文房具メーカーの新入社員である三船京子は、会社内にある女子トイレに入った。

 鏡に映る自分の顔を見て思わずため息を吐く。

 低い鼻に小さな目、黒縁の眼鏡が野暮ったさを助長している。

 田舎から出てきたばかりの三船は、同期の女の子達から発せられるキラキラした可愛さに圧倒されていた。

 彼女達の周りには男性社員が代わる代わる訪れ、仕事中も楽しそうに談笑をしている。

 三船に仕事の要件以外で声を掛けてくれる男性社員はいなかった。

 たった一人を除いて。

 鏡で前髪の分け目を入念に整えてからトイレを出ると、自分のデスクへと一旦戻る。

 完成した企画書を手に持って、先輩である田中満の元へと向かった。

 思わずスキップしそうになるぐらい軽い足取りで並んだデスクの間を進んでいく。

 妙に丸まった猫背が見えてきた。

 こめかみに眼鏡の縁が食い込んだ丸い横顔は、お世辞にも格好良いとは言えない。

 でも、どんな相手にも分け隔て無く平等に接する姿は素敵に見えた。

 人として尊敬していた気持ちは、いつからか別の感情へと変わっていた。

「田中さん、お疲れ様です。企画書が完成しました」

 田中は無言で振り返り、眼鏡の位置を直すと企画書を読み始めた。

「動物消しゴムの企画通ったんだね、おめでとう。入社して半年で企画通したのって、僕の知る限り三船さんが初めてだよ」

「ありがとうございます、田中さんのご指導のお陰です」

 田中は喜びの感情を隠しきれないように口元を歪めた。

「いやぁ、これは三船さんの実力だよ。よく頑張ったね」

 それだけ話すと会話が途切れてしまい、妙な間が空いた。田中は企画書を三船に返しながらモニョモニョと聞き取れない独り言を言うと、パソコンの方に体を戻した。

 三船は勇気を出して一歩踏み込んだ。

「あ、あの、企画が通ったので、ご褒美を下さい」

「ご褒美? えっ、なに?」田中は怪訝そうな顔をしながら振り返る。

「今日、仕事の後に飲みに連れて行ってくれませんか?」

 予想外の返答に驚いたのか、田中は素早く瞬きを繰り返した。

「いいよ、こっちから誘ったらセクハラみたいになるからあれだけど。そっちからなら大丈夫だから。まあ、とにかく、要するに、いいよ」

「良かった。あっ、あと連絡先教えて下さい」

 携帯電話を取り出し、メールアドレスと電話番号を交換する。

「ありがとうございます。私がお店を予約しちゃいますね、駅前にあるチェーン店の居酒屋でいいですか?」

 その時、三船の背後から声が聞こえた。振り返ると、田中と同期入社の高橋が立っていた。女性社員の間では、チャラいと噂をされている人物だ。

「いいなー、俺も一緒に連れて行ってよ。三船ちゃん、予約は三人でお願いね」

「おい、これは三船さんの企画が通ったお祝いなんだから、営業のお前には関係ないだろ」

「けちな事を言うなよ、お祝いなら人数が多い方が良いだろ。それに、お前にはモデルの美人な彼女がいるんじゃないのか? 女性と二人で飲みに行くのはまずいだろうが」

 田中は真っ赤な顔で高橋を睨み「やっぱり行かない」と言い捨てると、またパソコンのモニターに向き直ってしまった。

 三船は田中に彼女がいた事を知りショックを受けた、しかも美人のモデルだなんて。

 高橋は三船の顔を覗き込みながら、芝居がかったリアクションをした。

「あれ、まさかこいつにモデルの彼女がいること知らなかったの? おい、三船ちゃんに自慢の彼女の写真を見せてあげなよ」

 田中は何も言い返さずに、じっとモニターを凝視している。

「なんだよ、事実なんだから拗ねる事はないだろうよ。まあ、でも行かないって言うなら仕方ないよね。せっかくだから二人で行こうよ、駅の裏側に美味しいイタリアンの店があるんだ。もちろん、俺は彼女いないから安心してね」

