【番外編】


 この日はたまたま仕事が早く終わったので、車で従妹の夕莉を夕夜と綟と一緒に迎えに行った。

 季節は睦月(むつき)で雪が降っていたことも、迎えに行く理由の一つだった。

 夕莉は部活動に入っていないので、四時を過ぎた頃に昇降口の近くにやって来た。やはり外は寒いのか、夕莉は暖かそうなマフラーとコートを羽織って、友達と見られる女子と共にいた。

 夕夜と綟が車から降り、傘を差して夕莉のもとへと走った。夕莉は傘を持っていなかった。

 俺は「はぁ……」と小さなため息をつき、つまらない、退屈などと言った否定的(ネガティブ)な思考を巡らせる。

 そういうのは良くないと綟はよく言うが、つまらないものはつまらないし、退屈なものは退屈でしかない。

 そのぐらい、誰にでもわかる単純なことだと俺は思っている。

 俺は昔から何に対しても無関心な生き物だった。というのも、俺は基本的に何でも要領よく(こな)すことができたからだ。

 一つ言っておくと、これは自慢ではない。ただの事実だ。だがそう言うと皆から反感を買うことを俺は知っているので、敢えて口にはしないようにしている。

 俺は俺が今生きる世界がすべて白黒(モノクローム)のように見えている。もちろん色覚障害者ではないので、本当にそんな世界を見ているわけじゃない。

 何と言うか、勘違いされやすい言い方にはなるが、世界の程度(レベル)が低いのだ。ほぼすべてのことにおいて、俺よりも優れた人は数人しかいない。それがものすごく苦しく、悲しいのだ。

 だから俺は毎日のように求めているのだ。

 自分よりも長けている者を。自分よりも優れている者を。そして自分を、退屈から引き剥がしてくれる者をーー。

「ーー…………っ!」

 その瞬間、俺のすべてが彼女に奪われた。

 目を開けて、窓の外をふと見た時だった。本当に一瞬だった。

 誰よりもひどく、苦しそうな瞳をした少女を俺の視界が捉えた。あれほどの瞳をした者を、俺は見たことがなかった。

 この世界に絶望していながらも、内にはほんの少しの希望を灯したその目。まるで自分の空似を見ているようだった。

 容姿は決して、美しいとは言えなかった。髪も梳かしたと思えないぐらい、ボサボサしていた、艶がなかった。

 ある程度の距離はあったが、それでもわかるほどだった。服も酷かった。いくら制服とは言えど、あちこちに(ほつ)れや何かで裂いた後が残っていた。靴も汚れていた。

 なのにーー

「何なんだ、あいつは……」

 それ以上に強く俺に印象つけたのは、大量の契約の糸と、俺と同等、またはそれ以上の魔力量、そして強い異能の気配だった。

 あべこべな彼女は、俺に強い好奇心を植えつけると同時に、危険視させた。

(よもぎ)、出ろ」
『御意』

 俺がそう言うと、俺の式神である蓬が姿を現す。蓬は珍しい人型の式神で、俺と似た容姿と性格をしている。

 攻撃型の式神だが、潜入や調査もできる、有能な式神だ。俺に逆らうことは契約上できないため、最も信頼している存在と言っても過言ではなかった。

『彼女を探るでよろしいでしょうか』
「あぁそうだ。やばいと思ったらすぐ逃げろ、絶対だ。逐一報告、命優先、わかっているな」
『心得ております』
「では行け」
『御意』

 蓬は俺の前から姿を消し、彼女のもとへ行った。俺は無事を祈って一息つく。

 すると夕莉たちが返って来た。俺は確認するべく、いくつかのことを尋ねることに決める。

「いやぁ、夕夜たちが来てくれて助かったよ、本当にありがとねぇ。……架瑚兄どうかした?」
「夕莉、先程一緒にいた少女は誰だ」
「ん? あぁ藍だよ。時都藍。ほら、架瑚兄が前に会った時都家の」
「時都家、ねぇ……」

