レイリアのギルドは、シーヴのような塔ではなく一階建てだ。中は酒場を兼ねていて、正面のカウンター兼受付では、食べ物や飲み物の注文もできるし、依頼の受発注もできる。
もちろん、機密性の高い依頼の場合は奥に個室が用意されているが、基本的にはざっくばらんにやり取りする形式をとっていた。
椅子やテーブル、カウンターをはじめ、よく手入れはされているが、どれも年季が入っているのは外の街並みと同じだ。
カウンターの奥には、所狭しと様々な種類の酒瓶や樽が並べられており、外の看板や、カウンターの一部に置かれた依頼受付の札やギルドの紋章がなければ、酒場そのものの作りだ。
まだ早い時間だというのに中はほとんど満席で、顔を真っ赤にして酔っ払った者たちも多い。一方で、依頼をやりとりしにきたであろう難しい顔もぱらぱらといて、なんだか不思議な空間だった。
都市全体はともかく、ギルドの内部に限って言えば、シーヴよりよっぽど騒がしい。
体験したことのない空気に、ノアは呆気にとられると同時に、少しだけほっとしていた。
レイリアの閑散として影のある様子は、馬車の中でパイクやエミリーが濁していた、レイリアの抱える問題の深刻さを物語っていた。
エミリーに案内してもらった街並みにも、ノアは内心で不安を覚えていた。
頼りの大図書館は、いったん外から眺めただけではあるものの、人の気配がないように感じられたし、商店街にしても、エミリーの実家では明るい笑顔に出迎えられたものの、半分ほどが営業しておらず、客入りもまばらだった。
議会にはそれなりの人が出入りしていたが、あまり明るい表情には出会えず、悲壮感すら漂っていた。
この調子ではギルドもどうなっていることか、と心配していたところに、この活気だったのだ。
「どうだ、すげえだろ?」
パイクが自慢げに腕組みをして、ふふんと笑う。
「うん、すごい」
「だろ? 依頼のきっかけになるネタは旨い酒場か飯屋に集まるもんさ。そんなら、ギルドでそいつを作ってやればいい。ギルドより酒場の方が盛りあがっちまう日が多いのは、ご愛嬌ってやつだな」
「すごい熱気というか、活気があるよね」
「うるさいって言っちゃっていいよ。まあ、すぐに慣れるし、これで意外と便利なんだよね」
パイクとエミリーの姿を認めたギルドの客たちが、歓声をあげる。どこをほっつき歩いてやがっただの、こっちきて一緒に飲めだの、野太い声が次々にとんでくる。
確かにパイクは、自分で言うようにギルドに顔がきくようだし、エミリーも大人気のようだ。
「ちょっとガラの悪そうな人が多く見えるかもしれないけど、基本的にはみんないい人だから」
入り混じった歓声と野次を適当にあしらいながら、エミリーが説明してくれる。
依頼のやり取りにはうるさすぎる気もするが、そこはレイリアに住む人たちの暗黙の了解があるのだろう。依頼受付と札のかかったカウンター付近は、他に比べれば落ち着いた雰囲気が出来上がっていた。
「とりあえず今日は奥だな。あれこれ手続きもあるし、説明事項も多い。そんなお堅いもんは、ばっと渡して本人が好きに読んでおけってなもんだと思うんだが、うるさいやつが多くてな」
「そういうところをちゃんとしなくなったら、ギルドが取り仕切ってる意味がないでしょ?」
ほれ、うるさいやつの筆頭がここにいるだろ?
わざとらしくエミリーに嫌そうな顔を向けてから、パイクは人でごった返した酒場の中をずんずん進んでいく。エミリーもそれに続いて歩き出し、するすると器用に人を避けていく。ノアだけがまだ慣れず、あちらこちらでぶつかっては謝りながら、どうにかついていった。
酒場を抜けて、カウンターの切れた端にある扉をくぐると、いくつものドアが左右に並ぶ廊下に出た。
機密性の高い依頼の詳細を聞いたり、今回のノアのように移住や長期滞在を希望している場合など、手続きに時間がかかるときに使う部屋なのだと、エミリーが説明してくれる。
どの部屋にも入ることなく奥へ進んでいくことをノアは不思議に思っていたが、三人は結局、一番奥の立派な両開きの扉の前までやってきた。
「さて、ここを入ればギルド長の部屋だ」
「長期滞在の手続きで、いきなりギルド長さんが会ってくれるの?」
手続きや説明事項があるのはシーヴでも同じだったが、担当はたいてい、ギルドでも新しいメンバーか、専門の事務方メンバーだった。よほどの重要人物でもない限り、ギルド長が直接対応することはまずない。
恐縮した様子のノアに、パイクとエミリーは顔を見合わせて吹き出した。
「うちのはね、ギルド長っていっても全然まったく、いっさい緊張しなくて大丈夫だから!」
「そんなこと言われても」
「うははは! よーし開けるぞ!」
両開きの扉を開けると、手前の酒場が嘘のような、洗練された部屋が現れた。
目に優しいクリーム色の塗り壁に、シンプルな応接用のソファとテーブル。奥には執務用と思われるデスクが配置されている。
天井の一角が吹き抜けのようになっていて、大きな窓が斜めについていた。壁には窓がひとつもないのに、ほんのりと明るい。日差しが強い日でも室内には直射日光が当たらず、快適に過ごせるよう設計されているらしかった。
「適当に座ってくれ」
言いながら、パイクがソファにどっかりと腰をおろす。エミリーもその隣に座り、ノアにも正面に座るよう促した。
「あの、ギルド長さんは?」
執務用のデスクにも、部屋のどこにも人はいない。
おずおずと聞いたノアに、パイクとエミリーは部屋に入る前と同じように顔を見合わせて、にやりと笑う。
「あっはっは! そんだけきょとんとしてくれると、言わなかった甲斐があったな!」
えほん、とわざとらしい咳払いをひとつして、パイクがこれまたわざとらしく背筋を伸ばし、どこまでもわざとらしい真面目そうな顔を作った。
「ようこそ、レイリアギルドへ。俺がギルド長のパイク、J・S・パイクだ」
三人がソファに座ったところで、扉がノックされる。
飲み物を持ってきてくれたのは、馬車でもいっしょだった補助魔術師のジェマだ。今は旅装を解いて、馬車の時よりゆったりしたローブ姿をしている。
お礼を言って飲み物を受け取ると、ノアはあらためてパイクとエミリーに向き直った。エミリーの隣に、ジェマも座る。
「パイクがギルド長だったなんて、本当にびっくりした」
「ね? だから緊張しなくていいって言ったでしょ?」
「黙ってて悪かったな。レイリアまで戻ってきちまえば面も割れてるし、どうでもいいんだがな。よそではわざわざ名乗るのは控えろってまわりがうるさくてよ」
「こんなんでも一応、うちのトップだからね。何かあっても困るじゃない?」
そうそうやられやしねえっての、と口を尖らせるパイクは、昨日今日といっしょに旅をしてきたままの自然体で、ノアはなんだか嬉しくなった。
シーヴでは、地位の高い者や、実力や功績が上の者へ意見することはよしとされていなかったし、パイクとエミリーのような関係性は滅多にないことだったからだ。
同じ態度で自分にも接してくれることに驚いたし、ノアにとってそれは、とても新鮮な体験だった。
「もうひとつ種明かしをすると、色々と道中でお話を聞きはしたものの、ノアくんの素性が知れなかったこともあります」
冷たい飲み物に口をつけて一呼吸おいてから、ジェマが苦笑いした。
「お前さんが言ってたとおりっつうかな。いくらエミリーの昔馴染みっつっても、ギルド追放に処刑寸前となりゃあ……まあ一応な」
パイクがつんつんの金髪をかきあげて、申し訳なさそうにする。
「結果的に、お前さんの考え方やら、とんでもねえ力やらを間近で確認できた。そんなわけだ、何度も試すような真似をしてすまなかった!」
「そんな、謝らないでよ。エミリーの知り合いっていうだけで、ものすごく怪しかったはずの僕を快く馬車に乗せてくれたし、ここまで来る途中もすごくよくしてもらったから」
頭を下げたパイクを、ノアは慌てて制する。
ギルド追放、処刑寸前、果ては家を焼かれるほどの恨みを買っている得体の知れない人物……普通なら、馬車に乗せようなどとは思わない。ギルド長として都市を預かる立場なら、なおさらだ。
それとなく事情を聞かれる質問は何度かあったが、そこにも一定の配慮があった。ノアにしてみれば、感謝こそすれ、頭を下げて謝られることではない。
「当然だと思うし気にしないよ。むしろ、僕の話を信じてくれてありがとう」
「そうか、ありがとよ。まあ、エミリーの顔を見てりゃ、悪いやつじゃないだろうとは思ってたさ。それに、何かあっても全員でかかりゃ、たいていの相手は組み伏せられるっつう計算もあったしな」
パイクが勢いよく顔をあげて、にやりと笑う。
直感を信じ、仲間を信じ、自身の目で見極め、何かあったときの対処も冷静に考えられる。
しかも、そんな種明かしをさらりとやっても許される雰囲気が、彼をギルド長たらしめているのだろうと、ノアは感心する。
「さて、しっかり腹を割って話せたところで本題だ。お前さん、これからどうしたい? 変わりたくねえかなんて煽りはしたが、決めるのはノア、お前さん自身だからな」
ノアはこくりとうなずき、背筋を正して考える。
シーヴでの扱いに憤りや思うところはもちろんあるし、できるなら形見を取り戻したい気持ちもある。しかし、根本を辿れば、自身の無自覚と不勉強にも原因はあると、ノアは考えていた。