 田中が真っ赤な顔だけをこちらに向けて、怒鳴り声を上げた。

「仕事の邪魔だから、ナンパならどっか他所でやってくれないか!」

 高橋は肩をすくめた。

「そんなに怒るなって、三船ちゃんがびっくりしちゃうだろ、可哀想に。まあ、邪魔みたいだからさ、あっちでゆっくり話そうよ」

 真っ白になった頭で何とか言葉を返す。

「すみません。今日の飲み会は中止にして、また今度の機会にお願いします」

 それだけ言うと、逃げるようにデスクへと戻った。

 背後からは田中の怒鳴り声と、高橋の笑い声が響いていた。



 翌日、翌々日と田中は会社を休んだ。

 この間の事が原因じゃないかと不安になり、三船は田中にメールを送ってみたが返信は無かった。

 土日休みを挟んだ月曜日、憂鬱な気持ちで出社する。

 今日も来なかったらどうしよう。

 三船は気になってオフィスの入り口を何度もちらちら見てしまう。

 始業の十分前に田中が出社してきた。目にクマが出来ており、少し頬がやつれていた。

 二日間休んで陰鬱な雰囲気で出社した田中を会社の同僚達は遠巻きに注視している。

 緊迫した空気を切り裂くように高橋が登場した。

「おっ、やっと来たか。おはよう! 会社さぼって何やってたんだよ」

 笑顔でちょっかいを出す高橋を無視して、田中は自分の席に座ると、すぐに机に突っ伏してしまった。

 そんな様子はお構いなしに高橋は田中の丸まった背中をバシバシと叩く。

「どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」

「高橋さん、やり過ぎですよ」三船は止めに入るため、駆け寄った。

 田中は近くにいる人だけに聞こえる声量でボソボソと呟いた。

「モデルの彼女が死んだ、自殺した」

 高橋は背中を叩いていた手を空中で止めた。数秒間その場で硬直し、今度は優しく田中の肩へと手を置く。

「そうか、それは辛いな。茶化して悪かった。もうちょい元気になったらさ、飲みにでも行こうや」それだけ言うと、高橋は離れていった。

 三船も丸まった背中に優しく手を置く。

「私に出来る事があれば、何でも言って下さい。辛いでしょうから無理しないで下さいね」

 その日の夜、三船の携帯電話の着信が光った。田中から心配を掛けた謝罪と励ましてくれたお礼が書かれたメールが届いていた。すぐに返信をする。

 なんとなく、その日から毎日メールをするようになった。

 少しでも田中の気休めになれば良いと思って始めたメールだったが、次第に来るのが待ち遠しくなっている事に三船は気付いていた。 

 そんな日々が数週間ほど続いた頃、土曜日の昼過ぎにいつものように田中からメールが届いた。

「お疲れ様です。三船さんはお菓子とか作るのかな? 家にあった彼女の持ち物を整理していたんだけど、ハンドミキサーとかお菓子作りの道具が沢山出てきて処分に困っています。もし良かったら貰ってくれないかな?」

 三船は少し悩んでからメールを返した。

「はい、よく趣味でお菓子を作るので、頂けるなら嬉しいです」

 すぐにメールが返ってくるかと思いきや、なかなか返信が来ない。

 手持ち無沙汰だったので、掃除機をかけていると携帯の着信が光った。

 恐ろしいほど長文で回りくどい文章だったが、要約すると会社で渡すのは恥ずかしいから家まで取りに来て欲しいという内容だった。

 いつでも取りに来て良い、という文章の後に家の住所が書かれていた。

 三船は興奮で震える指で返信用の文を打った。

 書いては消し、書いては消しを繰り返す。

「今から行ってもいいですか? せっかくなので受け取るついでに田中さんの家でクッキーを焼いてプレゼントさせて下さい」と書いて、また何度も読み返す。

 少し図々しいかとも思ったが、三船は覚悟を決めて送信ボタンを押した。

 ふぅーと息を吐き出し、ベッドへと倒れこんだ。
 太陽が西に傾いている。田中から部屋の片付けをしたいから二時間後に来てくれとメールが返ってきたので、家に着く頃には夕方になっていた。

