打ち合わせの後、馬車で出かける芝嫣(しえん)姉さまを見送り、私は馬で城壁の北門へと向かった。
そこは古びた廃屋が立ち並び、他国からの移住者が多く暮らす一角で、商店は他にないから赬耿(ていこう)に教えられた皮店はすぐに見つかった。
獣から剥いだ状態の毛皮が吊るされた軒下から中を覗く。身なりこそ都の庶民と同じだが、遊牧民族の特徴の縮れ髪の男がじろりと私を睨んだ。
赬耿の名を告げると、店の奥へと案内され、そこには予想通り伝書鳩の小屋があった。この店は煌(こう)の間者の連絡場所というわけだ。
鳩に託せる書簡は小さな小さな端切れがせいぜいらしく、私は考え考え文字を綴った。返事がくるのは数日後だろうという。
私は皮店を後にし、今度は宮殿へと向かった。もう夕暮れ時で門の前には篝火が出ていた。
馬から下りて寒さを堪えながら待っていると、蔡怜(さいれい)が門から出てきた。今夜は宿直でなかったみたいだ。もしそうなら、どうにかして中に押しかけるつもりでいたが良かった。
「蔡怜」
頭にかぶっていた外套から顔を覗かせ呼ばわると、蔡怜ははっと私に気づいて礼をした。
「子豫(しよ)お嬢様。なぜこんな時間に」
「あなたに話があるの」
目線で暗がりを示すと、蔡怜は顔を強ばらせながらついてきた。
私はいきなり剣を抜き蔡怜の首に押しつけた。蔡怜は咄嗟に柄に手をかけたが剣を抜かなかった。
覚悟はできていたのだろう。感心な気持ちは表に出さず、私は低く尋ねた。
「煌(こう)? それとも壅(よう)?」
「なんのお話ですか」
「煒(い)王家の天子継承を邪魔するために、頼まれて淑華(しゅくか)姉上を誘惑したのじゃなくて?」
「な……」
「幼いころから叡(えい)公子に傅いておきながら、よほどの好待遇で引き抜かれたのね」
「違います! ありえない!」
「ありえない?」
私は目を細めてぐいっと剣を押しあてた。
「主君の女を寝取っておいて平気な顔で仕えているほうがありえないわ」
蔡怜の額にじっとり汗が浮かぶ。
「平気なんかじゃない、平気では……」
澄んだ瞳にみるみる涙の膜が張る。
ええええ。こいつも泣くのか。
メンドクサイなあと剣を引くと、蔡怜はぐしぐしと袖で目元をぬぐった。
「私から見たら淑華様は女神です。気高くて凛々しくてお美しくて。そんな方が、私に微笑んでくれて……それから気づいたんです。美しいだけじゃない。お優しくて、本当に楽しそうに笑うと少女みたいで……」
うざ。のろけ話うざ。
「おまえの恋情なんてどうでもいいのよ、起きたことをどうするのかと話しているの。おまえひとりが死ねば丸く収まるのに、淑華姉上は自分も死ぬと言う。どう責任を取ってくれるの」
「淑華様がそんなことを……」
おいこら。なに感極まってんの? これだから脳みそお花畑の連中は。
私は改めて蔡怜に剣を突きつけ迫った。
「おまえが姉上をそんなふうにしたのよ、どうしてくれるの。姉上はもう王后(おうごう)になれない。おまえのせいで」
「ですが」
実直そうな瞳を見開いて、不意にきっぱり蔡怜は言った。
「煒(い)は滅びる。私は、淑華様に亡国の王后になってほしいと思わない。もちろん、今だから言うのです。最初は、王家の一員としての公子と淑華様に最後までお供するつもりでした。でも、淑華様が私を選んでくださるのなら、必ず淑華様をお守りしてどんなことをしても二人で生き抜きます」
脅して言わせようとしていたことを、蔡怜は自ら誓ってくれた。
私は内心で苦笑いしながら剣を鞘に戻した。
「数日内に出発できるよう手筈を整えるから、出奔の準備をしておきなさい。追って知らせを走らせるわ。それまで姉上には仮病を使って屋敷に籠ってもらう。あなたもくれぐれもぼろを出さないように。特に素錦(そきん)に気をつけて」
そうして五日後の明け方、駆け落ちするふたりを見送りに私と芝嫣(しえん)姉さまは城門の外へと出た。
私は牌符(はいふ)と書簡を差し出し蔡怜に説明した。
「この通行証があれば国境までは問題ない。煌(こう)に入ったら、駅館の役人にこの手紙を見せて。便宜を図ってもらえるはず」