まずはシーヴの外……つまりはここレイリアで生活基盤を整え、自分の能力をちゃんと知り、それを活かせる道を探したい。しっかりと一人前になって、シーヴの面々と対等に話せるようになったその時こそ、形見を取り戻すときだ。
そのためには、兎にも角にも先立つ物がなさすぎる。ノアは今、硬貨一枚すら持っていないのだ。
「ギルドの仕事を頑張りたい気持ちはあるんだけど、あの……どこか住み込みですぐに働けるところとか、ないかな……? そういう依頼でもいいんだけど」
「あっはっは! まあそうだよな。お前さんの場合、どうしたいっつうか、今のところどうしようもねえもんな。ギルドの依頼なら達成すりゃその場で報酬は出る、そこの仕組みはよそと大した違いはねえはずだ。しかし住み込みとなるとどうだろうな。食っていくために、なんでもやってやろうって覚悟はあるのか?」
「パイク、そんな問い詰めるみたいにしなくてもいいでしょ」
「駄目だね。俺は今、ギルド長として、ノアの考えを聞いてるんだ」
「……頑固なんですから。ノアくん、適当に答えて大丈夫ですよ。こういう言い方をするのは、気に入った相手だけなんです。めんどくさいおやじでしょう?」
「おま、ジェマさん!? せっかく真面目な顔してんのになんてこと言ってくれんだ」
してやったりのジェマと、どうにか威厳を保とうとするパイクを交互に眺めて少し笑ってから、ノアははっきりと答えた。
「もちろん、僕にできることはなんでもやろうと思ってる」
「ノア……無理しちゃ駄目だよ」エミリーが心配そうに声をかけるが、ノアは小さく首を振った。
「パイクが言うとおり、僕は何も持ってない。ギルドの仕事も頑張りたいし、自分の能力についても調べてみたいけど、まずはちゃんと一人で暮らせるようにならなくちゃ」
「いいだろ」
にやりと笑って、パイクが自分の膝を両手で叩く。
その表情は満足そうで、頑張って作っていたらしい真面目な表情は、すっかりどこかへ消えている。
隣でジェマが、「ギルド長らしくしようとか、本当に似合わないんですからやめておけばいいのに」とくすくす笑う。
「このギルド本部のどれか一部屋、好きに使っていいぞ。そのかわり、依頼の他に酒場も手伝ってもらいたい。まかないって形で飯も三食つけてやる。どうだ、悪かねえだろ?」
ノアはぽかんとしてしまった。今のノアにとって、条件がよすぎて、断る理由が見当たらない。反対に、そこまでしてもらっていいのか迷ってしまう。
「僕なんかのために、そんなによくしてもらっていいの……?」
「気にすんな。お前さんの能力には期待してるんだ。一人で無茶な稼ぎ方して潰れられちまったら、こっちとしても困るってもんだ。持ちつ持たれつってやつだな」
「ありがとう……酒場の仕事も頑張って覚えるし、依頼も頑張るよ!」
シーヴとはギルドとしての体制や考え方が、根本的に違うらしい。
ノアは戸惑いながら、パイクから差し出された手を握り返して、頭を下げた。
「よし、そんじゃあ早速だが、これから酒場に出てもらう。そのローブじゃ酒場には向かねえか。とりあえずサイズは適当になるが、制服を貸してやるよ」
パイクが立ち上がり、ノアもそれに続く。
「ちょっと。いくらなんでも今日からいきなりなんて」
「甘やかすな、エミリー。普通に移住やら長期滞在しようってんなら、宿に泊まれる金くらい持ってくるもんだ。ところがこいつは何も持っちゃいねえ。昨日聞いたろ、火事のどさくさで有り金すられちまってんだからよ。あっはっは!」
「すぐに手伝わせてもらえる方が、僕もありがたいよ。よろしくお願いします!」
パイクがにやりとした笑みを浮かべ「本人はこう言ってるが、どうだ?」とエミリーに視線を移す。
頬を膨らませながら、エミリーも渋々、わかったわよと返事をした。
ギルド長の部屋を出ると、パイクはすぐ脇の部屋のドアを開けた。
「誰もいねえな。よし、部屋はここでいいだろ。制服は……こんなもんか。先に行ってる、着替えたら出てこいよ」
部屋割りはかなり適当だ。
きょとんとしてしまったノアに、反対側の部屋から制服を引っ張り出してよこすと、パイクは手を振ってのしのし歩いて行ってしまった。
ノアは手早く着替えを済ませ、部屋を出る。
「あんまり無理しないで、わからないことがあったらなんでも聞いてね」
「なかなか似合っていますよ」
部屋の前には、エミリーとジェマが待っていてくれた。
「ありがとう、できるだけやってみるよ」
二人について酒場に出ていくと、カウンターに寄りかかって客といっしょに大笑いしていたパイクが、「お、きたな」と咳払いをして、姿勢を正す。
「よーしみんな、ちょいとこっちに注目してくれ!」
酒場の喧騒をかきけす大声で叫び、パイクが両手を広げた。酒場中の視線が集まる。
注目が集まったことを確認して満足そうにしてから、パイクはノアを皆の前にぐいと押し出した。
「今日からうちのギルドに入るノア・ターナーだ。エミリーの昔馴染みで、とりあえずは仮加入ってとこだが、酒場の手伝いもやってくれることになってる。顔を合わせる機会も多いだろう。みんな、よくしてやってくれ!」
拍手と歓声、口笛が巻き起こる。
「よろしくな!」
「あんまり気張りすぎずに頑張ってね」
「エミリーの知り合いなら大歓迎だよ!」
まだ素性もしれないはずのノアを、警戒する様子もなく迎え入れてくれることに、ノアは驚きを隠せなかった。
それだけ、パイクたちが信頼されている証なのだろうが、それにしても、歓迎されたことがほぼないに等しいノアは、恐縮して頭を下げた。
「そんじゃあここからはギルドのおごりだ、じゃんじゃん飲んで食ってくれ! くそ生意気な新入りに乾杯!」
酒場中から歓声があがり、隣のエミリーが「くそ生意気は余計だけど、そういうことね。やるじゃない」とにっこり笑う。
「ええと? 今日からすぐに働くんじゃ?」
「真面目か! んなわけねえだろ! 歓迎会で主役を働かせるやつがどこにいるってんだ。こういう時は大きな声でありがとうでいいんだよ!」
「だって、制服に着替えろって」
「せっかくのお目見えなのに汗臭いローブってわけにいかねえだろうが。心配すんな、ローブはきちんと洗濯して返してやる」
「でもそんな、何から何まで申し訳なくて」
「かーうるせえうるせえ! じゃあこうしてやる! 昨日、魔物を追っ払ったときにお前さんは働いたな? そのあとがっつり説明してやったように、大きく貢献してくれたよな? そうだな?」
「まあ……うん」
「その報酬で今日の飯代を持ちやがれ! これならどうだ!」
「まだちょっと申し訳ない気がするけど……そういうことなら」
「よーし、決まりだ! みんな悪いな、ギルドのおごりはなしだ!」
とたんに、ふざけんな、金返せ、お前がおごれと野次がとぶ。
「待て待て、ちゃんと聞け! そのかわり、今日の酒と飯はこのノアのおごりだ! ちゃんと礼を言ってこいつの話を聞いてやれよ。ノアをスルーしやがったやつには後から酒代きっちり請求すっからな!」
うおお、と先ほどより大きな歓声があがる。
歓声と拍手に応えてから、パイクが呪文のように酒と食べ物の名前をずらずら叫ぶと、カウンターの奥にいた数人が、くすくす笑いながら準備を始めた。
その間にノアは、ジェマとエミリーに引っ張られて、手近なテーブルに移動した。
パイクが、カウンターから直接、いくつかの料理と飲み物をもってきて、まだ戸惑うノアの前にどんと並べる。
「せっかくの縁だ。しばらくうちでやっていくなら、楽しくやりてえじゃねえか。騒がしいのが苦手だってんなら、明日からは無理は言わねえ。まあ、今日だけでもギルド長の顔を立てると思って付き合ってくれや」
「ノアくんのこと、かなり気に入ったみたいですね。照れ屋も大概にしろって言ってやってください」
ジェマがさらりと通訳し、パイクが「なんてこと言いやがる」と真っ赤になる。
「あはは、パイクは照れ屋なんだね」
「ノア、てめえ!」
「冗談だよ。でも本当にありがとう。明日から、酒場もギルドの仕事も頑張るね!」
この日、レイリアギルドの酒場は、夜遅くまで笑い声の絶えない大賑わいだった。
まだ薄暗い時間に、ノアは目を覚ました。
染みついた生活リズムは、多少の夜更かし程度で変わることはないが、さすがに少し体がだるい。
昨日はずいぶんと大騒ぎをしてしまった。あんな体験をするのはほとんど初めてだった。
シーヴのギルドでも、昨日のような宴が催されることはもちろんあった。しかし、輪の中にノアが入っていた記憶は数えるほどしかない。
その数少ない記憶にしても、片付けをやっていたり、飲み物の補充に駆け回ったり、そんなものばかりだ。
ノアは、そんな自分の立ち位置に疑問を抱いてこなかった。夢と希望を抱いて加入したギルドではあったが、実力不足は自分の責任だと思っていたからだ。
仲間に比べて劣っている自分が、何の活躍もしていない自分が、輪の中心でいっしょに笑う資格なんてないと思っていた。
「昨日は楽しかったな」
ぽつりとつぶやいてみる。
あれやこれやと質問ぜめにはされたが、それらは悪意のあるものではなく、これから共に過ごす仲間として歓迎するものであったし、即答できないものを無理強いされることもなかった。