 男性の家に入るのが初めての三船は緊張していた。汗で湿った手のひらをスカートで拭く。

 玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが細く開き隙間から田中が顔を出した。

「どうぞ」とだけ言うと、田中はそそくさと中に入ってしまった。

「お邪魔します」と言いながら玄関をくぐる、頑張って片付けたのか部屋の中は綺麗だった。芳香剤の匂いが充満している。

 靴を脱ぎ、廊下の先にある六畳ほどの部屋に向かう。

 田中は季節外れのコタツに座っており、メガネの位置を直しながらテレビを見ていた。

「あの、私はどこに座ればいいですか」

「どこでも好きに座って、くつろいでくれて良いから」

 適当にコタツの手前側に座り、近くのスーパーで買ってきたクッキーの材料を床に置く。

 何をしていいか分からず、とりあえず一緒にテレビを眺めることにした。

 しばらくそうしていると田中が唐突に「これなんだけど」と、テーブルの上に大きな紙袋を取り出した。

 中を覗くと、新品のように綺麗なお菓子作りの道具が詰まっていた。

「ありがとうございます。早速クッキー作っちゃいますね、オーブンはどこにありますか?」

「オーブン? 電子レンジのこと?」

「電子レンジにオーブン機能が付いてるやつですか?」

「いや、オーブン機能を使ったこと無いから分からないけど、たぶん付いてると思うよ」

 見た方が早いと判断して、三船は立ち上がった。

 冷蔵庫の上に乗った電子レンジを見ると、オーブン機能のついていない代物だった。

「田中さん、オーブン機能付いて無いですよ。これじゃあ、クッキー作れないです」

「えっ、そうなの? パンを焼くトーストの機能はあるけど、それじゃあ無理かな」

「クッキーはオーブン機能が無いと無理ですね。明日にでも私が家で作るので、後日それを渡しますよ」

 田中は露骨に残念そうな顔をしながらも、せっかく来たのだからとコーヒーを淹れてくれた。

 それを飲みながら、いつもメールでやり取りしているような世間話をした。

 長いこと話しをしているうちに、いつもなら避けていた亡くなったモデルの彼女の話題になった。

 田中は彼女との思い出を語りながら、目に薄らと涙を滲ませる。

「田中さんは彼女のことが大好きだったんですね」

 そう言って三船はテレビの横に飾られた写真立てを眺めた。

 額の中にいる女性の笑顔は、同性の私でも見惚れるほどに美しかった。

 社内では美人なモデルと交際している田中を嘘つき呼ばわりする人も多かった。

 ただ、三船には付き合っていたモデルの女性の気持ちが理解出来る気がした。

 無愛想で見た目もそんなに良くは無いけど、それ以上に温かい人だからだ。

 会話が止まり、横から視線を感じた。顔を向けると、田中と視線が絡み合った。

「ごめん、こんな話をしちゃって。でも、いつまでも引きずってちゃダメだな。今日は来てくれてありがとう、久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ」

 三船は笑顔を返す。

「私なんかで良ければ、いつでも話し相手になりますよ」

 田中の手が伸びて、テーブルの上に置かれた三船の手と重なった。その手は小さく震えていた。

 三船は手を握り返す。

 このままキスをされるのかと身構えたが、しばらくすると田中は手を離し「ちょっと、ごめん」と言いながらトイレに行ってしまった。

 取り残されてしまった三船は、ぼんやりとこの後の事を想像する。

 シャツの襟元を人差し指で引っ張り、念のため下着を確認しておく。

 視線を前に戻して、点けっぱなしだったテレビを眺める、夜のニュースが始まったところだった。

 ニュースキャスターが読み上げる原稿を聞き流していると、テレビ画面に人の顔写真が映った。

 三船は息を呑んだ、テレビ画面に写っている女性と写真立てに写る女性がどう見ても同一人物だったからだ。

 しかも、ニュースキャスターは殺人事件と言ったような気がした。

 全身の血の気が引いていく。

 テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、音量を上げる。

 男性キャスターのはっきりした声が耳に飛び込んできた。

「今朝未明、モデルの花山香さんと見られる遺体が発見されました。遺体は山の中に埋められており、刃物で複数回刺された形跡が残っています。警察は殺人事件として犯人の行方を追っています」

