王城を舞台に、城下に広がる大きな街。
本日私が訪れるブルーチャペル周辺の地域は、ハイドパークや王族の住む宮殿の庭園など、緑地に近い場所にあたる、グレンホロウと呼ばれる場所だ。
グレンホロウは、貴族を始めとする、裕福な人々が住む静かな住宅街。多くの住宅は煉瓦造りで、いくつかの家には美しい庭があり、青々とした芝生や手入れされた花壇を埋める花が、通りを歩く人を楽しい気分にさせている。
そこに住む人々は穏やかで親切な人ばかり。そして大抵がフェリクス様や私の知り合いばかりだ。そのせいか、馬車の窓から外を覗く私と目が会うと、皆笑顔で手をあげたり、会釈を返してくれる。
因みに私達の屋敷、ノイラート公爵家があるのは隣のロイヤルスクエア。その名の通り、元を辿れば、王族に連なる人物が代々居を構えているエリアだ。
程なくして私を乗せた黒塗りの、一人で乗るには大きすぎる馬車は、目的地であるブルーチャペルに到着する。私は従者の手を借り公爵家の、フェリクス様の妻として恥ずかしくないよう、細心の注意を払い、優雅に馬車から降りた。
「お気をつけて」
「ありがとう」
私は、従者と御者に礼を言い、教会へと続く道を歩き出した。途中、何人か、顔見知りの貴族の夫人に挨拶され、それに微笑みながら応えていく。
私も含め、どの夫人達も訪問先が教会とあって、黒や紺やグレーといった、地味で控えめな色のドレスに身を包んでいる。しかしそこはお洒落にぬかりのない夫人達。ちゃっかり黒いレースの手袋の下には、指輪などの装飾品を身につけていた。しかし、どれも舞踏会や夜会に出席する時とは比べ物にならないほど控えめであり、過剰な装飾や派手さを極端に避けたものを選んでつけている。
このような、TPOに合わせた、一見すると堅苦しく思える、暗黙の了解からくるルールによる服装の規定は、社会階級制度において、上流階級の地位と威厳を表す、重要な象徴の一つであると考えられている。
私たち貴族の妻は夫同様、屋敷の敷地から一歩外に出た途端、自分達が家名を背負う者であるという事を自覚し、行動しなくてはならない。
私は、ズラリと並ぶ馬車から降りたばかり。教会に向かう夫人達と挨拶を交わしながら、石畳の上をゆっくりと進み、目的である教会に到着した。
私が今日訪ねた場所。ブルーチャペルは、その名の由来通り、壁や天井が美しいコバルトブルーに塗られた教会だ。開け放たれた、大きな扉の横を通り過ぎ、私は教会内にゆっくりと足を踏み入れる。
するとすぐに、まるで熱帯魚のように美しく色づいた、ステンドグラスから差し込む光が目に飛び込んできた。窓から床に向かって落ちるカラフルな光の筋は、暗い教会内に彩りを与え、神聖な雰囲気をさらに増幅させている。
外に比べると教会内は薄暗く、私は目を慣らすために脇にそれ、しばらく立ち止まる。
石畳の床の上には、沢山の椅子が並べられており、すでに多くの着飾ったドレスに身を包む女性達で埋まっていた。ぼんやりと着席した夫人達の背中を眺めていると、嬉しそうな顔でこちらに手を振る友人の姿を発見する。私は迷わず、幼馴染でもあり、気心知れた彼女の座る席へと進む。
イレーネはいつもより薄目の化粧をし、濃紺色のドレスに身を包んでいた。無事、彼女の元に辿りついた私は、幼い頃のように挨拶はそこそこ。近況報告のために、今すぐ喋り出したい気持ちをこらえ、笑顔で挨拶を交わす。
「ごきげんよう、イレーネ。今日も綺麗ね」
「ふふっ、ありがとう。でもリディこそ……ねぇ、ちょっとまた痩せた?顔色も悪いわ」
親友の、真実をそのまま切り取る言葉に、私は泣きそうになる。
「旦那様がお美しい方だもの。私だって努力しないと」
「はいはい。ご馳走さま。ねぇ、とにかく座りなさいよ」
イレーネは言いながら、横にずれる。私は空いた席に遠慮なく、静かに腰を下ろした。
「その様子だと、まだ悩んでるのね?」
パサリと開いた扇子を口元にあて、私に身を寄せたイレーネは小声で聞いてきた。
「うん……」
私はポシェットの中から扇子を取り出しながら、力なく微笑む。
「そっか。でもうちの主人の情報だと、フェリクス様は、相変わらずあなたに夢中だって話よ」
イレーネは、私に励ましの言葉をかけてくれる。彼女の夫、ブレンナー伯爵はフェリクス様の友人だ。ただ、伯爵はイレーネと私が親友だと言う事を知っている。だから気を遣い、私に夢中だと口にした可能性がある。
離縁の危機に怯える私は、親友がもたらす情報を、もはや素直に受け取る事は不可能だ。
「そもそも私の抱える問題に旦那様は関係ないもの。全部、私がいたらないだけだから。ここだけの話、私は近いうちに離縁されると思う」
私は口元に扇子をあて、イレーナに自分の不甲斐なさを、存分に愚痴る。
「また悪い方に考えて。先月会った時もそう言ってたじゃない。だけど今もあなたはノイラート公爵夫人よ」
「それは、たまたま先月は運が良かっただけよ。旦那様がとても優しいから言い出せないだけ。きっと今月こそは、離縁を言い渡されるに決まってる」
頑なに認めない私に、イレーネが大きくため息をつく。
「そもそも、リディは完璧じゃない」
「そんなことない」
「もうっ、あなたが完璧じゃなかったら、細かい事が苦手な私なんて、とっくに離縁されてるわ」
イレーネが私を小突く。丁度その時、ざわざわとしていた教会内に衣擦れの音が響いた。そして人の声が徐々に失われていく。
「あ、もう始まるみたい。また後でゆっくり話しましょう?」
「うん」
礼拝堂の正面。演壇に神父様とバルリング伯爵夫人が現れた。それを合図に、私達は会話をやめ、前を見据える。
「本日は、お集まり頂きありがとうございます。皆様の慈悲深き御心に、神も感謝している事でしょう」
神父様の声が響く。それからすぐに、神に祈りを捧げ、本日の目的である、慈善活動の大事さを説く、神父様のお説教へと続く。そしてバルリンク伯爵夫人が紹介され、演壇の前に立つ。
「こんなにも沢山。心優しい皆様がこの国にいらっしゃる事を光栄に思い、私は今この場に立っております」
私達は前を向き、静かに話を聞き、時折関心の声をあげたりもしながら、この国における孤児の現状を訴える、バルリング伯爵夫人の話に耳を傾けた。
