか」

「雨が降らんのはあんたの所為か」

「出て行ってくれ。罰当たりなやつはこの村から出て行ってくれ」

「いや、出て行くだけでは神様は鎮まらん。あんたを人柱に立てたら、神様は許してくれるかもしれへん」

口々に千臣を責める言葉が聞こえてくるのを、千代は辛く聞いた。千臣が言っていた信じる心と言うものが、こんなところで悪い方向に出ている。なんとしてでも止めなければならなかった。

「千臣さんは悪くないんです。泉に入ったのは確かですが、神様はお怒りになったりしてません」

千代が村人を説得しても、村人たちの怒りは収まらなかった。

「そうだ、千代。こういう時こそ、お前の出番じゃないのか。あいつを人柱に供えて祈りを捧げてくれ。雨が降らんことにはこの村は飢えてしまう」

「水凪様を呼び戻してくれ」

村人が天を仰いで、水凪様、水凪様、と唱え始めた。するとその時、神社の本殿の扉が大きな音とともに激しい爆風で開き、其処から白い閃光が放たれた。
「えっ!?」

村人同様、千代も驚いて見ると、扉の中からよろよろと出てきたのは水凪だった。……着物が焼け、ぼろぼろになって、袖から出る腕にはうろこが走り、うつろで大きな目が空(くう)を見る。

千代は水凪に駆け寄り、雨を降らせてくれるよう頼もうとした。すると水凪が何かぶつぶつと言っているのが分かった。

「水凪様……?」

「水凪様! ようお戻りくださった! 郷に雨を降らせてください!」

村人が口々に雨を、雨を、と言うも、水凪はそれを聞いていないようだった。ぶつぶつと独り言を繰り返している。

「おのれ、龍神め……。あの宝珠は我には強すぎる……。もっと力の弱い……」

そこで水凪の目がぎょろりと千代を見据えた。その恐ろしさに、ひっと思わず声が出てしまった。

「我の統べる沼が干からびてしまう……。娘、……その宝珠を寄越せ……!」

水凪はそう言って、あの時と同じように千代の首飾りを奪おうとした。すると。

今度も勾玉が光を放って水凪の手を拒絶した。バチっと音をさせて弾かれた水凪が後ろに吹き飛ばされて土煙が立つ。その土煙が消えた後に其処に居たのは、黒く薄汚れた水色の肌をした人の背丈ほどの蛟(みずち)だった。

「なんやと!?」

「龍神様じゃないぞ!」

「水凪殿、騙したのか!」

なんていうことだろう。神様だと思って接してきたのは、郷の沼に住むという蛟の妖怪だった。道理で水凪から沼の匂いがする筈だ。淀んだ沼の水は、それは気持ちが悪いだろう。

蛟を前に村人たちが責め立てる。蛟が、があ、と口を開いたその時、真っ青な天から蛟目掛けてパシン、と稲妻が落ちた。蛟はその勢いでその場に頽(くずお)れてしまった。

「ひっ! 龍神様がお怒りだ!」

「千代、早よ神様にお祈りしてくれ!」

「お怒りが俺らに向いてまう!」

「早く泉に入った罰当たり者を括ってしまえ!」

ひとりの村人の案に、他の村人がそうだそうだと賛同する。祈りをささげることには勿論賛同するが、それに千臣を巻き込みたくない。しかしこういう時、小さな村の中の異端児はたやすく吊るし上げられる。千代が止めてと叫ぶ中、千臣は後ろ手に縄を巻かれ、渇きの大桜に後ろ手のまま括り付けられると、神様に命を捧げろと村人に脅されていた。

こんなに恐ろしい村人たちを見たことがないと、千代は思った。いつも笑って千代を見守ってくれていた村人たちが、千代の大切な人を非道に扱い、命まで差し出せと迫っている。千代は泣いて村人たちに頭を下げた。
「私が、龍神様のお怒りが鎮まるまで祈り続けます。きっと龍神様は私たちの声を聴いてくださいます。だから、千臣さんに酷くするのは待っていただけませんか……」

このままでは怒りのあまり、千臣の首を落とすなどと言いかねない。千代は根気強く村人を説得し、漸くその許しを得た。早く解放してあげなければ、彼が殺されてしまうと思った。

(みっちゃん、待っててね。……私が助けるから……)

千代は社に保管してあった神楽鈴を取り出した。そして本殿へ向かい、扉の壊れた棚に収まっているご神体の水晶に向かってこれから奉納の舞を行うことを伝える。額を板床に擦りつけて祈ると、何処からか気配を感じた。

(……、これは巫女になった時の夜に感じた、あの気配……)

ほんの少しだけ、額を挙げて目を開ける。しかしあの時とは違って、其処には何の影も浮かんでいなかった。

そして数秒ののち、薄かった気配は空気の中に溶けて消えた。千代は顔を上げ、神楽鈴を手に取った。神社の境内の中で、奉納の舞が始まる。村人たちが固唾をのんで舞を待っていた。神楽鈴が、しゃん、しゃん、と鳴り響く中、千代は体を動かし始めた。

