「何故、オズワーズ様と人間のエレノアが…」
「マンマ、どういうこと…? 人間は悪い奴らなんだよね…? でも、エレノアは僕たちを守ってくれたよ…?」
「それに、あの神々しい力は…いったいなんだ?」
民衆の混乱は瞬く間に広がり、誰もがオズとエレノアを見つめていた。
オズはエレノアの肩を抱いたまま、鋭く冷たい瞳で対魔族兵器を見据える。サンベルク帝国の兵士はこと切れる手前で搭乗席から這い出てくる。
すかさずすっと右手をかざし、オズが力を溜めたが、エレノアはその手に自らの手を重ねて制した。
「殺さ、ないで…」
オズは表情を変えることなくエレノアを一瞥する。
「何故だ」
「あなたの手は、民を守るためにある、から」
「逃がせば、おまえは」
「私は、大丈夫よ。皇帝陛下に事情を、話して、納得して、いただくもの」
エレノアは自分がいったい何をなしたのか、理解に及んでいなかった。一歩間違えればサンベルク帝国の兵士の命を奪いかねなかったのだ。もしもオズが現れなかったらと思うと恐ろしくなる。
唯一感じ取っていたのは、彼らの中に作用していた女神オーディアの加護の力をエレノアが根こそぎ奪っていたことだ。頑丈なつくりをした装甲はただの鉄さびになり果て、崩れ落ちた。女神オーディアへ祈りを捧げて、民に加護を与えるだけでなく、その逆も可能だということなのか。
(いいえ、そのようなことはこれまでに一度だってなかったのに)
あの時は、魔族たちを守りたい一心だった。そのために、我が祖国の兵を排斥しなければならないと強く願ってしまった。
兵が逃亡すれば、一連の出来事が軍部、そしてサンベルク皇帝に筒抜けになる。そうすれば、もう自由にイェリの森に出向くことはできなくなるだろう。
だが、それでも命までは奪いたくはなかった。
「エレノアよ。おまえは、優しすぎる」
「…ありがとう。オズ」
オズは振り上げた右手を下ろすと、空間移転の魔術を使ってサンベルク帝国の兵士たちを森の外へと追いやった。
そしてようやくエレノアは魔族の民に意識を傾ける。戸惑いの表情を浮かべるものが大半であったが、キキミックは泣きべそをかきながらエレノアの胸の中に飛び込んできた。
「エレノアァァ~、よくぞご無事でぇぇ!」
もふもふとした毛玉を抱き留め、エレノアは苦笑を浮かべる。
「心配をかけてごめんなさい。キキミック」
「肝を冷やしたぞぉぉ!」
「でも、皆を守ることができてよかったわ」
人間を過剰なまでに恐れているはずのキキミックの行動に、民衆は目を丸くした。極めつけにはオズの態度だ。エレノアの願いを聞き入れ、人間を殺すことをやめるなどとは信じられたものではなかった。
「エ、エリィ…あんた」
「エレノアお姉ちゃん…」
キキミックに続いて人間の姿をしたエレノアに声をかけてきたのは、フィーネとベスであった。困惑した表情を浮かべつつも、エレノアを受け入れようとしている。
「騙していて、本当にごめんなさい。フィーネ、ベス」
「なんで…魔族に成りすましてまで、人間の、それも帝国の皇女のあんたが、こんなところに?」
ベスはフィーネの背後に隠れながら、エレノアを見つめている。
「いろいろと事情があって、イェリの森でオズと知り合ったの。この世界に関してあまりに無知だったものだから、どうしても、あなたたちのことが知りたかった。だから無理をいって、オズにお願いをして連れてきてもらっていたのよ」
「あたしたち、を…?」
「ええ、そして、ここで生活をしてみて、分かった。魔族の世界は、とてもあたたかくて、素敵だった。私も、彼らの生活を守ってあげたいと思った」
「でも、あたし、あんたの前で人間の悪口を言った。それに、人間の肉のことだって、それ聞いて、何も感じなかったのかよ…」
「…もちろん、悲しかったわ。でもね、それが事実なのでしょう? ならば私は知るべきだった。当然、このままの状態にしておくつもりはないわ。人間も、魔族も、尊厳を保って生きるべきよ」
「なんで、そんな…あんたは」
信じてもらえないかもしれないが、エレノアは本心をありのままにさらけ出した。ベスの視線に合わせるようにしゃがみこむと、少し驚いた様子だったが、やがて安堵したように微笑んでくれる。
「僕、エレノアお姉ちゃんに、二回も助けてもらったんだ…」
「ベス…」
「すごく、かっこよかった。人間だけど、僕、エレノアお姉ちゃんは嫌いになれないよ」
エレノアはその言葉が、今に涙してしまいそうなほどにうれしかった。ベスが鼻水を垂らしながらエレノアに抱き着く。フィーネは我慢の限界がきたように、エレノアとベス、キキミックごと抱き締めた。
