【お天気】スキルを馬鹿にされ、追放された公爵令嬢。不毛の砂漠に雨を降らし、美少女メイドと共に甘いスローライフ~干ばつだから助けてくれって言われてももう遅い~

 う、うぎゃぁぁぁ!

 鮮血を吹き出す肩口を押さえながら苦悶の表情を浮かべ、王子は地面へと崩れ落ちる。

「次は、首を落とします……。いいですね?」

 ケーニッヒは冷たい視線を王子に投げかけながら、カチッと剣をさやへと収めた。

 剣聖の凄まじさをまざまざと見せつけられた騎士たちは、恐怖に打ち震える。ケーニッヒが動いたことも見えなかったし、どうやって斬ったのかも分からなかったのだ。

 王子は涙目でケーニッヒを見上げ、ブルっと体が震えた瞬間、貧血で意識が途絶えて床に倒れ伏す。

「医療班! 急いで!」

 オディールは青い顔をしながら叫んだ。速やかに対応すれば、腕を元通りにすることができるかもしれない。

 ドヤドヤと入ってきた医療班のメンバーが聖水を使った治療を続けていくのを眺めながら、国王は王子の愚行に頭を抱え、言葉を失っていた。


       ◇


 王子の治療は上手くいったもののしばらくは安静ということで、晩餐会は中止となった。国王とハーグルンドは軽食ののち大浴場に案内される。

 夕暮れの中、ロッソは聖気を噴き出して火山のような輝きを放ち、湖には聖気の粒子が蛍の群れのように煌めいている。空には天の川がくっきりと輝き、聖気の煌めきと共に光のシンフォニーを奏でていた。

 二人はそんな幻想的な光景に驚嘆の表情を浮かべながら、そっと浴槽に浸かった。

「ハーグルンドよ、あの娘をどう見る?」

 国王はジャバジャバと顔を洗う。

「いやぁ、あれは相当な(タマ)だと思いますな。王の威圧に耐えられる者はそうはおらんでしょう。なぜ……、追放などされたのか?」

「あのバカ息子に任せておったのじゃ。公爵も見ぬけなかったのだから仕方ない」

 国王は重いため息を吐きながら、無力感に満ちた顔で首を振った。

「この機会に国交を結ばれてはどうですか? はっはっは」

 ハーグルンドは楽しそうに笑う。しかし、国王は押し黙ったままだった。

 聞けばこの街には貴族制が無いらしい。このまま発展していけば大陸一の都市となるのも時間の問題だ。平民だけの街が大陸一になれば貴族の支配する王都は維持できない。革命が起こって王家断絶まで行ってしまうかもしれないのだ。革命にならなかったとしてももはや貴族制は維持できないだろう。そうなれば伝統あるハーグルンド家は没落必至である。

「……。あ奴は……」

「あ奴は?」

 国王は大きく息をつくと、絞り出すような小声で言う。

「あ奴は危険じゃ。何とかせんとならん。手伝ってはくれぬか?」

 ハーグルンドを見つめる目に滲む邪悪な光は、心を凍りつかせるほどの冷酷さを秘めていた。

 ハーグルンドは背筋にゾクッと寒気を感じる。国王はオディールを暗殺するつもりなのだ。先ほどケーニッヒに息子の腕を斬られたというのに、懲りもせず命を狙う国王にハーグルンドはきな臭い破滅の匂いを嗅ぎ取った。

「いやいやいや! うちは協力できませんな。そりゃ、こんな恐ろしい国、なくなってくれた方が大陸のためでしょう。ですが、無理です。やるのは止めないですが、協力はできませんな」

「そうか……」

 国王は浴槽の中でチラチラと光を放つ聖気の微粒子を眺めると、バシャッとまた顔を洗う。

 やらねばやられる……。

 キラキラと輝きを噴き上げるロッソを見る国王の瞳には、(くら)い決意が宿っていた。


           ◇


 数か月後――――。

「ねぇ、明日はサンドイッチでいいかなぁ?」

 オディールは久しぶりの休日をミラーナとのピクニックで過ごそうと、ウキウキしながら準備を進めていた。

 ロッソのふもとに綺麗な花の咲く丘が現れていて、そこに案内すればミラーナはきっと喜んでくれるに違いない。また花冠を編んだり、他愛のない話でもして日ごろの疲れをいやそうとオディールは考えていたのだ。

 その様子を見たミラーナは、申し訳なさそうな顔をして手を合わせる。

「ごめーん、明日は私、ちょっとダメになっちゃった」

 え……?

 予想もしなかった返事に、オディールは思わず持っていたパンを落としてしまう。

 ポンポンと床にバウンドしたパンがコロコロと転がった。

「ど、どういう……こと? 前から約束……してた……よね?」

 オディールはこわばった笑顔でミラーナに詰め寄る。

「ローレンスがね、有名なドレスデザイナーを呼んで、ドレスの採寸をしてくれるんだって」

 ミラーナは目をキラキラ輝かせながら手を組んだ。

「そ、それは明日じゃなくてもいいよね?」

「それが明後日には帰っちゃうんだって。ごめんね」

 オディールは呆然として首を振る。ミラーナが自分から離れていってしまう、それはオディールの心に受け入れがたい痛みを刻んだ。

「な、なんでそんな約束しちゃうのさ! 約束は僕の方が先だよ?」

「だからゴメンって言ってるわ! オディとはいつも一緒なんだからたまには他の人と会ったっていいじゃない!」

 ミラーナは不満げな表情で言い返した。

「い、いつもって何だよ! ピクニックは初めてじゃないか!」

「私はあなたのママじゃないのよ? たまには自由にさせて!」

 ミラーナは鋭い視線でオディールを貫く。それは今まで見せたことのない毅然とした否定だった。

 オディールはわなわなと身体を震わせる。まさか自分がここまで拒絶されるとは夢にも思っていなかったのだ。

 もちろん、ミラーナは自由だ。オディールには彼女を縛り付けることなどできない。その無力感がいっそう悲しみを加速させる。

「な、何? ミラーナは僕より……ローレンスの方が大切なんだ?」

「い、いや、そういうんじゃない……」

「もう知らない! ミラーナのバカーーーー!」

 オディールはテーブルのピクニック用具を全部床にぶちまけ、大声で叫ぶ。そして、自室に駆け込み、バン! とドアを壊さんばかりの勢いで閉めた。

 ピクニックを楽しみにしていたのは自分だけだったのだ。オディールは、悲しみに打ちひしがれてベッドに倒れ込む。

 いつも一緒だったミラーナが自分との約束を捨てて男の元へと行ってしまう。それはオディールに胸が張り裂けるような苦痛をもたらし、毛布の中で大粒の涙がポロポロととめどなくこぼれた。

 一体自分は何のためにこんな街づくりをしてきたのだろうか? ミラーナを失ってしまったらもう何の意味もない。オディールは絶望に打ちひしがれ、シーツが涙で濡れていくのを止められなかった。

 その晩、オディールが眠れぬ夜を過ごしていると、耳をつんざくような非常警報が部屋に鳴り響いた。

 ヴィーーン! ヴィーーン!

