数里進むと、森の中に集落が見えた。サンベルク帝国の王都のような華やかさはなく、昔ながらの伝統的を重んじるような雰囲気。まだ見ぬ世界を肌で感じ、エレノアはどきどきと胸を高鳴らせた。
ほんのりとした提灯の灯り。古びた家屋。あのあたりは商店街であるのか、人間とは姿形がことなる生物がぞろぞろと歩いている。
顔がどこにあるか判別できないような黒い鬼のような生物に、トカゲのような鱗が目立つ生物。キキミックのように丸々とした毛むくじゃらの子どもが走っている風景もあった。
エレノアは思わずため息を漏らした。ここで、人類とは異なる種族が生きている。これは――…陽の光の当たらない、魔族の国。
エレノアの華奢な躰は吹き付ける猛烈な風に吹き飛ばされそうだった。だが、オズの腕は頼もしい。眼下に広がる集落を食い入るように眺めながら、エレノアはオズの硬く冷たい鱗の胸もとへと手を添えた。
エレノアの白銀の髪が流れるように宙を舞う。オズは氷のような瞳をエレノアへと向ける。
「これ…は…」
そして、先ほどから里中に響き渡っているものは――…。
「民謡だ」
「民謡…?」
見れば、広場で魔族たちが集まり、木製の何かをもって陽気に口ずさんでいる。何故か分からないが、胸の中にすっと溶けてくるような温かさがある。
はじめ、エレノアにはそれが何か検討もつかなかった。鬼のような躰をした魔族たちが、広場の中心で踊っている。酌を片手に、大らかな笑い声。サンベルク帝国内ではこのような場面を目にしたことはなかった。
「タイヨウの唄だ」
「うた…? これが……うた。はじめて、聴いたわ」
エレノアは目を閉じて、独特な音の流れを鼓膜に焼き付ける。
厳粛主義を重んじるサンベルク帝国では、怠慢につながるという理由から娯楽行為は禁止されている。
音楽もその一つであり、エレノアは生まれてこの方耳にしたことがなかった。
今から百年くらい前まではサンベルク帝国でも音楽というものは存在していたようだが、時代の流れにより姿を消していった。
外国から違法に仕入れたレコードを所持していた者が逮捕されることは稀にあるらしいが、善良な民のほとんどは音楽がどのようなものかを知らずに育つ。
エレノアにとっては、この唄が愚かしさを生む材料になるとは思えなかった。
「すごい……こんなに、素敵なものだなんて」
「イェリの森には、陽が差さぬ。だからこうして、昼間に、唄う」
空をも覆いつくす深い森。エレノアは神秘的で、とてもあたたかい民謡を耳にしながら、少しだけ切なくなった。
「唄には、気持ちが宿るのね。願いや夢が……こんなにもありありと、伝わってくる」
サンベルク帝国では、昼間から民衆が広場に集まって騒ぎたてることはまずない。年間行事も祈り日以外存在せず、それこそ特別な日でも何でもない日に友人と集って酒を酌みかわすこともないのだ。
サンベルク帝国の民はその厳粛さを誇りとしている。真面目に生きている者が女神オーディアからの加護を授かるのだとされているからだ。それなのに、魔族の里では王自ら容認している。
「あれは、何かしら…」
広場で魔族たちが肩を組んで音を刻んでいる。あれが楽器というものだろうか。金属製の何かを口に咥えた者が、パッパラー!と快活な音を鳴らすのだから驚いてしまった。
「び、びっくりしたわ……!」
「ただの、ラッパだ」
「ラッパ……」
ふわり、風が吹く。空中を飛んでいるオズにしがみつくと、広場の付近まで下降してくれているようであった。
「オ、オズ様いけません…! 里の民に、その娘を見せるわけには…!」
「――細工をしている。問題ない」
「ああ、もうっ…! お待ちを、オズワーズ様ぁぁ!」
慌てた様子のキキミックが私たちのあとをついて飛んでくる。落ちかけるマントを深くかぶって、できるだけ周囲に悟られないようにエレノアは気をつかった。
