夕莉は私を見つけると、急いで駆け寄った。
「大丈夫!? ……なわけない、よね」
「夕莉……」
夕莉は私の怪我を見て、そう言い、落ち込んだ。だが、すぐに立ち直り、明るく私に言った。
「でも安心して! 夕夜を連れてきたから!」
夕夜さまを連れて来たのは案の定、夕莉のようだ。すると、言い争っている声が聞こえた。夕夜さまの声だ。
私はその声の方を向いた。どうやら、茜と話しているらしい。
「こいつが誰だかわかってやってんのか!?」
声量や話す速度から、夕夜さまは怒り、興奮していることがわかった。
早く止めなければ、と思いながらも、私は怪我で動くことができず、ただ見ることしかできなかった。
「あの笹潟様の愛人、と聞いておりますが」
「はぁ、本当にここには馬鹿しかいないんだな」
「なっ!」
馬鹿、という言葉は茜が最も嫌っている言葉である。茜は全てにおいて完璧を求められているので、相当な努力を毎日欠かさず積んでいるのだ。
それを否定されることは、さぞかし怒りで満たされることだろう。
だが、相手は身分も力も茜より上の人間だ。ぶつけたくてもぶつけられない。それが現状だ。
「愛人なわけないだろう。我が主人がそんなお方だとでも?時都藍は笹潟家次期当主である笹潟架瑚の婚約者だ」
「嘘、嘘……!」
その言葉に茜は言葉を失い、口元を手で覆った。
「嘘じゃない。婚約発表を先ほど終えた」
「そんな……!」
茜は今にも泣き出しそうな顔へと変わった。それもそのはず。茜は陰で架瑚さまを慕っており、おそらく恋慕を抱いていたはずだ。
それを知っていたこともあり、私は架瑚さまと婚約したくないとも思っていた。
「あぁ、そうそう。忘れるところだった」
すると夕夜さまは懐からある手紙を取り出し、茜に渡した。誰が書き、何が書かれているのだろうか。
「あんた、時都茜だろ?この文を時都蒼生と、時都紅葉に渡しておいてくれ」
「……わかりました」
時都蒼生は父さまの、時都紅葉は母さまの名前だ。どうやら両親宛ての手紙らしい。
それを渡すと、夕夜さまは茜達を手で払った。
「それじゃあ俺はもうお前らに用はない。さっさと失せろ」
「は、はい」
さすがに抗っては駄目だと取り巻き達も思ったらしい。茜も同じらしく、いそいそと帰っていった。
そして部屋には私と夕夜さまと夕莉しかいなくなった。
すると夕夜さまはため息を吐き、私に近づいて全身の怪我を見た。
「怪我ひどいな。治すぞ」
「い、いいです」
夕夜さまの手を煩わせることではない。だけど、夕夜さまは譲らなかった。
「よくねぇよ。架瑚に見られたらお前ーー」
「な、なんですか」
間を一つ空け、夕夜さまは口を開いた。
「……嫌でも俺が怒られる」
「・・・」
(ゆ、夕夜さまが怒られるんだ……)
予想とは斜め上を行く答えに、私は拍子抜けした。架瑚さまは確かに夕夜さまの扱いが雑な時がある。けれどさすがにそこまでひどくはないと思うのが私の考えだ。
「夕夜、話を脱線させないで。ほら藍、黙って治してもらいな」
「……うん」
私は夕莉に促され、諦めて夕夜さまに治癒魔法をかけてもらうことにした。その間に、私は質問をした。
「そういえば夕莉、私ずっと聞きたかったんだけど、夕莉は夕夜さまや架瑚さま、綟さま達とはどういう関係なの?」
結局その答えを聞く前に、私は茜のところに行ってしまったので、教えてもらえなかったのだ。
「そっか、言ってなかったよね。夕夜は私のお兄ちゃんだよ?」
「……はい!?」
「動くな時都妹」
「あ、すみません」
私は驚きで立ち上がろうとしたが、夕夜さまにそう言われ、私は座り直した。
「じゃ、じゃあ架瑚さまとは?」
「ん、従兄妹だけど」
い、従兄妹!?