 トイレの水を流す音が聞こえて、慌ててテレビの電源を切る。

 田中は「ごめん、ごめん、お待たせ」と呟きながら、三船の背後を通って所定の位置に戻った。

 三船は動揺がバレないように咳払いを一つ吐いた。

「あ、あの、失礼なことお聞きしますが、亡くなられた彼女のお名前って何ですか?」

「なんでそんなこと聞くの?」

 心臓が激しく鼓動して、呼吸が浅く速くなる。

「いえ、なんとなく気になって」

「彼女の名前は花山香。今でも瞼を閉じると彼女の姿が目に浮かぶよ。でも、今日、三船さんが来てくれたお陰で新たな人生に一歩踏み出せた気がするんだ。この気持ちは本気だよ」

 田中の手が再び伸びてきた、「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げながら思わず手を引っ込める。

 田中は驚いた顔で三船を見ていたが、すぐに笑い出した。

「なんだよ、失礼だな! ちゃんとトイレ行った後に手は洗ったよ!」

 三船は必死で笑顔を返そうするが、顔が引き攣ってしまい上手く出来ている自信が無かった。

 手探りでカバンを掴み立ち上がると、玄関へと走った。

 靴を履き潰してドアノブを捻る、鍵が掛かっていて開かない。部屋に上がる際に律儀に鍵を閉めた事を後悔する。

 すぐ後ろから田中の足音が聞こえた、恐怖で体が固まる。

「なんで、急に帰るの? 手を握ったことは謝るよ、ごめん」

「違うんです。突然用事を思い出してしまって、急いで帰らないといけなくて」

 田中は三船の前に手を伸ばした、恐怖で悲鳴を上げそうになる。

「これ、忘れてるよ」

 田中の手には、お菓子作りの道具が入った紙袋とクッキーの材料が入ったスーパーの袋があった。

「クッキー楽しみにしてるから」

「はい」と答えながら袋を受け取り、鍵を開けて部屋を飛び出した。

 駅に向かって走る、息が切れる限界まで走り、後ろを振り返る。どうやら追い掛けては来ていないようだ。

 手に持った袋を道路に投げ捨てると、派手な金属音が鳴り響いた。

 カバンから携帯電話を取り出し警察に通報した。
 刑事である草野周作は取調室へと入った。
 
 灰色の壁に囲われた狭い部屋の中には、簡素な机と椅子が向かい合って並べられている。

 手前にある椅子に腰を掛けながら、草野はゆっくりと深呼吸をした。

 頭の中が酷く混乱している、全ては目の前に座っている男が原因だった。

 机に置かれた資料に改めて目を通す。

 男の名前は田中満、歳は三十歳、株式会社石倉文具に勤める会社員、小太りで眼鏡を掛けた、どこにでもいそうな冴えない男だ。

 田中は十日前に遺体が発見されたモデル殺人事件の容疑者として逮捕されており、すでに九日間の勾留と取り調べを受けていた。

 草野は容疑者の男の顔を覗き込む、疲れ果てた虚な目で机の一点をじっと見つめていた。

「田中さん、毎日同じ質問をして申し訳ないですけど、花山香さんが亡くなった時の状況を教えてくれますか?」

 ゆっくりと頭を上げた田中は、声を絞り出すように話し始めた。

「恋人だったモデルの花山香さんは自宅で首を吊り、自殺をしていました」

「本当に花山さん本人でしたか?」

「恋人を見間違えるはずがありません」

「亡くなられているのは確認しました?」

「確認しました、間違いありません」

「では、なぜその場で救急車や警察を呼ばなかったんですか?」

「怖くて、咄嗟に逃げてしまいました。すみません」

「その後は、家には行かなかったんですか?」

「すみません、本当に怖くて。何も出来ませんでした」

「花山さんとの交際期間は?」

「約一年前からです。ただ、彼女のモデルという仕事柄、お互いに周囲には秘密にするよう約束していました」

