「弘、大丈夫?」
ハルがぐったりと座り込んでいる弘に訊いた。
「生きてはいる」
弘がぼそぼそと呟く。
《それはよかった》
煌がゆらゆらと尻尾を振った。
「よっし、終わったならとっとと戻ろう」
ハルが刀を背中の袋に戻しながら言う。
2人は雷、そして煌の背中にそれぞれ跨り、小走りで待機所へと戻っていった。
ひろー、と大きな声を上げながら、ハルが縁側に姿を見せた。
「怪我大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「...見えない」
ハルは少し申し訳なさそうに呟いた。
弘の頭と左足には包帯が巻かれ、松葉杖を持っている。
「足折れてたんだね」
「そうそう、俺も気づかなかったんだけどさ、なんか痛いなぁと思ったら折れてた」
「...気づかなかった弘が怖い」
「そんなこと言ってくれるなよ」
2人が話していると、狼鬼が音もなく木から降りてきて言った。
《ハル、話ついた?》
あ、とハルが声を上げた。
「忘れてた」
《おい》
「...なんの話?」
「先生のところに行ってくるから暫く留守番よろしくって話」
「え⁉︎なんで?」
弘が大声をあげた。
「ちょっと先生に相談したいことがあってね」
「手紙じゃ駄目なのか?」
「会ってお話したいから」
「...そう」
「てことで行ってきます」
「今から⁉︎」
「うん。駄目?」
「駄目じゃないけど急だなぁと思って。ま、行ってらっしゃい」
「ん、ありがと。じゃあ、行こうか狼鬼」
《応》
あ、とハルが呟いてくるりと弘の方を振り返った。
「オオカミ達の世話よろしくー」
「え、何すれば良い?」
「餌やって撫でて遊ぶ」
「了解」
「よろしくねー」
ハルと狼鬼が元気よく歩いていく。
風花が舞いだした初冬の待機所で、弘は一つ身震いして息を吐いた。
「ただいまー」
ハルの声が聞こえて、弘とオオカミ達は揃って声がした方に向かった。
「おかえり、結構かかったんだな?」
弘がハルに声を掛ける。その足にはもう包帯は巻かれていなかった。
最後にハルがここを出てから、もうすぐひと月が経つという頃だ。
「うん、ちょっとね。色々やってたら遅くなっちゃった。良かった、足治ったんだね」
「応、オオカミもみんな元気だよ」
「そいつは良かった」
ハルにオオカミ達がまとわりつくのを見ながら、弘はふと気がついた。
「ハル、お前、手にそんな傷あったか?」
ハルの右手には、爪で引っ掻かれたような奇妙な痕がついていた。
《ハル》
白い頭を擦り付けるようにしながらハルの匂いを嗅いでいた咲も不思議そうに桃色の瞳をハルに向けた。
《狼鬼とずっと一緒にいた?》
「ずっとではないにしろ一緒にいたけど。なんで?」
《ハルから狼鬼の匂いがする》
ハルの顔が引き攣ったのが分かった。
《...ハル》
狼鬼が諦めたようにハルに声を掛ける。
はぁ、と大きく息を吐いて、まっすぐに弘の目を見た。
「来て。ちゃんと話すから」
狼鬼が何故か、申し訳なさそうに目を伏せた。
「狼鬼の血を入れたぁ⁉︎」
弘の大声が部屋に響き渡る。
ちょっと五月蝿い、とハルが呆れたように呟く。
「身体ん中に?え、ええ、なんで?」
「狼鬼の血を入れると一時的だけど鬼として活動できるの。毒も効かなくなるし基本傷もすぐ治るからたたかいに有利かなぁと思って」
「...よく先生が了承したもんだよ」
《先生も提案しちゃった身だから、ハルに押し負けた感じだったよ》
狼鬼が口を挟んだ。
「で、そこまで利点があるのに組織の中でも広まってない、ってことは何か代償があるんじゃないの?」
ハルの目が一瞬泳ぎ、寂しさの色が浮かんだ。何か言おうとするかのように口を開いたものの、へらりと笑って答えた。
