《今日は思ってたよりも早く終わったな》
「だねー」
煌と咲羅が話しながら、並んで歩いていく。
その後ろから、ハル、弘、楼、そして狼鬼が歩いていった。
《ハル、他のみんなは?》
狼鬼がハルの方を見て尋ねた。
「今日は町が近いから、先に帰ってもらったよ」
「オオカミ13頭も引き連れて歩いてたらどう足掻いてもすごく目立つもんな」
弘が独り言のように呟いた。
「うーん、悪いことはしてないし、討伐にはみんな必要不可欠なんだけどなぁ...」
ハルが困ったように頭を掻いた。
「ハル姉ーーっ!弘ーーっ!」
咲羅の馬鹿でかい声が前から響いてきて、2人と2頭は我に返った。
「お祭りやってる!行っても良いでしょ?」
「え、うん、良いよ。でも...」
ハルはぶつぶつと呟いて、困ったようにオオカミ達を見つめた。
《ああ、俺らそこで待ってるよ》
《なんかお土産買ってきてね》
《あんまり遅くなるなよ?》
オオカミ達はそう言うと、音もなく木の枝葉の中に姿を消した。
「聞き分け良いけど、ちゃっかりしてるなぁ」
苦笑いする弘に、ハルもつられて笑う。
「ほらほら、ハル姉、弘、行こ?ね!」
咲羅に手を引かれて、2人は夏祭りの喧騒の中に入っていった。
「あ」
ハルが声を上げて、咲羅と弘が揃って振り返った。
「どしたの?」
「いや、あれ。久しぶりに見たなぁと思って」
ハルが指差した先には、「お面」と書かれた露店が建っていた。
狐、天狗、般若など、色とりどりのお面を見て、3人は思わずわぁと声を上げた。
「ねぇ、良いこと思いついた!3人お揃いでお面買おうよ」
咲羅の提案に、ハルと弘もぱぁと顔を輝かせた。
「私、狐が良いな。咲羅と弘は?」
「狐。般若は怖い」
「俺も狐かな。天狗は色んな所にぶつけそう」
「現実的な理由だね...」
「じゃあ、ハル姉も弘も狐?」
「うん」
咲羅の問いに、2人は揃って頷いた。
「俺、黒い狐が良い」
「あたしはあの赤い子」
「私...うーん...どれが良いと思う?」
「欲しいのがない?」
「ううん、どれも綺麗で」
首を傾げるハルに、咲羅が言った。
「あの白い子は?なんか、ハル姉っぽい」
「え?あれ?...どの辺が?」
「なんか柔らかい印象のところとかじゃないの?」
弘が横から口を挟んだ。
「そうそう、笑った顔もハル姉っぽい」
「私、狐みたいに笑うの...?」
「狐みたいじゃなくて、ほら、優しそうなところとか。怒ると怖いけど」
「弘?」
ハルが弘の方を見てニコリと笑った。
「ゴメンナサイ」
弘はぼそぼそと呟いて目を逸らした。
「はは、でもありがと、じゃあそれにしようかな」
「じゃ、決定〜!」
咲羅の楽しげな声に、弘とハルは顔を見合わせて笑った。
「違うよ、ハル姉」
咲羅の厳しい声に、ハルはぐったりと肩を落とした。
「いやいや咲羅、あなたの説明がよく分からないんだって。回し蹴りってどうやってやるの?」
「え、だからこう、左足で立って、腰を捻ってシュバっと...」
空を斬るような音が響いて、咲羅の鋭い蹴りが飛び出す。
「だからその、シュバの部分が分かんないの」
「見たらわかるでしょ?」
「それがわからないんですよー」
平行線の言い合いを続ける姉妹を見て、弘とオオカミ達は呆れたように溜息をついた。
「左足を軸にして、上体を後ろに傾けながら直線的に蹴る。ただ足を振り回すんじゃくて、股関節、膝、足首の順で伸ばしていく、みたいな意味かな?咲羅。」
淡々と説明する弘に、わぁ、と咲羅は声を上げた。
「すごい!弘、やったことあるの?」
「ないけど、見てたらそんな感じかなぁって」
「...恐ろしい奴がいたぞ」
「...説明の鬼...」
《鬼は俺だろう》
狼鬼が口を挟んだ。
「そうだそうだ、誰が鬼だオイ」
「「わー!鬼だー!」」
大袈裟に首を竦める姉妹を見て、弘は苦笑いした。
「じゃあ、回し蹴りってこんな感じ?」
ヒュンと音を立てて、ハルの右足が空を斬った。
