今日からショートカット

「レ、レモンが、いきなり落ちてどこかにいったね」
 彼女は青ざめた顔で吉岡店長に訴えている。
 吉岡店長が厳しい顔で私を促した。
「浜田君。先に新しいレモンをお出しして」
 ああ、そうだった。マニュアルを忘れてた。
 このようなとき、まず、お客様に新しい商品を提供しなければ。
 厨房に戻って、冷蔵庫からレモンを入れたタッパーを取り出した。

 彼女は泣きそうな声で吉岡店長に謝っている。
「ごめんなさい。莉乃、唐揚げにはレモンがないとだめだから。店長さん、我儘な莉乃を許してくださるわね」
 吉岡店長はすっかりやに下がっている。
「たいへんお待たせしました」
 私は新しいレモンを載せた皿を彼女に差し出した。
 彼女は嬉しそうに私を見つめた。

 私は黙ってホールに出た。
 床に転がったレモンを探しながら、そっと呟く。
「この子、嫌い」

 彼女が帰っていったのは、午後四時半。
 帰ってくれてほっとした。
 しかし、吉岡店長は餃子を巻きながら、うっとりと呟いている。
「ほんま、見事な黒髪してるわ」

 たしかに彼女は美しい。
 ため息が出るほどに若くて美しいのだ。

 この二月に初めて彼女を見たのだが、同じ女の私でもその美貌に息を呑んでしまった。

 抜けるように白い肌と腰の近くまである艶やかな黒髪。
 華奢な体は深緑色のワンピースにつつまれ、黒いパンプスを履いた白い足がやたらと色っぽかった。
 彼女を見た瞬間に、吉岡店長の鍋を振る手が止まってしまった。ぽかんと口を開けてひたすら彼女を見ている。
 彼女は腰を振りながらゆっくりと歩き、カウンター席の前で立ち止まった。
 少し眠そうな瞳で吉岡店長を見つめ、ふくよかな唇から囁くような甘い声をだしたのだ。
「あなたがよく見える席に座りたいの」

 吉岡店長は彼女に夢中になった。
 いわゆる一目惚れだと思う。
 彼女も吉岡店長に好意を感じているようだ。
 吉岡店長は特にハンサムではない。ただ、やんちゃな少年のような愛嬌があり、女はそこに母性本能を感じてしまうのかもしれない。
 しかし、我儘で聞かん坊なのだ。小さな子どもなら、それはそれで可愛いことかもしれない。しかし、吉岡店長は三十一歳の大人だった。

 今から一年前、このひとは店長として難波店から本店に赴任してきた。
 それからの本店は、吉岡店長の私情にすべてが左右されるようになっている。呆れたり腹が立ったりしたが、私はパートリーダーという立場から、嫌でも吉岡店長と話をしなければならなかった。
 意見の相違から口論になることも珍しくはない。

「お前。偉そうに意見すんねんな」
「それは申し訳ないと思いますけど、このままではパートさんたちは辞めてしまいます」
「そんなんやったら、お前の好きにせえや。けどな、何かあったら、お前の責任やで」

 いつも、こうなのだ。
 吉岡店長は常に自分のことしか考えていない。
 自分の運の悪さを私は嘆き、早くどこかの店に転勤してくれと心で願うばかりの毎日だった。