「め、女神様に会いたいのです! 何とか会う方法はありませんか?」
オディールはすがるように叫んだ。
「女神様にですか? うーん……。女神様の目の色は何色か……ご存じ?」
突然の奇妙な侍祭の質問に、オディールは困惑しながらも必死に記憶を辿った。
「確か……黄色っぽい……あれは何色っていうのかな?」
オディールはレヴィアに振る。
「琥珀色じゃな。なぜ目の色なんか聞くんじゃ?」
レヴィアは侍祭をいぶかしげに見つめた。
「ふふっ、あなた方は女神様の縁者の方なんですね。ならご存じだと思いますが、女神様に連絡を取っても基本反応はありません。それこそ全宇宙の無数の方々が女神様にお話を聞いてもらいたがっていますからね」
女神の事に詳しい侍祭。教皇なんかよりはるかに頼もしい存在の登場に色めき立ったオディールは、駆け寄り手を取った。
「そ、それは分かりますが、どうしてもすぐに会わないとならないんです」
「ごめんなさい、私でもそう簡単には会えないのですよ」
「いやでも、会う方法、絶対何かありますよね?」
必死に食らいついてくるオディールに侍祭は圧倒され、苦々しい笑みを浮かべる。
「うーん、次元回廊で神殿とはつながっているので、理屈としてはそこを通るという手はありますが……。私でも危険で難しいのでとてもお勧めはできません」
侍祭は申し訳なさそうに首を振る。
「えっ! それ! それ、やります! 教えて下さい!」
「あらら、言わなきゃよかったですね……。次元回廊はこの世の残渣の吹き溜まり。形も定まらねば、魑魅魍魎の住処にもなる混沌の世界。多分……、死にますよ?」
侍祭は諭すようにじっとオディールを見つめた。
「神殿へ行ける可能性はゼロではないですよね?」
「それはまぁ、奇跡的に幸運が重なれば……」
侍祭は渋い顔をして目をそらす。
「命とは誰かのために燃やすものなんです」
オディールは侍祭の手をギュッと握りしめた。
え?
「ただ生きるだけでは人生何の意味もありません。前世では自分はだらだらと適当に生きて、無駄に命を失いました。もう何にも残らない、それこそゴミのような人生でした……。だから今こそ、悔いなく、まっすぐに全力でこの命燃やし尽くすんです。教えて下さい!」
オディールは決意にみなぎる目で侍祭を貫く。それは、ミラーナを救える可能性があるなら命など惜しくないという圧倒的な覚悟だった。
う、うーん……。
侍祭は困った顔をしながら思わず後ずさり。
「お願いします!」
畳みかけるオディール。
侍祭はしばらく何かを考えると、うなずき、慈愛に満ちた笑顔を見せる。
「いいでしょう、ついてきなさい」
侍祭はすたすたと歩き始めた。
やったぁ!
オディールは満面の笑みでガッツポーズを見せる。
ついに得た女神様への手がかり。首の皮一枚でつながっているような状態だったが、絶対にやり遂げて見せると、オディールはキュッと口を結んだ。
◇
侍祭は月明かりが美しく照らす中庭を静かに歩く。
足音がしないことを不思議に思ったオディールは侍祭の足元を見て驚いた。その足は地面からわずかに浮かび、歩くふりをしながら静かに空中を飛んでいたのだ。
「天使じゃな」
レヴィアは耳元でそっとつぶやいた。
「天使?」
「女神様の部下じゃな。ワシら眷属とは違ってお仕事をやっとるんじゃ。スキルの付与なども彼女の仕事じゃろう。こんな所におったのか」
教皇が生臭で、末端の侍祭が実は本当の聖職者だったのだ。そんな教会の不条理な構造にオディールは疑問を感じ、肩をすくめた。
◇
「こちらが特異点、女神様の神殿の空間に繋がる次元回廊の入り口です」
侍祭は精緻な彫刻に彩られた祭壇の前にある井戸を指さした。
「えっ!? この中?」
オディールは驚いて中をのぞいてみる。
井戸の中は底の方に聖水がたまっており、黄金色に光る微粒子がフワフワと美しく舞っていた。
「こ、この中に行けば次元回廊経由で神殿に……行ける?」
「井戸に降りるだけでは駄目です。この底で聖水に浸かりながら深層意識の中に身をゆだねるのです」
「し、深層意識……?」
オディールはいきなり難しいことを言われて困惑した顔でレヴィアを見た。
「心であり、魂の事じゃ。瞑想しろって事じゃな」
「えっ!? 瞑想なんてやったことないよ……」
泣きそうな顔をするオディール。
「しょうがない奴じゃな。深呼吸して心を落ち着けるだけじゃ。四秒息を吸って、六秒止めて、八秒かけて息を吐く。やってみろ」
「わ、分かったよ……」
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
「うまいうまい。その調子じゃ」
しかし、オディールは次々と湧いてくる雑念に流される。
『急がないとミラーナが……』『ケンカなんかしちゃって、謝りたい……』
オディールは懸命に頭を振って、迫りくる雑念を払いのけようと試みるものの、それでもなお次から次へと押し寄せてくる。
「ダメだ! 上手くいかないよぉ……」
ブンブンと首を振ったオディールは、今にも泣きだしそうな顔でレヴィアに目を向けた。
「雑念湧いたら消そうとせずに『そういう考えもあるじゃろ』と、受け止めてそっと送り出してあげるんじゃ。あせらんでええぞ」
「そ、そうなんだね……」
オディールはもう一度姿勢を正すと深呼吸をやり直す。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
やがて心地よい軽やかさに包まれ、意識が深いところへと落ちていくのを感じた。
すると、いままで感じなかったかすかな虫の音や、風に揺れるこずえの動きなどが鮮やかに感じられるようになってくる。
オディールは生まれて初めて世界を全身で感じ、その驚くべき豊かさに心を奪われた。
ぼんやりとした頭、うつろな瞳で井戸の奥を覗き込むオディール。そこには前回見えなかった幻想的な光の渦が揺らめいていた。
「ゲートが見えていたら大丈夫です。見えますか?」
静かにうなずいたオディールは、さっそくロープを握り、井戸の縁に足をかける。
その時だった。ドヤドヤと多くの人が駆けてくる足音が響いてきた。
「いたぞーー! あそこだ!」
警備兵たちが迫ってくる。
「ここは我に任せて早く行くんじゃ!」
レヴィアがそう言った瞬間、爆発音が響き渡り、彼女は壮大なドラゴンへと姿を変えた。
ギュァァァァ!