 セント・フローレスティーナに深刻な危機が迫っているという知らせだ。見過ごすわけにはいかない。

「よりによって、なんで今晩なんだよぉ……」

 オディールは腫れた目をこすりながら、重いため息をこぼし、ベッドから飛び降りると適当に上着を羽織った。

 部屋を出たが、隣室のミラーナが動いている気配は感じられない。ミラーナには招集義務はないので、問題はないのだが、オディールは寂しい想いを抱えて指令室へと急いだ。


         ◇


 指令室にはすでに自警団たちが集まっており、ケーニッヒとトニオが地図を指さし、深刻そうな顔をしていた。

「何があったの?」

「オディール殿、お休みのところ申し訳ない。東方に赤い狼煙ですが……そっちは延々と砂漠が続きその先は海。そちらから何かが来るとは考えにくいのですが……」

「そう? フローレスナイトを出そうか?」

「何を申されます! 領主殿は前線に出てはなりませぬ。ここは、それがしが見てまいりましょう」

 ケーニッヒはそう言うと、自警団から何名かを連れて、颯爽(さっそう)とした足取りで出ていった。

 オディールが窓から東を見つめると、遠くのやぐらで炎が燃え盛り、赤い筋が立ち上がっているのが見えた。

 その瞬く炎の明りにオディールはゾクッと寒気を感じる。かつて受けた破滅の予言が言い知れぬ恐怖と共にフラッシュバックしたのだ。オディールはあまりの息苦しさに思わず胸を押さえた。

 こんな時、ミラーナがいつもそばにいてくれたのに今は独りぼっち。心をえぐるような寂しさがオディールの細い胸を貫き、キュッと口を結んだ。

 やはり告白しておけばよかったのかもしれない。オディールの脳裏に後悔の念がよぎるが、同性愛の告白はリスクが高い。受け入れられなければ気持ち悪がられ、逃げられてしまう。そんなことになってしまったらもう生きていけない。そう考えると、どうしても踏ん切りがつかなかったのだ。

 ふぅと、大きく息をついて窓を閉めようとした時、オディールは西の地平線にも狼煙が上がっているのを見つける。

 は、はぁっ!?

 オディールは驚愕した。信じられないが、西からも侵入者が現れている。こんな状況に直面したことは今まで一度もなかった。

「西からも敵襲! た、大変だ!」

 突然直面した深刻な事態にオディールは恐怖に駆られ、声を裏返らせながら叫ぶ。

 作戦室に緊張が走った。ケーニッヒを始めとする主要メンバーは東へと出発してしまっている。西側へはどう対処したらいいのか対策が見つからず、室内はザワザワとし、不安が渦巻いた。

「何やっとんじゃ! 落ち着けぃ!」

 遅れてやってきたレヴィアは喝を入れる。

「あっ! レヴィちゃん!」

「いいから状況を説明せんかい!」

 説明を受けたレヴィアは地図を眺め、腕を組む。明らかに異常な敵の動き。これをどう考えたらいいのかレヴィアにもピンとこなかった。

「仕方ない、我がちっくら見てこよう」

 どんな敵が来ているかが分からないと対策の打ちようもない。レヴィアはピョンと窓枠に飛び乗ると、そのまま夜空へとダイブしていった。


       ◇


 その頃、卵型ゴーレムに乗り、東のやぐらを目指していたケーニッヒたちは怪しい魔道トラックを見つける。

 魔道トラックは月夜の花畑の中を爆走していたが、ケーニッヒたちを見つけると急に進路を変え、一目散に逃げ始める。

「あ、逃げるぞ!」

 後を追おうとするトニオだったが、ケーニッヒは違和感を覚えた。その姿にはどこか誘っているニュアンスが感じられたのだ。

 ふと、街の方を振り返ったケーニッヒは西の方でも狼煙が上がっているのを見つけ、唖然とする。

 そしてその瞬間、敵の本当の目的に気がついたのだった。

「マズい! 狙いは領主殿だ!」

 ケーニッヒは急いで反転し、全速力でゴーレムを駆って花畑を突っ走った。


       ◇


 同時刻、指令室――――。

 黄金色の淡い光をまといながら西のやぐらへと飛んで行くドラゴンを目で追いながら、オディールは言いようのない不安に包まれていた。

 深夜に東西から同時攻撃、それは手練れの軍師の策略の臭いがする。一体目的は何か……。

 直後、ガシャーン! ガシャーン! と、窓ガラスを割る音が室内に響き渡った。

 屋上から特殊部隊が次々と指令室になだれ込んできたのだ。

 キャァッ! うわぁぁぁ! ひぃぃぃ!

 慌てて逃げようとしたものの、出入り口はすでに剣で武装した黒づくめの男たちに固められ、逃げ場などなくなっていた。

 オディールは顔面蒼白となり、ガタガタと震える。そう、目的はここだったのだ。高度な隠ぺい魔法で屋上に潜み、ケーニッヒたちを引きはがす。それは敵ながらあっぱれな作戦だった。

 オディールは部屋の片隅に放置されていた古びた剣を握りしめ、敵に対峙する。しかし、剣を練習したことすらない彼女にとって、それは単なる虚勢にしか過ぎない。オディールの運命はもはや、風に揺らぐか弱い灯火のように消えかかっていた。

 いきなり訪れた絶望。オディールの心臓は早鐘を打ち、破滅の預言を回避できなかったことに深い無念さが胸を穿(うが)った。
「観念しろ! オディール。ここじゃお前の【お天気】スキルも使えまい」

