今日からショートカット

 午後三時を少し過ぎた頃。
 吉岡武店長が私を呼んだ。

「浜田君。そろそろやで」
 これは、ランチタイムは終了という吉岡店長からの指示。
 私はホールに居るパートさん達に笑顔で声をかけた。
「お疲れ様です。ランチタイムは終わりました。皆さんはもう帰って下さいね」
 パートさん達が声を揃えて私に挨拶をしてくれる。
「リーダーさん。お先に失礼します」
 私は腰をかがめ、丁寧に挨拶を返した。
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」

 パートさん達が賑やかに帰った後。
 私はいろいろな作業をひとりで始めた。

 まず、ランチメニューを入れた透明なショーケースの片付け。
 入り口ドアの横からそれを店内に運びいれ、その中から見本にしていた商品を取り出す。その後はアルコールを吹き付けながら、ダスターでショーケースの汚れを丁寧に拭かねばならない。
 それが終ると、夕方の仕込み。
 客が少ないこの時間に、何種類もの野菜を切ったり、チリソースを作ったりする。ご飯も炊いておかねばならなかった。倉庫から十キロの米を持ってきて、しばらく水につけておく。無洗米であっても、そうした方が美味しく炊けるからだ。
 その後は二週間分のシフト作り。
 それだけではない。賄も自分で作っている。吉岡店長が「俺、忙しいんや。自分で作れや」と言って、私のことは放ったらかしにするから。
 朝の十時から夜の七時まで私は時間に追われ続けている。でも、それは苦痛ではなかった。私はこの仕事が好きで仕方がない。







 私は中華食堂の『吉屋』で働くベテランパート。
『吉屋』は大阪や奈良に八軒の店舗を持っていて、私が勤務しているのは環状線の鶴橋駅にある本店。
 高校生のときにアルバイトとしてこの店で働き始めた。勉強よりアルバイトを優先したから、両親と担任の教師は怒っていた。それでも、私はこの仕事が楽しくて勉強をしなかった。どうして卒業できたのか未だに分からない。

 高校を卒業してからは、長期のパートとして一日に八時間の勤務となった。
 盆と正月を休むことはなく、早朝や深夜も決して嫌がらなかった。深夜勤務の日は電車がなくて帰宅できないから、とうとう店の近くにアパートを借りてしまった。

 十年間をこうして真面目に働いた私は、昨年の二月にパートリーダーに抜擢されている。常に三十人はいるパートとアルバイトの頂点に私は立ったのだ。
『パートリーダー 浜田百花(はまだももか)』
 そう書かれた名札がとても誇らしく、初めてそれを胸につけた私は感無量となった。先輩達の意地悪や客の執拗なクレームにもひたすら耐えて、いつも笑顔で頑張ってきたのだから。

 次の目標は、正社員になること。
 正社員になるには円滑な人間関係も必須項目だった。接客はもちろん、従業員同士でも私は穏やかに接している。パートリーダーという立場からも、職場の平和を保つように努力しなければならないのだ。
 そんなわけで、サブリーダーの蒔田愛(まきたあい)ちゃんから、毎日のように業務報告のメールを受け取っている。
 愛ちゃんは夜のホールを仕切っていて、その日の出来事を細かにメールで連絡してくれるのだ。

< 浜田リーダーはご存じですか。最近、夜のホールはアルバイトの私語で煩いぐらいです。あの子たちは注意しても黙りません。うっかり言えばホールの雰囲気が悪くもなるのです >
< そうでしたか。教えてくれて有難う。お食事されているお客様にも迷惑ですから、夕方の引継ぎをするときにさりげなく注意してみますね >

 私は愛ちゃんに感謝している。
 その真面目な仕事ぶりは立派であるし、サブリーダーとして私をよく支えてくれてもいるのだ。
 何より、私を慕ってくれることを本当に嬉しいと思うのだった。







 今日も私は仕込みを始めた。
 冷蔵庫を開けて、食材の在庫状況をチェックする。
「店長。肉団子がもうありません。作っても良いですか」
 私の方を見もしないで面倒そうに答える吉岡店長だった。
「肉団子てか。後どれぐらい残ってんねん」

 そのとき。
 入り口のドアが開いた。
 初夏の風が店の中に吹き込むと同時に、甘ったるい声がホールに響き渡る。
「店長さん、今日は」
 吉岡店長はみっともないほどに声を上ずらせた。
「毎度っ」
「店長さん。今日も来ちゃったわ」
「有難うございます。今日も来て貰えて、僕も嬉しいのです」
 彼女は花のような笑みを浮かべた。
「まあ、店長さんったら優しいのね」
 吉岡店長から一番に近いカウンター席に、なよなよと彼女は座った。

「この席がとっても好きなの」
「何ならその席、いつでも差し上げますよ」
「それじゃあ、遠慮なく、おうちに持って帰ろうかしら」
「あっ。それなら、その席は僕がお宅まで運びますよ」
「まあ、なんて嬉しいのかしら」
 私は心で「あほくさ」とぼやいた。
 なんてバカバカしい会話なのだろう。

 吉岡店長は彼女に見惚れているうちに、肉団子が足りていない話を忘れてしまったようだ。
 客が少ない今のうちに、肉団子を作って揚げておかねばならないのだが。
 聞いてみた。
「店長。肉団子の残りは五個です。作ってよろしいですか」
 返事はなかった。
 仕方なく、私は自分の判断で肉団子を作ることにした。

「ああ、ほんまにうっとしい」
 私は不愉快でならない。
 私が冷蔵庫のミンチを大きなボールにせっせと移している間も、吉岡店長は仕事を忘れて彼女に見惚れるばかりなのだ。
 そう、吉岡店長は美人にめっぽう弱い。

 彼女はメニューを広げながら、吉岡店長に話しかけた。
「今日は少し寒いわね。熱いものが食べたいわ」
 吉岡店長はやに下がっている。
「もう五月ですが、寒い日もありますね」
「ええ、そうなのよ。熱々の担々麵が食べたいわ。唐揚げも一緒にお願いします。キャベツの千切りは少なめで」
「分かりました。キャベツの千切りは少なめで」

 吉岡店長の素っ気ない声。
「浜田君。唐揚げ。さっさとしてや」
「はい」
 吉岡店長のぼやきが聞こえてくる。
「何であいつ、今頃になって肉団子なんか作ってんねん」
 私は聞こえないふりをした。

 唐揚げを作っている私に、二人の会話が聞こえてきた。
「映画が観たいわ」と彼女。
「ほお。どんな映画ですか」
 彼女は恥ずかしそうに答えた。
「恋愛映画よ。素敵な恋がしたいの」
 彼女はそう言うと、白く華奢な指先で黒髪を自分の耳にかけてみせた。その瞬間、吉岡店長は思い切りのけぞった。彼女の色っぽい仕草に足もとがぐらついたようだ。

 彼女の前で締まりのない顔をしている吉岡店長に向かって、私は心のなかで叫んだ。
「腑抜けめ。騙されるな。あれは作ったお色気じゃないか」