内容は、親に、社会に見捨てられ、五、六歳から働く事を余儀なくされている子がいること。その子達の現状といった話だった。あえてなのか。静かに語られる内容は耳を塞ぎたくなるものばかり。話を聞いているうちに、涙が目尻に滲むほどだった。
「ですから、彼ら、彼女達に私達の常識を押し付けてはいけません。まず何より彼らに必要なのは、文字の書き方ではありません。雨風のしのげる屋根のある家。そしてお腹を満たせるものです」
バルリンク伯爵夫人の凛とした声が、静まる教会内に響く。
話を聞き終え、確かにその通りだと思った。
タバコを吸うな、お酒を飲むな。劣悪な環境に置かれた子ども達に、そんな説教を垂れるより、本当に必要な、衣食住に関する支援を、先ずはすべきだという気持ちになっていた。
一方、どうして自分で産んだ子を育てられない人の元には子が恵まれ、本当に欲しいと願う私の元には、いつになっても来てくれないのだろうと、やるせない気持ちにも襲われていた。
募金箱が回され、今回の集いが終了すると、最後には拍手が起こり、帰り支度をする人々で教会内は溢れる。
私は悶々とした気持ちを抱えたまま脱力し、なかなか、席を立てないでいた。
「さ、ゆっくり話を聞くわよ」
結婚して一年とちょっと。現在一人目を妊娠中であるイレーネに、私は力強く腕を組まれた。
「お願いします」
私は彼女の少し膨らんできたお腹を目に入れないようにし、イレーネと共に、ブレンナー伯爵家の馬車に乗り込んだのであった。
イレーネの旦那様となるブレンナー伯爵は、普段は領地におり、議会の開催に合わせ、王都のタウンハウスに数ヶ月ほど滞在するタイプの、ごくごく一般的な貴族だ。
普段は領地に住む彼女が月に一回ほど、王都に出向くのは両親の顔を見るため。
彼女の両親はすでに伯爵位を息子、つまりイレーネの兄に譲渡した。よって、現在は悠々自適に王都で隠居生活を楽しんでいる。そして娘であるイレーネの訪問を心待ちにしているのである。
私が通された伯爵家のサロンは、優雅で格式の高い、家具や装飾品で飾り立てられた部屋だ。床には高級な絨毯が敷かれ、天井からはシャンデリアが垂れ下がっている。大きな窓からは、庭園の美しい景色が見え、太陽の光が差し込んいた。
イレーネと私を挟むテーブルは、各部に細かい装飾が施された、貴重なマホガニー製のもの。その上には、フィンガーサンドイッチやチョコレートコーティングされたナッツやドライフルーツなどの小菓子が並べられていた。
そんな、居心地のよい部屋で私は、イレーネに自分の抱えた思いを暴露した所だ。
「よだれに寝癖にパン屑ね。ふふ、どれも可愛いじゃない」
「全然可愛くないわ。全部だらしがない事だもの。きっとフィル様は、こんなにだらしがない女だとは思わなかったって、幻滅してらっしゃるに違いないわ」
私は自分で口にして、やはりどれも愛する人に見られたくなかった状態だと、再確認する。
「何言ってるのよ。寝食を共にする夫婦なのよ?私はステア様の、朝になるとジョリジョリする、少し伸びた髭が好きよ?まぁ、おはようのキスをされる時は、少し痛くもあるけど」
イレーネは惚気を披露したあと、おどけたように肩をすくめた。
幸せそうな彼女の表情はとても美しい。幼い頃からやけに馬の合った私たち。それからずっとお互いの一番を公言する仲。そんな親友が笑顔でいられる事は、まるで自分のことのように嬉しい。
しかし、それはそれ。
「男性の髭が伸びるのは生理現象だもの。仕方がないわ。少なくとも、私のパン屑は防げた失態。これは完全に私の完璧な妻計画において、ミスでしかないというわけ」
私は精一杯反論する。
「あら、それを言ったら私なんて、この前ついに、ステア様の前でうっかりオナラをしてしまったけど」
イレーネがあっけらかんと明かした内容に、私は言葉を失い目が点になる。
「それは……酷いけど、でも……酷い」
私は目をぱちくりさせ、正直な気持ちを伝える。さすがにオナラは、だらしがない妻の筆頭である最近の私でも、フェリクス様の前で披露した事がない。
「でもオナラだって生理現象だわ」
「それはそうだけれど……それで、オナラが出ちゃった時。ステア様は一体どんな顔をしてたの?」
私は興味本位丸出しで、思わずたずねる。
「二人で吹き出して、大笑いしたわ。むしろ笑ってくれたから、こっちも恥ずかしくなかったって言うか、あぁ、私達は夫婦なんだなって、むしろ感慨深く思えた瞬間ね」
イレーネは夫の事を思い出しているのか、とても美しく微笑んだ。
そしてオナラを許し合えるのは、他人であった二人を確実に家族にしてくれる、子どもの存在があるからだろうと、私は感じた。
現在イレーネは妊娠中だ。このまま行けば、あと数ヶ月後に、彼女は私が欲しくてたまらない、母という肩書きを手に入れる事になる。
子を産む事は命懸けなこと。だからイレーネの笑顔の下には、とてつもない不安が隠されている事を私は知っている。けれど私たちは貴族の妻だ。大事な責務の筆頭に、子を産む事が入っているのだから覚悟の上だ。そしてその大きなミッションを夫婦で支え合い、本当の家族になっていく。
私のオナラが許されなくて、イレーネのオナラが許されるのは、嫁いだ家に子孫を残せるかどうか。絶対にそこの違いだ。
「思いつめた顔をしているわよ。木登りが大好きで、アンソニー様に喧嘩を仕掛けていた、お転婆で勝気なリディはどこに行っちゃったのかしら?」
「やめてよ。あれは若気の至り。黒歴史なんだから」
私は、今更過去を持ち出すなと、口を尖らせる。
「だけど、お転婆なあなたを、いつもフェリクス様は、愛おしそうに眺めていたわ」
「それは」
確かにフェリクス様は、伯爵家の娘にしては、少し元気すぎたかつての私を、呆れる事なく可愛いねと、言ってくれていた。
「でもあれは、お互い子どもの頃の話だもの。今は淑女でいなくちゃ。みんないつだって綺麗にしてるじゃない」
私はつま先から天辺まで。常に完璧な姿でいる事が求められる貴族の夫人たちの姿を脳裏に浮かべ、イレーネの言葉を否定する。
「それよ、それ。みんなって言うけど、実際屋敷にいる時、ご夫人達がどうやって過ごしているか。リディはそれを全部把握しているわけじゃないでしょう?」
「それは」