 ボスの男が勝ち誇ったように口を開く。その声は忘れもしないオディールの父、公爵の声だった。

「お、お父様……?」

 オディールは驚きのあまり口を開けたまま言葉を失った。

「お前のおかげで王都は今、大騒ぎだ。お前を何とかしないと由緒ある公爵家はおとりつぶし……。親の責任としてお前を処分する」

 公爵は幅広の大きな剣をギラリと光らせながらオディールに向けた。

「な、何を言うんだ! あんたが勝手に追放したんだろ!」

「とは言え俺も親だ。お前に選択肢をやろう。奴隷契約をするか……、今ここで死ぬか……だ。どっちがいい?」

 公爵は傲慢な笑みを浮かべながらとんでもない条件を提示する。しかし、囲まれて逃げられないオディールには他に選択肢などなかった。

 目をギュッとつぶり、しばらくうつむいていたが、絞るように声を出す。

「ど、奴隷になったら……どうなるの?」

「この街は公爵領とする。お前は雨降らし担当としてこき使ってやる」

 ドヤ顔の公爵をにらみながら、オディールはギリッと奥歯を鳴らした。

 奴隷契約は魔法による厳正な契約であり、主人の言うことに逆らうことはできなくなる。一生いいように使われてしまうだろう。しかし、殺されてしまう訳にもいかない。

「ミ、ミラーナはどうなるの?」

「あいつか。奴も同罪だな。性奴隷にしたら高く売れるだろう」

 公爵がいやらしい笑みを浮かべるのを見て、オディールは身体中に怒りの炎が燃え上がるのを感じた。

「ふざけんな! 死んでもお前になど屈しない!」

 金髪を逆立て、鬼のような形相で絶叫するオディール。

 そんなオディールを公爵はつまらない物を見るような目で眺める。

「ほーん、なら死ね」

 公爵はすっと手を上げる。それを見た弓兵たちがクロスボウを構え、ガチャリと安全装置を外した。

 オディールは剣を構えてはみたものの、この距離ではとても避けられない。

 くっ!

 自分の選択は間違っていない。ミラーナを性奴隷にするなど、死んでも選べる選択肢ではないのだ。オディールはギュッと剣を握り、公爵をにらむ。まさに絶体絶命の危機に追い込まれ、早鐘を打つ心臓の鼓動がうるさいほど耳に響いていた。

 公爵はそんなオディールを鼻で笑うと、すっとオディールへ向けて手を降ろす。

 刹那、バシュッ! バシュッ! と弓が鋭く光りながらオディールに向かって無慈悲に光跡を描いた。

 その時だった。

「だめぇ!」

 ミラーナが覆いかぶさるようにしてオディールに抱き着く。

 壁にそっと穴を開け、様子をうかがっていたミラーナは最後の瞬間に飛び出し、身を挺してオディールをかばったのだった。

 ズスッ!

 鈍い音を立て、矢じりはミラーナの背中を貫く。

 ぐふっ!

 血を吐きながらオディールの上で痙攣(けいれん)するミラーナ。

「ああっ! ミラーナ!!」

 あまりのことに気が動転するオディールのほほに、ミラーナはそっと手を添える。

「約束……守らなくて……ごめんね……」

 息も絶え絶えに言葉を絞り出したミラーナは最後の瞬間にかすかな笑顔を見せ、ガクッと崩れ落ちた。

「ミ、ミラーナ……? ねぇ! ミラーナぁ!」

 オディールはミラーナを揺らすが、ミラーナに力は戻って来ない。

 どうしようもなくあふれてくる涙。

「え……、ちょっと……、嫌だよぉ! ぐわぁぁぁぁ……」

 半狂乱になったオディールの絶叫が部屋に響き渡る。

 オディールにとって、ミラーナと過ごす花の都での幸せな日々こそが全てだった。その大切な全てが失われていく。ミラーナがいない人生には何の価値もない。夢や希望、人生そのものがガラガラと音を立てて崩れ去っていく音が、オディールの中に響きわたった。

「ふん! 馬鹿なメイドだ。そんなことしても結果は変わらんぞ」

 公爵は鼻で笑うと、剣をブンブンと振りまわしてオディールにツカツカと迫る。

「貴様ぁーーーー!」

 オディールはキッと公爵をにらみ、右手を公爵に向けてブツブツと祭詞を唱えた。

「はははっ! 建物の中では【お天気】など何の意味もないぞ」

 公爵は笑ったが、直後、隕石が落ちてきたような激しい衝撃が天井に響いた。

「え?」「は?」

 公爵たちはけげんそうな顔をして天井を見る。

 衝撃はさらに次々と続き、強く激しく天井を穿ち続け、ベキベキと音をたてながら亀裂が広がっていく。

「ま、まずい! 逃げろ!」

 公爵は叫んだが、直後天井は崩落し、一メートルはあろうかという巨大な雹が次々と土砂崩れのように部屋になだれ込んでくる。

 ぐわぁ! ひぃ!

 逃げ惑う公爵たち。

 オディールは混乱の中、必死にミラーナを引きずって崩落してきた屋根のガレキの陰に逃げ込んだ。

 やがて雹は止み、月明かりにグチャグチャになった部屋が照らし出される。
「くぅ! オディールを探せ! 見つけて確実に息の根を止めろ!」

 公爵は雹とガレキに埋もれた部屋を見回しながら焦って叫ぶ。

 その時だった。

 ぐはぁ! ぐふっ!

 一人また一人と、黒装束の男たちが倒されていく。

 異常に気付いた公爵は、恐怖に追い込まれるように隅に逃れ、剣を構えた。

 刹那、月明かりをギラリと反射しながら眼にもとまらぬ速さで剣が迫り、公爵はかろうじて剣を合わせる。

 ギィィィン!

 鋭い金属音が響き渡った。

 ケーニッヒがガタイのいい公爵を剣で押し込んでいく。

「お前が首謀者だな?」

 ケーニッヒは不気味に瞳を赤く光らせながら、公爵を威圧する。

 くっ!

 ケーニッヒの驚異的な剣圧に翻弄され、公爵は恐怖で冷や汗を浮かべた。剣の達人と呼ばれ、これまでに数多くの偉業を成し遂げてきた公爵だったが、ケーニッヒの剣さばきにははるか高みの色があり、到底及ばぬ絶望を感じる。

 とは言え、オディールを処分できないままここで自分が倒れれば、代々続いてきた公爵家はおとりつぶしだ。

 ぬぉぉぉ!

 公爵は髪を逆立てながら渾身の気迫を込め、熱く燃える【剣気】を呼び起こす。筋肉はパワフルに膨らんで、身に纏っていた黒い装束がパン! と音を立ててはじけ飛んだ。

 そのまま力ずくでケーニッヒの剣を跳ね上げ、一気に懐に入ろうとした瞬間だった。踏ん張ろうとした足に力が全く入らない。

 えっ?

