魔族の里ではその夜、盛大な宴が催された。
崩壊した建物は、魔族たちの力を駆使して修繕されていった。富める者も貧しい者も、そこには何の線引きもない。やがて、戦地に赴いていた兵たちが帰還すると、皆で兵器撃退を祝った。
陽気な笛の音、打楽器が弾む音、軽快なステップを踏み、フィーネをはじめとする踊り子が場を盛り上げる。酌み交わす酒は進んでゆき、痛みを強さに変えてゆく。エレノアはこの日はじめて、イェリの森の夜を見た。昼間は陽光が差さない森であるのに、夜間にはどうしてか月が現れている。
(木々に覆われていて空は見えないはずなのに、不思議…)
ほう、と息を吐く。
踊り疲れてしまったエレノアは休憩をかねて木々の下に腰をおろしていた。
エレノアは胸がいっぱいだった。人間であることを知ってもなお、魔族たちは己を受け入れてくれた。騙していたことが申し訳なかった。でも、彼らは口々にいう。人間は憎いし、恐ろしい。だが、エレノアはそうじゃない。
過去に一度、人間に裏切られた事実がある。それなのに気にしないのかと問えば、エレノアが軽薄であるなら、身を呈してまで魔族の民を守護しない――と笑いとばしてきた。
見返りを求めていたわけではなかったが、生まれてから十六になるまで離宮で暮らしていたエレノアにとって、皇女としてでなく、何よりも己自身を見てもらえたことは、これまでになかったように思えた。
魔族たちの怨恨を晴らすなど、簡単ではない。だが、真摯な気持ちで向き合えば、必ず伝わるのだ。
だが、ぼんやりと月を見上げていると、うら寂しくなる。
帝国に戻れば、しばらくは会いに来れなくなる。もっとも、離れがたいのは――。
(オズは、どこかしら…)
思い立ったように立ち上がり、周囲を見回してオズの気配を探した。一歩、森の奥へと足を踏み入れる。不思議とこのまま進んでいくとオズがいるような気がした。
地面から盛り返している根っこを踏み越え、奥へ奥へと進む。すると、光り輝くヒカゲ草と宝石のような花々に迎えられた。その中心には黒翼の王が立っている。おそらくオズの魔術により、先王が眠るこの場所に導かれたのだろうとエレノアは思った。
「すごい…まるで光る草原みたい…」
オズはエレノアを一瞥する。エレノアがそばに寄ると、何も言わずに月を見上げた。
「ねえ、オズ、戦ではケガはしなかった?」
エレノアが問いかけると、オズは静かに口を開く。
「ああ」
「私、すごく心配していたのよ…? 帰ってこなかったらどうしようって、すごく、怖かったの」
エレノアとオズだけが共有する空間。もう誰も傷つけあってほしくはなかった。とくにオズにおいてはことさらに。
エレノアは、他者にこれほど強い感情を抱いたことはなかった。
「何故か、俺も、そうだった」
オズは月のような瞳をエレノアに向ける。
「おまえがおらぬ世は、恐ろしい」
「…本当?」
「ああ、そうだ」
「ふふ、なんだか、とてもうれしい」
エレノアは胸をどきどきさせ、一方で締め付けられるような切なさをも感じていた。オズはしばらくエレノアを見据えたかと思うと、光る花々が咲き誇る最奥へと足を進めていく。
ついてこいと言われている気がして、エレノアはあとを追いかけ、ため息をつく。奥ばった場所に一枚の古びた絵画があった。
「これは…」
「城内に飾られているものは、これの片割れにすぎぬ」
神々しいまでに輝く白い女神。その下部に並んでいるの人間のようなもの。そして、それらと向かい合うようにして黒い鳥――魔神デーモスと、魔族たちが描かれている。一つの太陽の下で、手を取り合う。
まさしく、この絵の片割れは城内に飾られていた宗教画と一致していた。
「かつて、先王が言った。古よりも昔、人間と魔族はもとより、手をとりあって暮らしていたのだと」
「…!」
「そしてこの絵画を俺に見せ、母の存在を語った」
何千年も争いあっているものだと思っていた。それが理なのだとすら思っていた。だが、創生の時代においてはそうではなかった? それが真実なのだとすれば、何故サンベルク帝国で語り継がれていないのか。何よりもこの絵画が証明だというのに。
「だが、魔神は女神を手にかけた。人間は我らを忌み、謀った。我らの憎しみもまた、消えることはない」
「…オズ」
