「ハル姉、待ってよ」
咲羅が、静かに歩いていくハルの背中を慌てて追いかける。
振り向いたハルは、後ろで一つに結った髪を揺らして息を弾ませる咲羅を見て溜息を吐いた。
「十分待ってるよ、咲羅がしょっちゅう道草食うから」
「そんなに食ってないよ〜、ねぇ、楼と煌もそう思うでしょ?」
咲羅が薄桜の羽織を翻らせながら、隣を歩く大きなオオカミ2頭に声を掛ける。
《ハルと同感、お前が寄り道しすぎ》
白百合色の毛に蒲公英色の瞳を持つ楼が正面を真っ直ぐ見つめながら言った。
《同じく》
漆黒の毛と天色の瞳を持つ煌も静かに呟く。
「えぇえーっ、味方がいないー」
大袈裟に眉を八の字にする咲羅を見て、ハルはふっと笑った。
「ほらほら、早く。同期?の人がいるみたいだから」
「えっ、ほんと?何人?」
「1人」
「すっくな!」
「そんなに大きな組織じゃないからね」
比較的広い砂利道を、姉妹と2頭のオオカミ達が歩いていく。
そこから10米程行った先に、細長い袋を背負った16歳ぐらいの少年がいた。
ハルが静かに近づいて、声を掛けた。
「あの、藤宮さん...ですか?」
少年は振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「はい、藤宮 弘といいます」
「峰本 ハルです、こっちは妹の」
ハルの言葉を遮って、咲羅がぴっと右手を挙げた。
「峰本 咲羅です!よろしくお願いします!」
弘が、此方こそ、とにっこりと笑った。
「で、えーと、この子たちは...」
弘が戸惑ったように、オオカミ達と姉妹を交互に見つめた。
「私たちの先生が育てたオオカミです、人や家畜を襲うことはないのでご心配なく。妖の討伐を手伝ってもらっているんです」
「...へーぇ、オオカミ...ですか...」
弘が呟いて、楼と煌から3歩離れた。
「大丈夫、とーっても優しいですから!白いのが楼、黒いのが煌です。先生が外国から連れてきたらしいです」
咲羅が明るく言って、弘の緊張が少しほぐれたようだ。
「成程」
弘が恐る恐る手を差し出すと、2頭は手の匂いをくんくんと嗅ぎ、それをぺろりと舐める。弘の顔に笑顔が浮かんだ。
「よろしくな、楼、煌」
楼と煌が、嬉しそうに笑った。
「あ、それから」
ハルが思い出したように言う。
「一応私たち同期ということらしいので、敬語じゃなくて良いですよ」
「あ、はい。では改めて。
よろしく、ハル、咲羅」
「よろしく、弘」
3人は顔を見合わせて、にっこりと笑った。
「じゃ、ざっくり説明するね」
ハルがカリカリと音を立てて、枝で地面に図を描いていく。それを咲羅と弘、そして楼と煌が覗き込んだ。
「今日、妖がいるのは恐らくあの山の山頂付近。山頂から咲羅と楼たちが二手に分かれて追い立てて、私と弘と煌たちが山の麓で待ち伏せる。要するにクマ狩りとかと同じ要領ね。楼は追い立て始める時に合図ちょうだい。それから、ヤバくなったら言って。狼鬼呼ぶから」
「りょーかいー」
「分かった」
《承知》
《了解》
「よっし、じゃ、行こうか」
ハルが勢い良く立ち上がる。
「咲羅、楼。また後で」
「うん、また後でね」
《応。よし、いくぞ皆》
《はーい》
咲羅と楼、そしてその後から5頭のオオカミがタカタカと走っていくのを見送りながら、ハルは伸びをして弘に顔を向けた。
「じゃ、私たちも準備しようか」
「だな。ところでハル、なんで咲羅が追い立て役なんだ?別に俺とか...オオカミだけでも良いと思うけど。オオカミはこっちに6頭、あっちにも6頭置いてるんだろ?狼鬼も助っ人としている訳だし」
弘が薙刀を取り出しながらハルに訊いた。
「うん、そうだね...でも少なくとも1人、人間がいて指示出さないとオオカミが混乱した時に止まらなくなっちゃうから。それに、走ってるオオカミをまともに追いかけられるのは足速い咲羅だけだし」
「追いかけるのか、オオカミを⁉︎」
「追いかけるっていうか、一緒に走る」
「...咲羅すげぇな」
弘が感心したように呟いた。
「そりゃあそうだよ。私の自慢の妹だもん」
咲羅とお揃いの一つ結びの髪を揺らして、ハルが嬉しそうに笑った。