「唐突に話が戻ったね...でも、そんな感じ。すごいハル姉!説明聞いた直後にそれなりに形になってる!」
へへ、とハルは照れたように笑った。
「弘の説明が上手なんだよ」
「そりゃどーも」
弘も嬉しそうに笑った。
「じゃ、ハル姉、次は飛び蹴りね。
こうやって...」
咲羅が鮮やかな蹴りを繰り出すのとほぼ同時に、ハルが「ちょっとちょっと」と降参するように両手を上げた。
「待って、待って!せめて1日回し蹴りの練習させて!」
ハルの慌てたような声を聞いて、2人とオオカミ達は楽しそうに笑った。
「じゃ、そろそろかな。今日は弘は単独任務なんだよね?」
「応」
「じゃ、ハル姉!今日は妖複数いるみたいだけど頑張ろう!よしっ、みんな頑張るぞー!」
咲羅が無邪気に言った。
「《おー!》」
3人とオオカミ達の声が揃って、鱗雲が浮かんだ空にこだました。
霙が降る中を、弘は全速力で走っていた。角を曲がった瞬間、濡れた地面で足を滑らせ、強かに身体をぶつけたものの、間髪入れずに立ち上がり、また走り出す。
討伐が終わった弘の元に隼で連絡が来て、慌てて舞い戻ってきたのだ。
待機所の扉を勢い良く開けると、目の前にいた看護婦がぎょっとした顔で弘を見た。泥だらけでずぶ濡れな人間がいきなり入ってきて驚いたのだろう。会釈をして横を通り過ぎる。
部屋に入ると、布団に横たわる人影が見えた。
「...ハル」
ぴくりと人影が動いたものの、それが声を出すことはなかった。
弘はそっと布団に近づき、音を立てないように正座をした。
「ハル」
もう一度声を掛けると、人影が──ハルが、驚いたようにがばと起き上がった。
「弘?...なんで」
「連絡受けたから帰ってきた。お前、怪我は」
ああ、とハルが笑った。
「全然大したことないから、大丈夫」
咲羅に比べたら、と小さく呟いたのが、弘の耳に届いた。
大丈夫、と言いつつも、その怪我が全く大丈夫ではないのは一目見ただけで分かった。頭には包帯が巻かれ、傍に畳んで置いてある白縹の羽織は、元々何色だったのか分からないほど血まみれだった。
「...咲羅、ごめん」
ぽつりと声が聞こえて、弘が顔を上げると、ハルの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめん、ごめんね、守れなくて」
弘、と明るい声が聞こえて、顔を上げると、あの赤狐面よりもずっと明るくて、無邪気な笑顔がそこにあったのだ。あれを、もう二度と見ることはできなくなった。
自分たちはいつも死と隣り合わせであることは、十分過ぎるほど分かっていたつもりだった。2年前、妖に襲われて家族がみんないなくなってしまった時に、既に学んでいた筈なのに。
弘は口を開けた。
何か言おうと思って、それでも何も浮かばなくて、代わりに、ハルを優しく抱きしめた。
弘の瞳から涙が溢れ、それと一緒に一言、言葉が口からこぼれ出た。
「お疲れさま」
お疲れさま、頑張ったな。
ハルの身体が細かく震えているのが分かる。
ハルは、弘にぐったりと身体を預けると、声を上げて泣いた。
ハルが部屋を出ると、弘と煌が縁側で話しているのが見えた。
《雪と銀は大怪我だったけど生きてはいるから、先生に世話してもらうことになった》
「ここに一緒にいちゃ駄目なのか?」
《ハルもそう言ったんだけどね、ハルも俺たちも、勿論弘もだけど、ほぼ毎日討伐に出てるでしょ?だから先生のところの方が安心かなぁって》
「...成程ね」
《で、楼と海と初と空は駄目だった》
「そうか...大変だったな...煌は大丈夫か?」
《大丈夫ではないけど、なんとかやってるよ》
「...ん、そっか」
会話が一旦途切れた瞬間を見計らって、ハルが縁側に姿を見せた。
「え、ハル、もう動いて大丈夫なのか?」
「うん、ちょっとでも動いとかないと身体鈍っちゃうし」
ハルが弘の隣に腰を下ろした。
