盲目の王弟は青痣令嬢に愛を乞う~見えないあなたと醜い私~

 その次のお茶会までは参加したが、次の次のお茶会からは欠席するようになった。

 肩身が狭くなったからだ。

 クラリッサとばかり話すディーン。

 メイベルが隣にいるにもかかわらず、ずっと真正面を向いている。

 真正面の椅子にクラリッサが座っているからだ。

 身振り手振りを使ってディーンが話すとき、腕がメイベルと触れるときがある。

 そのときになって初めて、メイベルの方を向くのだ。



「ぶつかってしまったね、ごめん」



 最後のお茶会でディーンと交わした会話は、それだけだった。

 それまでも、あまり会話をする二人ではなかったが、森から庭に出てきた小動物の足音で、ディーンが今のはウサギだと言い当てたり、雨の日は図書室の中で、メイベルが詩を朗読したりすることもあった。

 静かながらも交流があったと思っていたが、クラリッサのそれを目にすると、今までのが交流と言えるのかメイベルには自信がなくなる。



 次の次の次のお茶会をメイベルが欠席した日、侍従が王に報告をあげる。



 ◇◆◇



「そうかそうか、ディーンはクラリッサ嬢と会話が弾んでいるのだな」



 ジョージは笑いが止まらないといったふうだ。

 侍従は首をかしげる。

 以前は会話が弾むのは不自然だと言っていたはずだ。

 侍従はメイベルが続けてお茶会を欠席したことも伝える。

 

「青痣令嬢も気がついたのだろう。クラリッサ嬢のほうがディーンにふさわしいと」

「しかし、婚約者であるのはメイベルさまです。クラリッサさまのディーンさまへの距離感は、ご友人にしては近すぎます」



 侍従はクラリッサの目的を知らない。

 あまりにもないがしろにされるメイベルが憐れと思い、こうしてジョージに報告に来たのだ。

 しかしジョージの口から飛び出した言葉に、驚愕する。



「それでいいのだ、ディーンの婚約者はクラリッサ嬢に変わる。そろそろ青痣令嬢には退場してもらわんとな」



 侍従は、盲目であったころのディーンを長く見てきた。

 だからこそ、分かることがある。

 ディーンが心を許しているのはメイベルだ。

 目が見えないときから変わらず、メイベルの存在感に安堵している。

 今は目の前の新しい玩具に夢中になっているが、遊び尽くせば飽きるのが早いのも知っている。

 そうなったときに、隣にメイベルがいないと分かればどうなるのか。

 メイベルのいないお茶会では、何度もメイベルが座っていた左側の腕をさすっている。

 そこにメイベルの気配を感じないからだ。

 ディーンのそんな仕草まで見ていた侍従は、ジョージの決定に顔を青くする。

 しかし、王には逆らえない。

 侍従の報告を聞いて、さっそくメイベルの父親であるリグリー侯爵に婚約解消の通達をしたため始めたジョージに礼をし、侍従は王の執務室を後にした。

 とてもディーンには伝えられない。

 今回の侍従の判断は、凶と出てしまった。



 ◇◆◇



 リグリー侯爵家に、王からの通達が届いた。

 目が見えるようになったディーンは、ホイストン公爵家のクラリッサと婚約を結ぶという内容だった。

 つまり、一方的なメイベルとの婚約解消だ。

 ただ解消されるだけならば納得がいかなかったが、ジョージとホイストン公爵家の執り成しで、メイベルに新たな婚約者を用意してくれるという。

 せっかく繋がった王族との縁がなくなってしまうが、王と公爵家の意向には逆らえない。

 しぶしぶではあったが、リグリー侯爵は承諾の返事をした。

 またしても、メイベルには何の相談もなかった。



 そのとき、メイベルは自室でひっそりと過ごしていた。

 これまでも、ディーンにお茶会へ誘われる以外は、ずっと引きこもっていた。

 本を読んでいることが多かったが、読む本がないときは手慰みで編み物をした。

 本当の母親が亡くなる前、赤ちゃんのために一緒に何か作りましょうと、編み方を教えてくれたのだ。

 手袋、靴下、帽子、マフラー。

 小物は一通り、編むことが出来た。

 使い道のないそれらは、ある程度の量がたまると、メイドが孤児院へ寄付してくれた。

 そのまま使ったり、バザーで売ったり、何らかの貢献にはなっているようだ。

 迷惑ではないようで、メイベルはホッとしている。

 メイベルがもっぱら一人でいるのは、これといった友人がいないからだ。

 それは社交界から距離を置いて、もう長いせいでもある。

 そのきっかけとなった事件があった。

 メイベルが15歳、義妹のシェリーが14歳のときの話だ。



 ――小雨の降る日だった。

 メイベルにとって義母である、リグリー侯爵夫人の墓参りに来ていた。

 先月、急逝してしまった義母。

 それを治癒魔法で助けることが出来なかったメイベルは、まだショックを引きずっていた。

 メイベルを役立たずと激しく罵ったシェリーとの関係も、ギスギスしたままだ。

 リグリー侯爵は仕事で行けなくなったので、メイベルとシェリーの二人だけを乗せた馬車は、人通りの少ない道をゆっくりと走っていた。

 もうすぐ墓場というところで、馬のいななきが聞こえ、馬車ががくんと揺れて止まった。



「なあに? どうしたの?」



 シェリーがのんびりと、御者側の小窓を開ける。

 しかし、そこに御者の姿はなかった。

 何かが起きたのだと察したメイベルは、すぐに扉に鍵をかけた。

 かけた瞬間、何者かが扉を開けようとガンッと取っ手を引いたが、鍵のおかげで振動だけが車内に伝わった。

 間一髪だった。



「なによ? なにが起きてるの?」



 シェリーもようやく異変に気がついたようだ。

 開けた小窓を閉めようとして、そこから覗いていた誰かを見つけ、シェリーが叫び声を上げる。



「きゃああああああ!!」



 顔を黒く汚した男が、車内を観察していた。

 小窓から腕を入れシェリーを捕まえようとしたが、メイベルがシェリーを引っ張って反対席側へ寄せる。



「へへっ。小娘だけか、ちょうどいい。ちょっと俺たちに攫われてくれよ」



 男は小窓からなんとか扉の鍵を外せないか試していたが、どうにも届かないと分かると腕を引っ込めた。

 その隙にメイベルは小窓を閉める。

 諦めてくれればいいと思ったが、相手は複数人のようだ。

 それに対してこちらは力もない少女が二人、身を寄せ合うだけ。

 小雨が降る中、人通りの少ない道を走ったことが災いした。

 とっくに御者はやられてしまったのだろう。

 男たちの話声が聞こえる。

 扉を開けるために何かを準備しているようだ。

 

「助けて!! 誰か助けて!!」



 シェリーが叫び声を上げる。



「うるせえ! 静かにしてろ!」



 男たちの乱暴な言葉遣いに、シェリーが震えあがる。

 このままではいけないが、どうしていいかも分からない。

 メイベルも、カタカタと怖気づく自分の体を、抱きしめるしかなかった。



「よおし、ぶつけろ! これで扉が壊れるはずだ! お嬢ちゃんたち、怪我したくなければ扉から離れているんだな!」



 笑い声と共に、ドゴッと扉に何かがぶつかる音がした。

 同時に馬車も大きく揺れる。

 

「いやああああ!」



 シェリーが恐慌をきたしたように泣き喚く。



「もう一度だ! 早くしろ!」



 ドゴッドゴッ!

 何か大きなものを抱えて、扉に突進している。

 扉の蝶番が軋み、鍵の掛け金も扉から浮いた。

 このままでは今にも開いてしまう。

 メキィッ!

 掛け金が曲がり、木製の扉が車内にめり込む。

 わずかに開いた扉の隙間に、大きな男の手がかかる。

 そこからは、あっという間に扉が剥がされた。



「手間取らせやがって、ほら、さっさと降りるんだよ!」



 メイベルは二の腕を引っ張られ、車外へと放り出された。

 道端へどさりと腰を打ち付けたメイベルに、しとしと小雨が降り注ぐ。

 男は泣き喚くシェリーも容赦なく馬車から引きずりおろした。



「いやよ! いやよ! 放して! 誰かああ!」



 涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、叫びまくるシェリー。

 苛立った男が、大きく手を振りかぶった。

 シェリーが叩かれる。

 そう思った瞬間、メイベルは飛び出していた。



「止めて! シェリーには手を出さないで!」
 メイベルは、賊に歯向かった。

 シェリーを叩こうと、大きく手を振り上げた男の脚にしがみつく。



「なんだあ? この娘、顔に気持ちの悪い痣がある!?」



 メイベルの顔を見た男が、ぎょっとしてメイベルから離れた。

 降り続く小雨に、青痣を隠していた化粧が落ちていた。

 男が離れたのをいいことに、メイベルはシェリーを馬車に近づける。

 少しでも男たちからシェリーを隠そうとしたのだ。



「シェリーは見逃して! 妹はまだ幼いの!」



 えっぐえっぐと嗚咽をあげるさまは、よりシェリーを幼く見せた。



「そうは言ってもねえ、お前さんの顔がそんなんじゃあ、売れるのは妹だけになっちまう。見逃すわけにはいかねえなあ」



(売る? どこに?)