ハルが刀を腰に差していると、山頂からアオーンというような遠吠えが聞こえてきた。すかさず煌の隣にいた、金糸雀色の瞳に漆黒の毛を持つ雷が遠吠えで返したものの、此方は伸びやかなアオーンという声ではなく、犬が続けて吠えたようなオウオウという声だった。
「響くからまだ良いけど、相変わらず雷は遠吠え下手だな」
苦笑いして呟くハルに、雷が《煩い》と言って目を伏せる。
ごめんごめん、と謝るハルに、弘が緊迫した調子で訊いた。
「咲羅たちが山降りてくるまで何分ぐらい?」
「長く見積もっても5分。順調に行けば3分ぐらいで来るんじゃないかな」
「了解」
弘が薙刀を構えると、ハルも合わせるように刀をすらりと引き抜いた。
遠くから土煙が近づいてくる。
《ハル姉、弘、オオカミのみんな、よろしくね》
「了解っ」
《任せろ》
咲羅の声を合図に、2人と6頭のオオカミは一斉に駆け出した。
咲羅が突き立てた刀によって、妖が霧のように形を崩して消えていく。
それぞれ武器を構えていたハルと弘は、ほうと息をついて身体の力を抜いた。オオカミ達の緊張も一気に解れていった。
「もう終わりだよね?」
咲羅が刀を鞘に仕舞いながら楼の方を振り返る。
《嗚呼、もういないぞ》
「みんな怪我は?」
ハルが周りを見回して問うた。
「ない」
「ないよ、大丈夫ー」
《なし》
《無事だよ》
口々に答える2人とオオカミ達を見て、ハルはほっとしたように表情を緩ませた。
「よし、じゃあ、戻ろうか」
《解散?》
雪が透き通った鴨頭草の瞳をハルに向けながら訊いた。
「うん、そうだよ。お疲れさま」
ハルがそう言うと、雪は嬉しそうに月白の毛をなびかせて、跳ねるように他のオオカミ達と遊び始めた。
「ねぇ、弘」
ハルが弘に声を掛けたのを見て、咲羅も側に寄ってきた。
「薙刀の使い方、さわりだけで良いから教えてよ」
「なんで?ハルは刀があるじゃないか」
「刀が折れた時とか用に」
「俺の武器は⁉︎」
「弘はきっと枝を投げて戦えるよ」
咲羅が落ちていた枝をいじくり回しながら言った。
「俺が投擲得意だからって、ちょっと馬鹿にしてないか?」
「してないー!弘怖いー!」
咲羅が大袈裟に首を竦めるのを見て、弘は呆れたように笑った。
「とにかく、ね、教えてよ。刀の使い方も教えるから」
「刀ってどんな風に練習するんだ?」
弘に訊かれて、ハルと咲羅は顔を見合わせた。
「まず走り込みやって」
「素振り1000本とかやって」
「舞の素質あるか見てもらって」
「ハル姉やめてー!舞ができないあたしの古傷抉らないでーー!」
咲羅が頭を抱えて大声を上げた。
「ごめんー!でも私は咲羅みたいに足速くないんだよー!」
「...まぁ、大変なんだな」
「そゆこと」
「刀は...やめておくよ、俺は薙刀で十分」
「でも、基礎はやっておいた方が良いと思うよ」
咲羅が真面目な顔をして言った。
「と言うと?」
「妖の攻撃でハル姉とかあたしの刀が飛んできて、薙刀吹っ飛ばされた時に使える」
「...そんな事態になることの方が少ない気がするけどな」
「少ないかもしれないけどあるかもしれないから!教えてよ!」
ハルもなかなか引き下がらない。
「はいはい、気が向いたらな」
「気が向いたらっていつ?」
「気が向いたら」
「答えになってないよ!」
「煩いな!」
騒がしく言い合いを続けるハルと弘を眺めながら、咲羅はニコニコして呟いた。
「本当にハル姉と弘は仲良いよねぇ」
「「何処が!!」」
声を揃えて叫んだ2人を見て、咲羅は声を上げて笑った。
《今日は思ってたよりも早く終わったな》
「だねー」
煌と咲羅が話しながら、並んで歩いていく。
その後ろから、ハル、弘、楼、そして狼鬼が歩いていった。
《ハル、他のみんなは?》
狼鬼がハルの方を見て尋ねた。
「今日は町が近いから、先に帰ってもらったよ」
「オオカミ13頭も引き連れて歩いてたらどう足掻いてもすごく目立つもんな」
弘が独り言のように呟いた。
「うーん、悪いことはしてないし、討伐にはみんな必要不可欠なんだけどなぁ...」
ハルが困ったように頭を掻いた。
「ハル姉ーーっ!弘ーーっ!」
咲羅の馬鹿でかい声が前から響いてきて、2人と2頭は我に返った。
「お祭りやってる!行っても良いでしょ?」
「え、うん、良いよ。でも...」
ハルはぶつぶつと呟いて、困ったようにオオカミ達を見つめた。
《ああ、俺らそこで待ってるよ》
