遠距離移動の使い手と一緒に、魔法師団長もセリオのもとに向かう。
現地で緊急事態が発生したときにも、自分がいれば迅速に指示が出せるからだ。
魔法師団長たちが飛んだ先は、田舎の小さな病院の入院患者専用病棟だった。
そこに、20年前は時の人だったセリオが、静かに横たわっていた。
「話せますか?」
魔法師団長はベッドに近づき、やせ細って老いたセリオに尋ねる。
「……誰だ?」
か細いながらも返事が来たので、魔法師団長は話せると解釈する。
「フロリタさまの生んだ赤子を、呪いましたか?」
名乗りもせずに単刀直入に質問する魔法師団長に、ちょっとセリオは面食らったようだ。
しかしその内容に心当たりがあったのだろう。
少しだけ顔を歪めた。
「遅かったじゃないか。もっと早くに、捕まえに来てくれると思っていたのに」
ぼそぼそとした気力のないしゃべり方。
もしかしたら、かなり重い病気なのかもしれない。
ますます魔法師団長は切り込んでいく。
早くこの会話を終わらせた方が、セリオのためだと考えたからだ。
「もう十分でしょう。解呪してください」
せっかちな魔法師団長に、セリオが小さく笑った。
「誰かは知らないが、ウィロビー王国の人だよな? どうか俺の話を聞いてくれ」
長く話せるとは思えない、しわがれた声で願われた魔法師団長は、取りあえずうなずいた。
それを見て、セリオはごくりと唾を飲み込み、乾いた唇を舐め、話し出す。
――それは長らく苦しんだセリオの、懺悔だった。
順風満帆だと思われたフロリタとの将来に、ある日突然大きな影が覆いかぶさった。
己の力ではとても太刀打ちできない魔法大国に、愛するフロリタを奪われたのだ。
一時は牢で囚われていたセリオだったが、悲恋を知った国民の嘆願もあり、フロリタには手を出さないという契約魔法を結んで釈放される。
フロリタからは、どうか私を忘れて幸せになってと、一言だけ書かれた手紙が残されていた。
だが聞くつもりはなかった。
セリオは一矢報いたかった。
大国という権力に物を言わせて、フロリタとセリオを引き裂いたウィロビーの王族に。
幸いなことにセリオは闇魔法の使い手だ。
誰の力を借りずとも、呪うことが出来る。
しかし、セリオの魔力量は少なく、単独では呪いの効力も弱い。
そこで、かけた呪いを保持し続ける魔道具を用意した。
湾曲した万華鏡のような形をしたそれに、セリオは数か月かけて魔法を重ねてかけ続けた。
呪いの発動条件は血を捧げること。
万華鏡のレンズに、血をこすりつけるだけでいい。
だがセリオは、魔道具が完成してから迷い出した。
魔道具にかけた闇魔法は、王族の血が流れる赤子への呪いだ。
フロリタが妊娠したことを知り、頭に血が昇った結果だった。
これを発動させることで、フロリタは悲しむだろうか。
フロリタはどんな赤子であれ、きっと愛するだろうから。
それを思うとセリオはつらかった。
本来ならば、フロリタはセリオの子を生むはずだった。
この国で、温かい家庭を築くはずだった。
セリオはさんざん泣いたあと、魔道具に血を捧げた。
呪いに気がついたウィロビーの魔法剣士に、殺されることを夢見て。
フロリタが、赤子を生むと同時に世を儚んだと知らされる。
ウィロビー王国からは多額の弔慰金がクルス国に贈られた。
愛する女の死が、クルス国を潤す金になった。
セリオはますます希死念慮に囚われた。
手っ取り早く解呪するには、呪いを発動させた者を殺せばいい。
セリオが死ねば、フロリタの生んだ赤子にふりかかった呪いは解ける。
早く、早く、俺を殺してくれ。
実は魔道具に再度セリオの血を捧げれば、呪いは解ける。
だがセリオはフロリタのもとに逝きたくて、その頃に魔道具を手放してしまった。
待てど暮らせど、ウィロビー王国からの追手は来ない。
セリオは自死だけは出来なかった。
もし自死を選べば、死後にフロリタと同じ世界へ逝けない。
自死を選んだものは、次の生の輪廻から外されるのだ。
この世では結ばれなかったフロリタと、せめて来世で結ばれたかった。
だからセリオは待ち続けたのだが。
「ようやくか、遅いんだよ」
セリオは病魔に侵され寝たきりとなり、このベッドの上で死を待つだけとなっていた。
もうすぐフロリタのもとへ逝ける。
その希望だけが頼りだった。
それなのに、そんなときになって、ようやく追手が現れたのだ。
笑いたくもなる。
どうしてもっと早くに来てくれなかったのかと。
これまでに、さんざん後悔した。
フロリタの生んだ赤子は、大きくなった今も呪いに苦しんでいるだろう。
こんなに長く呪いが続くのなら、セリオは呪わなかったかもしれない。
きっとフロリタには怒られる。
「あなたは死ぬことを望んでいるのですね」
話を聞き終わった魔法師団長はそう判断した。
間違ってはいないだろう。
しかしこれは難しい問題だ。
魔法師団長は先代王の判断を仰ぐことにした。
このまま、セリオの望むように死を与えるのか、それともセリオが手放した魔道具を探すか。
どちらにしても、セリオの命はそう長くないように思えた。
◇◆◇
魔法師団長からの連絡を受けた先代王は、深いため息をついた。
やはり、そうだった。
呪ったのはセリオだった。
しかし話を聞いてみると、セリオも苦しんだようだ。
すぐに追手が来て殺されるものと思っていたのに、予想以上に長生きしてしまったのだ。
その間、自分がかけた呪いを後悔し続けて、魔道具を手放したことを後悔し続けて。
呪いは不幸しか生まなかった。
「出来れば魔道具を探し出し、セリオの血を捧げ解呪してもらいたい。しかし、その前にセリオの寿命が尽きるというのならば仕方なし」
魔法師団長にはそう伝えた。
死にたがっていたセリオには申し訳ないが、魔法師団長の手を汚させるのも酷だ。
本当に罪深いのは自分たちなのだから。
先代王からの指示を受け、魔法師団長たちは魔道具を探し始める。
セリオから魔道具の特徴を聞き出し、誰もが分かるよう絵にした。
手分けをして聞き込みさせるため、魔法師だけでなく魔法剣士や魔法研究員にも声をかけた。
そしてセリオには監視をつけた。
刻一刻と手がかりのないまま時間は進む。
魔法師団長たちがセリオを訪問してから8日後、セリオが息を引き取った。
「フロリタ……待たせたね」
そう呟き、逝ったのだという。
◇◆◇
セリオが逝った瞬間に、呪いは解けた。
そしてそれは、ディーンとメイベルが向き合い、ちょうどお茶を飲んでいるときだった。
「え? 見える?」
ディーンの言葉にメイベルは顔を上げる。
それまでケーキに夢中になっていたのだ。
いつもは合わない二人の視線がぶつかる。
ディーンの緑の瞳が、しっかりとメイベルの青い瞳を捕まえた。
何が起きているのか。
「メイベル、唇にケーキがついてる」
ふっと笑ったディーンが、自分の左端の唇をトントンと指さして教えた。
「え? 見えてるんですか?」
メイベルは混乱した。
慌て過ぎて、持っていたフォークをケーキ皿に落としてしまう。
カチャンと耳障りな音がした。
しかしそれに気を取られるでもなく、ディーンの腕がゆっくり伸びてくる。
そっとメイベルの唇をなぞり、ついたクリームを指ですくう。
そしてディーンはそれを舐めた。
「これはキャラメルソース……キャラメルってこんな色をしていたんだ」
感心しているディーン。
それどころではないメイベルと侍従。
侍従は転びそうになりながら、王城へ向かって走っていった。
おそらく誰かに報告をするのだろう。
メイベルがその姿を目で追っていると、離れたはずのディーンの腕が戻ってきた。
「メイベル、こっちを見て。もっと顔を見せて」
そんな甘い言葉に、メイベルが逆らえるはずもなかった。
ふわふわの茶髪にディーンの指が絡む。
「メイベル、思っていた通りだ。君は美しい。そして温かい……」
ディーンは得難いもののように、メイベルの髪に唇を寄せる。
「これが茶色――キャラメルソースと似ている」
しげしげと髪を見られて、メイベルは顔が赤くなる。
お手入れはしているつもりだけど、ふわふわの髪はパサつきがちだ。
ディーンの艶やかな金髪には、とても及ばない。
「ねえ、メイベル、瞳も見せて。それが青色なんでしょ?」
椅子は隣り合っているので、顔を近づけられると逃げ場がない。
まるでキスが出来てしまう距離に、ディーンの顔がある。
急にディーンの目が見えるようになったことといい、この距離感といい。
メイベルの脳はこの状況を処理できないでいた。
しかし、ハッと気がつく。
(化粧は? 青痣はきちんと隠れてる? もし汗で化粧が薄れていたら?)
この距離では誤魔化すことは難しい。
どうしたら……!