飲み物がなくなっても、補充に駆け回る必要がなかったばかりか、主役なのだからと輪の中心に押し戻され、笑顔に囲まれて過ごすことができた。
「できる限りがんばってみよう」
ふわふわした暖かい何かを、自身を鼓舞する言葉に変えて、ノアはうんと伸びをして起き上がった。
服を着替えて廊下に出る。しんとした廊下に人の起きている気配はなく、ギルド全体がまだ眠っているようだった。
昨晩、何度か往復したのでギルドの構造はおおむね頭に入っていた。
外に出て、共同の手洗い場で顔を洗う。
ひんやりした風が濡れた肌を撫でていく。
見上げた空には雲ひとつなく、夜明け前の濃紺が広がっている。
「ずいぶん早いんだね、おはよ」
「おはよう、エミリー。なんとなくこの時間に起きる癖がついてるだけだよ。いつもこの時間に起きるの?」
「普段はもう少し遅いかな。昨日はギルドで部屋を借りて寝たから、なんとなく早くに目が覚めちゃった」
「いつもは家から通ってるんだ?」
うなずいて、エミリーも顔を洗う。
「酒場の仕事、今日は夕方の仕込みからだよね?」
「うん。大図書館は夜には閉まっちゃうからって、パイクが調整してくれた」
「そっか。そしたら、早速行ってみる?」
「うん、行ってみたい」
「じゃあ朝ご飯食べて一息ついたら、ギルドの前に集合しよっか」
「エミリー、忙しいんじゃないの? 昨日も案内してもらったし、一人でも大丈夫だよ」
「すごい。ノアが私に気を遣えるようになってる! 大人になったんだね!」
「さすがにあの頃と比べたら、そりゃあそうだよ」
そっか、とくすくす笑って、エミリーは「大丈夫、私も調べ物があるからそのついでだし」と続けた。
「そうだ。図書館に行く前に、商店街に寄ってもいい?」
「もちろんいいよ、家に顔を出しておく?」
「家にも戻りたいけど、魔道具の工房に連れていきたくて。魔物の討伐にも出るなら、あのロッド、そのままじゃ困るでしょ?」
「……そうだね」
ノアは、部屋の隅にそっと立てかけてある折れたロッドを思い浮かべた。
父の形見として大切にしてきたものだ。できれば修理したい。
もしそのまま使うのが無理でも、先端の石だとか、一部だけでも残せる方法があればそうしたい。
「修理の前にちょっと頼みたい事もあるんだけど、大丈夫?」
「もちろんいいよ」
ノアは中身も聞かず、ふたつ返事でうなずいた。
それを見たエミリーが、目をじっと細めて口をとがらせる。
「ノアっていつでも誰にでもそうなの?」
「いつでも誰にでも?」
「どんな頼み事かもわからないのに、ノールックで返事しちゃっていいのかってこと。ちょっとどころか、ものすごく大変な頼み事かもしれないよ?」
「誰にでもっていうわけじゃないけど。エミリーにはお世話になりっぱなしだし、僕にできることならなんでも手伝うよ。本当はものすごく大変な話なの?」
「うーん、多分ノアなら大丈夫、だと思う」
多分。だと思う。ずいぶんと含みのある言い方だ。
怪訝な顔をしたノアに、エミリーが苦笑いを返す。
「昨日でなんとなく気づいてるとは思うし、きっと色んな噂も耳に入ってると思うけど、うちってあんまり上手くいってなくてさ」
「昔はもっと活気があったって言ってたよね」
「うん。ノアは魔力炉って見たことある?」
魔力炉は、大陸中で発掘される、古代の遺物のひとつだ。ゼロから作り出せはしないが、破損が軽微であれば修理もできる。発掘され、まだ動くことがわかった魔力炉は、主に魔道具の工房や魔法灯などのエネルギーとして利用されている。
仕組みは単純なもので、球体の炉本体と、地面に突き刺すための脚から出来ていて、脚を突き立てるだけで、自動的に地面の下を流れる魔力流から必要な魔力を吸い上げてくれる。
そう珍しいものではないので、ノアもギルドの依頼で発掘を手伝ったことがあった。
「レイリアにある魔力炉、ほとんど動かなくなっちゃってるんだよね」
「どういうこと?」
「真下を流れてる魔力流が、すごい勢いでよどんでるんだって」
魔力のよどみは魔物を生み出し、生み出された魔物は人や動物を襲う。この大陸に暮らす者なら誰でも知っていることだ。
そして、魔力のよどみによる影響はそれだけではない。
ほとんどの魔力炉は、よどんでいない魔力でなければ、吸い上げても使うことができない。
また、人間にとってもよどんだ魔力はいいものではない。抵抗力が弱ければ、長時間そこにいるだけで体調を崩すことすらある。
「でも、都市の真下でなんて……そんなことってありえるの?」
魔力のよどみが発生するのは、死の谷のような特殊な地形や、都市から離れた場所であることがほとんどだ。
そもそも、大昔に主要な都市が作られたときから、そういうことが起きにくい地形や場所が選ばれているのだと、何かの本に書かれていたのをノアは思い出す。
「実際に起きてるんだから、なんとかしていくしかないよ。それでね、ギルドに依頼がきてるんだよね」
「原因を突き止めて、レイリアを元に戻すってこと?」
「それもあるけど、今回のは工房から。魔力炉に魔力を補給してほしいって。残念ながら、今のところ未達成。成功報酬だから報酬はもらえないわ、総出であたったうちの魔術師たちは自信をなくすわ、ギルドの評判も急降下中だわ……残念の連鎖ってわけ」
エミリーが肩を思いきり落として、首を横に振る。いっそわざとらしい仕草だと思ったら、ぱっと顔を上げてにっこり笑顔を見せた。
「というわけで、ノアの出番じゃない? 成功報酬をきっちりいただいて、ギルドの汚名も返上して、クライアントも大喜び! どう?」
「どうって、そりゃあ頑張ってみるけど……ギルドの魔術師総出で駄目だったって聞くと不安かも」
「何言ってんの! いい? ノアはお金をもってない!」
びしっと人差し指を突き出され、ノアは後ずさる。
「形見のロッドを修理するにしても、かわりを探すにしても、当たり前だけどお金はかかるでしょ?」
「……そうだね」
「ここで期待以上の成果を見せて、恩を売ってさ」
「ええ……」
「感動にむせび泣くクライアントさんにお願いすれば、ロッドの一本や二本、新しいローブ付きで作ってくれるかもしれないよ?」
「むせび泣くって……そんなことにはならないんじゃない?」
「いいからいいから! ノアは思いっきりやっちゃえばいいんだって。ほら、行くよ。明るくなったらみんな起きてくるから、とりあえず戻ってご飯にしよ!」
白み始めた空を背にして、エミリーが駆け出す。冗談のような言い方をしてはいたが、目の奥は本気だった。一抹どころではない不安を抱えつつ、ノアもひとまず駆け出した。
「ふ……ぐうう……えぐ……くうっ!」
ノアとエミリーの前で、光り輝く魔力炉にしがみついて、ひょろりとした男がむせび泣いている。銀縁の眼鏡が魔力炉にカツカツと当たって痛そうに見えるが、それを気にした様子もない。
工房の中心に据え付けられた中型の魔力炉は、ノアやエミリーの背丈ほどもある。
それを長い両腕で抱えこみ、しがみついて頬ずりをしながら、男はひたすらに涙を流していた。
「よくきた……よおく帰ってきたね……ぼくのかわいい魔力炉ちゃん……ふぐうっ……もう二度と……君を離しはしない……!」
「うわあ……さすがに引くわ」
「ちょっとエミリー、失礼でしょ。そんな顔しちゃ駄目だよ」
魔力炉がかつてない輝きを取り戻し、工房が歓喜に包まれたそのあと、最初こそ手をたたいて喜んでいたエミリーだったが、工房の主である男……魔力炉にしがみつき、むせび泣くデイビットが炉に頬ずりを始めたあたりで、完全に情緒がリセットされてしまったらしい。
デイビットは、背丈だけならパイクと同じくらいの高身長だが、線が細く、どこか蜘蛛を思わせる手足の長さをしていた。
オールバックになでつけたロマンスグレーの髪と、きらりと光る銀縁の眼鏡の奥に光る鋭い眼光は、黙って立っていれば知的な雰囲気に見えたことだろう。
ギルドからの依頼でやってきたのだというぎりぎりの理性で、ノアにしか聞こえない声に抑えてはいたが、エミリーは完全に引いていた。
「自分の父親ながら、似たくないよねあれには」
デイビットの娘で、工房の職人でもあるサラが、父親を止めるのはもうあきらめているのか、ため息まじりにぼやく。
サラも、デイビットと同じロマンスグレーの髪をしているが、デイビットとはあまり似ていない。
作業用のシャツとパンツ姿だが、デイビットのような不健康さはなく、活発な印象を受ける。高い位置でゆるりとお団子にまとめた髪と、くりくりと大きな瞳がそう見せているのかもしれなかった。
「喜んでもらえたのは嬉しいけど、もしかしてちょっとやりすぎちゃったのかな」
「うわあ……ノアはノアでぜんっぜん自覚が足りないみたい。よく見て? わけわかんないくらい光ってるよね? あんなの見たことないよ? 逆にどうなの? ノアが知ってる魔力炉って全部あんな感じ? 無自覚に全部あんな感じにしてきちゃったの? なんかいろんな常識が覆され続けて疲れちゃった。早くお金もらって帰りたい」
「エミリー!? なんか怖いよ!?」
ギルドから来たことを伝え、懐疑的な顔をされながら案内された工房で、ノアがやったことといえば、両手をかざして魔力炉にするりと魔力を流し込む程度の感覚だった。