私は夕夜さまの方を見た。
「……本当だよ。俺らの母さんが架瑚の父親と兄妹だから」
夕夜さまがそう言うなら本当のことなのだろう。だがここで、一つの疑問が浮上した。
「でも夕莉は夕夜さまと名字違うよね?」
夕莉の名字は麗だったはずだ。美琴ではない。
「あぁ、それね。私、笹潟家の血も入ってるから、家柄のいい人とか、玉の輿狙ってくる人がいたんだよね。で、そういうの嫌いだし面倒だったから、学校では母さんの名前から麗って姓で生活してるんだ」
「そうだったんだ」
夕莉は面倒の一言で名字を変えて生活していたのか。すごい。
「てか、藍は夕夜のこと、さま付けしてるんだ。なんか変なのぉ。付けなくていいよ、夕夜なんて」
「……おい夕莉、もっと兄を敬え。時都妹、怪我、治したぞ」
見ると、茜達と会う前よりもずっと綺麗になっていた。さすが夕夜さま、魔法の精度が違う。
「ありがとうございます」
私はそう言ったが、おそらく夕夜さまには聞こえていないだろう。夕莉と言い合いし始めたからだ。
二人は仲が良いのだろう。
ふと、そんな二人を見て私は思った。些細な会話でそのことがわかる。羨ましい、そして不思議だ。
何故同じ関係だというのに、私と茜とは全く違うのだろう。私が厄女じゃなければ、こんな風に話せたのだろうか。
するとーー
「……なぁ、さっきから聞きたかったんだけど、質問してもいいか?」
夕夜さまが私にそう聞いたので私は頷いた。そして夕夜さまの言葉を待った。
「お前、ファーストなんだから時都茜たちぐらい、どうってことないだろ?なのになんでやり返さなかったんだよ」
(……そういえばそうだった)
私はずっとサードの人間だと思っていたので、正直あまりファーストだと言う自信がない。それに、私はやり返す方法なんて知らないしーー。
「自分にされて嫌なことは、人にはしちゃいけないからです」
それが私の信念だ。
すると夕莉が抱きついてきた。
「藍、マジで優しすぎ……でもそこがイイ! 好き! 可愛い!」
「夕莉、苦しい」
夕莉は見かけによらず、力が強いのだ。しかもグッと握られるのはいつも首である。夕莉のことは好きだが、夕莉に抱きつかれるのは苦手だ。
苦しい苦しいと夕莉に言うと「ごめん」と言って離してもらえた。
「人にもよるけど、自分が傷ついてまで相手を大事にする必要ってあるか?俺からしたら、ただの偽善者だ」
「え……」
そう言われると間違っているのかもしれない、と私は思った。でも、自分がされて嫌なことはしちゃいけないというのも私は正しいと思うのだ。
しかしそれよりも今はーー。
(偽善者、か……)
少しぐらい、自分でも優しい方だと思っていたが、それは違ったのだろうか。多少は貶され続けた私だが、傷ついた。
「ちょっと夕夜!あ、勘違いしないでね藍。夕夜は藍にもっと自分を大切にしてほしいって言いたいだけなんだよ」
「自分を、大切に……」
その言葉は私に良い意味で深く刺さった。そして、やはりそうだった、と私は思った。
夕夜さまは口が少し悪いだけで、素直じゃないだけで、本当は優しい人なのだ。私は心が暖かくなったのを感じた。
「じゃ、この話はもうおしまい!お屋敷に行こ!ほら夕夜!」
「夕莉が転移魔法を使うんじゃないのかよ」
「え?だって私使えないもん」
転移魔法が使えるのはごく一部の人間だ。それに一回だけでかなりの魔力を消費する。
もちろん人数が増えるほど、その量も比例して増えるので、使う人はあまりいない。が、架瑚さまみたいに当たり前のように無詠唱で使える例外もいる。
「はぁ……もういいや。しっかり手握っとけよ?」
「は、はい!」
「了解!」
転移魔法を使うには使う人の手を握る必要がある。私と夕莉は夕夜さまの手をしっかりと握り締めた。
「転移魔法」
転移魔法が唱えられ、視界が白く、眩しく光った。
「藍っ!」
そんな架瑚さまの言葉が聞こえたと思えば、私たちは笹潟家のお屋敷にいた。
そして目開けると、いつの間にか架瑚さまは私に抱きついていた。夕莉もそうだが、笹潟の血を引く者には抱きつく習性があるのだろうか。
「あの、架瑚さま苦しいです」
そして夕莉と同じく抱きつく力が強い。どうしても息苦しく感じてしまう。