確かに私が目にしているのは、社交の場に出た時だけ。それ以外の時間。たとえば、使用人しかいない空間だとか、夫婦の寝室だとか。そういう場所で、他の夫人たちがどのように振る舞っているかは知らない。
「リディ。あなたはお母様を早くになくした。だから家庭教師のマーサ先生を母親代わりだと思っていたでしょう?」
「ええ。マーサ先生に、私は公爵家の妻に相応しい淑女としての完璧なふるまいを、教えて頂いたわ」
母は、私を産んですぐ。産後の肥立ちが悪かったせいで、亡くなってしまった。そのため、私は兄と父。男しかいない家族の中で、自由奔放に育った。しかし十歳を迎えた時、父は私に家庭教師を雇うと言い出した。
それは、私の野生児っぷりを目の当たりにした、当時まだご健在だった、フェリクス様のお母様が、父にこう進言したからだ。
『公爵家の妻となるにふさわしい振る舞いを、お嬢様に身につけさせて頂きたい』
私の知らぬ所でそんな会話があったらしい。その結果私には家庭教師が付けられる事となり、フェリクス様のお母様から紹介され、私の元にやってきたのが、マーサ先生だ。
先生の第一印象は、怖そうな人。それを上手く言い換えるとすれば、とても凛とした女性だろう。
肩下まで伸びた黒髪は、綺麗に一つにまとめられ、口元はいつもキュッと引き締まり、常に厳しい表情をしていた。そして彼女はいつも、モノクロのドレスを身にまとい、足元は黒いレースアップシューズに紺色のストッキングを履いていた。手には、彼女の完璧主義的な性格を象徴するかのように、常に白い手袋がはまっていた。
私はふと、マーサ先生と過ごしたある日の出来事を思い出す。
ある日私は、マーサ先生と共に自分の全身を映し出す、大きな鏡の前に立っていた。
『リディア様、この姿を見て、どう思われますか?』
『とっても綺麗に見えるわ。あ、もちろん先生がということよ』
私はマーサ先生の、全てが完璧に見える姿に憧れの意味を込め、目を輝かせながら答えた。すると、鏡越しにクスリと、マーサ先生が上品に微笑んだ。
『ありがとうございます、リディア様。でも、私が尋ねたのは、リディア様のこと。自分の立ち姿を見て、完璧かどうか、という事です』
私は、勘違いした事に恥ずかしくなると共に、言葉に詰まった。鏡に映る私は背筋も伸びているし、完璧に見える。けれどマーサ先生がわざわざ問うのだから、何か欠点があるのだろうと、私はジッと鏡に映る自分を見つめる。
『ちょっと、失礼しますね』
マーサ先生はそう断りを入れると、私の背後へと回り込む。
『ここですね』
そしてマーサ先生は、私の首元に手を伸ばすと、襟の部分を指さした。
『あっ』
私のドレスについている、白い襟の端が片方、少しだけ内側に折れている事に気付く。
『リディア様はいずれ、公爵家に嫁ぐ方です。こういう小さな所まで、気を配れるようにしておかないといけません』
マーサ先生は私の襟を正しながら、真剣な眼差しで語る。
『はい、気をつけます』
『同じような失敗をなさらないよう、お気をつけ下さい。この程度のことにも気を配れなければ、公爵家の、フェリクス様の妻にはなれませんよ』
私はフェリクス様の名が飛び出し、ドキリとする。それだけは嫌だと思っていたからだ。
『マーサ先生。私は頑張るわ』
私は拳をギュッと握りしめ、決意を口にする。すると鏡に映るマーサー先生は、満足そうな表情を浮かべ、私に微笑みかけていた。
記憶の中のマーサ先生は、全てがカッチリとした、完璧な淑女だった。そして母を知らない私は、自分の将来の心配をしてくれる、マーサ先生の言葉を心から信じていたのである。
「マーサ先生は、完璧主義者で、少し厳しすぎる所があるって、私の母はいつも言ってたわ。今だから言っちゃうけど、だから可愛げがなくて結婚出来ないんだとも」
マーサ先生の思い出に耽る私に、イレーネが遠慮がちに告白する。
確かに私には、マーサ先生の教えにより、完璧でなければならないというプレッシャーを、常にかけられ、育った部分がある。でもそれは、自分が公爵家の妻になるために必要なことだと、私自身も納得していたことだ。
現に、彼女のお陰で私は胸を張り、公爵家に嫁ぐ事が出来た。そして、淑女として完璧だったからこそ、年若い娘だった私が、すんなりとノイラート公爵家の家臣達に受け入れてもらえたのだと、そう思っている。
そして今でも私は、マーサ先生の教えは正しいと信じ、教えを守り生きている。
天井にはシャンデリア。壁には絵画、装飾品などが飾り付けられている、豪華な部屋。
私は親友。ブレンナー伯爵夫人であるイレーネのタウンハウスでお茶をしている所だ。そして彼女と会話する中で、私の家庭教師であった、マーサ先生の事を思い出していた。
「確かにマーサ先生は厳しかったわ。けれどそれは、有り難いこと。私は今でもそう思っているけど」
私はイレーネにきっぱりと告げる。するとイレーネは困ったような、そんな表情を私に向けた。
「リディは十歳から、結婚するまで。ずっと彼女に厳しく教育されていた。そのおかげで、お転婆娘から脱して、今や誰もが認める、立派なノイラート公爵家の奥様を勤めている。それは私も認めるわ。けれど、少し完璧という言葉に呪われていると思う」
イレーネの厳しい指摘に、私は小さくため息をつく。
「誰だって満点が欲しいもの」
私の中では満点か、それ以外かしかない。
なぜなら王族の次に位の高い公爵家を支える妻になるためには、満点でなければ他の人に示しがつかないからだ。
「そこがちょっとおかしいって話なの。さっき教会でみんなの前に立って、立派に演説をされていたバルリンク伯爵夫人。彼女なんて、一日中ベッドでゴロゴロする日が必要だって、この前そう仰ってたわよ?」
「えっ!?あのバルリンク伯爵夫人が?」
私は思わず声を上げる。
バルリンク伯爵夫人と言えば、積極的に慈善活動に精を出し、地域社会のリーダー的役割も果たしている人物として有名な方だ。そして常に凛とした佇まいと、教養の高さにより、私たち貴族夫人の先頭に立つ立派な方でもある。そんな人が、まさかゴロゴロしたいなんて思うはずがないと、私は衝撃と共に思い切り眉根を寄せる。
「リディ。貴族っていうのはね、少なからず誰しも、人前では常に完璧でありたいと思っているものよ。だからリディが常に完璧であろうとする姿勢は、間違っていないわ。けれどあなたは、完璧を求めすぎているのよ」
