「夕夜、あなたは近い未来、架瑚の従者となってもらいます」
「……はい?」
俺の母である美琴麗は表情一つ変えず俺にそう告げた。
俺は冗談を言っているのかと思ったが、生憎母はそういうことを言わない人だと俺は知っていた。真面目で、聡明で、華が似合う美しい毅然とした女性。それが、俺から見た母だった。
だからこそ、俺が今日から同い年の従弟の笹潟架瑚の従者だと言われて、ひどく驚いたのだった。
「すみません母上、もう一度おっしゃってください。よくわかりませんでした」
「そうですか。ならもう一度……夕夜、あなたは近い未来、架瑚の従者となってもらいます」
(頭が痛い……)
物理的にも精神的にも頭痛がした。嫌な夢でも見ているようだった。いや、いっそのこと夢であってほしいと俺は心の中で願った。
だがしかし、現実は厳しいものだと十二の俺は知っている。
「……何故私なのですか?」
「『白椿誘拐事件』は知っているでしょう? 翁真がそれを考慮した結果、信じられる者で且つ、異能を持つ強い者を架瑚の従者に選ぶことを決めたそうです。それで夕夜が選ばれたのです」
「身内で異能があるからですか。でも私はまだ十二歳ですよ? その私にそんな大役が務まるとでも本気で母上は思っているのですか?」
「えぇ、思っていますよ」
「……っ美琴家の次期当主はどうするのです」
「あなたなら両立できるはずです。頑張ってくださいね、夕夜」
「……わかりました」
母はその言葉を聞くと小さく頷き、どこかへ行った。俺は小さな手をグッと握り締め、俯いた。
正直、複雑な心境だった。
母は滅多に褒めてくれる人ではなかったので、俺が架瑚の従者も美琴家の次期当主も両立できるだろうと期待してくれたことはとても嬉しかった。その気持ちに変わりはない。
だが一方で架瑚に仕えることに不満に思った。架瑚は俺が生まれてから約三ヶ月後に生まれた本家の子供だ。なのに俺よりも背は高いし、勉強も運動できる。おまけに魔力値はファーストの中でもトップクラスで異能持ち。いわゆる天才だと俺は思っている。
しかしそれを自慢げに話すような嫌なやつではない。架瑚はいつも無表情で素っ気のない大人しい子だ。だがそれがより一層、俺の気分を悪くした。余裕ぶっているように思えたからだ。もちろん確証はない。
(架瑚の従者になんて、なりたくない)
最初は曖昧だったが、次第にそう思うように俺はなった。本家の天才児に仕えることは名誉なことだろうと誰もが思うだろう。
けれど俺は架瑚の犬みたいになりたくないし、何より自分よりも強い架瑚を守るだなんてことが恥だと、その時は思ったのだった。
ある日のこと、俺は家族全員で本家にやってきた。これは毎月のことなので、もう慣れている。それに俺には本家に来る楽しみがあった。それはーー。
「……あっ、翔也兄さんっ!」
俺は本家に来てすぐに、従兄で五つ上の翔也兄さんに会った。
翔也兄さんは今年で十七歳のかっこいい人だ。武芸の才があり優れていて、教えるのも上手な翔也兄さんを、俺は特別慕っている。
「夕夜か。また背が少し伸びたな」
「……っ! ありがとうございます!」
そんな細かなことまで気づき、言ってくれるところが俺は大好きだった。翔也兄さんは架瑚と同じようにあまり笑う人ではない。だが俺は知っている。翔也兄さんは優しい人だということを。
おそらく、些細な言葉から小野内さんの見えない優しさや気遣いに気づいているのは俺だけだろう。そう思うと俺は少し自慢げに思えるのだった。
「今日はどうしたいんだ?」
「稽古をつけてください!」
「今日もか? 前もそうだったけど、夕夜はそれでいいのか? つまらなくないか?」
「全然! 翔也兄さんは教えるの上手だから、俺もすぐに上達するんだ。俺は強くなって、美琴家の次期当主としてみんなから認められたいんだ」
これは本当のことだった。美琴家の次期当主として、ゆくゆくは当主としてみんなに認められ、信頼されるいい人になりたい。そらが今の俺の夢だ。
「わかったよ」
翔也兄さんはそう言うと、俺の頭を軽く叩き、手招きした。
「行こっか」
「はいっ!」
俺はうきうきしながら翔也兄さんの後をついて行った。だがそんな楽しみな気持ちは一瞬で粉々になった。
「兄さん」
架瑚が、俺らを見つけたのだ。
「俺も稽古したい」
何を言っているのだと俺は思った。せっかくの翔也兄さんとの二人きりの稽古の時間を、架瑚は邪魔しようとしていた。