「ああ~、永久に、我らのぉ~、陽がのぼらん~」
「ああ、よいしょ!」
「碧空のもと~、手をつなぎぃ~、約束したもう~」
鋭いくちばしをもった鬼のような男たちが酌を片手に口ずさんでいる。エレノアの倍以上の体躯。それこそ人間など丸飲みできてしまうほどの巨体であり、目玉は三つついている。
彼らは、オズのような人間らしい顔立ちはしていなかった。いや、王であるオズの容姿こそが特殊なのか。
恐れを抱いていないといえば嘘になる。だが、エレノアは、それでも彼らのこと――魔族を知りたいと思った。
「魔族は…音楽が、好きなのね…」
低い位置で飛んでくれたオズは、エレノアの問いかけに何も答えなかった。
「魔族はやはり、まだ、恐ろしい……けれど」
「…」
「こんなにも、あたたかいものを愛している……そんな彼らを、とても悪い種族だとは思えないわ」
ざわざわと森が薙ぐ。弦がはじかれる音。ラッパが吹かれる音。笛の奏でる優しい音。それらが混ざり合って作られたものは、不思議と、はじめて音楽に触れるエレノアの胸の中にしみ込んできた。
「…そうか 」
オズはエレノアを一瞥すると、再び上昇してさらなる森の深みへと進んでいった。
「…いったいどうして、このキキミックが人間の娘などの世話係をせねばならないのだ!」
オズに連れられた場所は、森の中にひっそりと佇むお城だった。城内の一室を好きに使っていいと明け渡してくれたのはいいが、その他はキキミックに任せて何処かへ行ってしまった。
このお城は、豪華絢爛で格式を重んじる王都の宮殿とは大きく雰囲気が異なっていた。城壁に飾られている古い絵画に、人の手で作られたのだろう伝統的な彫り物。絨毯においても、繊細な織り方から人と魔族の文化の違いが感じられる。
また、ところどころ蔦が張り巡らされている場所もあり、お城であるというのにも気取っておらず、まるで自然と一体化している。
「お手を煩わせてしまって、ごめんなさい。キキミック」
「ふん、まったくオズ様も何を考えていらっしゃるのか。人間を里に招くなどと、前代未聞であるぞ」
エレノアはキキミックの目の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。すると、唐突な距離感に驚いたのか、目玉を大きくしたと思えば、ズザザ!と後退した。
「いっ! いきなりなんだ! 近寄ることは許していないぞ! い、いや? べ、べつに怖くなんてないんだからな!」
「驚かせてしまったかしら」
「お、驚いてなどおらぬ! にっ、人間など、我ら魔族にかかればけちょんけちょんなのだ! けっ、決して、震えてなどいらぬ!」
怯えていることは一目瞭然であった。部屋の隅っこにぴったりと収まり、ぶるぶると震えている。
「あなたは過去に、人間に嫌なことをされたのね?」
教えてくれないかもしれないが、エレノアはキキミックに問うてみたかった。
「人間は、帝国の、人間は、父様と母様を、このキキミックの目の前で斬殺したのだ!」
予感はしていた。いや、本当は受け入れたくはなかったのかもしれない。どうして魔族が人間を憎むのか――その理由をオズから直接聞いたわけではなかった。
人間が魔族に酷い仕打ちをした。だから、憎まれている。だけれども、それでも、我が祖国は女神を崇める慈愛に満ちた国であるのだと信じていたかった。
だが、これが現実なのだ。エレノアは、悲痛な叫びをただ受け止めた。
「人間は、まるで見せしめのように、父様と母様の亡骸を串刺しにし……あえて、あえて……このキキミックの目の前に差し出してきた! 悲しかった…! 恐ろしかった…! よくもそのようなことができる!!」
エレノアはショックのあまり、声を出すことができなかった。
(串刺しに…?)