「……求めすぎている?」
一体それのどこがいけないのだろうかと、私はイレーネの言葉を復唱し、首を傾げる。
「リディがマーサ先生の言う通りに頑張って、人並み以上の淑女教育を受けてきた。それで得たものは何?」
「公爵家に嫁ぐに相応しい、マナーや教養」
私は即答する。するとイレーネは、私の答えに大きく溜息をついた。
「リディはもう十分過ぎる程、完璧よ。でもそればかりに囚われ……。いいえ、そのせいで、自分自身の幸せを逃してしまっている。それが問題だわ」
私は言葉を失う。完璧であることの弊害など、考えたこともなかったからだ。
「でも、私は……」
「ねえ、リディ。マーサ先生に言われて、毎日勉強漬けになって、他に何も出来なかった時のことを思い出してみて」
「勉強漬けって……」
淑女教育と一言で言うと簡単に聞こえる。しかし実際、学ばなければならない内容を、ざっと述べると、こんな感じだ。
儀礼的な挨拶や手紙の書き方、テーブルマナー、服装、言葉遣い、人前での立ち居振る舞いなど、上流階級の社交に必要なマナーや礼儀作法。それに加え、外国語、詩や文学、音楽について学び、絵画や刺繍、織物、手芸などの技術の習得。さらには、家政学や料理、家庭医学、財政管理、家庭経済など、家庭運営に必要な知識のあれこれ。そして、社交、パーティーの開催方法や出席マナー、ダンスにピアノ。
それらを時に、専門の先生を講師に呼び、私は十歳から結婚する十六歳となる年。つまり六年かけてみっちり学んだのである。
しかも幼少期に遊んでしまった私は、他の令嬢よりスタートが後れた分を、必死に取り戻す必要があった。そのせいで、今よりずっと忙しく過ごしていた。
「あの頃は外で遊べないことが、とても辛かったわ。だけどマーサ先生に褒められたかったから、だから必死に頑張ってた」
私がポツリと漏らすと、イレーネは大きく頷いた。
「そう、リディはマーサ先生の期待に応えたくて、必死になっていた。そしてその頑張りの先にあるゴールは、フェリクス様のためだったんじゃないの?」
「……」
私は言葉が出てこなかった。確かに私は、母のように慕っていたマーサ先生に認めてもらう為に、必死に勉学に励んだ。でも最終目標は、確かにフェリクス様の妻になりたいからだった。
「今のあなたは、一番大事な人の想いが見えていないように思えるの」
「そんなこと……」
ないわと言いかけ、フェリクス様から今朝かけられたばかり、「最近笑わない」と言われた事実を思い出し何も言えなくなる。
「リディはフェリクス様の隣に並ぶに相応しい女性になろうと頑張っているわ。だから完璧な自分であり続けなければと、思い込んでいる。でもそれは、本当にフェリクス様の望むことなの?」
イレーネに真っ直ぐな視線を向けられ、私は思わず顔をそらす。
「でも、私にはそれくらいしか取り柄がないもの」
子供を授かる事の出来ない私は、せめて完璧な妻でいなくてはならない。この思いは、きっと子に恵まれたイレーネには分からないだろう。けれど、私の心の中に巣食う焦燥感を、イレーネは見抜いていた。
「跡継ぎの件で、あなたが後ろめたい気持ちになる。その気持が、今の私に全て理解出来るなんて、言わない。だけど、子に恵まれなくて申し訳なく思う気持ち。それってフェリクス様だって、感じていらっしゃるんじゃないの?」
私はハッとして顔を上げる。するとイレーネは、私以上に悲しそうな表情をこちらに向けていた。
「そもそも、完璧な人間なんか、この世にはいない。誰だってどんなに気をつけていたってオナラが出ちゃう時があるし、夫の隣で安眠していたら、よだれだって垂れちゃう。それは全部不可抗力だし、だからって私は、完璧な妻じゃないと、自分ではそう思わない」
イレーネの鋭い指摘に、私は目を伏せる。
「それに、完璧な人間になりたいなんて、それは結局のところ、あなたの自己満足でしかない。誰かの為に何かをしてあげたいと願う気持ちこそが、本当の優しさだし、愛情だと私は思う」
「……」
「マーサ先生の言葉に従うことは、確かに大切。けれど、もしマーサ先生の理想とする完璧な公爵夫人になれなくても、あなたはそれでいい。だってフェリクス様は、パン屑をうっかり頬につけちゃう、そんなリディの事も愛しているはずだから」
「イレーネ……」
イレーネの瞳は真剣そのもの。そして私を見つめるその視線は、とても優しかった。
「リディ。あなたは少し、自分を追い詰め過ぎているように、私には見えるの」
「……うん」
確かに最近の私は離縁に怯え、そのことで自分を責め続けている。
「マーサ先生の言うことは正しい。だけど、全てに従えばいいというわけでもない。時には自分の意思を持って、行動することも必要よ」
「自分の意思を持つ……」
私はイレーネの言葉を復唱し、考え込む。
マーサ先生の教えに背くことなど、私には想像もつかなかった。それに、イレーネが提案したように、自分の意志を持つ。その意味も良くわからない。でもそれが今の私に足りない事のようだ。
「じゃあ、私がこれからすべき事は?」
私は俯いていた顔を上げ、真っ直ぐにイレーネを見つめる。すると彼女は、ふわりと微笑んだ。
「たまには立ち止まって、周りを見てごらんなさい。そしてそこにあるものを、素直に受け止めてみることよ」
「周りを見る?」
「ええ。あなたには支えてくれる夫がいるじゃない。だからフェリクス様と、もっと踏み込んだ会話をするべきだし、きちんと自分の今の気持ちを、伝えるべきだと思う」
リディアの提案に私は慌てて首を振る。
「いやよ。そんな事を言ったら、フィル様はここぞとばかり、離縁の話をするに違いないもの」
私が咄嗟に発した言葉に、イレーネは悲しそうな表情を浮かべた。
「実はね、領地からここまでの移動は、それなりに体に負担がかかるの。だから、来月はもう来られないかも知れない」
イレーネは無意識に、お腹をさすりながら告げる。私は彼女からもたらされた告白に驚きつつ、確かに仕方のない事だと、納得する気持ちになる。
母になるイレーネにとって何より大事なのは、私じゃない。お腹の中にいる子なのだから。
「だからリディ、私はあなたが心配なのよ」
イレーネは不安げな眼差しを向ける。私は、彼女の言葉に胸が締め付けられる。