《なんかお土産買ってきてね》
《あんまり遅くなるなよ?》
オオカミ達はそう言うと、音もなく木の枝葉の中に姿を消した。
「聞き分け良いけど、ちゃっかりしてるなぁ」
苦笑いする弘に、ハルもつられて笑う。
「ほらほら、ハル姉、弘、行こ?ね!」
咲羅に手を引かれて、2人は夏祭りの喧騒の中に入っていった。
「あ」
ハルが声を上げて、咲羅と弘が揃って振り返った。
「どしたの?」
「いや、あれ。久しぶりに見たなぁと思って」
ハルが指差した先には、「お面」と書かれた露店が建っていた。
狐、天狗、般若など、色とりどりのお面を見て、3人は思わずわぁと声を上げた。
「ねぇ、良いこと思いついた!3人お揃いでお面買おうよ」
咲羅の提案に、ハルと弘もぱぁと顔を輝かせた。
「私、狐が良いな。咲羅と弘は?」
「狐。般若は怖い」
「俺も狐かな。天狗は色んな所にぶつけそう」
「現実的な理由だね...」
「じゃあ、ハル姉も弘も狐?」
「うん」
咲羅の問いに、2人は揃って頷いた。
「俺、黒い狐が良い」
「あたしはあの赤い子」
「私...うーん...どれが良いと思う?」
「欲しいのがない?」
「ううん、どれも綺麗で」
首を傾げるハルに、咲羅が言った。
「あの白い子は?なんか、ハル姉っぽい」
「え?あれ?...どの辺が?」
「なんか柔らかい印象のところとかじゃないの?」
弘が横から口を挟んだ。
「そうそう、笑った顔もハル姉っぽい」
「私、狐みたいに笑うの...?」
「狐みたいじゃなくて、ほら、優しそうなところとか。怒ると怖いけど」
「弘?」
ハルが弘の方を見てニコリと笑った。
「ゴメンナサイ」
弘はぼそぼそと呟いて目を逸らした。
「はは、でもありがと、じゃあそれにしようかな」
「じゃ、決定〜!」
咲羅の楽しげな声に、弘とハルは顔を見合わせて笑った。
「違うよ、ハル姉」
咲羅の厳しい声に、ハルはぐったりと肩を落とした。
「いやいや咲羅、あなたの説明がよく分からないんだって。回し蹴りってどうやってやるの?」
「え、だからこう、左足で立って、腰を捻ってシュバっと...」
空を斬るような音が響いて、咲羅の鋭い蹴りが飛び出す。
「だからその、シュバの部分が分かんないの」
「見たらわかるでしょ?」
「それがわからないんですよー」
平行線の言い合いを続ける姉妹を見て、弘とオオカミ達は呆れたように溜息をついた。
「左足を軸にして、上体を後ろに傾けながら直線的に蹴る。ただ足を振り回すんじゃくて、股関節、膝、足首の順で伸ばしていく、みたいな意味かな?咲羅。」
淡々と説明する弘に、わぁ、と咲羅は声を上げた。
「すごい!弘、やったことあるの?」
「ないけど、見てたらそんな感じかなぁって」
「...恐ろしい奴がいたぞ」
「...説明の鬼...」
《鬼は俺だろう》
狼鬼が口を挟んだ。
「そうだそうだ、誰が鬼だオイ」
「「わー!鬼だー!」」
大袈裟に首を竦める姉妹を見て、弘は苦笑いした。
「じゃあ、回し蹴りってこんな感じ?」
ヒュンと音を立てて、ハルの右足が空を斬った。
「唐突に話が戻ったね...でも、そんな感じ。すごいハル姉!説明聞いた直後にそれなりに形になってる!」
へへ、とハルは照れたように笑った。
「弘の説明が上手なんだよ」
「そりゃどーも」
弘も嬉しそうに笑った。
「じゃ、ハル姉、次は飛び蹴りね。
こうやって...」
咲羅が鮮やかな蹴りを繰り出すのとほぼ同時に、ハルが「ちょっとちょっと」と降参するように両手を上げた。
「待って、待って!せめて1日回し蹴りの練習させて!」
ハルの慌てたような声を聞いて、2人とオオカミ達は楽しそうに笑った。
「じゃ、そろそろかな。今日は弘は単独任務なんだよね?」
「応」
「じゃ、ハル姉!今日は妖複数いるみたいだけど頑張ろう!よしっ、みんな頑張るぞー!」
咲羅が無邪気に言った。
「《おー!》」
3人とオオカミ達の声が揃って、鱗雲が浮かんだ空にこだました。
霙が降る中を、弘は全速力で走っていた。角を曲がった瞬間、濡れた地面で足を滑らせ、強かに身体をぶつけたものの、間髪入れずに立ち上がり、また走り出す。
討伐が終わった弘の元に隼で連絡が来て、慌てて舞い戻ってきたのだ。
