今日からショートカット

 あの男が私に暴力を振るうことはないと思う。
 少なくとも、人前で私を襲うことはないだろう。その行為によって社会的地位や財産を失うと、自分でも良く分かっているはずだ。
『吉屋』を飛びだして行ったのも、私を襲うためではないと思う。退職したあの彼女を追いかけて行ったのかもしれない。

 それでも、私は愛ちゃんの忠告を受け入れた。
 安全な場所に居て、しばらく様子を見ようと思う。商店街にある大きなスーパーの前に私は立った。ここは明るくて人通りが多い。

「おうい、百ちゃーん」
 突然、大きな声で名前を呼ばれた。
 声のする方を見た私は「来たっ」と心で叫んだ。
 そして、録音のスイッチが入っているスマホをポケットに入れた。

「あかんやん、百ちゃん。俺、探しまわってんで」
 吉岡店長は笑顔で駆け寄ってきた。
「危ない、危ない。こんなとこでスマホ見てたら、ひとにぶつかんで」
 この男の前で、私は笑顔なんて作れない。にこりともしないで返事をした。
「何で、私を探したん」
「俺の冗談、本気にしたやろ。ほんまに退職すんなよ」
「あれのどこが冗談なんよ。それと、私を百ちゃんって呼ぶの、やめてくれへん」
 吉岡店長は笑いだした。
「あははは。今日の百ちゃん、機嫌悪いなあ」
 私はぶち切れそうになっている。

 吉岡店長は私の肩をそっと抱き寄せてささやいた。
「な、ご飯でも行かへんか。一日早いけど、クリスマスしよか」
 呆れて返事できない私に構わず、傍らのクリスマスツリーを見上げて呟くのだった。
「やっぱり俺、百ちゃんが一番好きやわ」

 ついに私はぶち切れた。
「私に触んな」と、肩に置かれた吉岡店長の手をぴしゃりと叩く。
「痛っ。本気で叩くな」
 吉岡店長は怖い顔になって手をひっこめたが、すぐにわざとらしい笑顔を見せた。
「百ちゃんは力持ちやから、叩かれたら痛いねん」
 つまらない冗談は無視して、私は問い詰めた。
「さっきから何をたくらんでんや。はっきり言うてみ」
「俺がたくらんでるってか」
「そうや。今の自分の顔、見たら分かるわ。にやにや笑うて、いかにも狡いこと考えてる顔やわ」
 吉岡店長は開き直った。
「しゃあない。お前に会いに来た理由、はっきり言うてやらあ。ご飯食べもって穏便に話そと思てんのに、お前がヒステリー起こすからやで」
 やはり吉岡店長は猫を被っていた。

「莉乃ちゃんと蒔田君が辞めたわ。お前が二人をねちねち苛めるからや」
「苛めてない。そういうあんたこそ、職権乱用して私を苛めてた。なんで正社員の試験のこと、私には言うてくれんかったん」
 吉岡店長はせせら笑った。
「当たり前やん。お前、俺との婚約を勝手に解消しておきながら『吉屋』に居座ったやろ。お前が正社員になりたい話、こっちへ転勤したときに副店長から聞いたわ。ほんで俺、意地でもお前を正社員にせんとことって決心したんや」
 私はショックで怯んだ。
 吉岡店長に未練があったから退職しなかった。いつかはきっと、心を入れ替えて私だけを愛してくれると信じていたから。
 それなのに、吉岡店長は私を正社員にしないでおこうとずっと考えていた。堂々と浮気した者が悪いのに、私はそこまで恨まれていたのだ。
「私、あほやな」
 思わず、呟いてしまった。
「せやな。お前はあほやって、俺も思うで」
 そのあとで、吉岡店長は勝利の笑みを浮かべたのだ。
「俺、少し恨みを晴らせたわ」

 肩を落としている私に吉岡店長が言い渡した。
「莉乃ちゃんと蒔田君を辞めさせた責任、きっちり取るねんで。そんために俺はお前に会いに来たんや」
「あの二人を、私は辞めさせていません」
 こんな男に敬語で話してしまう自分が悲しい。
「ええか。今から莉乃ちゃんに謝りに行くねんで。『吉屋』に復帰するように頼むんや。蒔田君にもな」

 今日二度目の敗北が私にやってきた。
 この気持ち、悔しいとか惨めなんていう言葉では表現できない。
 悪いことは何もしていないのに、どうしてこんな酷いことをされるのだろう。

 しかし、私は負けたくない。
「このまま引き下がるもんか」と、心が叫んでいる。
 そう、私にはカードがあるのだ。この狡い男と対決するためのカードが。

 私はポケットのなかのスマホを取り出した。
「ちょっと待って。あんたに見せたいものがあるんよ」