キキミックは感傷的になると、愕然としているエレノアの前までとことこと歩いてくる。泣きそうな目で毛玉のような魔族を見つめるエレノアに、バツの悪そうな顔を向けてきた。
「何故おまえが泣きそうなのだ」
「…ごめん、なさい。私、あなたになんと謝れば――」
「もう、よい。そう謝罪ばかりされたとて、我らの怨嗟は断ち切れぬ」
何も知らず、離宮にてのうのうと生きていた己を恥じる。たまらずにエレノアはキキミックの丸い躰を抱き締めた。
「ぬぁ! 何をする! 離せ!」
毛を逆立てて手足を動かすキキミックの力は、人間の私にも及ばなかった。
「あなたが生きていてくれて、よかったわ」
「…は、あ?」
「だってきっと、あなたのお父様とお母様は、キキミックに生き延びてほしいと願ったはずだもの」
「な…にを」
「…人間が、ひどいことをしてしまって、ごめんなさい。怖かったでしょうに、話してくれて、心からありがとう」
キキミックは突然の抱擁に困惑した。
キキミックの知る人間はいたずらにいじめるか、迫害するか、殺そうとするか、そのいずれかだ。
だが、エレノアはまるで、自らに責任を課しているような謝り方をする。だからなおさら、変な女だと、キキミックは思った。
「と、ところで? あのサンドイッチとやらは、旨いのか?」
キキミックは困惑を誤魔化すように咳払いをする。エレノアは抱き締める力を弱めると、花が咲いたような笑みを浮かべた。
「お腹が減ったのね…! オズも食べてくれたし、まずくはないと思うの!」
「ふ、ふん! たまたま、空腹を感じていただけだからな! 人間の作ったものなど、本来は食わぬが、オズ様が召し上がったというのなら…ご相伴に預かろう」
「嬉しい! もちろんよ」
両手を合わせてエレノアは喜んだ。こしらえてきたサンドイッチを一つ手渡すと、キキミックはふてぶてしい態度で受け取る。
エレノアはドキドキと胸を高鳴らせた。キキミックはしばらくサンドイッチを見つめると、意を決したようにぱくりと口にする。
「ど、どうかしら…」
もぐもぐと口を動かすキキミック。エレノアとサンドイッチをじっと見比べて、今度は大きな口でかぶりついた。
「美味しい…?」
「ふん、まあまあ、だ」
「そ、それは、まずくはないってことよね…?」
キキミックは答えてはくれなかったが、サンドイッチを残さずにたいらげてくれたところから察するに、満足してくれたのかもしれないとエレノアは思った。
「残りのサンドイッチも、特別にキキミックが食してやる。寄こせ」
「ふふ…たくさん作ってしまったから、どうぞ召し上がって」
こしらえてきたサンドイッチを差し出すと、キキミックはばくばくと食べつくした。
「ねえキキミック、聞いてもいいかしら」
「なんだ」
「この絵画なのだけれど……、城内にもこれと同じようなものが至るところに飾られていたわ。すごく、神秘的で…綺麗ね。宗教画が何かかしら…」
キキミックがサンドイッチに夢中になっている隣で、エレノアは、ほう、と壁面を見つめる。そこには、神々しい光をまとった、黒い鳥のような姿が描かれている。かなり古い絵画なのか、ところどころ絵具が剥げてしまっていた。
「そうだ。我らが崇め奉る魔神デーモス様であられる」
「デーモス様……」
その名前を聞いて、エレノアはハッとした。サンベルク帝国で語り継がれている神話において、古の時代に大厄災を招いた元凶が、その魔神デーモスであるのだ。理性を失った魔族を率いて大陸の安寧を脅かし、大陸全土を闇で覆った。
女神オーディアを葬りし――…悪神と、されているはずだ。だが、絵をみるかぎりではとてもそのようには見受けられなかった。
「とても崇高で、ご温情溢れる神様であるのだぞ! どうだ、すばらしいだろう」
「ええ、そう……ね」
「そうだろうそうだろう。我らのオズワーズ様は、そんなデーモス様の生まれ変わりであるとの信託があるほどだ。森羅万象の力を受け継ぐ我が王は、人間などには絶対に屈しはせぬ!」
エレノアは何と返事をすればよいものか迷った。
オズが、魔神デーモスの生まれ変わり?
もしそれが事実だというのなら、オズは魔神デーモスの魂を引き継いでいるということになる。
果たしてエレノアは、いったいどう受け止めたらよいのだろう。
*
キキミックをエレノアの世話係につかせ、客室に通すように命じたあと、オズは執務室に側近を呼びつけた。
「よくぞご無事であった! オズワーズ殿」
側近のガストマは長い嘴に、禍々しい深紅の目玉を三つ持った大男だ。全身を黒い体毛で覆われており、ひょろりとやせ細った体躯をしているが、指先から生えている爪は人間を軽々と握りつぶせるほどに鋭い。
痩躯のガストマは長い背中を丸め、同様に長い両手をぶらんと落としている。オズはガストマを一瞥した。