「ディーン! 目が見えるようになったのか!?」
離宮の庭に、男の人の声がこだました。
ドタドタと忙しない靴音と共に現れたのは、王のジョージだった。
メイベルはすぐに椅子から立ち上がり、深く礼をする。
それを残念そうにして、ディーンも椅子から立ち上がった。
「その声は、兄さん?」
ディーンの緑目は、短い青髪を乱れさせているジョージを見つめる。
走ってきたのだろう。
ジョージは肩を上下させ、状況を理解しようとしていた。
「本当だ、本当に見えている。なぜだ? 何があった?」
先代王のしていたことを知らないジョージ。
突然のことに驚くしかなかった。
ディーンに近づき、緑目を食い入るように見ている。
(父にそっくりなこの緑の瞳、それが確かに俺に合わさっている。間違いない、見えているんだ――)
ジョージは頭の中で必死に算段する。
青痣令嬢をあてがって、魔力量の多い王族を産ませようとした。
しかし目が見えるようになったのなら、このままではまずい。
そしてそこへ、もう一人、慌ててきたのだろう人物が現れた。
「ディーン、見えるようになったのか?」
低い声は威厳に満ち、そして期待にも満ちていた。
先代王だった。
ディーンと同じ緑の瞳を、しっかりディーンの瞳に合わせる。
視線が交わることを確認して、大きく肩で息をついた。
「そうか、ようやく……呪いが解けたか」
良かった、と呟き、侍従が引いた椅子に腰かける先代王。
先代王によって人払いがされたので、メイベルはディーンに「目が見えるようになって良かったですね。おめでとうございます」と一言伝えるのが精いっぱいだった。
ディーンからも、「すぐに次のお茶会の誘いを送る」と返された。
そしてメイベルはその場を辞して、用意された馬車に乗り邸に帰った。
◇◆◇
離宮の庭に残った王族たちの間で、呪いについての情報が共有されている頃、メイベルは自分の部屋にそなえつけられた浴室の中で、素っ頓狂な声を上げていた。
「え? 青痣が無い?」
外出から帰ってきて、湯を浴びようとしていた。
メイベルは化粧を落とした顔を、鏡越しに覗き込む。
いつもこの鏡で、青痣がある自分の顔を見ていた。
少女のころは何とも思っていなかった青痣。
それを化粧で隠すようになってもうずいぶん経つ。
だが今のメイベルの顔には、それが無い。
「どうして……?」
今日はおかしなことがよく起きる。
ディーンは目が見えるようになり、メイベルは青痣が消えた。
「先代王が、呪いが解けたと仰っていたけれど」
そのこととメイベルの青痣に、何か関係があるのだろうか?
メイベルは何度も左目の周りをこする。
青痣はその後も現れず、メイベルは夕餉のときに叔父に青痣が消えたと報告した。
リグリー侯爵は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
ベッドに横になるが、メイベルの目は冴えていた。
メイベルとディーンのこれからを考えていたのだ。
盲目のディーンに、青痣のメイベル。
おそらく二人は障害があるから婚約が成り立っていた。
ディーンは王弟だ。
盲目でなければ、王族や公爵家と縁を結ぶのが普通だ。
それが侯爵家まで話が下りてきたということは、王族や公爵家に断られたに違いない。
しかし、もうその障害は消えた。
ディーンは盲目ではなくなり、メイベルの青痣も消えた。
これから二人の関係が変わってしまうのではないか。
メイベルはそんな恐れを抱いた。
◇◆◇
メイベルの予感は的中していた。
ジョージは、王の執務室にホイストン公爵を呼び出す。
後ろに撫で上げた緑髪と猛禽類のように鋭い茶色の瞳が、長身とも合わさってホイストン公爵に威圧感を与えている。
年齢は先代王と同じか、少し若い程度。
ホイストン公爵は、ウィロビー王国の高位貴族の中でも、力のある貴族だ。
ウィロビー王国と双璧をなす大国、アバネシル皇国の皇女を妻として娶っていることからも、それはうかがえた。
やや皇国寄りの考え方をする皇国びいきな部分はあるが、アバネシル皇国とは今後もつつがなくやっていきたいと思っているジョージにとっては、最も囲い込みたい貴族であった。
「わざわざ来てもらって悪かった。実は相談があってな」
「いえ、いつでも馳せ参じますよ」
ホイストン公爵は形だけの礼をする。
ジョージのことなど若造だと思っているのだろう。
「以前、クラリッサ嬢とディーンの婚約の打診を断ったが、今ならどうだ?」
ホイストン公爵の娘クラリッサは、アバネシル皇国の血が流れる高貴な令嬢だ。
ジョージは、王弟ディーンの目が見えるようになったことを明かす。
ホイストン公爵は目の前のジョージを、注意深く眺める。
(魔力量の多い王弟の目が見えるようになったのならば、魔力量の少ない王を蹴落とすことも可能かもしれん)
いまだ王には正妃との間に子が出来ぬ。
もしかすると自分の娘が国母になるかもしれないと、ホイストン公爵はにんまりと笑った。
「いいでしょう。婚約するかどうかは娘の意思次第ではありますが、顔合わせをさせてみましょうか」
「そうか、考えてくれるか!」
「しかし、ディーンさまには婚約者がすでにいらっしゃるのでは? 確か青痣のある――」
「ああ、それなんだが……実はディーンの目が一生見えないと思って、俺が勝手にあてがった令嬢なんだ。もうディーンは盲目ではないからな、顔に青痣など無い令嬢のほうがいいだろう?」
ジョージは、ディーンがメイベルを気に入っていたことなど、すっかり忘れている。
目が見えるのならば、美しさを誇るクラリッサ嬢を選ぶと疑っていないのだ。
「クラリッサ嬢がディーンとの話を進めてもよいなら、いつでも二人の婚約は解消させる。あの二人は顔を合わせてまだ一か月ほどだ、お試し期間が終わったと言えばいい」
ジョージは自分の思い通りになる未来しか見えなかった。
なにしろクルス国の血が流れるディーンの顔は、聖騎士像のごとき精悍さと優美さを兼ね備えている。
あの美貌を見て、一目惚れしない令嬢はいないだろう。
いくら高貴な血筋を持つクラリッサ嬢でもだ。
「さっそく次のディーンのお茶会に、クラリッサ嬢も招待しよう。青痣令嬢の横に並べば、クラリッサ嬢が引き立つこと間違いなしだ」
「分かりました。私からもクラリッサに話をしておきましょう。今は婚約者を名乗る別の令嬢がいるが、クラリッサが望めばその座は明け渡されると」
ジョージとホイストン公爵は、うなずきあう。
こうしてディーンとメイベルの知らないところで、また運命が書き換えられた。
盲目であろうと、青痣があろうと、二人には互いを思う気持ちがあったというのに。
そして次のお茶会の日が訪れる。
もうすぐ庭でのお茶会も厳しくなりそうな季節となった。
ディーンとメイベルは、いつもの椅子に座り、穏やかな時間を過ごしていた。
「実は、ディーンさまの目が見えるようになった日、私も顔にあった青痣が消えたのです」
「青痣があったの? どこに?」
「この辺り、左目の周辺に、葉脈のように……」
メイベルは説明するのに一生懸命で、思っていたよりもディーンに近寄っていた。
それをいいことに、ディーンはメイベルの顔を至近距離から覗き込む。
「ここ?」
「ええ、そこからこう、目の下まで……」
「全然ないよ?」
「そうでしょう? 嘘のように消えてしまったのです」
説明が終わったメイベルは、今更ながらにディーンの顔の近さに気がついて、慌てて離れようとした。
そんな顔を赤くしているメイベルを、抱き寄せようか迷っているディーンに声がかけられた。
「ディーンさま、ホイストン公爵家のクラリッサさまがいらっしゃいました」
いつも案内をしてくれる侍従だ。
その後ろに、緑の髪をたなびかせた美しい令嬢を連れている。
令嬢はツカツカとテーブルに近寄ると、ディーンの前で完璧なカーテシーをしてみせる。
「初めまして。ディーンさまにお会いできて光栄です。ホイストン公爵家クラリッサと申します」
クラリッサの柔らかい茶色の瞳からは、ディーンへの親愛の気持ちが見て取れた。
「ああ、よろしく。君が兄さんの言っていた人だね。ディーン・ウィロビーです」
どうぞ椅子にかけて、とディーンは真向かいの席を指し示す。
そしてメイベルに向き直り、クラリッサを紹介した。