「身代金を取るのではないの? それなら私でもいいはずよ?」



 メイベルは身代金目当てで誘拐されるのだと思っていたが、どうやら男たちの目的は違うようだ。



「身代金? そんなまどろっこしいこと、しやしねえよ! かっさらった見目のいい女は、娼館に売るのが一番だ。すぐ金になるからな!」

 

 ガハハと大口を開けて笑う男たち。

 その前の味見がたまんねえんだよ、とシェリーをジロジロ見る。

 シェリーは泣きすぎて呼吸困難を起こしていた。

 メイベルは葛藤した。

 義母に続いて、義妹までも私は救えないのか。

 

「わ、私では駄目なの? その、ショウカンに売るのは? 青痣は化粧で隠せるのよ」



 メイベルは手提げの中から震える手で白粉を出してみせる。



「これで隠せるわ。それでも駄目?」



 男たちは相談をし始めた。

 そして二人とも攫うことにしたようだ。



「待って! お願い! 妹は放して!」

 

 ほとんど気を失っているシェリーを、男が肩にかつぐ。

 そしてメイベルも肩にかつがれそうになった。

 メイベルは最後まで抵抗しようと、手提げを大きく振り回した。

 先ほどの白粉のほかに、手提げの中に入っていたものがバラバラと飛び出す。

 そして、振り回し過ぎて手からすっぽ抜けた手提げが、馬車の馬の横面にビタンッと当たった。



 ヒ、ヒヒィィイン!



 それまで静かに佇んでいた馬が、驚いて暴れ出す。



「うわ、誰か押さえろ! 馬車が走り出すぞ!」



 先ほど扉を無理やり開けるときは、誰かが馬を押さえていたのだろう。

 大人しかった馬だが、メイベルに物をぶつけられて怒っていた。

 前足を振り上げ、押さえようとする男たちを寄せ付けない。

 そしてガラガラと馬車を引いて走り出した。

 めちゃくちゃに走る馬は、馬車をあちこちにぶつけて人通りの多い方へ向かう。



「まずいぞ、人が来る! 逃げろ!」



 抱えていたシェリーを放り投げ、男たちは墓場へ走って逃げた。

 奇しくもメイベルとシェリーの目的地だった墓場は、男たちにとっては逃走経路だったようだ。

 馬と馬車に隠れていた道端には、賊にのされた御者がいた。

 殴られた頬が痛々しいが、死んではいないようだ。

 メイベルは、放り投げられた痛みで意識を取り戻したシェリーに近寄る。



「もう大丈夫よ、賊は逃げたわ。……怖かったわね」



 メイベルは自分も怖かったのだが、自分は姉だからと気丈にふるまうことで義妹を安心させようとした。

 しかしそれはシェリーにとっては逆効果だったらしい。



「そんな気持ちの悪い顔で近づかないで! 娼館に自ら行こうとするなんて、レディとしての誇りがないのね!? リグリー侯爵家の一員が、恥を知りなさいよ!!」



 顔は涙と洟でぐちゃぐちゃなのだが、シェリーは威勢だけはよかった。

 メイベルは言われたことには納得がいかなかったが、それだけ元気があるならいいかと、御者の方に近づいた。

 左頬が顎にかけて腫れて、青紫色に内出血している。

 メイベルは手をかざし、治癒魔法をかける。

 左頬はよくなったが、まだ御者の意識は戻らなかった。

 メイベルが治癒魔法の使い手だとバレないためにも、都合がいい。

 メイベルはホッと一息ついて、馬車が走り去ったほうから人のざわめきが聞こえるのを待った。



 幸いなことに、間もなくしてメイベルとシェリーは救助された。

 暴れて走る馬が引きずる半壊した馬車に、誰も乗っていないことを不審に思った人が、振り落とされた人がいるのではないかと道を辿ってきてくれたのだ。

 倒れる御者と、しゃがみこんだ少女二人を見つけ、すぐに警備隊に知らせてくれた。

 警備隊からリグリー侯爵家に連絡が入り、リグリー侯爵は真っ青な顔をして駆け付けた。

 シェリーはそこで初めて安心したとでも言うように、父親に抱き着き大声で泣き出した。

 何があったかの説明はメイベルがした。

 そして警備隊によって賊の追跡が行われ、人身売買組織が捕まったのはそれから半月後のことだった。

 リグリー侯爵からは、二人だけでの外出を禁止されてしまったが、メイベルは何も困らなかった。

 なぜならその半月の間に、シェリーが悪し様にメイベルのことを吹聴して、すっかり社交界で孤立してしまったからだ。



「信じられなかったわ! 命乞いをするのに身を差し出したのよ!? 立派なレディならば、自死を選ぶ場面でしょう? ただでさえ気持ちの悪い青痣が顔にあるのに、中身まで汚いのではどうしようもないわ!」



 実際にシェリーがこう言っているのを、メイベルは聞いた。

 リグリー侯爵家に友人の令息令嬢たちを招き、シェリーがお茶会をしていた席でのことだ。

 まだ義母の喪が明けていないので、シェリーは大っぴらには他家のお茶会に参加することが出来ない。

 その代わりに、こうして自邸に気心の知れた友人を招いて、こっそりとお茶会もどきを楽しんでいるのだ。

 今日もシェリーが中庭でお茶会をするというので、メイベルはあまり頻繁に開催するものではないと、たしなめようかと思っていた。

 しかし通りがかりにシェリーのそんな言葉を聞いてしまい、すぐに自室に引き返した。

 あの場に自分がのこのこ登場しては、いい見世物になるだけだ。

 シェリーの友人たちには、顔の広い令息や令嬢もいる。

 きっと、すぐに社交界に話が広まってしまうに違いない。

 メイベルの予想通り、それまで仲良くしてくれていた令嬢たちからの手紙が、ぱたりと途絶えた。

 本人がどう思っているかは知らないが、こういうものは親が真っ先に止めるものだ。

 良くない噂のある令嬢との付き合いは、自分たちの不利益にしかならないからだ。

 そうした貴族の付き合いについて、義母はちゃんと教えてくれていた。

 しかし、それももう役には立たないかもしれない。

 流れてしまった悪評は、なかなか消えてくれない。

 メイベルは、もう自分が誰かと楽しくおしゃべりを楽しんでいる姿を、想像することが出来なかった。

 義母を失った精神的な落ち込みがまだ癒えていなかったこともあり、メイベルはそこから引きこもりになった。

 そうして――メイベルは一人で過ごすことに慣れていったのだった。



 ◇◆◇



「お前の新しい婚約者が決まった。伯爵家の嫡男で魔法剣士だそうだ」



 年は3つ上の22歳、魔力量は中ほど、火魔法の使い手、伯爵家は歴代魔法剣士になる者が多く、できれば魔力量の多い嫁を娶りたがっている。

 そんな叔父の話を、メイベルは上の空で聞いていた。

 やっぱりディーンとの婚約は解消された。

 叔父が話し終えた頃を見計らい、それとなく聞いてみると、ディーンはクラリッサと婚約したそうだ。

 目が見えるようになった美貌の王弟に、評判の悪い侯爵令嬢は不相応なのだろう。

 どう見ても、社交界で華やかに咲く、美しい公爵令嬢がお似合いだった。

 二人の姿を目の当たりにし、予想していたことだったが、メイベルの気持ちは沈んだ。

 そもそもディーンとの婚約は政略だった。

 次の婚約も政略でおかしくはない。

 メイベルは静かにうなずき受け入れる。

 ディーンとの婚約を結んだときも、こうだったと思いながら。
「マシュー・サンダーズです。よろしく」



 短い銀髪は刈り上げられ、襟元には清潔感が漂う。

 日焼けした肌に似合った濃い紫色の瞳。

 腕には魔法剣士らしい、しっかりした筋肉がついていた。

 凛々しい顔立ちのマシューは、案外優しい声をしている。

 これから婚約者となるメイベルは、失礼にならないよう挨拶を返す。



「こちらこそ、よろしくお願いします。リグリー侯爵家メイベルと申します」



 侯爵家にもかかわらず、伯爵家に頭を下げてみせるメイベルに、おや? という顔をしたが、すぐにマシューは腕を差し出してきた。

 

「行きましょう。今日を楽しみにしていました」



 婚約してから初顔合わせとなる今日、メイベルはマシューと絵画展に行くことになっていた。

 クラリッサがディーンに紹介していた、あの七色の魔術師の個展だ。

 長らく社交界から遠ざかっていたメイベルだったが、礼儀作法は完璧に義母に躾けられている。

 マシューの腕に手をそっと乗せ、メイベルは令嬢らしくエスコートを受けた。



 マシューは思っていたよりもお淑やかで気品のあるメイベルに驚いていた。

 メイベルの噂は、あまり社交界に顔を出さないマシューにも伝わってきていた。

 醜い青痣があるとか、簡単に体を差し出すとか。

 それが根も葉もないものだと、マシューは察した。

 きっと、この可憐なメイベルを妬んだ誰かのしわざだ。

 ふわふわした茶色の髪は可愛らしく、吸い込まれそうな青い瞳は神秘的だ。

 落ち着いたしゃべり方も、マシューの好みだった。

 政略で始まった婚約ではあるが、いい関係が築けそうだとマシューは安心するのだった。



 ◇◆◇



 最近、メイベルがお茶会に来なくなった。

 ディーンは左腕をさすりながら、ため息をつく。



「あら、どうされましたの? そろそろ庭でのお茶会は寒くなりましたものね。離宮の中に入りましょうか?」



 クラリッサがディーンを心配そうに見る。

 そして侍従に手をふってみせ、テーブルを片付けるように指示した。

 しかし侍従はクラリッサの使用人ではないので、ディーンの指示を待つ。

 それが気に喰わなかったのか、クラリッサはちょっと眉をひそめた。



「違うんだ、寒いのではなくて。……その、クラリッサは社交の場でメイベルを見かけないか? このところ、お茶会を欠席し続けているだろう? どうしているのかと思って……」