最初は左足。次に右足を出す。そのまま右足を前に出して、左手を体の横から前へすうっと流す。右手の神楽鈴を律動させて鳴らす。前に出した右足の横に左足を出し、体を前屈させ、今度は上体をゆったりと後ろに反らす。鈴がしゃらしゃらと鳴って、五色の飾り帯が弧を描いた。左足を前に蹴りだし、つま先を張る。ぴんと伸びたつま先からは足の裏に着いた砂が小さく舞った。

両手を大きく後ろから前へ。そして自分の胸のところまで引いて、千代は天に向かって歌を歌い始めた。

「神降り立ち降雨あり 
恵みの雨は龍と共に来 
いかづち刺さりて 
迎えさすは落つる御子 
碧天(へきてん)に圓光(えんこう)輝き龍一対 
龍は来(こ)し方に帰らん 
別つ神迎え御子の奏上にて 
郷降り立ちて降雨あり 
碧天も同じに」

(龍神様、お願いです…。お怒りを鎮めてください……)

砂利を蹴って上げた脚とともに、地面から円を描くように水が噴き出た。噴き出た水は弧を描いて地に帰る。二度三度、千代が地面を蹴り上げると、やはり同時に水が噴き出て弧を描く。この不思議な現象を、村人は目を見開いて魅入っていた。

体をやわらかく曲げ、両手を高く上げ、神楽鈴を繊細に鳴らし踊り続ける千代の周りを、まるで結界だと言わんばかりに水が舞う。水の結界の中では放電が起き始め、小さな稲妻が走るたびに千代の薄く紅を刷いた唇が濡れて光った。
時折、舞を踊る千代の汗が珠となって飛ぶ。それすらも水の演舞のように見えて、村人は言葉を発することが出来なくなっていた。
「……、…………っ」

無心で踊っていた千代に、何かが触れた。あの、本殿でしか感じることのできなかった気配だった。千代が気配の方を見ると、其処に突如として、ドオン、という音をさせて凄まじい雷が落ち、地面からは煙が立ち込めた。

「……!」

人々が驚く中、煙が消えた後にはご神体の水晶を持った千臣が其処に立っていた。

「ち……、千臣さん……!?」

突然結界の中に現れた千臣を驚いて見ていると、どうも様子が違う。もともと長かった髪の毛は腰の下まであって色も白銀の髪、真っ白い着物を着た袖から出る宝珠を持つ手の爪は長く尖っている。額には二本の枝のような角、そして、纏う空気が神社の本殿で感じた、あの蒼くて清涼な空気だった。

千臣に似たその人は、持っていた輝く宝珠を瞑れた片眼に押し当てた。すると水晶が目の中に沈み込んでいって、潰れていた目が開いた。両眼は白い光を宿した深い瑠璃の蒼の瞳で、その両目で呆けている村人たちを見てこういった。

『時が来た。我が御子を天に貰い受ける』

村人は何も言うことが出来ない。まるで金縛りにでもあっているかのようだ。
その人は視線を村人の後ろでおびえる蛟にやった。

『蛟。此度そなたは出過ぎた。妖が神を騙(かた)るなど言語道断。貴様の沼に、追って裁きがあると知れ』

頭の中にこだまするその声に、蛟が何かを言いたそうにした。しかし、その人は蛟の言うことには耳を貸さず、今度は千代に向き直った。

『御子よ。あの時、お前は幼すぎたが、機は熟した。今こそお前を我が身(龍神)の半身として迎えよう』

目の前で起こっていることが理解できず、混乱している千代に、龍神だと名乗る男はやさしく額に触れた。

途端に千代の頭の中に流れ込んで来る記憶たち。それらは、あのうたの許となった、郷を見守って来た龍神の記憶だった。

恵みの雨が神龍の来訪と共に降るようになったこと。

いつしか郷に神さまを迎えるには、天界に居る龍神の力と、下界に降りたった御子の力を必要とするようになったこと。

そんな中、青空の許、丸い陽の光が輝いた中を、雷と共に一対の龍が郷に舞い降りたこと。

それが地上に生まれ落ちた千代と千臣だったこと。

千代が自らの運命を受け入れ、けなげに務めに励んでいたのを千臣が見ていたこと。

そして千臣は、御子たる千代を迎える準備をする為に、天に帰らなければならなかったこと。

郷から去った龍神が、御子の奏上で、再び郷に降り立ったこと。

なにもかも全て、最初から決まっていたことなのだと、龍神は千代に語り掛けた。

「何もかも、全て……? ……じゃあ、私が千臣さんのことを想ってしまったことも、決められていたことなの……?」

定められた運命によって、自分の気持ちは決まってしまったのだろうか。千代が不安に思う中、龍神はやさしく千代に語り掛けた。
『元は一つだが、別れてしまえば別の魂。我がそなたを愛したことが魂の自由なら、そなたがこの器を愛したことも、また魂の自由ゆえ』