「秘密の交際ねぇ」

 草野はボールペンで頭を掻いた。

「じゃあ次に、事件について警察が捜査して分かっている事を話します。花山さんは、一ヶ月前から失踪していて家族から捜索願が出されていました。遺体は山の中に埋められていて、刃物による十数箇所の刺し傷があります。遺体の損傷が激しく正確な死亡推定時刻は割り出せませんでしたが、失踪したのと大体同じ時期に亡くなっていると考えられます」

 草野は一度言葉を切り、反応を見た。田中は焦点の定まらない目を空中に向けていた。

「田中さん、あなたが話した内容と矛盾している点がありますよね?」

 田中は俯いてしまい話す気配が無い。

「あなたは花山さんが首を吊って自殺していたと話しましたよね? なぜ、自殺した花山さんが刺殺された遺体として見つかっているんですか?」

「分かりません」

「いや、分からない訳が無いでしょう。単刀直入に聞くけど、田中さんが花山さんを殺害したんじゃないですか?」

「違います、私は殺していません!」

「そうですか。では、花山さんは首を吊って自殺をしたが奇跡的に生き返って、その後にまた何者かによって殺害されたという事ですか? こんな話が現実的だと思いますか?」

「分かりません」

 草野は力任せに拳でテーブルを叩いた、田中の体がビクッと跳ね上がる。

「分かりませんじゃないんだよ、警察を舐めてんのか! お前が犯人なんだよ、さっさと白状しろ!」

 田中の全身をカタカタと震わせながら、消え入りそうな声を出した。

「すみません。でも、僕は犯人じゃないんです」

 草野は鼻で息を吐きながら椅子の背もたれに体重を預けた。

 しぶとい奴だ、このままじゃ埒があかない。

 草野は諦めて取調室を後にした。

 デスクに戻ると、直属の上司である吉田の元に向かった。

「お疲れ様です。今、よろしいでしょうか」

 吉田は熊のような巨大をゆっくりと動かし、草野に視線を向けた。

「モデル殺人事件の容疑者の件だろ、何か喋ったのか?」

「依然として被害者の女性は自殺したと供述しており、殺害に関しては否認しています。なかなか口を割らないので苦戦しています」

「たぶん無理だな」

 予想外の言葉に驚き、草野は反応が遅れた。

「えっ、無理ですか?」

「長年やってきた刑事の勘だが、あいつは人を殺せる人間じゃあないよ。殺してないものを話すことは出来ない。それより、問題はなぜ自殺したと供述しているかだ」

「別にいる真犯人を庇っているか、捜査を混乱させるのが目的でしょうか」

 吉田は太い腕を組み、にんまりと笑った。

「草野も刑事課に配属してもうすぐ一年になるか、鋭い考え方が出来るようになったじゃないか」

「ありがとうございます、吉田さんの教育のお陰です。しかし、私にはやはり田中が犯人のように思えてしまいます」

 吉田は声を出さずに頷いた。その時、草野の背後から声が掛かった、振り返ると同じ刑事課の同僚が立っていた。

「吉田さん、お話し中に失礼します。田中満の家宅捜索の結果が出ました」

「おぉ、どうだった。なんか証拠は出たか?」

「それが、何も出ませんでした。被害者の毛髪や指紋、血痕など、証拠は何一つありませんでした」

「やはりそうか、これで別に犯人がいる可能性が高くなったな。田中の携帯電話やパソコンの通信記録はどうだ?」

「そちらも同様で、被害者と通信した記録は見つかりませんでした」

 吉田は顎に生えた髭を手で撫でる。

「田中は被害者と恋人関係に合ったと供述してるのに、通信記録が全く無いのはおかしいな。可能性があるとすれば、田中は被害者のストーカーをしていて、勝手に交際していると思い込んでいたパターンか? そういえば、通報者の女性の事情聴取の方はどうなってる?」