 体調を崩しているのではないか、それならお見舞いに行けないものか。

 これまで離宮を出たことがないディーンが、そこまで考えていた。

 メイベルがいなくなってしまった穴は大きく、精神が落ち着かない。

 いつも左隣から温かな気配を感じ、それに癒されていたディーン。

 侍従がディーンの言葉に、少し居心地が悪そうな顔をした。



「ディーンさま、あの方は婚約者とご一緒に、よくお出かけになっておりますよ。今まで引きこもりだったのが噓のよう! 先日も、絵画展で見かけましたわ。ご心配なさらずとも、お元気そうでしたよ。どうやら仲良くやっているようですから」



 クラリッサの言葉が、ディーンにはよく理解できなかった。



「婚約者? それは誰か別の人のことではないの? メイベルの婚約者は僕だよ」



 戸惑うディーンに、クラリッサは妖艶な笑みを浮かべて告げる。

 それは、ずっと侍従が言い出せなかったことだ。



「ご存じなかったのですね。ディーンさまの婚約者は私に変わったのです」

「え? ……どうして?」

「私がディーンさまのお茶会に呼ばれた日のことを思い出してください。これまでになく会話が弾んで、楽しい時間だったでしょう? それを伝え聞いた王さまが、考えを改められたのです。私とのほうが相性が良さそうだと。もともと婚約の打診をいただいたのは私だったんですよ。ただ、父がちょっと心配性で断ってしまって……私はディーンさまの目が見えなくても、もちろんお傍にいたいと思ってましたわ」

「そんな……」



 ディーンは青ざめる。

 そして自分の態度を思い返した。

 目が見えるようになって、メイベルと話した回数は数えるほど。

 だが、盲目だったころから沈黙が続いても、居心地のいい関係だったのだ。

 会話が弾むとか、そうしたことに重きを置いてはいなかった。

 メイベルの気配を感じられるだけで、幸せだったのだ。

 クラリッサはそういう対象ではない。

 ジョージがクラリッサから交流を学ぶようにと言ったから、ディーンはなるべくクラリッサから多くのことを聞き出そうとした。

 クラリッサがしゃべらないことには、情報が引き出せないからだ。

 なるべく早く学びたかった。

 そしてメイベルと一緒に、パーティへ行ってみたかった。

 もの知らずなままでは離宮から出られない。

 ディーンが離宮に閉じこもっているせいで、メイベルが他の誰かにパーティでエスコートをされているかもしれないと思うと、矢も楯もたまらなかった。

 そうした必死さが、ジョージに異なる解釈をさせた。

 うまくいきそうならば取り替えてしまえと。

 目が見える者には分からないのだろう。

 そこに漂う空気に、それこそ見えない色がついていることが。

 メイベルと一緒にいるときのディーンは、常に恋の色をした空気をまとっていたはずだ。

 初顔合わせのときから、メイベルに惹かれていた。

 こんなに温かい人が婚約者になってくれるのだと、嬉しかった。

 青痣があったことで、盲目のディーンの婚約者になったのだと察しはついた。

 だがディーンの目が見えるようになったのならば、もっと高位の令嬢を娶ったほうが王家のためになる。

 ジョージは他人に容赦なく、自分の考えを押し付ける人だ。

 ディーンにもメイベルにも、気持ちがあるというのに。

 クラリッサがお茶会に参加したときから、これは決められていたゴールだったのだろう。

 会話が弾んだとか、楽しい時間だとか、そういうのは口実だ。

 最初から、クラリッサがディーンの婚約者になるように、仕組まれていたのだ。

 今頃それに気がつくなんて。



(メイベルは、いつ気がついたのだろうか?)

 

 ディーンがクラリッサと会話をしている横で、どんな顔をしていただろう。

 顔色をうかがう習慣のないディーンは、メイベルの顔をあまり見なかったことを思い出した。

 ただ静かにお茶を飲んでいたメイベル。

 そしてお茶会に来なくなったメイベル。

 きっとメイベルも、ジョージの企みが分かったのだ。

 だから自らお茶会を欠席して、身を引いた。

 ディーンの思い違いでなければ、メイベルはディーンを嫌ってはいなかった。

 むしろ心を通わせる瞬間があったし、好意を寄せてくれていたように感じた。

 ディーンはメイベルと結婚するつもりだった。

 二人の未来を想像していた。

 それなのに口実を与えてしまったせいで、メイベルと繋がっていた縁を切られてしまう。

 それだけではない。

 ディーンが熱心にクラリッサと話していたせいで、メイベルにいらぬ誤解をさせたかもしれない。



(君が好きなのに――!)

 

 苦しくてたまらなかった。

 かきむしりたいほど、心が痛い。

 本当に大切にしなくてはいけない人を、放ってしまった自分を悔やむ。

 もうすべてが手遅れなのだろうか。

 すがる気持ちでディーンはクラリッサに尋ねた。

 

「メイベルの婚約者というのは、どういう人だろう? メイベルを……大切にしてくれる人だろうか」

「サンダーズ伯爵家の嫡男で、魔法剣士のマシューさまですわ。とても剣の腕がよいそうですよ。銀髪に濃い紫目の精悍な顔立ちは、令嬢に人気がありますの。お見かけした絵画展では、メイベルさまを丁寧にエスコートしておりましたし、メイベルさまもあれほどの美丈夫ならば満足されているのでは?」

 

 聞かなければよかった。

 メイベルを思って苦悶するディーンと違い、メイベルはもう先を見ているのか。

 ディーンのことは忘れてしまったのか。

 絶望だった。

 ディーンは見えているはずの目から、光が抜け落ちたように感じた。



(メイベル、君が遠い……)



 ディーンは、知らずにまた左腕をさすった。
 メイベルにとってデートは慣れないものだったが、新たに婚約者となったマシューはそれを感じさせないような心配りのできる人だった。

 メイベルを気負わせないよう常に話題をふり、沈黙が落ちないように会話をつないでくれる。

 今日もそんなデートの最中で、二人は人気のレストランに来ていた。

 

「子どものときに、初めて火魔法を剣にまとわせることを思いついて、大人にバレないようにこっそり練習したんだ。だけど最初からうまくいくはずがなくて、けっこうな火傷を負ってしまってね」



 マシューの話し方も、ずいぶんフランクになった。

 そのほうがメイベルも緊張しなくて済む。

 マシューが右腕のそでをまくり上げて、赤い痣を見せてくれた。

 どうしてこんな話になったのかというと、以前、メイベルに青痣があったことを話したからだ。

 マシューは、メイベルの青痣のことは知っていたらしい。

 そして自分にも痣があるよ、と話してくれたのだ。

 そして見せてくれた赤い痣は、薄くはなっていたが、かなり広範囲にあった。

 

「もう痛くはないのですか?」



 やや皮膚にひきつれがあった。

 そこが痛そうに見えたメイベルはマシューに尋ねる。



「うん、痛くはないよ。歴代、魔法剣士を輩出している伯爵家の嫡男が、火傷で腕が使い物にならなくなったとあっては名折れだから。父が必死で治癒魔法の使い手を探したと聞いた。魔力量の少ない使い手だったらしく、治すのはここまでが限界だと言われたんだ」