 公爵はそのまま無様(ぶざま)に床に転がり、同時に太ももから激痛がやってくる。見れば脚は失われ、横倒しに転がっていた。

「い、いつの間に……、くぅ……」

 ガスッ!

 ケーニッヒは公爵の頭を蹴り上げ、あっさりと意識を断つとオディールを探す。

「オディール殿! オディール殿ぉぉぉ!」

「ぼ、僕はここだ! ミラーナ、ミラーナがぁぁ!」

 瓦礫と巨大雹の隙間からオディールは叫ぶ。その腕の中に抱えたミラーナの心臓は今にもとまりそうに弱弱しく、顔は真っ青でもはや風前の灯だった。

「今助けます、動かんように!」

 ケーニッヒは氷塊にカンカンカン! と剣を叩きこむと、氷塊はバラバラとなり、ゴロリと転がりながら床に散らばった。

 息も絶え絶えのミラーナをソファーの上まで運んだ時だった、ゴゴゴゴと建物全体が地震のように揺れ始める。

 な、なんだ……?

 顔を上げると街の入り口に立っていたフローレスナイトがバラバラに壊れ、崩れ落ちていくのが見えた。

「えっ!? どういうこと!?」

 オディールは混乱の極みに達し、叫んだ。

「ミラーナが死ねばミラーナの土魔法はすべて解除される。つまり、この街全ては消え去るのじゃ。見せてみろ」

 いつの間にか戻ってきていたレヴィアが、聖水の小瓶のふたを開けながら、ミラーナに刺さった矢を険しい目で眺めていく。

「ねぇ! どうしたらいいの!?」

 涙を溢れさせながら、オディールは悲痛な叫びをあげる。

「んー、これはマズい……」

 レヴィアは眉間にしわを刻みつつ、貫通して胸から飛び出ている矢じりをパキッと取り去ると、聖水をかけながら矢を背中の方から静かに抜いていく。

 建物の揺れが地震のごとく激しさを増し、まるで今にも崩れ落ちそうな危うさが漂う中、レヴィアはいつになく慎重な手さばきで矢を引いていった。

 わずかに抜くたびに、ピュッピュ! っと噴き出してくる鮮血。

 うぅぅぅ……。

 ミラーナが苦しそうにうめく。

「ミラーナ、頑張って!」

 オディールはポロポロとこぼれる涙をぬぐいもせず、ミラーナの手を熱く強く握り締めた。

「引き抜くぞ! 頑張るんじゃ!」

 レヴィアが矢を取り除くやいなや、鮮血が勢いよく吹きだしてくる。

「お主! 押さえとけ!」

 レヴィアはハンカチで傷口を覆うと、オディールの手を引いてそこに押し当てた。

「ミラーナぁ……」

 涙でにじむ視界の向こうでハンカチはあっという間に鮮血に染まっていく。オディールはひたひたと死神の足音が聞こえてくるような恐怖に襲われる。自分の命より大切なミラーナ、その命を支えている鮮血がどんどんと失われていく様に、オディールは蒼白となって今にも壊れてしまいそうな衝動に苛まれた。

「しっかりしろ! もういい! 我がやる」

 レヴィアはガタガタと震えるオディールを下がらせ、ミラーナに少しずつ聖水を飲ませながら、傷口の周りを観察する。

「これは……、毒じゃな……。聖水の効きが悪いし、肌が黒ずんできている」

「ど、毒!?」

 レヴィアは折り取った矢じりをジッと観察し、指先で矢じりをなぞるとペロッと舐めると、眉間にしわを寄せた。

「マズいな……。ズィールヘッグの血じゃ」

「えっ!? 何それ?」

「伝説の毒蛇の毒じゃ。血清は……ない」

「そ、それじゃ……」

 レヴィアはキュッと口を結ぶと、沈痛な面持ちで首を振った。

「ぐわぁぁぁ! 嫌だ! 嫌だよぉぉぉ!」

 オディールは苦悩に満ちた表情で頭を抱え、悲痛な叫びを空に向ける。聖水も効かない毒がミラーナの命を蝕んでいる。それは到底受け入れられない運命だった。
 レヴィアはオディールの腕を力強くつかむと、燃えるような真紅の瞳でオディールをにらみつける。

「落ち着け! お主が取り乱してどうする!」

「だ、だって……。ミ、ミラーナが……。ミラーナが居なくなったらもう僕は生きていけない……」

 パァン!

 レヴィアはオディールを平手打ちにした。

「街崩壊の危機に、領主が何をぬるいこと言っとる!」

 ヒックヒックとしゃくりあげながら、オディールは真っ赤な泣きはらした目でレヴィアを見上げる。

「あー! もう! 住民の避難はケーニッヒに任せるぞ! ええか?」

 レヴィアは困り切った顔で首を振り、大きくため息をついた。

 ケーニッヒはじっとオディールを見つめ、すっとひざまずくとオディールの手を握る。

「オディール殿、住民の安全はそれがしに任せてください」

 オディールは力なくうなずいた。

「崩壊する前に全員避難させるぞ! 動けるものはついてこい!」

 地震のように揺れる建物がいつまで持つか分からない。ケーニッヒは自警団を何人か連れて飛び出して行った。


        ◇


 オディールは沈痛な面持ちで、まるでろう人形のように生気を失ったミラーナを眺める。今、自分に何ができるだろう? 毒は取り除けない、となると、どうしたらいいか……。

「くぅぅぅ、このままじゃ死んじゃうよぉ……。死んだら……。……。死ぬ……?」

 ここでオディールは自分も一度死んだことを思い出す。死んでもまだ終わりではなかったのだ。

 と、なると……。

 オディールはレヴィアの手を取り、碧い瞳を見開いて言った。

「め、女神様だ! 女神様に会わせて!」

 たとえ死んでも女神様なら助けられる。女神様へ直談判することが唯一の解決策だろうと気が付いたのだ。

 だが、レヴィアは顔をしかめ、視線を落とす。

「女神様は医者じゃない。助けてくれるとは限らんぞ? それに、女神様には連絡などつかん。我もすでにメッセージは送ってはおるんじゃが……、お忙しいので読まれることはないじゃろう。女神様はいつも気まぐれにふらっとやってくるだけなんじゃ……」

