まだ太陽が昇っていない早朝に、私は目覚めた。布団から起き上がり、いつものように制服に着替える。
ふと机を見ると、架瑚さまがくださった首飾りが置いてあることに気付く。
なるべく持ち歩くように、と言われたことを私は覚えていたが、今日はわざとそれをつけなかった。
長く伸びた髪を鏡で見ながら櫛で梳かした。屋敷に来てからは髪の艶が良くなり、絡まりも少なくなった。全部架瑚さまたちのおかげだ。
髪を梳かし終えると、近くにあった紙に短く伝言を残す。架瑚さまへの贈り物として作っていた手巾は、自分のポケットに入れた。
(これでもう、何も思い残すことはない)
窓から見える庭園の桃の花の木を眺めた。もう水無月なので花は咲いていなかった。空を見ると、太陽が昇り始めたところだった。
靴を簡易型の転移魔法で玄関から取り寄せ、履いた。
軽く息を吐き、魔力を全身に流す。
(もう私は誰も傷つけなくない)
そんな思いを胸に、魔法を唱えた。
「転移魔法」
光に包まれ、瞬く間に私は時都家へと転移した。
目を開けると、懐かしい風景が視界に映った。だが今日はそんな些細なことに時間を使いに来たわけではない。
私は意を決し、時都家の大きな門を開け、私は敷地へと足を踏み入れた。そしてその瞬間に後ろの門が激しく閉まった。
逃がさない、とでも言うかのような意思表示なのだろうか。少なくとも、ただでは返してもらえないことが分かった。
私は大きく息を吸い、屋敷に向かって言った。正確には母さまに向けて。
「いることは分かっています。早く来てください」
すると「コツン、コツン……」という下駄の音と共に、屋敷からやって来た人がいた。母さまである。
母さまはに右の顳顬を払いながらやって来た。
「あら、久しぶりねぇ厄女。まさかこんなに早くに来るとは思っていなかったわ。にしても、やっぱりあなたの存在は癪に障るわ。不快よ」
母さまの目は笑っていなかった。こういう場合の母さまは、ひたすら謝って黙って暴力を受ければいいと私は知っている。
きっと普段の私だったら、怯えて後退りながら「申し訳ございません」などと謝罪の言葉を述べるのだろう。
けれど今の私は違う。私は架瑚さま達と出会って強くなった。だからその恩返しとして今日、私は一歩前へ進むと決めたのだ。
「お久しぶりです、母さま。こんな早朝に足を運んでいただき、恐悦至極に存じます」
「はぁ、謝ってすらくれなくなったのね。本当に残念なこと。まあいいわ、今日は許してあげる。それと、長ったらしい挨拶は省きましょう?お互いこんなことで時間を潰したくはないはずよ」
「では、お言葉に従って。……夕莉を返してください」
私が今日時都家に来た目的は、夕莉を返してもらうこと、夕莉を誘拐した犯人が茜ではないことを知るためだ。
夕莉が時都家にいると知ったのは、昨夜届いた手紙で知った。母さまからの手紙には簡潔に書いてあった。
『お友達を返してほしければ時都家に来なさい。けれど、誰かと一緒に来たり相談したりするならば、生きて返す保証しないわ』
生きて返す保証をしない、つまり誰かと一緒に来たり相談したりすれば夕莉が殺されるかもしれないということだ。
母さまは私のことをよく分かっている。私は自分が傷つくことよりも、自分以外の人が傷つく方が嫌う。だから夕莉を人質にしたのだろう。
だけど母さまは一つだけ誤解している。私が架瑚さま達に相談すると思ってあの手紙を送ったのだろうけど、私は架瑚さま達に相談しない。というより、できないのだ。
だって私は架瑚さまにあんな酷いことを言ってしまったのに相談なんてできるわけないし、きっと嫌われているに違いないから。
そんなことを考えていると、母さまは私に話しかけた。
「ただで返すとでも?」
「最初からそれは不可能だと確信しています。だから条件を出すのでしょう?」
「よく分かっているじゃない」
どんな条件でも、夕莉のためなら何だってやってやる。
これは、架瑚さま達へのせめてもの恩返しのためでもあるのだ。絶対に夕莉を返してもらう。
私は固く決意し、拳をぐっと握った。
だけど、そんな決意を母さまは一瞬にして砕いた。何を言われたのか、最初は理解できなかった。
母さま私に近づき、耳元でこう囁いた。
「たった一つだけよ。笹潟様との婚約を破棄しなさい。そしたらお友達を返してあげる」
「…………えっ……」
架瑚さまとの婚約破棄。それが、夕莉との交換条件だった。もちろん私の夕莉との交換条件の予想には入っていた。
だから私は今日早朝に屋敷を出る時に、架瑚さま達との縁を切ると、夢のように幸せだった時間を捨てると、そう決めたはずだった。
(だけど、どうして……)
「あら、どうしたの?あなたのことだもの。友達を見捨てて自分だけ幸せになろうだなんて、思っていないわよねぇ?」
「っ!」
私は首を縦に振ることができなかった。
できない理由は、多分まだ私が架瑚さま達と一緒にいたいと思っているからなのだろう。実際、今もそう思っている。
でも捨てなきゃいけない。夕莉を助けるにはそうするしかない。なのに、どうして。
(どうして捨てることができないの? どうして資格すらないのに、私は幸せを望んでしまうの?)