 マシューは赤い痣をするりと撫でた。

 それはなんだか愛着を感じさせる仕草だった。

 もしかしたらマシューは、この赤い痣を、案外嫌ってはいないのかもしれない。

 それでも念のため、メイベルは己の魔法について告白することにした。

 それは、夫になると思ったディーンにもしたことだった。

 次はマシューが夫になるのだから、同じようにしなくてはと思ったのだ。



「あの、私、治癒魔法が使えます。よかったらその火傷の痣、もう少し治しましょうか?」



 多分、メイベルの魔力量ならば、ひきつれている皮膚は完全に治るだろう。

 時間が経過しすぎているので、赤い色は残るかもしれないが。



「へえ、治癒魔法の使い手なんだね? 私に話してしまってよかったの?」



 マシューにもディーンと同じことを聞かれた。

 それだけ治癒魔法の使い手は、隠れて生きているのだ。



「その……親族には話してもいいのです。マシューさまは、私の、夫になる方ですから」



 夫。

 ディーンにそう宣言したときは、顔が真っ赤になったはずだ。

 だが、今は違う。

 なぜか、なんて分かり切っていた。

 メイベルの気持ちはまだ切り替わっていないのだ。

 ディーンを想っている。

 早く忘れなくてはいけないのに。

 マシューがメイベルの夫になるのに。

 うつむいたメイベルに、マシューが困ったように笑った。



「ありがとう。でも、火傷の痣はこのまま残しておくよ。自戒の念を忘れないようにね」

「分かりました。他に痛む傷があれば、いつでも言ってください」



 日常的な会話のときは、しっかり顔をあげて、目を見て話せるようになったメイベル。

 しかし、男女の話になると、途端にメイベルはうろたえる。

 そのことにマシューは気がついていた。

 だから先ほども困ったように笑ったのだ。

 メイベル本人は気がついていないのだろう。

 メイベルは誰かを心に住まわせている。

 それがマシューより先に婚約者だった王弟ディーンかもしれないと、マシューは考える。

 そもそもこの婚約の話は、新しくディーンと縁を結んだホイストン公爵家からサンダーズ伯爵家へもたらされたものだ。

 ホイストン公爵家のクラリッサがディーンの婚約者となったため、その座から降りたリグリー侯爵家のメイベルの新たな婚約者を探していると。

 魔力量の高い令嬢で、なおかつ特殊魔法の使い手であると聞けば、引く手は数多だったろうに。

 悪い噂がつきまとい、青痣があるというだけで、腫れ物扱いをされていたメイベル。

 マシューは迷わず名乗りを上げた。

 とにかく本人に会ってみたいと思った。

 それで気が合いそうになければ、断るまで。

 でも、そうでなければ護りたいと思った。

 貴族として生まれた以上、家のための結婚は仕方がない。

 だからといってそれを味気ないものにはしたくない。



 そして顔合わせをしたメイベルは、マシューの想像を超えてきた。

 好ましいと思った。

 それからデートを重ねる中で、メイベルの中に他の男の存在を嗅ぎ取った。

 ずっと社交界から離れ、引きこもりだったメイベルが、出会う男など限られている。

 マシューは仕方のないことだと思った。

 自分はメイベルに二番目に会ったのだ。

 ここから一番になる努力を怠る理由にはならない。

 もうディーンとメイベルの縁は切れたのだ。

 ゆっくりでいいから、マシューをその懐に入れて欲しい。

 マシューはそう思いながら、今日もメイベルに話しかける。



 メイベルは、マシューといながらも、ディーンを思い出してしまう自分に気がついていた。

 先ほど、治癒魔法の使い手であると告白したときもそうだ。

 マシューはよく話しかけてくれるので、会話は途切れない。

 比べて、目が見えない頃のディーンは沈黙することが多かった。

 それは耳をすませていたからだ。

 ディーンは小さな音もよく聞き分けた。



「あ、ウサギの足音がしたよ。右の方にいないかな?」

「右ですか? ……います、こっちを見ています。すごい、よく分かりますね?」

「目が見えないと、耳や鼻がよくなるそうだよ」



 そう言って笑ったディーンと、もうどれだけ会っていないだろう。

 どこかに出かけることもなく、離宮の中で完成していた二人の世界。

 それはとても小さなものだったけれど、温かく大切なものだった。

 目が見えるようになっても、知識を補うまでは離宮に留まると言っていたディーン。

 メイベルとの婚約を解消し、今は新たな婚約者のクラリッサとお茶をしているのだろう。

 またいつか、どこかで会うことがあるだろうか。

 

「デザートはどれにする? 季節のフルーツタルトがおすすめらしいよ」



 メイベルはハッと顔を上げる。

 今はマシューとのデートの最中だ。

 ディーンとの思い出に浸っていい場面ではない。

 マシューが渡してくれたメニュー表を受け取り、中身を見る。

 一番上に、おすすめの季節のフルーツタルトの絵が載っていた。

 そこから下にゆっくり目をすべらせると、最後の方にアイスクリームの乗ったワッフルがあり、絵ではたっぷりのキャラメルソースがかけられていた。



(キャラメルソース……。口の端についていたのを、目が見えるようになったディーンさまが拭ってくれた)



 また思考がディーンに戻っている。

 メイベルは振り切るように、メニュー表の一番上を指さした。



「これにします、おすすめの季節のフルーツタルト」

「じゃあ私は、アイスクリームの乗ったワッフルにするよ。半分こしようか?」



 メイベルがあえて避けたワッフルを、マシューが選んでしまった。

 マシューはメイベルの視線がワッフルの上で長く留まっていたことを見て、そちらも食べたいのかなと思って気を利かせたのだった。

 そうとは知らないメイベルは、またうつむき小さな声で返事をする。



「いえ……半分こは、遠慮しておきます」

「そう? 食べたくなったら言ってね」



 マシューは通りかかった店員にデザートの注文をする。

 メイベルは、ディーンのことを考えていたのが、マシューに伝わったのではないかとドキドキした。

 しかしマシューはそんな素振りを見せず、次のデートの誘いをしてきた。



「改装オープンする劇場で、こけら落としに歌劇をやるそうなんだ。メイベルは歌劇に興味はある?」



 そもそも歌劇を観たことがなかったので、メイベルは嬉しくて二つ返事をしてしまう。

 そんなメイベルを見て、マシューは笑った。



「よかった。来週、一緒に行こう。また迎えに行くよ」



 こけら落としには、箔つけのために多くの高位貴族が招かれる。

 そこでメイベルは出会ってしまうのだ。

 あれほど会いたかったディーンと、ディーンにエスコートをされるクラリッサに。
 改装された劇場の中は、光を乱反射するシャンデリアによって夢の世界のように煌めいていた。

 マシューに手を引かれたメイベルは、こんなきらびやかな場所に、自分がいてもいいのか不安でたまらない。

 いつもは軽装なマシューが、しっかり正装をしているのにも緊張してしまう。

 もちろんメイベルも相応しいドレスを着てきたのだが。

 場所にも衣装にも負けている気がするのだ。

 つい及び腰になるメイベルを、マシューが逞しい腕で引っ張ってくれる。

 それがなければ、とても席まで進めなかっただろう。

 席についたあとも、オロオロと辺りを見渡していたメイベルは、一点に視線が釘付けとなる。

 そこには、堂々と腕を絡めるクラリッサと、並んで歩くディーンの姿があった。

 王族らしい金糸を多用した輝く正装が、金髪のディーンによく似合っている。

 いつもは下ろしている長髪を、邪魔にならないよう後ろでひとつに結っていた。

 隣のクラリッサはエメラルドグリーン色のドレスを身にまとっている。

 クラリッサの髪の色とも言えるが、おそらくはディーンの瞳の色を意識してだろう。

 見目麗しい二人は、劇場のどこからも視線を集め、自ら発光しているかのように目立っていた。

 高位貴族向けの個室に歩いていく二人。

 盲目のディーンは、よく侍従に腕を引かれて歩いていた。

 それが今はクラリッサに代わっている。

 もう目は見えているのに、腕を引かれる癖は抜けないのだろうか。

 そんな仲睦まじい様子を、貴族たちはひそひそと噂していた。



「あれが王弟ディーンさまよ。クラリッサさまが片時も放さないと聞くわ」

「舞踏会でもずっと一緒なのですってね。あの美貌ですもの、奪われるのを警戒しているのでしょう」

「ホイストン公爵家に逆らう家などないでしょうに?」

「まったくだわ。クラリッサさまの意に反することをしてごらんなさい。アバネシル皇国が黙ってはいないわ」

「アバネシル帝国の皇帝は、姪のクラリッサさまを可愛がっていらっしゃるそうね?」

「なにしろ溺愛していた妹の皇女さまにそっくりにお育ちだから」



 それからも貴族たちの噂話は続いたが、メイベルは聞く気になれなかった。

 隣の席にマシューが戻ってくる。

 上司が来ていたからと挨拶に行っていたのだ。

 メイベルは何もなかったように振る舞おうとしたが、その必要はなかった。



「すっかり会場中の話題になっているようだね、ディーンさまとクラリッサさまは」



 マシューにだって耳がないわけではないのだ。

 むしろメイベルが居心地悪くしているのを心配してくれた。



「大丈夫だよ。メイベルは何も卑屈になることはないんだ。今は私が隣にいる。それとも、私では物足りないかな?」

「と、とんでもありません! マシューさまが物足りないだなんて!」

「そうか、安心したよ。ここで物足りないと言われたら、どうしようかと思った。……泣いて帰るしかないよね?」

「ふふふっ、マシューさまったら」



 マシューが泣くふりをして悲しそうに言うので、メイベルは噴き出した。

 さっきまでの気鬱は吹き飛んだ。

 そうだ、ディーンとクラリッサのことを気にしてもしょうがない。

 もう二人とは赤の他人なのだから。

 私は私の将来を見据えないと。

 クラリッサと腕を絡めていたディーン。

 それが現実だ。

 メイベルは心の奥底に沈んでいた恋心に蓋をした。

 もう叶うことは無い。

 それが今日、はっきり分かった。

 笑わせてくれたマシューを見る。

 シャンデリアの光が、銀髪をより美しく見せていた。

 濃い紫色の瞳には、笑ったことで頬が赤らんだメイベルが映っている。

 笑い合い、見つめ合う二人は、誰が見ても仲の良い婚約者同士だった。

 そしてそれを、階上からディーンも見ていた。



 ◇◆◇



 特別に用意された階上の席へ、クラリッサに案内されてディーンはついていく。

 クラリッサはこの劇場が改装する前から、上得意として通っていたのだそうだ。

 

