私が藍と出会ったのは、中学三年生の秋。私たちが当時通っていた中学校の屋上で、私は藍の存在を知った。
「あっ、あの、お昼ご飯、食べてもいいですか?」
「……はぁ?」
当時の藍は自分のすることに対して許可を求める変な子だった。三十分ほど前から私はこの屋上で空を見ていた。
もちろん授業はサボり。今日も平和だなぁと思いながら寝そうになっていたところで藍がやって来た。
(訊くとしても「お隣りいいですか?」でしょ……)
私は心の中で小さなツッコミを入れる。藍のへんてこさに拍車をかけたのは訊くタイミングもあった。
なんと藍がそう私に訊いたのは、藍がお弁当を広げてからのことだったのだ。
(変な子が来たなぁ)
だがそれと同時に、私は藍に興味と好奇の目を向けるようになった。少なくとも、今まで私が会った中で一番変で、不思議な存在だったからだ。
「あうっ、えっと……」
私の名前がわからないのか、藍はたじろぐ。もじもじしている藍を見るのが飽きてきて、私は深く息を吐いてから、ぶっきらぼうに名前を言った。
「夕莉」
「……えっ」
「夕莉。麗夕莉。それがあたしの名前だよ」
本当は美琴だけど、と心の中で呟く。
「麗、さん」
「そーだよ」
ますます変なやつ、と私は思う。
自分で言うのもなんだが、麗夕莉と言えば、この周辺ではそこそこ名が通った不良だ。
別名は人山の麗。たった一人で幾人もの同族を狩り(※殺してはいません)、その者を山のように積み、上に座ったことからそう名がついたそうだ。
(本当に変なやつ)
こんな小さな学校では、歩くだけで私を見れば誰もが後退りし、すぐに悲鳴をあげて逃げる。
そのことに面白く思いつつも、最近はつまらなくなってきていた私にとって、藍は心の底から謎な人物と映っていた。
「えっとですね、麗さんが嫌ならすぐに違うところに行きますけど、私はどうすればいいですか?」
「知るか。好きにしろ」
「じゃ、じゃあお弁当、いただきます」
ここで食べるのかよ、と私は本日二度目のツッコミをいれる。しかも藍は私の名前を聞いても理解していない様子。
どうやら藍は私が不良だとは知らないようだ。
藍はお弁当箱を開け、箸で食べ始めた。
「んっ……おいし……」
今日の藍のお弁当はご飯、梅干し(南高梅)、だし巻き卵(めっちゃ綺麗)、タコさんウインナー(可愛い)、ハンバーグ(美味しそう)、ナスとほうれん草のおひたし(ほんのり鰹節がのっている)である。
(……なにこれ、美味しそう)
そんなお弁当が視界に入り、夕莉は思わず身を乗り出す。色合い、栄養バランス、量、見た目など、もはやこれに勝るお弁当はないだろうとでも言うかのような完璧なお弁当に、私は魅了される。
(食べたい、一口でいいから食べたい)
そう思う私に藍は提案をした。
「……あの、一口、いります?」
「いる!」
即答だった。
「好きなだけ、好きなものをどうぞ」
「よっしゃあっ! いただきっ!」
夕莉は手当たり次第におかずを口に入れ、飲み込む。かなりの勢いで食べ、一分もしないうちに夕莉は藍のお弁当を食べ切ったのだった。
「ふはぁ、美味しかったぁ」
「いい食べっぷりでしたね」
「そりゃあ、あんなに美味しけりゃあすぐに食べ切れ……ってあぁ! あんたの弁当全部食べちゃった!」
(どうしようどうしようどうしよう!)