牌符を見て淑華(しゅくか)姉上がはっと息をのんだ。
「これは父上が……?」
その通りで、将軍府で発行された通行証だった。
国境付近で壅(よう)軍の示威行動が頻発していて、牽制のため父上は城外の兵営に泊まり込んでいる。
芝嫣姉さまがそこへと赴いて事情を報告し受け取ってきたのだ。
「わたくし、やっぱり父上に……」
「姉上!」
また心を迷わせている淑華姉上を私はぴしゃりと止めた。
「離れても姉妹だなんて言うつもりはありません。あなたは今日から煒(い)とも棕(そう)家とも関係ない。蔡怜とふたりで生きてください。どうか、お元気で」
淑華姉上は目を潤ませ、また泣くのかと私は思ったがギリギリで堪えたようで、静かに城門の方を向いて、腕を上げ頭の前で両手を重ねた。音もなく足を引き体を沈め、膝を折って地に額づく。
天子の居る宮殿に向かって拝礼しているように見えるけど違う。父上への、別れの挨拶だろう。
しばらくの間、淑華姉上は冷たい地面にひれ伏したままでいた。蔡怜と橘花(きつか)に助けられようやく立ち上がる。
粗末な馬車に姉上と橘花が乗り込み、蔡怜が御者台で手綱を握った。
きしんだ音を立てて走り出した馬車は、まだ明けきらず寒々しい荒野の大地を西へと遠ざかっていった。
さようなら、姉上。
「あら」
終始無言のままだった芝嫣姉さまが急に声をあげた。
「寒いと思ったら雪だわ」
ひらひらと、灰色の空を白いものが舞っていた。
「ここでも降ることがあるのね」
「積もりはしないでしょうけど」
無音で降りてくる雪を眺めていると、後ろから芝嫣姉さまがつぶやいた。
「あんたって優しいんだから」
私は返事をせず、冴えた空気を鼻から吸い込んで気持ちを切り替えた。
「姉さま。毅(き)公子の説得は?」
「問題ないわ。あの方は理解している」
外套の襟元の毛皮に顎を埋め、芝嫣姉さまは獲物を狙う目になって笑った。
「棕家の女子は、嫡長女の淑華だけではないと知らしめてやるわ。傷心の叡(えい)公子をお慰めしてお心を掴んでみせる」
「張り切りすぎないでくださいね」
「ま、生意気なんだから。あんただって公子のひとりやふたり誑かしてみせなさいよ」
「そういうのは芝嫣姉さまにおまかせします」
「まあ、人聞きの悪い!」
「姉さまが先に誑かすとか言い出したんじゃないですか」
いつものように言い合いながら今日最初の光が差し込み始めた城内に戻る。城門の上の楼閣をふと見上げれば、今はまだ煒(い)国の旗がたなびいていた。
蔡怜(さいれい)と淑華(しゅくか)姉上の出奔が発覚すると、宮中は大騒ぎになった。
叡(えい)公子はショックで寝込んでしまい、老齢の天子は頭に血が昇ったのかやっぱり寝込み、怒り心頭の王后(おうごう)は目を血走らせてふたりの捜索を命じ、無能なくせに権勢は欲しがる廷臣らはライバルを蹴落とそうとここぞとばかりに父上を弾劾した。
能無しどもが寄ってたかって声だけは大きくし、父上がその場にいないのをいいことにピーチクパーチク騒いでいるのが目に浮かぶ。
が、ここで粛々と登場した毅(き)公子が、盛虎(せいこ)将軍(だっさい称号もらってたな、忘れていた)の功績と、今回子女が犯した罪は同列に語るべきではなく、また、壅(よう)軍に国境を侵される危険がある今、罷免するのは適切ではない、とらしくもなく滔々と説くと、奴らは沈黙したという。
婚約者に逃げられた叡公子本人は、まめまめしく通ってくる芝嫣(しえん)姉さまと語り合うことで心の整理ができたと早々に立ち直り(さすがヒーロー)、その姿を見て王后も平常心を取り戻すと、後宮の主らしく画策を始めた。
侍衛に許嫁を奪われたなど公にできることではなく、当然この騒ぎを内々におさめたい。
そもそも棕(そう)淑華を推したのは「棕家の女子が天子を選ぶべし」という予言と、王太子候補の一番手であった叡公子が彼女を気に入り、円滑に事が運びそうだったからだ。
しかしよくよく考えれば、棕家には他にも娘がいて、そのうちの誰が天命の主かは特定されていない。