「あの程度で、死ぬものか」
淡泊に吐き捨てたオズであったが、実際のところは、あれほどの致命傷を負ってもなお生きている方が不思議であることは理解していた。本来ならば、あの場で息絶えるはずだった。
――だが、オズの前に形容しがたい柔らかな光が現れた。エレノアだ。
「ええ! そうでしょう! そうでしょうとも! 我らの王は、森羅万象の力を継承されているのだから!」
「長らく里をあけた。故にしばし、留まる」
「あれは酷い戦でありましたからな…。こちら側の被害は甚大。兵士の中には、禁止薬物の乱血薬を服用したいと申し出てくる者もおります。しかしながら、それは諸刃の剣…。到底、力の制御などできますまい。来たる時に備え、万全を期すべきと令を出しておりまする」
オズは冷え冷えとした目でガストマを一瞥する。
(乱血薬…)
それは、一時的に魔族の力を引き上げる薬物だ。
服用すると、あらゆる神経が理を超えて活性化する。肉体は強化され、魔術の威力も格段に高まるが、その分、自らの躰を蝕み、理性を崩壊させる。完全なる獣と化し、最終的には己が何者であるか分からないままに死に至らしめる。
オズは、瞳を閉じ、そしてゆっくりと窓辺に視線を向ける。
「それはそうと、オズワーズ殿」
「なんだ」
「キキミックより、信じがたい話をうかがったのですが…」
ガストマは言いにくそうにしているが、オズにはおおよそエレノアのことだろうと理解する。
「人間の娘を客人として招いた……と」
「そうだ」
「い、いったい、どうなさったのだ…? 人間を誰よりも憎んでおられるオズワーズ殿が…何故!」
言動の根拠は己でも理解ができない。何故、あの人間の娘をここまで気にしているのか。忌々しい人間であることは変わりがないのだが、エレノアという存在はそれとは異質なもののように思えた。
死の間際に感じた柔らかな光。目を開けると、月夜の晩のように輝く銀髪が揺れていた。しばし――、二、三秒ほど。俺は、茫と見つめた。人間だと理解したのは一拍置いてからであった。
(何故…か)
今はそれほど憎くはない。普段ならば、人間を視界に入れただけで抑えようのない怒りが沸き上がるほどだというのに。
人間は――滅ぼすべき存在だ。人間どもを根絶やしにするためならば、我が命を投げ捨てることも厭わない。
だから、おおよそ単なる気まぐれであろう。気に入らない部分があれば直ちに切り捨てればよい。
――だが、今は。
(あの女の死をそれほどは望まない)
「ああ! なるほどなるほど! ほどよく太らせて食らうおつもりで…」
「…くだらん。人間など、食うものか」
「そ、そうであられた。だがしかし、我々の知性は人間を介して保たれるもの。食わずともなれ果てることのない魔族は、オズワーズ殿、ただのお一人でございますぞ……?」
大抵の魔族は、人間を憎みながらも人間を食すことをそれなりに好んでいる。むしろ、そうせねば、知性や理性を失い、ただの暴れ狂う化け物になり果てる、という愚かしい背景があった。
人間をはるかに凌駕する力をもってしてもなお、我ら魔族は万能ではない。
根絶やしにするという野望を抱きながらも、種族の繁栄のためには人間を必要とせねばならぬとは。
しだいに人肉を求めるようになり、飢えに苦しみ、我を忘れて同胞すらも食らう――“成れの果て”。オズはこれまでに一度も人間を口にしたことはなかったが、一般的な魔族は異なる。
人間と魔族は決して交わることはない。
それ故に、エレノアの願いは所詮、世迷言にすぎない。袖にすればよい話…だが、何故か、気にかかる。
「ガストマ」
「…は、はい」
「女ものの衣類を、適当に見繕っておけ」
それだけ伝えて踵を返す。
「あ…え、は、はい…!? おっ、お待ちを、オズワーズ殿!」
慌てふためくガストマに振り向くこともせず、オズはエレノアに与えた客室へと歩みを進めたのであった。
エレノアはキキミックとサンドイッチを食した後、ヒカゲ草が群生している中庭に案内してもらった。
「綺麗ね…こんな場所にもヒカゲ草が…」
「ここのヒカゲ草は手入れが行き届いている故、夜が深まると鮮やかに輝くのだ」
「……そうなのね、見てみたかったわ」
光り輝くヒカゲ草があることをエレノアは知らなかった。夜まで滞在できないことを惜しく思う。
「ならば、持ってゆけばよい」
そよそよと揺れるヒカゲ草を眺めていると、背後から低い声が聞こえてきた。それが誰の者であるのかは、振り返らずとも理解に及ぶ。この魔族の森の王だ。
「オズ」
艶のある黒翼がばさりと音を立てる。
「土ごと鉢にでも移し替えれば、二、三日はもつ」
「でも…いいの、かしら」
満月のような瞳がエレノアへと向けられた。どきり、と息をのむと、キキミックが騒ぎ立てた。