「目が見えるようになったのだから、もっと世の中と交流を深めるようにと兄さんから言われたんだ。クラリッサ嬢は社交界に明るくて、貴族の中でも情報通なんだって。いろいろなことを教えてもらって、今後は僕もパーティに参加することになるみたい」
「パーティに、ですか?」
そこは、メイベルとは棲み分けられた世界だ。
さっそく抱いていた不安が芽吹く。
盲目ではなくなったディーンと、別れさせられるのではないか。
華やかで美しい公爵令嬢を、このお茶会に呼んだ王の意図を感じる。
いつもはあまり話さないディーンだが、興味があるのかクラリッサに質問をしている。
それに軽快な答えを返し、ときにディーンを笑わせるクラリッサ。
メイベルから見ても、会話慣れしていると感じた。
いつもはひっそりと静かな庭が、鈴を転がすようなクラリッサの声に彩られる。
さっきまでは冬が近づく森から、鳥の声が聞こえていたのに。
「まあ、それではディーンさまは是非とも絵画展に行かれるべきですわ。今、貴族たちが夢中になっている画家の個展があっていますの。彼は七色の魔術師とも呼ばれているのですよ。繊細な筆のタッチで、立体感のある風景を描くのです」
「七色か。僕は盲目だったとき、ずっと色って不思議だなと思っていたんだ。形は触れば分かるし、味は食べれば分かる。温かさとか匂いとかも。でも、どうしても分からないのが色だった」
「目が見えるようになったのは、最近だとお聞きしましたわ。もしかしたら、ディーンさまはまだ虹を見たことがないのでは?」
「そうだ! 虹も見てみたいもののひとつだった。七色の光の輪が空に浮かぶのだろう?」
「ふふふ、完全な輪ではないのですが。どうでしょう、私がつくってみましょうか? 私は水魔法の使い手なんですよ」
クラリッサは椅子から立ち上がると、少しテーブルから離れた位置に立った。
「ディーンさま、こちらにいらして。太陽を背にして立っていただけます?」
ディーンは素直に席を離れ、クラリッサに近づいた。
クラリッサは当たり前のようにディーンの腕を引き、太陽に背を向けたディーンの位置を調整する。
そのときにメイベルと目が合った。
クラリッサが妖艶に笑ったのを見て、メイベルはゾッとした。
クラリッサは分かっているのだ。
自分の役割を。
メイベルからディーンを離し、婚約者をすげ替える。
きっとそれが、王であるジョージがクラリッサに与えた任務だ。
正しくは、クラリッサがディーンを気に入れば、という条件がつくのだが、メイベルはそれを知らないし、すっかりクラリッサは美しいディーンの顔に夢中だ。
メイベルはキュッと唇を噛んだ。
ディーンとメイベルの婚約は、ジョージからの打診で成り立った。
そのジョージの気持ちが変わったのなら、婚約が覆されても仕方がない。
「見ていてくださいね、ディーンさま」
ディーンの隣に身を寄せて立つクラリッサが、手のひらからたくさんの霧を生み出した。
ディーンの服が少し湿るほどの霧が辺りを覆う。
そこに曇天だった冬空の、雲間から太陽が顔を出す。
霧に、七色の虹がかかった。
「すごい……これが虹……」
産まれて初めて虹を見たディーンは、声を失くして感動している。
触ろうとして手を伸ばし、すり抜ける。
それが面白いのか、何度もしている。
顔は、これまで見たことがないほどの喜色満面だった。
メイベルは静かにお茶を飲みながら、それを見守った。
完全にそこには、二人の世界が出来上がっていたから。
「ディーンさま、じゃあ次は雪ですよ。冷たいということはご存じでも、その形まではご存じないでしょう?」
「雪の形? 六角形だと聞いたことはあるが」
「雪は全て異なる形をしているのです。ひとつとしてこの世に同じ形の雪はありません。まるで人みたいで、なんだか素敵でしょ? 私の魔法で、大きな雪の結晶を作ってご覧にいれますわ」
今度は、クラリッサは雪の結晶を作るようだ。
クラリッサの両手の中を、ディーンがジッと見つめている。
大きな結晶と言っていたが、顔を近づけないといけないくらいの大きさらしい。
もしかしてわざと、小さく作っているのかもしれないが。
息を殺して待つディーンと、両手を自分の顔の前に持ってくるクラリッサ。
二人の顔の位置が近づく。
「どうですか? 素敵でしょう?」
「美しいな……」
もっと近くで見たくて、ディーンが顔を寄せた。
こつんとクラリッサと額がぶつかる。
「ああ、ごめんね。近づきすぎたよ」
「いいんですよ、ほら、もっと見てくださいな」
クラリッサの両手には、どんどん雪の結晶が作り出されているのだろう。
近づきすぎたのも忘れて、ディーンはまたそれに見入る。
そんなディーンを眺めていたメイベルに、クラリッサが流し目を送ってきた。
それの意味するところは、きっとこうだろう。
『どっちが勝者か分かるでしょう?』
メイベルは正しく受け取った。
うつむいて、飲み干したティーカップをテーブルに戻す。
みじめだったが、そんな感情には慣れている。
「お茶のお代わりをお持ちしましょうか?」
侍従が気を利かせて聞いてきた。
だが、もう飲む気にはならなかった。
「ありがとうございます、私はもう大丈夫です。ディーンさまとクラリッサさまが戻られたら、温かいお茶を差し上げてください。きっと二人とも、雪の結晶だらけで寒いでしょうから」
クラリッサの両手からあふれた雪の結晶が、二人の周りをふわふわ飛び回っている。
それを見て、微笑み合うディーンとクラリッサ。
寒さのせいか、二人とも頬が赤い。
まるで恋人同士ね。
その光景を、メイベルは無表情に眺めた。
自分がここにいる意味を探しながら。
◇◆◇
「ディーンさまはどうだった? お前のお眼鏡に適いそうか?」
お茶会からご機嫌で帰ってきた娘を見て、答えは分かっているだろうにホイストン公爵は尋ねる。
「ええ、とっても素敵な人! あんなに美しい人は、今までに見たことがないわ! お父さま、私は絶対にディーンさまと婚約するわ!」
クルクル回り出しそうなほど、軽やかにステップを踏むクラリッサ。
もう心はディーンと一緒に、舞踏会でダンスを踊っているのだ。
なにしろお茶会にいたディーンの婚約者は、なんの取り柄もなさそうな、暗いだけの令嬢だった。
思わずその場で勝利宣言をしてしまうほど、クラリッサには負ける気がしなかった。
話題の提供にも成功して、ディーンさまとの会話も弾んだ。
二人が最初に出会った日として、ロマンティックな思い出も作った。
クラリッサは勝利の美酒に酔う。
「次にお会いするのが楽しみだわ。きっとディーンさまも、そう思っているはずよ」
その次のお茶会までは参加したが、次の次のお茶会からは欠席するようになった。
肩身が狭くなったからだ。
クラリッサとばかり話すディーン。
メイベルが隣にいるにもかかわらず、ずっと真正面を向いている。
真正面の椅子にクラリッサが座っているからだ。
身振り手振りを使ってディーンが話すとき、腕がメイベルと触れるときがある。
そのときになって初めて、メイベルの方を向くのだ。
「ぶつかってしまったね、ごめん」
最後のお茶会でディーンと交わした会話は、それだけだった。
それまでも、あまり会話をする二人ではなかったが、森から庭に出てきた小動物の足音で、ディーンが今のはウサギだと言い当てたり、雨の日は図書室の中で、メイベルが詩を朗読したりすることもあった。
静かながらも交流があったと思っていたが、クラリッサのそれを目にすると、今までのが交流と言えるのかメイベルには自信がなくなる。
次の次の次のお茶会をメイベルが欠席した日、侍従が王に報告をあげる。
◇◆◇
「そうかそうか、ディーンはクラリッサ嬢と会話が弾んでいるのだな」
ジョージは笑いが止まらないといったふうだ。
侍従は首をかしげる。
以前は会話が弾むのは不自然だと言っていたはずだ。
侍従はメイベルが続けてお茶会を欠席したことも伝える。
「青痣令嬢も気がついたのだろう。クラリッサ嬢のほうがディーンにふさわしいと」
「しかし、婚約者であるのはメイベルさまです。クラリッサさまのディーンさまへの距離感は、ご友人にしては近すぎます」
侍従はクラリッサの目的を知らない。
あまりにもないがしろにされるメイベルが憐れと思い、こうしてジョージに報告に来たのだ。
