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キキミックをエレノアの世話係につかせ、客室に通すように命じたあと、オズは執務室に側近を呼びつけた。
「よくぞご無事であった! オズワーズ殿」
側近のガストマは長い嘴に、禍々しい深紅の目玉を三つ持った大男だ。全身を黒い体毛で覆われており、ひょろりとやせ細った体躯をしているが、指先から生えている爪は人間を軽々と握りつぶせるほどに鋭い。
痩躯のガストマは長い背中を丸め、同様に長い両手をぶらんと落としている。オズはガストマを一瞥した。
「あの程度で、死ぬものか」
淡泊に吐き捨てたオズであったが、実際のところは、あれほどの致命傷を負ってもなお生きている方が不思議であることは理解していた。本来ならば、あの場で息絶えるはずだった。
――だが、オズの前に形容しがたい柔らかな光が現れた。エレノアだ。
「ええ! そうでしょう! そうでしょうとも! 我らの王は、森羅万象の力を継承されているのだから!」
「長らく里をあけた。故にしばし、留まる」
「あれは酷い戦でありましたからな…。こちら側の被害は甚大。兵士の中には、禁止薬物の乱血薬を服用したいと申し出てくる者もおります。しかしながら、それは諸刃の剣…。到底、力の制御などできますまい。来たる時に備え、万全を期すべきと令を出しておりまする」
オズは冷え冷えとした目でガストマを一瞥する。
(乱血薬…)
それは、一時的に魔族の力を引き上げる薬物だ。
服用すると、あらゆる神経が理を超えて活性化する。肉体は強化され、魔術の威力も格段に高まるが、その分、自らの躰を蝕み、理性を崩壊させる。完全なる獣と化し、最終的には己が何者であるか分からないままに死に至らしめる。
オズは、瞳を閉じ、そしてゆっくりと窓辺に視線を向ける。
「それはそうと、オズワーズ殿」
「なんだ」
「キキミックより、信じがたい話をうかがったのですが…」
ガストマは言いにくそうにしているが、オズにはおおよそエレノアのことだろうと理解する。
「人間の娘を客人として招いた……と」
「そうだ」
「い、いったい、どうなさったのだ…? 人間を誰よりも憎んでおられるオズワーズ殿が…何故!」
言動の根拠は己でも理解ができない。何故、あの人間の娘をここまで気にしているのか。忌々しい人間であることは変わりがないのだが、エレノアという存在はそれとは異質なもののように思えた。
死の間際に感じた柔らかな光。目を開けると、月夜の晩のように輝く銀髪が揺れていた。しばし――、二、三秒ほど。俺は、茫と見つめた。人間だと理解したのは一拍置いてからであった。
(何故…か)
今はそれほど憎くはない。普段ならば、人間を視界に入れただけで抑えようのない怒りが沸き上がるほどだというのに。
人間は――滅ぼすべき存在だ。人間どもを根絶やしにするためならば、我が命を投げ捨てることも厭わない。
だから、おおよそ単なる気まぐれであろう。気に入らない部分があれば直ちに切り捨てればよい。
――だが、今は。
(あの女の死をそれほどは望まない)
「ああ! なるほどなるほど! ほどよく太らせて食らうおつもりで…」
「…くだらん。人間など、食うものか」
「そ、そうであられた。だがしかし、我々の知性は人間を介して保たれるもの。食わずともなれ果てることのない魔族は、オズワーズ殿、ただのお一人でございますぞ……?」
大抵の魔族は、人間を憎みながらも人間を食すことをそれなりに好んでいる。むしろ、そうせねば、知性や理性を失い、ただの暴れ狂う化け物になり果てる、という愚かしい背景があった。
人間をはるかに凌駕する力をもってしてもなお、我ら魔族は万能ではない。
根絶やしにするという野望を抱きながらも、種族の繁栄のためには人間を必要とせねばならぬとは。
しだいに人肉を求めるようになり、飢えに苦しみ、我を忘れて同胞すらも食らう――“成れの果て”。オズはこれまでに一度も人間を口にしたことはなかったが、一般的な魔族は異なる。
人間と魔族は決して交わることはない。
それ故に、エレノアの願いは所詮、世迷言にすぎない。袖にすればよい話…だが、何故か、気にかかる。
「ガストマ」
「…は、はい」
「女ものの衣類を、適当に見繕っておけ」
それだけ伝えて踵を返す。
「あ…え、は、はい…!? おっ、お待ちを、オズワーズ殿!」
慌てふためくガストマに振り向くこともせず、オズはエレノアに与えた客室へと歩みを進めたのであった。