「~っ、馬鹿野郎! あんな兵器に、一人で立ち向かう阿保がどこにいるんだよ!」
「フィーネ…」
「死んじまうかと思ったじゃないか! 人間だって分かってても、エリィを失うことが怖かった! せっかく、せっかく友達になれたのに!」
「うわあああん、エレノアお姉ちゃーん!」
「くっ、苦しいぞ! ガキども、離れぬか!」
エレノアを取り囲んでいた魔族たちの緊張も解けていく。そこに憎しみの感情はなかった。
エレノアが身を呈して魔族の民を守護したことが確固たる証明であった。
「皆の者! 我らの里は、人間のエレノアが守ってくれたぞ!」
「……ありがとう! エレノア!」
「人間だけど、あなたは好きよ!」
しばらく呆けてしまうほどに、そこら中から熱烈な声援が聞こえてくる。エレノアはたまらずに目頭が熱くなった。
フィーネはひと呼吸置くと、あらためて深妙な面持ちで口を開く。
「それにしても、本当に大丈夫なのかよ。あの兵士たちを逃がしちまって。そうしたら、エレノアは…」
「エレノアお姉ちゃん、もうイェリの森には来られなくなっちゃうの…?」
哀惜を帯びた目で見つめてくるフィーネとベスに、エレノアは曖昧な笑みを浮かべた。
「分からない。でも、ちゃんと説得をするつもりよ」
「そんなのやだ! ずっとここにいてよ!」
「…そうね、そうしたい気持ちは山々なのだけれど、それではあなたたちを救うことができないわ。かえって迷惑をかけてしまうことになる。それに、帝国の中にも目を背けてはならない問題があるって気づいたの」
エレノアの脳裏に浮かんだのは、ニールの靴磨きの少年ナットであった。
もし女神オーディアの加護そのものが関係しているのならば、エレノアが変革をしなければならない。もちろん、フィーネやベス、それにオズとこのままずっと一緒にいられたのならと思わなくはなかった。
「じゃあ、せめて今晩だけはいてくれよ! 頼むから!」
「えっと……」
「それならいいだろ? あのクソ兵器を撃退した勝利の宴、主役のエリィがいなくちゃはじまらないだろ!」
エレノアが落胆していると、すかさずフィーネが肩を組んでくる。とっさにオズを見やると構わないといった具合であった。
エレノアが帰還しないことでキャロルやターニャが心配をするだろうことは分かっていた。だが、今後しばらくは自由に赴くことができなくなることを考えると、エレノアの中の天秤は大きく揺れた。
このひと時だけ我儘を言っても、女神オーディアは怒らないだろうか。心の中で唱えると、女神オーディアは寛容な様子であった。
ベスに手を引かれて、広場の中へと連れられていく。エレノアは観念をして、崩壊した建物の修繕を手伝った。
二
ハインリヒ・ローレンスは激昂していた。
状況報告をするために執務室に入ってきた兵士たちに激を飛ばす。
「なぜおめおめと逃げ帰ってきた!」
ハインリヒが叱責すると、兵士たちは覇気をなくしてうつむいた。目立った外傷はないものの、瞳にも躰にも活力というものが感じられなかった。
「皇女殿下がおられたのであろう!? 何故、お守りしなかった!」
「…はっ、それが、皇女殿下は魔族どもを、擁護する態度をとられて、おりまして…そして、突如得体のしれぬ力により、機体が制御不能となったので、ございます。我々も、その…なんと仰ればよいか…」
「だから、命からがら逃げてきたと?」
「申し訳…ございません! それから、黒翼の王が現れ、皇女殿下を庇いたてるようにしたのち、我々のみを森の外へと排除いたしました」
堅実な性格をしているハインリヒであったが、この時ばかりは苛立ちをあらわにした。
(何故、皇女殿下が忌々しい黒翼の王と…!)
ハインリヒにとって、エレノアは高潔で清らかな存在であった。まるで女神そのものであるように、誰にも汚されてはならない存在であった。幼き頃から憧れ、慕い、月に一度の祈り日にはかかさずに出向いていたほど。
伴侶候補には己こそが相応しいと考えていた。敬虔なエレノアを支え、時に守り、より強固なサンベルク帝国を築き上げてゆくものだと思っていた。
だが、そのエレノアがハインリヒの誘いを断った。軍人の若長であるハインリヒよりも、辺境の地の少年を優遇し、極めつけには処遇を不問にしろとの命を下した。ハインリヒには甚だ理解ができなかった。
女神オーディアの加護を授からない辺境の地の民など、高貴なエレノアに相応しくない。ましてや、魔族の王などと――。
「私は、認めぬぞ…」
忌々しい!