しかしジョージの口から飛び出した言葉に、驚愕する。
「それでいいのだ、ディーンの婚約者はクラリッサ嬢に変わる。そろそろ青痣令嬢には退場してもらわんとな」
侍従は、盲目であったころのディーンを長く見てきた。
だからこそ、分かることがある。
ディーンが心を許しているのはメイベルだ。
目が見えないときから変わらず、メイベルの存在感に安堵している。
今は目の前の新しい玩具に夢中になっているが、遊び尽くせば飽きるのが早いのも知っている。
そうなったときに、隣にメイベルがいないと分かればどうなるのか。
メイベルのいないお茶会では、何度もメイベルが座っていた左側の腕をさすっている。
そこにメイベルの気配を感じないからだ。
ディーンのそんな仕草まで見ていた侍従は、ジョージの決定に顔を青くする。
しかし、王には逆らえない。
侍従の報告を聞いて、さっそくメイベルの父親であるリグリー侯爵に婚約解消の通達をしたため始めたジョージに礼をし、侍従は王の執務室を後にした。
とてもディーンには伝えられない。
今回の侍従の判断は、凶と出てしまった。
◇◆◇
リグリー侯爵家に、王からの通達が届いた。
目が見えるようになったディーンは、ホイストン公爵家のクラリッサと婚約を結ぶという内容だった。
つまり、一方的なメイベルとの婚約解消だ。
ただ解消されるだけならば納得がいかなかったが、ジョージとホイストン公爵家の執り成しで、メイベルに新たな婚約者を用意してくれるという。
せっかく繋がった王族との縁がなくなってしまうが、王と公爵家の意向には逆らえない。
しぶしぶではあったが、リグリー侯爵は承諾の返事をした。
またしても、メイベルには何の相談もなかった。
そのとき、メイベルは自室でひっそりと過ごしていた。
これまでも、ディーンにお茶会へ誘われる以外は、ずっと引きこもっていた。
本を読んでいることが多かったが、読む本がないときは手慰みで編み物をした。
本当の母親が亡くなる前、赤ちゃんのために一緒に何か作りましょうと、編み方を教えてくれたのだ。
手袋、靴下、帽子、マフラー。
小物は一通り、編むことが出来た。
使い道のないそれらは、ある程度の量がたまると、メイドが孤児院へ寄付してくれた。
そのまま使ったり、バザーで売ったり、何らかの貢献にはなっているようだ。
迷惑ではないようで、メイベルはホッとしている。
メイベルがもっぱら一人でいるのは、これといった友人がいないからだ。
それは社交界から距離を置いて、もう長いせいでもある。
そのきっかけとなった事件があった。
メイベルが15歳、義妹のシェリーが14歳のときの話だ。
――小雨の降る日だった。
メイベルにとって義母である、リグリー侯爵夫人の墓参りに来ていた。
先月、急逝してしまった義母。
それを治癒魔法で助けることが出来なかったメイベルは、まだショックを引きずっていた。
メイベルを役立たずと激しく罵ったシェリーとの関係も、ギスギスしたままだ。
リグリー侯爵は仕事で行けなくなったので、メイベルとシェリーの二人だけを乗せた馬車は、人通りの少ない道をゆっくりと走っていた。
もうすぐ墓場というところで、馬のいななきが聞こえ、馬車ががくんと揺れて止まった。
「なあに? どうしたの?」
シェリーがのんびりと、御者側の小窓を開ける。
しかし、そこに御者の姿はなかった。
何かが起きたのだと察したメイベルは、すぐに扉に鍵をかけた。
かけた瞬間、何者かが扉を開けようとガンッと取っ手を引いたが、鍵のおかげで振動だけが車内に伝わった。
間一髪だった。
「なによ? なにが起きてるの?」
シェリーもようやく異変に気がついたようだ。
開けた小窓を閉めようとして、そこから覗いていた誰かを見つけ、シェリーが叫び声を上げる。
「きゃああああああ!!」
顔を黒く汚した男が、車内を観察していた。
小窓から腕を入れシェリーを捕まえようとしたが、メイベルがシェリーを引っ張って反対席側へ寄せる。
「へへっ。小娘だけか、ちょうどいい。ちょっと俺たちに攫われてくれよ」
男は小窓からなんとか扉の鍵を外せないか試していたが、どうにも届かないと分かると腕を引っ込めた。
その隙にメイベルは小窓を閉める。
諦めてくれればいいと思ったが、相手は複数人のようだ。
それに対してこちらは力もない少女が二人、身を寄せ合うだけ。
小雨が降る中、人通りの少ない道を走ったことが災いした。
とっくに御者はやられてしまったのだろう。
男たちの話声が聞こえる。
扉を開けるために何かを準備しているようだ。
「助けて!! 誰か助けて!!」
シェリーが叫び声を上げる。
「うるせえ! 静かにしてろ!」
男たちの乱暴な言葉遣いに、シェリーが震えあがる。
このままではいけないが、どうしていいかも分からない。
メイベルも、カタカタと怖気づく自分の体を、抱きしめるしかなかった。
「よおし、ぶつけろ! これで扉が壊れるはずだ! お嬢ちゃんたち、怪我したくなければ扉から離れているんだな!」
笑い声と共に、ドゴッと扉に何かがぶつかる音がした。
同時に馬車も大きく揺れる。
「いやああああ!」
シェリーが恐慌をきたしたように泣き喚く。
「もう一度だ! 早くしろ!」
ドゴッドゴッ!
何か大きなものを抱えて、扉に突進している。
扉の蝶番が軋み、鍵の掛け金も扉から浮いた。
このままでは今にも開いてしまう。
メキィッ!
掛け金が曲がり、木製の扉が車内にめり込む。
わずかに開いた扉の隙間に、大きな男の手がかかる。
そこからは、あっという間に扉が剥がされた。
「手間取らせやがって、ほら、さっさと降りるんだよ!」
メイベルは二の腕を引っ張られ、車外へと放り出された。
道端へどさりと腰を打ち付けたメイベルに、しとしと小雨が降り注ぐ。
男は泣き喚くシェリーも容赦なく馬車から引きずりおろした。
「いやよ! いやよ! 放して! 誰かああ!」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、叫びまくるシェリー。
苛立った男が、大きく手を振りかぶった。
シェリーが叩かれる。
そう思った瞬間、メイベルは飛び出していた。
「止めて! シェリーには手を出さないで!」
メイベルは、賊に歯向かった。
シェリーを叩こうと、大きく手を振り上げた男の脚にしがみつく。
「なんだあ? この娘、顔に気持ちの悪い痣がある!?」
メイベルの顔を見た男が、ぎょっとしてメイベルから離れた。
降り続く小雨に、青痣を隠していた化粧が落ちていた。
男が離れたのをいいことに、メイベルはシェリーを馬車に近づける。
少しでも男たちからシェリーを隠そうとしたのだ。
「シェリーは見逃して! 妹はまだ幼いの!」
えっぐえっぐと嗚咽をあげるさまは、よりシェリーを幼く見せた。
「そうは言ってもねえ、お前さんの顔がそんなんじゃあ、売れるのは妹だけになっちまう。見逃すわけにはいかねえなあ」
(売る? どこに?)
「身代金を取るのではないの? それなら私でもいいはずよ?」
メイベルは身代金目当てで誘拐されるのだと思っていたが、どうやら男たちの目的は違うようだ。
「身代金? そんなまどろっこしいこと、しやしねえよ! かっさらった見目のいい女は、娼館に売るのが一番だ。すぐ金になるからな!」
ガハハと大口を開けて笑う男たち。
その前の味見がたまんねえんだよ、とシェリーをジロジロ見る。
シェリーは泣きすぎて呼吸困難を起こしていた。
メイベルは葛藤した。
義母に続いて、義妹までも私は救えないのか。
「わ、私では駄目なの? その、ショウカンに売るのは? 青痣は化粧で隠せるのよ」
メイベルは手提げの中から震える手で白粉を出してみせる。
「これで隠せるわ。それでも駄目?」
男たちは相談をし始めた。
そして二人とも攫うことにしたようだ。
「待って! お願い! 妹は放して!」
ほとんど気を失っているシェリーを、男が肩にかつぐ。
そしてメイベルも肩にかつがれそうになった。
メイベルは最後まで抵抗しようと、手提げを大きく振り回した。
先ほどの白粉のほかに、手提げの中に入っていたものがバラバラと飛び出す。
そして、振り回し過ぎて手からすっぽ抜けた手提げが、馬車の馬の横面にビタンッと当たった。
ヒ、ヒヒィィイン!