「ごめん。でも、藍がいるって思わせて」
架瑚さまは抱きつく力を弱め、優しくした。
(……疲れてるのかな)
私は今の架瑚さまにそういう印象を受けた。抱き付いてはいるが、なんとなく寄りかかっているようにも感じるのだ。
すると、綟さまが教えてくれた。
「申し訳ございません、藍様。本当は若自身が藍様の学校へ行こうとしていたのですが、若は次期当主という肩書きもあり、狙われやすいので」
「そうだったんですか」
時々忘れてしまうが架瑚さまは十九歳で、笹潟家の次期当主だ。当主になるために課されている仕事もきっとあるだろう。
つまり架瑚さまはいつも多忙である。仕事の予定が詰まっていてもおかしくない。
そしてそんな時に学校に来れるわけない。むしろ来れたら奇跡だし、夕夜さまが来てくださっただけでもすごいことなのだ。
綟さまは言葉を続けた。
「それでも若は気が気じゃなかったようで、急いで仕事を片付けて屋敷に戻ったのですよ。その速さをいつも出してほしいものです」
「架瑚さまが……?」
私は架瑚さまを見た。抱きつかれているので顔は見えないけれど、ほのかに耳が赤く染まっているのを見た。
(……なんか可愛い)
「余計なことを言うな、綟」
架瑚さまが早く仕事を終わらせたというのは本当なのだろう。私のため、なのかはわからないが、それほど心配していたのかもしれない。
嬉しいような、面映いような気持ちを感じた。
「架瑚さま」
「……なんだ」
不貞腐れているような、恥ずかしそうな声で、架瑚さまはそう言った。
「お仕事、お疲れ様です。私のために、ありがとうございます」
「っ!」
そう言うと架瑚さまの抱きつく力は強まり、私の肩にグリグリと頭を擦り付けた。これではまるで大きな犬である。
しかし私は知らない。
「最近夕夜が甘い物食べなくなったのよくわかったよ」
「ほんっとうにやめてほしい、マジで。……綟、今日のご飯は?」
「安心してください。夕夜がそう思っていると考えて、甘いものは一切入っていない辛口程度のカレーライスを作りましたから」
「夕夜、綟姉さんとはあんなんじゃないよね?」
「当たり前だ。俺と綟は普通の婚約者だ」
まさかこんなことを私と架瑚さまの後ろで話していただなんてことを。
「わぁっ! さすが綟姉さん美味しそう!」
「ありがとう、夕莉ちゃん」
時は少し経って、夕食の時間となった。今日は夕莉も一緒だ。
夕莉は食べるのが大好きな子だ。基本的にどんな物でもペロリと平らげてしまう。それが甘い物でも、辛い物でも、酸っぱい物でも、だ。
ちなみに夕莉は大盛りの牛丼を十杯食べたことがある、と前に私に教えてくれた。もしそれが本当ならば夕莉の胃袋はどれだけ大きいのだろうか。
にしてもやはり、夕莉は綟さまとも会ったことあるらしい。綟さまのことを綟姉さんと言っている。姉妹みたいだ。
「藍、食べないのか?」
「えっ!? あっ! すみません」
綟さまと夕莉のことを見ていたら、いつの間にか私の手は止まっていたらしい。私は急いで箸を持ち、食べ始めた。
だけどーー
「……藍?」
私は箸を置き、立ち上がった。
「ごめんなさい、今日は食欲なくて……。あ、でも決して綟さまの料理が嫌というわけではなくて……」
ただ、週に何日か食事を抜かれたことがあったのだ。「ごめんなさい」と言うと私は部屋を出た。
時はまた少し経ち、就寝の時間となった。私が服を着替え、布団を用意して、寝ようとした時だった。
「藍、今ちょっといい?」
架瑚さまが部屋の外の廊下から、私にそう呼びかけたのだ。何かと思い、私は架瑚さまを部屋へ入れることを決め、部屋の戸を開けた。
「はい、大丈夫です。廊下では寒いので中へお入りください」
すると、架瑚さまは動揺した。
「いや、今は夜だし女性の部屋に入るのはちょっと……」
(夜? 女性の部屋? ……あっ)
少し考えた後、私はすぐに架瑚さまの言いたいことを理解した。そして、羞恥心に襲われた。
「あっ、あの、えっと、そういう意味で言ったのではないのです。……わかってくださりますか?」
「そうだよね、うん。大丈夫、結婚するまで『そういうこと』は行わないから。安心して」
