「わっ。もう七時やん」
私は『吉屋』を出ると、近くの『石井食堂』へと急いで歩いた。
サブリーダーの愛ちゃんと、そこで晩ご飯を食べる約束をしている。
夜のホールを任されている愛ちゃんは、通常は夜の七時から朝の四時までの勤務となっている。
そんなわけで、朝と昼に勤務する私とは話す機会がほとんどない。しぜんとメールや電話だけのお付き合いになった。それでは寂しいからと、たまにはご飯を食べながらお喋りをして楽しんでいる。
私にとっての愛ちゃんは、可愛い後輩というだけではなかった。どのようなことでも素直に話せる、とても大切な友人なのだ。
『石井食堂』に着いた。
私はここに来ると、つい長居をしてしまう。
良い意味で気を遣うことのない店だから、まるで自分の家に居るような錯覚を起こすから。
愛ちゃんもそう思っているようだ。『石井食堂』を「お父さんのお店」と呼んでいる。
「リーダー。お疲れ様です」
私に気が付いた愛ちゃんが、入り口の引き戸をガラガラと開けてくれた。
「ごめんね。七時の約束やのに」
「あ、全然。今日、私は休みですからゆっくりしてます」
愛ちゃんはにっこりした。真っすぐで嘘のない笑顔だった。
「いらっしゃい」
石井さんが熱いお茶を持ってきてくれた。
「今日はどうされますか」
私は迷うことなく注文した。
「ビーフカレーをお願いします」
「承知いたしました。トッピングはいつも通りでよろしいですか」
私はいつも同じトッピングを頼んでいた。キムチと納豆だ。
「はい。それでお願いします」
愛ちゃんも決まったようだ。
「じゃ、私はわかめうどんとちらし寿司のセットにします」
愛ちゃんは麺類が大好きなのだ。
頼んだ料理が運ばれてきた。
私はカレーが大好き。
家でカレーを作るときも私はキムチと納豆を欠かさない。
甘口のカレーに混ぜ込んだキムチのまろやかさは言葉では表現できない。納豆はねばねばしておらず、初めて食べたときにはころころした食感に驚いた。
「お待たせしました。こちらは味噌汁です」
石井さんはカレーにも味噌汁を付けてくれる。今夜の具は豆腐と細く切った油揚げ。
「ああ、いい匂い」
味噌汁の碗に手を添えて、私はため息をついた。
ひとり暮しで自炊する私にとって、味噌汁は懐かしい故郷の味だった。
「ねえ、愛ちゃん。味噌汁には何を入れてるん」
しかし、私の質問に愛ちゃんは答えてくれなかった。
私のほうに体を乗り出してくると、沈痛な面持ちで話し始めるのだった。
「リーダー。事態は深刻となりました。嵐の予感がしています」
「あら、おほほ」
私は笑い出した。
「愛ちゃん。『嵐の予感』って、またまた凄いこと言いだすんやね」
愛ちゃんはたちまち悲しい顔になった。
私は急いで謝った。
「ごめんなさい。失礼したわ。どんな嵐が来んのか、教えてほしいわ」
愛ちゃんは重々しく頷いた。
「ホールスタッフを募集してますが、応募がありました」
私はカレーにキムチを混ぜながら微笑んだ。
「まあ、良かった。ホールはもうぎりぎりやから」
愛ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「でも、リーダー。それが、あのお客様みたいなんです」
全身の血が凍りついた。
「あのお客様」というのは、吉岡店長にお色気を振りまいている彼女のことなのか。
やっとの思いで愛ちゃんに聞いてみた。
「まさか、あのお客様って」
愛ちゃんは悔しそうに頷いた。
「多分。店長の話によると、そのひとは林莉乃さんっていう名前でした」
やっぱりそうか。彼女に間違いない。吉岡店長は彼女を『莉乃さん』と呼んでいたから。
「あのお客様が昨日の夜に来たんです」
彼女は夜にも来るのだ。ただし、それは吉岡店長が遅番の日の夜だけ。
「あのお客様と店長は何やら話し込んでいました。そのあとずっと、店長は上機嫌でしたから」
ひたすらに小声で自分に言い聞かせる。
「落ち着け、落ち着け。慌てると、味噌汁をひっくり返してしまうぞ」
愛ちゃんが怖い顔をして言い切った。
「あれは店長目当ての応募です。絶対に」
私は無理に笑みを浮かべた。
「多分ね。けど、現実の問題としてホール係は足りてないんよ。そう言う意味で、私は歓迎するわ」
「それは分かりますが」と愛ちゃんは不安な顔になった。
「リーダーはいつも優しいから、あのお客さんが我儘になりそうで心配なんです」
それは私も不安に思っている。
彼女のことだから仕事中も好き放題に振舞うだろうし、美人に弱い吉岡店長はそれを許してしまうと思うのだ。
でも、私はリーダー。彼女の我儘を許すわけにはいかない。
私は愛ちゃんに宣言した。
「大丈夫。リーダーとして、言うべきことはちゃんと言います」
愛ちゃんは即座に答えてくれた。
「私も協力します」
私はにっこりした。
「ありがとね」
平静を装って、私は再びカレーを食べ始めた。
愛ちゃんには前向きな姿勢を見せているけど、私の心は重苦しくなっていくばかりだった。
自分は吉岡店長に嫌われていると、私は改めて思ったのだ。
彼女が『吉屋』のパートに応募してきたこと、吉岡店長は私には教えてくれなかった。どうして愛ちゃんにだけ話したのだろう。 パートやアルバイトの面接と採用については、いつも吉岡店長から私に連絡があるのだが。