架瑚にそんな気持ちはないのだろうが、翔也兄さんに直接指導してもらえる楽しみを、俺は半分奪われた気持ちになった。
「ん、いいよ。一緒に行こうか」
「うん」
その上、翔也兄さんの右手まで奪われた。
俺は架瑚を横目で睨む。架瑚はそれに気づくことはなかった。それがまた恨めしかった。
「うん、太刀筋が良くなったね、夕夜」
「ありがとうございます!」
翔也兄さんに褒められ、俺は嬉しく思った。俺は翔也兄さんに褒めてもらうため、毎日一時間も自主的に練習していたのだ。
何度も鏡を見たり、師範に教えてもらったりして頑張ったので、認められてすごく嬉しい。
だがーー
「あ、架瑚、お前はもう少し強く振った方がいい。もっとまっすぐ。……そうそう、いい感じ。上手くなったな」
「……ありがとう」
架瑚に対する言葉遣いや助言、褒め方はやはり俺とは全然違っていた。俺は褒められるのも嬉しいが、架瑚のようにああやって指導されてみたいと密かに思っている。
いつも架瑚ばっかりそんな羨ましい思いをしていて、俺はずるいと思った。そしてそんな翔也兄さんに対して、珍しく照れながら無愛想に答える架瑚を、俺は憎らしく思うのだった。
その日からしばらく経った頃、耳を疑うような情報が入ってきた。本家の次期当主が、架瑚に選ばれたというものだった。
架瑚はまだ十二歳で、笹潟家の次男だ。長男は翔也兄さんで、翔也兄さんの方が相応しいというのに、何故か次期当主は架瑚になったと言うのだ。
(何か、卑怯な手を使ったに違いない)
だがそんな重要なことが、卑怯な手を使われて決まったとは思えなかった。五大名家の当主選抜は決して甘いものではない。未来の彼の国に大きく影響を与えるからだ。
しかも最終的に決めるのは現当主で伯父の翁真さんだ。あの翁真さんが適当に決めるはずがない。だけど卑怯な手を使わなければ、架瑚が次期当主などに選ばれるわけがない。
(どうして架瑚が次期当主になったんだ)
母に聞いても「何か事情があるのでしょう」とだけしか言われなかった。
無表情で無愛想、だけど勉強も運動もできて、俺よりも背も魔力値も異能も優れている従弟。それが架瑚だ。
架瑚は翔也兄さんにいつも褒めてもらってて、俺が追いつきそうになれば、すぐに遠くへ行ってしまう。
これがいわゆる天才という奴なのだろう。
俺はこの先、架瑚の好敵手にすらなれないのだろうか。頑張っても頑張っても、やっぱり架瑚には追いつけない。
そして今、架瑚は翔也兄さんがいるにも関わらず、笹潟家の次期当主の座を手にした。
(……悔しい)
なんでもできる架瑚と、同い年なのに追いつけない自分が悔しい。本家と分家の差はあれど、笹潟の血を引いているのは事実。
しかも俺の方が三ヶ月も先に生まれているのに、架瑚の方が背がほんの少し高い。それがもっと悔しい。
「……っ、なんでなんだよ」
俺はそう呟く。
「なんで俺より、架瑚の方がっ……」
答えは簡単だ。架瑚が天才だから。
「俺だって、頑張ってるのに……」
答えは誰にもわからない。誰も教えてくれない。ちっぽけで、幼い願いだと嘲笑されるに違いない。だが、願わずにはいられないのだ。
「俺は、架瑚よりもっと……」
褒めてもらいたい。
「すごいねって……」
みんなから言われたい。
承認欲求が強いと言われるかもしれない。だけど、それでも、俺は誰かから褒められたい。認められたい。すごいねって言われたい。それが俺を救う、唯一の方法だと思うから。
「架瑚は、ずるい……」
ずるいは、羨ましいという意味だ。
だけどそんなの悔しくて、俺は言いたくない。ずるいが羨ましいだというのは知っている。架瑚は俺の理想だ。
「ずるい、架瑚はずるい……」
誰もいない部屋で、俺は一人涙を流した。
この日は母に、本家に勤めている父の忘れ物を届けるよう頼まれ、俺は本家に足を運んだ。
本家は人がたくさんいて、何人もが出入りをしている。もちろん五大名家なので重要人物も多くきている。
そのためとても狙われやすいのだが、その分警備も厳しく、小さな俺でもよく検査されるのだった。
検査が終わり、本家に足を踏み入れた俺は真っ先に父のもとへと駆け出した。
広くて初めは迷ってしまったが、今では屋敷のことを十分に熟知している。父がいる場所は大抵決まっているので、探すのは簡単だった。
「! 父上……!」
「ん、ああ、夕夜か。どうした?」