《それもそうだね》
「いつから復帰?」
「明後日」
《うわぁ》
「どしたの?」
《この組織もいよいよやばいなぁと》
「確かに。大怪我した人を5日で復帰させるって...やばいな」
弘がそう言うと、ハルは笑った。
「まぁ、裂傷と打撲だけで、どこも骨折してないから」
「一般的にはそれを重傷と言うんだよ」
「あーそっか、私重傷なのかー」
ハルはからからと笑い声を立てたが、弘は心配そうにハルを眺めている。
「どしたの?」
「いや...ハル、無理、してないか?」
ハルは不思議そうに首を傾げた。
「無理してるのはお互い様じゃないの」
「...は」
ハルはゆっくりと立ち上がると、弘と背中合わせになるように膝を抱えて座った。
「だって、こうやって話してる間も弘、ずっと心の中で咲羅のこと考えてるんだもん」
弘の肩に頭を凭せ掛け、違う?とハルは呟いた。
弘の瞳が水面のように揺れた。
「...煩い」
ハルの頭をぐいと押しのけながら、震える声で呟いた。
ハルの悲しそうな笑い声が聞こえた。
弱いところなんて、見せたくなかった。
でも、背中に感じる確かな温もりが、凝り固まった心を溶かしていくように思えて。
今は、今だけは、少しだけ。
その不器用な優しさに、甘えてみたくなったのだ。
震えた息が、弘の口から洩れた。
雫が頬を伝って、裏葉色の羽織に落ちるのが見えた。
「...咲羅」
名前を呼んだ。
届くことはなかった。
でも、背中には、静かな温もりがあった。
ゆっくりと陽が傾いていく。
影が少しずつ伸びていく。
夕月夜の中で、2人は静かに寄り添っていた。
「弘、大丈夫?」
ハルがぐったりと座り込んでいる弘に訊いた。
「生きてはいる」
弘がぼそぼそと呟く。
《それはよかった》
煌がゆらゆらと尻尾を振った。
「よっし、終わったならとっとと戻ろう」
ハルが刀を背中の袋に戻しながら言う。
2人は雷、そして煌の背中にそれぞれ跨り、小走りで待機所へと戻っていった。
ひろー、と大きな声を上げながら、ハルが縁側に姿を見せた。
「怪我大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「...見えない」
ハルは少し申し訳なさそうに呟いた。
弘の頭と左足には包帯が巻かれ、松葉杖を持っている。
「足折れてたんだね」
「そうそう、俺も気づかなかったんだけどさ、なんか痛いなぁと思ったら折れてた」
「...気づかなかった弘が怖い」
「そんなこと言ってくれるなよ」
2人が話していると、狼鬼が音もなく木から降りてきて言った。
《ハル、話ついた?》
あ、とハルが声を上げた。
「忘れてた」
《おい》
「...なんの話?」
「先生のところに行ってくるから暫く留守番よろしくって話」
「え⁉︎なんで?」
弘が大声をあげた。
「ちょっと先生に相談したいことがあってね」
「手紙じゃ駄目なのか?」
「会ってお話したいから」
「...そう」
「てことで行ってきます」
「今から⁉︎」
「うん。駄目?」
「駄目じゃないけど急だなぁと思って。ま、行ってらっしゃい」
「ん、ありがと。じゃあ、行こうか狼鬼」
《応》
あ、とハルが呟いてくるりと弘の方を振り返った。
「オオカミ達の世話よろしくー」
「え、何すれば良い?」
「餌やって撫でて遊ぶ」
「了解」
「よろしくねー」
ハルと狼鬼が元気よく歩いていく。
風花が舞いだした初冬の待機所で、弘は一つ身震いして息を吐いた。
「ただいまー」
ハルの声が聞こえて、弘とオオカミ達は揃って声がした方に向かった。
「おかえり、結構かかったんだな?」
弘がハルに声を掛ける。その足にはもう包帯は巻かれていなかった。
最後にハルがここを出てから、もうすぐひと月が経つという頃だ。
「うん、ちょっとね。色々やってたら遅くなっちゃった。良かった、足治ったんだね」
「応、オオカミもみんな元気だよ」
「そいつは良かった」