「ほら、どうするの?」
母さまに急かされ、私は二つの選択肢を天秤に掛けた。
夕莉は大事な友達だ。
いつも私を助けてくれたし、元気にしてくれた。そして今日私は夕莉を助けに来たのだから、もちろん私に夕莉を見捨てる選択肢などない。
だけど架瑚さま達と過ごす時間は夢のように幸せだった。
架瑚さまとの婚約はそんな時間と私を結ぶ、たった一つのものだ。これを失ったら、きっと私は架瑚さまの隣に居座ることなんてできない。
今の私に架瑚さまの隣に立つ資格はない。だけど私が諦めきれないのは、架瑚さまとの婚約を正式に破棄していないからだ。
そして私が幸せを知り、望んでしまったからーー。
夕莉か、自分の幸せか。
私が選ぶのはーー
「私は、夕莉を見捨てたりなんてしません。いえ、できません」
それを聞くと、母さまは不敵に笑った。
「そうよね。じゃあ婚約を破棄すると言うことで」
「ですが、」
私は母さまの言葉を遮り話す。
「私は架瑚さまとの婚約を破棄することもしません。したくないです」
「はぁ? 結局どっちなのよ?」
「わかりませんか?」
わからなくて当然かもしれない。
「二つとも私は選ぶと言っているんです。夕莉も返してもらいますし、架瑚さまとの婚約も破棄しません。これが私の選択です」
そう、私が選ぶのはどっちもだ。
昔の私だったら夕莉を優先する。自分以外の誰かが助かった方が良いと思っているからだ。
でも、私は架瑚さま達と出会って変わったのだ。どちらも諦めることができない。
(ならどちらも選べばいいだけのこと)
「傲慢よ」
「否定はしません。ですが、これが私にとって一番良い選択だと思ったので」
我儘だと言う母さまの意見は間違っていない。実際傲慢な選択だと私にだって分かっている。
でもーー。
「私は架瑚さま達と過ごした幸せな時間を手放したくありません。だから夕莉も返してもらいますし、婚約も破棄したくないです……ううん、しないです! もう誰に何と言われようとも、私は私のしたいことをしたいんです!」
こうやって自分の気持ちをはっきり言うのは茜と話して以来だ。すごくスッキリしたが、まだ油断などできる状況ではない。
私はじっと母さまの動向を見た。
母さまは少しした後、突然笑い出した。
「ふふ、ふふふふふふ、ふはははははは!」
とても気味が悪かった。まるで何かが取り憑いてでもいるかのような笑い方だった。
少なくとも尋常ではないことは一目瞭然だったことに間違いはない。
私は思わず身体を竦めるも、母さまに聞く。
「な、何がおかしいのですか!」
「いえ、なんにもおかしくはないわ。あなたが私の予想以上に成長していただけのことよ。いい出会いと環境に恵まれて過ごせたのね、羨ましいわ。だから私からあなたにいい物をあげるわ」
そう言うと母さまは懐から何かを取り出して私に見せた。それは錆びた古い鍵だった。そして私が最もよく知る鍵だった。
「それは……!」
驚かずにはいられない。
その鍵は、時都家の地下にある『お仕置き部屋』と母さまが呼んでいる部屋の鍵だ。
私がその鍵だと一目でわかるのは、昔よくそのお仕置き部屋に閉じ込められて食事を抜かれたり、暴力を振るわれたりしたからだ。
(嫌な記憶ほど鮮明に残るものね)
「あなたならこれが何の鍵か分かるわよねぇ厄女。この鍵があれば、お友達を助けてあげられるわよ」
そうなのかもしれない。だが、それは母さまの言葉が本当だった場合のみだ。
母さまは策略家だ。何も見返りなしにそんな大事な鍵を渡すわけがない。
「ほら、欲しくないの?」
母さまは先刻、架瑚さまとの婚約破棄を条件に夕莉を返すと言った。なのに今は私が成長したという理由で鍵を渡そうとしている。
(怪しすぎる……)
「どうしたの?いらないの?」
何か裏があるに違いない。
