いかづち天龍虹渡る

「だが、千代が何か思うことがあった時に、助けになれるかもしれない。その時は遠慮せずに言ってくれ」

口許に微笑みを浮かべて言う千臣に、ただ偶然に傷の手当をしただけの娘に対して、なんという心の配りようだろうと感服する。吉野で修行する修験者と言われる人々のように、心が広いと感じた。千代が小さく頷き返すと、千臣もいくらか納得したように頷いた。

「さて、話がそれたな。歌の続きだ。『神』の次の『おりたち』はどうだ?」

穏やかな表情に戻った千臣に、千代ももう一度居住まいを正す。

おりたち……。郷の者が言う、俺たち、ではないだろうし……。

「『おりたち』とは、上の方から下の方へ降りてきて、その場に立つ、という意味だ。つまり、『神』が天上から地上……、この場合はこの郷のことだな、に『やって来た』、という意味だ」

上の方から、という時に、千臣は天を指し示し、その指をすぅっと地面に降ろした。

「では『こううあり』というのは……」

千代の言葉に、雨だ、と千臣は言った。

「この歌は、龍神との関係を歌った歌なのだろう? だとしたら『こうう』というのは『降雨』、つまり『雨が降る』ということを言っている」

「では、歌の始まりは、『神さまがこの郷にやって来て、雨が降った』、ということなんですか」

「そうだな」

そうだったのか。ではこの郷は、そもそもは雨と縁のある土地だったのか。

「では、この一文を書いてみようか。千代、いろは歌には後で倣うことにして、まずは書いてみるんだ」

千臣はそう言って、歌の最初の部分を地面にゆっくりと書き記した。千代はそれを見て、真似た。



かみおりたちこううあり



漢字の時同様、千臣のきれいな字とは似ても似つかない文字が出来上がってしまって、項垂れる。千臣の文字は左右上下の調和が取れているのに、千代の文字は、左右が大きく、太っちょの文字だ。何度書き直しても左右の幅が狭くならす、己の才の無さに泣きそうになる。しかし千臣は、練習あるのみだぞ、と言って千代を励ました。

「千代は神を迎えたら自分の人生がなくなってしまうと分かっていても、勤めに精を出せたのだろう? だったら、文字を覚えることくらい、簡単にできる筈だ」

励ましに、正面から頷いた。元は千臣が提案してくれたことだが、やりたいと言ったのは千代だ。それを途中で……、それもはじめたばかりで放り出すなんて、したくない。

「……がんばります」

「そうだ、その調子だ」

千臣が、ちゃんと見ていてやるから、と言ってくれたのも背中を押した。郷の人たちが千代の巫女継承を楽しみにしてくれたのを感じていたのとは違う、無償の激励が千代の力になった。

「一度に歌全部を書き起こすのは難しいだろう。最初の歌で練習すると良い」

「はい、頑張ります」

千代の言葉に、千臣は再び地面と向き合う。
「さて、続きだな。『めぐみのあめはりゅうとともにき』。これは今言った降雨のことを恵みの雨だといっていて、それが龍と共にやってくる、と歌っているんだ」

さらさらと、綺麗な文字で歌を書き記す千臣の手を見ながら、千代は歌の内容を頭に叩き込んだ。



『神さまがこの郷にやって来て、雨が降った。
その雨は恵みの雨で、龍と共にやってくる』



成程、そうやって解説されると、歌の意味がよく分かる。

「次……。次はなんて歌っているんですか?」

千代は好奇心に刺激され、前のめりになりながら目を輝かせて千臣を見た。千代を微笑んで見守りながら、千臣が続ける。

「『いかづちささりて』。『いかづち』は先程言ったように、『雷』のことだ。つまり、雷が刺さった……、落ちたんだな」

「はい」

「『むかえさすはおつるみこ』、ここが大事だ。むかえさす……つまり『迎えさせるのは』、『おつるみこ』……、『落ちた』『みこ』であると言っている。何を『迎えさせる』のか。先代に託されたご神託は『神さまを千代が迎える』ということだったのだろう? つまりここでは、神さまを迎えさせるのに、『落ちた』『みこ』である千代が選ばれた、ということを言っているのではないかと思っている」