私はイレーネの事が好きだ。それは何でも話せる大事な親友だから。けれどこの時、私の心の中に、「ずるい」と、思う気持ち。子に恵まれたイレーネを妬む気持ちが私の中にわいていた。
そんな自分に嫌気がさしつつも、私は懸命に笑みを浮かべる。
「ありがとう。私は大丈夫。あなたとお腹の赤ちゃんの無事を祈ってるわ。頑張ってね」
上部だけ取り繕うような、どこか後ろ暗い気持ちを抱えた言葉を、私はイレーネに笑顔で告げたのであった。
幼い頃からの、無二の親友であるイレーネが領地に帰省してしまい、私はどんどん憂鬱な気分になっていった。
勿論イレーネの助言通り、フェリクス様にはっきりと、私達の間に立ちふさがる問題。このまま子に恵まれなかった場合、跡取りをどうするのか。という難題について、二人で膝を交えて話しあおうともした。
「でも、そんなこといまさらだし」
結婚してから四年も経っているのだ。その話題について、今まで一度も触れたことがないせいで、どう切り出していいのか、もはやわからない。何より私がその話題を出す事により、フェリクス様の口から離縁、もしくは今後愛人を持つかどうかについて話題に上がる事が怖かった。
結局勇気が出ない私は今までと同じ。出来るだけその話題に触れないよう、そしてせめてもという思いで、完璧な淑女である妻をこなそうと努力する日々を、繰り返している。
そして本日私は、二ヶ月後に迫った議会のセッション開催に向け、準備するため登城したフェリクス様宛に、彼が忘れた書類を届けに王城に出向いていた。本来ならば、執事であるアルバートに任せればよいのだが、彼が運悪くぎっくり腰になってしまったため、私が直接手渡ししたいと申し出たのである。
「だって、お仕事中のフィル様を見られるなんて、レアですもの」
日差しが優しく降り注ぐ中、王城に向かうため、淡い黄色い花柄のドレスに、揃いの帽子をかぶり、手には小さなスティック傘を持った私は、久しぶりに浮かれた気分で、馬車に乗り込んだ。
王城の入り口に到着し、厳粛な門をくぐり、庭園を通り抜けて城内に入る。来客用の馬車停めにたどり着くと、私は何度か足を運んだ時の事を思い出し、彼がいるという、議員控室に向かう。
議場と議員控室をつなぐ、中庭に面した回廊を進む。議会開催中は、慌ただしく行き交う人で賑わうその場所は、外の光が明るく差し込み、床や壁にも陽の光が反射し輝いていた。
中庭に面した通路からは、外の景色を眺めることができるため、議論の合間にリフレッシュすることもできそうだ。
私は周囲を見回し、呑気にそんな感想を抱いていたのだが。
「あれは……どういう事?」
目の前で繰り広げられる光景を見て、思わず柱の影に素早く隠れる。私が見つめる先。そこには見知らぬ女性と親しげに話しているフェリクス様の姿があった。
咄嗟に浮かぶのは「何でこんな所に女性が?」という疑問だ。そしてすぐに「あれは誰?」という不信感たっぷりな疑問へと続く。
私は動揺しつつも、二人の様子を柱の影からじっと見つめていた。すると私の視線を感じたのか、フェリクス様がこちらを振り向く。私は反射的に、慌てて身を隠す。そして心できっちり二十数え、私はまた柱の影からそっと顔をだす。すると、フェリクス様はもうこちらを向いておらず、再び向かい合う女性と話し始めていた。
私の視線を釘付けにする女性は、私より少し上。二十代中盤といった感じ。黒髪をゆったりとしたアップにまとめ上げ、深い瞳には知的な光が宿っている。彼女は薄緑色のドレスを着用し、スカートには控えめな花柄が施されていた。全体的に上品で落ち着いた印象を受ける女性だ。
「おっと」
柱の横を通り過ぎた、文官らしき制服を着た青年が立ち止まる。
「あなたは、一体こちらで何を……」
青年は柱の影に隠れる私の存在に気付くと目を丸くし、問いかけてきた。
私はこの、緊急事態である状況に、完璧な淑女である事も忘れ、訝しげな表情をした青年の袖を引っ張り、柱の影に引き込む。
「えっ」
青年は驚きつつも、私に引っ張られるまま、共に柱の影に隠れてくれた。
「ねえ貴方。あそこにいる方は一体どなたかご存知かしら? あの男性のお知り合いの方なのかしら」
「さあ、存じ上げませんが……」
青年も小声で返してくれた。
「でも、とても仲良しそうに見えるわ」
「そうですね。しかし、あのような場所に若い娘がいるなど、あまりよろしくない状況ではありますね。まぁ、あなたもですが。それにノイラート公も、女性をお迎えになるになるのであれば、もう少し場所を選ぶべきかと思いますが……。それとも、ノイラート公の愛人なのでしょうか?」
「えっ!?」
「あ、いえ、失言でした。今のはご内密に願います」
青年の言葉に、思わず声をあげてしまい、私は手袋をした手で慌てて自分の口を塞いだ。
「申し訳ありません。あなたのような若いご令嬢の前では、少々刺激が強すぎるお話でしたね」
青年は気まずそうな顔で謝ってきた。
「いえ、大丈夫よ。確かに驚いたけれど、それよりも……」
私は柱の陰に目を向ける。そこでは相変わらずフェリクス様と黒髪の女性が、笑顔を向け合い、楽しそうに会話を続けていた。
「愛人ってどういうことなのかしら?」
私は思い切って尋ねたみた。
「実はノイラート公の奥様は、少々複雑な事情を抱えているそうで」
「複雑なって、それって」
「ご結婚されて四年目なのですが、跡継ぎとなる子に恵まれておりません」
遠慮がちに告げられた、青年の返答に、「あぁやっぱり、噂になっているのだ」と、私は肩に玉ねぎを詰めた麻袋を乗せられたように、どんよりと重い気分に陥る。
「いえ、大丈夫よ。確かに驚いたけれど、それよりも……」
あの女性は一体誰で、フェリクス様とどのような関係なのか気になる。
私は柱の影に隠れたまま、フェリクス様に視線を戻す。そこでは相変わらずフェリクス様と黒髪の女性が笑顔を向け合い、親しげに会話を続けていた。
「そのような事情もあり、この場所で、ノイラート公に女性が近づいてくる事が度々あるのです」
「度々あるの?」
「えぇ、王城は貴族であれば、顔パスも同然の場所ですからね。父親に忘れ物を届けにきたとでも言い、身分が証明出来れば侵入出来ますから」
「まぁ、セキュリティーに問題がありそうな発言ね。でもそれをわかっていて、侵入する令嬢は、もっとタチが悪いわ」