忌々しい!
忌々しい魔族の王!
(あのお方は、私の伴侶となるのだ…!)
エレノアは心優しい。だから、口車にのせられて妙な影響を受けてしまったに違いない。もしくはなんらかの弱みを握られて、魔族の王に脅迫をされているのやもしれない。そうでなければ、甚だ可笑しい話だ、とハインリヒは急いた。
「私が、目を覚まさせてやらねば」
だが、策はある。
ハインリヒは瞳に執着の炎を燃やし、伝令を告げた。
魔族の里ではその夜、盛大な宴が催された。
崩壊した建物は、魔族たちの力を駆使して修繕されていった。富める者も貧しい者も、そこには何の線引きもない。やがて、戦地に赴いていた兵たちが帰還すると、皆で兵器撃退を祝った。
陽気な笛の音、打楽器が弾む音、軽快なステップを踏み、フィーネをはじめとする踊り子が場を盛り上げる。酌み交わす酒は進んでゆき、痛みを強さに変えてゆく。エレノアはこの日はじめて、イェリの森の夜を見た。昼間は陽光が差さない森であるのに、夜間にはどうしてか月が現れている。
(木々に覆われていて空は見えないはずなのに、不思議…)
ほう、と息を吐く。
踊り疲れてしまったエレノアは休憩をかねて木々の下に腰をおろしていた。
エレノアは胸がいっぱいだった。人間であることを知ってもなお、魔族たちは己を受け入れてくれた。騙していたことが申し訳なかった。でも、彼らは口々にいう。人間は憎いし、恐ろしい。だが、エレノアはそうじゃない。
過去に一度、人間に裏切られた事実がある。それなのに気にしないのかと問えば、エレノアが軽薄であるなら、身を呈してまで魔族の民を守護しない――と笑いとばしてきた。
見返りを求めていたわけではなかったが、生まれてから十六になるまで離宮で暮らしていたエレノアにとって、皇女としてでなく、何よりも己自身を見てもらえたことは、これまでになかったように思えた。
魔族たちの怨恨を晴らすなど、簡単ではない。だが、真摯な気持ちで向き合えば、必ず伝わるのだ。
だが、ぼんやりと月を見上げていると、うら寂しくなる。
帝国に戻れば、しばらくは会いに来れなくなる。もっとも、離れがたいのは――。
(オズは、どこかしら…)
思い立ったように立ち上がり、周囲を見回してオズの気配を探した。一歩、森の奥へと足を踏み入れる。不思議とこのまま進んでいくとオズがいるような気がした。
地面から盛り返している根っこを踏み越え、奥へ奥へと進む。すると、光り輝くヒカゲ草と宝石のような花々に迎えられた。その中心には黒翼の王が立っている。おそらくオズの魔術により、先王が眠るこの場所に導かれたのだろうとエレノアは思った。
「すごい…まるで光る草原みたい…」
オズはエレノアを一瞥する。エレノアがそばに寄ると、何も言わずに月を見上げた。
「ねえ、オズ、戦ではケガはしなかった?」
エレノアが問いかけると、オズは静かに口を開く。
「ああ」
「私、すごく心配していたのよ…? 帰ってこなかったらどうしようって、すごく、怖かったの」
エレノアとオズだけが共有する空間。もう誰も傷つけあってほしくはなかった。とくにオズにおいてはことさらに。
エレノアは、他者にこれほど強い感情を抱いたことはなかった。
「何故か、俺も、そうだった」
オズは月のような瞳をエレノアに向ける。
「おまえがおらぬ世は、恐ろしい」
「…本当?」
「ああ、そうだ」
「ふふ、なんだか、とてもうれしい」
エレノアは胸をどきどきさせ、一方で締め付けられるような切なさをも感じていた。オズはしばらくエレノアを見据えたかと思うと、光る花々が咲き誇る最奥へと足を進めていく。
ついてこいと言われている気がして、エレノアはあとを追いかけ、ため息をつく。奥ばった場所に一枚の古びた絵画があった。
「これは…」
「城内に飾られているものは、これの片割れにすぎぬ」
神々しいまでに輝く白い女神。その下部に並んでいるの人間のようなもの。そして、それらと向かい合うようにして黒い鳥――魔神デーモスと、魔族たちが描かれている。一つの太陽の下で、手を取り合う。
