耳に残るサイレンの音が遠くから聞こえてくる。私たちを追いかけている警察官たちがすぐそこまで来ているという合図だった。星空が見え始めた一月の夕暮れ。広大な海が目の前に広がり、少し荒れた潮風が流れてきて塩っぱい味が口の中に入ってくる。私は両手を上げて背中を気にしていた。背後には血に塗れたナイフが突きつけられている。ナイフを突きつけている咲の表情は複雑だった。私を連れ去ったことで逃げきれなかったことへの後悔と、もうすぐ楽になれるという安堵の思いが同時に込み上げているように私は感じる。彼女の顔は数時間前よりさらにやつれていた。一方で私も背中にナイフを突きつけられている恐怖と彼女の死の気配を察して複雑な顔をしていたのだと思う。私と咲は一歩ずつ前へと進む。暗がりから微かに見える彼女のナイフを握る手は汗ばみ震えていた。

「由香里、もうすぐお別れだね」
「お別れって、どういうこと?」
「飛び降りようと思うの。この先から」
「そんな……」
 悲しげだけど喜んでいるような調子で彼女はこう言った。彼女の言葉には普段から多くの含みがあった。この時もおそらくいくつかの意味があったと思うのだが、私はすぐに彼女の本意には気づけなかった。なぜならば、私たちは断崖絶壁の先の方へと歩んでいるからだ。私はこのまま彼女と飛び降りることになるのだろうか? 少なくとも私はそう感じた。死への恐怖が私の心に芽生えたが、同時に、ああ、私はこのまま彼女に突き落とされても仕方のない人間なのだとも考えた。だって、私は彼女の苦しみにずっと気づけなかったから。私たちは一歩、また一歩と崖の先へと歩んでいく。

「孔雀座は結局見れなかったな……」
 彼女は残念そうにしながらも呑気な声で一言呟いた。咲がどうしてここまできたのかを私は知っていたが、この言葉に私は何も言えずにいる。なんて言えばいいのかが咄嗟に判断できなかった。一歩、一歩と進むと次第に崖の先の全てを飲み込むような荒波が下の方から私たちを覗き込んできた。私はこのまま助かるのだろうか。それとも彼女と共に死ぬのだろうか。日が沈み、近くにある灯台の灯りだけが私たちを照らしている。日が沈んだことで彼女の顔が見えなくなっていく。その暗闇の中で彼女はすすり泣いていた。彼女の涙をすする音が聞こえてくるのだ。

 サイレンの音がさっきよりも近づいてきた。数分後にはこの辺りは警察官たちに囲まれているのだろう。咲は私と一緒に崖の下へと飛び降りようとするかもしれない。まもなく全てが終わろうとしている。太陽が沈んでいった海の遠くの水平線を眺めながら私は彼女との死を覚悟した。何台ものパトカーが遂に私たちの後ろまで到達し、取り囲んだ。私と彼女の周りは一瞬のうちに明るくなって、後ろに目を向けると彼女の覚悟決めた顔が見てとれた。パトカーの群れから大勢の警官が現れた。警官の一人が叫ぶ。
「警察です! こっちに来て話を聞いてください!」
 咲はそれを聞くと、私の首元を掴んでから体を警官たちの方に向けた。それから私の体を自分の方へ近づけてナイフを首元に突きつけて、警官たちに向かって叫んだ。
「動かないで! 動いたらこの子を殺す!」