「今日はディーンさまと一緒に来られて嬉しいですわ。ディーンさまは歌劇は初めてなのでしょう? もっとたくさん、二人で初めてのことを体験しましょう」



 個室になった席にクラリッサと共に腰かけると、主要な演者や劇場のオーナーが挨拶に来た。

 クラリッサは上機嫌でそれに微笑む。

 ときおり演者に話しかけては、苦労話を聞きだしていた。

 その間、手持ち無沙汰なディーンは、なにげなく会場を見渡した。

 濃い赤を基調とした座席シートが、眼下にずらりと並ぶ。

 そのほとんどが埋まっていることから、今回のこけら落としが注目されていることが分かる。

 広い舞台にはまだ緞帳が下り、多くの観客が今か今かとそれが上がるのを待ちわびていた。

 その中に、目立つ銀髪の男がいる。

 ディーンの金髪も珍しいが、銀髪も珍しい。

 銀髪は、メイベルの婚約者の髪の色だったはずだ。

 隣には予想通り、ディーンが愛してやまない茶色があった。

 何かを話しているのだろう、周りのざわめきに消されないよう、メイベルが一生懸命に口を開いているのが分かった。

 そして銀髪の男がそれに答えて何かを言った途端、メイベルが頬を赤くして笑った。

 ディーンはたまらずサッと目をそらす。

 心臓がつぶれるように痛い。

 見えないが、絶対に血を流している。

 顔をこわばらせているディーンに気がつかず、劇場のオーナーが挨拶をしてきた。

 それへ対応しながら、ディーンの頭の中はメイベルでいっぱいだった。

 先ほどの笑顔が何度もリフレインされて消えない。



(離宮のお茶会で、一度でもメイベルが笑ったことがあったか?)

 

 長らく目が見えなかったディーンにとって、初めて見たメイベルの笑顔は衝撃だった。

 とても可愛かった。

 とても幸せそうだった。

 そしてそれをメイベルにもたらしたのは、ディーン以外の男。

 あの婚約者が、いずれメイベルの夫になる。

 ディーンが立つはずだった場所に立つのだ。

 ぎりりと拳を握りしめる。

 掌に爪が深々と刺さる。

 胸の痛みに比べれば、取るに足らない痛みだ。

 そろそろ歌劇が始まる。

 観客は舞台へと視線を移す。

 隣に座るクラリッサがディーンに寄り掛かる。

 劇場は舞台を残して暗闇に沈む。

 しかしディーンには銀髪とその隣の茶色が、いつまでも見えるような気がした。



 ディーンもメイベルも、お互いが初恋だった。

 恋がどういうものか知らず、手探りで始めた関係だった。

 始まりは押しつけられた婚約だったが、つたないながらも育んできた思いは本物だ。

 しかし運命は二人を引き裂いた。

 気持ちを残したまま、すれ違ってしまったディーンとメイベル。

 不幸の中にいるのが日常だった。

 だから抗うことを知らなかった。

 そんな二人にとって苦痛とは、撥ね退けるものではなく、ひたすら耐えるものだったのだ。

 

 ◇◆◇



 メイベルとマシューの婚約はつつがなく続いていた。

 そろそろ両家の親族を集めて、婚約披露パーティを開こうとリグリー侯爵が言い出す。

 その日のためにメイベルはドレスを新調した。

 シェリーがそれをうらやましがっていたが、メイベルにはどうすることもできない。

 マシューの瞳の色を意識して仕立てられた濃い紫色の夜用ドレスは、今までになく色っぽくて、メイベルは試着をしたときに肩の露出が気になって仕方がなかった。

 ドレスと同じ生地を使って、マシューはタイを作るという。

 おそろいの衣装を身につけるのは、仲が良い証だ。

 打ち合わせや衣装合わせのために、マシューは何度かリグリー侯爵家を訪問した。

 これまで、マシューとは外でばかり会っていたので、なんだかメイベルはくすぐったかった。

 マシューにお願いされて、編み物を編んでいるところも見せた。

 自分にも作って欲しいと言われたので、メイベルはマシューにマフラーを編むことにした。

 そうして婚約披露パーティの日取りは近づいてきた。

 最後の打ち合わせを終えて、帰るマシューを玄関で見送るメイベル。

 

「次にお会いするときには、マフラーが出来上がっていると思います」

「楽しみにしているよ。次はパーティの日だろう? 正装で巻いては駄目かな?」

「うふふ、マシューさまなら似合ってしまうかもしれませんね」



 和やかに別れのときを過ごしている二人を、不穏な言葉を呟くシェリーが覗き見ていた。



「マシューさま……素敵だわ。メイベルにはもったいないわ。どうにかメイベルと入れ替われないかしら」
 メイベルとマシューの婚約披露パーティが始まる。

 いつも凛々しいマシューだが、今日はひときわ華やかで王子さまのように輝いている。

 そんなマシューにエスコートされ、メイベルは両家の親族に挨拶をして回る。

 リグリー侯爵も、一度は流れたメイベルの婚約が、今度こそはうまくいきそうで歓びを隠せない。

 王家とホイストン公爵に、貸しを作るかたちで整った婚約話だ。

 良い運気の流れが来ている気がする。

 きっと娘のシェリーにもいい縁談が見つかるのではないかと、ホクホク顔だった。

 おめでたい席ゆえに、酒が消費されるスピードも速い。

 あちらこちらで赤ら顔の、ご機嫌な人々が増えてきた。

 そんな中、一人だけむくれているのはシェリーだ。

 メイベルの婚約者のマシューを、ずっと目で追っている。

 シェリーにとっては4つ年上のマシューに、色っぽい大人の男性の魅力を感じているのだ。

 同年代の令息にはそこそこ人気があるシェリーだったが、これまで年上とは付き合ったことがない。

 しかも友人の令息たちとは違って、日焼けした精悍な顔つきや、筋肉で厚みのある体が、シェリーの女の部分を刺激してやまない。



「やっぱりカッコイイわ。どうしてメイベルの婚約者なのかしら。家同士の政略結婚ならば、私でもいいはずなのに」



 リグリー侯爵から隠れて、シェリーはワインをがぶ飲みする。

 いつもより質のいいワインは、口当たりも香りも最高だ。

 もう18歳なのだから飲んでもいいのだが、シェリーは悪酔いするたちなので、今日は控えるよう言われていた。

 それなのにシェリーはしたたかに酔っぱらっていた。



「そうよ、私でもいいのよ。メイベルのやつ、見てらっしゃい。マシューさまは私に相応しいわ!」

 

 そう言うと、おぼつかない足取りでシェリーは会場を後にするのだった。

 それを知らないマシューとメイベルは、人いきれに酔ったため、テラスに出て風にあたることにした。



「マフラーが出来上がったのです。明日、お渡ししますね」

「それは嬉しいな。もうすっかり寒くなったからね」

 

 今夜、マシューはリグリー侯爵家に泊まることが決まっている。

 しかしまだ婚約者の段階なので、用意されているのは客間だ。

 それでも自宅に夫となる男性が宿泊するというのは、メイベルにとって気恥ずかしいものがあった。

 

(朝から顔を合わせるって、どんな気持ちかしら)



 まるで新婚生活の始まりのような、ソワソワした気分を感じているメイベルだった。

 最近は忙しかったこともあって、ディーンを思い出すことが少なくなった。

 これでいいんだ、とメイベルは何度も自分に言い聞かせる。

 いつまでも心にディーンがいては、マシューへの不実になる。

 浮き上がってこようとする心の奥底にある思いを、メイベルは頑なに拒んだ。

 そしてマシューに向き合うことに専念した。

 男性にマフラーを編んで贈るのは初めてだ。

 風邪を引きませんようにと、心を込めて編んだ。

 いつもメイベルの編んだ小物を褒めてくれるメイドが、素敵な包み紙とリボンを用意してくれた。

 誰かに何かをプレゼントする機会があまりなかったメイベルには、思いつかなかったことなので感謝したものだ。

 うっかりそのまま渡すところだった。

 メイベルがマフラーについて思いを馳せていると、マシューの指がつっと伸びてメイベルの肩の線に触れた。

 それはドレスの試着をしたときに、メイベルが出過ぎではないかと気にしていたラインだ。



「あ、あの、マシューさま!」

「素敵だよ、よく似合っている。いつものドレスも可愛いけれど、こんな大人っぽいドレスも着こなしてしまうんだね。メイベル……私はあなたとの結婚を、楽しみにしている。政略で始まった婚約だけれど、終着点も政略である必要はないと思うんだ」



 いつもより饒舌なのは、マシューも酔っているせいなのか。

 肩にあった指をすいと持ち上げ、メイベルの下あごを撫でる。



「メイベルはどうだろうか? 私との結婚を、望んでくれるかい?」



 今まで、接触といっても礼儀正しいものだった。

 それが今夜はマシューに何か含むものを感じる。

 だがそれが、男女のあるべき姿なのかもしれない。

 メイベルが大人に一歩、近づいた瞬間だった。

 