腹に響く恐ろしい咆哮が周囲を完全に威圧する。
「あらあら、これは頼もしいですねぇ」
天使は優しく微笑むと、オディールの手を優しく握り、碧い瞳を深く見入る。
「この先がどこに繋がっているかは毎回変わるのでわかりません。ですが、神殿とは同じ空間なので必ず行く道はあります。……。最後に一ついいことを教えましょう。この世界は情報でできています。もし、追い込まれたらこれを思い出してください」
オディールは夢見心地でゆっくりとうなずくと、ロープを伝ってスルスルと器用に井戸の底へと降りていく。
ドラゴンと警備兵の激しい戦いの音が空気を震わせる中、オディールは井戸の奥深くに身を沈め、この世界に別れを告げた。
◇
うぎゃっ!
オディールはゴツゴツした岩の上に激しく落ち、思わず悲鳴をあげた。
いてててて……。
お尻をさすりつつ、周囲を探ると、陰鬱で湿っぽい洞窟のようである。
岩肌の凹凸の間から、幻想的な青い光を放つキノコがいたるところに生い茂り、洞窟をぼんやりと照らしていた。
「えっ? 洞窟……? こんなところに神殿なんてあるのかなぁ……」
洞窟はくねくねとカーブしており、全貌は分からない。だが、音の反響具合からするとどこまでも続いているようだった。
「くぅ……。何だよここは……。急がないとなのに!」
ミラーナのことが頭に浮かび、焦りは募るが、どちらへ行ったらいいかすら分からない。オディールはため息をつくと、意を決して緩やかながら上りの方へと足を進めた。
洞窟は広くなったり狭くなったりしながら、時々分岐を繰り返し、どこまでも続いて行く。出口どころか神殿に関するものも何もなくただ岩肌が続くばかりだった。その終わりのない迷路にオディールは泣きそうになってくる。もしかしたら同じところをクルクルと回っているだけかもしれないのだ。そうであれば自分もミラーナも破滅である。
「まずい、まずいぞ……。神殿なんか本当にあるの……?」
オディールは絶望に囚われそうになりながら、ハァハァと息を荒く切らし、ただひたすらに前を目指した。
と、その時、かすかにベンベンという楽器のような音が耳に届く。
『え……? 誰か……、いる?』
オディールは期待と不安が交差する中、音の方向へ駆け出した。
響いてくる音は弦楽器を思わせる優美な調べで、やがて憂いを帯びた歌声が聞こえてくる。ポップスのような明るさは微塵もない、哀愁に満ちた旋律だった。
そのうちに何を歌っているのかが聞こえてきた。
『祇園精舎の、鐘のこえぇぇえぇぇ……』
少し調子はずれた、中年男のだみ声が平家物語の冒頭を歌っている。
は……?
オディールは思わず足を止めた。
異世界の井戸に潜ったら、聞こえてきたのは鎌倉時代の琵琶法師の歌だったのである。そんなものがなぜこんなところで歌われているのだろうか?
ここでオディールは嫌なことに気が付いた。日本の歌を選んでいるのは、自分に向けた意図があることを示している。そして、平家物語は滅亡の物語であり、自分の破滅を皮肉るメッセージが隠されていた。なんという意地悪な歓迎だろうか。オディールはギリッと奥歯を鳴らした。
だが、いかに不愉快な人物であろうと、手掛かりが見つからない今、会わずにはいられない。
「上等じゃないか!」
オディールはパンパンと自分の頬を張り、気合を入れなおすと歌声の方へと駆け出した。
◇
しばらく行くと中年男の姿が見えてきた。
中世ヨーロッパ風の革のベストに白いシャツを着た小太りの男は、手に琵琶を持って気持ちよさそうに調子はずれの歌を歌っている。
男はオディールを見るなり、猥褻な笑みを浮かべた。
「おやおや結城君、遅かったじゃないか。くふふふ……」
オディールはキュッと口を結ぶ。やはりこの男は自分だと分かってここで待っていたのだ。
「あなたは誰ですか? 女神様の神殿へ行く方法を教えてもらえませんか?」
オディールは感情を抑えながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「くっくっく……。自分の間抜けさを女神にフォローしてもらおうって? 随分と自分勝手だなぁ、おい!」
男はつばを飛ばしながら煽る。
「そうかもしれないですね。急いでいるんです。教えてくれませんか?」
オディールは相手のペースに飲まれないように淡々と返す。この手の対応は前世のサラリーマン時代のクレーム対応で嫌というほど学んであったのだ。
「そう警戒するな。取って食おうとしとるわけじゃない。ただ、今の君では教えてもたどり着けんからなぁ。ぐふふふ……」
男はニヤッと笑い、いやらしい目でオディールの身体を舐めるように見回した。
「そうですか? 試したいんですがいいですか?」
オディールは身をよじって腕で胸元を隠し、不機嫌さを隠さずに男をにらんだ。
男はペロリと唇をなめると楽しそうに言った。
「よし! こうしよう。これからクイズを出すぞ。答えられたら教えてやる。ぐふぐふっ」
「クイズ……?」
「君がたどり着けるかどうかが分かるクイズさ。どう、このホスピタリティ? くふふふ……」
下品な笑みを浮かべる男。
しかし、どんなに気持ち悪い奴でも、今、オディールに選択肢はなかった。
「わ、わかりました……」
「それでは行くぞ! 迷える子羊、結城くん特別クイーーズ! 『月夜の晩に雲が出て、誰も月を見てない状態になりました。月はどうなる?』」
つばを飛ばしながら、楽しそうに大声で喚くと、男はニヤニヤしながらオディールの瞳をのぞきこむ。
は……?