「お前さんの能力は、こうなるといいなってイメージが大事だと思うぜ。いっしょに戦うメンバーの魔法を見て、こうなるんだろうな、こうなったらすごいなってのを無意識に想像してたろ? 他で能力を試すなら、その感じを忘れないことだな」
パイクから受けていたアドバイスを思い出して、それを実践しただけだ。
魔力炉が光を取り戻し、職人たちが次々と精巧な魔道具を仕上げ、レイリアに活気が溢れる……目を閉じて、そんな光景を思い浮かべた。
目を閉じて集中していた時間は、そう長くはなかったはずなのだが、エミリーに肩をぐいぐいと揺さぶられてあわてて目を開けると、すでに異変は始まっていた。
炉の中心部に微細な振動とともに生まれた小さな光は、うねりをあげて魔力炉全体に広がり、工房をこうこうと照らすまばゆい光体となった。
そもそも、この魔力炉への魔力補充の難易度が上がっていた原因は、炉が据え付けタイプだったからだ。一度設置してしまえば、そう簡単には動かせないようになっているうえに、よどんだ魔力を自動的に吸い上げてしまう。そのせいで、球体に少しばかりの魔力を注いだところで、すぐに駄目になってしまうのだ。
ノアは、それをものともしない大量かつ濃密な魔力を、あっという間に注ぎ込んだことになる。
「この完璧な輝き……艶めかしいフォルム……つるつるのお肌……まぶしすぎて……ああ……何も見えなくなっていく……!」
「え、サラちゃん……あれって大丈夫なの?」
「やばいね、止めなくちゃ。エミリーちゃん、ノアさんも手伝って!」
両目を見開いて、強い光を放ち続ける炉に顔をくっつけるデイビットを、三人がかりで引きはがす。ひょろりとした身体からは想像もできない力強さのデイビットを、三人は本気で体重をかけて、ようやく剥がすことができた。
「大丈夫ですか!?」
「感動するのはわかるけど、嬉しさのあまり近づきすぎて失明しちゃいましたとかやめてよね! 危うく体験したことない後味の悪さを味わわされるとこだったわよ!」
「どうもありがとう。ええと、君たちは……なんだったかな? ぼくはこれからしばらく忙しくなる予定なんだ、今すぐ出ていってくれるかい?」
「なるほど……行きましょ、ノア」
「え、本当に出ていくの?」
「うん。ギルドに報告。成功報酬を踏み倒すつもりみたいだから、次は議会で会いましょうね。よくて差し押さえ、悪くて追加で強制労働ってとこかしら。この工房は誰かが有意義に使ってくれるでしょ」
くるりと背を向けて、きびきびと歩いていくエミリー。
慌てたのはデイビットではなくサラだ。
「待って待って! お父さんの馬鹿! エミリーってば、そんなに怒らないでよ!」
工房内の金庫を開け、中からお金の入った布袋を持ってくると、サラがそれをエミリーに手渡す。
「怒るよ。そりゃあうちも何度か失敗してるし、やる前によくない顔をされるのは仕方なかったかもしれないけどさ。終わった後も話にならない、勝手に失明しそうになる、どうにか引きはがしたらさっさと出ていけだよ?」
「ごめんって。うちのお父さん、腕は確かなんだけどそれ以外が破綻してるからね。それより……報酬ってそれじゃ足りないよね? とりあえず動くようにっていう依頼だったのに、想像以上だったっていうか」
「ああ、いいのいいの。ギルドの方は契約終わってる話だし、これで大丈夫。でももし、個人的に報酬足りないかもって思ってくれるなら、ノアの話を聞いてあげてくれないかな?」
申し訳なさそうにするサラからノアに視線を移して、エミリーがばちんとウインクした。
ノアは持ってきたロッドを取り出して、「これなんですけど」とサラに見せた。
「これまた派手に折れちゃったもんだね。ちょっと失礼」
サラはそれを手に取り、しげしげと眺め、先端の割れた石をこつこつと指で叩く。折れた部分も入念に確認して、指でなぞった。
「あの、どうでしょうか? できれば修理して使いたいんです」
「ノアさん、丁寧語じゃなくて平気だよ。私、エミリーと同い年だし。でもごめん。これの修理はちょっと難しそうかな」
「わかった、ありがとう。僕も呼び捨てで大丈夫だよ。それで、難しそうっていうのは?」
さらりと即答したサラに、ノアは思わず身を乗り出す。
「ここを見てくれる? 赤い石から伸びた金属のラインがこうきて……ここで折れちゃってるわけ」
サラが指でなぞった部分には、確かに金属のラインが入っていた。上から色を塗って目立たなくしてあるようだが、それが赤い石の根本から、ちょうど握りやすそうにくびれた部分まで伸びている。
折れているのはそのラインの、ちょうど真ん中のあたりだった。
「ロッドにもいくつか種類があってね。これはこのラインから持ち主の魔力を吸い上げて、石に溜めて魔法に変換するタイプなんだけど、一度ラインが切れちゃうと流れがおかしくなっちゃうと思う。繋ぎ合わせてもあんまり意味ないっていうか。どこを握ってもざっくり魔力を吸い上げる方が初心者向けなんだけど、かなり上級者向けの仕様だね。さすがノア。めちゃくちゃデキる魔術師さんだもんね。っていうかこれ、うちの仕上げじゃない?」
「実はそれ、父の形見で、僕用に作ってもらったものじゃないんだよね。だから正直、あんまり使いこなせてるわけじゃなくて」
あら、そうなんだ。
意外そうにしながら、ロッドを眺めていたサラが、「あ、やっぱり」とつぶやく。
「ほらこれ。石のはまった台座のここんとこに、うちの刻印がある」
「そうなんだ。ノアのお父さんって、レイリア出身だったりする? この工房、腕はすごくいいけど、大陸中に知れ渡ってるって感じじゃないから、わざわざ他の都市からっていうのは考えにくいかも」
エミリーが刻印をしげしげと眺めて、ノアを振り向く。
「どうなんだろう、わかんない」
「ちょっと待っててね、父さんが何か知ってるかも。いいね、ルーツをひも解くのってわくわくしちゃう」
魔力炉にへばりついてインスピレーションを刺激されたのか、今度は作業台で一心不乱にメモを書きなぐりながら、ぶつぶつとつぶやくデイビットのところへ、サラがロッドを持っていく。サラを見送ったノアは、エミリーと顔を見合わせた。
「父さん、シーヴにずっといたんだと思ってた」
「この工房で作ってもらったんだとしたら、不思議な縁だよね。レイリアの話とかは聞いたことなかったの?」
「ないと思う。まだ小さかったから、あんまり覚えてないけど」
「そっか。確かお母さんは王都の出身だったんだよね?」
「うん。だいぶあとからギルドで聞いたんだけど、駆け落ちみたいな感じで出てきて絶縁状態だったらしいから、母さんの親戚に会ったことはないけどね」
父親の親戚の話も、ノアは聞いたことがなかった。両親が亡くなってからは、身寄りがないからと孤児院に入ることになったが、それに疑問を抱くには、当時のノアは幼すぎた。
自分の両親のことなのに、知らないことが多すぎる。ノアは小さくため息をつく。
もし父親を知るきっかけがレイリアにもあるのなら、少しずつでも知っていきたい。そう思った。
「ねえねえ。ノアって、ラストネームはターナーだったりする?」
興奮した様子で、サラがデイビットを引っ張って戻ってくる。
「うん、そうだよ」
「ほら父さん、やっぱりターナーさんだって」
作業を邪魔されて仏頂面をしていたデイビットだったが、サラにぐいぐいと引っ張られて、仕方なくという様子で、銀縁の眼鏡をかけなおしてロッドを手に取った。
目を細めて折れたロッドを眺めたかと思うと、みるみるうちに頬を紅潮させ、目を見開いた。オールバックになでつけたロマンスグレーの髪をがしがしとかきまぜるものだから、せっかくのスタイルが乱れてしまっている。
「驚いたな。これは確かにぼくの作品だ」
「ノアはね、ターナーさんの息子さんなんだって」
「んんんんん? おお! よく見ればディルにそっくりじゃないか!」
「父さんを知っているんですね?」
「知ってるも何も! ぼくが小さいころから、お兄さんのような存在だった人だからね。ああ、申し遅れたかな……ぼくはこの工房を預かっているデイビットといいます」
「いやいや、さっきまで魔力炉の件で依頼を受けてたじゃないですか。大丈夫ですか?」
斜め上の自己紹介を始めたデイビットに、ノアはびっくりして聞き返す。
エミリーとサラは思う節があるのか、苦笑いで視線を合わせている。
「おや、さっきは眼鏡をちゃんとかけていなかったからかな、失礼したね。なるほど、ディルのね。それなら先ほどのものすごい魔力にもうなずけるというものだよ」
眼鏡、ちゃんとかけてましたけど?
口から出かかった言葉をどうにか飲み込んで、ノアは話を先に進めることにした。ひとつずつ拾っていたら、話が進みそうにない。
「あの、デイビットさんが小さい頃からということは、父はレイリアの出身なんでしょうか? 僕、何も知らなくて、できれば教えていただけませんか?」
うんうんとうなずくデイビットの表情は優しい。
目に涙すら浮かべて、ノアを懐かしそうに眺めている。
「ディルは確かにここの出身だよ。彼は魔術師、ぼくは魔道具技師としてお互いの夢をよく語り合ったものさ。そのロッドを作るときも、ずいぶんとわがままを言われて興奮したものだよ、懐かしい」
わがままを言われて興奮?