それまで静かに佇んでいた馬が、驚いて暴れ出す。
「うわ、誰か押さえろ! 馬車が走り出すぞ!」
先ほど扉を無理やり開けるときは、誰かが馬を押さえていたのだろう。
大人しかった馬だが、メイベルに物をぶつけられて怒っていた。
前足を振り上げ、押さえようとする男たちを寄せ付けない。
そしてガラガラと馬車を引いて走り出した。
めちゃくちゃに走る馬は、馬車をあちこちにぶつけて人通りの多い方へ向かう。
「まずいぞ、人が来る! 逃げろ!」
抱えていたシェリーを放り投げ、男たちは墓場へ走って逃げた。
奇しくもメイベルとシェリーの目的地だった墓場は、男たちにとっては逃走経路だったようだ。
馬と馬車に隠れていた道端には、賊にのされた御者がいた。
殴られた頬が痛々しいが、死んではいないようだ。
メイベルは、放り投げられた痛みで意識を取り戻したシェリーに近寄る。
「もう大丈夫よ、賊は逃げたわ。……怖かったわね」
メイベルは自分も怖かったのだが、自分は姉だからと気丈にふるまうことで義妹を安心させようとした。
しかしそれはシェリーにとっては逆効果だったらしい。
「そんな気持ちの悪い顔で近づかないで! 娼館に自ら行こうとするなんて、レディとしての誇りがないのね!? リグリー侯爵家の一員が、恥を知りなさいよ!!」
顔は涙と洟でぐちゃぐちゃなのだが、シェリーは威勢だけはよかった。
メイベルは言われたことには納得がいかなかったが、それだけ元気があるならいいかと、御者の方に近づいた。
左頬が顎にかけて腫れて、青紫色に内出血している。
メイベルは手をかざし、治癒魔法をかける。
左頬はよくなったが、まだ御者の意識は戻らなかった。
メイベルが治癒魔法の使い手だとバレないためにも、都合がいい。
メイベルはホッと一息ついて、馬車が走り去ったほうから人のざわめきが聞こえるのを待った。
幸いなことに、間もなくしてメイベルとシェリーは救助された。
暴れて走る馬が引きずる半壊した馬車に、誰も乗っていないことを不審に思った人が、振り落とされた人がいるのではないかと道を辿ってきてくれたのだ。
倒れる御者と、しゃがみこんだ少女二人を見つけ、すぐに警備隊に知らせてくれた。
警備隊からリグリー侯爵家に連絡が入り、リグリー侯爵は真っ青な顔をして駆け付けた。
シェリーはそこで初めて安心したとでも言うように、父親に抱き着き大声で泣き出した。
何があったかの説明はメイベルがした。
そして警備隊によって賊の追跡が行われ、人身売買組織が捕まったのはそれから半月後のことだった。
リグリー侯爵からは、二人だけでの外出を禁止されてしまったが、メイベルは何も困らなかった。
なぜならその半月の間に、シェリーが悪し様にメイベルのことを吹聴して、すっかり社交界で孤立してしまったからだ。
「信じられなかったわ! 命乞いをするのに身を差し出したのよ!? 立派なレディならば、自死を選ぶ場面でしょう? ただでさえ気持ちの悪い青痣が顔にあるのに、中身まで汚いのではどうしようもないわ!」
実際にシェリーがこう言っているのを、メイベルは聞いた。
リグリー侯爵家に友人の令息令嬢たちを招き、シェリーがお茶会をしていた席でのことだ。
まだ義母の喪が明けていないので、シェリーは大っぴらには他家のお茶会に参加することが出来ない。
その代わりに、こうして自邸に気心の知れた友人を招いて、こっそりとお茶会もどきを楽しんでいるのだ。
今日もシェリーが中庭でお茶会をするというので、メイベルはあまり頻繁に開催するものではないと、たしなめようかと思っていた。
しかし通りがかりにシェリーのそんな言葉を聞いてしまい、すぐに自室に引き返した。
あの場に自分がのこのこ登場しては、いい見世物になるだけだ。
シェリーの友人たちには、顔の広い令息や令嬢もいる。
きっと、すぐに社交界に話が広まってしまうに違いない。
メイベルの予想通り、それまで仲良くしてくれていた令嬢たちからの手紙が、ぱたりと途絶えた。
本人がどう思っているかは知らないが、こういうものは親が真っ先に止めるものだ。
良くない噂のある令嬢との付き合いは、自分たちの不利益にしかならないからだ。
そうした貴族の付き合いについて、義母はちゃんと教えてくれていた。
しかし、それももう役には立たないかもしれない。
流れてしまった悪評は、なかなか消えてくれない。
メイベルは、もう自分が誰かと楽しくおしゃべりを楽しんでいる姿を、想像することが出来なかった。
義母を失った精神的な落ち込みがまだ癒えていなかったこともあり、メイベルはそこから引きこもりになった。
そうして――メイベルは一人で過ごすことに慣れていったのだった。
◇◆◇
「お前の新しい婚約者が決まった。伯爵家の嫡男で魔法剣士だそうだ」
年は3つ上の22歳、魔力量は中ほど、火魔法の使い手、伯爵家は歴代魔法剣士になる者が多く、できれば魔力量の多い嫁を娶りたがっている。
そんな叔父の話を、メイベルは上の空で聞いていた。
やっぱりディーンとの婚約は解消された。
叔父が話し終えた頃を見計らい、それとなく聞いてみると、ディーンはクラリッサと婚約したそうだ。
目が見えるようになった美貌の王弟に、評判の悪い侯爵令嬢は不相応なのだろう。
どう見ても、社交界で華やかに咲く、美しい公爵令嬢がお似合いだった。
二人の姿を目の当たりにし、予想していたことだったが、メイベルの気持ちは沈んだ。
そもそもディーンとの婚約は政略だった。
次の婚約も政略でおかしくはない。
メイベルは静かにうなずき受け入れる。
ディーンとの婚約を結んだときも、こうだったと思いながら。
「マシュー・サンダーズです。よろしく」
短い銀髪は刈り上げられ、襟元には清潔感が漂う。
日焼けした肌に似合った濃い紫色の瞳。
腕には魔法剣士らしい、しっかりした筋肉がついていた。
凛々しい顔立ちのマシューは、案外優しい声をしている。
これから婚約者となるメイベルは、失礼にならないよう挨拶を返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします。リグリー侯爵家メイベルと申します」
侯爵家にもかかわらず、伯爵家に頭を下げてみせるメイベルに、おや? という顔をしたが、すぐにマシューは腕を差し出してきた。
「行きましょう。今日を楽しみにしていました」
婚約してから初顔合わせとなる今日、メイベルはマシューと絵画展に行くことになっていた。
クラリッサがディーンに紹介していた、あの七色の魔術師の個展だ。
長らく社交界から遠ざかっていたメイベルだったが、礼儀作法は完璧に義母に躾けられている。
マシューの腕に手をそっと乗せ、メイベルは令嬢らしくエスコートを受けた。
マシューは思っていたよりもお淑やかで気品のあるメイベルに驚いていた。
メイベルの噂は、あまり社交界に顔を出さないマシューにも伝わってきていた。
醜い青痣があるとか、簡単に体を差し出すとか。
それが根も葉もないものだと、マシューは察した。
きっと、この可憐なメイベルを妬んだ誰かのしわざだ。
ふわふわした茶色の髪は可愛らしく、吸い込まれそうな青い瞳は神秘的だ。
落ち着いたしゃべり方も、マシューの好みだった。
政略で始まった婚約ではあるが、いい関係が築けそうだとマシューは安心するのだった。
◇◆◇
最近、メイベルがお茶会に来なくなった。
ディーンは左腕をさすりながら、ため息をつく。
「あら、どうされましたの? そろそろ庭でのお茶会は寒くなりましたものね。離宮の中に入りましょうか?」
クラリッサがディーンを心配そうに見る。
そして侍従に手をふってみせ、テーブルを片付けるように指示した。
しかし侍従はクラリッサの使用人ではないので、ディーンの指示を待つ。
それが気に喰わなかったのか、クラリッサはちょっと眉をひそめた。
「違うんだ、寒いのではなくて。……その、クラリッサは社交の場でメイベルを見かけないか? このところ、お茶会を欠席し続けているだろう? どうしているのかと思って……」
体調を崩しているのではないか、それならお見舞いに行けないものか。
これまで離宮を出たことがないディーンが、そこまで考えていた。
メイベルがいなくなってしまった穴は大きく、精神が落ち着かない。
いつも左隣から温かな気配を感じ、それに癒されていたディーン。
侍従がディーンの言葉に、少し居心地が悪そうな顔をした。
「ディーンさま、あの方は婚約者とご一緒に、よくお出かけになっておりますよ。今まで引きこもりだったのが噓のよう! 先日も、絵画展で見かけましたわ。ご心配なさらずとも、お元気そうでしたよ。どうやら仲良くやっているようですから」
クラリッサの言葉が、ディーンにはよく理解できなかった。
「婚約者? それは誰か別の人のことではないの? メイベルの婚約者は僕だよ」
戸惑うディーンに、クラリッサは妖艶な笑みを浮かべて告げる。
それは、ずっと侍従が言い出せなかったことだ。
「ご存じなかったのですね。ディーンさまの婚約者は私に変わったのです」
「え? ……どうして?」
「私がディーンさまのお茶会に呼ばれた日のことを思い出してください。これまでになく会話が弾んで、楽しい時間だったでしょう? それを伝え聞いた王さまが、考えを改められたのです。私とのほうが相性が良さそうだと。もともと婚約の打診をいただいたのは私だったんですよ。ただ、父がちょっと心配性で断ってしまって……私はディーンさまの目が見えなくても、もちろんお傍にいたいと思ってましたわ」
「そんな……」
ディーンは青ざめる。
そして自分の態度を思い返した。
目が見えるようになって、メイベルと話した回数は数えるほど。
だが、盲目だったころから沈黙が続いても、居心地のいい関係だったのだ。
会話が弾むとか、そうしたことに重きを置いてはいなかった。
メイベルの気配を感じられるだけで、幸せだったのだ。
クラリッサはそういう対象ではない。
ジョージがクラリッサから交流を学ぶようにと言ったから、ディーンはなるべくクラリッサから多くのことを聞き出そうとした。
クラリッサがしゃべらないことには、情報が引き出せないからだ。
なるべく早く学びたかった。
そしてメイベルと一緒に、パーティへ行ってみたかった。
もの知らずなままでは離宮から出られない。
ディーンが離宮に閉じこもっているせいで、メイベルが他の誰かにパーティでエスコートをされているかもしれないと思うと、矢も楯もたまらなかった。
そうした必死さが、ジョージに異なる解釈をさせた。
うまくいきそうならば取り替えてしまえと。
目が見える者には分からないのだろう。
そこに漂う空気に、それこそ見えない色がついていることが。
メイベルと一緒にいるときのディーンは、常に恋の色をした空気をまとっていたはずだ。
初顔合わせのときから、メイベルに惹かれていた。
こんなに温かい人が婚約者になってくれるのだと、嬉しかった。
青痣があったことで、盲目のディーンの婚約者になったのだと察しはついた。
だがディーンの目が見えるようになったのならば、もっと高位の令嬢を娶ったほうが王家のためになる。
ジョージは他人に容赦なく、自分の考えを押し付ける人だ。
ディーンにもメイベルにも、気持ちがあるというのに。
クラリッサがお茶会に参加したときから、これは決められていたゴールだったのだろう。
会話が弾んだとか、楽しい時間だとか、そういうのは口実だ。
最初から、クラリッサがディーンの婚約者になるように、仕組まれていたのだ。
今頃それに気がつくなんて。
(メイベルは、いつ気がついたのだろうか?)