俺の父、美琴弦木は本家の結界を張り、異常がないか見張るえらい人だ。
結界を張っている本人なので、あまり家にはいないし、よく狙われているそうだ。だが父は強いので大丈夫だと母に言われた。
父は一日中働いているので、あまり寝ていないのだろう。目の下にクマがあった。少し心配になったが、御付きの人もいたので気にしないことにした。
「これを、母上から渡すよう言われたので」
「おぉ、そうそう、忘れてたんだよ。ありがとうな夕夜」
「いえ」
俺は父に頭を撫でられた。子供扱いしてほしくないと思ったが、神父のように優しく微笑む父を見て、何も言わないことにした。
本当は嬉しかったが、幼子と思われたくない故に、なんとも思っていないと思うことにした。
「あぁそうだ夕夜。今日は久しぶりに家に帰ろうと思うんだ。一、二時間ほど、少し待っててはくれないか? 一緒に帰ろう」
「! わかりました」
俺は落ち着いて答えたが、もしかしたら嬉しさが伝わってしまったかもしれないと思うと、少しだけ恥ずかしくなった。
どこで待とうかと考えながら屋敷を歩いていると、従姉の未亜姉さんにあった。
「あら、夕夜じゃない」
「未亜姉さん! 珍しいですね、平日なのに」
「まぁね、今日は学校が早く終わったんだ」
未亜姉さんは俺よりも三つ上の十五歳。現在は中学三年生だ。高校は言うまでもなく翔也兄さんと同じ天宮に通うのだろう。
背は翔也兄さんまではいかないものの、俺よりも頭ひとつ分高い。ふんわりとした茶色の髪は、未亜姉さんの包容な性格を表しているように感じた。
未亜姉さんは俺の妹の夕莉のお気に入りだ。優しくて親しみやすい未亜姉さんが夕莉は大好きで、いつも本家に来た時には未亜姉さんと遊んでもらっている。
いつもは休日に本家に来ているので、俺はもしかしたらと思った。翔也兄さんに稽古をつけてもらえるかと思ったのだが、未亜姉さんはそれを先読みしたのか、俺にこう言った。
「あ、翔也は生徒会だからいないよ」
その言葉に俺はショックを受ける。今度こそ二人きりでいられると思ったのに残念だ。その気持ちが顔に出ていたのか、未亜姉さんは苦笑した。
「そんな顔しないでよ。なら、今日は私と話さない? いっつも夕夜は翔也に取られちゃうんだもの。なかなかこんな機会ないしどうかしら。お悩み相談とかしてあげるよ?」
(お悩み相談……)
その言葉に俺は惹かれた。
聞いては失礼なことじゃないかと思ったが、せっかくの機会だ。無駄にせず、大切に使おうと俺は決めた。そして一応尋ねる。
「……架瑚のことでも、いいですか?」
「お、いいね。もちろん。なんでも聞きな」
意外にも未亜姉さんは乗り気で、第一回目のお悩み相談が始まったのだった。
「ふぅん、なるほどねぇ」
俺は未亜姉さんに俺の思う架瑚の嫌なことや謎なこと、架瑚に対しての思いを伝えた。未亜姉さんは何ひとつ口を挟むことなく、最後まで俺の話を聞いてくれた。相槌を打ち、否定することなくむしろ肯定してくれた。俺にはそれがとても嬉しかった。
「まず架瑚が次期当主に選ばれた理由について教えるよ。これはめっちゃ簡単。翔也よりも架瑚の方が将来強くなると予想されたからだよ」
「えっ……」
(あの翔也兄さんよりも、架瑚が……?)
確かに架瑚は魔力値もトップレベルだし頭も良い。だけど武芸に関しては絶対に翔也兄さんの方が強い。将来架瑚が大きくなったとしても、翔也兄さんの方が強いと俺は思う。
「翔也兄さんの方がすごいです」
「あー、まぁそうね。それはわからなくもない。でも架瑚が仮に将来翔也を抜けなかったとしても、次期当主は架瑚になるよ。これは確定だね」
「何故です?」
「いろいろな要因はあるけど、一番は異能だね。翔也の異能も強いけど、やっぱり当主となるなら架瑚の異能の方が向いてるよ」
「異能……」
どんな異能かは家族でもあまり知らないし、知らない方がいい。なぜなら第三者に漏れると危険だからだ。
異能の弱点を狙って攻撃されるか、暗殺を仕掛けられる。昔、異能を他者に知られたことによって殺された者がいたのだ。
「でも、それじゃあ夕夜は納得できないよね」
未亜姉さんはそう言うと「防音魔法」と言った。防音魔法はかけた者とかけられた者の声をその他の人には聞こえなくする魔法だ。よく密会で使われる。
「架瑚の異能はねぇ『心理透視』って言って、他者の心の声を読み取る異能なんだよ」
「!」
(他者の心の声を読み取る……!?)