まさしく、この絵の片割れは城内に飾られていた宗教画と一致していた。
「かつて、先王が言った。古よりも昔、人間と魔族はもとより、手をとりあって暮らしていたのだと」
「…!」
「そしてこの絵画を俺に見せ、母の存在を語った」
何千年も争いあっているものだと思っていた。それが理なのだとすら思っていた。だが、創生の時代においてはそうではなかった? それが真実なのだとすれば、何故サンベルク帝国で語り継がれていないのか。何よりもこの絵画が証明だというのに。
「だが、魔神は女神を手にかけた。人間は我らを忌み、謀った。我らの憎しみもまた、消えることはない」
「…オズ」
「エレノアに問う。おまえは、それでも、何を願うか」
エレノアは大きな絵画を見つめ、ほう、と息を吐いた。とても繊細に描かれている。きっと画家が後世に伝えるべく、魂を吹き込んだに違いない。
「きっと、この絵がすべてなのだわ。私たちは、もとに戻らなければならない。もう誰も傷つかない、誰も犠牲にしない。人間はあるべきものを魔族に返し、魔族は太陽の下で暮らす。富める者も貧しい者も、人間も、魔族も皆等しい。お互いに、力をあわせて生きていく」
大それた夢見事かもしれない。だが、エレノアには湧いて出てくる力があった。
「私、ぜったいにくじけない。…オズのおかげよ。オズと出会えて、私は強くなれた」
オズは何も言わずにエレノアを見つめる。風が吹き付けると、白銀の髪が風になびいて流れていった。
「片時も離れぬのでは、なかったか」
「…っ、」
「何故――…これほど、離れがたい」
月光に照らされた美麗な顔。愛おしさがあふれ、エレノアはたまらずにオズの胸に抱き着いた。
「オズ…、すきよ」
はじめて口にした気持ち。ああ、そうだこんなにも愛おしい。エレノアは胸が苦しくなり、泣きそうになった。
オズはしばし目を見張ると、やがて納得したようにエレノアを大きな翼で包み込んだ。
「ああ、俺も、おまえを愛している」
女神オーディアの声を聞く帝国のエレノアと、魔神デーモスの生き写しであるオズ。交るべきではないといくら反対されようと、お互いの気持ちは強固であった。
離れがたい。このままそばにいたい。エレノアとオズ、そのどちらかが欠けてしまってはならなかった。
しばし見つめ合い、どちらともなく唇を重ねた。
月のように澄んだオズの瞳が目の前にある。冷たい口づけに心までが解かされていき、魂ごと惹かれあっていることを実感する。
「必ず、迎えにゆく」
「…オズ」
「約束だ。ともに、生きるぞ」
エレノアは涙ぐみながら頷いた。
瞳に憂いを宿していた王は愛を得た。
孤独な夜を嘆いていた娘は、愛を得た。
やがてエレノアとオズは、ヒカゲ草の中へと倒れこむ。
光り輝くヒカゲ草と、花々。そしてまん丸とした月に見守られながら、エレノアとオズはその身を一つにした。
*
幻想的に輝くヒカゲ草の光がエレノアの白銀の髪を照らした。エレノアは、オズの大きな翼にすっぽりと包まれたまま、寝息を立てていた。
この夜、エレノアは破瓜の血を流し、オズと初夜の契りを交わした。愛おしく、離れがたく、魂ごと求めあった。オズはエレノアの白糸のような髪に指を通し、慈愛を込めた眼差しを向ける。
魔族の里の広場では夜通し宴が催されている。民衆は眠ることも忘れて踊りに明け暮れ、唄を歌って士気を高めているだろう。だが、この場にはオズが許した者以外は立ち入ることができない。このひと時だけはエレノアとオズだけの静かな夜であった。
オズはエレノアの寝顔をただ見つめる。陶器のごとく澄み切っている素肌に爪を立てぬように気遣った。ほんの少し力を入れたのなら折れてしまうほどに、細い躰だった。人間だ。人間であるのに、夢中で己の名を呼ぶエレノアがどうにも愛おしい。
オズを支配していた憎しみの感情が、愛により塗り替えられていく。空虚的だった瞳に、優しさが浮かぶ。ひだまりのような女だと、オズは思った。
(何故、これほどまでに)
オズの翼の中で眠るエレノアは、頬をほんのりと染めて寝言をいった。
夜が明ければ、エレノアは魔族の森を去る。