 確かに俺は先日、次期当主として公の場に姿を現した。その時に分家の者とも会っている。時都家は最初から五番目ほどに会ったはずだ。

 だが、その時にあの少女、藍と言う名の娘とは会っていない。記憶が正しければ、体調が悪いとのことで欠席したとか。隠したがっているのだろうか。

 しかしそうだとしてもあんなにも有能な者を隠したがる理由がわからない。ファーストの者を出せば、時都家としても地位は上がるはずだ。

(一体、何故……)
「え、なになに? 架瑚兄、藍に一目惚れでもしたの? ねぇ、ねぇねぇねぇ!」
五月蝿(うるさ)い、少し黙っとけ」
「ええぇっ! 驚くよね、綟姉さん!」
「そうですねぇ。まぁ、若が誰かに興味を持つだなんて……今は睦月(むつき)ですが、今年は春が早く来そうですね」
「だよねだよねっ!」

 最初はどうでも良かったが、だんだんと腹が立ってきた。だがもちろん俺の手を煩わせたくない。女は面倒臭いからだ。

 ということで俺は俺の手駒を使うことにした。夕夜だ。

「……夕夜何とかしろ」
「俺はお前の従者だが、お前の雑用係ではない。好きに言わせておけばいいじゃないか。お前と同じように、俺も面倒ごとは嫌いだ」
「ちっ」
「舌打ちするなよ……」

 使えないなぁ、と思ってしまうが、それを口に出せば二度と夕夜は俺と口をきいてくれないだろう。諦めて夕莉と綟には野放しにすることにした。そして蓬からの報告を期待した。


 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


(ひどい扱いだな……)

 その頃、架瑚の式神である蓬は藍を監視していた。

 視界には藍と、その家族である母の紅葉、双子の姉の茜、父の蒼生の姿が映っていた。

 紅葉は藍の髪を鷲掴み、藍はそれに伴い悲鳴を上げる。

「あっ、あああっ!」
「全く、あなたは本当に役立たずね厄女」
「ごめっ、なさっ……っ!」

 必死に泣いて謝る藍を紅葉は許さない。強い蹴りを藍の腹部へと入れる。藍はそれに歯を食いしばって耐える。

 見ているだけでも悲惨な状況だと言うのに、茜は平然と、蒼生は見て見ぬふりをしていた。

「はぁ、本当に目障りなこと。今日も夕飯は食べてはいけないわよ、藍。雨風凌げるこの家で暮らせることを本当に感謝してほしいわ」

 そう言うと紅葉は藍から手を離す。藍はその好機を逃さず、急いで部屋の戸の方へ向かうと「失礼致しました」と言って綺麗に腰を折ってお辞儀をすると、手慣れた手つきで部屋を出た。

 蓬もその後を追った。

 藍はフラフラとしており、時折床に倒れ込みそうになっていた。蓬は自分が出てきて藍を助けるか、迷っていた。

(おそらくこのお方は主人(あるじ)に危害を加える人間ではない。だが、主人が危険視しており、尚且つ与えられた仕事は監視、偵察。助けろとは言われていない。どうしたら良いものだろうか)

 藍は自室に着いたのか、戸を開けて中に入る。それにつれて蓬も入った。

 蓬が驚いたのはこの後だった。藍が動きを止め、何かを言ったのだ。

「……よね」
(ひとりごとか?)

 だが、そうではなかった。

「私の右斜め後ろ上に、誰かいますよね」
「!」

 そこは蓬が姿を消して藍を見ていた場所だった。姿を消していたのは最初からだったので、藍も最初から気づいていたのだろう。

 そうだと思うと、蓬は恐ろしくなった。蓬の姿を気づいた者は、架瑚以外に存在していなかったからだ。

「あ、えっと、敵意はないんです。攻撃する気もありません。だから、その、怖がらないでほしいです」

 藍は一度も蓬の方を見ていない。だがしかし藍は蓬の気持ちを言い当てた。

 けれど蓬は怖がらないでほしいと言われても無理があると思うのだった。

(要求はなんだ、主人の命から手を引けと言うことだろうか。それともーー)

 藍からの要求は意外なことだった。

「二つ、お願いがあります。一つは茜たちとのこと、見てましたよね。それを誰かに伝えないでください。もう一つは、その、ものすごく言いにくいのですが、数分ほどこの部屋から出ていてほしいんです。その、いくらあなたが人間でないとは言えど、恥ずかしいものは恥ずかしいので」
『…………』