一口と言っておきながら、ほぼ全て完食した私。いくら強くて誰もが恐れる私でも、人様のものを奪ったような行為はいけなかった。
だがそんな焦る私に藍は優しい笑みと共に言った。
「あ、あの、お弁当は気にしなくていいですよ」
「でも……」
「なら、明日も来ていいですか?」
「へっ? あ、いや、いいけど……」
「ありがとうございます。なら、明日は麗さんの分も作って持ってきますよ」
「えっ、いいの? てか、お腹空いてないの?」
「大丈夫です。よくありますから。それではまた明日」
「ま、また明日」
そう言って藍は屋上から姿を消した。
私はポカンとしたまま、動かなかった。
「え、何これ。どゆこと? お弁当を作ってくれる? 悪いことしたのに? しかもよくあるからって……あの子のはどんな環境で育ってんのよ。それにあたし、あの子の名前知らないし。なんだったの?」
見ず知らずの人の前でお弁当を食べ、食べられ、何か言われるかと思ったらまさかのお弁当作ってきます宣言。
名前も知らない子なのに、明日も会うってことになっているこの状況を夕莉は飲み込めていなかった。
「本当に変な子……」
だが悪くない、と思うのだった。
(雨かよ……)
しかしその翌日は生憎の雨。約束(?)していた屋上には行けそうにない。どうせあの子も来ないだろうと思い、私は旧校舎の空き教室にいた。
私のお気に入りの場所は二つある。
一つは昨日いた屋上。もう一つは今いる旧校舎の空き教室。
どちらも静かで人がいない、サボるのにぴったりな場所なのである。
空き教室は今はもう使われていない、古い建物だ。いつ崩壊してもおかしくなさそうな場所で、あちこちにひび割れや、ほこりが漂っている。
薄汚い、と言う人もいるだろうが、そんな古びたところが私は好きだった。
(あいつ、今頃何やってんだろうな……)
ふと、私は藍を思い出す。何人もの人との暴力を交えた私だからわかる。藍は正真正銘の善人だ。
天然で謙虚、他人思いだがそれ故に自分のことを大切にできない子。昨日の件でそれをよく理解した。
(ああいうやつは、結局損するんだよな)
自分を削って、削って、削った結果、誰かを偽りの幸せにして死んでしまう。私は藍の優しさを悪用する者がいつか現れるだろうと思った。
外を見る。土砂降りの雨となっていた。雨音しか聞こえず、窓ガラスに当たる風が強い。多くの人はそんな天気を嫌うが、私は雨が好きだった。
屋上に行くことはできなくなるが、道端に咲く小さな花からしたら恵みの雨だ。違う視点から見たら、嫌なものは嫌ではないことに気づく。そして自然の偉大さを知るのだ。
ある人は傘がいるから嫌だと言い、ある人は頑張ってセットした髪が崩れると言って雨を嫌う。だが誰が何と言おうとも、自然の理を莫迦な人間共が曲げることはできない。
私は雨を見ると、自分がちっぽけな存在であることをよく思い知らされる。
「ん? ……なんだ、あれ」
すると窓の外、しかも屋上に人らしき者が見えた。まさか、と思い、窓に近づき外を見る。
傘を差し、何かを手に持った少女がそこにいた。見覚えのある人物だった。
「はぁっ……はぁっ……」
夕莉は走った。走って、走って、走り続けた。屋上へと続く長い階段を上る。
途中で誰かとぶつかったような気がしたが、夕莉は気にしなかった。気にできなかったのだ。それほどに夕莉は急いでいた。
(間に合え、間に合え……!)
屋上に出る扉に手をかける。勢いよく開け、夕莉は大雨の中、傘も差さず外へ出た。制服はすぐに濡れ、体に気持ち悪く張り付く。
だが、そんなことはどうでもよかった。
藍は屋上に来た私に気づくと言った。
「あっ、麗さん! お弁当、作ってきまし」
「……何、やってんだよ!」
私は藍の言葉を遮り叫んだ。
「えっ? ……あ、どうしたんですか?」
藍は私の言いたいことを全く理解していない様子。そんな藍の態度に私は猛烈に腹がたった。
「何やってたのかって聞いてんだよ!」
「なにって……麗さんを待ってました」
「こんな土砂降りの雨の中ぁ? ふざけてんのかテメェ、正気じゃねぇだろ!」
「え、でも昨日、麗さんのお弁当も作って持ってくるって私、言ったので」
「はぁ……一旦こっち来い」
「あ、はいっ」
夕莉は藍を連れて屋上から出た。そして藍にいくつか質問をした。
「教えろ。なんで屋上にいた」
「さっきも言った通り、麗さんを待ってました。お弁当、作ってくるって言ったので」
(真面目すぎんだよ)
夕莉は藍の真面目さに呆れた。
(誰がこの土砂降りの中屋上で待てっつったんだよ)
「だとしても、なんで屋上なんだよ。こんな雨の中、あたしが屋上でサボるわけねぇだろ」
「えっ、サボってたんですか!?」
「「…………」」
どうやら藍は本当に私のことを何も知らないようだ。
苗字を名乗って何の反応も示していない時点でなんとなく察していたことだが、残念ながら藍は周りの噂や事情を知らないらしい。
私が授業をサボっていることは、この学校にいる人全て(藍除く)の人の共通認識だった。
「はぁ、もういいや、次の質問。あんたはあたし以外の人とお弁当、食べようと思わなかったの?」
「そ、それは……私、友達、いないので」
「えぇっ!?」
(そんな善人の中の善人の性格をしていて友達がいないのか?)