私は『吉屋』を出ると、近くの『石井食堂』へと急いで歩いた。
サブリーダーの愛ちゃんと、そこで晩ご飯を食べる約束をしている。
夜のホールを任されている愛ちゃんは、通常は夜の七時から朝の四時までの勤務となっている。
そんなわけで、朝と昼に勤務する私とは話す機会がほとんどない。しぜんとメールや電話だけのお付き合いになった。それでは寂しいからと、たまにはご飯を食べながらお喋りをして楽しんでいる。
私にとっての愛ちゃんは、可愛い後輩というだけではなかった。どのようなことでも素直に話せる、とても大切な友人なのだ。
『石井食堂』に着いた。
私はここに来ると、つい長居をしてしまう。
良い意味で気を遣うことのない店だから、まるで自分の家に居るような錯覚を起こすから。
愛ちゃんもそう思っているようだ。『石井食堂』を「お父さんのお店」と呼んでいる。
「リーダー。お疲れ様です」
私に気が付いた愛ちゃんが、入り口の引き戸をガラガラと開けてくれた。
「ごめんね。七時の約束やのに」
「あ、全然。今日、私は休みですからゆっくりしてます」
愛ちゃんはにっこりした。真っすぐで嘘のない笑顔だった。
「いらっしゃい」
石井さんが熱いお茶を持ってきてくれた。
「今日はどうされますか」
私は迷うことなく注文した。
「ビーフカレーをお願いします」
「承知いたしました。トッピングはいつも通りでよろしいですか」
私はいつも同じトッピングを頼んでいた。キムチと納豆だ。
「はい。それでお願いします」
愛ちゃんも決まったようだ。
「じゃ、私はわかめうどんとちらし寿司のセットにします」
愛ちゃんは麺類が大好きなのだ。
頼んだ料理が運ばれてきた。
私はカレーが大好き。
家でカレーを作るときも私はキムチと納豆を欠かさない。
甘口のカレーに混ぜ込んだキムチのまろやかさは言葉では表現できない。納豆はねばねばしておらず、初めて食べたときにはころころした食感に驚いた。
「お待たせしました。こちらは味噌汁です」
石井さんはカレーにも味噌汁を付けてくれる。今夜の具は豆腐と細く切った油揚げ。
「ああ、いい匂い」
味噌汁の碗に手を添えて、私はため息をついた。
ひとり暮しで自炊する私にとって、味噌汁は懐かしい故郷の味だった。
「ねえ、愛ちゃん。味噌汁には何を入れてるん」
しかし、私の質問に愛ちゃんは答えてくれなかった。
私のほうに体を乗り出してくると、沈痛な面持ちで話し始めるのだった。
「リーダー。事態は深刻となりました。嵐の予感がしています」
「あら、おほほ」
私は笑い出した。
「愛ちゃん。『嵐の予感』って、またまた凄いこと言いだすんやね」
愛ちゃんはたちまち悲しい顔になった。
私は急いで謝った。
「ごめんなさい。失礼したわ。どんな嵐が来んのか、教えてほしいわ」
愛ちゃんは重々しく頷いた。
「ホールスタッフを募集してますが、応募がありました」
私はカレーにキムチを混ぜながら微笑んだ。
「まあ、良かった。ホールはもうぎりぎりやから」
愛ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「でも、リーダー。それが、あのお客様みたいなんです」
全身の血が凍りついた。
「あのお客様」というのは、吉岡店長にお色気を振りまいている彼女のことなのか。
やっとの思いで愛ちゃんに聞いてみた。
「まさか、あのお客様って」
愛ちゃんは悔しそうに頷いた。
「多分。店長の話によると、そのひとは林莉乃さんっていう名前でした」
やっぱりそうか。彼女に間違いない。吉岡店長は彼女を『莉乃さん』と呼んでいたから。
「あのお客様が昨日の夜に来たんです」
彼女は夜にも来るのだ。ただし、それは吉岡店長が遅番の日の夜だけ。
「あのお客様と店長は何やら話し込んでいました。そのあとずっと、店長は上機嫌でしたから」
ひたすらに小声で自分に言い聞かせる。
「落ち着け、落ち着け。慌てると、味噌汁をひっくり返してしまうぞ」
愛ちゃんが怖い顔をして言い切った。
「あれは店長目当ての応募です。絶対に」
私は無理に笑みを浮かべた。
「多分ね。けど、現実の問題としてホール係は足りてないんよ。そう言う意味で、私は歓迎するわ」
「それは分かりますが」と愛ちゃんは不安な顔になった。
「リーダーはいつも優しいから、あのお客さんが我儘になりそうで心配なんです」
それは私も不安に思っている。
彼女のことだから仕事中も好き放題に振舞うだろうし、美人に弱い吉岡店長はそれを許してしまうと思うのだ。
でも、私はリーダー。彼女の我儘を許すわけにはいかない。
私は愛ちゃんに宣言した。
「大丈夫。リーダーとして、言うべきことはちゃんと言います」
愛ちゃんは即座に答えてくれた。
「私も協力します」
私はにっこりした。
「ありがとね」
平静を装って、私は再びカレーを食べ始めた。
愛ちゃんには前向きな姿勢を見せているけど、私の心は重苦しくなっていくばかりだった。
自分は吉岡店長に嫌われていると、私は改めて思ったのだ。
彼女が『吉屋』のパートに応募してきたこと、吉岡店長は私には教えてくれなかった。どうして愛ちゃんにだけ話したのだろう。 パートやアルバイトの面接と採用については、いつも吉岡店長から私に連絡があるのだが。