ディーンがクラリッサと会話をしている横で、どんな顔をしていただろう。
顔色をうかがう習慣のないディーンは、メイベルの顔をあまり見なかったことを思い出した。
ただ静かにお茶を飲んでいたメイベル。
そしてお茶会に来なくなったメイベル。
きっとメイベルも、ジョージの企みが分かったのだ。
だから自らお茶会を欠席して、身を引いた。
ディーンの思い違いでなければ、メイベルはディーンを嫌ってはいなかった。
むしろ心を通わせる瞬間があったし、好意を寄せてくれていたように感じた。
ディーンはメイベルと結婚するつもりだった。
二人の未来を想像していた。
それなのに口実を与えてしまったせいで、メイベルと繋がっていた縁を切られてしまう。
それだけではない。
ディーンが熱心にクラリッサと話していたせいで、メイベルにいらぬ誤解をさせたかもしれない。
(君が好きなのに――!)
苦しくてたまらなかった。
かきむしりたいほど、心が痛い。
本当に大切にしなくてはいけない人を、放ってしまった自分を悔やむ。
もうすべてが手遅れなのだろうか。
すがる気持ちでディーンはクラリッサに尋ねた。
「メイベルの婚約者というのは、どういう人だろう? メイベルを……大切にしてくれる人だろうか」
「サンダーズ伯爵家の嫡男で、魔法剣士のマシューさまですわ。とても剣の腕がよいそうですよ。銀髪に濃い紫目の精悍な顔立ちは、令嬢に人気がありますの。お見かけした絵画展では、メイベルさまを丁寧にエスコートしておりましたし、メイベルさまもあれほどの美丈夫ならば満足されているのでは?」
聞かなければよかった。
メイベルを思って苦悶するディーンと違い、メイベルはもう先を見ているのか。
ディーンのことは忘れてしまったのか。
絶望だった。
ディーンは見えているはずの目から、光が抜け落ちたように感じた。
(メイベル、君が遠い……)
ディーンは、知らずにまた左腕をさすった。
メイベルにとってデートは慣れないものだったが、新たに婚約者となったマシューはそれを感じさせないような心配りのできる人だった。
メイベルを気負わせないよう常に話題をふり、沈黙が落ちないように会話をつないでくれる。
今日もそんなデートの最中で、二人は人気のレストランに来ていた。
「子どものときに、初めて火魔法を剣にまとわせることを思いついて、大人にバレないようにこっそり練習したんだ。だけど最初からうまくいくはずがなくて、けっこうな火傷を負ってしまってね」
マシューの話し方も、ずいぶんフランクになった。
そのほうがメイベルも緊張しなくて済む。
マシューが右腕のそでをまくり上げて、赤い痣を見せてくれた。
どうしてこんな話になったのかというと、以前、メイベルに青痣があったことを話したからだ。
マシューは、メイベルの青痣のことは知っていたらしい。
そして自分にも痣があるよ、と話してくれたのだ。
そして見せてくれた赤い痣は、薄くはなっていたが、かなり広範囲にあった。
「もう痛くはないのですか?」
やや皮膚にひきつれがあった。
そこが痛そうに見えたメイベルはマシューに尋ねる。
「うん、痛くはないよ。歴代、魔法剣士を輩出している伯爵家の嫡男が、火傷で腕が使い物にならなくなったとあっては名折れだから。父が必死で治癒魔法の使い手を探したと聞いた。魔力量の少ない使い手だったらしく、治すのはここまでが限界だと言われたんだ」
マシューは赤い痣をするりと撫でた。
それはなんだか愛着を感じさせる仕草だった。
もしかしたらマシューは、この赤い痣を、案外嫌ってはいないのかもしれない。
それでも念のため、メイベルは己の魔法について告白することにした。
それは、夫になると思ったディーンにもしたことだった。
次はマシューが夫になるのだから、同じようにしなくてはと思ったのだ。
「あの、私、治癒魔法が使えます。よかったらその火傷の痣、もう少し治しましょうか?」
多分、メイベルの魔力量ならば、ひきつれている皮膚は完全に治るだろう。
時間が経過しすぎているので、赤い色は残るかもしれないが。
「へえ、治癒魔法の使い手なんだね? 私に話してしまってよかったの?」
マシューにもディーンと同じことを聞かれた。
それだけ治癒魔法の使い手は、隠れて生きているのだ。
「その……親族には話してもいいのです。マシューさまは、私の、夫になる方ですから」
夫。
ディーンにそう宣言したときは、顔が真っ赤になったはずだ。
だが、今は違う。
なぜか、なんて分かり切っていた。
メイベルの気持ちはまだ切り替わっていないのだ。
ディーンを想っている。
早く忘れなくてはいけないのに。
マシューがメイベルの夫になるのに。
うつむいたメイベルに、マシューが困ったように笑った。
「ありがとう。でも、火傷の痣はこのまま残しておくよ。自戒の念を忘れないようにね」
「分かりました。他に痛む傷があれば、いつでも言ってください」
日常的な会話のときは、しっかり顔をあげて、目を見て話せるようになったメイベル。
しかし、男女の話になると、途端にメイベルはうろたえる。
そのことにマシューは気がついていた。
だから先ほども困ったように笑ったのだ。
メイベル本人は気がついていないのだろう。
メイベルは誰かを心に住まわせている。
それがマシューより先に婚約者だった王弟ディーンかもしれないと、マシューは考える。
そもそもこの婚約の話は、新しくディーンと縁を結んだホイストン公爵家からサンダーズ伯爵家へもたらされたものだ。
ホイストン公爵家のクラリッサがディーンの婚約者となったため、その座から降りたリグリー侯爵家のメイベルの新たな婚約者を探していると。
魔力量の高い令嬢で、なおかつ特殊魔法の使い手であると聞けば、引く手は数多だったろうに。
悪い噂がつきまとい、青痣があるというだけで、腫れ物扱いをされていたメイベル。
マシューは迷わず名乗りを上げた。
とにかく本人に会ってみたいと思った。
それで気が合いそうになければ、断るまで。
でも、そうでなければ護りたいと思った。
貴族として生まれた以上、家のための結婚は仕方がない。
だからといってそれを味気ないものにはしたくない。
そして顔合わせをしたメイベルは、マシューの想像を超えてきた。
好ましいと思った。
それからデートを重ねる中で、メイベルの中に他の男の存在を嗅ぎ取った。
ずっと社交界から離れ、引きこもりだったメイベルが、出会う男など限られている。
マシューは仕方のないことだと思った。
自分はメイベルに二番目に会ったのだ。
ここから一番になる努力を怠る理由にはならない。
もうディーンとメイベルの縁は切れたのだ。
ゆっくりでいいから、マシューをその懐に入れて欲しい。
マシューはそう思いながら、今日もメイベルに話しかける。
メイベルは、マシューといながらも、ディーンを思い出してしまう自分に気がついていた。
先ほど、治癒魔法の使い手であると告白したときもそうだ。
マシューはよく話しかけてくれるので、会話は途切れない。
比べて、目が見えない頃のディーンは沈黙することが多かった。
それは耳をすませていたからだ。
ディーンは小さな音もよく聞き分けた。
「あ、ウサギの足音がしたよ。右の方にいないかな?」
「右ですか? ……います、こっちを見ています。すごい、よく分かりますね?」
「目が見えないと、耳や鼻がよくなるそうだよ」
そう言って笑ったディーンと、もうどれだけ会っていないだろう。
どこかに出かけることもなく、離宮の中で完成していた二人の世界。
それはとても小さなものだったけれど、温かく大切なものだった。
目が見えるようになっても、知識を補うまでは離宮に留まると言っていたディーン。