落ちた巫女……。落ちた巫女って、何だろう。千代は疑問を素直に口に出した。

「落ちた巫女って、なんですか?」

「さあ。それは千代が龍神を迎えた時に分かるのではないか? 見たところ、千代はまだ水凪殿と婚姻の儀を終えてないだろう」

言い当てられて、千代は顔を赤くして黙り込んだ。

そうなのだ。水凪は千代を嫁だと言いふらしている割に、夜は何処かへ行ってしまって、千代の許に通ったことがない。千代も求められていないから、まだ水凪を前に婚姻の舞を舞っていない。お互いに踏み出し合っていない、というのは分かっているが、こういう時は男性から一歩、踏み込んで欲しいと思うのだが、それは神さま相手に思い違いなのだろうか。

みっともない赤面を見られたくなくて、手で頬を覆う。チラリと指の間から千臣を窺えば、千臣は何食わぬ顔をして千代を見ていた。つまり、自分に含むところはない、という事を示しているのか。水凪に責任をなすりつけた罪悪感から逃れたくて、千代は歌の続きをねだった。

「次。歌の次に行きましょう」

誤魔化すようにそう言うと、千臣は、ははは、と笑って次を続けた。
「では次だ。次は少し難しい。『へきてんにえんこうかがやきりゅういっつい』。『りゅういっつい』は先程の『龍』についてだ。龍が『一対』、つまり二匹が一緒にいることを言っているのだと思う。千代は、雷が落ちるときに一対の龍がその地に水を与えることを約束して天に上る、という話を知っているか? この『龍一対』はそのことをさしているのだろう。つまり龍は二尾一対が基本だ、と言いたいのだと思う」

初めて聞く話に、千代は固唾を呑んで聞き入った。博学な千臣から語られる全てのことが、千代に目新しい。

面白い! 面白い! 面白い!

自分の郷に関係のあることでも、知っていくことがこんなに面白いなんて!

知らなかった一刻まえの自分は、なんてうつろな人生を歩んできたんだろうと思う程に、世の中は面白いことで溢れていた。知れた自分はなんて幸運なんだろう。千代は千臣に先を促した。

「そ、それで? それで、一対の龍神様はどうされたのですか?」

「はは、まあ待て、千代。その前にこれも明かさねばならない。『へきてんにえんこうかがやき』だが、『へきてん』とは『青い空』のことだな。『えんこうかがやき』は、青い空に『耀く』んだから、おそらく『えんこう』は丸い光……、つまり太陽のことだ。さっきの部分と繋げると、こうだ」



『雷が地上に落ち、
神を迎える相手は、落ちた巫女と決まった。
青い空に太陽の光が丸く輝き、その中を龍が一対(二匹)泳いだ』



「続いては千代の知りたかったことだが、こうだ。『りゅうはこしかたにかえらん』、冒頭の『りゅう』は先程の龍だな。では『こしかた』はどうだ?」

「……全然分かりません……」

眉尻を下げて言うと、そんな情けない顔をするな、と笑って慰められた後に解説が続く。

「『こしかた』は『来し方』、つまり来た方角を指す。『かえらん』くらいは見当がつくか?」

「……帰ろう、ですか?」

千代が答えると、千臣は惜しい、と微笑んだまま、人差し指を顔の前で立てた。

「これは『帰ってしまった』という意味だろう。つまり、青い空の中に泳いだ龍は、来た方角に帰って行った、という意味だ。しかし、ここで問題がある」

千臣が千代の方を向いて、なぞかけをする。千代は、今までの流れに問題があったかどうか、反芻した。

(龍神様は恵みの雨と共にやってきてくださる……。そして何かの偶然で雷が落ちた時に、神さまをお迎えするのは『落ちた巫女』て決まったんやわ……。龍神様はそれを決めて、いらした方角へ帰って行かれた……。……って、あれ?)
「りゅ、龍神様はお二人でひとつとおっしゃいました。帰って行かれたのもお二人なんですか?」

千代の問いに、千臣は大きく頷いた。

「良く気づいたな、千代。ここが問題だ。帰って行ったのは『龍』としか言っていない。つまり『一対』なのか『一尾』なのか、ここでは区別がつかない。しかし、次の文で説明がつく」

『わかつかみむかえみこのそうじょうにて』のことだ。千代は千臣の目を見て、聞く準備があるという意思表示の為、こっくりと頷いた。

「『わかつかみ』、つまり『別れた神』とある。このことは、龍が帰った時、二匹が別れたのだ、ということを示している。その別れて帰って行った神は、『むかえみこ』……、これは千代のことだとさっき結論が付いたな、……の『そうじょう』、これは神前における祝詞か舞か、なにかの奉納だろう、それによって、……次の文になるわけだが」

「『さとおりりたちてこううあり』。……別れて帰ってしまわれた神さまが、もう一度この郷にやって来て、雨が降るんですね……」

なんとなく、千代にも分かって来た。龍神様は、もともとこの郷に居られたのだ。それが、ある時何故か、片方だけが、天に帰ってしまった。それからが、この郷の少雨に嘆く日々の始まりだったのだろう。ただ、神さまは巫女である千代の奉納で舞い降りて、そして雨が降るのだ。

……って、あれ?