架瑚さまがわかってくれたようで、安心し、私は息を吐いた。そして、架瑚さまを改めて部屋へ招き入れた。
大きな机がこの部屋にはなかったので、布団の上でお話しすることになった。架瑚さまは少し間を取ってから話し始めた。
「……今日のことなんだけど」
「っ!」
十中八九、茜のことだろう。
そう考えて私は身構えた。けれど、架瑚さまから返ってきたのは予想外のことだった。
「助けに行けなくて、ごめん」
「…………へっ」
架瑚さまは、頭を下げた。私はすぐに、頭を上げるよう言った。
「頭をお上げください、架瑚さま。私は全然気にしていません。大丈夫です」
だけど、架瑚さまはそれが嘘だとすぐに見破った。
「俺は嘘だとすぐにわかるぞ、藍」
「っ! ……何故ですか?」
「俺が助けに来てほしいと藍が思ったからだ。違うか?」
どうして架瑚さまは、私の心を、過去の思いを知ることができるのだろうか。そんな魔法は存在しない。
ということは勘、だろうか。やはり私はまだ、架瑚さまのことを知らない。
「……いえ、当たっています」
架瑚さまは私の目を見て、手を握って話し始めた。
「藍、俺は藍がどう思っているか、思っていたかなんてすぐにわかるんだよ。もちろん、どういう仕組みかは教えないけど。でも、わからないことはわからないんだよ。だから教えてほしい。藍がどう思っているのか、どうしたいのか」
「!」
私の脳内で架瑚さまの言葉が復唱される。
『わからないことはわからないんだよ。だから教えて欲しい。藍がどう思っているのか、どうしたいのか』
何度も何度もその言葉が響いた。
「前に藍は言ってたよね。必要とされる人がいないって。何度でも言うよ。俺がなる。藍を必要とする。藍に居場所をあげる。だから俺は藍を必要としてもいい? 俺はもう、藍がいないと駄目だから」
私はずっと、生きることが辛かった。生きる意味も、楽しみもなかった。努力も存在も認められず、自由もなかった。だからあの日、私は死のうとした。
でも架瑚さまと出会ってから、私は変わった。架瑚さまが私を必要としてくれている。それだけで私は幸せで満たされる。
一緒にいるだけで、生きたいと思えるーー。
「私で、いいのですか?」
「うん」
「本当に、本当にいいのですか?」
「うん。もちろんだよ」
その瞬間に、私は架瑚さまに抱きついた。自分からそうしたのは初めてだった。
架瑚さまは左手で私の背中を、右手で私の頭をさすり、撫でてくださった。そして、優しい言葉をかけてくれた。
「もう大丈夫だよ、藍。藍は一人じゃない。夕夜や夕莉、綟に、俺もいる。一人で抱え込まないでほしい。誰かに頼ってもいいんだ」
ひとりぼっちじゃない。
そう思えるだけで、そう思わせてくれるだけで、私は涙が出てきた。その涙を架瑚さまは拭い、架瑚さま自身のことを教えてくれた。
「夕夜が藍を助けに行った後も、ずっと心配だった。藍に何かあったら俺、絶対立ち直れないから」
「お、大袈裟ですよ」
「大袈裟なんかじゃない。藍はもう俺の一部なんだから」
「……っ!」
架瑚さまの一部。
私の心臓がドクンと跳ねた。
「今日は藍が学校に行ってから、ずっと寂しかった。俺には藍がいないと駄目なんだってよくわかったよ」
「そんなことありません」
架瑚さまは一人で何でもできる、すごい人だ。私がいないと駄目だなんて、きっと嘘に決まっている。
けれど何故、私は「嬉しい」と思ってしまったのだろうか。
「そんなことあるんだよ。……藍は寂しくなかった?」
(ずるい、そんな顔)
架瑚さまはどこか甘えるような、幼くて、愛らしい表情をしたのだ。いつもの架瑚さまからは想像もできない、そんな表情を。
「わ、私も寂しかった、です……わわっ!」
そう言うと、架瑚さまは私を布団の中へと入れ、横に座り、幼子を寝かすかのように私の頭を撫でた。
「あの、架瑚さまっ……!」
心臓の鼓動が止まらない。どんどん早くなっている。すごく恥ずかしい。だけど、嫌悪感はない。これは一体何なのだろうか。
「今日はもう遅い。藍は早く寝な」
「で、でもっ!」
まだ夜の九時前である。遅いと言う時間帯ではない。だけど、次の言葉によって私は寝ざるを得なくなった。
「それとも、それ以上を藍はお望み?別に俺は構わないけど」