ところどころで気になるワードが出てくるが、ノアはこれも笑顔でやりすごす。
「父さんは結構、気が強い感じだったんですか?」
「気が強いというか、拘りは強かったかな。これじゃあ効率が悪いとか、もっと魔力を圧縮できるようにしてほしいとか、石はもっと派手に見せたいとか、面倒な注文ばかりでね。おかげでほとんど専用仕上げになってしまったから、だいぶ手こずったんじゃないのかい? それとももしかして君のことだ、そいつを使いこなしていたのかな?」
「いえ、それがあんまり……これって、魔力の集中を補助してくれるすごいロッドだって聞いたんですけど、父さん専用だったんですか」
「んふふふ、言いえて妙とはこのことだね。確かにそれは、魔力の集中を補助してくれるすごいロッドだよ。間違ってはいない。ただし、相当のへそまがりちゃんだけどね」
デイビットがばちんとウインクをきめる。
「使いこなせないと、どうなるんでしょう……?」
「それはもう、魔力が集まらなくて苦労するだろうね。ああ、お店の方はまだ見てなかったんだったかな? まとめて立てかけてある量産品の方が上手くいくくらいのじゃじゃ馬ちゃんだよ。上手く使いこなしたときの底知れぬパワーと、そうでないときの砂漠の夜のような反応の違い……かわいいだろう?」
そっとエミリーの手が肩に置かれ、ノアはがっくりとうなだれた。
ノアの魔法が遅い原因の一端が、大事にしてきた形見のロッドにあったことがわかってしまった。よく調べずに、形見だからというだけで使い続けてきたノアにも問題があるとはいえ、これはなかなかにショックが大きい。
「もうひとつ、手元にはないんですけど……母の形見の首飾りがあるんですが、もしかしてそれもこの工房で作られたものでしょうか?」
「首飾り?」
「はい。銀色の細い鎖で、赤い石がはまっていて。魔力を制御してくれるものだと聞いてます」
「ま、ま、まさか試練の首飾り……?」
不安そうな声色とは反対に、デイビットは頬を紅潮させ、はあはあと息を荒くしている。
「……どう受け取ったらいいですか、その反応」
「おっと、すまない。それも君がつけていたのかな?」
「はい。魔力の制御も課題でしたし、形見だったので」
「君はあれかな? んふふふふふ……変態さん?」
「違います! だからなんなんですか、その反応は!」
天井を仰いで、んふんふと笑い続けるデイビットのかわりに、サラが話を引き継ぐ。
「えーと。輝きを保つために魔力を吸い取り続ける、吸魔石っていうのがあってね」
「輝きが保たれると、どんな効果があるの?」
「ん? とっても綺麗だよ?」
「え? それだけ?」
「そう、それだけ」
けろりと答えたサラに、ノアはがっくりと膝をつく。
「ああ、まあ、いつでもどこでも訓練したい人にはおすすめかもしれないよ。寝ても覚めても、身に着けている間ずっと、ぐいぐい魔力を吸ってくれるから。魔力を制御……っていう言い方もまあほら、なくはないのかも?」
手元にないってことは、今は身に着けずにしまってあるってことだよね。それならよかったんじゃないかな。なんとも言えない慰め方をしてくれる、サラの優しさが痛い。
まさか両方とも、まともに使えない品だったとは。この工房で両親と形見のルーツを知れば知るほど、ノアは落ち込んでいくばかりだ。
「でもそうすると、これは僕には使いこなせそうにないんですね」
「使える使えないは君次第かもしれないけど、そもそもそれの修理ができないからね。サラが言っていただろ?」
修理の話をしている時点では、完全に別世界に意識を飛ばしていたかに見えたデイビットが、きりりと答える。
「聞こえてたんですか?」
「魔道具のことについて、どうしてぼくが聞き逃していると思ったんだい? 君はぼくをなんだと思っているんだ」
「え、あの、ごめんなさい?」
「君が欲しいのは実戦で使える品だよね? ロッドの顔をした飾りが欲しいというだけなら、やってあげないことはないけどね。その子をよそに持っていかれていじくりまわされるよりは、まあマシだ」
「……そうですね、飾りでは困ります」
ノアがほしいのは実戦に耐えうる武器であって、飾り物ではない。
「そうこなくてはね。それなら、ノアくんにあわせた最高の品を作ってあげられると思うよ。幸い、紅魔石は生きているようだ。それにあんな魔力を魅せつけられたら、もう興奮してしまって……それが僕の作ったかわいい子からあふれ出すところを是非とも見たい……他の工房の扉は、二度とくぐれないと思ってくれるかな」
「すごいねサラ。デイビットって、絶対ぶれないよね」
「ありがとう、職人の鑑ってことでいいんだよね?」
エミリーとサラが、皮肉を投げあって乾いた笑みを飛ばしあう。
「紅魔石……この赤い石のことですか? でもこれ、割れちゃってますけど」
いやいや、とデイビットが首を横に振る。
「割れているのは外側だけさ。ディルがデザインにこだわったせいで、分厚くコーティングしてあるだけなんだ。中の石は無事だよ」
「それじゃあ!」
「そう。石をベースに新しいロッドを作れるんだよ」
ぜひお願いします、とはしゃぐノアとエミリーに、デイビットがずいと近づき、声を低くした。
「ときにノアくん、先ほどの魔力で何割くらいなのかな? いやね、どの程度の魔力量に耐えられるものを作るべきなのかを知りたくてね」
デイビットに聞かれて、ノアは考え込んでしまう。
そもそもが無自覚にやってきたことで、意識して魔力の譲渡を試したのは今回が初めてだ。
限界がどこにあるのかは、ノア自身もまだ把握できていない。
「実はわからないんです。さっきくらいの量なら、何回でも大丈夫だとは思います」
「んは、何回でも……!?」
「え、本当に? 工房が明るくなっちゃうくらいの量なのに?」
のけぞって身体を震わせるデイビットと、口をあんぐり開けて驚くサラ。
エミリーはだんだん慣れてきたのか、薄笑いを浮かべてノアを見ている。
「限界がわかっていないと、作るのは難しいでしょうか?」
「専用に作るなら、わかっていた方がやりやすくはあるよね。あとは、魔法を使うときの手癖とか、そういうのも見ておけた方が嬉しいかな」
いち早く我に返ったサラが答える。
「でも、工房の魔力炉でも全然測れないんじゃ、どうしようかね」
サラが考え込んでしまい、良い案の浮かばないノアもまた、今もきらきらと輝く魔力炉をぼんやりと眺めてしまう。
デイビットに至っては、「あの魔力量でお遊び程度だとすると、んふふふ」と早口でぶつぶつとつぶやきながら、のけぞったままの体勢でざりざりとメモにペンを走らせている。声をかけられる雰囲気ではないし、かけたところで話が散らかるだけだろう。
手詰まりかと思われた空気を破ったのは、すっと手をあげたエミリーだった。
「そういうことなら、うってつけの場所を知ってるんだけど」
「本当?」
ぱっと顔を輝かせたノアだったが、すぐに冷静になって身構えた。エミリーが含みのある、いかにも企みのありそうな笑顔でノアを見つめ返してきたからだ。
一歩引いたノアの腕をがっしりと掴んで、エミリーが笑みと眼光を鋭くする。
「レイリアはノアの故郷だったわけじゃない? そんなレイリア復興の手助けができて、上手くいけば皆から感謝される上に、魔力量も測れちゃう……そんな素敵な場所だよ。どう? 行ってみるしかないよね?」
「焼き尽くせ……テラフレアあぁっ!」
バーバラの両手から放たれた巨大な火球が、魔物たちの群れの中心に着弾し、火柱が上がる。
「グギャギャ!」
完全に、群れごと仕留めたはずだった。しかし、炎に包まれながらも、雄叫びを発して数体の魔物が飛び出し、バーバラたちに襲いかかる。
「うそでしょ! きゃあああ!」
「ふざけんじゃ、ねえっ!」
間一髪のところで、ジャックが魔物を貫き、肩で息をする。
「ジャック……助けてくれたのねっ」
「バーバラてめえ、寝ぼけてんのか! あんなもんがテラフレアだと? とどめさすならきっちりさしやがれ、何のためにこっちが前で踏ん張ってやったと思ってんだ!」
「なっ……なによ! あんたたちがちゃんとしないから、取りこぼしたんでしょ! えらそうに命令しないで!」
大きく舌打ちをして、ジャックが残りの魔物に向かっていく。
この日の討伐も散々で、ギルドに戻る頃には誰も彼もが満身創痍だった。
「なんなのこれ! あーむしゃくしゃする!」
バーバラは、身に着けていた首飾りを乱暴に引きちぎり、床にたたきつけた。
何もかもが上手くいかない。議会やシーヴの住民たちからの評判は下がり続けているし、実際に成果も上がっていない。
それでも、自分だけはと思っていた。
投げ捨てたのは、シーヴギルドの英雄が身に着けていた首飾りで、追放したノアから奪い取ったものだ。
真っ二つに折れ、先端の石にもひびが入ってしまったがらくた同然のロッドは、せんべつにくれてやった。
だが首飾りは、トップにはめこまれた石が深紅の輝きを放ち、えも言われぬ美しさと輝きを放っていたので、もらってやったのだ。
親の形見なのだと泣きじゃくり、最後の最後まで手放そうとしなかったものだから、どれだけの品かと楽しみにしていたというのに。
バーバラが身に着けて数日で、みるみるうちに輝きは色褪せ、乾燥してしおれた果実のような見た目に変わってしまった。
そればかりか、身に着けているとどうにも肩が重く、調子が出ない。
「あのガキ、呪いの首飾りなんて押しつけやがって……!」
追放に加担し、あまつさえ無実の罪すらきせて、率先して首飾りを奪い取ったことなど忘れたかのように、バーバラは怒り狂った。
「ものにあたるんじゃねえよ」
荒れ狂うバーバラを遠目に、ジャックが面倒くさそうに吐き捨ててギルド本部の奥へと消えていく。
調子が上がらないせいで、ジャックとの仲もぎくしゃくしている。