メイベルとの婚約を解消し、今は新たな婚約者のクラリッサとお茶をしているのだろう。
またいつか、どこかで会うことがあるだろうか。
「デザートはどれにする? 季節のフルーツタルトがおすすめらしいよ」
メイベルはハッと顔を上げる。
今はマシューとのデートの最中だ。
ディーンとの思い出に浸っていい場面ではない。
マシューが渡してくれたメニュー表を受け取り、中身を見る。
一番上に、おすすめの季節のフルーツタルトの絵が載っていた。
そこから下にゆっくり目をすべらせると、最後の方にアイスクリームの乗ったワッフルがあり、絵ではたっぷりのキャラメルソースがかけられていた。
(キャラメルソース……。口の端についていたのを、目が見えるようになったディーンさまが拭ってくれた)
また思考がディーンに戻っている。
メイベルは振り切るように、メニュー表の一番上を指さした。
「これにします、おすすめの季節のフルーツタルト」
「じゃあ私は、アイスクリームの乗ったワッフルにするよ。半分こしようか?」
メイベルがあえて避けたワッフルを、マシューが選んでしまった。
マシューはメイベルの視線がワッフルの上で長く留まっていたことを見て、そちらも食べたいのかなと思って気を利かせたのだった。
そうとは知らないメイベルは、またうつむき小さな声で返事をする。
「いえ……半分こは、遠慮しておきます」
「そう? 食べたくなったら言ってね」
マシューは通りかかった店員にデザートの注文をする。
メイベルは、ディーンのことを考えていたのが、マシューに伝わったのではないかとドキドキした。
しかしマシューはそんな素振りを見せず、次のデートの誘いをしてきた。
「改装オープンする劇場で、こけら落としに歌劇をやるそうなんだ。メイベルは歌劇に興味はある?」
そもそも歌劇を観たことがなかったので、メイベルは嬉しくて二つ返事をしてしまう。
そんなメイベルを見て、マシューは笑った。
「よかった。来週、一緒に行こう。また迎えに行くよ」
こけら落としには、箔つけのために多くの高位貴族が招かれる。
そこでメイベルは出会ってしまうのだ。
あれほど会いたかったディーンと、ディーンにエスコートをされるクラリッサに。
改装された劇場の中は、光を乱反射するシャンデリアによって夢の世界のように煌めいていた。
マシューに手を引かれたメイベルは、こんなきらびやかな場所に、自分がいてもいいのか不安でたまらない。
いつもは軽装なマシューが、しっかり正装をしているのにも緊張してしまう。
もちろんメイベルも相応しいドレスを着てきたのだが。
場所にも衣装にも負けている気がするのだ。
つい及び腰になるメイベルを、マシューが逞しい腕で引っ張ってくれる。
それがなければ、とても席まで進めなかっただろう。
席についたあとも、オロオロと辺りを見渡していたメイベルは、一点に視線が釘付けとなる。
そこには、堂々と腕を絡めるクラリッサと、並んで歩くディーンの姿があった。
王族らしい金糸を多用した輝く正装が、金髪のディーンによく似合っている。
いつもは下ろしている長髪を、邪魔にならないよう後ろでひとつに結っていた。
隣のクラリッサはエメラルドグリーン色のドレスを身にまとっている。
クラリッサの髪の色とも言えるが、おそらくはディーンの瞳の色を意識してだろう。
見目麗しい二人は、劇場のどこからも視線を集め、自ら発光しているかのように目立っていた。
高位貴族向けの個室に歩いていく二人。
盲目のディーンは、よく侍従に腕を引かれて歩いていた。
それが今はクラリッサに代わっている。
もう目は見えているのに、腕を引かれる癖は抜けないのだろうか。
そんな仲睦まじい様子を、貴族たちはひそひそと噂していた。
「あれが王弟ディーンさまよ。クラリッサさまが片時も放さないと聞くわ」
「舞踏会でもずっと一緒なのですってね。あの美貌ですもの、奪われるのを警戒しているのでしょう」
「ホイストン公爵家に逆らう家などないでしょうに?」
「まったくだわ。クラリッサさまの意に反することをしてごらんなさい。アバネシル皇国が黙ってはいないわ」
「アバネシル帝国の皇帝は、姪のクラリッサさまを可愛がっていらっしゃるそうね?」
「なにしろ溺愛していた妹の皇女さまにそっくりにお育ちだから」
それからも貴族たちの噂話は続いたが、メイベルは聞く気になれなかった。
隣の席にマシューが戻ってくる。
上司が来ていたからと挨拶に行っていたのだ。
メイベルは何もなかったように振る舞おうとしたが、その必要はなかった。
「すっかり会場中の話題になっているようだね、ディーンさまとクラリッサさまは」
マシューにだって耳がないわけではないのだ。
むしろメイベルが居心地悪くしているのを心配してくれた。
「大丈夫だよ。メイベルは何も卑屈になることはないんだ。今は私が隣にいる。それとも、私では物足りないかな?」
「と、とんでもありません! マシューさまが物足りないだなんて!」
「そうか、安心したよ。ここで物足りないと言われたら、どうしようかと思った。……泣いて帰るしかないよね?」
「ふふふっ、マシューさまったら」
マシューが泣くふりをして悲しそうに言うので、メイベルは噴き出した。
さっきまでの気鬱は吹き飛んだ。
そうだ、ディーンとクラリッサのことを気にしてもしょうがない。
もう二人とは赤の他人なのだから。
私は私の将来を見据えないと。
クラリッサと腕を絡めていたディーン。
それが現実だ。
メイベルは心の奥底に沈んでいた恋心に蓋をした。
もう叶うことは無い。
それが今日、はっきり分かった。
笑わせてくれたマシューを見る。
シャンデリアの光が、銀髪をより美しく見せていた。
濃い紫色の瞳には、笑ったことで頬が赤らんだメイベルが映っている。
笑い合い、見つめ合う二人は、誰が見ても仲の良い婚約者同士だった。
そしてそれを、階上からディーンも見ていた。
◇◆◇
特別に用意された階上の席へ、クラリッサに案内されてディーンはついていく。
クラリッサはこの劇場が改装する前から、上得意として通っていたのだそうだ。
「今日はディーンさまと一緒に来られて嬉しいですわ。ディーンさまは歌劇は初めてなのでしょう? もっとたくさん、二人で初めてのことを体験しましょう」
個室になった席にクラリッサと共に腰かけると、主要な演者や劇場のオーナーが挨拶に来た。
クラリッサは上機嫌でそれに微笑む。
ときおり演者に話しかけては、苦労話を聞きだしていた。
その間、手持ち無沙汰なディーンは、なにげなく会場を見渡した。
濃い赤を基調とした座席シートが、眼下にずらりと並ぶ。
そのほとんどが埋まっていることから、今回のこけら落としが注目されていることが分かる。
広い舞台にはまだ緞帳が下り、多くの観客が今か今かとそれが上がるのを待ちわびていた。
その中に、目立つ銀髪の男がいる。
ディーンの金髪も珍しいが、銀髪も珍しい。
銀髪は、メイベルの婚約者の髪の色だったはずだ。
隣には予想通り、ディーンが愛してやまない茶色があった。
何かを話しているのだろう、周りのざわめきに消されないよう、メイベルが一生懸命に口を開いているのが分かった。
そして銀髪の男がそれに答えて何かを言った途端、メイベルが頬を赤くして笑った。
ディーンはたまらずサッと目をそらす。
心臓がつぶれるように痛い。
見えないが、絶対に血を流している。
顔をこわばらせているディーンに気がつかず、劇場のオーナーが挨拶をしてきた。
それへ対応しながら、ディーンの頭の中はメイベルでいっぱいだった。
先ほどの笑顔が何度もリフレインされて消えない。
(離宮のお茶会で、一度でもメイベルが笑ったことがあったか?)
