深めのキャップを被り、赤い口紅を塗った。
これで、泣きはらした顔は何とか隠せる。
今から『石井食堂』へ行く。
外食する気分ではないのだが、私は温かい家庭料理が食べたくて仕方がなかった。何より、恋と仕事を失った今は、自分に優しいひとに会いたいと思うのだ。
ドアを開けると、いつもの優しい声。
「いらっしゃい。今夜も寒いですね」
「今晩は。ほんと、寒いですね」
挨拶を返しながら、私はいつもの席に独りで座った。
「お待たせしました」
親子丼と味噌汁、そして、頼んではいないぶり大根の鉢が私の前に置かれた。
「えっ、ぶり大根って」
驚く私に、石井さんはそっと微笑んだ。
「いつも明るいあなたが、今日はずいぶんと思い詰めた顔をしている」
「今日、人生が変わってしまったから。何もかもを失くしました」
「僕もそうでした。あのとき、いつも行く店の老主人が黙って熱いきつねうどんをご馳走してくれました。本当に嬉しいと思いましたね」
私は涙ぐんだ。
「温かい料理はその主人の心だと分かり、僕もこの仕事を一生のものだと決めました。僕の料理で誰かを慰められるのなら、僕自身にとっても、それは大変に幸せなことだと気づいたのです」
帰り道。
キャップを被っていても、真冬の風は顔や首筋に容赦なく当たってくる。
それでも、私の心には、少しだが温かいものがあった。石井さんのおかげだ。
と、バッグの中でスマホが揺れた。
見ると、愛ちゃんから二度目のメール。
「あれ、また何かあったんやろか」
〈 リーダーへ。
業務報告をいたします。
読む前にお願いします。
今は屋外におられるのなら、すぐに明るい場所に移動してください。その理由はこのメールを読んで下されば分かります。
たった今、莉乃ちゃんが退職しました。
浜田リーダーの後任を店長から任命されて、莉乃ちゃんは顔色を変えて怒りだしたのです。
「リーダーの仕事って面倒なことばかり。ホールの華になるだけで良いと、店長さんは言ったじゃないの。ホールは愛ちゃんに任せるから大丈夫って」
店長は慌てました。
「うちは定休日なしで、営業時間も長いやろ。せやから、蒔田君が休みの日とかは莉乃ちゃんにホール守ってほしいねん」
「店長さんの嘘つき。莉乃は仕込みもシフトづくりも絶対にやらないからね」
店長はおたおたしてしまいました。
「お願いやから。莉乃ちゃんは俺が好きなんやろ」
莉乃ちゃんは思い切り真顔で言いました。
「店長さんよりもっとお金持ちでいい男、莉乃は知ってるもん。じゃ、莉乃はお家に帰ろっと。もう、ここには来ないよ」
店長は真っ青になりました。
「辞めるつもりなんか」
「そうでっす。もう、ボーナスも貰ったから」
そう言うと、莉乃ちゃんは本当に帰ってしまいました。まだ上がりじゃなかったのですが。
私も退職を申し出ました。
「リーダーがいない『吉屋』にいたくありません」
「くそっ。どいつもこいつも辞めやがって」
店長はへなへなと床に座り込み、半泣きになって叫びました。
「これは百花の呪いや。ああ、俺は百花に呪われてるんや」
そう言うと、店長は店を飛び出しました。
まさかとは思いますが、気を付けてください。暗いところは避けてお帰り下さい。
まずは報告まで 〉
私はスマホを握りしめた。
スマホに録音機能があって幸いだった。
これは対決の準備。あの男がもうすぐ私の前に現れるようだ。
それにしても、あの彼女らしい話だと思った。
今頃は、新しい彼氏にお色気を振りまいているのだろう。
これで、泣きはらした顔は何とか隠せる。
今から『石井食堂』へ行く。
外食する気分ではないのだが、私は温かい家庭料理が食べたくて仕方がなかった。何より、恋と仕事を失った今は、自分に優しいひとに会いたいと思うのだ。
ドアを開けると、いつもの優しい声。
「いらっしゃい。今夜も寒いですね」
「今晩は。ほんと、寒いですね」
挨拶を返しながら、私はいつもの席に独りで座った。
「お待たせしました」
親子丼と味噌汁、そして、頼んではいないぶり大根の鉢が私の前に置かれた。
「えっ、ぶり大根って」
驚く私に、石井さんはそっと微笑んだ。
「いつも明るいあなたが、今日はずいぶんと思い詰めた顔をしている」
「今日、人生が変わってしまったから。何もかもを失くしました」
「僕もそうでした。あのとき、いつも行く店の老主人が黙って熱いきつねうどんをご馳走してくれました。本当に嬉しいと思いましたね」
私は涙ぐんだ。
「温かい料理はその主人の心だと分かり、僕もこの仕事を一生のものだと決めました。僕の料理で誰かを慰められるのなら、僕自身にとっても、それは大変に幸せなことだと気づいたのです」
帰り道。
キャップを被っていても、真冬の風は顔や首筋に容赦なく当たってくる。
それでも、私の心には、少しだが温かいものがあった。石井さんのおかげだ。
と、バッグの中でスマホが揺れた。
見ると、愛ちゃんから二度目のメール。
「あれ、また何かあったんやろか」
〈 リーダーへ。
業務報告をいたします。
読む前にお願いします。
今は屋外におられるのなら、すぐに明るい場所に移動してください。その理由はこのメールを読んで下されば分かります。
たった今、莉乃ちゃんが退職しました。
浜田リーダーの後任を店長から任命されて、莉乃ちゃんは顔色を変えて怒りだしたのです。
「リーダーの仕事って面倒なことばかり。ホールの華になるだけで良いと、店長さんは言ったじゃないの。ホールは愛ちゃんに任せるから大丈夫って」
店長は慌てました。
「うちは定休日なしで、営業時間も長いやろ。せやから、蒔田君が休みの日とかは莉乃ちゃんにホール守ってほしいねん」
「店長さんの嘘つき。莉乃は仕込みもシフトづくりも絶対にやらないからね」
店長はおたおたしてしまいました。
「お願いやから。莉乃ちゃんは俺が好きなんやろ」
莉乃ちゃんは思い切り真顔で言いました。
「店長さんよりもっとお金持ちでいい男、莉乃は知ってるもん。じゃ、莉乃はお家に帰ろっと。もう、ここには来ないよ」
店長は真っ青になりました。
「辞めるつもりなんか」
「そうでっす。もう、ボーナスも貰ったから」
そう言うと、莉乃ちゃんは本当に帰ってしまいました。まだ上がりじゃなかったのですが。
私も退職を申し出ました。
「リーダーがいない『吉屋』にいたくありません」
「くそっ。どいつもこいつも辞めやがって」
店長はへなへなと床に座り込み、半泣きになって叫びました。
「これは百花の呪いや。ああ、俺は百花に呪われてるんや」
そう言うと、店長は店を飛び出しました。
まさかとは思いますが、気を付けてください。暗いところは避けてお帰り下さい。
まずは報告まで 〉
私はスマホを握りしめた。
スマホに録音機能があって幸いだった。
これは対決の準備。あの男がもうすぐ私の前に現れるようだ。
それにしても、あの彼女らしい話だと思った。
今頃は、新しい彼氏にお色気を振りまいているのだろう。
