【後日談】



「失礼します。綟さま、いますか?」
「藍様……? どうかなさいましたか」
「実は、お願いがあって……」

 藍が綟の部屋にやって来たのは春蘭祭が終わって三日後のことだった。

「料理を?」
「はい。私、あんまり作ったことがなくて、それで、いつも美味しいお弁当を作ってくださる綟さまに教えてほしいのですっ」
「私に、ですか?」
「はい。綟さまに教えていただきたいのですっ」

 藍は綟に料理を教わりたいと思っていた。
 どうして私に?と綟は疑問を持つ。
 使用人たちは一応いる。綟よりも料理は上手だし、教え方も上手いはずだ。いつもお弁当を作っているのは趣味とか、日課になっているからだ。
 美味しいお弁当、と言ってくれたことに綟は喜びを感じ、また、料理を教わりたいと自分を指名したことに高揚感を抱いていた。
 だが、何故自分に。そして、何のために。
 綟は謙虚なのでそのような疑問を抱くのだった。

「藍様は何か作りたい料理があるのですか?」
「そういうわけではないのですが……その、架瑚さまの昼食って、いつも綟さまが作っているのですよね」
「えぇ」

 架瑚、夕夜、藍、そして弟の紡葉と自分用に綟は毎朝五人分のお弁当を作っている。意外と作る人数が多い方が作りやすいこともあるのだ。
 藍の回答で綟はわかった。藍は架瑚に自分の手料理を作りたいのだ。藍の作ったお弁当があると知れば、架瑚のやる気が上がるかもしれない。
 毎朝呪文のように「仕事行きたくねぇ……」「藍と一緒にいたい……」と唱え、駄々をこねる架瑚には丁度いい。そろそろ別の藍効果を探さなければと思っていたところだ。
 藍が料理を教わりたいと自分から望んでおり、それが綟の負担の軽減にもなる。両者ウィンウィンだ。綟はすぐに許可を出した。

「わかりました。お引き受けします」
「! ありがとうございます、綟さま!」

 藍が笑うと自然と綟にも笑みが移る。
 こんなにも健気で架瑚を心から愛している藍が自分の主人(あるじ)の婚約者だと思うと、綟は嬉しく思うのだった。



「ではまず初めに何を作りましょう」
「卵焼きがいいです。あのふわふわ若干とほんのり甘い味付けがとても大好きなんです」
「ふふっ、ありがとうございます。では卵焼きから教えますね」
「お願いします」

 卵を二つボウルに割って溶き、砂糖を小さじ一、塩、胡椒を少し入れる。

「この時、なるべく白身を切るようにしてください」
「わかりました」

 そこにマヨネーズを大さじ一、入れて混ぜる。

「マヨネーズを入れるのはどうしてですか?」
「コクが出るのですよ。あ、この時、マヨネーズがかたまりになっているのでよく溶いてください」
「き、気をつけます……っ」

 それを三回に分けて卵焼き用の四角い小さなフライパンに流し込む。

「火は中火です。完全にあったまってから油を500円玉と同じくらいの大きさを入れます。最初から中火です。弱火だとくっついてしまいますから」
「わっ、膨らみました……!」
「そしたら膨らんだ部分を叩いて割って、穴が開かないようまだ残っている部分を流し込んでください。十秒ちょっとしたらすぐにたたんでください。最初は失敗しても大丈夫です」
「頑張ります……!」

 チーズを入れるなら、二回目に溶き卵を入れた後だ。なるべく全体に入れる。
 卵焼きを上手に作るコツは速く手早くすることだ。二回目以降はたたんだ卵焼きを少し持ち上げて、その中に溶き卵を流し入れる。

「で、できた……!」
「お見事です」
「次は、ピーマンとソーセージの炒め物の作り方を教えてほしいです!」
「あぁ。あれはとても簡単です。食べやすいサイズに具材を切って、油を入れて中火で炒め、最後に塩胡椒を振って終わりですから」
「確かに簡単そうですね」
「塩の代わりに醤油にしても美味しいですよ。水で溶かしたコンソメもおすすめです。ぜひ食べ比べてみてください」
「どれも美味しそうです……っ」

 こうして綟の第一回料理教室が終わった。



 次の日、綟が早朝に台所へ行くと、すでに藍が待っていた。

「おはやいですね、藍様」
「あっ、綟さま……! おはようございます」
「おはようございます。……お弁当作りですか?」
「はい! 架瑚さまに、作りたくて……」

 もじもじとしながら話す藍。
 こういうところを愛らしいと思うのだろう。応援したくなる。

「では作りますか」
「はい!」

 できたお弁当は綟が丁重に預かった。
 若には藍が作ったことを内緒で渡して、藍の作ったお弁当かどうかをわかるか試そうと思っているのである。
 昼になり、昼食の時間となった。
 お弁当箱を開けた架瑚は、何か気づくだろうか。