「エレノアに問う。おまえは、それでも、何を願うか」
エレノアは大きな絵画を見つめ、ほう、と息を吐いた。とても繊細に描かれている。きっと画家が後世に伝えるべく、魂を吹き込んだに違いない。
「きっと、この絵がすべてなのだわ。私たちは、もとに戻らなければならない。もう誰も傷つかない、誰も犠牲にしない。人間はあるべきものを魔族に返し、魔族は太陽の下で暮らす。富める者も貧しい者も、人間も、魔族も皆等しい。お互いに、力をあわせて生きていく」
大それた夢見事かもしれない。だが、エレノアには湧いて出てくる力があった。
「私、ぜったいにくじけない。…オズのおかげよ。オズと出会えて、私は強くなれた」
オズは何も言わずにエレノアを見つめる。風が吹き付けると、白銀の髪が風になびいて流れていった。
「片時も離れぬのでは、なかったか」
「…っ、」
「何故――…これほど、離れがたい」
月光に照らされた美麗な顔。愛おしさがあふれ、エレノアはたまらずにオズの胸に抱き着いた。
「オズ…、すきよ」
はじめて口にした気持ち。ああ、そうだこんなにも愛おしい。エレノアは胸が苦しくなり、泣きそうになった。
オズはしばし目を見張ると、やがて納得したようにエレノアを大きな翼で包み込んだ。
「ああ、俺も、おまえを愛している」
女神オーディアの声を聞く帝国のエレノアと、魔神デーモスの生き写しであるオズ。交るべきではないといくら反対されようと、お互いの気持ちは強固であった。
離れがたい。このままそばにいたい。エレノアとオズ、そのどちらかが欠けてしまってはならなかった。
しばし見つめ合い、どちらともなく唇を重ねた。
月のように澄んだオズの瞳が目の前にある。冷たい口づけに心までが解かされていき、魂ごと惹かれあっていることを実感する。
「必ず、迎えにゆく」
「…オズ」
「約束だ。ともに、生きるぞ」
エレノアは涙ぐみながら頷いた。
瞳に憂いを宿していた王は愛を得た。
孤独な夜を嘆いていた娘は、愛を得た。
やがてエレノアとオズは、ヒカゲ草の中へと倒れこむ。
光り輝くヒカゲ草と、花々。そしてまん丸とした月に見守られながら、エレノアとオズはその身を一つにした。
崩壊した建物は、魔族たちの力を駆使して修繕されていった。富める者も貧しい者も、そこには何の線引きもない。やがて、戦地に赴いていた兵たちが帰還すると、皆で兵器撃退を祝った。
陽気な笛の音、打楽器が弾む音、軽快なステップを踏み、フィーネをはじめとする踊り子が場を盛り上げる。酌み交わす酒は進んでゆき、痛みを強さに変えてゆく。エレノアはこの日はじめて、イェリの森の夜を見た。昼間は陽光が差さない森であるのに、夜間にはどうしてか月が現れている。
(木々に覆われていて空は見えないはずなのに、不思議…)
ほう、と息を吐く。
踊り疲れてしまったエレノアは休憩をかねて木々の下に腰をおろしていた。
エレノアは胸がいっぱいだった。人間であることを知ってもなお、魔族たちは己を受け入れてくれた。騙していたことが申し訳なかった。でも、彼らは口々にいう。人間は憎いし、恐ろしい。だが、エレノアはそうじゃない。
過去に一度、人間に裏切られた事実がある。それなのに気にしないのかと問えば、エレノアが軽薄であるなら、身を呈してまで魔族の民を守護しない――と笑いとばしてきた。
見返りを求めていたわけではなかったが、生まれてから十六になるまで離宮で暮らしていたエレノアにとって、皇女としてでなく、何よりも己自身を見てもらえたことは、これまでになかったように思えた。
魔族たちの怨恨を晴らすなど、簡単ではない。だが、真摯な気持ちで向き合えば、必ず伝わるのだ。
だが、ぼんやりと月を見上げていると、うら寂しくなる。
帝国に戻れば、しばらくは会いに来れなくなる。もっとも、離れがたいのは――。
(オズは、どこかしら…)
思い立ったように立ち上がり、周囲を見回してオズの気配を探した。一歩、森の奥へと足を踏み入れる。不思議とこのまま進んでいくとオズがいるような気がした。
地面から盛り返している根っこを踏み越え、奥へ奥へと進む。すると、光り輝くヒカゲ草と宝石のような花々に迎えられた。その中心には黒翼の王が立っている。おそらくオズの魔術により、先王が眠るこの場所に導かれたのだろうとエレノアは思った。