私はその裏を考えようとする。だが母さまはそんな時間を与えてはくれなかった。
母さまが鍵を庭の池に投げたのだ。
「そう……。じゃあこれはいらないのね」
「っ! ダメっ!」
もしかしたら本物の鍵かもしれない。
罠だと分かっていたはずだった。けれど小さな希望が私の身体を動かした。
私は急いで走って鍵に手を伸ばす。だがあとちょっとのところで地面が池へと変わり、私は池に落ちた。
「きゃっ!」
水飛沫の音と一緒に私の声は身体と共に飲み込まれた。あちこちが擦り切れ、一部では血が出ているのが分かった。
案の定、制服はびしょ濡れだ。水を吸い込んだからか、その分重く感じ、身体に張り付いたのが分かった。
冷たい池の水が私の体温を奪う。
だけど今の私にはそんなことどうでも良かった。
(鍵はどこ…………あ、あった!)
鍵を見つけ、私はそこへと歩んだ。だが、鍵を手にしたその時だった。
「解除魔法」
「え……きゃあっ!」
母さまが何かを言ったと思えば、手にしていた鍵から植物の蔓や茎、棘が一斉に出て成長し、私を閉じ込める檻へと変化した。
「なに、これ……」
私はすぐに脱出しようと試みる。しかしその檻に触れると全身に電流が流れた。その電流は、私の想像をはるかに超えるほどの痛みを与えた。
「ああああああああああっ!」
声を抑えることのできない痛みはこれまでに一度だけ経験したことがあった。けれど幼かったこともあり、それはすぐに手当してもらえたが今は違う。
こんな早朝に医者はやっているはずもないし、母さまのことだから事前に時都家の敷地内に防音魔法と透明魔法をかけているはずだ。
つまり今の私には何もできない。
(逃げられないーー!)
「コツン、コツン……」という下駄の音が後ろから聞こえた。
私は静かに後ろを振り返る。
母さまは、笑っていた。私を見下しながら、口を気味悪く開けて。その姿は醜い化け物のようだった。
「ありがとう、お馬鹿さん」
母さまは私に近づいた。後退りするも、檻によってその道は阻まれた。母さまは目を大きく見開いてこう言った。
「これはねぇ、侵入者用の魔法で作った檻なの。よくできているでしょう。出るためにはこの魔法を発動させた本人、つまりは私がこの魔法を消すか、私を殺すかの二択しかないの。でももちろん私は解除するつもりなんてないし、あなたに私を殺す度胸なんてないわ。つまりね、あなたはまんまとはめられたってわけ」
母さまの言っていることを理解するのに、私は少し時間がかかった。そして一度状況を整理することにした。
一つ目。
この檻の作り方だがらまず初めに植物の種に促成魔法をかけ、時間停止魔法で植物の時間を止める。
今度はそれを創造魔法を応用して鍵の形に変化させる。
それと雷電魔法などを閉じ込める。
そして今、解除魔法で一気に全ての魔法を解除して私を捕らえた……と、いうところだろうか。
二つ目。
そんな檻を出るには母さまが魔法を消すか、私が母さまを殺すかのどちらかしかないと母さまは言っていたがそれは違う。
この檻は魔法でできている。つまり、この檻を作った時以上に魔力を使えば出れるということ。
だけど母さまのことだからさっき檻に触った時に魔力が反発するのも感じたことも含めて考えると、きっとこの檻を作る際に閉じ込めた者の魔法を行使することを一切禁止したに違いない。
……まぁ、上手くいけば出られるかもしれないということだ。
三つ目。
これは母さま本人に確認するとしよう。私は痛みに悶え、耐えながら、母さまに聞いた。
「……母さまは最初から夕莉を解放するつもりはなかったんですね。本当の目的は私。だけど内容は婚約破棄ではないのでしょう?」
「ええそうよ。まだ頭は回るみたいね。会話できて良かったわ。あぁ、でもこの檻の実験は失敗に近いわ。それはとても残念」
(実験? 失敗?)