私が指摘すると、青年は苦笑した。
「そもそも夜会や舞踏会では、隣に奥様がいらっしゃいます。よってこの場所はノイラート公を狙う女性からすれば、絶好の機会。格好の狩り場なのですよ」
「……なるほどね。それで、あの女性はフェ……ノイラート公のあ、愛人なのかしら?」
認め難い気持ちのせいか、上ずった声になってしまった。
「さぁ。それは何とも。しかし、これは噂ですが、ノイラート公は離婚を申し立てる旨を陛下に相談されたとか、なんとか」
「え」
私はまるで踏みしめる大地が地割れを起こしたかのように、足元がぐらつく感覚に襲われた。そして「離婚を申し立てる旨を陛下に相談された」という言葉だけが、頭の中で何度もリフレインされる。
「ですから、あなたにもチャンスがありますよ。頑張って下さい。では、私はこれで。あ、もしノイラート公に相手にされなかったら、私なんかどうですか?こう見えて、私は……って、大丈夫――」
青年の声を最後まで聞き取る前に私は、「離婚を申し立てる旨を陛下に相談された」という言葉に支配され、目の前に広がる闇の中にぐらりと沈んでいったのであった。
王城でうっかり気を失った私。次に目覚めたのは、何故か我が家の見慣れた天井と、まるで澄み切った青空のような、透き通る青い瞳。それからサラサラと流れる銀色の髪だった。
「おはよう。と言っても、もうすぐ夜だけど。具合はどう?」
「あ、私……」
「突然倒れた女性がいて。それが君だったから驚いたよ」
フェリクス様はベッドサイドに座り、私の片手を握ると、心配そうにこちらを見つめながら口を開く。
「ありがとうございます……。私はご迷惑をおかけしてしまったのですね」
私が起き上がろうとすると、彼はそれを制した。
「いや、いいんだ。それより、どこか痛むところはないかい?気分が悪いとか、体に異変があるとか」
彼の真剣な眼差しを受け、私は「心配されている」と嬉しくなり、少しだけ微笑んで見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、フェリクス様はほっとしたような表情を浮かべる。
「よかった……」
彼があまりにも優しく笑うものだから、思わず見惚れてしまう。
「あ、そう言えば書類を」
「大丈夫。ちゃんと受け取ったし、今日はもう暇をもらってあるから」
フェリクス様が何気なく告げた言葉に、私は罪悪感をおぼえる。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません。本来ならば何が何でも、お届けしなければならなかったのに」
本当にごめんなさいと、沈んだ声で告げる。すると彼は困ったように眉尻を下げて笑った。
「そんなこと気にしないでくれ。僕にとっては、君の体調の方が大事だから」
「でも……」
私が言い淀んでいると、彼は握っていた手を離し、今度は私の頭を撫でてくれた。
「それよりも僕は君を心配しているんだよ。最近食も細いと聞いていたし、顔色も悪い。それに何より、思い詰めた様子だったから」
懸命に隠していたつもりだった。けれどフェリクス様には全て見透かされていたようだ。
「すみません。イレーネが帰省してからずっと、寂しくて。それで、食欲もあまりでないんです」
私はいつものように嘘をつく。勿論全てが嘘ではない。イレーネと来月から会えなくなってしまったこと。それが私をより一層暗い気持ちにさせているのは確かだ。しかしここ数ヶ月。ひたすら私を悩ませているのは、フェリクス様に離縁されるかどうか、ということ。
自分の気持ちを密かに整理する私の脳裏に、文官の青年が発した、『離婚を申し立てる旨を陛下に相談された』という、残酷な言葉が思い出される。
「イレーネ嬢か。確かに彼女が帰省してから、君はより一層、塞ぎ込んだ様子だった。けれどもうずっと、僕といると君は辛そうだ」
フェリクス様の言葉にドキリとする。
「そんなことないです。私は毎日幸せです」
「そうだといいんだ。けれど、僕は君が心から幸せそうに笑う姿を、ここのところ見ていない」
彼の口から告げられた言葉に衝撃を受ける。私としては、フェリクス様の前で本音を隠し、上手く笑えていると思っていたからだ。
「二ヶ月後に迫る、議会のセッション開催に向け、僕はこれから忙しくなる」
突然告げられた言葉の意味がわからず、私はフェリクス様を見つめる。そもそも、フェリクス様が私に仕事の話をする事は稀だ。よってこの緊急事態に、私は嫌な予感を覚える。
「僕は今回、陛下より検査官長を任命されたんだ」
「検査官長ですか?」
「議会の財務や会計について監査を行い、問題があれば議会に報告する係だよ。今、王城に出向く事が増えたのも、それのせい。過去の監査報告書を確認しつつ、整理しているからなんだ」
それは初耳だったが、言われてみると納得できる部分もある。フェリクス様は今年、二十四歳になる。しかも公爵家の当主だ。これまで彼が政に関し目立って表の場に立つことはなかった。けれど、年齢的にも、地位的にも、そろそろ本格的に国政に関わらねばならないのだろう。
「もしかしたら、帰宅出来ない日もあるかも知れない」
「……そう、なんですね」
私はがっかりすると同時に、それでは妻失格だと唇を噛む。
夫が陛下より、名誉ある任を与えられた。
それは喜ぶべき事であって、憂う事ではない。
そう思うのに、帰宅出来ないということは、子を成すための行為も出来ないということだと気付かされる。最近では、フェリクス様と肌を合わせる度、「どうせ無駄なのに」と感じてしまう事も多かった。しかし、実際共寝出来ない日が増えると聞かされると、ガッカリする気持ちに襲われた。
これからフェリクス様が忙しくなるのは確実だ。だとしたら、忙しくなる前に、四年間もあったのに、子を成せなかった私はやはり妻失格なのだろう。
落ち込む私の脳裏にふと、議場と議員控室をつなぐ中庭に面した回廊で、仲良く微笑み合い、話を弾ませるフェリクス様と女性の姿が蘇る。あの人ならば、今私の髪に優しく触れる彼の子を残せるかも知れない。悔しいけれど私には出来なかったことを、あっさりとやってのけてしまうに違いない。
