「マシュー・サンダーズです。よろしく」



 短い銀髪は刈り上げられ、襟元には清潔感が漂う。

 日焼けした肌に似合った濃い紫色の瞳。

 腕には魔法剣士らしい、しっかりした筋肉がついていた。

 凛々しい顔立ちのマシューは、案外優しい声をしている。

 これから婚約者となるメイベルは、失礼にならないよう挨拶を返す。



「こちらこそ、よろしくお願いします。リグリー侯爵家メイベルと申します」



 侯爵家にもかかわらず、伯爵家に頭を下げてみせるメイベルに、おや? という顔をしたが、すぐにマシューは腕を差し出してきた。

 

「行きましょう。今日を楽しみにしていました」



 婚約してから初顔合わせとなる今日、メイベルはマシューと絵画展に行くことになっていた。

 クラリッサがディーンに紹介していた、あの七色の魔術師の個展だ。

 長らく社交界から遠ざかっていたメイベルだったが、礼儀作法は完璧に義母に躾けられている。

 マシューの腕に手をそっと乗せ、メイベルは令嬢らしくエスコートを受けた。



 マシューは思っていたよりもお淑やかで気品のあるメイベルに驚いていた。

 メイベルの噂は、あまり社交界に顔を出さないマシューにも伝わってきていた。

 醜い青痣があるとか、簡単に体を差し出すとか。

 それが根も葉もないものだと、マシューは察した。

 きっと、この可憐なメイベルを妬んだ誰かのしわざだ。

 ふわふわした茶色の髪は可愛らしく、吸い込まれそうな青い瞳は神秘的だ。

 落ち着いたしゃべり方も、マシューの好みだった。

 政略で始まった婚約ではあるが、いい関係が築けそうだとマシューは安心するのだった。



 ◇◆◇



 最近、メイベルがお茶会に来なくなった。

 ディーンは左腕をさすりながら、ため息をつく。



「あら、どうされましたの? そろそろ庭でのお茶会は寒くなりましたものね。離宮の中に入りましょうか?」



 クラリッサがディーンを心配そうに見る。

 そして侍従に手をふってみせ、テーブルを片付けるように指示した。

 しかし侍従はクラリッサの使用人ではないので、ディーンの指示を待つ。

 それが気に喰わなかったのか、クラリッサはちょっと眉をひそめた。



「違うんだ、寒いのではなくて。……その、クラリッサは社交の場でメイベルを見かけないか? このところ、お茶会を欠席し続けているだろう? どうしているのかと思って……」



 体調を崩しているのではないか、それならお見舞いに行けないものか。

 これまで離宮を出たことがないディーンが、そこまで考えていた。

 メイベルがいなくなってしまった穴は大きく、精神が落ち着かない。

 いつも左隣から温かな気配を感じ、それに癒されていたディーン。

 侍従がディーンの言葉に、少し居心地が悪そうな顔をした。



「ディーンさま、あの方は婚約者とご一緒に、よくお出かけになっておりますよ。今まで引きこもりだったのが噓のよう! 先日も、絵画展で見かけましたわ。ご心配なさらずとも、お元気そうでしたよ。どうやら仲良くやっているようですから」



 クラリッサの言葉が、ディーンにはよく理解できなかった。



「婚約者? それは誰か別の人のことではないの? メイベルの婚約者は僕だよ」



 戸惑うディーンに、クラリッサは妖艶な笑みを浮かべて告げる。

 それは、ずっと侍従が言い出せなかったことだ。



「ご存じなかったのですね。ディーンさまの婚約者は私に変わったのです」

「え? ……どうして?」

「私がディーンさまのお茶会に呼ばれた日のことを思い出してください。これまでになく会話が弾んで、楽しい時間だったでしょう? それを伝え聞いた王さまが、考えを改められたのです。私とのほうが相性が良さそうだと。もともと婚約の打診をいただいたのは私だったんですよ。ただ、父がちょっと心配性で断ってしまって……私はディーンさまの目が見えなくても、もちろんお傍にいたいと思ってましたわ」