ハルにオオカミ達がまとわりつくのを見ながら、弘はふと気がついた。
「ハル、お前、手にそんな傷あったか?」
ハルの右手には、爪で引っ掻かれたような奇妙な痕がついていた。
《ハル》
白い頭を擦り付けるようにしながらハルの匂いを嗅いでいた咲も不思議そうに桃色の瞳をハルに向けた。
《狼鬼とずっと一緒にいた?》
「ずっとではないにしろ一緒にいたけど。なんで?」
《ハルから狼鬼の匂いがする》
ハルの顔が引き攣ったのが分かった。
《...ハル》
狼鬼が諦めたようにハルに声を掛ける。
はぁ、と大きく息を吐いて、まっすぐに弘の目を見た。
「来て。ちゃんと話すから」
狼鬼が何故か、申し訳なさそうに目を伏せた。
「狼鬼の血を入れたぁ⁉︎」
弘の大声が部屋に響き渡る。
ちょっと五月蝿い、とハルが呆れたように呟く。
「身体ん中に?え、ええ、なんで?」
「狼鬼の血を入れると一時的だけど鬼として活動できるの。毒も効かなくなるし基本傷もすぐ治るからたたかいに有利かなぁと思って」
「...よく先生が了承したもんだよ」
《先生も提案しちゃった身だから、ハルに押し負けた感じだったよ》
狼鬼が口を挟んだ。
「で、そこまで利点があるのに組織の中でも広まってない、ってことは何か代償があるんじゃないの?」
ハルの目が一瞬泳ぎ、寂しさの色が浮かんだ。何か言おうとするかのように口を開いたものの、へらりと笑って答えた。
「そうだなぁ、鬼になってる時は武器が上手に使えないから、体術が主になるのがみんな嫌なんじゃないの?」
ハルが軽やかに笑った。
弘は呪いのように刻まれたハルの右手の傷を見ている。
「...他には?」
「他ぁ?あはは、そんなの無いよ」
大袈裟に手を振るハルに、狼鬼が静かに声を掛けた。
《ハル。弘、全部お見通しだぞ》
「...やっぱりそうかぁ。私、なんか昔から嘘つくの下手なんだよね」
ハルが悲しそうに笑った。
「そうだね、代償はもう一つ。それが、先生が私に最後まで反対した理由なんだけどね」
ハルが息を吸い込んで、目をぎゅっと瞑った。
そっと目を開けて、息を吐く。それでもなお、なかなか話そうとはしない。
《ハル、俺から話すぞ》
見かねた狼鬼が口を開いた。
「...うん」
《人間が俺みたいな鬼の血を体内に入れると、大幅に寿命が縮むんだ》
弘は目を見開いた。ハルは目を伏せた。
「...は?」
《そりゃあ、当たり前っちゃ当たり前だろ、元々身体ん中に無かった物質が身体を占領しちゃうんだから。他にも、鬼の血を覚醒させた時、術を使う時、傷を治す時なんかも自分の寿命を少しずつ差し出していくことになる。勿論ハルはそれを了承している訳だが》
狼鬼の淡々とした説明を聞きながら、弘は目眩を憶えた。
「...ハル」
「ん?」
「なんで」
「なんでって」
ハルはニッコリと笑った。
「妖をみーんな殺したいからに決まってるでしょう?」
ハルの真っ黒な瞳が弘を捉えた。
弘の背筋に寒気が走った。
「...それは俺もだけどさ、自分の寿命差し出さなくても」
「既に命掛けてるんだもん、明日死ぬかもしれないんだから別に良」
「良くないよ」
ハルの言葉を遮って、弘が声を荒げた。
ハルがびくりと身を震わせる。
怒りと悲しみに満ちた瞳が、ハルをまっすぐ捉えていた。
「...俺は」
弘の声が震えた。
「もう、誰も、居なくなってほしくない」
「うん」
ハルが悲しそうに笑った。
「私もだよ」
ハルが続ける。
「だから、狼鬼と先生に協力してもらったの。相談しなくて、ごめんね」
「なんで相談してくれなかったんだよ?」
弘が少し刺々しい声で訊いた。
「...止められるだろうなって思って」
居心地の悪い沈黙が流れていく。
《...ハル》
鉛のように重たい空気に耐えかねたように狼鬼がハルを見た。
《いま俺ここに必要?》
「必要だよ」
《役割は?》
