薄暗くなってきた山の中で、弘はふらふらする脚を踏み締め、薙刀を握っていた。出血のせいか、目の前が暗くなっていく。誰かが叫ぶ声が遠くで聞こえる。
頭がくらくらして、視界が渦を巻くように歪んだ。
「弘!!」
ハルの叫び声が聞こえた。
弘がハッと目を開けると、妖の鋭い爪が目の前に迫っていた。
立って。
薙刀を握って。
戦わなくてはいけないのに。
今の弘の身体は、弘の思い通りに動いてはくれない。
ここまでか。
そう思った瞬間、弘の目の前で複数の音がほぼ同時に響いた。
誰かが飛び降りてきたような大きな音。
妖の爪が空を斬る音。
何かが切り裂かれたような嫌な音。
それから、微かな呻き声。
聞き間違える訳がない、今のは。
今の声は──
「...ハル?」
《うん。生きてる?》
「生きてる。そっちは大丈夫?」
ハルは答えない。
少しずつ視界がはっきりしてきて、弘は我が目を疑った。
ハルの右肩から、血が滴っていた。
白縹の羽織が緋色に染まっている。
「...ハル」
弘の声が掠れた。
《こっちは大丈夫。弘、治療してもらいな》
ハルが振り返らずに言う。
弘は一瞬迷ってから、ハルの羽織の裾を捕まえた。
「馬鹿か、ハルも治療しないと」
弘に引っ張られて、ハルの身体がぐらりと揺れた。
よろけて振り返ったハルの顔、というか頬から口、そして顎にかけて、鋭い爪で抉られたような傷が走っている。
「...え、お前、肩だけじゃなくて」
ハルが諦めたように笑った。
《うん、やられちゃった》
弘のこめかみを冷たい汗が伝った。
慌てて走ってきた看護婦に向かって、ハルは口を微かに動かしたものの、顔に受けた傷のせいで思うように話せないらしい。看護婦は何もかも察したように頷いた。
弘に看護婦が声を掛けた。
「藤宮さん、こっちに来」
来てくださいと看護婦が言い終わらないうちに、津波のような衝撃波が組織の人間たちとオオカミたちを呑み込んだ。