「め、滅相もございません!」
私はまだ十六である。さすがに周りに一線を越えた人はいない。純血は何があっても十八までは守ると決めているのだ。
その解答に架瑚さまは少し不服そうだったが、すぐに機嫌が直ったので安心した。そして架瑚さまは私に就寝の挨拶の言葉をかけてくださった。
「藍、おやすみ」
架瑚さまが私の頭を撫でながら、そう言った。私も「おやすみなさい」と言おうとするが、その前に視界が暗くなり、深い眠りについた。
もちろんそんな私は架瑚さまが「おやすみ」と言った時に睡眠魔法をかけたていただなんて、知る由もない。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
藍が寝た後、俺は部屋を出て歩き出した。そして廊下で待機していた夕夜と綟に話しかけた。
「文は届けたか?」
その問いに夕夜は首を縦に振った。
「見逃してやるのは今回だけだ。もちろん、許してなどいないが」
本心を言うと、夕夜は少し引いた。
「……架瑚は本当に怒ると怖いよな」
(怒る、ねぇ……)
「誰だって大切な人を傷つけられたら怒るだろ」
すると綟がこんなことを聞いた。
「時都家はどうするおつもりで?」
「もちろんこの程度で終わらせはしない。頃合いを見て徹底的に陥れる。……あ、綟。明日藍と二人で行きたいところがあるから、予定全部削除してといてね。二人で、行きたいから」
さりげなく二人で、という箇所を強調しながら俺は言った。
その言葉に綟はひどく慌てるものだと予想していたが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「そう言うと思って、明日取り掛かる予定だったお仕事を、今日のお仕事と偽って架瑚さまに終わらせてもらいました」
「……複雑な心境だが、感謝する」
「いえ、お気になさらず」
今日は異様に仕事が多いと思っていたのは、そういうことだったらしい。俺は疑問を取り除くことができたので、何もなかったこととした。
そして明日に胸を弾ませ、自室へと向かった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
場所は変わり、時都家に移る。
「なんで……」
私、時都茜は母に頰を叩かれ、呆然と立ち尽くした。
「あなたが厄女に手を出したからよ! 本当にもう! なんなのよ!」
「も、紅葉。少し落ち着いた方が……」
「逆になんで蒼生さんは落ち着いていられるのよ!もういいわ、今日は誰も部屋に近づかないでちょうだい!」
何が何だかわからない状況に、私は呆然と立ち尽くした。機嫌の悪い母、それを宥める父。時都家ではそれが当たり前と化していた。
母様が部屋を出ていったことを確認すると、私は父様に尋ねた。
「父様、一体何があったのですか?」
笹潟様からの手紙を渡す前から、ピリピリとした空気が張り詰めていたが、ここまでではなかった。
父様は少し躊躇った後、教えてくれた。
「笹潟家の架瑚様がいらっしゃったのだよ。時都家の娘と婚約したいとのことで、ね」
そんな目で私を見ないで。
父様の瞳には哀れみの意が灯っていた。
「藍、なのですね」
「…………」
その沈黙は肯定を表していた。
「茜、これだけは勘違いしないでほしい。決して藍は……」
私は父様の話を聞いているふりをしながら、藍への恨みと憎しみの思いを膨らませていた。
(なんで藍なのよ……!)
藍は私よりも成績も武芸も魔力も劣っている。それは誰から見ても明らかなはずだ。
なのに、笹潟様は私ではなく藍を選んだという。私にはわからない、藍が私よりも幸せになっている理由が。
(ずるい)
その言葉が一番しっくりきた。
(藍は、ずるい)
「茜、聞いているか?」
はっと、意識は現実に向いた。
どうやら父様の話は終わったらしい。私はこれ以上今日は誰とも話したくない気分なので、この部屋を去ることにした。
「はい。では私は気分が優れないのでもう部屋に戻りますね、父様」
「……おやすみ、茜」
「ええ、父様も」
私は知らない。笹潟様の文に書いてあったことを。
二度目はない、と書かれていたことを。