まだ何かあるのだろうか。だけど今の私にはそれが分かっても何もできやしないので、私は話を進めた。
「母さまの目的は、私の魔力を得ることですよね。でも私にはいつも架瑚さま達がいるから攫うことはできない。だから私が自分から時都家に来させるよう仕向けた。合っていますか?」
母さまは何も喋らない。一人で笑顔の仮面をつけたまま、母さまは私の話を聞いていた。
「母さまは私のことをよく分かっている。私が必ず誰かのためなら自分を差し出すことを知っている。だから人質として夕莉を誘拐し、私を誘い込んだ。すべては私の魔力を得て何かをするため。さすがに私にはその何かが何なのかまでは確証がないので言いませんが……。これが私の予想です。どうでしょうか?」
母さまは強欲だ。地位、魔力、権力、財力……全てにおいて一位や一番でないと気が済まないという性格だ。
きっと架瑚さまの父君で現当主である笹潟翁真様の婚約者の座も狙っていただろう。
だが実際、当主様の隣に母さまはいない。さぞ母さまは悔やんだだろう。
だから今度は自分の娘に次期当主様、架瑚さまの婚約者の座を狙わせるーーと考えるのが普通だが、私の考えが合っているならばそれは違う。
なぜなら母さまが本当に架瑚さまの婚約者の座を茜に狙わせているならば、私に架瑚さまとの婚約破棄をし、茜に譲るよう言ったはずだからだ。
そして母さまは当主様の婚約者になれなかったらその負の感情誰にぶつけるかーー当主様とその妻子に向かうのはほぼ確定だろう。
つまり母さまの恨みの矛先は笹潟家の人間全てに向く。そしておそらくそこには架瑚さまの名前も入っている。
だが、五大名家ーー『ファースト』の出生が多い笹潟、白椿、青雲、赤羽、煌月の一つである笹潟家に対抗すれば、結果は言わずもがな笹潟家の圧勝だ。
だから母さまは架瑚さまの魔力値すらも越えた私の魔力を欲している。笹潟家に長年の恨みを晴らすためにーー。
それが私の予想だ。
母さまは少ししてから「全部当たりよ」と言って私の目の前に立った。母さまは、笑っていた。
「本当に簡単だったわ。上手くいき過ぎて自分でも笑っちゃうぐらいにねぇ」
母さまは怖いが、私には確かめなければならないことがある。勇気を出して私は母さまに聞いた。
「一つ確認です。茜は、夕莉を誘拐していないんですよね?」
母さまはすぐに教えてくれた。
「ええ、してないわ。茜はあなたのお友達の誘拐犯と思われてくれたみたいで助かったわ。でも、敵側に情報を与えたことだけは残念だったわ。まぁ結果的にはその教えてもらったあなたのお友達も捕えたからいいけど。本当によく働いてくれたわ。私に操られているだなんて知りもせずにね」
「……茜を利用したってことですか?」
私は茜が犯罪に手を染めていないことに安堵しながら母さまに聞いた。
母さまは当然でしょ、と当たり前のことのように言った。
「だって私が産んだ子よ?だからあの子は私の物。私の所有物なんだから、どうしたっていいじゃない」
所有物。
その言葉から、母さまは茜のことを人間として見ていないことがわかった。
「茜は……人は物なんかじゃありません!」
だけど母さまにそんな私の言葉は届かなかった。
「あぁ、なんて耳障りなことなのかしら。人は物なんかじゃない?何いい子ぶっているのよ。自分は人ではない扱いをされても何も言わないのに、他人がそんな扱いをされていたら怒るだなんて……。まぁいいわ、結果的に私はあなたを捕まえることができたのだから」
そう言うと、母さまは屋敷へと足を運んだ。私を運ぶために誰かを呼びにでも行くのだろうか。
私は何とかして架瑚さま達に夕莉が時都家にいると伝える術を考えた。
だが思いつく前に何故か母さまがすぐにこちらへ引き返して私にこう囁いた。
「ああ、そうそう。一つ言っておきたかったのよね。……今頃、笹潟様だって清々しているはずよ。あなたは何もできない役立たずなんだから」
『何もできない役立たず』
その言葉に、私は昨夜の架瑚さまの言葉を思い出した。