「通報者の三船京子は、田中の職場の後輩です。ここ最近で親しい関係になったようで、通報を行った当日は田中の家にいたようです。一か月程前から田中は、恋人だったモデルの花山香が自殺したと社内で話していたそうです」

「そうか、分かった。じゃあ引き続き関係者の聞き込み捜査を行なってくれ」

「分かりました」そう返事をすると、報告に来た刑事は離れて行った。

 吉田は忌々しそうに顔を歪めた。

「目撃者や証拠は何一つ見付かってないのに、真偽不明な証言をしている容疑者だけがいる。これは、かなり面倒な事件だな」

「田中の勾留期間を延長するのは可能でしょうか?」

「犯行を否認しているし、物証も出てこない以上は難しいだろうな。明日には釈放だよ」

「そうですか。では、もう一度取り調べに行ってきます。奴は絶対に犯行に関わっているはずです。必ず自白させてやりますよ」

「何だかやけに張り切ってるな。刑事になったばかりで手柄が欲しいのは分かるが、あんまり無茶な事はするなよ」

「はい、分かっています。失礼します」

 草野は頭を下げ、その場を後にする。

 どんな手を使ってでも田中に犯行を自白させてやる。これはまたとないチャンスだ。
 田中は留置所から釈放され、十日ぶりに自宅へと帰った。

 厳しい取調べにより、心も体も疲弊し切っていた。ベッドに寝転がり、天井を見つめる。

 ポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れた。

 沢山のメールと留守番電話が入っていたが、三船からの着信は一つも無かった。

 せっかく良い雰囲気になれたのに、なんとか誤解を解かなければ。

 ピンポーン、玄関のチャイムが鳴った。

 無視しようかと思ったが、誰が来たのかを確かめずにはいられなかった。

 淡い期待が胸を掠める。

 玄関を開けると見慣れた刑事が立っていた。

「夜分遅くにすみません、警視庁の草野です。今、お時間よろしいでしょうか?」

 内心断りたい気持ちもあったが、何故こんな時間に訪ねてきたのか気になる。

「はい、大丈夫です。どうしたんですか?」

「実は緊急の要件でして、被害者の遺体が見付かった現場のすぐ近くで遺留品が見つかりました。それを確認して欲しくて来ました。すぐに帰るので少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか?」

「どうぞ、上がって下さい」

 田中は廊下を進みコタツに座ると、草野は向かい側に腰を下ろした。

 白い手袋をはめていた草野は、カバンの中からチャックの付いた袋を二つ取り出した。

 袋にはそれぞれネックレスとナイフが入っていた。

 草野は袋から二つとも取り出すと、テーブルの上に置いた。

「すでに鑑識によって隅々まで調べ終わっています。どうぞ、手に取って近くで確認して下さい」

 田中はネックレスに伸ばした手を途中で止めた。

「もしかして、この場で僕の指紋を着けて、殺人事件の証拠にするつもりじゃないでしょうね」

 草野はニヤリと笑った。

「鋭いですね・・・・・・なんて、冗談です。今の警察で証拠の捏造なんて行ったら、鑑識に一発でバレますよ。そんな事したら、私一人のクビだけじゃ収まらない大問題に発展します」

 田中は納得してネックレスを手に取った、シルバーで十字架をモチーフにしたものだ。

「どうですか? 見覚えはありませんか?」

「初めて見ます」

「花山さんだけではなく犯人が所持していた可能性もあります。誰かがそのネックレスを身につけていたのを見た記憶もありませんか?」

「いえ、やはり見覚えは無いです」

 続けて田中はナイフを手に取った、柄の部分が茶色い木で出来ていた。

 柄の部分を右手で掴み、皮で作られたケースから引き抜くと十五センチ程度の鋭い刃が出てきた。

 デザイン自体はどこにでもありそうなものだった。

「これも見た事はありません」

 田中はナイフをケースに戻すと、テーブルの上に置いた。

「そうですか、ありがとうございます」

 要件を終えた草野はすぐに帰るのかと思ったが、田中の顔をじっと見つめたてから口を開いた。

「ここだけの話なんですが、田中さんはすでに容疑者から外れています。ですから、花山さんが自殺をしたと話していた理由を教えていただけませんか。嘘をついたままでは何らかの罪に問われる可能性もあります。また取調べを受ける羽目になりますよ」