王太子であり次期天子である叡公子がまたまた棕家の娘を気に入ったというのなら、長女だろうと次女だろうと「棕家の女子」には違いないのだから、すげ替えればいいだけの話だ、と。
この世界では、重臣の女子や王族であろうと、女性は名もなき庶民と同じ。広く名前を知られることはあまりない。
多くの人々は王太子になった公子が将軍家の娘と婚約したそうだ、という認識しかないのだし、淑華姉上の存在はなかったことにして、最初から芝嫣姉さまがお相手だったように体裁を整えればそれでいいのだ。
そんなこんなでめでたく(?)今度は芝嫣姉さまが王太子の婚約者におさまった。〈悪役令嬢〉をドロップアウトした淑華姉上の代わりに繰り上がった形で、私たちが三姉妹である意味をまた考えてしまう。
私はといえば、家の差配の負担が一気に増え、将軍府の屋敷と救済園を往復する毎日だった。
「子豫(しよ)さま! 聞きましたか?」
「おはよう、子游(しゆう)。聞いてないわ、なんの話?」
子游は辺境からついて来た救済園の使用人の一人だ。少年だからこその機敏さと機転の良さが重宝するので、目をかけ私が名前をつけた。今もなにやら情報を知らせにきたようだ。
「なんでも、噂の仙女さまが都に来たそうですよ!」
「? 噂の仙女さま?」
「あれ、オレ話してませんでしたっけ? 子豫さま忙しそうだったからなー。ちょっと前から評判になってたんすよ。最初は壅(よう)から来た連中が言ってて。ケガを治してもらったとか、病気が治ったとか。なんでも、鐶(かん)の王族の生き残りで? 壅に隠れ住んでるときに大地の女神様? から神力をもらったんだとか。それでケガ人や病人を助けて方々を転々として、煒(い)まで来たとか。助けてもらった人たちが仙女さまって呼んで盛り上がってるんですよ。……って、子豫さま? なに震えてるんすか、具合が悪いので?」
「いえ、大丈夫……」
これはちょっと、武者震いがしただけで。
だって、だって。
聖女キターーーーーー!!
子游(しゆう)に仙女さま出現ポイントを教えてもらい、子宇(しう)をお供に連れて向かってみれば、確かにそこでは「あるある」な光景が繰り広げられていた。
「ああ。息をするのが楽になりました! ありがとうございます、ありがとうございます!」
「曲がった足が治ったぞっ。さすがは仙女さま、ありがたや、ありがたや」
「仙女さま! うちの子どもの熱が下がらなくて、助けてくださいっ」
もみ手すり手でありがたがる人々の真ん中で、白い衣の少女が今また、年若い女性に抱えられた幼児の額に繊手(せんしゅ)をかざしていた。
「子宇、どう?」
「いえ。私には何も」
私に付き合って幼少の頃から修練に励んでいた子宇は、姉上たちよりは気功の心得があるものの仙女さまの発する〈気〉は見えないようだ。
私の目にはぼんやりと青白い光が患者に注がれているように見える。出自はともかく、方士であることは間違いなさそうだ。
「ありがとうございます!」
子どもの顔色が良くなり、頭をペコペコ下げていた女性は、おそるおそる袖から粗末な木彫りのかんざしを出した。
「お礼はこんなものしかありませんが……」
仙女さまはそっと微笑んで鈴のような声で言った。
「わたしは何もいりません。お礼なんて気にしないでください」
それを聞いた周りの者たちがまたまたありがたがって「仙女さま」「仙女さま」とひれ伏していく。
うわあ。知らず知らず歪んでしまう口元を私はかろうじて袖で隠した。
そりゃそうだ。仙女サマの本心は「けっ、そんな汚いもん受け取れるか。それに一度でもこんなゴミを受け取ってしまったら、コイツらみーんなゴミを贈って寄越して満足するようになるんでしょ、冗談じゃない」だろうに。
それをまあ、あたかも慈しみ深い女神のような態度で拒否るなんて大したタマだ。
淑華(しゅくか)姉上の迫力ある美貌や芝嫣(しえん)姉さまの愛らしさとは種類が違う、楚々とした嫋(たお)やかな美しさの少女を前に、私の嫌悪感は一気にマックスに跳ね上がっていた。