つまりエスパーだ。
「それがあれば、絶対に裏切りは起きないし、信用できる者を知ることができる。命が狙われる可能性が低くなるんだよね。内通者も格段に減る。だから架瑚が選ばれたんだよ」
「そう、だったんだ……」
五大名家は狙われやすい。もちろんそれは外からが多いが、一部は内部に紛れて暗殺しようとする輩もいる。
当主が倒れれば国は揺れ、最悪国家転覆だ。だからなるべく強く、健康な者が次期当主に相応しいと言われている。
架瑚の異能はそんな事態が非常に起こりにくくなる異能だ。誰よりも当主になるに相応しい異能だと思うだろう。それには俺も含まれている。
「納得した?」
「うん……。ありがとう未亜姉さん」
「いいえ。でもこのこと他言無用よ?」
「わかってます」
悪用されないためにも、だ。
「じゃあ、あともう一個教えるね。架瑚は天才なんかじゃないよ」
「え? いやいや、それはないって」
なんでもできるのに天才じゃなかったら、一体誰のことを天才というのだろうか。
「いいえ、そんなことあるのよ。おいで」
俺は未亜姉さんについて行くことにした。
「ほら、見てごらん」
つれてきてもらったのは、俺がよく翔也兄さんと一緒に稽古をつけてもらっているところだった。
未亜姉さんに促されて中を覗くと、そこには練習している架瑚の姿があった。
「練習、してるでしょ?」
だから天才じゃないと言いたいのだろうか。
練習なら俺だってしていると言おうとするが、その前に未亜姉さんから衝撃の事実を告げられる。
「架瑚、もう二時間も一人で練習してるのよ」
(二時間……!?)
俺でも最長で一時間半しか練習していないというのに、架瑚は二時間もやっていると言うのだ。
そろそろ腕も疲れてくる頃だろうに、汗を流しながら一心不乱に練習していた。
「昔は五時間ぐらいやってたんだけど、流石に忙しくなってきたみたい。最近は多くても三時間ぐらいだよ。すごいよね」
これは認める。架瑚は本当にすごい。
「しかも時間がないからって言って朝の四時くらいから始める時もあるのよねぇ。夜も遅くまで勉強してるのに、よく起きれるなぁって感心しちゃうよ」
夜遅くまで勉強、朝早くから武芸に励む。
そんなことを架瑚は影で行っていたと言うのだろうか。断言できる。架瑚は天才なんかじゃない。いや、天才だったとしてもそれ以上に努力家だ。
「これでわかった?」
未亜姉さんは俺に問いかける。俺は頷き、じっと架瑚の動きを見た。
一つ一つの動きを丁寧に確認し、修正を繰り返している架瑚を見て、俺は架瑚に対する尊敬心を抱き、同時に恥ずかしくなった。
勝手に勘違いして、勝手に嫌って、毒吐いて。なんで自分はひどいことをしたのだろうか。あんなにも、一生懸命に架瑚は取り組んでいるというのに。
(天才なんて、いないんだ)
ふいに俺はそう思った。
架瑚はきっと、稽古を始めた時からずっと俺よりも努力していたのだろう。
仮に俺も架瑚と同じくらい練習していても、架瑚ほどに上手くはなれない。なぜならば架瑚は小さなことにも気がつき、考え、自分から癖などを直しているからだ。
俺なら、いや、俺はただ竹刀を振っているだけで、そんなことまで考えてなどいない。その時点で俺は架瑚よりも劣っているのだ。
認められるはずがなかったんだ。
時間も、精度も、密度も……全てにおいて俺は無駄に使い、何もわかっておらず、ただ目の前のことだけに集中していた。
それでは駄目だったのだ。しっかりと物事を考えなければならないのだと、俺は知った。
そして架瑚はずるくなんかなかった。
俺はもっと努力しようと決めた。架瑚に追いつけないのならば、架瑚と同じぐらい、いや、架瑚以上に努力すればいいのだ。もちろん効率的に、だ。
「次期当主は、架瑚こそが相応しいよ」
俺はそう、小さく呟いた。
その実力は架瑚の努力の賜物だ。頭がいいのも、運動ができるのも、魔力が多いのも。異能は……あんまり関係ないけど。
約束しようじゃないか。いつか架瑚よりも強くなって、頼り甲斐のある奴になって、架瑚の従者になって架瑚を守ってやれるぐらいの人に。
「架瑚っ! 俺も一緒に稽古したい!」
俺はそう言って架瑚に駆け寄る。それを静かに微笑みながら未亜姉さんは見ていた。
これが、俺が架瑚に心を開いた瞬間だった。