「そんな……」



 ディーンは青ざめる。

 そして自分の態度を思い返した。

 目が見えるようになって、メイベルと話した回数は数えるほど。

 だが、盲目だったころから沈黙が続いても、居心地のいい関係だったのだ。

 会話が弾むとか、そうしたことに重きを置いてはいなかった。

 メイベルの気配を感じられるだけで、幸せだったのだ。

 クラリッサはそういう対象ではない。

 ジョージがクラリッサから交流を学ぶようにと言ったから、ディーンはなるべくクラリッサから多くのことを聞き出そうとした。

 クラリッサがしゃべらないことには、情報が引き出せないからだ。

 なるべく早く学びたかった。

 そしてメイベルと一緒に、パーティへ行ってみたかった。

 もの知らずなままでは離宮から出られない。

 ディーンが離宮に閉じこもっているせいで、メイベルが他の誰かにパーティでエスコートをされているかもしれないと思うと、矢も楯もたまらなかった。

 そうした必死さが、ジョージに異なる解釈をさせた。

 うまくいきそうならば取り替えてしまえと。

 目が見える者には分からないのだろう。

 そこに漂う空気に、それこそ見えない色がついていることが。

 メイベルと一緒にいるときのディーンは、常に恋の色をした空気をまとっていたはずだ。

 初顔合わせのときから、メイベルに惹かれていた。

 こんなに温かい人が婚約者になってくれるのだと、嬉しかった。

 青痣があったことで、盲目のディーンの婚約者になったのだと察しはついた。

 だがディーンの目が見えるようになったのならば、もっと高位の令嬢を娶ったほうが王家のためになる。

 ジョージは他人に容赦なく、自分の考えを押し付ける人だ。

 ディーンにもメイベルにも、気持ちがあるというのに。

 クラリッサがお茶会に参加したときから、これは決められていたゴールだったのだろう。

 会話が弾んだとか、楽しい時間だとか、そういうのは口実だ。

 最初から、クラリッサがディーンの婚約者になるように、仕組まれていたのだ。

 今頃それに気がつくなんて。



(メイベルは、いつ気がついたのだろうか?)

 

 ディーンがクラリッサと会話をしている横で、どんな顔をしていただろう。

 顔色をうかがう習慣のないディーンは、メイベルの顔をあまり見なかったことを思い出した。

 ただ静かにお茶を飲んでいたメイベル。

 そしてお茶会に来なくなったメイベル。

 きっとメイベルも、ジョージの企みが分かったのだ。

 だから自らお茶会を欠席して、身を引いた。

 ディーンの思い違いでなければ、メイベルはディーンを嫌ってはいなかった。

 むしろ心を通わせる瞬間があったし、好意を寄せてくれていたように感じた。

 ディーンはメイベルと結婚するつもりだった。

 二人の未来を想像していた。

 それなのに口実を与えてしまったせいで、メイベルと繋がっていた縁を切られてしまう。

 それだけではない。

 ディーンが熱心にクラリッサと話していたせいで、メイベルにいらぬ誤解をさせたかもしれない。



(君が好きなのに――!)

 

 苦しくてたまらなかった。

 かきむしりたいほど、心が痛い。

 本当に大切にしなくてはいけない人を、放ってしまった自分を悔やむ。

 もうすべてが手遅れなのだろうか。

 すがる気持ちでディーンはクラリッサに尋ねた。

 

「メイベルの婚約者というのは、どういう人だろう? メイベルを……大切にしてくれる人だろうか」

「サンダーズ伯爵家の嫡男で、魔法剣士のマシューさまですわ。とても剣の腕がよいそうですよ。銀髪に濃い紫目の精悍な顔立ちは、令嬢に人気がありますの。お見かけした絵画展では、メイベルさまを丁寧にエスコートしておりましたし、メイベルさまもあれほどの美丈夫ならば満足されているのでは?」

 

 聞かなければよかった。

 メイベルを思って苦悶するディーンと違い、メイベルはもう先を見ているのか。

 ディーンのことは忘れてしまったのか。

 絶望だった。

 ディーンは見えているはずの目から、光が抜け落ちたように感じた。



(メイベル、君が遠い……)



 ディーンは、知らずにまた左腕をさすった。