「な! なななな、なりませぬ! これはオズ様が大事にされているものではございませぬかぁ!」
「その俺がよいと言っているのだ」
「で、ですが……くうっ……!」
キキミックは根負けをして押し黙った。群生しているヒカゲ草の中まで歩いていくオズの背をエレノアは追いかける。
「本当に…いいの? オズが大事にしているって…」
「かまわぬ。ヒカゲ草は、もとより繁殖能力が強い。少し抜いたところで、おのずと生えてくる」
「そう…なのね」
エレノアはヒカゲ草を眺めているオズにくぎ付けになった。凹凸のはっきりしている横顔は、人間とは異質の美しさがある。その表情は冷たく、他者を寄せ付けない。だからこそ、エレノアは引き寄せられているのだろうと思った。
「ねえ、聞いてもいいかしら」
「なんだ」
「オズは、ヒカゲ草が好きなのね?」
だから、大事に育てているのだろう。エレノアの問いかけに、オズはしばらく沈黙を貫いた。
暗所で群生するヒカゲ草は、サンベルク帝国でもよく見かける植物だ。ただ、夜に光り輝くことはなかったため、観賞用として重宝されることもなかった。
(…何か、特別な思い入れがあるのかしら)
しばらく見つめていると、オズの目がすう、と細められた。
「べつに、普通だ」
「…そう、なの?」
「そうだ」
「そんな風には思えないわ。だって、この中庭、とても丁寧に手入れがされているもの」
エレノアはその場にしゃがみ込み、気持ちよさそうに揺れているヒカゲ草に指で触れてみる。
「ヒカゲ草は、大切に育てられて、きっと幸せね」
「…そのようなことが、何故おまえに分かる」
「だって――伝わってくるの。力強い、生命の力が」
エレノアはそう口にして、両手を胸の前で合わせた。目を閉じて、女神オーディアに言葉を届ける。
すると、エレノアの躰が柔らかく光った。
キキミックは驚きのあまり、一つしかない目玉をぎょろりとさせるが、オズはそんなエレノアを黙って見つめたまま何も言わなかった。
「どうか――この子達に、オーディア様のご加護を」
エレノアが祈ると、たちまちヒカゲ草がより一層の色つやを取り戻す。光るオーブのようなものをまとい、みずみずしく揺れている。
キキミックはまるで神の御業を目にしたのかといった具合で、驚きたまげていた。
「エレノアよ」
すると、地の底を震わせるような低い声が落とされる。オズは、感情の読めない視線をエレノアに送っていた。
「何故、おまえは祈り続ける?」
それはサンベルク帝国の皇女として――であることをエレノアは理解していた。
「それが、私に与えられた使命だから」
「だから、魔族の里に生える植物にすら、手を差し伸べると?」
「……そう、ね」
「敵対する種族へも慈悲を?」
「ええ」
「女神とやらは、ずいぶんとお優しい」
「オーディア様は、きっと、きっと……そうするべきだと、思ってくださっているわ。だから、私の祈りに応えてくださっているの。現にあなたの傷だって――…!」
そうだ、そうでなければ、エレノアの祈りは届かないはずだと思った。
「エレノア、おまえは、人間も、魔族も……分け隔てる必要はないと、女神の加護とやらを授かるに、等しく値するのだと…真に思うのか」
ざわざわと木々が薙ぐ。背筋が粟立ち、エレノアは一瞬だけ呼吸を忘れた。
「ええ、そうよ。この大地の姫君として、女神の声を聞く者として。人間と魔族は、等しいわ」
迷いなく告げると、オズの月のような瞳が向けられる。
「そうか」
オズは淡泊に返し、自らの手でヒカゲ草を一株、土ごと掬った。鉢植えの中にそれを入れてやると、赤い紋章の浮かぶ右手で何やら魔術を施した。
「これで、人間の地であろうと、しばらくはもつ」
エレノアは瞬きをして我に返る。オズから鉢植えを手渡されると、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう。オズ」
立ち上がったオズにならうようにすると、満月のような瞳が光っている。
「──先ほどは」
「え?」
オズはエレノアに向けて口を開く。
「おまえは、人間と魔族が"等しい"と、言ったが、それでも、我らは人間が、憎い」
どうして。人間と魔族は争い合わねばならないのだろうか。
「そして人間も、我らが恐ろしく、忌み嫌っている。故に、到底、相容れぬ」
また、エレノアにはどうしても、この魔族の王の瞳がもの悲しく、寂しそうに見えてしまう。
「そうね。他者の意識を変えるのは、むずかしい」
「…」
「だから、せめて知りたいと思う。サンベルク帝国の民を導く、皇女として。いつか…オズが私に話してもいいと思ってくれたのなら、あなたの――魔族たちの“怒り”を“悲しみ”を、教えてほしい 」