「次はいつ来そう?」

「前回は三十五年前なんじゃ……」

 オディールは頭を抱える。そんな気まぐれを待っていられないのだ。

「誰か……、女神様に連絡がつく人……。あっ! きょ、教皇……?」

「えー……、教皇は……」

 レヴィアは渋い顔で首を振る。

「いや、僕は大聖堂の神託の儀で女神様の声を聞いたんだよ。教皇なら何か知ってるはずさ!」

「うーん……」

 腕組みをしながら首をかしげるレヴィア。

「いいから、大聖堂へ飛んでよ! 他に策なんてないじゃないか!」

 オディールはガシッとレヴィアの腕をつかむと、感情にかられて悲痛な叫びをあげる。

 レヴィアは溜息をもらし、オディールの切実な瞳にちらりと目を向けるとそっと(うなず)いた。

「じゃが、命尽きてミラーナの魂が命のスープに溶けてしまったら、女神様でも助けられんぞ」

「えっ!? そ、そんな……」

「急ぐしかない。いいから乗れ!」

 レヴィアは月夜に軽く飛び上がると衝撃音を立てて荘厳なドラゴンに変身し、オディールの前に巨大な頭を降ろした。


         ◇


 ミラーナを医療班に託し、レヴィアはオディールを乗せ、全速力で王都へと飛ぶ。

 月光が砂漠を静かに照らし出す中、いつもよりはるかに高い高度を超音速で飛び続けるレヴィア。シールドである程度守られてはいるものの厳寒と低酸素で限界ギリギリの中を必死に鱗の棘にしがみつくオディール。ミラーナの命は聖水によってかろうじて繋がれているが、いつまで持つかは分からない。緊迫した時間との闘いなのだ。

 山脈を超え、徐々に大きく見えてくる王都。久しぶりに見る石造りの荘厳な街並みは夜の静寂に沈み、明かりもまばらである。レヴィアは少しずつ高度を落としながら大聖堂を目指した。

「教皇の部屋はどこじゃろうな? 昔は大聖堂の隣のタワーの最上階じゃったけどなぁ……」

 大聖堂上空までたどり着いたレヴィアは、降下しながら巨大な翼をバサッバサッと大きく羽ばたかせる。

「あそこだね! 突っ込もう!」

 オディールは冷え切った身体に震えながら、覚悟を決めた目で叫んだ。

「突っ込むってお主……」

「時間がないんだ! 僕を窓に放り投げて!」

「……。分かった」

 オディールの身体を大きな前足で包み込むようにつかむと、レヴィアは翼を広げ、タワーの最上階の窓に向けて静かに滑るように迫った。

「『いっせーのせ』で放るぞ!」

「ちゃんと窓狙ってよ!」

「外したら勘弁な!」

「くぅぅ………。信じてる!」

 ぐんぐんと近づいてくるタワーにオディールはゴクリとのどを鳴らす。突入に失敗すればそのまま墜落して即死だ。しかし、死の淵をさまようミラーナのことを思えば大したことではないのだと、オディールは自分を奮い立たせる。

「いっせーのー……」

 タワーの直前まで滑空しながら慎重に迫ると、レヴィアは全力で羽ばたいて上空へと進路を変え、その隙にオディールの身体を放り投げる。

「せっ!」

 月の光に照らされながら、オディールの身体はそのまま最上階の窓へと弧を描く。それはオディールの切なる願いを賭けた月夜のアクロバットだった。

 リュックを盾にしてガラス窓へと飛んだオディールは、盛大なガラスの割れる音と共に部屋へと突っ込んでいく。ガラスが飛び散る音が響く中、オディールはあちこちに傷を負いながらも何とか侵入に成功したのだった。

「な、なんだ!? 何者だ!」

 豪奢なベッドで若い女と寝ていた教皇は驚いて飛び起きる。でっぷりと太っただらしない恰好にオディールは幻滅しながら挨拶をする。

「夜分すみません。緊急のお願いがあって参りました」

「ふざけんな! 寝込みを襲ってお願いなんてありえんだろう!」

 憤怒で顔を赤くした教皇を横目で見ながら、オディールはリュックから剣を一振り取り出し、すらりと抜いた。月光を浴びてギラリと鈍い光を放つ刀身を教皇の喉元に突きつけ、決然とした瞳で言葉を繰り返す。

「すみません。緊急のお願いがあって参りました……」

 月明かりを浴びてオディールの碧眼は鋭くキラリと光った。

 キャァッ!

 隣で寝ていた若い女はおびえ、毛布で裸体を隠しながら後ずさる。

「な、な、な、なんじゃ? お前は確か公爵家の……」

「女神様を呼んで……。今すぐ!」

 オディールは揺るぎない決意が宿る眼で教皇に迫り、その覚悟が空気を振るわせる。

「な、何を言ってるんだ! め、女神様なんて呼べる訳なかろう!」

 教皇は両手を上げ、冷汗を垂らしながら後ずさりする。

「あんた教皇なんでしょ? この世で一番女神様に近い人。呼べないなんてことあり得ないわ! 早く!」

 オディールは刀身で教皇の頬をなでるようにペシペシと叩く。

「ひ、ひぃ! 違う違う! うちは女神様を祀り、敬う組織であって、女神様と直接やり取りしてるわけじゃないんだ!」

「は? 女神様とは直接関係ない? じゃ、なんでいつも偉そうにしてるの?」

「な、なんでって……、昔からそういうもんなんだよ!」

 教皇は悪びれもせず、怒鳴る。

「だから無駄じゃと言ったんじゃよ……」

 後からやってきたレヴィアは首を振りながら言った。

「いやいやいや! 僕は神託の儀で女神様の声を聞いたんだよ!」

「あんなことは普通起こらんのだよ。普通は単にスキルが発現するだけだ」

「じゃ、本当に教会は女神様とは関係ないの?」

「ないんだよ! 勘違いも甚だしいな!」

「関係ない……。なら教会なんて無くていいよね?」

 オディールは腹立ちまぎれに剣をベッドに振り下ろす。バスっ! と音をたてながらコイルが中から飛び出し、羽毛が舞った。

 ひぃぃぃ! キャァ!

 教皇は若い女と抱き合いながらオディールの激しい怒りに震える。

「もうええじゃろ」

 レヴィアは右手を高く上げ、黄金に光る魔法の鎖を空中に浮かび上がらせると二人に向けて手を振り下ろす。魔法の鎖はクルクルッと二人に巻き付き、縛り上げた。

「な、何をするんだ! 外せ!」

 二人は何とかしようともがくが、鎖はビクともしない。

「で、次はどうするんじゃ?」

 レヴィアは渋い顔でオディールを見る。

 一縷(いちる)の望みが絶たれたオディールはギリッと奥歯をきしませる。

『くぅぅぅ……。どうしたら……、急がないと……』

 頭を抱え必死に考えるオディール。ミラーナに残る時間はわずかだ。何としても女神様に会いに行かなければならないが、教皇が答えを持っていなかったら、誰に相談するべきなのだろうか?