「すごい…まるで光る草原みたい…」
オズはエレノアを一瞥する。エレノアがそばに寄ると、何も言わずに月を見上げた。
「ねえ、オズ、戦ではケガはしなかった?」
エレノアが問いかけると、オズは静かに口を開く。
「ああ」
「私、すごく心配していたのよ…? 帰ってこなかったらどうしようって、すごく、怖かったの」
エレノアとオズだけが共有する空間。もう誰も傷つけあってほしくはなかった。とくにオズにおいてはことさらに。
エレノアは、他者にこれほど強い感情を抱いたことはなかった。
「何故か、俺も、そうだった」
オズは月のような瞳をエレノアに向ける。
「おまえがおらぬ世は、恐ろしい」
「…本当?」
「ああ、そうだ」
「ふふ、なんだか、とてもうれしい」
エレノアは胸をどきどきさせ、一方で締め付けられるような切なさをも感じていた。オズはしばらくエレノアを見据えたかと思うと、光る花々が咲き誇る最奥へと足を進めていく。
ついてこいと言われている気がして、エレノアはあとを追いかけ、ため息をつく。奥ばった場所に一枚の古びた絵画があった。
「これは…」
「城内に飾られているものは、これの片割れにすぎぬ」
神々しいまでに輝く白い女神。その下部に並んでいるの人間のようなもの。そして、それらと向かい合うようにして黒い鳥――魔神デーモスと、魔族たちが描かれている。一つの太陽の下で、手を取り合う。
まさしく、この絵の片割れは城内に飾られていた宗教画と一致していた。
「かつて、先王が言った。古よりも昔、人間と魔族はもとより、手をとりあって暮らしていたのだと」
「…!」
「そしてこの絵画を俺に見せ、母の存在を語った」
何千年も争いあっているものだと思っていた。それが理なのだとすら思っていた。だが、創生の時代においてはそうではなかった? それが真実なのだとすれば、何故サンベルク帝国で語り継がれていないのか。何よりもこの絵画が証明だというのに。
「だが、魔神は女神を手にかけた。人間は我らを忌み、謀った。我らの憎しみもまた、消えることはない」
「…オズ」
「エレノアに問う。おまえは、それでも、何を願うか」
エレノアは大きな絵画を見つめ、ほう、と息を吐いた。とても繊細に描かれている。きっと画家が後世に伝えるべく、魂を吹き込んだに違いない。
「きっと、この絵がすべてなのだわ。私たちは、もとに戻らなければならない。もう誰も傷つかない、誰も犠牲にしない。人間はあるべきものを魔族に返し、魔族は太陽の下で暮らす。富める者も貧しい者も、人間も、魔族も皆等しい。お互いに、力をあわせて生きていく」
大それた夢見事かもしれない。だが、エレノアには湧いて出てくる力があった。
「私、ぜったいにくじけない。…オズのおかげよ。オズと出会えて、私は強くなれた」
オズは何も言わずにエレノアを見つめる。風が吹き付けると、白銀の髪が風になびいて流れていった。
「片時も離れぬのでは、なかったか」
「…っ、」
「何故――…これほど、離れがたい」
月光に照らされた美麗な顔。愛おしさがあふれ、エレノアはたまらずにオズの胸に抱き着いた。
「オズ…、すきよ」
はじめて口にした気持ち。ああ、そうだこんなにも愛おしい。エレノアは胸が苦しくなり、泣きそうになった。
オズはしばし目を見張ると、やがて納得したようにエレノアを大きな翼で包み込んだ。
「ああ、俺も、おまえを愛している」
女神オーディアの声を聞く帝国のエレノアと、魔神デーモスの生き写しであるオズ。交るべきではないといくら反対されようと、お互いの気持ちは強固であった。
離れがたい。このままそばにいたい。エレノアとオズ、そのどちらかが欠けてしまってはならなかった。
しばし見つめ合い、どちらともなく唇を重ねた。
月のように澄んだオズの瞳が目の前にある。冷たい口づけに心までが解かされていき、魂ごと惹かれあっていることを実感する。
「必ず、迎えにゆく」
「…オズ」
「約束だ。ともに、生きるぞ」
エレノアは涙ぐみながら頷いた。
瞳に憂いを宿していた王は愛を得た。
孤独な夜を嘆いていた娘は、愛を得た。
やがてエレノアとオズは、ヒカゲ草の中へと倒れこむ。
光り輝くヒカゲ草と、花々。そしてまん丸とした月に見守られながら、エレノアとオズはその身を一つにした。