オディールは困惑する。月は壮大な衛星だ。見ている人がいるかどうかと月の状態には何の関係もない。『変わらない』がどう考えても正解だ。
しかし……。
オディールは考え込む。そんな分かり切ったことをクイズにするわけがない。であれば、月は違う状態になる……のだろうが、一体どうなるかなんて見当もつかない。
こんなバカげた哲学的な質問に正解などあるのだろうか? 単に自分をからかって楽しんでいるのではないか? オディールはギロリと男をにらんだ。
「くっくっく……。だから君には神殿にはたどり着けんのだよ」
男は愉快そうに笑い、オディールはキュッと口を結んだ。
何としてでも女神さまのところへたどり着いてミラーナを救わねばならないというのに、この体たらくである。
『考えろ……、考えるしかない……』
オディールは目をギュッとつぶって必死に頭を働かせる。
この時、天使に言われたことをふと思い出した。
『この世界は情報でできています』
オディールはこの哲学的で不可解な言葉に、クイズと同じ匂いを嗅ぎ取った。
『情報』とは一体何なのだろう? この世界はモノがあって、エネルギーがあって、それらの組み合わせで情報を表していると思っていたが、天使は『それは逆だ』と言いたいのではないだろうか?
情報がモノやエネルギーを表現している……。オディールはどういうことか混乱しかけたが、ヴァーチャルゲームの世界がまさにその状態であることに気が付いた。
3Dがグリグリ動くコンピューターゲーム。最新のものでは実際の景色と見まごうような精緻な世界を構成していて、思わず感嘆のため息をついたことを思い出した。
天使が言いたかったことは、この世界はコンピューターゲームのような仮想世界だということなのかもしれない。それが本当かどうか確かめようもないが、もしそうだとしたらクイズの答えは何になる?
「くふふふ……。どうした? 降参か?」
男は嬉しそうに笑う。
「ちょっと待って! もうすぐでわかりそうなんだから!」
オディールはいら立ちを隠さずに叫ぶ。
クイズの質問は月には関係なく、『コンピューターゲームを作っていて、見えないところにモノがある時、それは描画しますか?』という問題なのではないだろうか? だとしたら答えは簡単だ。そんなのは描画する意味もないので表示されない、それが答えになる。
つまり、月を見てる人が誰もいなければ月を描く意味もない。月は消えているはずだ。
そんな馬鹿な……。
あまりにも荒唐無稽な結論にオディールは頭を抱える。
とは言え、天使の話を前提とするならこれが答えだろう。他に良さそうな答えも思い浮かばないのだ。これで行くしかない。
オディールは覚悟を決めるとキッと男をにらむ。
「答えが分かったわ。月は消えてるんでしょ?」
「ほほう……。これは驚いた。どうしてわかった?」
男は目を丸くしてオディールを見る。
どうやら正解だったらしい。しかし、それは逆にこの世界がリアルではないということを意味している。それはそれでオディールの心に不安を呼び起こす。
「この世界は情報でできてるんでしょ? で、教えてくれるんですよね?」
「うむ、まぁ、約束だからな。この先を道なりに行くだけだよ。だが、それでもまだ君には神殿へは入れない。どうだね、ワシの仲間にならんか? くふふふ……」
男はいやらしく笑う。
「は? 結構です。僕は神殿へ向かうのでこれで……」
「あの娘を治してやるって言ってもか?」
えっ!?
オディールは驚いて男のドヤ顔を見つめた。
「『この世界は情報でできてる』ってことの意味をまだ君は理解しとらんようだな。【ズィールヘッグの血】という化学物質が実際に存在する訳じゃない。ステータスが毒状態になっとるだけだ。これを解除してやるだけでいい。分かるか? ウヒヒヒ……」
オディールはなぜそんなゲームみたいな説明になるのか頭が追い付かず、ポカンと口を開けたまま困惑する。
そんなオディールを見て、男はにやけながら言った。
「結城くん、君は高校で物理や化学を習っただろう? 君の【お天気】スキルを科学で説明してみたまえ。ん?」
「か、科学!?」
オディールは唐突な科学の話に面食らった。祭詞を唱えるだけで雨が降り、風が吹く、そんなことは科学的にはあり得ないのだ。それを説明しろとは一体どういうつもりなのか? オディールは無理難題に圧倒され、力なく首を振った。
男はドヤ顔で話し始める。
「結城くん、この世は科学だよ。科学で説明できないことなどない。魔法なんてものは本来ある訳ないのだ」
その通りである。オディールも、異世界転生して最初のうちはなぜ魔法なんてあるのかと、困惑していたことを思い出す。
「いやでも……、魔法はみんな使ってるから……」
「思考停止かよ! やれやれ、しょうがないな。スキルの科学的説明なんて簡単な話さ。この世界は情報でできている。祭詞というコマンドに反応して雨になるコードを走らせればいい。行数にしてたった数行だ。ワシでもすぐ書ける」
当たり前のように『プログラミングコードで雨を降らせる』と言う男に、オディールは言葉を失う。ここが仮想現実空間なら、確かにそうだろう。この世界がコンピューター上で作られたモノなら科学的合理性を持ちながら何でもアリなのだ。だがそうなると、この自分の身体自体もミラーナもゲームのキャラクター同然ということになってしまう。
オディールは自分の両手を見つめた。微細なしわや指紋、そしてその下の複雑な血管が指を動かすたびに躍動する。これらすべてがコンピューターの合成像だとはとても思えない。
そんなオディールをニヤニヤしながら眺めていた男は、思いがけないことを言う。
「この世界は海王星の中にあるコンピューターサーバ群でリアルタイムに運用されている。仲間になるなら実際に見せてやろう」
えっ……?