チームはすっかりばらばらで、ジャックの個人技で、以前より格下の魔物をどうにか倒して依頼達成の数を稼ぐのが精一杯。
バーバラ自身も、原因不明の魔力切れや出力不足に悩まされている。
議会や住民だけではなく、ギルド内での評価も下がる一方だ。エースチームの特権だった最上階の広々とした部屋からは追い出され、今ではメインホールからたった一階上の、狭苦しい部屋に押し込められている。
「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんなぁっ!」
床に落ちた首飾りを何度か踏みつけて、肩で息をしたバーバラは、にんまりと醜悪な笑みを浮かべて、首飾りをそっと拾い上げた。
「ぜひお譲りいただきたい、なんて言っていた商人がいたわね」
見た目は少しくたびれてしまったが、品は同じだ。
あのときに提示された額で、ぜひとも買い取ってもらおうではないか。
まだ溜飲が下がらず、ギルド本部の扉を乱暴に蹴飛ばすと、バーバラはのしのしと商店街区画へと消えていった。
レイリアは大きく分けて四つの区画に分かれている。
まずは、北側に位置するギルド区画。ギルドにかかわる人々がそれぞれの居を構えており、酒場兼本部や訓練場、武器庫や食糧庫などが揃っている。
ギルド酒場は区画の南端にあり、そのまま南へ進むと、レイリアのほぼ中心にある大図書館を抜けて商店街区画に入る。エミリーの実家や魔道具の工房があるのがこの区画で、ギルド用の大量の物資は外へ買い出しに行く必要があるが、レイリアに住む人々が買い物をするときはほとんどがこの区画を利用する。
レイリアの真ん中を縦断するような配置でギルド、大図書館、商店街が並んでいる形だ。
東側の区画は一般の住民が暮らす居住区画、西側は議会区画だ。議員用の宿舎や専用の住居、事務所などは西側に連なって建っている。
議会や居住区、商店の位置は都市によって様々だが、大抵の都市では中心部にギルド本部を構えている。大図書館が中心に据えられたレイリアは、この大陸においては少し変わった配置だと言えた。
デイビットとサラをともなってギルド酒場に戻り、昼食をとったあと、片付けと掃除を手伝ってから、ノアたちはエミリーに連れられて、大図書館にやってきた。
大図書館に入るのは、ノアにとってこれが初めてだ。
レイリアにやってきた昨日は、時間の関係で遠くから眺めるだけだった。今日も先に工房へ行ったので横目に見た程度で、中には入れていない。
改めて間近で見る大図書館は、大きくて立派だった。
十階建ての塔になっていて、鈍色の壁に、壁より少し濃い色の金属細工が張り巡らされている。シーヴギルドの壁に細工してあった簡易結界に似ているが、建物から地面を伝い、都市へ散っていくラインを見るに、もっと大がかりな仕掛けがあるように見えた。
ただし、今のところそれは機能していないらしく、魔力の流れやなんらかの力は感じられない。
エミリーが言っていた、レイリアのためになって魔力量を測るのにもうってつけというのは、これのことだろうか。
大図書館を巡るどころか、レイリア全体に伸びていくほどの仕掛けであれば、起動するのにどれだけの魔力量が必要なのか見当もつかない。
確かにこれは、限界を測るのにちょうどいいかもしれない。そこまでの力が、自分にあればの話ではあるが。ノアはぎゅっと拳を握って、大図書館を見上げた。
「あんまり人の気配がしないね。今日は休館日だったりするの?」
ふと、ノアは気づいたことを口にしてみる。
これだけの立派な建物だ。時間もまだ午後の早い時間であるし、もう少しにぎわっていてもよさそうなものなのに、あたりはしんと静まり返っていた。
正面に見える、ガラス張りの扉の奥も薄暗い。もしかしたら工房と同じように、魔法灯に魔力を供給する炉が停止してしまっているのかもしれない。
立派な建物に似つかわしくないひっそりとした空気に、ノアの表情は思わず硬くなる。
ちらりとエミリーを見やると、悔しそうな表情で大図書館を見上げていた。
「今日は別に休館日じゃないよ。ただ、ここに来る人がいなくなってるだけ」
「そう……なんだ」
「んふふふ、みんなそれぞれの生活で精一杯だからね。新しい知識や教養、好奇心を満たす余裕のある人は、今のレイリアにはほとんどいないはずだよ。ぼくの工房でも、残っている職人はぼくと娘のサラだけだしね」
「私は仕方なくだよ、父さん一人じゃまともに生活できないから」
職人としての誇りをかけて残ったのではないのか、と言い争う親子をそのままに、図書館の扉を開けて中に入っていく。
薄暗い館内はしんと静まり返っていて、空気もひんやりとしていた。デイビットたちの親子喧嘩がやけによく響く。
正面には受付らしきカウンター、その両脇に上へと続く階段が伸びている。カウンターの後ろが巨大な柱になっていて、柱をぐるりと回る形でフロアを一周できる造りになっていた。
壁にはところどころに細い柱が立っており、それ以外の麺はすべて、ぎっしり本が詰まった書棚になっている。一階だけでも、かなりの蔵書量だ。
入口のガラス扉以外に、大きな窓はない。小さな窓はついているが、蔵書に直接日光が当たらないように工夫されているらしい。今は消えてしまっているが、等間隔に魔法灯が据え付けられており、本来はそれで明かりを担保しているようだ。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」
ノアは声を出してみるが、返事はない。
わんと響いた声が、空間の広さを物語っていた。親子喧嘩をしていた二人の興味が館内に移ったことで、静寂が訪れる。
本当に人がいない。正面のカウンターにすら人の気配はなかった。
カウンターまで近寄ってみる。小さな魔法灯が置いてあるが、こちらも光を宿してはおらず、他には何も置かれていない。
知恵の都の象徴。大図書館のことをそう話していたときの、エミリーの少し寂しそうな表情の意味が、ノアはわかったような気がした。
「どうする?」
ずかずかと踏み入っていくのも気が引けて、ノアはエミリーを振り返る。
「六階か、最上階に館長がいるはずだから、とりあえずそこまで行こう」
エミリーはそれだけ言うと、カウンターの右側の階段を上がっていく。
ノアはデイビットとサラにも声をかけて、後に続いた。
階段の手すりに、うっすらとほこりが積もっている。館長がいるという話だったが、他には人がいないのだろうか。少なくとも、掃除までは手が回っていないようだ。
「ごめん」三階まで上がったところで、エミリーが前を向いたまま口を開く。
「え?」
「この間までは、受付にも人がいたんだよね……いなくなってると思わなくて、ちょっとショックだったから」
「……そっか、大丈夫だよ」
エミリーの言葉がぶっきらぼうだったのは、必死に頭の中を整理していたからだった。
ノアはそれ以上、何も言わなかった。心を痛めるエミリーに、ここで質問を重ねる意味はない。
四階、五階と進んでいっても、やはり人の気配はしないままだ。
デイビットたちの工房と同じように、ここも、色々な事情で少しずつ人が減っていったのだろう。
ついには受付のカウンターにも人がいなくなって、もしかすると、残っているのは館長だけなのかもしれない。
どの階も基本的には一階と同じ構造で、違うのはカウンターがないことくらいだった。
中央に太い柱があり、壁を一周する形で書棚と細い柱が並び、左右に二か所ずつ階段がある。
魔法灯が消えているので薄暗く、どことなく空気は重い。
「私ね、ここの館長と、魔力がよどむ原因を調べてるんだよね。よどみを元に戻す方法も」
エミリーがぽつりと話し始める。
六階に着いても人の気配はなく、魔法灯もついていないところを見ると、館長は最上階にいるのだろう。
まがりなりにもギルドに所属していたノアと、日常的に魔物討伐などにも出ているエミリーは問題ないが、普段は工房にこもりきりのデイビットとサラは息を切らしていた。
それに気づいたエミリーが、少しペースを落とす。
「パイクとか……ギルドのみんなも、それこそ他の都市への買い出しとか、前以上の依頼を受けたり、依頼以外でも自主的に魔物討伐に出かけたり、頑張ってくれてるけどね。根本的なところをなんとかしないと、レイリアは本当に駄目になっちゃうから」
「方法は見つかりそうなの?」
「いくつかあたりはついてきたけど、直接の原因特定はまだもう少しって感じかな」
レイリアのよどみは、ここ数年でみるみるうちに深くなっているという。
作物は育ちにくく、質が悪くなった。野生の動物は凶暴になり、魔物も増えた。ギルドや議会は都市の発展を考える余裕がなくなり、治安が少しずつ悪化していった。治安が悪くなり、魔物も多く食べ物もよくないとなれば、訪れる人は自然と減り、離れていく人も増える。まさしく負の連鎖だ。
シーヴ近くの死の谷のように、よどみやすい場所は確かに存在する。よどみが深ければ深いほど、強力な魔物が大量に生まれやすくなるし、人間への影響も大きい。
ただし、そうした場所が原因とは考えにくい。例えばシーヴでは、死の谷のせいで生活に影響が出るほどの影響は受けていなかった。
レイリアの地下を流れる魔力流が直接影響を受けるような、そんな原因があるはずだ。それを、エミリーは調べているのだ。
八階に到着したところで、後ろの二人を待ちながら、エミリーがくるりと振り返る。
「でもね、ノアが手伝ってくれたら、なんとかなるかもって思ってるんだ」
「僕が?」
「この大図書館のこともそうだし、魔力のよどみがどこからくるのかを調べる方法も、もしかしたら上手くいくかも」
エミリーの声に、ようやく明るさが戻ってくる。
ノアは大きくうなずいて、「僕にできることなら頑張るよ」と答える。
エミリーやギルドの皆には、シーヴから連れ出してもらった恩がある。しかもレイリアは、亡き父親の故郷だという。ここまで自分に縁がある都市のピンチを、そのままにしておけるはずもない。