待機所の扉を勢い良く開けると、目の前にいた看護婦がぎょっとした顔で弘を見た。泥だらけでずぶ濡れな人間がいきなり入ってきて驚いたのだろう。会釈をして横を通り過ぎる。
部屋に入ると、布団に横たわる人影が見えた。
「...ハル」
ぴくりと人影が動いたものの、それが声を出すことはなかった。
弘はそっと布団に近づき、音を立てないように正座をした。
「ハル」
もう一度声を掛けると、人影が──ハルが、驚いたようにがばと起き上がった。
「弘?...なんで」
「連絡受けたから帰ってきた。お前、怪我は」
ああ、とハルが笑った。
「全然大したことないから、大丈夫」
咲羅に比べたら、と小さく呟いたのが、弘の耳に届いた。
大丈夫、と言いつつも、その怪我が全く大丈夫ではないのは一目見ただけで分かった。頭には包帯が巻かれ、傍に畳んで置いてある白縹の羽織は、元々何色だったのか分からないほど血まみれだった。
「...咲羅、ごめん」
ぽつりと声が聞こえて、弘が顔を上げると、ハルの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめん、ごめんね、守れなくて」
弘、と明るい声が聞こえて、顔を上げると、あの赤狐面よりもずっと明るくて、無邪気な笑顔がそこにあったのだ。あれを、もう二度と見ることはできなくなった。
自分たちはいつも死と隣り合わせであることは、十分過ぎるほど分かっていたつもりだった。2年前、妖に襲われて家族がみんないなくなってしまった時に、既に学んでいた筈なのに。
弘は口を開けた。
何か言おうと思って、それでも何も浮かばなくて、代わりに、ハルを優しく抱きしめた。
弘の瞳から涙が溢れ、それと一緒に一言、言葉が口からこぼれ出た。
「お疲れさま」
お疲れさま、頑張ったな。
ハルの身体が細かく震えているのが分かる。
ハルは、弘にぐったりと身体を預けると、声を上げて泣いた。
ハルが部屋を出ると、弘と煌が縁側で話しているのが見えた。
《雪と銀は大怪我だったけど生きてはいるから、先生に世話してもらうことになった》
「ここに一緒にいちゃ駄目なのか?」
《ハルもそう言ったんだけどね、ハルも俺たちも、勿論弘もだけど、ほぼ毎日討伐に出てるでしょ?だから先生のところの方が安心かなぁって》
「...成程ね」
《で、楼と海と初と空は駄目だった》
「そうか...大変だったな...煌は大丈夫か?」
《大丈夫ではないけど、なんとかやってるよ》
「...ん、そっか」
会話が一旦途切れた瞬間を見計らって、ハルが縁側に姿を見せた。
「え、ハル、もう動いて大丈夫なのか?」
「うん、ちょっとでも動いとかないと身体鈍っちゃうし」
ハルが弘の隣に腰を下ろした。
《それもそうだね》
「いつから復帰?」
「明後日」
《うわぁ》
「どしたの?」
《この組織もいよいよやばいなぁと》
「確かに。大怪我した人を5日で復帰させるって...やばいな」
弘がそう言うと、ハルは笑った。
「まぁ、裂傷と打撲だけで、どこも骨折してないから」
「一般的にはそれを重傷と言うんだよ」
「あーそっか、私重傷なのかー」
ハルはからからと笑い声を立てたが、弘は心配そうにハルを眺めている。
「どしたの?」
「いや...ハル、無理、してないか?」
ハルは不思議そうに首を傾げた。
「無理してるのはお互い様じゃないの」
「...は」
ハルはゆっくりと立ち上がると、弘と背中合わせになるように膝を抱えて座った。
「だって、こうやって話してる間も弘、ずっと心の中で咲羅のこと考えてるんだもん」
弘の肩に頭を凭せ掛け、違う?とハルは呟いた。
弘の瞳が水面のように揺れた。
「...煩い」
ハルの頭をぐいと押しのけながら、震える声で呟いた。
ハルの悲しそうな笑い声が聞こえた。
弱いところなんて、見せたくなかった。
でも、背中に感じる確かな温もりが、凝り固まった心を溶かしていくように思えて。
今は、今だけは、少しだけ。
その不器用な優しさに、甘えてみたくなったのだ。
震えた息が、弘の口から洩れた。
雫が頬を伝って、裏葉色の羽織に落ちるのが見えた。
「...咲羅」
名前を呼んだ。
届くことはなかった。
でも、背中には、静かな温もりがあった。
ゆっくりと陽が傾いていく。
影が少しずつ伸びていく。
夕月夜の中で、2人は静かに寄り添っていた。