SNSは、わたしの城だった。キサラで居る間は自由で、何でも言葉にすることが出来た。
 それなのに、あれから何も呟くことが出来なくなってしまった。ミルキーが、キサラを通り越してわたしの現実に介入してくる。それは疑いようもない事実だった。

 確かに、あの後上司も同僚も体裁が悪く退社して、わたしの願いは叶った。けれど、それを知った後ミルキーから、一枚の写真が送られてきたのだ。

 やっぱり暗くて、よく見えにくい写真。明度を弄って、ようやく誰かが地面に転んだように突っ伏しているシルエットだとわかる。
 顔は見えない、髪の長い女のようだ。そして、よく見ると画面の端に辛うじて映り込んだ、派手な色が目についた。
 あの日わたしに仕事を押し付けた、彼女の目立つネイルだ。

『キサラ@……あなたが、彼女を歩道橋から突き飛ばしたんですか?』
『ミルキー@わたしは、あなたの願いを叶えたいだけなんです』
「白々しい……傷害にストーカー、ただの犯罪者のくせに」

 調整してもほとんど暗くてわかりにくいものの、この写真を持って警察に行けば、彼女は逮捕されるだろうか。
 けれど、そうするとわたしの発言内容が知られてしまう。これだけ燃えているアカウントなのだ、わたしが教唆したと思われかねない。

「だめだ、ミルキーは決定的な発言もしてない……これじゃあ、わたしに変な疑いがかかって終わる」

 これ以上ミルキーに関わってはいけないと感じたわたしは、彼女をブロックすることにした。
 大丈夫、今までと同じ。都合の悪いものは、ブロックして消してしまえばいい。
 けれど不意に、アイコンの写真を撮るのに部屋の中まで侵入されている以上、下手に刺激してはまずいと思い当たる。
 今までのアンチとは違う、ブロックして終わりの相手ではない。現実に何をされるかわからない。

『ミルキー@わたしは、あなたの本当の願いを叶えたい。そのために生まれたんです』
「……なにこれ、本気でやばい奴じゃん!」

 これ以上はいけない。わたしはブロックするのではなく、キサラのアカウントを消すことを思い付く。
 確かに、愛着はある。キサラはもう一人のわたしだ。大切な居場所だ。アンチなんかに負けず守り抜いてきた、唯一の宝物だ。

 それでも、このままでは自由でいられたはずのキサラですら、現実のわたしのように恐れて言葉を発せられなくなってしまう。そんなの、嫌だった。

「ごめんね……キサラ」

 そしてわたしは、もう一人のわたしを自らの手で消すことを選んだ。
 わたしには『キサラ』だけだった。大切だからこそ、誰かに壊されるくらいなら、自ら終わらせる。
 わたしはアカウントの消し方を検索して、涙に震える手で、そのボタンを押した。

「……え?」

 わたしは、キサラとしてしかSNSをしていない。キサラがいれば、何だって呟けるのだから。
 だから普段意識したことのなかった、アカウントを切り替えるための一覧ボタン。そこから消すアカウントを選んで、個別に削除をすることができるシステムだ。

 なのに、ボタンを押し、当然のようにキサラだけが表示されるはずのその一覧画面には、数えきれないほどのたくさんのアカウントのアイコンが並んでいた。

「は……?」

 何か操作を間違えたかと、動揺しながらスクロールしていくと、そこに並んでいたのは、かつてキサラがブロックしたアンチ達のアイコンと名前。

 ブロックリストを開いてしまったのかと、一旦戻ってもう一度アカウント一覧を表示する。
 けれど、やはりそこには今までわたしを攻撃してきたたくさんのアカウントが並んでいた。

「どう、なってるの……?」

 ブロックを繰り返してきたせいで、フォローもフォロワーも居ない無名のアカウント。それなのに、度々粘着されては炎上してきたのが、そもそもおかしかったのだ。

「え、え……? なに、待って、じゃあ……今まで攻撃してきたアンチは、全部、わたし自身……?」

 無意識の内に、構って欲しさから自作自演でもしていたというのだろうか。それとも、誰かを攻撃する欲求でもあったのだろうか。それを知らず知らずの内に、たくさん作った捨てアカで行っていたのだろうか。ちゃんとプロフィールの設定や、呟きのあるアカウントもあったはずなのに。

 キサラで居る間は、別の自分になれた気がした。けれど、もしそれが、本当はキサラだけで足りなかったとしたなら。同じような存在を、たくさんたくさん作っていたのなら。

「……うそ、でしょ?」

 訳がわからない。今まで信じてきた世界が壊れてしまったような感覚に、呼吸が浅くなり指先が震える。
 そして、やがてわたしは、その数多のアカウントの中に見つけてしまった。
 何度も見た名前と、真っ暗なアイコン。