コイツ嫌いコイツ嫌いコイツ嫌いコイツ嫌い。私は、こういう女が大嫌い。
患者がいなくなったのか、段々と仙女サマを取り囲む人々がばらけていく。まだ数人がひれ伏したまま去り難そうにしていたが、仙女サマは彼らに声をかけてから自分も立ち去る気配を見せた。
私は素早く仙女サマに近づき声をかけた。
「ずいぶん善人ぶった真似をなさるのね」
ぴくっと肩を震わせ、ゆっくりと仙女サマが振り返る。
「どういう意味でしょうか?」
「あなたは表向きの態度と内面とが違う。私はそういうのがわかるの」
まあ、と目を細めて仙女サマは余裕の表情で微笑んだ。
「それはすごいです。でも、わたしに限っては的外れなご指摘です」
「ほら、そういうところ」
私はくっと口角を上げ、じっと仙女サマを凝視した。
「受け入れはするけど、でも自分は違う、特別だから、とかわすところ。いったい何様なの?」
真っ向から私の視線を受けとめ、目をそらさないまま仙女サマはゆったりと腰を屈めた。
「初対面だと思いますが、どちらのお嬢様でしょうか?」
「そっちが先に名乗りなさいな」
傲然と見下してやると、一瞬だけ仙女サマの口元が引きつった。
「……失礼しました。わたしは清蓉(せいよう)と申します」
「私は棕(そう)子豫(しよ)です」
私が名乗った瞬間、清蓉(せいよう)の目がきらっと光った。
「棕将軍家のお嬢様でしたか」
「あら、私のことをご存じ?」
「もちろんです。わたしは都に来て間もないですが、そんなわたしでも棕家の予言の話は知っています」
「あなたは壅(よう)からいらしたそうね?」
「さようでございます。大地の女神様に導かれ天子様の元へとまいりました」
天子様の元だとか含みのある言い方だ、絶対にこっちから突っ込んでやるものか。
私が黙っていると、清蓉は姿勢を戻してまた口を開いた。
「お嬢様も予言をお持ちだそうで」
もってなんだ。突っ込まないけど。
「私じゃないわ、老巫から予言を得たのは父上よ」
「さようでございますか。わたしはこの耳で女神さまのお告げを聞きました」
マウントを取ったつもりなのか清蓉の頬に余裕の笑みが戻った。
「そうなの。それで何をしに煒に来たの? どうせ壅の間者なのでしょ、あなた」
ずばっと言い切ると清蓉は袖で口を覆って絶句した。ふん、馬鹿め。バレバレだというのに。
今現在も国境での壅軍の示威行動は続いている。以前の壅ならこんなまだるっこしい真似はせず、一気に進軍しているだろうに、十年前の敗戦から学んだようで、何やら水面下で隠密作戦を進めているのは明らかだ。
そんな時に亡国のヒロインが壅からやって来た。全力で怪しいというものだ。
「あなたは鐶(かん)王家の末裔だそうね」
今、天子の座は三代続けて煒王家が独占しているが、それ以前は鐶の国王が天子の位に就いていたのだ。煒は鐶を滅ぼし天子の象徴の九鼎と秘術を手に入れた。鐶王家の生き残りだというのなら煒王家は仇敵だ。
もちろん私だって状況証拠で決めつけたりしない。決め手は私の直感だ! むしろ亡国のヒロインなんて設定の方が眉唾なんじゃと思ってる。それくらい、私の直感がこの女は怪しいと叫んでいる。
「確かに、私は鐶の出身です。ですがだからといって煒王家の方に恨みなど抱いていません。いえ、恨みは捨てました。今のわたしはひたすら、病や怪我で苦しんでいる人たちを助けてあげたい、どこの国の人だろうとそれは関係ない、その一心でここまでまいりました」
「あー、はいはい。その、助けてあげたいっていうのね。本当に?」
「……え?」
「人々のためにっていうけど、結局自分のためでしょ、それ」
うっとうしいくらいに気持ちを入れて切々と語っていた内容を思いきり否定してやると、清蓉はまた黙った。
「仙女サマ、仙女サマって、おだてられるのが好きなんでしょう。そうやって自分が気持ちよくなりたいから助けてやってるんでしょう? そういうの透けて見えるのよ、あなたの態度からは。言ったでしょう、わたしには分かるの。あなた芝居が下手だし」