「で、では、郷に雨を得るためには、水凪様をこの郷にお迎えしただけでは足りず、何かしらの奉納をせなあかんということですか……?」

「この歌では、そういうことになっているな」

「大変!」

千代の顔がサッと青くなる。水路に水を引いてもらっただけで喜んでいてはいけなかったのだ。奉納? 奉納? 祝詞だろうか、舞だろうか。ああ、その答えが歌にあればよかったのに! おろおろとあたりを見渡したが、水凪の気配は感じない。千代は千臣に縋った。

「千臣さん! 郷に雨が降るようになるにはどうしたらええんですか!? 水凪様がいらしてから、まだ一度も雨が降ってないんです!」

なにか、巫女たる自分に落ち度があったのではないか。千代が動揺の余りそう考えると、まあ落ち着け、と千臣は千代の肩に、その大きな手を置いた。何処からともなく冷ややかな風が流れてきて、そちらを振り向いたがそこには誰もいなかった。千臣が落ち着いた声で千代を諭す。

「まだ水無月になったばかりだ。千代が龍神を迎えた暁には、ちゃんと郷に雨は降ると歌にもあっただろう。水凪殿がどういう意図で千代と婚姻を結んでいないのかは分からんが、水凪殿にも考えがあるのかもしれん。水凪殿の言葉を待ってみてはどうだ。そして、待っている間に文字を覚えたら良い」

……独りで慌てふためいてたのが、千臣の言葉で鎮火していく。千臣の言葉は、すうっと千代の心に入って行った。
自分は水凪と郷を繋ぐためだけに居るのだと思っていた。その為なら、何でもやらなければならないとも。それなのに千臣はそこから目を逸らさせてくれる。

待つ。待つ間、自分の為に時間を使う。それは千代にとって、とてつもない贅沢だった。

自分の為に、時間を使う。

思えば、子供の頃から郷の為、神さまの為に努めてきた。自分のことなんて、考えたこともなかった。千臣の提案が、夜の星空のようにきらきらと心に映り、どくんどくんと心臓の鼓動を速めた。

人生を自分の為に生きることは出来ないけれど。つかの間の自由だったら許されるだろうか。

「そ……、……う、です、……ね……」

千臣に応えることで、その自由が自らの中に帰るようだった。心臓が弾みはじめ、高揚してくるのが分かる。

いっとき、人生の自由を生きる。それは千代に甘美な陶酔感を与えた。

「で……、では、いろは歌を空(そら)で書けるようになりたいです。そしたら、千臣さんのお名前を書くことが出来るようになりますし」

「はは。俺の名を書いてどうする」

「文字の形が上手くなったか、見て頂けます」

千代の答えに、なるほど、と千臣は頷いた。

「では、毎回見てやろう」

「ありがとうございます」

約束をしてから千代は、毎日農作業の後に、歌いながら地面にいろは歌を書き記した。初めて知った文字だというのに、歌と共に書くと、自然と身に染みるように覚えて行けるのが嬉しかった。最初のうちは体の使い方が分からなくて、それを千臣がやさしく指導してくれた。

「肩の力は抜いた方が良い。力むと枝先までうまく操れない」

そう言って千臣は千代の背後から背を包むようにして立ち、腕を添わせるようにして千代が枝を握る荒れた手を、綺麗で大きな手で覆った。

「!」
さらりと心地よい風が流れたのに、それを感じることも出来ないくらいに、一気に体の熱が上がる。しかし、急に近寄った体温に対して千代が驚いたのに、千臣はなにも気にした様子はなく重ねた手から枝を握り、それを動かした。どきんどきんと心臓が鼓動に任せて喉の奥からせり出しそうで、ぐっと歯を食いしばることで、それを防ぐ。