オディールは言葉に詰まる。地球上に広がる海、山、街の広大な世界、そこに暮らす膨大な数の人間を創出するコンピューターサーバーを実際に見せてくれるというのだ。それは圧倒的なスケールの、まるでSFの世界から抜け出したような存在に違いない。
本当にそれが実在し、彼がそれにアクセスできるならば、ミラーナを癒すことも現実味を帯びてくる。
仮想現実であろうと何であろうと、今はミラーナを救うことが何よりも優先である。オディールはつい男の提案に惹かれてしまう。
「仲間になったら……、何をするんですか?」
オディールは不安に満ちた声で尋ねた。
「世界征服をしろ。全ての国を打倒し、大陸の全人類を統べるのだ。ワシは表舞台には出れんからな」
男はオディールを指さすと、とんでもない事を言い出す。
そもそも公にはできないというのはどういう事だろうか? 男の立場にきな臭さを感じる。
「表舞台に出られない……?」
「そりゃそうさ。ワシはハッカー。システム管理者側からしたら異分子だからな」
男は肩をすくめて自虐的に言った。
オディールはこの男の目論みが読めてきた。要は女神公認のチート持ちの自分を傀儡にして、影から操って好き勝手やりたいのだ。
「それは……。女神様の敵に……なるって事ですよね?」
「女神? あいつは横暴な独裁者だ! 元から敵なんだよ! あの娘を治したいんだろ!?」
突如、男は怒りだす。やはりそこが男の痛いところらしい。女神と男の関係はよく分からないが、女神の恩寵を受けたオディールには女神を裏切ることはできない。
オディールはふぅとため息をつくと、毅然とした態度で返す。
「もちろん治したいですが、やっぱり女神様に頼みに行きます」
ミラーナの治療を優先したいと思う部分はあるが、本当に治してくれるかも分からないのだ。
「いうこと聞かん奴だな……。愚かな……。まぁいい。それなら別の使い方がある……。ぐぉぉぉぉ!」
男は突如悲痛なうめきをあげ始めると、下半身が見る間に膨らみ、ズボンが弾けるように吹き飛んだ。
ぬはぁぁぁ!
変容を続ける中年男は、何か巨大な恐ろしい存在へと姿を変えていく。太くて黒々とした棘の生えた脚が次々と生えてきて、洞窟の岩肌を砕きながら成長し、その姿を完成させていく。
ひっ、ひぃぃぃ!
その恐ろしい異形にオディールは圧倒され、パニックに陥って逃げ出した。
しかし、姿を変え終えた男は、その大きな体格に反して驚くほどの速さを見せる。岩肌のでっぱりを次々と粉砕しながら、重機のような重厚な音を立て、オディールに猛然と迫った。
「どこへ行こうというのかね? ウヒヒヒヒ」
それは巨大な蜘蛛だった。男は上半身だけ人間のままに、下半身は巨大な蜘蛛へと変身したのだった。
いやぁぁぁぁ!
必死に逃げるオディールだったが、凸凹だらけの洞窟ではうまく走れない。どんどん迫る蜘蛛男……。
きゃぁ!
ついにくぼみに足をとられてオディールは無様に転がってしまった。
「ひっひっひ。つーかまえた!」
あっという間に追いつかれ、触肢に絡め取られてしまう。
「ぐわぁぁぁ! 止めろ! 何するんだよ!」
必死にもがくオディール。しかし、凄まじい力でつかまれ、どうすることもできなかった。
「何するって、お前を喰うんだよ。お前を喰って楽しんだ後、お前そっくりの人形を送り込んでやるのさ」
男はカメレオンのように長い舌を伸ばすと、恐怖に歪むオディールのほほをペロリと舐めた。
ひぃぃぃ!
べっちょりと臭い唾液がつき、オディールは目を白黒させながら吐き気に耐える。
「あはあはっ! 小娘の恐怖……実に美味い、美味いぞぉ! ヒャッヒャッヒャ!」
「この化け物! 止めろ! 止めろって言ってんだろ!」
オディールは渾身の力で脚を蹴ってみたが、それは電柱を蹴っているかのようで自分が痛いだけだった。
くぅぅぅ……。
オディールはポロポロと涙をこぼす。
「くははは、足掻け足掻け! やはり人間喰うならお前くらいの娘が一番だよな。ぐふふふ」
男はまるで食材を見極めるように、オディールのしなやかで張りのある頬をつまんだ。
目をギュッとつぶって耐えるものの、絶望で心がえぐられるオディール。
【お天気】スキルも使えないこんな洞窟内ではもはや万事休すだった。
ミラーナを助けることもできずにこんなところで喰われてしまう。オディールは無念で胸が張り裂けそうになる。
「くふふふ。いいね、いいよー! その絶望、まさに最高の調味料!」
男はカパッと大きな口を開け、巨大な牙を光らせながらオディールの綺麗な白い首筋に迫る。
ひぃぃぃぃ!
オディールは必死に腕をのばし、脂ぎって薄くなった男の頭を全力で押さえた。
「ぐははは! 無駄な抵抗、いいね、いいよー!」
しかし、男は信じられないような力で首筋に近づいてくる。
くぅぅぅ……。
オディールは破れかぶれになり、男の頭に多量の魔力を流しいれた。
「くははは、何やっとるんだ? 気持ちいいだけだぞ?」
男は黄金色の光に包まれながらにやける。
しかし、オディールは下腹部にある魔力の湧き出すところに渾身の力を込め、ありったけの無限の魔力を放出した。
「ぐっ? ぐっ、ぐおっ! な、なんじゃ!? や、止めろぉ!」
男は予期せぬ大量の魔力に翻弄され、動揺を隠せない。どうやら魔力も膨大ならダメージに繋がるようだ。
オディールは自らも黄金色の光で輝きながら、一筋の光明に命運を賭け、全精力を傾けて魔力を全力放出する。
「行っけーー! ぐぉぉぉぉぉぉ!」
身体中から黄金色の光の粒子を吹きだしながら膨張し始める男。
「や、止めろぉぉぉ! ぐはぁぁぁぁ!」
男が断末魔の叫びをあげた刹那、煌めく閃光が放たれ、壮大な爆発が巻き起こった。
爆炎は洞窟内一杯に広がり、激しいエネルギーの奔流が蜘蛛の身体をバラバラにし、吹き飛ばす。
きゃぁっ!
悲痛な叫びと共に洞窟へと弾き飛ばされ、もんどりうってころがるオディール。
辺りにははじけ飛び、バラバラになった巨大蜘蛛の脚が洞窟内に転がって騒がしい音を立てている。
自身も魔力を放っていたためか、爆炎の影響は深刻ではなかった。それでも金髪の毛先はチリチリと焼け、床にたたきつけられた衝撃にオディールはしばらく息もできず身もだえていた。
くぅぅぅ……、いててて……。
オディールはよろよろと身体を起こす。黄色い蜘蛛の体液を全身に浴び、臭くてたまらない。
顔をぬぐいながらあたりを見まわしたが男の気配はもはやなく、何とか危機は脱したようだった。
「勘弁してよもぅ……」
オディールが立ち上がろうとしたその時、ズキッと足首に鋭い痛みが走った。
うっ!