それまでの慎ましやかな表情が一転、清蓉の瞳に怒りが沸いた。
お、やりますか? 存分にかかっていらして。
私は期待したものの、清蓉はなぜか表情をやわらげ、ばかりかみるみる目じりを下げるといきなりわっと泣き出した。
「ひどいです! いくら棕家のお嬢様とはいえ、あんまりです!」
は? と目を点にしていると、私の後ろでさっと子宇(しう)が脇に控えた。
「子豫、おまえも来ていたのか。それにしてもなんの騒ぎだ?」
侍衛を連れた毅(き)公子が驚いた表情で私と清蓉を交互に見ていた。
なるほどね。清蓉(せいよう)のヤツ、見るからに地位の高そうな身なりの青年が近づいて来たから、いち早く芝居を切り替えたわけね。
さっと膝をかがめながら私は内心で失笑した。わかりやすく裏のあるヒロインだわ。
手振りで楽にしろと許可をくれながら毅(き)公子は困り顔で私に話した。
「仙女の評判は宮中にも届いていてな。気にする者も多くて、今日は私が確かめに来たのだが」
「それはそれは。私も目的は同じです」
「だろうと思った。にしても何を揉めているのだ? こちらがもしや……」
「清蓉でございます」
くすんくすんとすすり泣きながら、やけにしっかり仙女サマは自己紹介する。
「突然すまない。私は煒(い)の公子毅だ」
公子の名乗りを聞いて、清蓉は伏せた目を一瞬きらっと輝かせた。
「公子様の御前でご無礼を。ですかこちらのお嬢様がわたくしを侮辱なさったので」
ええ、はい。それは間違いない。否定はしないし認めもしないが。
「子豫(しよ)が?」
毅公子は男らしい眉を訝し気にひそめて私をかばってくれた。
「子豫のことはよく知っているが、やみくもに人を非難するような性格ではない。そなたの思い違いではないのか?」
うふふ、普段のおこないがものをいうってこういうことね。その通り、子豫は控えめな良い娘だもの。ふふふふ。
「そんな……わたくしが悪いと仰せにございますか」
さらに泣き落としにかかる清蓉、さらに公子の顔が歪んでいくのに気づきもしない。馬鹿め、毅公子はこういうメンドクサイ女が大嫌いなのに。
篭絡する相手のタイプを見極めもしないで見え見えな芝居を続けるところも下手くそだ。芝嫣姉さまの敵ではないわね、これは。
と、思うのだが。物語の展開上、この女を見初めた叡(えい)公子が芝嫣姉さまを捨てる流れになるはずで。やはり清蓉が聖女ヒロインであることが焦点になりそうだ。
なかなかに波乱の予感を感じつつ無表情に清蓉を観察する私の隣で、毅公子は表情に不快感を丸出しにしながらそっけなく言った。
「そなたの話を詳しく聞きたくて来たのだが、日を改めることにする。どのみち近々、王后(おうごう)から御召がかかるだろうから、この者に居場所を知らせておいてくれ。では、私はこれで」
清蓉が口を挟む余地を与えず会話を終わらせ、あとのことは侍衛にまかせて毅公子はさっそうと踵を返した。私について来いという目線を寄越す。
それで私は、最後には身分のある令嬢らしく、清蓉に向かって優雅に膝を屈めて挨拶してから公子の後を追った。
馬をつないであった樹木のそばで毅(き)公子は立ち止まった。
思い返してみれば、最後にこの人と会話したのは、まだ淑華(しゅくか)姉上がいたころだったかもしれない。そう思うと、少し気まずい。
公子もそう感じたようで、微妙な笑顔になって私を振り返った。
「久しいな、子豫(しよ)。元気だったか?」
「はい、まあ……おかげさまで」
嫌味だったかもしれない。が、他に挨拶しようもないし。
少しの間、奇妙な沈黙が流れた。毅公子は自分の馬を撫でたりなんかして。
「……あの者、名前はなんだったか」
「清蓉(せいよう)です」
「都人から仙女様と崇められているそうだ」
「もとは壅(よう)からの移民に支持されていたようですね。鐶(かん)王家の出身だという話もありますが……」
「どうやら本当らしい」
改めて私を振り返り、公子は話を続けた。
「鐶王家の侍女だった人物に確認させた。仕えていた公主と瓜二つだそうだ」
「それはそれは……」