「私も、マシューさまとの結婚を望んでいます。……これから末永く、よろしくお願いします」



 覚悟を決めたつもりだ。

 ディーンとはもう結ばれない。

 マシューと未来を歩むと決めた。

 メイベルの瞳に、そんな意志を見て取ったのか、マシューは嬉しそうにほほ笑んだ。



「じゃあ少しだけ、先に進むことを許してほしい。これ以上はしないから」



 マシューは撫でていたメイベルの下あごをちょっと摘み、その上にあるメイベルの唇にそっと自分のそれを重ねた。

 ワインの香りがするキスだった。

 メイベルはこみ上げる感情を処理しきれずに、固まってしまう。

 マシューはそれを見て、ふっと笑った。



「やっぱり可愛いよ、メイベルは。私は幸せ者だ。こんなメイベルの夫になれるのだから」



 真っ赤になっている頬を、マシューの大きな手が包む。

 こんなときになんて返答をすればいいのか分からず、メイベルはますます体を固まらせた。

 すりすりと頬の柔らかさを楽しんでいるマシュー。

 頭から湯気の出ているメイベル。

 室内からは緩やかな音楽が聞こえてくる。

 半月が二人を優しく照らす。

 婚約披露パーティはもうすぐ終わろうとしていた。



 ◇◆◇



 マシューの眠る客間に、近づく人影があった。

 あれからもマシューはグラスを重ね、メイベルと一緒にパーティから下がった。

 客間に入るまではよかったが、湯を浴びたら酔いが回った。

 明日に残さないようしっかりと水分を補給して、早々にベッドに横になったところだ。

 メイベルほどではないが、マシューも気を張っていたのだろう。

 疲れた体に睡魔はすぐに訪れた。

 しかし剣士としての感覚が、誰かが室内に入ってきたことを知らせる。

 同じく泊まることになった酔客が、間違えたのだろうか。

 たしかに鍵はかけたはずだが、とマシューが考えていると、その人物はベッドのそばまでやってきた。

 間接的な灯りしかない中、マシューは眠い目をうっすら開ける。

 こんなに動作が緩慢なのは、その人物から殺気などを感じないからだ。

 逆光になって顔はよく見えないが、マシューの好きな茶色い髪の毛が近づいてきた。



(メイベル?……どうしてこんな夜更けに)



 メイベルと思しき人物がそっとベッドに入ってきたので、疑わずにマシューは優しく抱き寄せた。

 寒くないよう、肩まで包み込むように上掛けを巻いてやる。

 メイベルはさほどワインを飲んでいなかったようだが、その人物からはかなりワインの匂いがした。

 自室に戻ってから、改めて飲んだのだろうか。

 その匂いにさらに酔ってしまったマシューは、これまで辛うじて保っていた意識を手放す。

 マシューは、自分の腕に囲んだのがメイベルだと信じて疑っていない。

 しかし、大人しいメイベルが、夜這いのような真似をするはずがなかった。

 素面の状態であればあれば、マシューも気がついただろう。

 もっと注意深く目を凝らせば、その人物の顔が見えたかもしれない。

 だがすでにマシューは夢の中だ。

 マシューの腕の中にいる人物は、マシューの胸に顔をすり寄せ、マシューの背中に腕を回した。



「マシューさま、たくましい体……このまま朝まで、一緒に寝ましょうね」



 その呟きがマシューに聞こえることはない。

 くすくすと笑い声を上げて企みが成功したことを喜んでいたその人物も、やがて眠りについた。

 マシューは一体、誰を抱きしめて眠ってしまったのか。
 少し時間がさかのぼる。

 誰よりも先にパーティ会場を抜け出し、よろよろ歩いていたシェリーは、通りかかった執事によって自室に送られた。

 そこでドレスを脱いで湯を浴びて、寝る支度を整えてもらう。

 使用人たちが部屋を出ていったあと、ガウンをまとったシェリーは部屋を抜け出す。

 酔ったふりをして執事に寄り掛かっていたシェリーは、執事の上着から客間の鍵を抜き取っていたのだ。

 その鍵を持ってマシューのいる客間を目指す。

 どうやらマシューは湯を浴びている最中のようだ。

 シェリーは客間にかかっていた鍵を開けると、なに喰わぬ顔をして通りかかった使用人に、落ちていたわよと鍵を返す。

 シェリーが鍵を持ったままではまずいのだ。

 部屋の中の様子を扉の外から伺い、静かになるのを待つ。

 マシューがベッドに横になり、しばらくしてからシェリーは動いた。

 シェリーの持つ特殊魔法は変身。

 ただし魔力量が少ないので、髪の色と眼の色くらいしか変えられない。

 魔力量が多かったリグリー侯爵夫人であれば、全身をメイベルそっくりに変えられただろう。

 茶色い髪と透き通る青い瞳。

 薄暗い部屋の中なら、これで十分だ。

 そう確信して、メイベルになったつもりのシェリーは、マシューの眠るベッドにそっと近づく。

 マシューの隣に潜り込もうとしたら、思いがけず抱き寄せられて声を上げそうになった。

 メイベルとシェリーの声は全然違うので、慌てて口を押えた。

 ここでバレては元も子もない。

 シェリーをメイベルと信じているマシューは、それからすぐに眠ってしまった。

 それまで息を殺していたシェリーは、ホッと安堵の息を漏らす。

 マシューが起きないことを確認して、シェリーは変身を解いた。

 ゆっくり上下する肉厚な胸筋に頬をすり寄せ、温かさに安心した。

 これでマシューはシェリーの物だ。

 マシューの背中に腕を回し、所有権を主張する。

 あとは朝まで眠るだけでいい。

 起こしに来たメイドが抱き合って眠る私たちを見つけて、リグリー侯爵家に泊まった親族たちにその話が伝わって、そういうことなら婚約者をメイベルからシェリーに変えようとなるはずだ。

 なにせ一夜を共にしたのだから。

 既成事実というやつだ。

 シェリーはこらえきれず笑った。

 そしてマシューとの未来を思い描きながら、幸せに眠ったのだった。



 翌朝――。

 メイベルはマシューの客間を訪ねた。

 手には編んだマフラーの包みがある。

 早く渡したくて廊下をウロウロしていたところを執事に見つかり、こうして案内してもらったのだ。

 メイベルはマシューがどの客間に泊まったのか知らなかった。

 だから客間に続く廊下で待ち伏せをしていたのだが――。

 マシューが泊まった客間から、ただならぬことが起きているような声がする。



「どうして君がここにいる!? 昨夜、私の部屋に忍び込んだのは君だったのか!?」



 マシューのこんなに怒った声を聞くのは初めてだ。

 執事も何事かが起きたと分かったのか、上着から客間の鍵を取り出し、扉を開けた。

 そこには――ベッドの中で寝乱れたシェリーと、それを糾弾しているマシューがいた。

 メイベルは、ぽかんと口を開けた。

 腕からは抱えていたマフラーの包みが落ちる。

 何が起こっているのか。

 どうしてマシューの部屋にシェリーがいるのか。

 すぐに執事がリグリー侯爵を呼ぶために客間を出た。

 マシューはメイベルに気づき、駆け寄って釈明した。



「メイベル、誤解をしないでほしい。決して何かがあったわけではないんだ」

「マシューさま、これは……?」



 うろたえたメイベルがたどたどしく聞き返そうとしたとき、バタバタと大きな靴音がしてリグリー侯爵がやってきた。

 そして客室の中を見渡し、頭を抱える。

 しかしすぐに立ち直ると、ベッドに向かって吠えた。



「シェリー! なんてことした!」

 

 メイベルは叔父が義妹を怒るのを初めて見た。

 義母が亡くなってから、叔父は義妹をとにかく甘やかした。

 喪中に勝手にお茶会もどきを開催しても、目こぼしをしていたくらいだ。

 それが今では、顔を真っ赤にしてカンカンに怒っている。



「お父さま! 私をマシューさまの婚約者にして! 私たちは一夜を共にしたのよ!」



 しかしシェリーも負けずに叫んだ。

 その内容に、メイベルは面食らう。

 そしてこの茶番が、シェリーによる仕込みなのだと気がついた。

 よりにもよって婚約披露パーティの次の日に、こんな事件を起こすなんて。

 マシューは巻き込まれたのだ。

 シェリーの幼稚な画策に。

 メイベルの隣に立ったマシューが、足元からマフラーの包みを拾い上げる。



「ごめん、こんなことになってしまって。これを届けに来てくれたんだね」

「いいえ、こちらこそ、義妹が勝手をしたようで……」



 いくぶんか落ち着いたメイベルと、まだ憤懣やるかたないマシューは、リグリー侯爵とシェリーのやり取りを見守った。



「お前がこの客室の鍵を拾ったふりをして、使用人に返したことは知っている。その前に執事から、お前を部屋に送り届けている間に、どこかで鍵を紛失したようだと報告を受けていたからな。執事から盗んだ鍵を使って、この部屋に忍び込んだのだろう!」