完璧な公爵夫人であるために私は、フェリクス様が検査官長に任命された事を喜ばなくてはいけないように、彼の子を残す確率が高い未来。つまり自分が身をひくことを、そろそろ選択しなくてはいけないのかも知れない。
人知れず決意し、フェリクス様の優しく細められた、私を見つめる美しい瞳と目が合う。すると数秒前に決意した思いは、たちまち薄れていってしまう。許されるのならば、まだもう少し。この幸せを独り占めしたいと、我儘に願ってしまった。
悶々とした気持ちを抱える私に、フェリクスはこちらを見つめたまま、声をかけてきた。
「そこで、なんだけど」
何かを言いづらそうに。そしてその気持ちを隠すかのように、私の頬にかかる髪を払う。
「はい」
私は、今度は一体何を告げられるのだろうかと身構える。
「今から話すこと。それは決して君の事が嫌になったとか、愛してないだとか、それこそ離縁だとか、愛人を連れ込みたいから。そんな理由じゃない。それだけは理解して聞いて欲しい」
「はい」
静かに相槌を打ちつつ、やたら長い前置き。そしてフェリクス様の眉間に深く皺が寄ったことに気付き、私はこれから告げられる事が、自分にとってあまりいい事ではない。それを悟る。
「君はしばらく」
そこで言葉を切ると一呼吸おいて、フェリクス様の薄く整った唇が開く。
「ビッテンフェルト伯爵家で療養をしたらどうかと思うんだ」
告げられた言葉に私は息を飲む。
これは想像していた以上。私にとって悪い知らせだ。
なぜならビッテンフェルト伯爵家とは、私の実家なのだから。
「この決断は、本当に、決して悪い意味の別居ではないという事を理解して欲しい」
焦ったように、早口で弁解するフェリクス様。それがまた、私を遠ざけるためなのではないかと、疑う気持ちをおこさせる。きっと妻である私に、愛人候補となる、あの女性との逢引を見せないための、フェリクス様の優しさなのかも知れない。
「実はここ最近、君の塞ぎ込んだ様子をビッテンフェルト伯とトニーに相談していたんだ。そうしたら、一回領地で療養してみたらどうかと、提案されたんだ」
「そう、なんですね」
私は脱力し、相槌を打つ。確かに父と兄に相談すればそうなるだろう。なんせ私は、母の忘れ形見のような存在なのだから。そして私に甘い二人は、いつになっても子が成せない事を、「気に病むな」と励ましてくるか、全く触れないか。そのどちらかだろう。
私は脳裏にしばらく顔を合わせていない家族の顔を思い出す。そして、ひたすら疲れ果てた心を癒やしてくれるに違いない、故郷に広がる自然の美しさが思い出される。緑豊かな丘や森林、流れる川や優雅に泳ぐ魚たち。思い描くだけで目の前が緑で溢れ、爽やかな風を感じられるかのようだった。
そこには、私が子供の頃に遊んだ小川や、自転車で走り抜けた小道、大好きだった並木道の景色が広がっている。夏の夜には遠くの山に響く虫の音と、風に揺れる木々の音が聞こえていた。秋には、枯葉を踏みしめながら、美しい紅葉を楽しんだ。
きっと故郷の自然は、私の心を癒し、力を与えてくれる。
「わかりました。私は実家に帰ります」
私が告げると、何故かフェリクス様は傷ついたような表情をする。
「君が了承してくれて嬉しいよ。じゃあ早速手配しておく」
フェリクス様は私の額に軽く唇を落とすと、すぐに立ち上がり部屋から出て行ってしまった。
「たぶん、これでいい」
ひとりぼっち、残された部屋で私は自分に言い聞かせる。
こうして私は、結婚四年目にして初めて。フェリクス様と離れ離れの生活を送ることになったのであった。
広大な領地を緑に染める木々は、あふれる生命力を感じさせる。木漏れ日が降り注ぐ森林は、美しいシダや色とりどりの花で彩られ、野鳥のさえずりや小川のせせらぎが耳に心地よい音を響かせていた。草原には風になびく早緑色の草が広がり、その中に飛び跳ねる小さなウサギやキツネがいる。青々とした丘陵地帯には、大きな牛群が草を食み、のどかな風景を作り出していた。
私の故郷、ビッテンフェルト伯爵領は、そんな自然あふれる場所だ。
フェリクス様と離れて暮らすようになってから、二週間ほど経った。
最初こそ、これを機にフェリクス様に離縁を言い渡されるという事実に、塞ぎ込み、うっかりすると、涙がとまらない。そんな日々を送っていた。けれど一日、また一日と、辛くとも逃げ場のない新しい毎日を重ねていくうちに、段々と私の中に諦めの気持ちが強くなってきた。
それはきっとフェリクス様が隣にいないから。
視界に入らなければ、人はどんなに悲しくともそれなりに現状を受け入れるようだ。全員が全員そうではないだろうけれど、少なくとも自分に非がある私は、諦めの気持ちになりつつあった。
城下と違い、自然豊かでのどかな風景は、私の心を優しく包み込み、そして確実に癒やしを与えてくれているようだ。そして一ヶ月が経った頃。離縁される事を覚悟した私は、「完璧な公爵夫人」という肩書をすっかり手放していた。
「お兄様、可愛げのない子をどうにかしてよ」
私は人が変わったように、言葉遣いも、言動も、すっかり田舎の領地仕様に戻り、兄の執務室に殴り込みをかけていた。
「おいおい、大事な私の跡取り息子であり、君の可愛い甥っ子だろうに」
「可愛くないわ。部屋の壁にクレヨンで落書きしたのよ」
「うわぁぁん、リディ、こーわーいー」
ここぞとばかり、私の足元で泣きじゃくるふりをするのは兄の息子。現在三歳になったばかりのカミルである。さりげなく鼻水を私のドレスで拭っているところが、ますます憎たらしい。
もちろん全てがミニマムな彼にも、憎たらしく思わない時はある。それはすばり、寝ている時だ。寝ている時は、本当に天使。いつまでも眺めていたいくらい可愛い。しかし、一度起きれば、もはや悪魔と化す。
どうやらそれが、子どもという存在らしい。
そもそも、私がうっかり完璧な淑女でいられなくなったのは、全て兄のせいだ。
兄の妻フローレンス様は、現在第二子となる子を出産し、実家に馴染みの乳母ごと帰省中。そして領主である、父や兄には仕事がある。よって必然的に、フェリクス様により、実家に戻され、暇を持て余す私が、カミルの面倒を見る羽目になっている。
「お兄様、私はもう無理。新しい乳母に頼めばいいじゃない」
「無理だよ。カミルは人見知りするし、今は母親を取られたような、そんな気分になってやさぐれているだけだ。寂しさゆえ、構って欲しくてお前にイタズラをしているのだろうからな。付き合ってやってくれ」