思わずうずくまるオディール。足首をねんざしてしまったらしい。その痛みはジンジンと骨の髄まで穿ち、とても歩くどころではなかった。
くぅぅぅ……。
痛みで涙がポロリとこぼれてくる。
こんな足では神殿まで行けないかもしれない。たどり着けねばミラーナも自分も破滅である。
そっと足首をさすってみるが、痛みはひどく徐々に腫れてきて、もしかしたら骨をやってしまってるかもしれない。
うっ……ううっ……。
オディールは押し寄せる悲しみに耐えきれず、涙の奔流を止めることができなくなる。次々と押し寄せる試練の波に、心はもう疲弊しきっていつ折れてもおかしくないまでに追い込まれていた。
「うわぁぁん! ミラーナぁぁぁ……」
辛い時、悲しい時、いつもミラーナが支えてくれた。ミラーナの甘く優しい匂いに包まれ、何とか乗り越えることができていたのだ。しかし、今ミラーナは生死の境をさまよい、自分は身動きもとれない。
悲しみの波が堰を切って押し寄せ、オディールは悲痛な叫びを上げた。
「誰か……誰か助けてよぉぉ!」
一体自分が何をしたというのだろうか? 追放され、大好きな女の子と一緒に街を作った。それのどこにこんな仕打ちを受ける筋合いがあるのか?
オディールは全てが嫌になる。
父親は人殺しだし、教皇は生臭坊主だし、策を見つけても、訳わからない洞窟を歩かされ、化け物の蜘蛛に喰われかける。一体どうなっているのか?
オディールは赤ん坊のように泣き喚く。
洞窟にはオディールの痛みに満ちた悲しみがいつまでもこだましていた。
パサッ……。
悲嘆にくれるオディールの手の上にドライフラワーの飾り物が落ちてきた。それはミラーナに教えてもらいながら編んだ花冠を乾かしたものであり、リュックに括り付けておいたのが外れたのだろう。
ミラーナ……。
オディールはそれを拾い上げ、二人で笑いあったあの頃を思い出して、ポロポロとさらにこぼした。
すると、ボウっとドライフラワーはほのかに黄金の輝きを放ち始める。
えっ……?
いぶかしげにドライフラワーを見つめているとどこからか懐かしい甘く優しい匂いが鼻をかすめる。それは忘れもしないミラーナの匂いだった。
ミ、ミラーナ!?
オディールは慌てて辺りを見回す。すると、淡く輝きを放つ人影が薄暗がりの洞窟の中をスーッと通り過ぎ、奥の方へ消えていった。
人は死ぬときに親しかった人の前に現れるという話を聞いたことがある。
ミ、ミラーナ!!
オディールは真っ青になって慌てて立ち上がり、足首の激痛に思わず転がった。
「ミ、ミラーナ! ダメ! 行かないで!!」
オディールは這って必死に人影を追いかける。ひざをすりむき、ひじをしたたかに打ちつけながらもオディールはただ、ミラーナの影を追う。
「置いて行かないでよぉ! ミラーナぁぁ!」
しかし、どんなに頑張ってもう薄暗がりが続くだけだった。
ミ、ミラーナぁぁぁぁ!
オディールは絶叫し、その場に泣き崩れた。
自分の無力さ、浅はかさに耐えられなくなりオディールはこぶしでガンガンと冷たい岩肌を叩く。
ぐあぁぁぁ!
無能な自分が愛するミラーナを死へと追いやっている。その事実が鋭い刃物のようにオディールの心をえぐった。
くぅ……。
しばらく動けなくなっていたオディールは、バッと顔を上げ、ギラっと目を光らせると、手近にあった蜘蛛の脚を取った。巨大なカニの足のようなそれをベキベキとはがし、折り、杖へと加工していく。
「まだ間に合う! 女神様は死んだ後の僕を助けたんだから!」
オディールは決意に満ちた目で杖をついて立ち上がる。もはや猶予はない。命尽き果てるまでベストを尽くし続けると誓い、オディールは歩き始めたのだった。
◇
爆発でぐちゃぐちゃになった洞窟だったが、奥へはなんとか行けそうに見える。
オディールはねんざの足を引きずり、ボロボロになった身体に鞭を打ちながら、洞窟の奥を目指す。
「よいしょ、よいしょ……」
もう残された時間はほとんどないのだろう。とっくに限界を超えたオディールだったがただ、ミラーナに対する想いだけが彼女を動かしていた。
◇
蜘蛛の男に言われた通り道なりに進むと、やがて広い空洞に出た。そこはまるで鍾乳洞のようで、下の方には聖水でできた地底湖が広がっていた。
キラキラと黄金色の光の微粒子を放つ地底湖。その深い水底には細い洞窟があり、その先から鮮やかな碧い光が吹きだしていた。
「うわぁ……、綺麗だ……」
洞窟の先で思わず見つけた碧く輝く地底湖。だが、空洞の周りは黒い岩肌が続き、とても神殿といえるようなものではなかった。
「も、もしかしてここで行き止まり?」
オディールは辺りを見回すがどこにも通路らしきものは見えない。蜘蛛男に一杯食わされたのかもしれないと不安で顔が曇る。
よろよろと杖を突きながら地底湖まで降りてくると、オディールはそっと腫れあがっている足首を聖水へと漬けた。
はぁぁぁぁ……。
じんわりと温かいエネルギーが患部を少しずつ癒していく。それは相当に上質な聖水だった。
オディールはそっと聖水を両手ですくうとジャバジャバと顔を洗う。蜘蛛男の臭い体液で汚れた所がずっと気になっていたのだ。
「あー、さっぱりした……」
その時だった、パンパンと誰かがオディールの肩を叩く。
ヒェッ!
いきなりのことに驚いたオディールは地底湖の方へ跳び上がり、そのまま足を滑らせて沈んでしまう。
うひゃぁ!