夜が明ければ、エレノアに触れられなくなる。
いっそどこかに連れ去り、隠してしまえばよいとも思うほどには、オズはエレノアを愛してしまっていた。思えば、森の中ではじめてエレノアを目にした時から、オズは己の中の異変に気付いていた。
(魂が、訴えかけてくる)
オズの中の、さらに奥。いくら人間が憎かろうと、エレノアから目が離せないのだ。
サンベルク帝国からの進軍を迎えうった時、戦地にて相手側の動きへの違和感を覚えた。おそらくはこちらが陽動であり、真の目的はオズ不在の魔族の里を陥落させることにあるのだと早々に察した。
魔族の民を案じる気持ちもあったが、まず脳裏に浮かんだのはエレノアであった。今頃はキキミックとともに里にいる。
万が一、死なれたら――…。
気づけば、躰が反射的に動いていた。空間を転移し、燃え盛る森の中で光り輝いているエレノアの姿を見た。対魔族兵器から民衆を庇うように、たった一人で立ち向かっている。
ふらつく躰をそっと抱き寄せ、……ああ、今己は安堵をしているのか、と悟った。これ以上はあまり前に出てくれるなと思った。同時に、一つ間違えればエレノアの息の音を奪っていたやもしれぬ人間の兵士を憎く思った。
(今に殺してやる)
消さねば、エレノアが魔族と通じていた事実が伝わる。そうすれば、エレノアの立場が危うくなる。魔族の民を蹂躙しようと目論む人間は、一人残らず殲滅せねばならない。振りかざしたオズの手をエレノアは制した。
エレノアは争いを望まない。
たとえ人間への怨嗟がオズの生きる理由であったとしても、エレノアはそれを願わないのか。
噛み砕くごとに、頑なだったオズの意思は、人間の娘により溶かされていく。
エレノアが願うのなら、叶えてやりたい。
エレノアがそばにいるのなら、憎まずとも生きてゆける。
憎しみを愛情が上回る。人間と魔族が手を取り合うなどとは、世迷言であったはずだ。だが、エレノアが信じたいという。ともに生きるために戦うと。オズがいるから強くなれたのだと。
――眩しい。あたたかく、高潔で、まさに皆を天照す光のごとき娘だ。
「ん…オズ、どうしたの?」
しばらくエレノアを見つめていると、寝ぼけ眼を向けてきた。
「私…いつのまにか、眠って…しまって」
「よい。眠っていろ」
「で…も、今夜、は、オズと、もっと…」
「眠れ。躰に障る」
人間はか弱い。イェリの森の夜は寒いのではないかと思い、翼でくるんで抱き締めてやる。エレノアは甘えるように身を寄せると、再び規則正しい寝息を立てた。
片時も魂は離れない。
必ず、迎えにいく。――…約束だ。
翌朝、オズはエレノアをイェリの森の出口まで送り届けた。エレノアは昨夜の出来事を恥じらいながらも、より強固なオズとの繋がりを得た心地になった。
しばらく会えずとも、愛の力が己を強くする。常に背後からオズが抱き締めてくれているような感覚がして、エレノアは心強く思った。
「エレノア皇女殿下…! よくぞご無事で!」
ニールの町中にはサンベルク帝国の兵士の姿が多くあり、切羽詰まった様子でエレノアを出迎える。その中には女騎士のターニャの姿もあった。
「…もぉぉぉ~、あなたというお人は! ターニャは肝が冷えましたぞ!」
「ごめんなさい…その、この様子だともうご存じよね…?」
「ええ! そうですとも! 乗馬によほど熱が入られたものだと軽んじていたこのターニャの落ち度でございました。また、どうしてイェリの森などに…!」
「私は世界の真実をただ知りたかったの。けれどその…、黙っていたことは、申し訳なかったわ」
ターニャは謹厳な態度で口を開く。
ターニャは生真面目な人間だ。女騎士としても誇り高くあろうとし、己の中の正義を全うする。この度の一件の責は己にあると、すべてを背負い込んでほしくはなかった。
「まあ、皇女殿下…! よかった!」
ターニャは厳しい顔つきをしたまま、それ以上は何も言わなくなった。そして次に駆け寄ってきたのはキャロルであった。
「キャロル女官長…、心配をかけてごめんなさい」
エレノアを優しく抱き締める。
「ええええ、心配しましたよ。でも、ご無事で何よりでした」