「『す』や『む』のような、下から上へ円を描くときは指先の力を少し抜いて書くと良い。力を入れ過ぎたままだと枝を突き刺してしまう」

耳なじみの良い低い声が、鼓膜の傍で響いている。心臓が煩く騒ぐ中、懸命に言葉の意味を拾った。耳が熱を持った千代の指を少し持ち上げるようにして、千臣が『す』の円を下から上へ、描く。そのまま下にさらりと払って、『す』が完成した。心臓は大きく拍動を続けていたけど、今まで力を籠めすぎていたせいで枝先が地面に刺さってしまい、土を跳ね上げることになっていたので、文字を書くのに体の使い方があるのだと知って千代は素直に驚いた。

「こんな微妙な加減で書かなあかんのですね……。難しいです」

熱を持つ頬を否定するかのように、千代は冷静に感動した。

「まだ地面に書くのだから、やさしい方だぞ。筆を使ったら、もっと微妙な加減で書かねばならない」

「ふふ。筆なんて、高貴な人の持ち物や。農民が使うものやないですよ」

「まあ、そうだな。例えが悪かったか」

千臣の言葉に千代は微笑んだ。千臣も笑って、場が和む。日が傾いてきて、そろそろ地面に書いた文字も見えにくい。

「今日はこれくらいにするか。農作業の後だというのに、よく頑張るな、千代は」

「せやって、楽しいんです、文字を書くのが。こんなに楽しいことを教えて下さる千臣さんに感謝せなあきませんね」

千代の謝意にも、千臣は微笑むばかりだ。

「千代が楽しいならそれでいい」

「ふふ。ありがとうございます。じゃあ、夕餉にしましょうか。私、支度してきます」

千代はそう言って離れを辞した。緩く跳ねる心臓の動悸を心地よく感じながら、水無月の風に当たって、千代は頬の熱を冷ました。
その後も毎日、練習を続けた。続けているからか、文字の形は横広がりや、縦長から、だんだん配置よく書けるようになってきて、それを毎日千臣に見せるのが、千代の楽しみになっていた。

「千臣さん。この『ね』は今までで一番形よく収まっているような気がします」

地面に書いた『つねんらむ』の一行を指し示して千臣に見せると、千臣は顎に手を当てて、ふむ、と頷き、千代を褒めた。

「そうだな、かなりまとまりが良い。しかし『む』が、まだ横広がりだな。まだまだ練習が必要だ」

「はい、頑張ります」

返事をして、また地面にいろは歌を書いていく。千臣がやさしい瞳で千代を見ていた。

「千代は勉強熱心だな。文字を覚えたらどうだと提案したのは俺だが、郷で役立つかどうか分からない知識に対して、こんなに熱心に取り組むとは思わなかった」

「そうですか? 千臣さんの教え方がやさしいから、出来が悪いなりにやる気になります。せやって、どんな文字を書いても、いっちゃん最初に褒めてくれるやないですか」

それが嬉しくて、とふふっと笑ったら、千臣も嬉しそうに笑った。

「俺は、千代が自由に時間を生きているのを見るのが嬉しい」

千臣は常に、千代に自由を与えたいようだった。何故、旅先で会っただけの千代にそこまで思ってくれるんだろう。

「……私、そないに不幸に見えましたか……?」

神様に人生を預けることが、そんなに不幸だろうか。郷の人に喜ばれ、命も長らえた今、千代は不幸なんかじゃない。なのに、千臣の目に映る千代は、何処か不幸を帯びた娘であるような気がする。

「水凪様やって、おやさしいですよ。こうして千臣さんに文字を教わることを許してくらはったし、他にも、横暴にされたことはありません」

微笑んで言うと、千臣は静かに千代に問うた。

「水凪殿が、そんなに好きか」

真剣な声でそう聞こえて、千代は地面に向けていた顔を上げ、真っすぐに千臣を見た。千臣はひたと千代を見つめており、漆黒の奥深い隻眼が千代の心の奥を見透かすような色だ。
好き。

その響きは千代の心に大きな波を立てた。どくんどくんと心臓が跳ねているのが分かる。何故、こんなにも千臣に水凪のことを尋ねられて動悸が跳ねるのか、千代は己に問うて考えた。