手足をばたつかせて地底湖でジャバジャバと水しぶきを上げるオディール。
「はははは、あなた何やってんの?」
金の縁取りのある白い法衣を身にまとった少女は楽しそうに笑う。それはヘーゼル色の瞳に、透き通るような白い肌の人間離れした美しい少女だった。彼女は楽しそうに銀髪を揺らしながらひとしきり笑うと、年季の入った木製の杖をオディールに向け、くるっと回した。
黄金色の光の筋がいくつか優美な曲線を描きながらオディールの周りを取り囲み、やがてオディールは宙に持ちあげられていく。
「あ、ありがとうございます……」
びしょぬれのオディールは、空中でバツの悪そうな顔をしながら頭を下げた。
「ここは天然の原子炉。長く入ってると危ないわ」
「へっ!? じゃ、この碧い輝きは……」
「そう、チェレンコフ光よ。今日も元気に核反応してるわ」
オディールは命を奪いかねないその怪しくも美しい魔の光に、ゾクッと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
少女は岸辺の岩の上にオディールを降ろすと、杖をオディールに向けたまま何かをつぶやく。直後、バシュッ! という衝撃音と共に、びしょぬれになっていたオディールから水分が吹き飛び、あっという間に乾いてしまった。
その見たこともない見事な魔法の技にオディールは驚嘆し、綺麗になった自分のワンピースをつまんで見た。
「綺麗になってよかったわね。こんなところで何してるの?」
少女はにこやかに笑いかける。
見るからに神殿の関係者であろう少女にどう言ったらいいのか逡巡するオディールであったが、緊張して頭が上手く動かず、いい言葉が浮かんでこない。
「あ、あの……。め、女神様に会いに来たんです。神殿はどちらですか?」
すると、少女はちょっと困ったような顔を見せ、首を振る。
「神殿は……、資格のある人にしか見えないのよ……」
「資格……?」
「帰りなさい。来た道を戻れば自然と元の世界に帰れるわ」
少女は無情にも歩いて来た洞窟を指す。
その拒絶にオディールはドクンと心拍数が上がるのを感じた。女神に会えなければミラーナは死んでしまう。ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「ダメなんです! 女神様に会うまでは……、僕の大切な人を助けられるまでは帰れないんです!」
オディールは少女の手を握り、涙目で訴える。
「うーん、でも、私にできることはないわ。あなた自身の資格の話なので……」
少女は美しい表情を曇らせながら、申し訳なさそうに首を振った。
「それは……『この世界は情報でできている』ってことに関係ありますか?」
オディールはまっすぐな目で少女を見つめる。
少女はちょっと驚くと、優しい微笑みを見せる。その笑顔にはポジティブなニュアンスが感じられた。
「よく……視るといいわ……」
そう言い残して少女はすうっと消えてしまう。
「あっ! ちょっと待っ……」
オディールは伸ばしかけた腕の行先を失う。神殿まであとわずかのところまで来ているというのにあと一歩が分からない。
オディールはパンっと太ももを叩き、無念に満ちた深いため息をついた。
◇
『よく視るといい』と、言われたものの、一体何をよく見たらいいのだろうか?
オディールは辺りを見回し、どこかに隠し通路でもあるのではないかと目を凝らしてみるが、光るキノコがぽつぽつと生えた岩肌が広がっているばかりで、それらしきものは見当たらない。
地底湖の底で怪しく輝く原子炉の碧い光が静かに空洞を照らすばかりだった。
こうしている間にもミラーナの命は輝きを失っているだろう。オディールは焦りばかりが募り、自分のふがいなさに頭を抱えた。
『この世界は情報でできています』
蜘蛛男も同意していた天使の言葉をもう一度思い出す。これをしっかり把握できれば神殿への道が開かれるだろうが、その奇抜さに頭が追いつかない。
その時、ふと瞑想のことを思い出した。そもそも瞑想ができたからここへ入れたのだ。であるならば、瞑想すればここから神殿へと出られるのかもしれない。
オディールは手近な岩の上に腰かけると座禅を組んでみた。
昔TVで見たシーンを思い出しながら指を組んで腹の前に置き、背筋をピンと伸ばして深呼吸を繰り返す。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
雑念が次々と湧いてくるが、逆らわず、淡々と横へと流していく。やがてフワフワとした気分になりスゥっと意識が落ちていくのを感じた。
ピチョン。
天井から地底湖へと滴が落ち、波紋が水面に広がっていく。
碧いチェレンコフ光は波紋の揺らめきで岩肌に複雑な碧い幾何学模様を描いた。
そのプロジェクションマッピングのような光のアートをボーっと見ながらオディールはもう少しで何かわかりそうな手ごたえを感じる。
蜘蛛男は『誰も見ていないとき、月は消えている』と言った。であるならば、この岩肌も実は誰も見ていないときは消えているに違いない。
オディールは目をつぶり、感覚を研ぎ澄ます。
この瞬間、岩肌は消えているはずだ。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
スゥーーーー、……、フゥーーーー。
オディールはさらに深呼吸を繰り返し、より深いところへと降りていく。
やがて自分の周囲の空間がち密な1と0の数字の集合体のように感じられてくる。ちょうど3D画像を作る時のような線だけで作られた3D空間に、1と0がち密に敷き詰められた情景が捕らえられてきた。
周囲のゴツゴツとした岩や地底湖が1と0のち密な模様で表されて感じられる。数字で構成された不思議な空間、その3D空間をオディールは少しずつ広げていった。この洞窟全体をとらえようとしたのだ。
徐々に広がっていく3D空間。しかし、岩肌が出るはずの所ところまで広げても岩肌は現れなかった。
代わりに出てきたのは宮殿のようなアーチを伴った柱列――――。
へっ!?
オディールは目を開けて驚いた。なんと、目の前には大理石で作られた真っ白な柱がずらりと並び、聖水の池を囲んでいる。岩肌に見えていたのはただの幻で、オディールはすでに神殿にいたのだ。
や、やったぞ!