不思議と、オズに会うたびにエレノアは心が強くなっていく気がした。離宮に閉じこもっていた時には、とてもじゃないが、このように自分の意思で行動をすることはなかったのだ。
ニールで休暇をとらなければ、宮殿で伴侶候補との謁見や、皇女としての公務に追われるままであっただろう。
(オズ――…)
どうしてか、オズの冷たい瞳を見ると胸が高鳴る。人間ではない、異種族の王。どうか、許されるのであれば、オズの憎しみを癒す力になりたいと、心から思った。
三
魔族の里の城内から持ち帰ったヒカゲ草は、夜になると眩い光を放った。エレノアはそれを滞在先の自室の窓辺に飾り、空に浮かぶ月とともにオズの顔を思い浮かべる。
エレノアはこれまでも、伴侶候補として名乗りを上げてきた男たちから贈り物をしてもらうことは多くあった。だが、そのどれもが高級品であり、正直身に着けるのも憚られていたのだ。
宝石や上等なドレスよりも、このヒカゲ草の贈り物がなによりもうれしいと思った。オズが大事に育てているものを分けてもらえた。その事実に、エレノアは胸が弾む思いであった。
(オズは、このヒカゲ草をどんな風に育てていたのかしら)
目を閉じ、幻想的な森の中に佇む王の姿を思い浮かべる。
日がたつごとにオズを知りたくなり、日暮れの時がくることが口惜しくなる。エレノア、と名を呼ばれるのが心地よい。明日はどのような会話をしようものか、と夜寝る前に考えることが日課になった。
(もっと寄り添えたら、どんなにか――)
きらきらと輝くヒカゲ草を指でやさしく触る。
(私も、彼のように堂々をありたい。胸を張れるような、生き方がしたい)
闇夜に浮かぶ月を眺めて、オズの瞳を想起する。エレノアは数刻の間ぼんやりと物思いにふけったが、眠気に誘われると寝台に横になったのだった。
*
翌る日も翌る日もターニャの目をかいくぐり、エレノアはイェリの森に足を運んだ。
愛馬を宥めながら濃霧の中を進むと、やはり何度訪れてもクスノキが生えている小川にたどり着く。愛馬から降りて周囲を見回すが、生き物のようにうねっている樹林が広がるのみ。群生しているヒカゲ草に近寄り、エレノアはその場に腰を下ろした。
不思議なことに、ここで待っていればオズが現れるような気がするのだ。確証はないが、これまでもそうであった。
(はやく…会いたい)
魔族が生息する危険な森だとは理解している。迷いこんだ当初こそは背筋が凍るような思いであったが、いつしかエレノアにとっての癒しの場所となっていた。
キャロルやターニャに見られてしまったら、はしたないと叱られてしまうかもしれないと思いながら、エレノアは草の上に寝転がる。
サンベルク皇帝はエレノアの身を案じていたが、それでも、不敬であると分かっていながらもその場にとどまってはいられなかった。
(皇帝陛下…申し訳ございません。私は…それでも)
川霧が流れる様子を眺めていると、ガサリ、草木が揺れる音がした。
エレノアはオズであると思い、躰を起こして振り返る。――しかし、そこにいたのは威厳のある王ではなかった。
「──……オマ、エ、ダレダ?」
ぎょろりとした深紅の一つ目。
見上げるほどの巨体であったが、長い手足が際立つほどの痩躯をしている。鋭い骨のような爪。人間を丸呑みできる大きな口。鬼のような容姿。
荒く、生生しい息遣いがエレノアに向けられた時、背筋に寒気が走った。
「ウマ……ソウ」
──魔族だ。
だがしかし、オズやキキミックとは様子が違う。里の広場にて民謡を楽しんでいた者たちとも異なる。
剥き出しになった目玉の一切には、理性が存在しなかった。
「ニンゲンカ」
「あっ…」
「ニオイ……ケシテル、ダガ、ニンゲン…ニンゲンニンゲン、ニンゲンクウノ、ヒサシブリ」
鋭い牙をむき出しにし、うねり声をあげて草むらから出てくる。
口の端から零れ落ちる唾液から、己が捕食の対象であることを自覚した。
逃げねばならないのに、手足の一切が動かない。胴震えが収まらず、エレノアはその場で固まるしかなかった。
「ウマソウ、ウマソウ……」
「そんな、どうして」
「クイタイ、ニンゲン、クイタイ、クウ」
裂けた口が大きく開く。瞬きをした瞬間、その鬼形の魔族はエレノアを見下ろすように立っていた。
(あ………う、そ)
ひゅうと喉が鳴る。奈落の底に落ちていく感覚。怖い、これが……オズやキキミックと同じ魔族であるというのか。
全身に鳥肌がたった。獰猛な目玉をぎらつかせ、今に己を食そうとするその生物は―――いったい。
「随分と落ちぶれたものだ」
刹那、激しい閃光に視界が侵された。
「ギャアアアアッ」
「欲に溺れ、なれ果てるとは」
「アアアッ、クルシイ、クルシイッ!!」
恐る恐る目を開けると、痛烈な悲鳴を上げて燃えている鬼型の魔族がいる。しばらくのたうち回っていたそれはやがて力尽き、業火の中で灰になった。
(何が、起きたの?)