『藍は何も知らないだろう?何もできないだろう?何もしていないだろう?……だからそう言えるんだよ!』
やっぱり私には、何もできないのかもしれない。
負の感情に包まれ、すぐに私は光を失った。
「しばらく寝てなさい。……睡眠魔法」
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
眠りに落ちる私はひたすら心の中で謝り続けた。
結局夕莉を助けることができなかった。架瑚さまの言った通り、母さまの言った通り、私は役立たずだった。何もできなかった。
そんな私は生きる価値すらないかもしれないというのに。なんで私は誰かに助けを求めてしまうのだろうか。
(誰か、助けて……)
その誰かを望んでも、きっとこんな私には誰も手を差し伸べてくれる人なんていないだろう。でも何故、その誰かを考えた時に架瑚さまの姿が思い浮かんだのだろうか。
(架瑚さまに、謝りたかったな……)
そんな後悔は眠りと同時に泡となり消えた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
時は同刻、場所は笹潟家の屋敷に移る。
「どこですか藍様っ!」
「屋敷にはいないぞ! 靴がない!」
「絶対に見つけろ! 探し出すんだ!」
架瑚を中心に、屋敷全ての者が藍を探していた。
しかし架瑚は藍の時都家で紅葉と対峙していることなど知るはずもない。
そんな架瑚が捜索範囲を広げようとしていた時だった。
「若っ! 藍様の部屋からこんな物が……!」
綟が藍の部屋から一つの紙と、先日架瑚が藍に渡した首飾りを見つけたのだ。
架瑚はすぐその紙を見せてもらった。
書かれていたのは藍からの短い一言だった。
『今までありがとうございました』
「っ!」
これではまるで別れのような言葉ではないかと、架瑚は思う。
そしてすぐに命令を下す。
「っ急げ! すぐに見つけろ! 命令だ!」
「はっ!」
架瑚が先日藍に渡した首飾りは、藍に何かあった時用のお守りだ。もし架瑚がいない時に藍が襲われることを危惧して架瑚は藍に渡したのだ。
そしてそれには架瑚の魔力が籠っているため、万が一夕莉のように行方不明となっても居場所を特定することができた。
しかし藍はその首飾りをつけていない。つまり何も役に立たなかったこととなる。
首飾りを藍は故意に外したのか、それともたまたま忘れてしまったのか。
どちらにせよ、架瑚には知る術を思っていない。
焦りと恐怖が架瑚を襲う。またあの時のように己のせいで誰かが死んでしまうのではないかと思ったからだ。
するとそんな架瑚に新米の者が声をかけた。
「か、架瑚様。あの、お客様が……」
「今はそんなのどうでもいいっ、追い返せ!」
架瑚は藍がいないこの以上事態の中、客人が来たと言う新米に声を荒げた。
いつもの架瑚ならばもっと落ち着いて言えるはずが、つい感情を露わにしてしまった。
そんな架瑚の態度に、新米は震えながらも説得しようとする。
「で、ですが……」
それほどに重要な客なのだろうか。しつこい新米に架瑚は「くどい」言おうとした。
しかし言う前に架瑚は誰かに口物を覆われた。
「っ!?」
架瑚は慌てて体制を取り戻し、戦闘の構えをとる。架瑚はその人物の全身を捉え、すぐさま足蹴りを入れた。
だが、相手はそれを躱す。
かなりの強者であることに気づいた架瑚は、すかさず次の打撃の姿勢に入る。
そして自分の力の八割程度を拳に込め、相手に当てようとした時だった。
その者と目が合い、架瑚は慌てて後ろへ下がった。
「ほらほらぁ〜、新人さんいじめちゃダメだよ架瑚兄。みんな顔が怖い怖い。何があったのよ。もっと気楽に行こ?ね」
「おま、え……」
架瑚は、いや、その人物を除く全ての人が驚きを隠せなかった。事はもう取り返しがつかないほどに大きく動いている。
「ん? あぁ、そういうこと。美琴夕莉、ただいま帰りました〜!」
夕莉が帰ってきたことによって今、状況は劣勢から優勢へと逆転した。