「…私は、本当に何もされていないの。本当よ」
「……ええ、キャロルは分かっております。エレノア皇女殿下は、さまざまなものに触れたのでしょう」
エレノアはこの人たちに迷惑をかけたいわけではなかった。キャロルも、ターニャも、大好きだ。人間も好ましく、魔族も好ましい。だから余計に争いあってほしくはないのだ。
「おやまあ…顔つきがずいぶんと…変わられましたねえ…」
キャロルはエレノアの表情をまじまじと見つめると、穏やかに笑いかけてくる。エレノアはふとキャロルの持前の勘の鋭さにどきりとした。
「そ、そうかしら…」
「ええ、離宮から出られたばかりの頃より、ずいぶんと…たくましい御顔をされております。きっと、よい出会いがあったのですね」
「ずっと言えなくて、ごめんなさい」
「女には、口にできぬことの一つや二つは、あるものです。それに…」
キャロルはエレノアに耳打ちをする。
「ハインリヒ様が、中に」
「…!」
「皇女殿下の身を案じておられますわ」
「ええ、すぐに、向かうわ」
昨日の件で、早々にハインリヒのもとに報告が入ったのだ。おそらく、父であるサンベルク皇帝の耳にも届いている。この辺りに集められているサンベルク帝国の兵士たちも、ハインリヒの部下であるだろう。己を王都へ連れ戻しに来たのだ、とエレノアは背筋をすっと伸ばした。
応接室の扉をノックし、中から高潔な男の声が聞こえてくる。エレノアが扉を開けると、豪奢な甲冑をまとったハインリヒが立っていた。
「おお……! エレノア皇女殿下! よくぞご無事で!」
恭しく礼をとるハインリヒを目の当たりにして、エレノアは表情を引き締める。
「…この度はご心配をおかけいたしました。ハインリヒ様。また、先日のお茶のお誘いにおかれましては、無礼を働いたこと、誠に申し訳ございませんでした」
エレノアはハインリヒの面子を潰してしまった。そればかりか、今度はイェリの森でサンベルク帝国の兵士たちを呵責した。愛想をつかされているだろうと思ったが、エレノアを見るハインリヒの目にはなお敬愛の念が込められている。
「滅相もございません。またお誘い申し上げようと思っていたところでございました故。……それにしても、ああ、本当によかった」
「あ…」
エレノアは、ハインリヒの熱意から視線を逸らしたくなった。
「昨日の件、部下より報告がございました。エレノア皇女殿下の身に何かあれば、と。このハインリヒ、生きた心地がいたしませんでした」
「……」
「いったい何故、あのような場所に? 魔族どもに、何か、脅されていたのでは?」
「そのようなことはございません」
「清らかな皇女殿下が、あのような、陽もささぬ汚れた場所にあってはなりません。ああ……もしくは、御心を操る魔術でもかけてられておられたのでしょう!」
野心を宿す力強い瞳。快活な声はよく応接室に響き、エレノアの胸に突き刺さった。ハインリヒは己の正義を疑わない。曲げない。それは、サンベルク帝国の民の性質、そのものであった。
「ハインリヒ様、私は」
「ですが、もうご安心ください。今後は、このハインリヒがあなた様のおそばでいつまでもお守り申し上げます」
「…っ、私は、」
「エレノア皇女殿下はこの世の神秘。あんな醜い魔族の王の隣に並ぶなど、あってはならな――…」
エレノアはそこで沸点が上がった。
「それ以上、何も言わないで。彼を、魔族を、侮辱することはこの私が許さないわ」
エレノアはこのようにあからさまな敵意を誰かに向けたことなどなかった。たとえ、エレノアが愛すべきサンベルク帝国の民であろうとも、許容できない発言であった。
眉を吊り上げるエレノアに、ハインリヒは押し黙った。そして、さらにエレノアは告げる。
「王都に戻りましょう。皇帝陛下に私から、じきじきに申し立てをしたいと思っているの」
「なっ…、何を、仰るのですか」
「それから、ハインリヒ様。あなたからの求婚のお話も。せっかくよくしていただいたのに、ごめんなさい。私には、伴侶にしたい方がいる。だからあなたの気持ちに応えることが……できない」