「そうだなぁ、鬼になってる時は武器が上手に使えないから、体術が主になるのがみんな嫌なんじゃないの?」
ハルが軽やかに笑った。
弘は呪いのように刻まれたハルの右手の傷を見ている。
「...他には?」
「他ぁ?あはは、そんなの無いよ」
大袈裟に手を振るハルに、狼鬼が静かに声を掛けた。
《ハル。弘、全部お見通しだぞ》
「...やっぱりそうかぁ。私、なんか昔から嘘つくの下手なんだよね」
ハルが悲しそうに笑った。
「そうだね、代償はもう一つ。それが、先生が私に最後まで反対した理由なんだけどね」
ハルが息を吸い込んで、目をぎゅっと瞑った。
そっと目を開けて、息を吐く。それでもなお、なかなか話そうとはしない。
《ハル、俺から話すぞ》
見かねた狼鬼が口を開いた。
「...うん」
《人間が俺みたいな鬼の血を体内に入れると、大幅に寿命が縮むんだ》
弘は目を見開いた。ハルは目を伏せた。
「...は?」
《そりゃあ、当たり前っちゃ当たり前だろ、元々身体ん中に無かった物質が身体を占領しちゃうんだから。他にも、鬼の血を覚醒させた時、術を使う時、傷を治す時なんかも自分の寿命を少しずつ差し出していくことになる。勿論ハルはそれを了承している訳だが》
狼鬼の淡々とした説明を聞きながら、弘は目眩を憶えた。
「...ハル」
「ん?」
「なんで」
「なんでって」
ハルはニッコリと笑った。
「妖をみーんな殺したいからに決まってるでしょう?」
ハルの真っ黒な瞳が弘を捉えた。
弘の背筋に寒気が走った。
「...それは俺もだけどさ、自分の寿命差し出さなくても」
「既に命掛けてるんだもん、明日死ぬかもしれないんだから別に良」
「良くないよ」
ハルの言葉を遮って、弘が声を荒げた。
ハルがびくりと身を震わせる。
怒りと悲しみに満ちた瞳が、ハルをまっすぐ捉えていた。
「...俺は」
弘の声が震えた。
「もう、誰も、居なくなってほしくない」
「うん」
ハルが悲しそうに笑った。
「私もだよ」
ハルが続ける。
「だから、狼鬼と先生に協力してもらったの。相談しなくて、ごめんね」
「なんで相談してくれなかったんだよ?」
弘が少し刺々しい声で訊いた。
「...止められるだろうなって思って」
居心地の悪い沈黙が流れていく。
《...ハル》
鉛のように重たい空気に耐えかねたように狼鬼がハルを見た。
《いま俺ここに必要?》
「必要だよ」
《役割は?》
「この重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をどうにかして明るくする役割」
《暗ーい重ーい居心地悪ーい空気を俺だけで元に戻せと?》
「狼鬼違うよ、重ーい暗ーい居心地悪ーい空気だよ」
《あーはいはい、その重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をなんとかしろと言うんだな、うん、無理だよ》
弘が堪えきれずに笑った。
「2人とも何やってんの?」
「この重ーい暗ーい居心地悪ーい空気をどうしようかねっていう相談」
「相談だったんだ、俺は落語かと思ったよ」
《落語は1人でやるだろう》
「確かに」
ハルが楽しそうに笑った。
笑い声を立てながら、畳にごろりと寝転ぶ。弘もハルを真似て横になった。
「ハル」
「ん?」
ハルが息を弾ませながら弘を見る。
「もし俺より先に逝ったら殺すからな」
「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
悪戯っぽく笑ったハルを見て、弘も少し呆れたように笑った。
木枯らしが吹き荒れ、西日に照らされた山の中を隼が飛んでいく。その後を、ハルと弘、そして7頭のオオカミ達が走っていった。
「本当にこの先?」