「この重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をどうにかして明るくする役割」
《暗ーい重ーい居心地悪ーい空気を俺だけで元に戻せと?》
「狼鬼違うよ、重ーい暗ーい居心地悪ーい空気だよ」
《あーはいはい、その重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をなんとかしろと言うんだな、うん、無理だよ》
弘が堪えきれずに笑った。
「2人とも何やってんの?」
「この重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をどうしようかねっていう相談」
「相談だったんだ、俺は落語かと思ったよ」
《落語は1人でやるだろう》
「確かに」
ハルが楽しそうに笑った。
笑い声を立てながら、畳にごろりと寝転ぶ。弘もハルを真似て横になった。
「ハル」
「ん?」
ハルが息を弾ませながら弘を見る。
「もし俺より先に逝ったら殺すからな」
「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
悪戯っぽく笑ったハルを見て、弘も少し呆れたように笑った。
木枯らしが吹き荒れ、西日に照らされた山の中を隼が飛んでいく。その後を、ハルと弘、そして7頭のオオカミ達が走っていった。
「本当にこの先?」
弘が狼鬼に向かって声を張り上げた。
《間違いないよ、だって気配が》
気配がすると言いかけた狼鬼の鼻先を、明らかに獣のものではない鋭い爪が掠めた。
《お出ましか》
狼鬼の隣を走っていた金が歯を剥き出して笑う。
組織の他の人間も続々とこの場に辿り着き、武器を構えた。
「行くか」
弘が呟いた瞬間、煌と狼鬼の遠吠えが辺りに響き渡り、ハルを含めた組織の人間、そしてハルのオオカミ達が走り出す。
弘も呂色の薙刀を構えて、土埃が舞うたたかいの場に身を投じた。
初めは乾いた草の匂いに満ちていた山中に、徐々に生々しい血の匂いが充満してくる。
妖に確実に攻撃を加えられてはいるのだが、再生能力や攻撃力の高さに阻まれ、人間たちの方が圧倒的に不利なのは確かだった。
《ハル、大丈夫か》
雷が妖を真っ直ぐ見つめながらハルに声を掛けた。
雷の後ろから呻き声を上げながら立ち上がったハルの左肩は緋色に染まっている。
「大丈夫に見えるか?」
ハルは左肩を押さえると、掠れた声で皮肉たっぷりに返した。
《...すまん、見えない》
雷が言い終わらないうちに、妖の鋭い爪がハルの頭上に飛んできた。
【隙あり】
妖が勝ち誇ったように言う。ハルの目が大きく広がった。
と、ヒュンと空を斬るような音がハルの耳に届いた。
「誰が隙ありだって?」
金属音が響いて、ハルの横に弘が降り立つ。
「...あんがと」
呆然と呟くハルを見て、弘は額から血を流しながら言った。
「いつもの強気なハルは何処に行ったんだ?妖に喰われたのか?」
「んな訳あるか」
ハルが瞳を唐紅に変化させながら返す。
「お、そう来るか。じゃ、俺も負けてられないな」
ハルが尖った鬼の牙を剥き出して笑う。弘も負けじと挑発的な笑みを浮かべた。
「まだまだ、行けるよな?」
「勿論」
2人は一斉に地面を蹴り上げた。
硝子のように透き通った空気が、山の中を流れていく。
ギャオオン、というようなオオカミの悲鳴が聞こえた。
「...風?」
ハルの絶望的な呟きが、煌の血だらけの右耳に届く。妖が楽しそうに笑った。
煌の後ろには、漆黒の毛を緋色に染めて、雷が力なく倒れている。
煌は地面に爪を突き立てた。
弘もハルもまだ動けてはいるものの、体力の消耗が激しい上に大怪我をしている。長くは持たないだろう。他の人間も同様だ。
自分と狼鬼、それから咲はまだ走れるが、雷、風、金、勝は重傷を負って戦闘復帰は絶望的。
状況を冷静に分析しようとすればするほど、勝利から遠のいていくように思えて、煌は目眩を覚えた。