長らく目が見えなかったディーンにとって、初めて見たメイベルの笑顔は衝撃だった。
とても可愛かった。
とても幸せそうだった。
そしてそれをメイベルにもたらしたのは、ディーン以外の男。
あの婚約者が、いずれメイベルの夫になる。
ディーンが立つはずだった場所に立つのだ。
ぎりりと拳を握りしめる。
掌に爪が深々と刺さる。
胸の痛みに比べれば、取るに足らない痛みだ。
そろそろ歌劇が始まる。
観客は舞台へと視線を移す。
隣に座るクラリッサがディーンに寄り掛かる。
劇場は舞台を残して暗闇に沈む。
しかしディーンには銀髪とその隣の茶色が、いつまでも見えるような気がした。
ディーンもメイベルも、お互いが初恋だった。
恋がどういうものか知らず、手探りで始めた関係だった。
始まりは押しつけられた婚約だったが、つたないながらも育んできた思いは本物だ。
しかし運命は二人を引き裂いた。
気持ちを残したまま、すれ違ってしまったディーンとメイベル。
不幸の中にいるのが日常だった。
だから抗うことを知らなかった。
そんな二人にとって苦痛とは、撥ね退けるものではなく、ひたすら耐えるものだったのだ。
◇◆◇
メイベルとマシューの婚約はつつがなく続いていた。
そろそろ両家の親族を集めて、婚約披露パーティを開こうとリグリー侯爵が言い出す。
その日のためにメイベルはドレスを新調した。
シェリーがそれをうらやましがっていたが、メイベルにはどうすることもできない。
マシューの瞳の色を意識して仕立てられた濃い紫色の夜用ドレスは、今までになく色っぽくて、メイベルは試着をしたときに肩の露出が気になって仕方がなかった。
ドレスと同じ生地を使って、マシューはタイを作るという。
おそろいの衣装を身につけるのは、仲が良い証だ。
打ち合わせや衣装合わせのために、マシューは何度かリグリー侯爵家を訪問した。
これまで、マシューとは外でばかり会っていたので、なんだかメイベルはくすぐったかった。
マシューにお願いされて、編み物を編んでいるところも見せた。
自分にも作って欲しいと言われたので、メイベルはマシューにマフラーを編むことにした。
そうして婚約披露パーティの日取りは近づいてきた。
最後の打ち合わせを終えて、帰るマシューを玄関で見送るメイベル。
「次にお会いするときには、マフラーが出来上がっていると思います」
「楽しみにしているよ。次はパーティの日だろう? 正装で巻いては駄目かな?」
「うふふ、マシューさまなら似合ってしまうかもしれませんね」
和やかに別れのときを過ごしている二人を、不穏な言葉を呟くシェリーが覗き見ていた。
「マシューさま……素敵だわ。メイベルにはもったいないわ。どうにかメイベルと入れ替われないかしら」
メイベルとマシューの婚約披露パーティが始まる。
いつも凛々しいマシューだが、今日はひときわ華やかで王子さまのように輝いている。
そんなマシューにエスコートされ、メイベルは両家の親族に挨拶をして回る。
リグリー侯爵も、一度は流れたメイベルの婚約が、今度こそはうまくいきそうで歓びを隠せない。
王家とホイストン公爵に、貸しを作るかたちで整った婚約話だ。
良い運気の流れが来ている気がする。
きっと娘のシェリーにもいい縁談が見つかるのではないかと、ホクホク顔だった。
おめでたい席ゆえに、酒が消費されるスピードも速い。
あちらこちらで赤ら顔の、ご機嫌な人々が増えてきた。
そんな中、一人だけむくれているのはシェリーだ。
メイベルの婚約者のマシューを、ずっと目で追っている。
シェリーにとっては4つ年上のマシューに、色っぽい大人の男性の魅力を感じているのだ。
同年代の令息にはそこそこ人気があるシェリーだったが、これまで年上とは付き合ったことがない。
しかも友人の令息たちとは違って、日焼けした精悍な顔つきや、筋肉で厚みのある体が、シェリーの女の部分を刺激してやまない。
「やっぱりカッコイイわ。どうしてメイベルの婚約者なのかしら。家同士の政略結婚ならば、私でもいいはずなのに」
リグリー侯爵から隠れて、シェリーはワインをがぶ飲みする。
いつもより質のいいワインは、口当たりも香りも最高だ。
もう18歳なのだから飲んでもいいのだが、シェリーは悪酔いするたちなので、今日は控えるよう言われていた。
それなのにシェリーはしたたかに酔っぱらっていた。
「そうよ、私でもいいのよ。メイベルのやつ、見てらっしゃい。マシューさまは私に相応しいわ!」
そう言うと、おぼつかない足取りでシェリーは会場を後にするのだった。
それを知らないマシューとメイベルは、人いきれに酔ったため、テラスに出て風にあたることにした。
「マフラーが出来上がったのです。明日、お渡ししますね」
「それは嬉しいな。もうすっかり寒くなったからね」
今夜、マシューはリグリー侯爵家に泊まることが決まっている。
しかしまだ婚約者の段階なので、用意されているのは客間だ。
それでも自宅に夫となる男性が宿泊するというのは、メイベルにとって気恥ずかしいものがあった。
(朝から顔を合わせるって、どんな気持ちかしら)
まるで新婚生活の始まりのような、ソワソワした気分を感じているメイベルだった。
最近は忙しかったこともあって、ディーンを思い出すことが少なくなった。
これでいいんだ、とメイベルは何度も自分に言い聞かせる。
いつまでも心にディーンがいては、マシューへの不実になる。
浮き上がってこようとする心の奥底にある思いを、メイベルは頑なに拒んだ。
そしてマシューに向き合うことに専念した。
男性にマフラーを編んで贈るのは初めてだ。
風邪を引きませんようにと、心を込めて編んだ。
いつもメイベルの編んだ小物を褒めてくれるメイドが、素敵な包み紙とリボンを用意してくれた。
誰かに何かをプレゼントする機会があまりなかったメイベルには、思いつかなかったことなので感謝したものだ。
うっかりそのまま渡すところだった。
メイベルがマフラーについて思いを馳せていると、マシューの指がつっと伸びてメイベルの肩の線に触れた。
それはドレスの試着をしたときに、メイベルが出過ぎではないかと気にしていたラインだ。
「あ、あの、マシューさま!」
「素敵だよ、よく似合っている。いつものドレスも可愛いけれど、こんな大人っぽいドレスも着こなしてしまうんだね。メイベル……私はあなたとの結婚を、楽しみにしている。政略で始まった婚約だけれど、終着点も政略である必要はないと思うんだ」
いつもより饒舌なのは、マシューも酔っているせいなのか。
肩にあった指をすいと持ち上げ、メイベルの下あごを撫でる。
「メイベルはどうだろうか? 私との結婚を、望んでくれるかい?」
今まで、接触といっても礼儀正しいものだった。
それが今夜はマシューに何か含むものを感じる。
だがそれが、男女のあるべき姿なのかもしれない。
メイベルが大人に一歩、近づいた瞬間だった。
「私も、マシューさまとの結婚を望んでいます。……これから末永く、よろしくお願いします」
覚悟を決めたつもりだ。
ディーンとはもう結ばれない。
マシューと未来を歩むと決めた。
メイベルの瞳に、そんな意志を見て取ったのか、マシューは嬉しそうにほほ笑んだ。
「じゃあ少しだけ、先に進むことを許してほしい。これ以上はしないから」
マシューは撫でていたメイベルの下あごをちょっと摘み、その上にあるメイベルの唇にそっと自分のそれを重ねた。
ワインの香りがするキスだった。
メイベルはこみ上げる感情を処理しきれずに、固まってしまう。
マシューはそれを見て、ふっと笑った。
「やっぱり可愛いよ、メイベルは。私は幸せ者だ。こんなメイベルの夫になれるのだから」
真っ赤になっている頬を、マシューの大きな手が包む。
こんなときになんて返答をすればいいのか分からず、メイベルはますます体を固まらせた。
すりすりと頬の柔らかさを楽しんでいるマシュー。
頭から湯気の出ているメイベル。
室内からは緩やかな音楽が聞こえてくる。
半月が二人を優しく照らす。
婚約披露パーティはもうすぐ終わろうとしていた。
◇◆◇
マシューの眠る客間に、近づく人影があった。
あれからもマシューはグラスを重ね、メイベルと一緒にパーティから下がった。
客間に入るまではよかったが、湯を浴びたら酔いが回った。
明日に残さないようしっかりと水分を補給して、早々にベッドに横になったところだ。
メイベルほどではないが、マシューも気を張っていたのだろう。
疲れた体に睡魔はすぐに訪れた。
しかし剣士としての感覚が、誰かが室内に入ってきたことを知らせる。
同じく泊まることになった酔客が、間違えたのだろうか。
たしかに鍵はかけたはずだが、とマシューが考えていると、その人物はベッドのそばまでやってきた。
間接的な灯りしかない中、マシューは眠い目をうっすら開ける。
こんなに動作が緩慢なのは、その人物から殺気などを感じないからだ。
逆光になって顔はよく見えないが、マシューの好きな茶色い髪の毛が近づいてきた。
(メイベル?……どうしてこんな夜更けに)
メイベルと思しき人物がそっとベッドに入ってきたので、疑わずにマシューは優しく抱き寄せた。
寒くないよう、肩まで包み込むように上掛けを巻いてやる。
メイベルはさほどワインを飲んでいなかったようだが、その人物からはかなりワインの匂いがした。
自室に戻ってから、改めて飲んだのだろうか。
その匂いにさらに酔ってしまったマシューは、これまで辛うじて保っていた意識を手放す。
マシューは、自分の腕に囲んだのがメイベルだと信じて疑っていない。
しかし、大人しいメイベルが、夜這いのような真似をするはずがなかった。
素面の状態であればあれば、マシューも気がついただろう。
もっと注意深く目を凝らせば、その人物の顔が見えたかもしれない。
だがすでにマシューは夢の中だ。
マシューの腕の中にいる人物は、マシューの胸に顔をすり寄せ、マシューの背中に腕を回した。
「マシューさま、たくましい体……このまま朝まで、一緒に寝ましょうね」
その呟きがマシューに聞こえることはない。
くすくすと笑い声を上げて企みが成功したことを喜んでいたその人物も、やがて眠りについた。
マシューは一体、誰を抱きしめて眠ってしまったのか。