だがそれだけでは確証にならない。よく似た娘を、鐶王家の血筋の者として仕立て上げた可能性だってある。
「清蓉が、本当に女神のお告げを受けた仙女であるのか、本当に鐶王家の娘であるのか。それはどうでもいい。重要なのは、なにが目的なのか、背後にどの国がいるのかで」
まさに今、私が意見しようとしていたことを公子が述べられたので、正直驚いた。
「公子は英明です。おっしゃるとおりです」
男性がするように組んだ両手を上げて賞賛すると、公子は破顔した。
「子豫に褒められるとは。嬉しいな」
「ですが、宮中の方々の考えは違いますよね」
「鐶王家の娘が煒(い)国の人々に尽くしているとは感心だ、しかも大地の女神から神力を得たとは興味深い、宮中に召し抱えるべきだ、という意見だ」
「…………」
本当に。ため息しか出ないわ。
こうやってすぐに人外の力に飛びつく。だからこの国は衰退したのに偉い人たちは原因に気づきもしない。
天子の権威と秘術を手に入れたからこうなったのか、もとからこういう体質だったのか。
検証しようもないし、盛大に破滅ルート大歓迎の私が憂うのもおかしな気もするが。
清蓉は嫌いなタイプすぎていじめるだけじゃすまない気がするし。さすが乱世の物語、最終的には命を奪い合うことになるのかも。私はもちろん受けて立つけれど。
でも、どうにもドライになりきれないのは。
「清蓉が宮中に上がることで、芝嫣(しえん)の立場が悪くならなければいいのだが」
私の心配をまたまた毅公子が代弁する。なんだかなあ、にやにやしちゃうじゃないか、にやにや。もちろん内心に留めるけれど。
「……公子は変わりましたね」
「ああ。自分でもそう思う。以前の私は視野が狭く同じような考えの者としか会話できなかった。そんな自覚もなかったし。だが、芝嫣に……いや、芝嫣だけではないな。棕(そう)家の姉妹のおかげで目が覚めた」
「まあ、なぜですか?」
「そなたら姉妹は、態度は控えめだが、はっきりものを言うだろう。そういう娘は……いや、男だろうと女だろうと、私のまわりにはそなたらのような者はいなかった」
「そうですか」
「棕将軍のことも私は大いに尊敬している。一緒に、この国を守りたいと思っている」
キリっとキメ顔の毅公子は、からかいようもなく好男子だった。
以前の、私と淑華姉上の評価は間違っていたようだ。その人物ののびしろまで考慮するべきなのだなぁ、と反省した。
淑華姉上が叡(えい)公子ではなく毅公子を選んでいたら物語は変わっていただろうか、と私にしては珍しく無駄な考えが頭をよぎりもしたけれど。
本当に、くだらない考えだ。やり直しを要求する〈悪役令嬢〉などいないのだから。
子游(しゆう)に頼んで見張っていたところ。清蓉(せいよう)に治療を頼みに集まる人たちの半分はサクラであることがわかった。
仕事がなく道端に一日座り込んでいる者に、どこぞの工作員らしい男が銀子(おかね)をわたして清蓉のところへ行かせていたのを子游は何度も目撃した。
だっさ。やらせで人気を捏造してたとは。
でも本当に仙女サマを頼って助けられた人たちもいる。半分は本物で半分はやらせ。こういうのがいちばんタチが悪い。
善人ごっこを宮中に上がるための手段としか考えていないのが見え見えなのに、怪我を治してもらって喜んでいる子どももいるだけに。
善意のありかは難しい。私には関係ないけどね、自分が不愉快に思うかそうでないかの方が重要だわ。清蓉の姿を見るだけで不愉快。だから敵。問題なし。
王后(おうごう)の召喚に応じて仙女サマが宮殿へ向かう日、いつもの白い衣で清蓉が大通りをしずしずと進んでいくのを私も見ていた。
毅(き)公子も手の者に清蓉を探らせ、壅(よう)との接触を確認し、上奏もしたが一笑に付されたようだ。
清蓉を止められない。この女は敵で、ヒロインだからこそ。今はここで見送る。ふつふつと煮えまくる敵意を今はひたすら温存する。
とはいえ本当にここで何もしないのは〈悪役令嬢〉の名折れよね。
そこで私は、そのへんで遊んでいた幼い子どもたちに果物を買い与え、あるミッションを言い渡した。