弘が狼鬼に向かって声を張り上げた。
《間違いないよ、だって気配が》
気配がすると言いかけた狼鬼の鼻先を、明らかに獣のものではない鋭い爪が掠めた。
《お出ましか》
狼鬼の隣を走っていた金が歯を剥き出して笑う。
組織の他の人間も続々とこの場に辿り着き、武器を構えた。
「行くか」
弘が呟いた瞬間、煌と狼鬼の遠吠えが辺りに響き渡り、ハルを含めた組織の人間、そしてハルのオオカミ達が走り出す。
弘も呂色の薙刀を構えて、土埃が舞うたたかいの場に身を投じた。
初めは乾いた草の匂いに満ちていた山中に、徐々に生々しい血の匂いが充満してくる。
妖に確実に攻撃を加えられてはいるのだが、再生能力や攻撃力の高さに阻まれ、人間たちの方が圧倒的に不利なのは確かだった。
《ハル、大丈夫か》
雷が妖を真っ直ぐ見つめながらハルに声を掛けた。
雷の後ろから呻き声を上げながら立ち上がったハルの左肩は緋色に染まっている。
「大丈夫に見えるか?」
ハルは左肩を押さえると、掠れた声で皮肉たっぷりに返した。
《...すまん、見えない》
雷が言い終わらないうちに、妖の鋭い爪がハルの頭上に飛んできた。
【隙あり】
妖が勝ち誇ったように言う。ハルの目が大きく広がった。
と、ヒュンと空を斬るような音がハルの耳に届いた。
「誰が隙ありだって?」
金属音が響いて、ハルの横に弘が降り立つ。
「...あんがと」
呆然と呟くハルを見て、弘は額から血を流しながら言った。
「いつもの強気なハルは何処に行ったんだ?妖に喰われたのか?」
「んな訳あるか」
ハルが瞳を唐紅に変化させながら返す。
「お、そう来るか。じゃ、俺も負けてられないな」
ハルが尖った鬼の牙を剥き出して笑う。弘も負けじと挑発的な笑みを浮かべた。
「まだまだ、行けるよな?」
「勿論」
2人は一斉に地面を蹴り上げた。
硝子のように透き通った空気が、山の中を流れていく。
ギャオオン、というようなオオカミの悲鳴が聞こえた。
「...風?」
ハルの絶望的な呟きが、煌の血だらけの右耳に届く。妖が楽しそうに笑った。
煌の後ろには、漆黒の毛を緋色に染めて、雷が力なく倒れている。
煌は地面に爪を突き立てた。
弘もハルもまだ動けてはいるものの、体力の消耗が激しい上に大怪我をしている。長くは持たないだろう。他の人間も同様だ。
自分と狼鬼、それから咲はまだ走れるが、雷、風、金、勝は重傷を負って戦闘復帰は絶望的。
状況を冷静に分析しようとすればするほど、勝利から遠のいていくように思えて、煌は目眩を覚えた。
薄暗くなってきた山の中で、弘はふらふらする脚を踏み締め、薙刀を握っていた。出血のせいか、目の前が暗くなっていく。誰かが叫ぶ声が遠くで聞こえる。
頭がくらくらして、視界が渦を巻くように歪んだ。
「弘!!」
ハルの叫び声が聞こえた。
弘がハッと目を開けると、妖の鋭い爪が目の前に迫っていた。
立って。
薙刀を握って。
戦わなくてはいけないのに。
今の弘の身体は、弘の思い通りに動いてはくれない。
ここまでか。
そう思った瞬間、弘の目の前で複数の音がほぼ同時に響いた。
誰かが飛び降りてきたような大きな音。
妖の爪が空を斬る音。
何かが切り裂かれたような嫌な音。
それから、微かな呻き声。
聞き間違える訳がない、今のは。
今の声は──
「...ハル?」
《うん。生きてる?》
「生きてる。そっちは大丈夫?」
ハルは答えない。
少しずつ視界がはっきりしてきて、弘は我が目を疑った。
ハルの右肩から、血が滴っていた。
白縹の羽織が緋色に染まっている。
「...ハル」
弘の声が掠れた。
《こっちは大丈夫。弘、治療してもらいな》
ハルが振り返らずに言う。
弘は一瞬迷ってから、ハルの羽織の裾を捕まえた。
「馬鹿か、ハルも治療しないと」
