時は大正――。
 進む洋風化に、デパートの建設やメディアの発展、女性の社会進出など新しい文化が花開き、人々の生活が目まぐるしく変化するこの時代。

 秋も深まり、帝都にも冬が近付くとある日。
 樋上(ひのうえ)邸の『奥様用に』と宛がわれた部屋にて。十六歳になった小春は朝からずっと、緊張と不安でソワソワしていた。
「ほ、本当にこれで大丈夫……? 私の格好はおかしくないかな、千津さん」
「まったくおかしくないです! お綺麗ですよ、小春様!」

 おさげ髪にエプロンを身につけた女中の千津(ちづ)が、ソバカス顔を興奮で赤らめ、拳を握って断言する。この邸で小春と歳が近く一番仲がいい相手だが、千津は器用に世辞を述べる性格でもない。
 小春は「ありがとう、それならいいんだけど……」と、改めて自分の格好を見直す。千津にも手伝ってもらって、今の小春は精一杯のおめかしをしていた。

 頭は半結びの下げ髪に、菖蒲色のリボンをつけて品よく纏めている。
 正絹の着物は、明るい黄色地。そこに見事な吹き寄せ文様が描かれていた。紅葉や松葉、松毬など様々な秋の植物が風に吹かれ、寄せ集まった図を『吹き寄せ文様』といい、風情を感じさせる意匠だ。その上に全体を引き締めるよう、藍色の袋帯を合わせた。

見様によっては、良家のお嬢様らしく見えなくもないだろう。
とにかく第一印象を良くしたい小春としては、見えてくれると有難い。

(ついに今日は、高良(たから)さんのお父様にお会いするんだもの!)

 小春はもともとこの樋上邸に、珠(たま)小路(こうじ)子爵家のご令嬢・珠小路明子(あきこ)の身代わりとして嫁いで来た。
 料亭から追い出され、雪の中で倒れていた小春を救ってくれたのが珠小路家のご当主で、さらに彼は小春を女中として雇ってくれた。ご当主の妹である明子も情の深い人柄で、小春は感謝してもしきれない恩がある。

 だから病弱な明子を守るため、恐ろしいと評判の〝鬼の若様〟のもとへ、明子のフリをして乗り込んだわけだ。
後々、その若様こと樋上高良が、かつて小春が『おはじきさん』と呼んでいた初恋の相手だとわかり……紆余曲折の上、ふたりは結ばれて今がある。

 しかし正式な伴侶にはなれておらず、それは高良父が原因だった。彼から結婚のお許しがまだ出ていないのだ。

 息子と華族令嬢の政略結婚を目論んでいた高良父は、高良と小春の結婚に頑なに反対している。身代わり云々の経緯は伏せていても、小春が天涯孤独の花街育ちな事実は変わらないので、身分差が障害になっていた。
 それでもやっと取り付けたのが、本日の高良父との顔合わせだ。
 料亭の下働き時代、太客が貸し切ったご両家揃い踏みの場に、料理の膳を運んだ時より失敗できない。なにせ、顔合わせをする側なのだ。

「ううっ……緊張してきちゃった……」
「小春様なら大丈夫ですって! 高良様もきっとそうおっしゃいますよ!」

 千津が力説したところで、異国情緒あふれる重厚な扉がノックされる。
 神田にあるこの樋上邸は、二階建ての洋館と和館が組み合わさっており、小春たちが住んでいるのは洋館だ。外観は白壁に建物の骨組みが剥き出しのハーフティンバー様式で、内装は豪奢なルネサンス風である。

 小春が「ど、どうぞお入りください」と声を掛けると、ゆっくりと扉が開かれた。

「もう仕度は済んだのか?」
「は、はい! お待たせして申し訳ありません!」

 現れたのは、噂をすれば高良だった。

 六尺近くある高身長で、しなやかに鍛えられた体躯には、おはじきさんと呼んでいた頃の線の細さはない。黒檀色のサラリとした髪に、隙のない整った相貌。とりわけ魅力的な切れ長の瞳は、小春を前にすると柔らかに緩む。

「その着物は、吟味を重ねて選んで正解だった。品もよくて、小春の愛らしさが引き立つな」
「あ、愛らしっ……⁉」
「事実だ」

 自信満々に肯定されると、小春も押し黙るしかない。

 チラッと頬を染めつつ高良の姿を伺うと、こちらも今日のために仕立てた着物を 着ていた。濃紺の紬に、金茶の角帯。その上に深緑の羽織を合わせており、隙のない完璧な佇まいながらも、どこか遊び心を感じさせる。
 羽織紐は中心の玉に、目を惹く鬼灯の実が描かれていた。小春がその実を刺繡した手帛を送ってから、高良は身に付けるものによく取り入れている。

「はあ……おふたりが並ぶ姿、本当にお似合いのご夫婦ですぅ」

後ろでは千津が、両頬に手を添えて熱い溜め息を吐いた。

(お似合いの夫婦……今から高良さんのお父様にも認められて、正式にそうなれたらいいな)

気持ちを新たにする小春に、高良が「そろそろ出るとするか」と手を差し出す。小春は深呼吸をしてその手を取った。

「小春様、高良様、いってらっしゃいませ!」

深々と一礼する千津に見送られ、ふたりは頷き合って手を繋いだまま、樋上邸を後にした。