「だったら何よ! 鍵なんてどうでもいいじゃない! 一夜を共にした事実は事実でしょ!」

「このバカ娘が! お前が台無しにしたのは、王家とホイストン公爵家が取り持った婚約なのだぞ! ただの政略ではないんだ!」

「そんなの知らないわ! 私はマシューさまの婚約者になるのよ!」



 あまりの大声に、ほかの客室に泊まっていた親族たちが起きてきた。

 その中にはマシューの父親のサンダーズ伯爵もいた。



「リグリー侯爵、これはどういうことですかな? ここは息子が泊まっていた客室のはずだ。なぜ親子が罵りあう場になっているのです?」



 魔法剣士として名をはせたサンダーズ伯爵は、体も顔もいかつい。

 客室の扉を塞ぐようにして立ちはだかり、室内の修羅場を睥睨する。

 リグリー侯爵は咄嗟に言い訳が出てこなかったようだ。

 眉尻を下げて、ぐっと口をつぐんだ。

 リグリー侯爵には分かっていたのだ。

 この厳格なサンダーズ伯爵が、少しの醜聞も許しはしないと。

 だが怖いもの知らずなシェリーが噛み付いた。



「マシューさまと結婚したいの! 政略なんだから私でもいいでしょ!?」



 身の程知らずとはこのことを言うのだろう。

 サンダーズ伯爵はシェリーのあまりに幼い考えに失笑した。



「お嬢さん、政略の意味を知っているのかね? 我がサンダーズ伯爵家は、歴代、魔法剣士を数多く輩出する名門。迎え入れる嫁はすべて魔力量の多い令嬢と決まっている」



 ぎろりとシェリーに視線を合わせ、その真贋を確かめるようにねめつけた。



「お嬢さんは魔力量が多いようには見えない。それどころか微量すぎる。そんな嫁は、サンダーズ伯爵家にお呼びではないのだよ」



 室内の気温があきらかに下がった。

 サンダーズ伯爵の静かな怒りのせいだ。

 無事に婚約披露パーティを終えたと思ったら、この騒動だ。

 許しがたいものがあるのだろう。

 その憤りをそのままに、サンダーズ伯爵はリグリー侯爵に決定事項とばかりに告げた。



「慰謝料については文書で通達します。耳をそろえて用意しておいてください」



 慰謝料と聞いてマシューが慌てた。



「待ってくれ、父さん! 私はメイベルと別れるつもりなど……!」

「黙れ!! 娘一人、満足に躾けることが出来ん家から、嫁を取るつもりはない!!」



 サンダーズ伯爵の怒りは激しかった。

 それでも抵抗しようとするマシューの二の腕を掴み、引きずるように連れていく。



「メイベル! 手紙を出す! 待っていてくれ!」



 巨体になかば抱え上げられながらも、マシューはメイベルを振り返り声を張り上げる。

 メイベルはそんなマシューに素早くうなずくが、声は一言も出せなかった。

 あまりに急展開すぎた。

 客室に続く廊下では、撤収だ! と号令をかけるサンダーズ伯爵の声が響く。

 野次馬をしていた親族たちも、ぞろぞろと客室から引き上げていく。

 残されたのは、しゃがみこんでしまったリグリー侯爵と、サンダーズ伯爵の迫力に泣きだしたシェリー、物事の整理が追い付いていないメイベル、顔を青くしている執事だけだった。
 リグリー侯爵は、王都育ちのシェリーを領地へ追放した。

 シェリーは、田舎は嫌だと喚いていたが、有無を言わさず馬車に乗せられ、あの騒動の次の日には邸を出発したそうだ。

 そしてサンダーズ伯爵家からは、メイベルとマシューの婚約破棄の通達が来た。

 両家親族を集めた婚約披露パーティを済ませた後に起きた醜聞で、貞操観念のないシェリーが義姉の婚約者であるマシューに夜這いをした罪は重い。

 今後一切、サンダーズ伯爵家に関わらないよう念押しされ、リグリー侯爵家の有責として高額な慰謝料の支払いを請求してきた。

 またメイベル宛にはマシューの手紙は入っておらず、サンダーズ伯爵の「鍛え直すため、息子はしばらく魔法師団長に預ける。手紙も出せないだろう。息子のことはもう忘れるように」という直々の文書が添えてあった。

 ディーンと婚約したときも、一か月で婚約解消された。

 まさかマシューとの婚約も、一か月で婚約破棄されるとは。

 メイベルは、どちらも自分のせいではないと分かってはいても、落ち込んだ。

 マシューとの未来を、真剣に考えた矢先だった。

 どこまでも不幸がメイベルを追ってくる。

 メイベルの引きこもり生活が、また始まった。



 メイベルが婚約破棄された事情が、社交界に流れる。

 貴族たちの口をふさぐことはできない。

 短い間に二度も婚約が成り立たなかった話は、さぞかし面白かったのだろう。

 それが元々、青痣令嬢として噂になっていたメイベルだったから、なおのこと。

 リグリー侯爵は焦った。

 せっかく王家とホイストン公爵家の肝いりでまとまりそうだった婚約を、台無しにしてしまったのだ。

 悪評にまみれ、このままでは貴族間での地位も危うい。

 

(いよいよ、切り札を切るときが来たか?)



 こうなったらメイベルの特殊魔法のことをバラしてでも、どこかとの婚約をもぎとるしかない。

 そもそもメイベルに悪い噂がつきまとっていたときも、この切り札があるからリグリー侯爵は安穏としていられたのだ。

 

(いざとなれば治癒魔法の使い手であると公表してしまおう)

 

 メイベルの知らないところで、駒は進められる。



 ◇◆◇



 領地に追放されてシェリーは荒れた。

 王都と違って、領地には娯楽が少ない。

 こんなに何もないのんびりした田舎で、どうやって時間を過ごせというのか。

 王都に居た頃はたくさんの友人に囲まれ、毎日のように遊び歩いた。

 新規オープンした店に入っては店内の物を全部買ってみたり、ちょっと大人のふりをして仮面舞踏会に行ってみたり。

 ワクワクするようなことがいっぱいあった。

 ところが領地では時間がゆっくりとしか流れない。

 まわりにあるのは自然ばかり。

 こんなところで、11歳まで育ったメイベルが芋くさいのも当たり前だ。



「あ~、やってられないわ! どうして私がこんな目にあわなくちゃいけないのよ!」



 シェリーは全く反省していなかった。

 ちょっと魔力量が足りないくらいで、シェリーを役立たずのように言ったサンダーズ伯爵が許せない。

 これでもシェリーは特殊魔法持ちなのだ。

 火魔法しかないマシューの血に、特殊魔法の血が混ざるのに。

 あれだけ怒られても、まだシェリーはマシューを想っていた。

 添い寝をしただけだが、一夜を共にした感覚が忘れられない。

 逞しい筋肉に護られる安心感と、大人の男の色気。

 思い出すたびに熱いため息が出る。

 また、あの腕に囲われたい。

 そんなことばかりを考えていた。



 ある日、下町によく当たる占い師がいると聞いて、シェリーは邸を抜け出した。

 マシューとの未来を占ってもらおうと思ったのだ。

 本当は邸から出てはいけないのだが、そんなことは知ったことではない。

 ドレスだと目立つので、一番地味な部屋着に着替えた。

 変身魔法で髪色と瞳の色を変えて、堂々と下町を歩く。

 王都と違って、一日で端から端まで歩いてしまえるほど小さな通りを、注意深く探した。

 そして町娘たちが、きゃあきゃあ言いながら並ぶ列を見つける。

 シェリーはその最後尾に近づき、町娘に尋ねる。



「ここが占い師の店? よく当たると噂の?」



 突然話しかけられて町娘は驚いていたが、相手がどう見てもお忍び姿の貴族のようだったので、素直にコクリとうなずいた。

 

「ふふふ、やっと見つけたわ。私に手間をかけさせるなんて、とんでもない占い師ね」



 シェリーは並ぶ列をズカズカと追い越し、さっさと店内に入る。

 そこにはちょうど占い中だったと思われる町娘と、黒いローブをまとった老婆がいた。

 きっと老婆が占い師だろう。

 シェリーはあたりをつけると、二人が座るテーブルに近寄った。

 そして、そこにドンと金貨の入った袋を置く。



「順番を待つのは嫌いなの。さっさと占ってちょうだい」



 町娘はすっかり恐縮している。

 座っていた椅子から立ち上がり、そそくさと店から出ていった。

 老婆はそれを見て、やれやれとため息をこぼした。



「早くしてちょうだい! 私はそんなに暇じゃないのよ!」



 毎日することがないと言っていたシェリーだが、ここでそれを正直に言うつもりはない。

 老婆はそんなシェリーに席を勧めた。

 やっと占いが始まる。

 シェリーはウキウキとして席に着いた。



「私とマシューさまの未来を占ってほしいのよ。どうしたら二人が結ばれるのか教えて」



 腕を組んで、ぞんざいな態度を崩さないシェリー。

 貴族の自分がわざわざ足を運んでやったんだという驕りがうかがえた。

 老婆は占うことなく、後ろの棚を振り返り、そこから奇妙な形の布袋を取り出した。

 そしてシェリーの前にそれを置く。



「何よ? これで占うの?」

「これは高貴な方にしかお見せしません。こんな下町の者では使いこなせませんから。――これはとある国から流れてきた魔道具です。なんでもこの魔道具の前の持ち主は、護衛騎士という低い身分にもかかわらず、王女の愛を得たとか」



 そう言って老婆が袋から取り出したのは、湾曲した万華鏡のようなものだった。

 シェリーはそれを手に取って、レンズから中を覗いてみる。



「何も見えないじゃない。どうやって使うの?」

「満月の夜に、願い事を呟きながらレンズに血をこすりつけるのです。それで二人は結ばれるでしょう」



 うさんくさい方法だったが、護衛騎士と王女の話はロマンティックだと思った。

 せっかく下町まで来たのだし、この占い師の言うことを聞いてみてもいいと思うほど、シェリーは暇を飽かしていた。



「分かったわ。これはもらっていくわね」



 シェリーは万華鏡を握りしめて席を立つと、もう用はないと店を出た。

 フンフンと鼻歌を歌い、上機嫌で帰っていくシェリーの後ろ姿に、老婆は顔をしかめた。



「いくら貴族だといばりちらしても、無能は無能。あの魔道具にまといつく呪いの気配を感じられないとは、きっと魔力量がものすごく少ないんだね。おかげで、こっちも薄気味悪い魔道具を手放すことができて良かったよ」