迷いのない言葉だった。
エレノアの中には常にオズがいる。オズのぬくもりを今でも忘れていない。オズからの愛以外、迎え入れることはできないだろう。
離宮から出たばかりの頃は、まさか己がこれほどまでの激情を抱くことになるとは思いもしなかった。恋など愛など、少しも語れなかった。だがどうだろう、オズと離れてからはより一層、強く愛おしさを覚えている。みなぎるような心強さと、胸の奥に隠れている寂しさ。
――これが、誰かを愛するということ。
ハインリヒは愕然と眼を見開き、やがて、途方もない遠くを見つめる。
「そうか……あの下劣な王め」
「…え?」
エレノアには届かぬ小さな声で呟く。そしてエレノアの前に跪くと、忠誠を誓うごとく熱烈な視線を向けてくる。
「憚りながらこのハインリヒ、それでも皇女殿下をお慕い申し上げております」
「ですから」
「ひと時の冒険譚に夢を見られたのでしょう。貴殿があるべき場所は、このサンベルク帝国。故に、あなた様を守り抜くことができるのは、この私でございます。ほかの誰でもなく」
「私は!」
「断言しましょう。皇帝陛下は、皇女殿下のお望みを聞き入れてはくださらない。……絶対に」
発言に被せるようにハインリヒが強気に述べたが、エレノアには理解が及ばなかった。何故、ハインリヒがそうだと言い切れるのか。サンベルク皇帝は慈悲深い男であることを、エレノアが誰よりも知っている。娘を真心を込めて愛し、一人の女として幸せになってほしいと願ってくれたその人が無碍にするはずがない。
まもなくして、王都へ向かう馬車が到着する。
エレノアはその日、辺境の地ニールをあとにした。
三
エレノアは眠っている間に夢を見た。視界には湖面が広がり、エレノアは水の中でぷかぷかと浮かんでいる。声を出すことはできず、ここが狭いのか広いのかも分からないままに漂っていた。
『…本当かいっ? ここに僕たちの子がいるというのかい?』
『ええ、そうよ。私とあなたの子』
『男の子だろうか、女の子だろうか』
『男の子なら、あなたに似てたくましい子に。女の子なら、そうねえ…』
『きっと君のように美しく敬虔な子に育つ』
『ふふ、あなたは、まったくもう。お上手なんだから』
湖面の外から声が聞こえてくる。だが、エレノアの視界には声の主は映らない。ただ水と光が合わさって揺れているだけだった。
(誰…かしら)
声を出したくとも、喉の奥で詰まって出てきてはくれない。エレノアに伝わってくるのは、二人の男女の愛おしさと優しさ。水の中を響く声が形容しがたく、心地がよかった。
『それに、オーディア様からお告げがあったのよ』
『へえ…なんと?』
『今度生まれてくる子は、宿願の子だって』
『じゃあ、やはり女の子ということなのか…』
『ふふ、もしかすると、そうなのかもしれない。けれど、そうね…この子には、あまり使命に縛られずに、のびのびと自由に生きてほしいと願ってしまうわ…』
柔らかい女の声。ぼんやりと湖面に姿が映り込むと、エレノアと同じ白銀の髪が見えた。顔立ちこそは鮮明に確認することができなかったが、エレノアはなんとなく己の母なのではないかと思った。
そうすると、母とともにいる男の声はサンベルク皇帝だ。
(母上…母上、エレノアはここにおります)
エレノアを産み落としてすぐに息を引き取った母。エレノアにはその記憶がなく、幼い頃から恋しく感じていた。写真もなければ、日記なども残されていない。母を知る者と知り合ったこともない。そのためエレノアは母がいったいどのような人であったのかすら知らないのだ。
『こんなことを思うなど、――…に叱られてしまうわね』
『僕たちの子だ。どんな生き方をさせようと、かまわないさ』
『ええ、本当にそうなるといい』
『ああ。愛し子よ、はやく姿を見せておくれ』
『この子は私たちの“光”。名前はそうね――…エレノアというのは、どうかしら?』
名を呼ばれると渦を巻いてエレノアが水の外へと追いやられる。あたたかな父と母の声をもう少し聞いていたかったエレノアはとっさに手を伸ばした。
(父上、母上!)