蒼い瞳で微笑みかける龍神に安堵する。そうやって、天に居た時、地上に降りた時、共に千代と歩んでくれた龍神だったのなら、千代の気持ちが分かっているのではないか。

『お前の望みを叶えよう。そして我とともに来い』

「龍神様。私が龍神様のお役に立てるのなら、こんなに嬉しいことはありません。でも、みっちゃんは……、千臣さんだけは連れて行かないでください……っ」

幼い頃から今までの千代を心の底で支えてくれた千臣にだけは、生き残って欲しかった。千代が龍神の御子だというこの命と引き換えに叶えてもらえることがあるのなら、それ以外は願わない。

龍神は千代に微笑んだかのように見えた。そして千代の手を取ると、再び空気を切り裂く音とともに目が潰れるくらいの閃光が地面に落ち、一瞬で龍神と千代はその光に包まれた。そして、その閃光に続いてざあっと降って来たのは、銀糸の雨。

「あ……、雨だ! 龍神様が雨を降らせてくれたんだ……!」

村人が喜びに天を仰ぎ、再び境内の結界を見た時、其処には千代と男の姿はなく、銀糸の雨が細く長く降り注ぐ空には、一対の白龍が天を目指して昇っていく姿があった。

「りゅ……、龍神様だ……! 龍神様が天に昇って行かれる……!」

人々は雨が降りしきる中、天高く昇っていく一対の龍を見守った。

「……千臣さんは、龍神様の御使いだったの……」

空を見上げていた璃子は呆然と呟いた。だとしたら、人間の自分に振り向いてくれなくても仕方がない。神様には神様に相応しい相手が居る。そして、璃子のすぐそばで瀬楽も立ち尽くしていた。

「……村長さま……」

璃子や村人と同じように一対の龍を見上げていた瀬楽が、千代の祖母にぽつりと呟いた。

「……俺、千臣さんに悪いことをしてしもうた……。千代を盗られまいと思うがばっかりに……」

寂しそうに空を見上げる瀬楽に、村長は深く微笑んだ。

「若い恋もあってエエ。いろんな経験を経て、人は大人になるんやからな」

しわくちゃの手が、瀬楽の背を撫でて、瀬楽は拳で目じりを拭った。璃子も、村長の言葉をひっそりと聞いた。

雨は青空の許、さあさあと振り続け、龍が駆け上ったあとには眩しい太陽と大きな虹が出ていた。…大桜の花は、散ってしまっていた……。


千代が目を覚ますと、其処は神社の本殿だった。板壁の隙間から陽の光が射しこみ、その空間に影を作っていた。

(……生きてるの……? 生きてるのかしら、私……)

千代は目の前で自らの手を握ってその感触を確かめた。皮膚から返ってきた自分の手のひらの感触に、生きていると感じた。そして、息を殺して気配を窺う。…しかし龍神の気配はしなかった。千代の許からも、この郷からも居なくなってしまったのだろうか……?

何もかもが分からないまま、半身を起こして暗い本殿の中を窺うと、もう一人、其処に横たわっている人が居た。……千臣だ。

千臣の顔はわずかな隙間から差し込む陽光によって陰影を濃く彩られており、まるで生きていない作り物みたいに見えた。もしかして、今まで見てきた千臣は神様の化身で、今其処に居るのはただの抜け殻だったらどうしよう。

「みっちゃん……?」

手に汗を握って千臣の傍に寄る。耳を心臓に当てて鼓動を聞けば、かすかにとくとくと拍動を刻む音が聞こえた。……良かった、生きてる……。

安堵のあまり、涙がこみあげてきてしまった。泣いてしまって濡れた頬でいとしい人の胸に縋る。すると、ふう、と千臣の両の瞼が持ち上がった。

「……ちよ……」

低くて甘い声が千代の名を呼ぶ。それが嬉しくて、腕を千臣の背中に回した。千臣が大きな手で頭を撫でてくれる。……その律動がやさしくて、また涙が出てしまった。

「うん……。手、大丈夫……?」

村人にきつく縛られていた手首には傷ひとつなかった。

「……龍神は郷に絆を残して、天に帰ったな……」

大きな息を一つ零して、千臣が言った。千代も頷く。

「龍神様は、私が奏上の巫女としてこの郷に居ることを条件に、私の中の龍神さまの魂を連れて行かれたわ……。……これからは、みっちゃんが私の半身になってくれる?」

千代が問うと、千臣は口端を上げて笑った。

「……言っただろう。これからは、ずっと千代と一緒に居ると。これからは俺の為に歌ってくれ」

千臣の応えに、千代は涙を零しながら、うん、うん、と頷いた。

神様によって運命を定められていた二人だけど、これからは自分たちの意思で一緒に歩んでいく。

龍神の御子の魂を宿して生まれ落ちた娘と、神の器としてその身を継いだ男は、惹かれ合うままに口づけた。

……夏の風が渡って、神社の裏の泉の水面が揺れた。






神降り立ち降雨あり 
恵みの雨は龍と共に来 
いかづち刺さりて 
迎えさすは落つる御子 
碧天(へきてん)に圓光(えんこう)輝き龍一対 
龍は来(こ)し方に帰らん 
別つ神迎え御子の奏上にて 
郷降り立ちて降雨あり 
碧天も同じに 
地平も同じに 










<了>

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