子どもたちは喜んで果物をほおばり、果汁でべたべたになった手を振り回して仙女サマに駆け寄った。砂ぼこりで汚れた小さな手に流れた果汁がべとべとになって、仙女さま仙女さまとまとわりつくたび清蓉の白い衣が汚れる。
くっくっく、嬉しいでしょう。アンタはちやほやされるのが好きだものね。公衆の面前で、幼い子どもを罵倒したりはしないでしょう? くっくっく。汚れた衣で宮中へ行ってせいぜい注目されるがいいわ。
王后の御機嫌取りに成功した清蓉は叡(えい)公子に伺候するようになり、芝嫣(しえん)姉さまと熾烈な寵愛争いを繰り広げ……なかった。
叡公子の元に日参してあれほど頑張っていた姉さまが、清蓉が侍るなり早々に公子を放り出してしまったのだ。さすがにこれは予想外だった。
「いいのですか!? 芝嫣姉さま。あんな得体の知れない女に負けたままで」
「本当よ。あの女は気持ちが悪い。叡公子までおかしくなってしまって。あんな人たちの近くにいたくないわ」
ええー、姉さま、いつからそんな根性ナシに。
「いくらなんでもあんな出自の怪しい女が后(きさき)になれるわけもないし。公子のお相手をしばらくお休みできると思えば悪くもないでしょう」
その気持ちはとてもわかりますけど。それにしたって。
「叡公子は清蓉のどこを見初めたと」
好物の干しイチジクを差し出しながら追及すると、芝嫣姉さまは気だるげに叡公子と清蓉のようすを語り始めた。
芝嫣(しえん)姉さまの話を聞いて、なるほどね、と私は納得できた。
「安心してください。芝嫣姉さまは魅力で負けたわけじゃないですから」
「どういうこと?」
「気功術です。清蓉(せいよう)は〈気〉を使って叡(えい)公子の関心を引き寄せたのです」
「え、気功術で心を操ったの?」
「そんな呪いのようなことはできません。でも、勘違いさせることは可能です」
例えば、と私は姉さまに説明した。
向かい合っているときに血行が良くなるように〈気〉を送る。すると脈が速くなり、顔が熱くなり、頭がのぼせたようになる。
「胸が早鐘を打つように高鳴って、それを恋だと勘違いするんです」
芝嫣姉さまは干しイチジクをつまみながら胡散臭そうな顔をしてるけど。実際そんなものなのだ。
あるいは、体を寄せて相手がリラックスするような波長を送る。すると一緒にいると安心できる、癒される、となるわけだ。
「でも確かにそうね、清蓉といるときの叡公子はいつもぼんやりしているの。夢見心地というか」
桂芝(けいし)が持ってきた布で手を拭きながら芝嫣姉さまは「ふう」と肩を落とした。
「小細工で負けたにせよ、叡公子が心変わりなさったのは事実よ。がっかりだわ」
「姉さま」
「寵愛がなくても王后(おうごう)にはなれるけど、それって癪よね。でもいいわ。わたしがいちばん王后の衣装が似合うのだもの」
ブレない芝嫣姉さまには頭が下がる。けど、どうやら無事に(?)破滅ルートに入ったようだし、そうなると芝嫣姉さまは王后にはなれないだろう。その前に婚約破棄の断罪イベントが起こるのがセオリーなので。
だが今回の物語に限っては、この国そのものが滅びるシナリオが見えている。淑華(しゅくか)姉上が思い描いたように棕(そう)家が覇権を握ったなら別のルートが開けたのかもしれないが悪役令嬢(わたし)が存在する以上その目はなかったわけで。
遅かれ早かれ煒(い)は滅亡する。悪役令嬢の断罪と国の滅亡、その因果がどんなふうに絡まって、どういうタイムスケジュールでストーリーが進むのか、気になるところだ。
淑華姉上がいない今、悪役令嬢姉妹として役割を全うするためにどうすべきなのか。このまま芝嫣姉さまを矢面に立たせたままでいいものか。陰謀を秘めたヒロイン清蓉は、わたしたちにどんな罪状をかがげてくるのか。
……結局、ここまできてもまだ戸惑ったままだったわたしは、すぐに猛省することになる。
でもこのあと起きた出来事こそ、この乱世の物語に必要不可欠なイベントだったのだ。
わたしが、望んで挑んだ、乱世の物語の。