弘に引っ張られて、ハルの身体がぐらりと揺れた。
よろけて振り返ったハルの顔、というか頬から口、そして顎にかけて、鋭い爪で抉られたような傷が走っている。
「...え、お前、肩だけじゃなくて」
ハルが諦めたように笑った。
《うん、やられちゃった》
弘のこめかみを冷たい汗が伝った。
慌てて走ってきた看護婦に向かって、ハルは口を微かに動かしたものの、顔に受けた傷のせいで思うように話せないらしい。看護婦は何もかも察したように頷いた。
弘に看護婦が声を掛けた。
「藤宮さん、こっちに来」
来てくださいと看護婦が言い終わらないうちに、津波のような衝撃波が組織の人間たちとオオカミたちを呑み込んだ。
狼鬼が目を開けると、陽の光がさんさんと待機所の屋根の上に降り注いでいた。
《彼奴ら起きたかな》
桃の花の良い香りが漂ってくる中、狼鬼は勢いよく身体を起こしてブルブルと身体を振った。
足音を立てずに屋根から降りると、目の前にいた茶色のオオカミがぱっと顔を輝かせた。
《狼鬼!》
《勝》
立ち上がった勝の左の後脚は二度と戻ってくることはなくなってしまったが、勝自身は自分と仲間が生きていたことを素直に喜んでいた。
《ねぇ狼鬼、見て、かなり上手に歩けるようになってきたよ》
《そうだな、良かった》
言葉とは裏腹に、狼鬼の表情は冴えなかった。
《ごめんな》
《何が?》
《みんな大怪我してるのに、俺だけが無傷で》
勝は少し考えるように首を傾げたものの、すぐに顔を上げた。
《でも、狼鬼も怪我はしてるでしょう?治ったけど》
《うん》
《だから俺も、狼鬼も、他のみんなも頑張ったんだよ》
それに、と勝が続ける。
《狼鬼が元気にしてると、俺たちも不思議と元気になるからさ。狼鬼には元気でいてもらわないと》
無理は禁物だけどね、と言って勝が笑う。狼鬼の唐紅の瞳に光が灯った。
《そうか...そうだな、ありがとう》
勝は嬉しそうに笑った。
《そうだ、ハルと弘起きた?》
《ううん、まだ》
《...まだか》
あの日、衝撃波に呑み込まれて、ハルは
右足の膝から下を失った。弘は左腕に大怪我を負い、今まで通り動かすのは難しいだろうとのことだった。
そしてあれから1ヶ月が経ったが、2人はまだ目を覚ましていない。
7頭いたオオカミ達も、狼鬼、勝、煌の3頭にまで減ってしまったのだ、ハルと弘、2人共生き残ったのは奇跡的とも言えるだろう。
でも、この1ヶ月、狼鬼は胸にもやもやと残った一抹の不安を、拭いきれずにいた。
《ねぇ、狼鬼》
そんな狼鬼の心中を知ってか知らずか、勝が口を開いた。
《煌も誘ってさ、なんかお花採りに行こうよ。ハルと弘、良い匂いで目覚ますかもしれないし》
《良いね、行こうか》
《やったぁ。じゃ、煌呼んでくるね》
《応》
勝が尻尾を振りながら駆けていく。
狼鬼は座って、ふくよかに香る桃の花を見上げた。
《もう3月か》
狼鬼がぽつりと呟いた。
《...早く起きろよ》
薄紅色の小さな花は、こんこんと眠り続ける2人に、春が近づいていることを知らせているようだった。
目を開けると、見慣れた天井が目に入った。そっと腕を持ち上げようとしたものの、ビキッと嫌な音がして、ハルは顔を顰めた。
「いっ...」
長いこと動けなかったせいだろうか。
それとも──
「ハルさん?」
聞き覚えのある声がして、看護婦の顔がハルの視界に入った。
「目が覚めたんですね!良かった、
あの戦いの後、ハルさん、1ヶ月目を覚まさなかったんですよ」
涙を浮かべる看護婦を、ハルはどこか現実味がないというようにぼんやりと見つめていた。
「ここは、今は、」
ハルが掠れた声で呟く。
「待機所です。と、言っても今は組織の皆さんの療養所みたいになっていますがね。今は3月の下旬ですよ」