エレノアを覆っていた巨体は、たったの一閃で吹き飛んでいた。いや、燃やされた、というべきか。
(それに、この声は──)
木々がざわめき、深い霧が晴れてゆく。エレノアの背後に立っていたのは、気高い黒き王。
赤黒い紋章が浮かぶ腕をかざし、冷酷なまでの眼差しを向けているオズだった。
鬼形の魔族であったものは灰となり崩れ落ちる。肉体が焼かれた異臭が鼻腔を刺激する。生きたまま燃やされる絶叫がエレノアの耳から離れなかった。本来であれば、阿鼻叫喚する場面であるが、青白く燃えている炎は幻想的だった。
「オズ、どうして」
エレノアはしばらく足の力が入らなかった。オズは、腰を抜かしているエレノアを静かに見据える。
「愚かな」
「っ、ごめん、なさい。あ、あなたは……オズは…魔族がどのようなものか、私に教えてくれていたのに」
理解していたつもりだったが、そうではなかった。
きっと、人間と魔族が共存できる道は存在する。オズやキキミックのように、深く人間を憎んでいようとも、我を忘れて無差別に襲い掛かるような危険な種族ではないのだと、思い及んでいた。
エレノアは震える躰を抱き締める。浅はかな己の行動のせいで、オズはたった今、同胞の命を――。
「ごめんなさい。ごめん、なさい。あなたに、こんなことをさせてしまって」
灰の山は風にのってさらさらと辺りを漂った。
「あれはどの道、処分せねばならぬ“なれ果て”だ」
「なれ、果て?」
「腹を空かせ、理性を放棄し、やがて同胞にも、牙をむく」
オズは遠い森の奥を見つめたまま、淡々と口を開いた。夜の底のように暗澹とした王は、凛としているが、仄悲しい。
「あれが、魔族の末路。おまえはそれを、あまりに美化しすぎている」
「末路…」
「人の娘、エレノアよ。それでもおまえは、我らを知るか」
黄金色の刺繍が施された羽織がやわらかく揺れている。エレノアはしばらく、美麗な横顔を見つめてしまった。
「私、はそれでも……、あなたたちを理解したいと思う」
鋭い牙、血走った獰猛な瞳、生々しい息遣い。それらを思い出すと躰がすくむが、エレノアは自らを奮い立たせた。
「迷惑をかけてしまって…ごめんなさい。それに………ありがとう。助けてくれた…のよね?」
エレノアは弱弱しく立ち上がり、オズを見上げる。そして、灰になってしまった魔族の亡骸を見やり、胸を痛めた。
恐ろしかった。死を想像した。捕食されるのだと理解した時、地獄の底に堕ちた気がした。今でも足がすくんでしまう。
──だが、何故。
「どうして、創造主はこのような末路を、用意されたの」
エレノアに牙をむいた魔族も、もともとはオズやキキミックのように理性を持ち合わせていたのだろう。それは、生物としての尊厳ともいえる。エレノアは悲しみを抱き、その場に膝をついて両手を合わせた。
「このような理を生み出したのは、創造主ではない」
せめてもの弔いになれば、とエレノアは亡くなった魔族の魂が無事に天に還るように祈る。
「かつては、身も、心も、分かつことなくひとつのまま、安らかに森へと還っていた」
「…それ、じゃあ」
「搾取したのは、人間だ」
オズはさらさらと流れていく灰を見つめる。
「搾取…? 人間は、いったいあなたたちから何を奪ったの?」
「生命の、源だ」
「生命の…」
オズは虚言を口にすることはない。そう理解しながらも、今も人間に搾取されているという言い分は、まるで、サンベルク帝国が魔族から大事なものを奪い続けていることを示している。
どちらも信じたい。信じている。だが、そこに矛盾が生じてしまうために、エレノアは困惑した。
「私…は」
生まれ育った祖国。女神オーディアが愛した国。なにより、陽だまりのようにあたたかく、慈悲深いサンベルク皇帝が統治する国。
「サンベルク帝国の…皇女。我が祖国に、身も心も、忠誠を誓っているわ」
「なるほど。ならば、今に森を去るか?」
オズは一言、切り捨てる。