オディールは思わずガッツポーズをする。
青空のもと、さんさんと照り付ける日差しの中、黄色い蝶たちが楽しそうに舞っている。これがさっきまで洞窟に見えていたのだ。
オディールはこの世界の仕組みを感じ取ることで、ついに神殿に入る資格を得たのだった。
「ミラーナ! 待ってて、もう少しだ!」
オディールは満面に笑みを浮かべ、ドアへと駆け出す。
精緻な幻獣の浮彫がちりばめられた重厚な青銅製のドアを力いっぱい引き開けるとそこには、大理石のアーチが続く美しい廊下が続いていた。白黒の格子模様の床を淡い間接照明が照らしている。
オディールは大きく息をつくと、そーっと神殿の中へと入っていった。
「おじゃましまーす! どなたかいませんかー!?」
しかし、何の反応もない。
「入りますよーー!」
そう叫ぶと、オディールはタッタッタと軽快に廊下を駆けていった。やがてT字路の正面に巨大な窓が並んでいるのが見えてくる。
だが、中庭では日が照っていたのに、外は真っ暗だった。
不思議に思って近づいて行くと、信じられない光景が目に飛び込んでくる。その驚くべき情景にオディールは思わず足が止まった。
なんと、下の方には巨大な碧い惑星が広がっていたのだ。満天の星々の中、雄大に浮かぶ真っ青な巨大な星、それはいきなり現れた大宇宙のアートだった。細い筋を表面に描きながら小さな渦があちこちに巻いている。そのち密な表情は単なる作り物ではない大自然の雄大な営みを表していた。
悠然と流れる天の川を背景に浮かぶ、透明感のある深い碧色に覆われた巨大な惑星にオディールは圧倒され、言葉を失った。
お、おぉぉぉ……。
神殿はこの巨大な惑星の衛星軌道上にあったのだ。洞窟を進んで来たら宇宙に居た、その摩訶不思議な構造にオディールは困惑する。
蜘蛛男は『世界を構成するコンピューターは海王星の中にある』と言っていた。海王星とは確か太陽系最果ての巨大な碧い惑星だった記憶がある。と、すると、これが海王星ではないだろうか?
オディールは期せずして世界の根源に迫っていたことに、ゴクリと唾をのみ、ただ、その深い碧に魅入られていた。
◇
だが、もたもたしている余裕はない。女神に一刻も早く会わなくてはならないのだ。オディールはずっと続いている廊下の先を目を凝らして見つめ、意を決すると大声を出してみる。
「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんかー?」
しかし、神殿内は静まり返ったままだった。
神聖な神殿内を無断で歩くことは心苦しかったが、誰も出てこないのではどうしようもない。オディールは早足で誰かいないかと探しながら進んで行く。
大理石のアーチがずっと続いている美しい廊下。ところどころに今にも動き出しそうな精緻な幻獣の彫刻が置かれ、その厳粛な雰囲気に気おされながらオディールはどんどんと心細くなってくる。
しかし、女神に会うまではどんなことでもやるしかない。ドアがあるたびにコンコンとノックをしてみるが返事はなく、ドアにはカギがかかっていた。
よく考えたら、さっきの少女がすうっと消えていったように、神殿の人は廊下など使わないのだろう。
「うーん、困ったなぁ……」
オディールは眉をひそめながら進み、ついに突き当りの最後の部屋になってしまった。
コンコンコン!
「どなたかいませんかぁ?」
相変わらず返事はなかったが、ドアノブを回してみるとガチャリと開く。最後の最後に見つけた突破口、オディールはゴクリとのどを鳴らしながらそーっとドアを引き開けた。
「お邪魔しまぁす……」
隙間から中をのぞくオディール。
はぁっ!?
思わず変な声を上げてしまう。中は宇宙空間だったのだ。満天の星々の中、少し先でたくさんの映像が輪になってゆっくりと回っている。
ポーン……。カン! キン!
不思議な音がかすかにどこからか響いてきた。それはまるで大宇宙のささやきのように感じる。
オディールは首をかしげながらそっと中へと足を踏み入れてみた。
下には巨大な碧い惑星。しかし、ガラスのような透明な床があるようでカツッという硬い感触が返ってくる。
どうやらここは宇宙空間に作られた、壁が透明な巨大な温室のような部屋ということらしい。
オディールはカツン、カツンと足音を響かせながら、映像群の回っている方へと恐る恐る進む。
ポーン……。カン! キン!
不思議な効果音は徐々に大きくなってくる。どうやら音は回る映像が奏でているらしい。
眼下に碧く美しい巨大惑星を見ながら、満天の星々に囲まれて歩く。それはまるで宇宙遊泳をしているかのような、いまだかつてない不思議な感覚だった。
回っている映像は一つ一つは一メートルくらいのもので近代的な街から石造りの町、原始的な村まで、それぞれどこかの文化を映し出している。回っていくに従い、映像の視点もゆっくりと動き、街の様子を立体的に見られるようになっていた。
その映像群は直径十数メートルくらいの輪となり、三段の層になって合わせて百数十個がクルクルと回っている。
オディールは輪の中心に立って映像群を見渡して、見覚えのある景色に思わず驚いた。
「し、渋谷だ……」
そこには渋谷のスクランブル交差点を渡る多くの群衆が映っていた。映像がパーンしていくと大型ビジョンがコマーシャルを流している様子が映り、その隣を山手線が走り抜けていく。
お、おぉぉぉ……。
サラリーマン時代は飲み会で何度も行った事のある渋谷。まさか死後、この宇宙空間で目にするとは思わなかった。
女の子と一緒に行ったスタバ、楽し過ぎて飲みすぎた居酒屋は今もまだそのままに見える。サラリーマン時代のたくさんの記憶がフラッシュバックしたオディールは懐かしさに打ち震え、涙が自然と頬を伝った。
前世には後悔しかないと考えていたオディールだったが、今こうやって渋谷を見ればその考えもちょっと違うように思えてくる。当時の自分は一生懸命生きていたのであり、思うほどダメではなかったかもしれない。不器用ながら精いっぱい頑張っていたのだ。
オディールは他の映像も探していく。すると目に飛び込んできたのは崩壊が進む水上の街、セント・フローレスティーナだった。
すでに居住棟も大半は壊れてしまい、他の建物も次々と崩れ始めている。
あ……あぁ……。
オディールは真っ青になってガクガクと震えた。
ミラーナと手を取り合って作り上げた最高傑作が次々と崩壊していく。それは自分の一部が失われる様な悲痛な喪失感となってオディールを襲う。
その時、セントラルが崩落した。巨大な美しい街の象徴セントラルは土煙をもうもうと上げながら湖の中へと沈み、巨大な水柱が次々と上がっていく。それはまさに絶望を絵にしたような光景だった。
「い、いやぁ! 止めてぇ!」
オディールは思わず手を伸ばし、その壊れていくセント・フローレスティーナの映像に触れてしまう。
刹那、波紋のようなものが映像の上に広がった。
パウッ! パウッ! パウッ!