ノアにしてみれば、自分の中に眠る能力と、その可能性を試す機会でもある。
自分の能力の限界を知り、自分に合ったロッドを作ってもらい、詠唱速度をどうにかする方法を見つければ、幼い頃に憧れたギルドの仕事を、今度こそこなしていけるかもしれない。
レイリアの窮地を肌で感じて、なんとかしたいという気持ちは本当だ。しかしノアの心には、不思議な高揚感も芽生えていた。
「もうすぐだから、頑張って」
ようやく追いついてきた二人を励ましてから、エミリーを先頭に最上階を目指す。
九階の階段はひとつしかなく、立派な扉がついていた。重たい扉を開いて階段を上がっていくと、他の階とは異なる造りのフロアが現れた。
中央の柱こそ同じだが、ぐるりと一周する書棚はなく、かわりにいくつかの扉があった。
どことなく、ギルド酒場の奥に似ている。
エミリーは他の扉には目もくれず、まっすぐに一番奥、階段側からみて、柱を挟んで反対側にある扉の前までやってきた。おそらくここが館長の部屋なのだろう。中からはうっすらと光が漏れていた。
ノックをすると、「どなた?」と女性の声が返ってくる。
「私よ。フローレンス、開けてくれる?」
「エミリー! ちょっと待ってね、すぐ開けるから」
コツコツと靴の鳴る音がして、両開きの扉が開く。
扉の先には、白と緑のローブに身を包んだ線の細い女性が、少し寂しそうな笑顔で現れた。
扉の奥から現れたフローレンスが、エミリーの後ろに立つノアたちに気づいて軽く会釈をする。
ローブより淡い緑色の髪がはらりと肩にかかった。透き通るような白い肌と、淡い緑の瞳が印象的だ。
フローレンスは、肩で息をするデイビットとサラに気づいて、まずは中へどうぞと室内に四人を招きいれ、特に疲労の色が濃い二人へ優先的にソファを勧めた。
ノアはぐるりと室内を見回してみる。内装はギルド長の執務室に近いだろうか。応接用のソファとテーブル、執務用のデスクが配置されている。
違うところといえば、壁一面が書棚に囲まれていることと、さらに奥へと続く扉があることくらいだろうか。他の階と同じで大きな窓はなく、ギルド長の部屋のような吹き抜けも見当たらなかった。
フローレンスは四人をソファに案内したあと、冷たい飲み物を用意してきますねと言い残して扉の奥へ消えていった。
「すごいね、フローレンスさん。僕たちと同い年くらいに見えるのに、館長さんなんだ」
「ノア、見た目でそういうこと言うのは失礼だよ」
「……ごめん」
「まあでも、おじいさんの後を継いでまだそんなに経ってないし、驚くのもわかるけどね」
エミリーと話しているうちに、フローレンスがトレイを手に戻ってくる。四人の前にそれぞれグラスを置いて、自身もソファに座った。
「冷たいお茶です、どうぞ」
ぶんぶんとうなずいてデイビットが手を伸ばし、サラもグラスにそっと口をつける。
「いきなりごめんね。下に人がいないみたいだったから、そのまま来ちゃった」
エミリーが肩をすくめると、フローレンスはやはり寂しそうに笑った。
「受付のベルが昨日でやめてしまったの。魔力の影響で、ご家族の体調が思わしくないそうで……引き止めるわけにもいかなくて。いよいよ、わたし一人になっちゃった」
「そっか。ご家族の体調じゃ、仕方ないよね。レイリアが元に戻ったら、きっと帰ってきてくれるよ!」
そうね、と笑うフローレンスの顔には疲れが見えた。
一人、また一人と減っていく職員を見送りながら、館長として踏ん張ってきたのだろう。
ノアは胸を締め付けられる気持ちになる。
「ところでエミリー、そちらの方々は?」
「紹介するね。この子はノア。私と同じ、ギルドの所属だよ。それからこっちはデイビットとサラ。魔道具工房の職人さんなんだ」
「よろしくお願いします。わたしはここの館長をしているフローレンス・レイリアと申します。エミリーのお友達でしたら、皆さんも気軽にフローレンスと呼んでくださいね」
にっこりと笑うフローレンスに、ノアたちも笑顔を返す。
デイビットだけはそれどころではないらしく、会釈なのか頭が揺れたのかわからない不思議な形で、そのまま背もたれにぐったりともたれかかってしまった。
「あの、そちらのデイビットさんでしたか……大丈夫ですか? 少し前までは自動昇降機が動いていましたけど、今はそれも止まってしまっていますから。慣れない方が十階まで来られるのは大変だったでしょう」
「大丈夫大丈夫。運動不足が身にしみただろうし、もう少し運動したほうがいいんじゃない? 放っておいたらいつまででも工房にこもりっきりなんだから。私も人のことは言えないけどさ」
あっけらかんとした様子でサラが答え、笑いを誘う。
「フローレンスは、毎日十階まで上がってきてるの?」
「いえ、わたしはここで暮らしているので。各階の様子は毎日見て回っているので上り下りはしていますけどね」
聞けば、フローレンスがお茶を持ってきた扉の奥には、お茶だけでなく料理をするスペースもあり、風呂トイレ完備、仮眠をとるベッドまで用意してあるのだという。
一応は居住区画に自宅もあるらしいのだが、図書館で寝泊りすることの方が多いらしい。
この部屋は執務用の館長室というよりも、一人暮らし用の部屋に近いようだ。
「それでねフローレンス、今日はちょっと試したいことがあってきたの。時間あるかな?」
「うん。閉めちゃうわけにはいかないから開けてあるけど、一人じゃ図書館は回しきれないし大丈夫だよ」
「ノアに、この図書館の魔力炉を見せてあげてほしいんだ」
フローレンスは少し考えるようにして、ノアとエミリーへ順番に視線を移す。
「ギルドへの復旧依頼はいったん取り下げてあるはずだけど、個人的にってこと?」
「そうだね。上手くいけばまた自動昇降機とか、検索もできるようになるかも」
「横からごめん。自動昇降とか検索……っていうのは?」
耳慣れない単語が続いたので、ノアは横から質問してしまった。
古代遺物の一種なのだろうというあたりはついていたが、いまいちぴんとこない。
「検索っていうのはね、各階にある端末から、蔵書を見つけてくれる古代遺物だよ」
「そんなことができるの!?」
「うん。一応、どこにどんな本があるとか、階ごとにカテゴリは分けてあるんだけど、それでも膨大な数だから……目当ての本を探すのって大変でしょ? 本か作者の名前の一部から一覧を出してくれるの。本に書いてある文章の一節からでも探せたはずだけど、たくさん出てきすぎちゃって使い勝手は微妙かも」
「……すごいんだね」
「今は動かなくなっちゃってるけど、知恵の都は伊達じゃないってこと! それから自動昇降は、好きな階にあっという間に行けちゃうの。ほら、この図書館って真ん中に太い柱があるでしょ? 一階のカウンターのちょうど裏側から柱の中に入る扉があって、柱の中を通って各階を移動するの。この階なら館長室を出てすぐの扉がそれだよ」
エミリーが得意げに説明してくれる。
「そんなものがあるのなら、早く言ってほしかったよ……」
背もたれに頭ごと預けたまま、デイビットがかすれた声を出す。
「今は動いてないんだってば。仕組みが複雑な分、図書館の遺物はかなりの魔力を溜めておかないと動かないからね」
「んふふふ、それは残念。ノアくんに直してもらってからくればよかった……」
「父さん、ノアの限界を測るためについてきたんでしょ? それじゃ順番がおかしくなっちゃうって」
サラが、デイビットの肩をこづくが、デイビットはすでに上の空だ。
「限界を測るって?」
首をかしげるフローレンスに、エミリーが説明を引き継ぐ。
「そうそう、それで魔力炉の話に戻ってくるんだけどね。ノアに魔力の補充を試させてほしいんだ」
「ギルドの皆さんにお願いしても、全然駄目だったのに、その……お一人で、ですか?」
「ノアはすごいんだよ。デイビットたちの工房にある中型の炉も、一人で完全復活させちゃうくらい」
「工房なら据え付けタイプでしょう? ダイレクトに魔力流の影響も受けそうなのに……すごい!」
「でしょ? それとは別に腕試しも兼ねてる感じなんだけど、どうかな? 試してみてもいい?」
エミリーが、ノアのロッドとデイビットたちについても説明してくれる。
驚きながらも、嬉しそうに話を聞いていたフローレンスが、ノアに向き直って大きくうなずく。
「わかりました、ご案内します。もし駄目でも、炉に危険はなさそうですし、成功すればお互いに助かりますもんね」
「ついでに、成功したらでいいんだけど、フローレンスにお願いもあってさ」
エミリーがにやりと笑う。
図書館に頼みたいことがあるという話は、ノアも聞いていない。
なんだっけ、と思い出そうとしていると、エミリーがさもノアと認識をあわせてあったかのように続ける。
「ノアはね、今よりもっと成長するために、魔法の詠唱について書かれた本を探してるんだよね。検索機能が戻ったら、それを優先的に探してあげてくれないかな? 詠唱の基礎とか、もしあれば詠唱速度をあげる魔法の魔導書とか」
「工房の炉を一人でいっぱいにしてしまう魔力をお持ちの上に、さらなる向上心もお持ちとは、すばらしいですね! わかりました、そちらもわたしが責任をもってお手伝いします」
「ちょっとエミリー、フローレンスも館長さんとして忙しいでしょ? 検索ができるようになるなら自分で探すから大丈夫だよ」
フローレンス・レイリアの名が示すとおり、フローレンスははるか昔にレイリアを作った一族の末裔だ。
一族全員がレイリアを離れるわけにも、図書館の館長をまったくの他人に任せるわけにもいかず、幼い頃からもっとも長い時間を図書館に通いつめ、知識が豊富だったフローレンスが館長として任命された。
居住区画にある実家で定期的に家族と会ったりはしているらしいが、ほとんどの時間を図書館で過ごし、最上階に寝泊りするほど、フローレンスは忙しい。