 くぅ……。

 いくら考えてもアイディアなど出ない。

「ちくしょう! 女神像だ! 女神様の声を聞いたところへ行くよ!」

 オディールは、最後の望みに(すが)りつくように、部屋を飛び出していった。


         ◇


 カギのかかっていたドアを蹴破って、オディールは大聖堂内部へと突入する。

 月光が柔らかく照らす中、女神像は幻想的に浮かび上がり、神々しい雰囲気を醸し出していた。

 神託の儀式を思い出しながらオディールは荒い息のまま女神像の前でひざまずく。

「女神様! 女神様! お話があります!」

 オディールは目をギュッとつぶり、必死に想いを女神像に捧げていく……。

 けれども、神託の儀式の際に感じた女神の声は、どれほど切に祈っても訪れることはなかった。

「女神様ぁ! お願いなんですぅ……」

 ここで願いが叶わなければ、もう希望の光は消えてしまう。それは、ミラーナの愛おしい笑顔を永遠に失ってしまうことを意味していた。

「うっうっう……。ミラーナぁ……」

 いつでも自分のそばにいて笑顔で支えてくれた可憐な少女、ミラーナを失ってはもはや生きている意味さえ見いだせない。

「いやだよぉ……。ミラーナぁぁぁ!!」

 涙が溢れ出す中、オディールは絶望に押し潰されるようにその場にくずれ落ちた。

 レヴィアは沈痛な面持ちでそんなオディールを眺め、深くため息を漏らす。

 運命の皮肉にもミラーナと生きていこうと決めた女神像の前で、ミラーナを救う道が閉ざされ、オディールは絶望の闇に取り込まれていった。

 悲しみに揺れるオディールの金髪を月明かりが照らし、嗚咽が大聖堂内に静かに響き渡っていく。


          ◇


 カツカツカツ……。

 誰かが大聖堂に入ってきた。

「何か……お困りですか?」

 魔法のランタンを手に、クリーム色の法衣をまとった若い女性が近づいてくる。

 オディールはハッとしてその女性を見上げた。それは教会の侍祭(アコライト)だった。
「め、女神様に会いたいのです! 何とか会う方法はありませんか?」

 オディールはすがるように叫んだ。

「女神様にですか? うーん……。女神様の目の色は何色か……ご存じ?」

 突然の奇妙な侍祭(アコライト)の質問に、オディールは困惑しながらも必死に記憶を辿(たど)った。

「確か……黄色っぽい……あれは何色っていうのかな?」

 オディールはレヴィアに振る。

琥珀(こはく)色じゃな。なぜ目の色なんか聞くんじゃ?」

 レヴィアは侍祭(アコライト)をいぶかしげに見つめた。

「ふふっ、あなた方は女神様の縁者の方なんですね。ならご存じだと思いますが、女神様に連絡を取っても基本反応はありません。それこそ全宇宙の無数の方々が女神様にお話を聞いてもらいたがっていますからね」

 女神の事に詳しい侍祭(アコライト)。教皇なんかよりはるかに頼もしい存在の登場に色めき立ったオディールは、駆け寄り手を取った。

「そ、それは分かりますが、どうしてもすぐに会わないとならないんです」

「ごめんなさい、私でもそう簡単には会えないのですよ」

「いやでも、会う方法、絶対何かありますよね?」

 必死に食らいついてくるオディールに侍祭(アコライト)は圧倒され、苦々しい笑みを浮かべる。

「うーん、次元回廊で神殿とはつながっているので、理屈としてはそこを通るという手はありますが……。私でも危険で難しいのでとてもお勧めはできません」

 侍祭(アコライト)は申し訳なさそうに首を振る。

「えっ! それ! それ、やります! 教えて下さい!」

「あらら、言わなきゃよかったですね……。次元回廊はこの世の残渣(ざんさ)の吹き溜まり。形も定まらねば、魑魅魍魎の住処にもなる混沌の世界。多分……、死にますよ?」

 侍祭は諭すようにじっとオディールを見つめた。

「神殿へ行ける可能性はゼロではないですよね?」

「それはまぁ、奇跡的に幸運が重なれば……」

 侍祭(アコライト)は渋い顔をして目をそらす。

「命とは誰かのために燃やすものなんです」

 オディールは侍祭(アコライト)の手をギュッと握りしめた。

 え?

「ただ生きるだけでは人生何の意味もありません。前世では自分はだらだらと適当に生きて、無駄に命を失いました。もう何にも残らない、それこそゴミのような人生でした……。だから今こそ、悔いなく、まっすぐに全力でこの命燃やし尽くすんです。教えて下さい!」

 オディールは決意にみなぎる目で侍祭(アコライト)を貫く。それは、ミラーナを救える可能性があるなら命など惜しくないという圧倒的な覚悟だった。

 う、うーん……。

 侍祭(アコライト)は困った顔をしながら思わず後ずさり。

「お願いします!」

 畳みかけるオディール。

 侍祭(アコライト)はしばらく何かを考えると、うなずき、慈愛に満ちた笑顔を見せる。

「いいでしょう、ついてきなさい」

 侍祭(アコライト)はすたすたと歩き始めた。

 やったぁ!