あぁ、とハルは合点がいったように首を微かに横に向けた。
「それで桃の花が置いてあるんですね」
「ハルさんのオオカミ達が持ってきたんですよ」
看護婦が嬉しそうに言った。
オオカミ、と聞いて、ハルが訊いた。
「あの、オオカミ達は、弘は、どういった状況ですか」
「藤宮さんはまだ意識が戻っていません、お隣にいらっしゃいますよ」
ハルは驚いて横を向いた。
弘が隣で眠っているのを見て、ハルはほっとしたように息を吐いた。
「それから、オオカミ達は...3頭、ですね。狼鬼、と言いましたか、あの赤目の子と、黒くて、青い目をした子、それから小柄な茶色い子が居ます、今は何処か行っているようですが」
「...そうですか、ありがとうございます」
狼鬼、煌、勝。
その3頭が残っているということは、雷、風、金、咲の4頭は駄目だったということか。ハルは微かに呻き声を上げた。
一週間後。
ハルが松葉杖を持って弘の隣に座っていると、ヒョッコリとオオカミ達が顔を出した。
《ハルー!!!》
3頭が声を合わせて、転がるようにハルの方へ走ってくる。
《起きた!動いた!》
《遅いぞー》
《怪我大丈夫ー?》
「動いた!って、人を蘇った!みたいに言うなよ」
《だって本当に動かなかったんだもん》
「怪我は大丈夫、遅くなってごめんね。花ありがとう」
《アレは弘用に持ってきたんだ》
狼鬼がフンと鼻から息を吐いた。
《またまたぁ、素直じゃないなぁ狼鬼は》
勝が笑って狼鬼に体当たりする。
ハルが軽やかに笑った。
《そうそう、ハル。弘、起きた?》
「ううん、まだ。弘起きるの遅くない?私が起きてから一週間だよ、私たちの羽織直せちゃったよ」
《2人分?》
「うん」
《一週間で?》
「うん」
《ハル手芸得意だったんだ》
「まぁ人並みには?」
《ふぅん》
「...う」
微かな呻き声が聞こえて、ハルとオオカミ達は一斉に振り返った。
「弘?大丈夫?」
「みんな...無事か...ここ...」
少し朦朧としたように弘が訊く。
《いつもの待機所だ。お前、ハルより一週間も寝坊してるぞ、もう3月の終わりだ》
煌が弘に返した。
「ハル...生きてるのか?」
「生きてるよ」
ハルの声が微かに震えた。
うーっというような泣き声がハルの喉から洩れて、ハルは目を乱暴に擦った。
「...遅い」
「ごめんごめん」
弘が優しく笑った。
《ハル、起きて一週間で動いてるよ。怖いぐらいの回復速度だって看護婦さん言ってた》
勝の答えに、弘がはは、と笑った。
「さすがハルだな」
ハルは鼻を啜った後、
「そりゃどーも」
と、少し戯けたように笑った。
弘が部屋に入ると、異様な光景が広がっていた。
ハルが室内で刀を抜いて、自分の首の後ろに持っていっているのだ。何故かオオカミ達は全く慌てていない。
「え!え、ハル、ちょっと待って何してんの?」
慌てる弘とは対照的に、のんびりとした調子でハルが答えた。
「怪我で腕が水平以上に上がらなくなっちゃったから、髪を切ろうかと」
「結べないから?」
「うん」
「事情は分かった。でもなんで刀で切るんだよ」
「鋏で上手に切れる気がしないんだもん」
そう言うと、バッサリと一息に髪を切ってしまった。
「狼鬼、食べる?」
切った髪を狼鬼の前に差し出す。
《俺は人間喰わないんだよ》
ハルの冗談に、狼鬼は真顔で返した。
「はいはい、知ってますよー」
ハルが楽しそうに笑った。でも恐らく、この場で楽しいのはハルだけだろう。
弘は溜息をつくと、ハルに声を掛けた。
「何にせよ、そのままじゃ外出れないだろ。来い、切り揃えてやるから」
「はーい」
《弘、お兄ちゃんみたい》
勝が笑って言うのを横目に、本当に年上なんだから当たり前だろ、と悪戯っぽく返した。