 もう、嘘をつき続けるのは限界だった。

「容疑者から外れたことが分かって安心しました。全てをお話しします。その代わり、恥ずかしいので会社の人間には秘密にして貰うことは出来ますか?」

 草野は笑顔を見せた。

「捜査に必要な場合を除いて、警察が事件の内容を一般の方にお話することはありませんのでご安心下さい」

「分かりました、信用します。ご存知の通り、モデルの花山さんは自殺などしていません。そもそも僕は会った事すら無いんです。交際していたと嘘ついていたのは、見栄を張っていただけなんです」

「見栄ですか?」

「そうです。会社で彼女がいないことを同僚から馬鹿にされて、それでインターネットで偶然見付けたモデルの花山さんを彼女だと周りに言ってしまいました」

 草野は納得したように頷いた。

「なるほど。では、なぜ架空の彼女だった花山さんを自殺したことにしたのですか?」

「それは、会社の後輩である三船さんを好きになってしまったからです。架空の彼女の存在が邪魔になり、普通に別れたと言うよりも自殺したと言った方が同情してもらえると思ったからです」

「なるほど、そういう事情だったんですね。それで運悪く花山さんの殺人事件に巻き込まれてしまったと」

「そうです、逮捕された時に素直に話せば良かったんですが、三船さんに嘘がバレるのだけはどうしても嫌だったんです。気付いた時にはもう大事になってしまって、言い出せなくなっていました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。明日、警察署でもう一度この事を話します」

「そうですね、その対応で結構です。ちなみに、この事は他の人にも話しましたか?」

「いえ、誰にも話していません」

 田中はずっと胸につかえていたものが取れて、意外にも気分は晴れやかになっていた。

 ついでに気になっていたことを聞いてみる。 

「ところで、犯人の目途はもうついているのですか?」

「今のところそれらしき人物は見付かっていません。ただ、犯行の動機になりそうな情報は掴みました」

「犯行の動機ですか?」

「花山さんについて調べたところ、周囲の人には秘密で、複数の金持ちの愛人をしていた事が分かりました。もし交際相手がいたのなら、それが原因で犯行に及んでもおかしくはないと思います」

「なるほど。まあ、確かに裏切られた気持ちにはなるでしょうけど、殺しまでしますかね? 殺人鬼の思考は恐ろしいですね」

「えぇ、実に恐ろしい男ですよ。しかも、未だに目撃者も証拠も何一つ見つかっていません。犯人は、何か犯罪に対する専門的な知識を持った人物かもしれませんね」

 草野の発言が頭に引っ掛かった。

「えっ、今、証拠はまだ見つかって無いって言いましたか? じゃあ、このネックレスとナイフは何ですか?」

「あぁ、このネックレスは花山香が愛用していた物で、ナイフも犯行で使われた物ですよ」

 草野はテーブルの上のナイフを手に取り、ケースから引き抜くと同時に田中に覆いかぶさった。

 田中は何が起きたのか分からず驚いていると胸に猛烈な痛みが走った、叫ぼうとする口を白い手袋が覆う。

 大量の温い液体が体の外へ溢れ出ていくのを感じる、視界がぼやけて全身から力が抜けた。

 草野がナイフから手を離した、テーブルに置いてあったネックレスを田中の首に掛ける。

 遠ざかっていく意識の中で草野の声が聞こえた。

「私の代わりに花山香を殺害した罪を被っていただき、ありがとうございます。せっかくなので、そのまま死んで下さい。あの世で香ちゃんに会ったら伝えて貰えますか、浮気するような女は地獄に落ちろと」

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