 ◇◆◇



 邸を抜け出し下町に遊びに行ったことを使用人にとがめられたが、そんなことはどうでもよかった。

 シェリーは満月の夜を待ち、いよいよ願い事を叶えようとしている。

 布袋から取り出した魔道具を、しげしげと眺めた。



「ずいぶん古びているのね。あちこちが錆びているじゃない。血をこすりつけるレンズは……こっちね。どれくらいの血がいるのかしら?」



 シェリーが用意したのはブローチの針だ。

 それでプツリと左手の親指を刺すと、赤い血がみるみる丸くなった。

 流れてしまう前に慌ててレンズにこすりつけると、万華鏡を握りしめる。



「マシューさまと結ばれますように! 私がサンダーズ伯爵家に嫁入りできますように! あの怖い伯爵が私に頭を下げて謝りますように!」



 闇魔法の使い手ではないシェリーがいくら願ったところで、呪いの魔道具はそれに応えない。

 ただ、捧げられた血に従い、己に重ねてかけられたかつての魔法を発動させたのだった。
 呪いが復活した。

 メイベルの左目の周りに、葉脈のような青痣が走る。



「どうして……?」



 朝、起きて顔を洗ったメイベルは、鏡を覗き込み狼狽えた。

 昨日まではなかったはずだ。

 突然消えた青痣が、また突然現れた。

 きっとこれを知れば、メイベルの婚約相手を必死に探しているリグリー侯爵は荒れるだろう。

 悪評の上に悪条件が重なるからだ。

 いよいよ治癒魔法の使い手であることを公表するかもしれない。

 青痣が現れたことを黙っていても仕方がない。

 いつかはバレることだ。

 メイベルは叔父に叱られることを覚悟して、朝餉のときに青痣のことを告げるのだった。



 リグリー侯爵は伝手をつかって、難病を抱える貴族を探していた。

 そんな貴族なら、治癒魔法の使い手は喉から手が出るほど欲しているはずだ。

 この際、歳の差なんて関係ない。

 ただメイベルが嫁いでくれさえすれば、リグリー侯爵の爵位はシェリーの子が引き継げるのだ。

 幸いなことに青痣は消えた。

 悪評のひとつが無くなったことを喜んでいたのに。



「なんだって? 青痣がまた出た? どうしてそんなことに!?」

「私にも分からないのです。以前、消えたときも突然でしたし」

「……とにかく、また化粧で隠すように。青痣が現れたことは、誰にも言うんじゃないぞ!」

「分かりました」

 

 言われた通りに青痣を化粧で隠すメイベル。

 しかし、どこに出かけるあてもない。

 ひたすら自室に引きこもり、本を読んだり、編み物をしたり。

 せめて最後にマシューにマフラーを渡せたことを、幸せだったと思おうとした。

 マシューがそれを使ってくれているかは、分からないけれど。

 窓の外を見ると雪が降っていた。

 もう季節はすっかり冬だ。

 ディーンの離宮で、クラリッサが雪の結晶を作ったことを思い出す。

 顔を近づけて、雪の結晶が出来る様子を覗き込んでいた二人。

 その姿はまさしく恋人のようだった。

 メイベルの胸が痛む。

 マシューの婚約者ではなくなってから、ディーンのことを考える時間が増えた。

 マシューに気兼ねしなくてもいいからだろうか。

 心の奥底に沈めていたはずの想いが、少しずつ浮かんできていた。

 やっぱりディーンが好きなのだ。

 これだけ、諦めようと忘れようと、努力をした。

 だけど出来なかった。

 ひたすら苦しかった。

 メイベルはひっそりと涙を流す。

 青痣をつたって落ちる雫に、メイベルはふと思い出した。

 メイベルの青痣が消えた日、ディーンの盲目も治った。

 先代王が「呪いが解けた」と口にしていたはずだ。

 しかし今、メイベルの顔には青痣が再び現れた。

 この青痣が、ディーンのように呪いに関係しているとしたら?

 また、呪いが復活したのかもしれない。

 もしかしたらディーンも、目が見えなくなっているのではないか?

 メイベルの心は、終わりのない思考の海をたゆたう。



 ◇◆◇



 メイベルの予想は当たっていた。

 ディーンは盲目になった。

 突然、世界が暗転したが、ディーンは落ち着いていた。

 慌てたのはクラリッサだ。



「ディーンさま、また見えるようになりますよね?」

「それは僕にも分からない。見えるようになったときも、突然だったんだ」



 クラリッサに呪いのことは話せない。

 先代王から口止めされていたからだ。

 呪いがまた発動したのだろうということは分かったが、だからといってどうしたらいいのかはディーンには分からない。

 ディーンが再び盲目になったことは、先ほど侍従が慌てて知らせにいったので、ジョージにも先代王にも報告がいくだろう。

 やけに落ち着いているディーンに、クラリッサはしびれを切らす。



「このままでは困ります! 誰が私をエスコートするのです!? どうやってダンスを踊るのです!? 目が見えなくては何も出来ないではないですか!」

「そういうのは諦めてもらうしかないね。こうなったら以前のように、離宮に引きこもって静かに過ごすしかないよ」

「そんな……。年寄りの隠居生活だってもっと楽しみがありますわ! 必ずお父さまになんとかしてもらいますから!」

 

 喚き散らすクラリッサからは、嫌な空気しか感じられなかった。

 またしても感覚だけの世界に舞い戻ったディーンだが、そこは慣れ親しんだ世界だ。

 音と匂いと肌で感じるものが全て。

 目から入ってくる情報量は多すぎた。

 しばらく休めると、ディーンはホッとした。



 ◇◆◇



 ディーンがまたしても盲目になったことが侍従によって先代王に知らされ、すぐに魔法師団長が呼び出された。

 今回、亡くなったセリオは関係がない。

 なんらかの理由で、セリオが手放したという魔道具が再発動したのだろうと、魔法師団長は推測する。

 先代王の命によって、総動員での魔道具の捜索が決まったが、人より物を探すほうが難しい。

 人は動くが、物は動かない。

 仕舞いこまれたら最後。

 誰の目にも留まらず、ずっとそこにあり続け、見つけ出すことが叶わない。

 セリオの証言で、湾曲した万華鏡の形をしていることは判明している。

 前回、捜索をしたときに作った絵を引っ張り出し、複製して魔法師団の魔法使い全員に配布する。

 何か手がかりがあれば、魔法師団長の千里眼も役に立つのだが、どこを見たらいいのかも分からないのでは探しようがなかった。

 魔法師も、魔法剣士も、魔法研究員も、探した。

 似通った物がいくつも魔法師団長のもとに集められた。

 だが、どれも違う。

 そもそも探す範囲はクルス国だけではないのだ。

 もしかしたら他国へ流れた可能性もある。

 全世界が対象となると、絶望的だった。

 何も得るものがないまま、三か月が過ぎた。



 ◇◆◇



 ディーンは20歳になり、クラリッサは18歳になった。

 そろそろ結婚してもおかしくない年頃だが、ディーンの目は相変わらず見えない。

 ホイストン公爵は、これでは話が違うと王であるジョージに抗議をした。

 ジョージの座を追い落とせるだけの魔力量があると見越しての婚約は、目が見えることが前提だった。

 ジョージも先代王に口止めをされていて、呪いのことは話せない。

 今、呪いの魔道具を魔法師団が総出で探していて、それが見つかればまた目が見えるようになる可能性があると言いたいのだが、言えないのだ。

 煮え切らない返事しかしないジョージに、ついにホイストン公爵の堪忍袋の緒が切れた。



「この婚約は解消させてもらう。クラリッサも適齢期だ。グズグズしていては行き遅れる。娘は王弟以外に嫁がせます」



 美しいクラリッサは今が旬だ。

 売り込む時期を逃してはならない。

 いつまでもディーンにこだわっている暇はないのだ。

 ホイストン公爵はジョージの執務室から踵を返す。

 いくら王弟と言えども、目が見えなくては話にならない。

 他国との外交も出来ないし、貴族との交流も望めない。

 これではクラリッサを嫁がせても、ホイストン公爵家に益はない。

 クラリッサだって、目の見えない夫の介護で、一生を終えるのは嫌だろう。

 華やかな社交界を悠々と飛び回る蝶々のようなクラリッサ。

 数多のものを惹きつけ魅了する術は、大きな舞台でこそ活きる。

 それは決して、ひっそりと離宮で暮らすディーンのそばではないのだ。

 腹立たしい思いを抱えながら、ホイストン公爵は妻の故郷であるアバネシル皇国に、クラリッサにつり合う家格と年齢の令息はいたかと記憶をたどるのだった。

 

 ディーンの意思の働かないところで、クラリッサとの婚約は解消された。

 それを侍従から聞いて、ディーンが思い浮かべたのはメイベルのことだった。

 ディーンの目が見えるようになったことで、メイベルとは別れさせられた。

 では、ディーンの目が見えなくなった今なら?

 呪いがふたたび発動したことで、またメイベルの青痣が現れていたら?

 障害のおかげで二人が邂逅できるのではないかと、ディーンは小さな望みを抱くのだった。