「…去らないわ」
「何故だ」
「知らなきゃいけない、気がするの」
「くだらぬ」
「どうにかしたい。なんとかしたい。これまで、これほどの衝動に駆られたことは一度だってなかったわ。立場をわきまえているつもりなのに、それでも、躰が勝手に、動いてしまうの」
エレノアはそっとオズの手をとる。鱗のような手は、エレノアのそれよりも一回り以上大きく、冷たかった。
「あのね、ここからはただの…エレノアとしての言葉よ」
オズの憂いに似た月のような瞳を見ると、どうにも離れがたくなる。
「魔族の民が植物や音楽を愛でているように、あなたはきっと、心優しい。そして誰よりも本当は…傷ついている」
「…」
「人間を憎む理由をきくのは、まだ少し、怖い。だって、私は祖国を愛しているもの」
霧に包まれた深い森の中は太陽の光が届かない。光る鱗粉を振りまき、ひらひらと飛んでいる蝶。ここには、永遠の夜の世界があった。
「でもね、あなただから……。あなたが伝えてくれたことなら、どんなことも信じたいとも、思っているの」
オズは黙ったままエレノアを見つめた。そしてやがて、再び彼方へと目をやる。
こみ上げてくる気持ちが何であるかをエレノアは理解できぬままであった。
「――かつて」
ざわざわと木々が薙いでいたが、ふいに風がやむ。オズの声は森の中でよく響く。魔族の亡骸は灰となり、森の中に還っていった。
「森の深みへ追いやられた我らに、“太陽のもとでともに暮らそう”と、手を差し伸べた人間がいた」
さらにオズは言う。
「先王は、これを信じた。争いをやめ、平和を目指そうと。民の瞳にもまた、希望が宿った」
「それは、」
「俺がまだ、力なき幼子であった頃の話だ」
それは何十年、いや、何百年前の話であるのか。エレノアはオズの横顔をただ見つめた。
「人間は、約束をした。女神は、平和を望んでいる。だから、もう奪わぬと」
「ええ」
「先王は、求めた。生命の源を分け合うのなら、人間を食わぬことを約束すると。人間は、これに頷いた。であれば、魔族の民も客人として歓迎しよう、と」
満月のような瞳に浮かぶのは、悲しみと怒り。果てのない闇であった。エレノアはそっとオズの手を握る。
「我らは希望に満ち、太陽の下に赴いた。――だが、待ち受けていたものは、途方もない鉄の雨であったのだ。不意をつかれた我らは、退路を断たれ、先王もろとも――無差別に殺された」
――ひどい、と口から洩れそうになる。
さらにいえば、先王はおそらくオズの父君であるのだろうことは容易に推測できる。それだけでなく、同胞を斬殺された記憶はオズの闇を一層に深めていたのだ。
「甘言だった。謀られた。生き残ったのは、己のみ。あの日、我らの尊厳は踏みにじられ、すべてを失った。だから、憎い」
「…オズ」
「皆殺しにすると、誓った」
「だけど、私を助けてくれたわ」
「ああ」
「いいえ、それだけじゃない。きっと、私がこの森で迷わないようにしてくれているのは、あなたでしょう?」
サンベルク帝国の皇女であるエレノアが謝罪をすれば事足りるものではない。だが、エレノアはオズに憎しみだけを抱いてほしくはないと思った。
(では…たとえば、どんな?)
憎しみ以外の感情。悲しみ以外の感情。もっとあたたかな――愛情。
「私ね、生まれてから十六になるまでずっと、外に出たことがなかったの。だから恥ずかしい話、世界の素晴らしさも恐ろしさも、悲しみも、何も知らなかった」
狭い部屋の中で過ごす日々は寂しかった。小さな窓に浮かんでいる月を眺めて、夜はしっとりと泣いていた。父や母に甘えたいなどと思ってはいけない。己は、サンベルク帝国の皇女なのだから、と。
「だけど、あの日、傷だらけのオズに出会って…たくさんの気持ちをもらったわ」
「そうか」
「ねえ、オズ」
――優しくしたい。
――あたたかな言葉をかけてやりたい。
己の立場や使命などを取っ払って、エレノアはただの人間の女として願った。