 オディールは満面の笑みでガッツポーズを見せる。

 ついに得た女神様への手がかり。首の皮一枚でつながっているような状態だったが、絶対にやり遂げて見せると、オディールはキュッと口を結んだ。


           ◇


 侍祭(アコライト)は月明かりが美しく照らす中庭を静かに歩く。

 足音がしないことを不思議に思ったオディールは侍祭(アコライト)の足元を見て驚いた。その足は地面からわずかに浮かび、歩くふりをしながら静かに空中を飛んでいたのだ。

天使(エンジェル)じゃな」

 レヴィアは耳元でそっとつぶやいた。

天使(エンジェル)?」

「女神様の部下じゃな。ワシら眷属(けんぞく)とは違ってお仕事をやっとるんじゃ。スキルの付与なども彼女の仕事じゃろう。こんな所におったのか」

 教皇が生臭で、末端の侍祭が実は本当の聖職者だったのだ。そんな教会の不条理な構造にオディールは疑問を感じ、肩をすくめた。


           ◇


「こちらが特異点、女神様の神殿の空間に繋がる次元回廊の入り口です」

 侍祭(アコライト)は精緻な彫刻に彩られた祭壇の前にある井戸を指さした。

「えっ!? この中?」

 オディールは驚いて中をのぞいてみる。

 井戸の中は底の方に聖水がたまっており、黄金色に光る微粒子がフワフワと美しく舞っていた。

「こ、この中に行けば次元回廊経由で神殿に……行ける?」

「井戸に降りるだけでは駄目です。この底で聖水に浸かりながら深層意識の中に身をゆだねるのです」

「し、深層意識……?」

 オディールはいきなり難しいことを言われて困惑した顔でレヴィアを見た。

「心であり、魂の事じゃ。瞑想(めいそう)しろって事じゃな」

「えっ!? 瞑想なんてやったことないよ……」

 泣きそうな顔をするオディール。

「しょうがない奴じゃな。深呼吸して心を落ち着けるだけじゃ。四秒息を吸って、六秒止めて、八秒かけて息を吐く。やってみろ」

「わ、分かったよ……」

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

「うまいうまい。その調子じゃ」

 しかし、オディールは次々と湧いてくる雑念に流される。

『急がないとミラーナが……』『ケンカなんかしちゃって、謝りたい……』

 オディールは懸命に頭を振って、迫りくる雑念を払いのけようと試みるものの、それでもなお次から次へと押し寄せてくる。

「ダメだ! 上手くいかないよぉ……」

 ブンブンと首を振ったオディールは、今にも泣きだしそうな顔でレヴィアに目を向けた。

「雑念湧いたら消そうとせずに『そういう考えもあるじゃろ』と、受け止めてそっと送り出してあげるんじゃ。あせらんでええぞ」

「そ、そうなんだね……」

 オディールはもう一度姿勢を正すと深呼吸をやり直す。

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

 やがて心地よい軽やかさに包まれ、意識が深いところへと落ちていくのを感じた。

 すると、いままで感じなかったかすかな虫の音や、風に揺れるこずえの動きなどが鮮やかに感じられるようになってくる。

 オディールは生まれて初めて世界を全身で感じ、その驚くべき豊かさに心を奪われた。
 ぼんやりとした頭、うつろな瞳で井戸の奥を覗き込むオディール。そこには前回見えなかった幻想的な光の渦が揺らめいていた。

「ゲートが見えていたら大丈夫です。見えますか?」

 静かにうなずいたオディールは、さっそくロープを握り、井戸の縁に足をかける。

 その時だった。ドヤドヤと多くの人が駆けてくる足音が響いてきた。

「いたぞーー! あそこだ!」

 警備兵たちが迫ってくる。

「ここは我に任せて早く行くんじゃ!」

 レヴィアがそう言った瞬間、爆発音が響き渡り、彼女は壮大なドラゴンへと姿を変えた。

 ギュァァァァ!

 腹に響く恐ろしい咆哮が周囲を完全に威圧する。

「あらあら、これは頼もしいですねぇ」

 天使は優しく微笑むと、オディールの手を優しく握り、碧い瞳を深く見入る。

「この先がどこに繋がっているかは毎回変わるのでわかりません。ですが、神殿とは同じ空間なので必ず行く道はあります。……。最後に一ついいことを教えましょう。この世界は情報でできています。もし、追い込まれたらこれを思い出してください」

 オディールは夢見心地でゆっくりとうなずくと、ロープを伝ってスルスルと器用に井戸の底へと降りていく。

 ドラゴンと警備兵の激しい戦いの音が空気を震わせる中、オディールは井戸の奥深くに身を沈め、この世界に別れを告げた。


          ◇


 うぎゃっ!

 オディールはゴツゴツした岩の上に激しく落ち、思わず悲鳴をあげた。

 いてててて……。

 お尻をさすりつつ、周囲を探ると、陰鬱で湿っぽい洞窟のようである。

 岩肌の凹凸の間から、幻想的な青い光を放つキノコがいたるところに生い茂り、洞窟をぼんやりと照らしていた。

「えっ? 洞窟……? こんなところに神殿なんてあるのかなぁ……」

 洞窟はくねくねとカーブしており、全貌は分からない。だが、音の反響具合からするとどこまでも続いているようだった。

「くぅ……。何だよここは……。急がないとなのに!」

 ミラーナのことが頭に浮かび、焦りは募るが、どちらへ行ったらいいかすら分からない。オディールはため息をつくと、意を決して緩やかながら上りの方へと足を進めた。

 洞窟は広くなったり狭くなったりしながら、時々分岐を繰り返し、どこまでも続いて行く。出口どころか神殿に関するものも何もなくただ岩肌が続くばかりだった。その終わりのない迷路にオディールは泣きそうになってくる。もしかしたら同じところをクルクルと回っているだけかもしれないのだ。そうであれば自分もミラーナも破滅である。

「まずい、まずいぞ……。神殿なんか本当にあるの……?」

 オディールは絶望に囚われそうになりながら、ハァハァと息を荒く切らし、ただひたすらに前を目指した。

 と、その時、かすかにベンベンという楽器のような音が耳に届く。

『え……? 誰か……、いる?』

 オディールは期待と不安が交差する中、音の方向へ駆け出した。

 響いてくる音は弦楽器を思わせる優美な調べで、やがて憂いを帯びた歌声が聞こえてくる。ポップスのような明るさは微塵もない、哀愁に満ちた旋律だった。

 そのうちに何を歌っているのかが聞こえてきた。

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の、鐘のこえぇぇえぇぇ……』

 少し調子はずれた、中年男のだみ声が平家物語の冒頭を歌っている。

 は……?

 オディールは思わず足を止めた。

 異世界の井戸に潜ったら、聞こえてきたのは鎌倉時代の琵琶法師の歌だったのである。そんなものがなぜこんなところで歌われているのだろうか?