いきなり警報が鳴り響き、映像の上には真っ赤な『WARNING!』の文字が躍った。
「な、なんだこれ!? な、何が……」
オディールは我に返る。
ま、マズい……。
この映像は単に表示しているだけでなく、触って動かす何らかの端末だったのだ。
オディールが真っ青になって固まっていると、ペキペキペキという薄いガラスを割るような音が室内に響きわたる。少し先の空間に亀裂が生じ、鮮烈な青い光が吹きだし始めたのだ。
「ヤバい、ヤバい、ヤバい……」
人智を超えた何かがやってくる予感にオディールは慌てて後ずさり、脂汗を浮かべながら亀裂をにらんだ。
神聖なる神殿に不法侵入して端末に勝手に触れた、それはかなり重い罪になってしまうのかもしれない。
ところが、亀裂からニョキっと出てきたのは可愛い小さな指……。
どう見ても小さな子供の指だった。
あ、あれ……?
オディールは一体どういうことか分かりかね、首をひねる。
「よいしょ! よいしょ!」
可愛い幼女の声が響き、可愛い指が空間の裂け目を押し広げると、中から可愛い幼女が現れる。
ボブのショートカットでサラサラとしたブラウンの髪に、プニプニとした柔らかそうな紅いほっぺた、まるで天使のように見えた。
幼女は床に着地しようとしてベチャッとこける。
ぎゃはっ!
「あっ、大丈夫?」
オディールは思わず駆け寄った。
「いたたた……。あっ! おねぇちゃんだ……」
泣きそうになりながら起き上がり、オディールを見上げる幼女。
「おねぇちゃんは……悪い人?」
幼女はクリっとしたつぶらな瞳でオディールを見つめ、小首をかしげた。
「悪くない! 悪くない! ただ、今お友達が大変なことになってて、女神様にお会いしたくて……」
「悪い人だったら倒してパパに褒めてもらうの!」
幼女は話も聞かず、嬉しそうに笑う。
「た、倒す……?」
無邪気に『倒す』と言う幼女にオディールは冷汗を浮かべた。
可愛い幼女ではあるが、空間を割って出てきた時点で明らかにただものではない。
オディールは確かに不法侵入してしまっているが、ちゃんと『お邪魔しまーす』と言ったし、カギがかかっていない所に入ったくらいでは重罪にならない……と、思いたかった。
「僕を見てごらん、か弱い女の子でしょ? こんな女の子が悪い人なわけないよ」
オディールはこわばった笑顔で必死にアピールする。
「うん、女の子に悪い人いないよ……」
幼女は上機嫌にそう言いながら、指先で空中に不思議な模様を描く。ヴォン! と効果音が鳴り、青いスクリーンを空中に浮き上がった。そこにはオディールの個人情報がずらりと並んでいる。
「ゆうきあきら……おとこ……? あれ?」
幼女は眉をひそめ、オディールの顔をまじまじと見る。
「あ、いや、それは転生前で……」
オディールは慌てて手のひらをブンブンと振った。
「うそつきっ! うそつきは……悪い人……よ?」
幼女は獲物を見つけたかのような悪い顔をして、ポッケから肉球手袋を取り出すと、キラリと目を光らせながら手にはめた。
「いや、嘘じゃなくて……」
オディールは必死に弁解しようとしたが、幼女は肉球手袋をビシッとオディールに向けて叫ぶ。
「悪い人は死んで!」
黄金色の光を放つ肉球手袋をブンとオディールに向けて振る幼女。肉球手袋からは鋭い光の刃が射出され、オディールに迫った。
ひぃ!
のけぞって間一髪ぎりぎりのところでかわすオディール。パサっと金髪の前髪が斬れて散った。
光の刃はそのまま直進して、ガン! と衝撃音を放ちながら透明な壁を突き破り、満天の星のかなたへと飛び去っていく。
ゴォォォオ!
割れた壁から空気が宇宙へと激しく吸い出されていく音が響き渡った。
「あぁっ! やっちゃった……。なんで避けるの!?」
幼女はプクッとほっぺたを膨らませてオディールをにらむ。
「ちょ、ちょっと待って、パパを呼んで! 話せばわかる……」
しかし、幼女は聞く耳を持たない。
「悪い人は死ぬの!」
肉球手袋を今度は高々と掲げ、紫色に光らせる幼女。
明らかにヤバい技が繰り出される予感にオディールは顔面蒼白になって後ずさる。
「行っけーー!!」
幼女は渾身の力を込め、肉球手袋を縦に振り下ろす。
ベキベキベキ!
足元の空間が裂けながら、割れ目がすさまじい速度でオディールに迫った。
うわぁ!
今度もかろうじて避けたオディールだったが、割れ目はそのまま渋谷のスクランブル交差点の映像を切り裂いていく。
グォン!
直後、嫌な音をたてながら空間の割れ目は紫色の光を放ち、一気に大きく広がった。
えぇっ!
その想定外な動きにオディールは対応できず、足を滑らせ、そのまま空間の割れ目へと吸い込まれていく。
「そ、そんな! いやぁぁぁ!」
断末魔の悲鳴を残しながら、空間の割れ目へと堕ち、神殿からはじき出されてしまうオディール。
せっかく命がけでたどり着いた神殿。なのに、何もできないまま幼女に処理されてしまう。オディールは例えようもなく深い絶望に震えながら漆黒の闇へと落ちていった。
◇
ぐはぁ!
思いっきりしりもちをついた衝撃で目を白黒させてしまったオディールだったが、すぐに目の前のとんでもない光景に唖然としてしまう。
ガヤガヤと無数の人たちが行きかう雑踏の向こうにガーー! と、成田エクスプレスの電車が鉄橋を渡っていく。
はぁっ!?
そう、そこは渋谷のスクランブル交差点だったのだ。
あまりのことに呆然としながら、オディールは周りを見回す。
CMを流す巨大ビジョンに立ち並ぶ高層ビル。そして、にぎやかな人の波。排気ガスとすえた人混みの匂いに呼び起こされるなつかしい記憶。
オディールは慌てて自分の手を見た。しかしそれは十五歳のきゃしゃな女の子の細い手のままである。そう、オディールは金髪少女の姿で懐かしの日本へと飛ばされてしまったのだった。