そんな若き館長の時間を自分だけのために取らせてしまうことに、ノアとしては抵抗があった。
「構いません。ギルドへの正式な依頼は一度取り下げてしまっていますので、もし成功してもそれに見合う報酬を公式にお渡しすることができませんし……もし上手くいったら、それくらいは力にならせてください」
にっこりと笑うフローレンスとエミリーに根負けして、ノアはわかりましたとうなずいた。
「それじゃあ早速、炉のところへ案内していただけますか?」
「そうですね……ですが、大丈夫でしょうか?」
ここで、フローレンスがなぜか表情を曇らせる。
「大丈夫って、どういう意味でしょうか?」
ノアがおそるおそる聞き返すと、フローレンスはちらりとデイビットに視線を移した。
「炉に行くには、自動昇降機で特別な手順を踏むか、奥の扉から職員専用の階段を使うんですけど……」
言いにくそうにするフローレンスと、「あ……そっか」と何かに気づいて顔をゆがませるエミリー。なんとなく嫌な予感をひしひしと感じつつ、ノアは「その、炉は何階にあるんでしょうか?」と聞くしかない。
「ええと、ですね。魔力炉があるのは、地下十階……です」
んほほふふふふふ。
ほとんど白目を剥いてしまったデイビットの断末魔の笑い声が、館長室に響きわたった。
「ぼくはここまでのようだ……サラ……あとは頼んだよ……必ず……成功させ……て」
「父さん、まだ地上五階だから。もうちょっとがんばってよ。下手なお芝居してる暇があったら、足動かして」
「んふふふふふふふ」
後方に聞こえる親子のやりとりに苦笑しながら、フローレンスの後についてらせん状の階段をおりていく。
他より優先して魔力を確保しているとのことで魔法灯はまだ生きており、暖色の光が足元を照らしてくれていた。
一歩ずつ階段を踏みしめながら、ノアは図書館の構造がよくわからなくなってきていた。
真ん中に大きな柱があり、その左右に階段が二本。そして、外側の壁をぐるりと囲む形で、細い柱と書棚がずらりと並んでいるのが各階の造りだったはずだ。
館長室からどういう隙間をぬっていけば、いま下りているような螺旋階段が通るスペースを確保できるのだろう。
「フローレンス、この階段ってどこを通ってるの?」
ノアはそのままの質問をフローレンスにぶつけてみた。ここまでの会話で、同年代であるし、丁寧語はやめようという了承は取ってある。
「ノアも気になっちゃった? わたしも最初は自分のいる場所がよくわからなくなって、調べてみたんだけどね。ここは図書館の外側の壁の中を通っているみたい」
「そうなんだ、ちょっと不思議な感覚かも」
「中外それぞれから見ているより、一番外の壁が分厚くできているみたい。設計図のような本に書いてあったから、それが本当ならだけどね。もしかしたら古代魔法で、いったん別の空間を通って戻ってきたりしてるかもしれないよ」
「それは、ちょっと怖い……外側の壁説を信じておきたいかも」
「ええ、夢があっていいのに。別の空間に階段とか道を作って自由に行き来できたりしたら、もっといろんな導線が作れそうじゃない?」
エミリーが瞳をきらきらさせるものだから、ノアはフローレンスといっしょに笑ってしまう。
今では失われた魔法が、古代にはいくつも存在していた。
もちろん、失われた魔法と言われているだけあって、実際にそれの再現はできていないが、古くから残っている本を読み解くと、たびたびそうした魔法や技術の記述が登場するのだ。
この図書館そのものが古代の遺物であるなら、空間を超越するような技術が使われていないとも言い切れない。「まあ確かにありえなくはないかもね」とフローレンスもエミリーに同意し、それから真剣な顔を作った。
「この図書館は他にも、いくつかとんでもない機能があるみたいだからね。信憑性が高そうなところでいうと、都市全体を守る結界魔法とか。あとは冗談みたいな話だけど、図書館そのものを空に浮かべて移動したり、都市間戦争用の兵器もあるとかないとか」
「図書館そのものを、空に浮かべて」
短時間であれば、人間一人が空中に浮かぶことのできる魔法は存在する。しかし、それこそ緊急避難用で実用性に欠けるため、使い手はほぼいない。
人間一人でさえそうなのだから、空に浮かぶ建物なんて、現在この大陸には存在していない。というより、やろうとしても不可能であるし、どれだけの技術と魔力が必要になるのか想像もつかない。
「突拍子のない話だけど、わたしは全部あると思ってる」
「ええ……本当に?」
「兵器の方はあってほしくないけど、都市ごと守ってくれる結界なんて、それこそ夢があるじゃない? 小規模な結界魔法なら、大きな都市のギルドが本部に使っていたりするし。ノア、魔力炉が上手く動いたら、結界も起動させてみる?」
「ギルドのは、お守り程度の簡易結界だと思うよ……さすがに古代の結界を再起動は、厳しいんじゃない?」
「知恵の都から古代結界都市に肩書きが変わったら、面白そうだよね」
「それいいかも」
くすくすと笑うエミリーとフローレンスにつられて、ノアもまた笑った。
しばらくの間、談笑しながら階段を下りていき、いくつかの扉を抜けて、場所によってはフローレンスが何かしらの操作をして鍵を開き、一行は重々しい両開きの扉の前にたどり着いた。
「さて、皆さんお疲れさまでした。到着しました……けど、そちらのお二人は大丈夫ですか?」
地下十階。
魔法灯が生きていなかったら、真っ暗闇になりそうな冷たい廊下の上に、デイビットが大の字になって転がっている。サラも壁にもたれかかってぐったりと座り込んでいた。
「お水、念のためもってきましたけど、飲まれます?」
サラがどうにかうなずき、もはや言葉も出ないデイビットが、右手を空中に泳がせる。
「本当にごめん。ノアの限界を測る目的からはずれちゃうけど、やっぱり上で待っててもらえばよかったかな」
エミリーが申し訳なさそうにする。そこでノアはふと気づいて、おそるおそる口を開いた。
「もし僕が上手くできなかったら、もう一度十階まで戻って、それから一階に下りてこないといけないってこと?」
それを聞いたデイビットが、びくんびくんと痙攣したかと思うと、しくしくと泣き始めた。
顔を上げたサラも、信じられないという顔をしている。
「あ、はは……成功させなくちゃいけない理由が増えたね」
エミリーが何とも言えない表情で言い、「とりあえず中に入ろっか」とフローレンスに促した。
ひとつ咳払いをして空気を切り替えたフローレンスが、持っていた鍵を重々しい扉の鍵穴に差し込み、くるりと回す。
すると、薄緑色の光が鍵から放たれ、扉に刻み込まれた紋様を伝って鍵穴から扉の外側へと広がっていく。
この扉は、館長を含めたごく一部の人間しか開けることはできない。具体的には、図書館の館長と議会の議長、そしてギルド長の三人だ。
フローレンスも、館長に任命されたときに自身の魔力を鍵と扉に登録することで、開ける資格を得ている。
万が一、鍵が盗まれたとしても、それだけでは扉は開かないというわけだ。
扉の先にある炉への魔力補充に権限は必要ないが、それを使って各機能を起動する権限は、歴代の図書館長のみにある。
おそらく、先の話にあった古代兵器や結界などを悪用されないために、議会やギルドから権限を切り離した形が、今も続いているのだろうとノアはぼんやりと考えた。
「それでは中へどうぞ」
フローレンスが扉を押し開け、中へと進んでいく。
「わ、すごい……!」
「でしょ? さすがは大図書館の中枢って感じよね」
部屋の中には、工房にあったものと似た形の魔力炉が据え付けられていた。ただし、その大きさは比較にならない。工房のものより数倍はある。
魔法灯に照らされた炉の表面には、工房のものよりいっそう複雑な紋様が刻まれているが、その光は完全に失われていた。
部屋自体もかなり広く、天井が高い。壁も床も見たことのない金属製で、地下十階なので当然といえば当然かもしれないが、窓はない。
「炉は完全に止まっちゃってるみたいだけど、ここの明かりはどこから?」
「わたしでも魔力を補充できる、簡易的なものを取り付けてあるだけ」
「なるほど……魔力の補充は、あそこからでいいの?」
ノアは、工房の炉にもあった質感の違う部分を指さす。
「大きさはすごいけど、それ以外の基本的なところは、よくある炉と同じだよ」とフローレンスが教えてくれた。
「これは……なんと素晴らしい……!」
振り返ると、完全に仰向けになって息を荒くしていたデイビットが、四つん這いのままでずりずりと部屋に入ってくるところだった。
視線は巨大な魔力炉に固定されており、瞳がぎらぎら輝いている。
「あー……念のため、デイビットは私が押さえておくね。ほら、工房のときみたいになっちゃうと、ね?」
エミリーが苦い顔をして、デイビットのところまで下がる。
魔力炉にしがみついてむせび泣き、危うく失明しかけたデイビットを思い出す。
この大きさの炉に、工房のものと同じ輝きを取り戻せるかどうかはわからない。
わからないが、もしできたときにデイビットが飛び出してしまったら、今度こそまずそうだ。
「サラも、デイビットさんについていてあげてくれる?」
念には念を入れて、ノアがサラを呼ぶと、サラもため息混じりでうなずき、デイビットの前に立つようにして腕組みをした。
「父さんはそこから一歩も動かないこと」
「這っていくのは?」
「駄目に決まってます! ここにきた目的覚えてる? 追い出されたいの?」
不穏なやりとりを不安そうに見ていたフローレンスが、「大丈夫なの?」とノアにそっと聞いてくる。
ノアは務めて冷静に、「大丈夫、念のための安全確保みたいなものだから」と答えておく。
「それじゃあ、頑張ってみようかな。始めていい?」
フローレンスの許可を得ると、ノアは炉の前にゆっくりと立った。