好きか嫌いか。簡単に言ってしまえば、水凪のことは好きだ。郷の為に水路も引いてくれたし、千代に強引な態度を取らないところも貴人のようだ。ただ、千臣が言った『好き』という言葉によって露わになった、今、胸に騒ぐこの感情の揺れこそが、その言葉の本当の意味なのではないかと、千代は思い至った。そう言う意味では、千代の心の中にある『好き』は二つあるのだと理解した。水凪に向かう『好き』と、……それ以外の、『好き』。静かな黒の隻眼が、千代の本心を窺うように見つめている。その目を見て、己を顧みた時、千代は自分の心の奥底に潜んでいた波打つ気持ちに気づいた。

(私は、もしかして千臣さんのことを……)

そのことに気付いた時、千代はさぁと血の気が引く思いがした。思いもしなかった事実に愕然とし、これを認めては駄目だ、と自らを断じた。自分は巫女。神さまに尽くすために居るのだ。神様以外の人に、心を預けてはならない。

水凪の降臨以降。未だ雨がない。千代がこの気持ちを認めてしまったら、これまで培ってきた水凪との信頼関係、郷の人たちからの期待、なにより千代自身が渇望している十五年前の飢饉の再来の回避が全て水泡に帰してしまう。水凪が千代を未だ求めないことにどういう意図があるのかは図れないが、千代はいずれ水凪と婚姻の議を執り行う。自分のこの気持ちに、行き場はない。ならば、自らの立場に相応しく、捨てるのみだ。

「……そう、ですね。……そう、……なんやと、思います……」

俯いて答えた千代に、千臣は静かに、そうか、と呟いた。どんな表情をしていたのかは、見ていない。淡々と応じられたことが、思った以上に辛かった。


その夜、千代は夢を見た。幼い自分が夕暮れ時に誰かと一緒に遊んでいる夢。



『ちーちゃんはえらいなあ。嫌なお務めもちゃんとこなしてて。僕、考えを改めるよ』

『みっちゃんやって、自分がお務めせえへんかったことで自分じゃない誰かが死んでまうってことになったら、お務め頑張ろうって思うよ。私かて、ホンマは怖いねん。でも、郷の人が死んじゃうのは、もっと嫌やねん。おとんやおかんが死んでもうた、あんな旱(ひでり)はもう嫌や』

祖母の口寄せを見た後、千代は怖れを持ちつつもお務めに従事した。逃げ出したいと思ったこともあったけど、その度に思いとどまった。ひたすらに一度経験した逃亡への罪の意識、それから両親の死を繰り返さない為、郷の人の為にだった。千代は行動の源を明かさなかったが、みっちゃんは千代の努力を褒めてくれて、自分も修行を頑張る、と言ってくれた。

『でも、修行するには帰らなきゃいけない。ちーちゃんと離れるのは寂しいなあ』

『えっ、みっちゃん、どっかに行ってまうの? 行っちゃいやや。いつまでも千代と一緒に居ってほしい』

『それは出来ないんだ。でも、ちゃんと修行を終えたら、戻ってくる。ちーちゃんの事迎えに来る』

これ、約束の印。

みっちゃんがそう言って差し出したのは、綺麗な勾玉の首飾りだった。千代の首にそれを掛けて、みっちゃんはにこお、と笑った。

『僕の事、忘れないでね。いつか、必ず迎えに来るからね』

『嫌やあ、みっちゃん、居なくなっちゃいややあ……』

ぽろぽろ泣く千代の頭を、みっちゃんはいつまでも撫でてくれた。



ふぅ、と漆黒の闇の中、意識だけが浮かび上がる。目の前に開けた闇の向こうに粗末な家の屋根が見えて、今自分が寝ていたことを知った。隣を見れば、祖母が穏やかな寝息を立てて寝ていて、その向こうの簡素な戸の向こうからは壁のすき間からうっすらと朝日が昇りはじめているのが分かる程度には光が弱く差し込んでいた。

追憶のはざまに忘れていた記憶が、夢の中に現れていた、と感じた。幼い頃の約束は、千臣に教えてもらった通り、千代を迎えに来る約束で締めくくられていた。だとしたら、夢の中の彼こそが千代を迎えに来ると決められた神さまだ。幼い姿だったが故に、彼を神さまだと思うこともなく、千代は彼を慕っていた。

(あの子が水凪様やったんやわ……)

『みっちゃん』と親し気に呼んで、子供の頃、よく一緒に遊んでいた。瀬良も一緒だったから、きっと思い出したこの話をしてやったら、思い出話に花が咲くかもしれない。今日会ったら、話してみよう。

ふと。水の香りがした。外を水凪が歩いたのかもしれない。