 ここでオディールは嫌なことに気が付いた。日本の歌を選んでいるのは、自分に向けた意図があることを示している。そして、平家物語は滅亡の物語であり、自分の破滅を皮肉るメッセージが隠されていた。なんという意地悪な歓迎だろうか。オディールはギリッと奥歯を鳴らした。

 だが、いかに不愉快な人物であろうと、手掛かりが見つからない今、会わずにはいられない。

「上等じゃないか!」

 オディールはパンパンと自分の頬を張り、気合を入れなおすと歌声の方へと駆け出した。


       ◇


 しばらく行くと中年男の姿が見えてきた。

 中世ヨーロッパ風の革のベストに白いシャツを着た小太りの男は、手に琵琶を持って気持ちよさそうに調子はずれの歌を歌っている。

 男はオディールを見るなり、猥褻(ひわい)な笑みを浮かべた。

「おやおや結城君、遅かったじゃないか。くふふふ……」

 オディールはキュッと口を結ぶ。やはりこの男は自分だと分かってここで待っていたのだ。

「あなたは誰ですか? 女神様の神殿へ行く方法を教えてもらえませんか?」

 オディールは感情を抑えながら、丁寧に言葉を紡いだ。

「くっくっく……。自分の間抜けさを女神にフォローしてもらおうって? 随分と自分勝手だなぁ、おい!」

 男はつばを飛ばしながら煽る。

「そうかもしれないですね。急いでいるんです。教えてくれませんか?」

 オディールは相手のペースに飲まれないように淡々と返す。この手の対応は前世のサラリーマン時代のクレーム対応で嫌というほど学んであったのだ。

「そう警戒するな。取って食おうとしとるわけじゃない。ただ、今の君では教えてもたどり着けんからなぁ。ぐふふふ……」

 男はニヤッと笑い、いやらしい目でオディールの身体を舐めるように見回した。

「そうですか? 試したいんですがいいですか?」

 オディールは身をよじって腕で胸元を隠し、不機嫌さを隠さずに男をにらんだ。
 男はペロリと唇をなめると楽しそうに言った。

「よし! こうしよう。これからクイズを出すぞ。答えられたら教えてやる。ぐふぐふっ」

「クイズ……?」

「君がたどり着けるかどうかが分かるクイズさ。どう、このホスピタリティ? くふふふ……」

 下品な笑みを浮かべる男。

 しかし、どんなに気持ち悪い奴でも、今、オディールに選択肢はなかった。

「わ、わかりました……」

「それでは行くぞ! 迷える子羊、結城くん特別クイーーズ! 『月夜の晩に雲が出て、誰も月を見てない状態になりました。月はどうなる?』」

 つばを飛ばしながら、楽しそうに大声で喚くと、男はニヤニヤしながらオディールの瞳をのぞきこむ。

 は……?

 オディールは困惑する。月は壮大な衛星だ。見ている人がいるかどうかと月の状態には何の関係もない。『変わらない』がどう考えても正解だ。

 しかし……。

 オディールは考え込む。そんな分かり切ったことをクイズにするわけがない。であれば、月は違う状態になる……のだろうが、一体どうなるかなんて見当もつかない。

 こんなバカげた哲学的な質問に正解などあるのだろうか? 単に自分をからかって楽しんでいるのではないか? オディールはギロリと男をにらんだ。

「くっくっく……。だから君には神殿にはたどり着けんのだよ」

 男は愉快そうに笑い、オディールはキュッと口を結んだ。

 何としてでも女神さまのところへたどり着いてミラーナを救わねばならないというのに、この体たらくである。

『考えろ……、考えるしかない……』

 オディールは目をギュッとつぶって必死に頭を働かせる。

 この時、天使に言われたことをふと思い出した。

『この世界は情報でできています』

 オディールはこの哲学的で不可解な言葉に、クイズと同じ匂いを嗅ぎ取った。

 『情報』とは一体何なのだろう? この世界はモノがあって、エネルギーがあって、それらの組み合わせで情報を表していると思っていたが、天使は『それは逆だ』と言いたいのではないだろうか?

 情報がモノやエネルギーを表現している……。オディールはどういうことか混乱しかけたが、ヴァーチャルゲームの世界がまさにその状態であることに気が付いた。

 3Dがグリグリ動くコンピューターゲーム。最新のものでは実際の景色と見まごうような精緻な世界を構成していて、思わず感嘆のため息をついたことを思い出した。

 天使が言いたかったことは、この世界はコンピューターゲームのような仮想世界だということなのかもしれない。それが本当かどうか確かめようもないが、もしそうだとしたらクイズの答えは何になる?

「くふふふ……。どうした? 降参か?」

 男は嬉しそうに笑う。

「ちょっと待って! もうすぐでわかりそうなんだから!」

 オディールはいら立ちを隠さずに叫ぶ。

 クイズの質問は月には関係なく、『コンピューターゲームを作っていて、見えないところにモノがある時、それは描画しますか?』という問題なのではないだろうか? だとしたら答えは簡単だ。そんなのは描画する意味もないので表示されない、それが答えになる。

 つまり、月を見てる人が誰もいなければ月を描く意味もない。月は消えているはずだ。

 そんな馬鹿な……。

 あまりにも荒唐無稽な結論にオディールは頭を抱える。

 とは言え、天使の話を前提とするならこれが答えだろう。他に良さそうな答えも思い浮かばないのだ。これで行くしかない。

 オディールは覚悟を決めるとキッと男をにらむ。

「答えが分かったわ。月は消えてるんでしょ?」

「ほほう……。これは驚いた。どうしてわかった?」

 男は目を丸くしてオディールを見る。

 どうやら正解だったらしい。しかし、それは逆にこの世界がリアルではないということを意味している。それはそれでオディールの心に不安を呼び起こす。

「この世界は情報でできてるんでしょ? で、教えてくれるんですよね?」

「うむ、まぁ、約束だからな。この先を道なりに行くだけだよ。だが、それでもまだ君には神殿へは入れない。どうだね、ワシの仲間にならんか? くふふふ……」

 男はいやらしく笑う。

「は? 結構です。僕は神殿へ向かうのでこれで……」

「あの娘を治してやるって言ってもか?」

 えっ!?

 オディールは驚いて男のドヤ顔を見つめた。

「『この世界は情報でできてる』ってことの意味をまだ君は理解しとらんようだな。【ズィールヘッグの血】という化学物質が実際に存在する訳じゃない。ステータスが毒状態になっとるだけだ。これを解除してやるだけでいい。分かるか? ウヒヒヒ……」

 オディールはなぜそんなゲームみたいな説明になるのか頭が追い付かず、ポカンと口を開けたまま困惑する。

 そんなオディールを見て、男はにやけながら言った。

「結城くん、君は高校で物理や化学を習っただろう? 君の【お天気】スキルを科学で説明してみたまえ。ん?」

「か、科学!?」

 オディールは唐突な科学の話に面食らった。祭詞を唱えるだけで雨が降り、風が吹く、そんなことは科学的にはあり得ないのだ。それを説明しろとは一体どういうつもりなのか? オディールは無理難題に圧倒され、力なく首を振った。