本当に変なやつだ、と私は思う。だが藍が普通でないことは昨日からわかりきっていたことだ。
不思議な言動、その性格で友達はゼロ、大雨の中屋上で待つ異常さ……そして、その小さく華奢な体に刻みつけられた多くの傷。
私が藍が普通ではない子だと悟るのに時間はそこまで必要なかった。
(何も聞かないことにしよう)
私はこの日、この瞬間、藍について深入りしたり、考えたりすることをしないと決めた。
誰にだって聞かれたくないことはある。それは私も含めてだ。
藍は私について何も知らない。不良になったのも、授業をサボっている理由も。
その後、大抵の人も知らないが、藍はそれを知ってなお、夕莉と関わろうとしてくれた貴重な人となる。
私が藍と友達になるのに、それ以上のことを必要とはしなかった。
「あーあ、あたし、びしょ濡れじゃん」
私は誰もがわかる見事な棒読みをするが、そんな言葉に藍は反応した。
「わっ、そうでしたよね。私のせい、ですもんね。ど、どうすればいいですか?」
「えー、どうしよっかなぁ」
これまた棒読み。夕莉はあたかも悩んでいるかのように手を顎に乗せ、傾げた。
「なんでもします、本当にごめんなさいっ!」
「じゃあさぁーー」
夕莉は藍に近づき、手を重ね、言った。
「あたしのために、毎日お弁当作って一緒に食べてよ」
「……え? そ、そんなことでいいんですか?」
「ううん、まだまだあるよ。晴れの日は屋上。雨の日は旧校舎の一室で食べること。それと、あたしに勉強を教えること」
「わ、わかりました」
「あとは……そうそう! あんたの名前、教えてよ! あたし、知らないんだよね」
「あっ、言ってませんでしたね。時都藍です」
私が藍の名前を知ったのはこの時だ。
「藍、ね。なら、同級生なんだし、呼び捨てにしようよ、藍。堅苦しく麗さんなんて言わないでさぁ。夕莉。ほら、夕莉って言って」
呼び捨てにしたのにはもう一つの理由があった。私の苗字は麗ではなく美琴だからだ。
最近は麗とばかり呼ばれていたので、時折自分の苗字がどちらかわからなくなることがあるのであった。
「ゆう、り」
「そ、夕莉ね。じゃ、これであたしたち、友達だね。……あっ、親友の方がいいかな?」
「とも、だち……」
「うん、友達。やっぱ親友の方がいい?」
すると藍は突然泣き出した。
「ふっ……うぐっ……」
「え、藍? ちょっと、なんで泣くのさ」
私は突然の藍の涙に驚く。
「だ、だって……友達、一人も、いなかったから……しかも、親友って……」
「えっ、藍、親友じゃ嫌だった?」
私も若干鈍いのかもしれない。だがそれを私は知らない。
「そうじゃ、ありません……」
藍は鼻を啜り、しゃくりあげるのを抑え、笑顔でこう言った。
「嬉しかったんです。ありがとうございます」
(……誰かにありがとうなんてこと言われたの、久しぶりだな)
ふっ、と私は口角を上げる。なんだかんだ言って、自分たちは真逆のようで、一番似ているのかもしれないと思ったからだ。
「さ、じゃあお弁当食べようよ」
「そうですね……じゃなくて、そうだね、夕莉」
こうして私たちは出会い、友達となった。どちらも複雑な過去を抱え、孤独のまま生きていた。だが、そんな私たちだから親友になれたのかもしれない。
「私と友達になってくれてありがとね、夕莉」
「こちらこそ。こんなあたしと友達になって後悔してもしらないよ?」
「……ふふっ」
藍が笑い出すと、私もそれに連れて笑い始める。その声は、小さな屋上へと続く長い階段に響いていったーー。