眼を開けると、高い天井が広がっている。白を基調とした豪奢な部屋。天幕越しに広々とした空間を見渡し、一人切なくため息をついた。上質なシーツ、そして大きすぎる寝台は、エレノアの寂しさを助長させ、王都に戻ってきた事実を実感させた。
(戻ってきてしまった)
己が決めた道だ。かならずやサンベルク皇帝を説得し、人間と魔族を共存に導く。そうしてオズと再会するのだと。だが、エレノアはもうすでにオズが恋しくなっている。弱音など吐いてはならぬのに、夜になるとどうにもオズの温もりを思い出してしまう。
朧月が浮かんでいる。もうすぐ夜明けか。目が覚めてしまったエレノアは、オズも見ているかもしれないと思い、寝台から這い出た。
「あれは……オーディア様が見せてくれたのかしら」
エレノアはたいてい、寝ている間に見た夢は起きたとたんに忘れてしまう。だが、先ほどの夢の内容は今でも鮮明に覚えていた。
おそらくあれはエレノアの父、サンベルク皇帝と母の声で間違いはないのだろう。そのような気がした。
「ねえ、オズ。私、母上の声を初めて聞いたの」
薄手の夜着は侍女に着せられたものだ。ここしばらくは身支度は自分でしていたが、宮殿に戻ると侍女たちがせわしなく動き回る。食事においても給士が必ず控えており、かえって落ち着かない。トカゲの串焼きを町中で立ちながらに食したなどと知れば、侍女たちは卒倒してしまうだろう。
皇女という立場がどれだけ重要であるのかは理解している。それは国にとっても、民にとっても。女神オーディアに祈りを届けられるのはこの国でエレノアただ一人。民はエレノアを神格化する。それがどうにも寂しく、魔族の里の在り方を思い出しては切なくなるのだ。
「やさしい声だった。きっと、素敵な女性だったのだわ」
オズは今頃、城内の中庭にいるのだろうか。それとも先王の眠る場所にいるのだろうか。どちらにせよ光るヒカゲ草の中に立つ王の姿は、あまりに幻想的で美しいのだろう。
エレノアは夢の内容をオズに話したかった。
己の名は母がつけてくれたのだ。父と母の“光”なのだという。自由に生きてほしいと願ってくれていた。
もしも、母が生きていたのなら、エレノアとオズが結ばれることを賛成してくれていたのかもしれない。エレノアの背中を押してくれていたのかもしれない。
――だが、母はもういない。
ふと、エレノアはハインリヒから伝えられた内容を思い出した。
(サンベルク皇帝が…父上が、反対などするわけがないわ)
父と母のひだまりのような会話。きっと、エレノアの母の腹をともに撫で、我が子への思いを語ってくれていた。これは、女神オーディアが見せてくれた、過去のとある場面の一部に違いない。
(――どんな生き方をさせようとかまわない)
サンベルク皇帝は、エレノアの幸せを誰よりも願ってくれているのだ。
神々しい大聖堂の中央にこの国で最も崇高な人間が立っていた。サンベルク皇帝は、女神オーディアの像の前に立ち、伝統的な刺繍が施された意匠のマントを靡かせている。
「サンベルク皇帝陛下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」
エレノアが礼をとると、サンベルク皇帝が振り返る。大聖堂の窓から差し込む光が、敬虔なその人の頭上に降り注いだ。
エレノアはいつになく緊張した面持ちでサンベルク皇帝の正面に立つ。
「よい。人払いは済ませている。どうか、ここでは父と」
サンベルク皇帝は穏やかに微笑むと、片手で制してくる。エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「…はい、父上」
贔屓にしているハインリヒから大方の内容は耳にしているはずだ。にもかかわらず、普段と変わらずにひだまりのような様子であった。幼き頃より敬愛しているサンベルク皇帝。
きっと、理解してもらえるに違いないとエレノアの心に花が咲いた。
「それで、エレノアからの話を聞かせてくれるかな」
サンベルク皇帝は眉を下げて微笑む。
エレノアはこぶしを握って、サンベルク皇帝を見つめた。
「…はい。私は、いいえ…我が国は、魔族に生命の源を返し、争いをやめ、ともに生きてゆく誓いを立てるべきだと進言させていただきたく存じます」
この大聖堂は女神オーディアを祭っている。エレノアは女神オーディアに誓って、嘘偽りない気持ちを述べた。
エレノアが目にしてきた魔族の民は、確かに恐ろしいが、それだけではない。
人間と同じように、いや、人間以上に文化を愛で、仲間との繋がりを重んじている。太陽を望んでいる。何故、兵器を用い、一方的なまでに奪おうとするのか。
信じたくなかった。誇るべき自国の兵士が、このような蛮行に出ていると分かった時、エレノアはやるせなくなった。落胆した。憤りを感じた。己が見てきたサンベルク帝国は慎ましく、そして高潔な国ではなかったのか。
エレノアはかねてよりサンベルク皇帝に問うてみたかった。
「ほう」
「教えてください、父上。何故、魔族の地に攻め入るのですか」
「それは、魔族がわが国の脅威になり得るだからだよ。やむを得ないことなのだ」
「…あんなにも、一方的に? 無力な民をも蹂躙する必要がございますでしょうか」
「おやおや…エレノア、話には聞いていたが、ずいぶんと魔族に肩入れをするようだね」
サンベルク皇帝はなし崩し的に眉を下げる。無礼であるとは承知の上で、エレノアは食い下がった。
「敬愛する父上に、魔族との関わりを隠匿していたことに関しましては、心よりお詫び申し上げます。ですが、彼らと接してはならない理由が、私には理解できないのです」
「危険なのだと、エレノアに話したつもりだったが?」