 蓬は思う。この少女は一体何を言っているのだろうかと。

 まず一つ目の要求の時点でおかしかった。虐待の情報を漏らすな。虐待している側ならわかるが、虐待されている側がそう言うのは変なことだと蓬は思った。

 一瞬藍には被虐趣味があるのではないかという予想が脳内をよぎる。が、それでは被虐時の反応と辻褄が合わない。

 二つ目もまた変な要求だった。確かにいくら蓬が式神とは言えど、自分の裸体を晒すのは恥ずかしいことだろう。それは蓬にも何となくわかった。

 だがーー。

『……一つ質問だ。そこまでして虐待を隠すのは何故だ』

 まさか気づいてないとは言わせない。

 蓬は姿を現し、藍に聞いた。藍は蓬に配慮して、蓬の方を見ずに答える。

「虐待…………。それは違うよ。誰にだってイライラする時がある。それをいつかどこかで発散しなきゃいけない。母さまの場合は私でそうしている。ただそれだけのことよ。勘違いしないでほしいな」
『……そうか』
(虐待されていると思いたくないのか)

 そう蓬は思った。

 藍は人を信じ過ぎるところがあった。そして自分は恵まれていると思わなければ、きっと生きることができないのだろう。根が優し過ぎることも、一つの要因かもしれない。

 蓬は架瑚にこのことを伝えることに決めた。あまりにも可哀想だと思ったからである。

 藍はそれを望んでいない。けれどそれでも蓬は不幸な少女を助けてやりたいと思ったのだった。

 蓬が架瑚以外の人間に心を開いたのは、藍が初めてだった。

 蓬は再び姿を消し、架瑚のもとへと向かった。


 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


 季節は移り、新緑が映える皐月(さつき)。この月は仕事がひと段落する頃合いで、俺もゆったりと過ごしていた。

 この日は土砂降りの雨だった。そんな時に運命の歯車は大きく動き出したのだ。

『あるじ、主人……!』
「! どうした蓬っ!」

 蓬が俺のいる部屋へと慌ててやって来た。今日はいつもよりも蓬が常務連絡をしにやって来るのが遅かったので、俺は心配していた。

『急がなければ、あの少女が死んでしまいます!』
「っ!?」

 あの少女、と言うのは藍のことだと俺は察した。今、蓬に調べさせているのは時都家の娘以外にいなかったからだ。

 何が起こっているのか、と俺は蓬に問い糺したかったが、そんな時間はなく、俺は蓬に従うことにした。

『主人、お手をお借りします。転移魔法(シュリアノス)で飛ばしてください』
「わかった」

 転移魔法(シュリアノス)は通常、行使する側の想像した場所へ転移することができる魔法だ。だがファーストである俺には蓬の想像する場所に転移することも可能だった。

 光り輝き、俺らは転移した。

 俺はすぐに目を開けると、すぐ近くの川に身を投げ出そうとする藍が映った。

 蓬がその少女だと言う前に、俺の身体は動いた。自殺は明確だった。

「早まるなっ!」

 俺はそう叫び走り、藍の腕を掴み引っ張り上げ地面へと身を戻した。藍ざ川に落ちるまであと少しと言うところでの救出。まさに間一髪だった。

 俺は呼吸を整え、改めて藍を見た。

 髪も服も濡れており、体温も低いのがわかった。これは早々に屋敷に戻り、引き取る必要があると瞬時に判断する。

 すると藍は小さな瞳から涙を溢した。その涙は雨粒と混じり、藍の額を伝う。そして悲痛な叫びを声にした。

「……なんで、なんでなのよ! あなたには関係ないでしょ! なんで助けたのよ!」

 「嗚呼(ああ)……」と俺は思う。

 何故次期当主でありながら、こんなにも弱く脆い少女を早く助けてあげられなかったのかと、自責の念に潰されそうになる。

 最初からわかっていたはずなのだ。この少女は力が強いだけで、その使い方をまるでわかっていないことに。そして普通の家庭で育ってはいないことに。

 俺は自分が見て見ぬふりをしていたに等しかったのだと知る。

 藍は胸の内を全て吐き出した。

「努力しても認められない! 存在すらも! 生きる意味なんかない! 楽しみもない! 自由もない! 必要とされる人もいない! もう生きたくない!」

 ならば、と俺は思う。

 せめてもの償いとして、この少女は自分の手で救うべきだと。

「じゃあ俺がなる」

 藍は虚を突かれたような、不思議な表情をする。それもそのはず。そう言った俺自身も己が何を口にしたのかをまだ理解できていなかった。

 これがすべての始まりだった。