「……綟」
「なんでしょうか」
「お前、黙ってたな」
「なんのことでしょう」
「弁当のことだ。これは綟が作ったものではないな」
「何故?」
「いつもと並び順が違う」
「!?」

 しかし、入れた場所は同じだ。何故わかったのだろう。

「綟は卵焼きの断面を上にするが、今日のは焼き目が上になっている。毎日食べているからな。そのくらいの違いはわかる」

 まさか、そこで気づくとは。まだ一口も食べていないのに当てられるとは思ってもいなかった。

「……えぇ。若のおっしゃる通りです」
「藍か?」
「はい」
「そうか」

 ふっと架瑚が微笑む。とても嬉しそうだ。

「食べるのがもったいないな」
「何故?」
「ずっと、とっておきたいじゃないか。藍が俺に初めて作ってくれた弁当だ」
「それでは藍様が悲しまれます。綺麗に食べて感想を聞かせた方がよっぽど喜ばれるかと思いますよ」
「そうだな」

 すると、架瑚がピキッと固まった。

「…………綟」
「なんでしょうか」
「茄子が入ってる」
「あぁ。それは醤油炒めですね。藍様の得意料理らしいです。茄子は黒いため彩が引き締まってとてもいいのだとおっしゃっておりました」

 嘘はついていない。しかし茄子を使ったおかずを作ろうと提案したのは綟だ。架瑚は昔から茄子が苦手なのだ。

「はかったな、綟」
「さあ? なんのことでしょう」

 ぐぬぬ……と箸を強く握る架瑚。夕夜が声を凝らして笑っているのが見える。いい気味だと良い意味で思っているのだ。これで架瑚の茄子嫌いがなくなることを綟は祈った。
 午後の仕事はいつもよりも早く終わった。茄子が入ってはいたものの、藍効果は抜群だ。
 一日二回のスキンシップに朝の「行ってらっしゃい」だけでは物足りなくなったようで、未玖の報告によると刺激の強いものが増えてきているらしい。
 このお弁当の藍効果で架瑚が抑えられるといいな……ぐらいに思っている。おそらく抑えられないだろうが。
 屋敷に帰ると、藍がお出迎えをしていた。

「おかえりなさいませ、架瑚さま、綟さま、夕夜さま」
「藍……!」
「か、架瑚さま……っ」

 玄関で待っていた藍に抱きつく架瑚。
 耳元で小さく何かを呟くと、藍が赤面した。何を言ったのかは二人にしかわからない。

「若」
「……わかってる」

 一応綟は釘を刺す。不機嫌そうに言う架瑚。少しは自重しろと前に言ったのだ。
 横目で夕夜を見ると、眉間に皺を寄せている。二人のイチャイチャは日常となっているが、夕夜には不快のようだ。
 ……まあ、わからなくもないが。
 架瑚が綟に無言の視線を投げた。これは今から架瑚と藍が二人きりで過ごす時のサインだ。
 止める権利はないので、野放しにしておく。藍が助けてほしいと頼むまでは静観する予定だ。その時は全力で主人を裏切り藍を守るつもりだ。夕夜とも話してある。
 まあそうなる前に未玖が助けるだろうが万が一のためを想定してある。

「お弁当美味しかった。ありがと」
「っ! あ、あの、あ、明日も、作って、いい、ですか……?」
「作ってくれないの?」
「つ、作りたい、です……っ」
「じゃあお願い」
「はいっ、よろこんで……!」

 控えめに言って甘い、現実的に言うと糖分多めな時間が流れる。夕夜の表情がどんどん曇っていく。
 今にもバカップルめ、と言いそうな表情をだ。

「……バカップルめ」

 言った。
 幸いにも二人には聞こえていないようだ。

「そういえば、茄子、どうでしたか?」
「えっ!?」
「架瑚さまの好物だとお聞きしました。私も茄子、大好きです」

 曇りのない目で見られる架瑚。

「え、えっとね、藍、俺は……」
「それに、今日は茄子解禁日なんですよね」

 茄子解禁日。そんなものはない。架瑚は綟を見る。

「(なんだ、茄子解禁日って!?)」
「(若が茄子を好きすぎて食費が高くなってしまったため、一年に一度だけ茄子を食べられる日……という設定です)」
「(ふざけんなよ、綟!)」
「(若、藍様の目を見てください。純粋でまっすぐなお方です。すでに茄子料理を大量に作ったご様子。違うと否定すれば悲しまれるに違いません。ご覚悟を)」
「(覚えてろよ、食べ物の恨みは怖いんだからな)」
「(使い方は違いますが、承知しました)」

 そんな無言の会話が繰り広げられているだなんて藍が知るはずもない。

「諦めな、架瑚」
「っ……」

 夕夜が架瑚の肩に手をのせる。悔しそうに歪ませる架瑚。何が何だかわからない藍はきょとんと頭に疑問符を浮かべるのだった。