縁側に座ったハルの耳元で、和鋏がシャクシャクと小気味良い音を立てていく。手慣れた様子で鋏を操っていく弘に、ハルは真っ直ぐ前を向きながら声を掛けた。
「髪切るの上手いね」
「そう?まぁ、妹のをよくやってたからかな」
「妹いたの?」
「うん。話してなかったっけ?」
「初めて聞いた。弘って何人兄妹なの?」
「4人。俺が一番上で、妹が2人、弟が1人。」
「へぇ、4人兄妹か。私と一緒だ。私が三番目で、兄ちゃんと姉ちゃんと、それから咲羅。この羽織は姉ちゃんのだよ」
「ハルの羽織じゃなかったの?」
「うん、だから前は少しぶかぶかだったんだよね」
「それで大きさ合ってなかったんだな。...それに薄々思ってたけど、やっぱり咲羅末っ子なんだ」
「うん。我儘娘でしょう?」
「ハルも負けてないぞ」
「うわぁ、酷い」
ハルはそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
「なんか、よく姉ちゃんにこんな感じで髪切って貰ってたなぁ」
ハルが懐かしそうに言った。
「父さんも母さんも仕事が忙しかったから」
「そういえば、咲羅から聞いたんだけど、ハルの家代々猟師やってるって本当?」
弘が鋏を動かしながら訊いた。
「うん、本当だよ。弓矢で、鹿とか、猪とか。私と咲羅はまだ小さかったから兎とか獲ってたかな。じゃあなんで妖の討伐に弓矢使わないんだって言われそうだけど」
「あ、それ咲羅から聞いた。先生が刀しか教えてなかったから刀に切り替えたんだろ?」
「そ。それで剣士の仲間入り」
「良いなぁ、刀は。ちゃんと剣士ってかっこいい名前があって」
「何か考えれば良いじゃん。薙刀士とか」
「ナギナタシ...えー、かっこ悪い」
「えええー」
頭を後ろに倒したハルに、もうちょっとだから動くな、と制して、弘が作業を続ける。暫くするとシャクシャクという音が止んで、弘がハルの顔を覗き込むようにしながら言った。
「はい、完成」
弘に渡された手鏡を覗いて、ハルがぱっと顔を輝かせる。
「弘すごい!ありがとう!」
「此方こそ」
「へ?」
「大きくなった妹を見てるみたいで嬉しかった」
ハルは少し驚いたように弘を見た後、くすくすと楽しそうに笑った。
「それじゃ、また切らせてあげても良いよ」
「そこは、また切ってもらえる?だろ」
2人は顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
「ありがとね」
ハルが真っ直ぐ弘を見ながら言う。
「髪ならまた切っても良いよ」
悪戯っぽく返した弘に、ハルは首を横に振った。
「それもだけど」
「けど?」
「私ね、家族が妖にやられて、咲羅がいなくなっちゃってさ。で、冬にみんなで妖の始祖を倒したでしょう?此間起きてから、死にたいって訳じゃないし、命は大事にしなきゃって分かってはいるんだけど...なんか、なんで生きてるのか解らなくなっちゃってね」
弘が息を呑むのが分かった。悲しそうな微笑みを浮かべながら、ハルが続ける。
「オオカミも組織の人も随分減っちゃったし、私も弘も大怪我したし。もう十分生きたんじゃないかなぁなんて思ったりしてね。でも」
ハルが弘の目を真っ直ぐに見つめる。
「煌と、勝と、狼鬼と。それから、何より弘がいるなら、もうちょっと生きていたいなって、思えたから」
ハルが陽だまりのような笑顔を浮かべた。
「だから、ありがとう」
弘の目が大きく広がった。
「...此方こそ。俺も、多分お前らがいなかったら生きて来られなかったと思う、ありがとな」
ひと呼吸置いてから、弘がもう一言付け加えた。
「これからも、よろしく」
ハルは花開いたように笑った。
「うん。よろしくね」
2人を見守るように、可憐な白い君影草が春風に吹かれて揺れていた。