「……ミルキー……」

 恐る恐る、わたしはミルキーのアイコンをタップする。すると、今まで他者を見るように覗いていたアカウントが、投稿や編集ボタンのある自分の物として表示された。

「……はは、なにそれ」

 敵も味方も、はじめから居なかった。全部、わたしの作り出した幻だったのだ。
 ミルキーは、わたし。だからアイコンの写真も、わたしの部屋で何の問題もない。桃の酎ハイが好きなのを知っていても、おかしくない。

 言いたいことひとつ言えない鬱憤を、日々のストレスを、たくさんのアカウントを使い分けることで、無意識に発散していたのだ。

 脅威が存在しないと知り安心したと同時に、自分の精神状態が想像以上に危ういことに気付き、わたしは呆然としながら笑うしか出来ない。

「あれ、じゃあ、ミルキーの言ってたわたしの本当の願いって……?」
『ミルキー@知りたい?』
「……え?」

 突然操作した覚えのないメッセージが届き、ぎょっとする。思わず画面を凝視していると、次々とミルキーの呟きが投稿されていく。

『ミルキー@キルミー』
「……え、は……?」
『ミルキー@わたしは、何も言えない現実に耐えられなかった』
「ちょ……」
『ミルキー@さっき、キサラを自分で消す判断をしたのと一緒。わたしは、現実の如月唯を自らの手で終わりにしたかった』
「なに、なんで……!? わたし、こんなの打ち込んでない……!」
『ミルキー@だから、わたしが生まれたの。願い叶えるために、あなたが一歩踏み出せるように』
「……っ!」

 わたしは訳のわからない恐怖に耐えきれなくなり、衝動的にミルキーのアカウントを削除した。
 他のアンチの捨てアカウントも、次々削除していく。こんなの、知らない。わたしじゃない。
 最後にキサラのアカウントだけが残って、わたしの知る現実がそこにあることに安堵する。

 そうだ、これはきっと、何かの悪い夢。そう信じて、わたしはキサラのホームを開く。

『キサラ@消えたい』
『キサラ@もう嫌だ、逃げ出したい』
『キサラ@どこにも逃げ場なんてない』
『キサラ@わたしの言葉は、誰にも届かない』
「……え?」

 表示されたのは、打った覚えのないたくさんの弱音。キサラは、いつだってわたしが表立って言えない本心や不満を語ってくれた。
 わたしは、いつの間にこんなに追い詰められていたのだろう。
 自分の心に向き合いきれずに、こんなことになってしまったのか。

「……」

 現実味のない感覚の中、不意にチャイムが鳴って、心臓が思い切り跳ねた。わたしはそのまま、覚束ない足で立ち上がる。
 何か宅配でも頼んでいただろうか。それともセールスか勧誘だろうか。
 いつもなら対面が怖くて居留守を使うのに、今は現実を、誰か他の存在を確認したくて、インターホン越しに、わたしは震える声で応答する。

「はい……」
「あ。すみません、北警察署の者です。先日の夜について、少しお話をお伺いしたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」
「……け、警察!?」

 そこでようやく、はっとする。ミルキーが、無意識下のわたしだとしたなら。もしあの夜歩道橋から同僚を突き飛ばしたのが、残業終わりのわたしだったなら。
 そして他のアンチ達が、全部わたしなら。キサラにだけでなく、他にも誹謗中傷を繰り返していたのだとしたら。
 キサラが度々不満を口にしていた相手から、万が一名誉毀損で訴えられていたとしたなら。
 警察が訪ねて来た理由は、ひとつしかない。

「……い、嫌ぁああっ!」
「え、如月さん!? どうしました、如月さん!?」

 警察が、玄関を開けようとドアノブをガチャガチャと回す。その音が、わたしを捕まえるための手錠の音のよう。恐怖から、わたしは狭い室内を玄関と反対方向に逃げる。

『逃げ出したい』
『願い叶えるために、一歩踏み出せるように』

 そんなキサラとミルキーの言葉を思い出しながら、わたしは五階のベランダから、大きく一歩踏み出した。


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「……ねえ、聞いた? 如月さん、飛び降りだって。……最近なんか特にやばかったもんね。よく虚ろな目してたし、独り言とかもさ……」
「ねー、コンビニとかでも挙動不審過ぎて、近所の人が心配して通報したらしいけど……何か思い詰めてたのかなぁ……」
「こうして話せる友達とか、居なさそうだったもんね。昼休みとかスマホばっかり見てたもん……。あんなにずっと、何やってたんだろう?」
「さあ? でもスマホ弄ってる時は何かころころ表情変わって楽しそうだったし、あの子なりの心の拠り所があったのかもね」