兄は仕方ないという表情を私に向ける。
「付き合ってやれって、そんなのもう無理よ。私だって限界」
「うわぁぁぁん!!」
私が声を荒らげ、兄に告げると、カミルはこちらの良心に訴えかけるかのように、これ見よがしに、大きな声で泣きじゃくる。
「それに、リディはこちらに来た時より、随分と元気そうじゃないか。つまり君を元気にさせているのは、カミルだ。何だかんだそれは間違いない事実だと思うけどな」
兄はケロリとした顔で言い放つ。
「それは……」
確かに認めざるを得ない。私は生まれ育った領地の、何処までも続く青い空の下。カミルに振り回され、ウジウジ悩む暇がないくらい、毎日忙しく過ごしている。そして、何だかんだ、この我儘極まりない甥の世話をする日々を、楽しいと思っている自分がいる。けれどそれを素直に認めるのは悔しくて、つい反論してしまう。
「そもそも三歳は大事な時期だって、育児書に書いてあったわ。だからきちんとした人に面倒を見てもらうべきよ」
「リディでも大丈夫だよ。それに、永遠に面倒を見ろと言っているわけじゃない。あと数日の我慢だろう?悪いが頼む」
話は終わりとばかり、兄が机の上に広げていた書類を手に取る。その瞬間ノックの音と共に、執事が入室してきた。
「失礼します。若旦那様、馬車の用意ができました」
「ああ、わかった。すぐに行く」
執事に答えた兄は、手に取ったばかりの書類を机に置くと、私に微笑む。
「悪いが、出掛けてくる。カミルをよろしく頼む」
実に爽やかに微笑むと、私の足元にまとわりつくカミルに「リディの言う事を聞くんだよ」などと、ひとごと全開の言葉をかけ、部屋を出て行ってしまった。
「お兄様の子じゃない。って、カミル。指を舐めちゃ駄目。バイ菌がいっぱいなのよ」
「だっこー」
兄がいなくなった途端、泣き止んだと思ったら、甘えるように私に両手を伸ばすカミル。
「……仕方ないわね」
私はため息をつくと、渋々甥を抱き上げたのであった。
***
その日私は、屋敷の中庭でカミルと散歩していた。すると、花壇に色とりどりの花を見つけたカミルは、猫まっしぐらという勢い。急に走り出してしまった。
「カミル、走っちゃだめよ」
兄の子に怪我でもさせたら大変だと、私は日傘を片手に慌てて追いかける。しかし、子どもの足というのは、なかなかに速いもの。おまけにこちらは重いドレス姿だ。
「あ、カミルってば、だめ!」
私が追いつく前にカミルは花壇に咲く、白いマーガレットを摘んでしまった。
「カミル、花壇のお花は摘んではいけないのよ」
私は「とんでもない事をしてくれた」と驚きつつ、カミルを注意する。するとカミルは目を丸くしたのち。
「リディにあげる」
カミルはそう言って、小さな手で掴んでいた、白のマーガレットを差し出す。
私は純真な言葉に触れ、思わず頬を緩めてしまう。
「……ありがとう。だけど、そういうことじゃなくてね」
カミルにきちんと花壇の花を摘んではいけない理由を説明しようと、彼の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「あげる」
カミルは笑顔のまま、私の髪にそっとマーガレットを挿す。
「えーと、あの……カミル」
「リディ、かわいい」
戸惑う私を見て、カミルは嬉しそうな笑顔を見せる。この瞬間、完全に私の負けが確定した。とは言え、きちんと躾をしなければ、今後カミルが困る事になってしまう。
「ありがとう、カミル。とっても嬉しいわ。でもお花を勝手に採ったらダメなのよ。次からはちゃんとハリスに許可を貰ってからにしましょう」
「うん」
理解しているのか、していないのか。カミルは笑顔で私の手を掴む。
「じゃ、お散歩の続きを」
「あ、ありさんだ」
目を輝かせ、カミルはその場にしゃがみ込んでしまう。そして花壇から列をなして歩くアリを、ジッと観察し始めてしまった。
「カミル……あなたってば、自由すぎるわ」
思わず脱力し、本音を呟く。
「まるで、かつてのお嬢様のようですね」
私は声のした方に顔を向ける。すると草むらにしゃがみこみ、手に持った鋤で土を掘り返す、ビッテンフェルト伯爵家お抱えの庭師ハリスの姿があった。彼はしっかりとした体格で、顔には深い皺が刻まれている老年男性だ。着用している作業服には、泥汚れや草の屑がついており、そばには古びた鋏や鎌が置かれてある。
「ごきげんよう、ハリス」
「こんにちは、お嬢様」
私は幼い頃から顔なじみであるハリスに、笑顔を向ける。
「私はもう少し、落ち着きがあったように思うのだけれど」
「そうですかねぇ。未だ私の記憶の中にいらっしゃるお嬢様は、あちらこちらへと。まるでヒラヒラと花の間を舞う蝶のように、庭を元気に走りまわっておりますよ。むしろカミル様の方がおとなしいくらいじゃないですかねぇ」
私達の様子を一部始終見ていたらしい、庭師のハリスが見知った顔で告げる。
「カミルよりも、という点について異論はあるけれど、私が元気だった事は、まぁ、間違いないわね」
私はすんなり、ハリスの指摘を認める。確かにマーサ先生が来てもしばらくのあいだ、私がお転婆だった事は疑いようのない事実だからだ。
「懐かしいですねぇ。そうだ。お嬢様もノイラート公のお坊ちゃまに、ここの花壇から、堂々とマーガレットを引き抜き、差し上げてましたよ。まさに今の今のカミル様のように」
ハリスが懐かしむように目を細め、風に揺れるマーガレットを見つめる。
「それは、よく覚えているわ」
しかも当時の私は今のカミルより年齢が上だったはずだし、花壇から花を抜くこと。それが悪い事だと知っていて、引っこ抜いた。
「マーガレットの花言葉が「真実の愛」だって、あなたに聞いたから。だから嬉しい気持ちになって、フィル様に告白したつもりだったのよ」
私はあの時、ハリスに明かさなかった理由を自然と口にする。
「でもフィル様は、今の私と同じだったわ」
花壇から花を引っこ抜いたこと。その事に戸惑いながら、それでも「ありがとう」と少し頬を染め、私が差し出したマーガレットを受け取ってくれた。そしてその後、きちんとハリスに頼むようにと、付け加えていた。
「懐かしいな」
あの頃も今も、私はフェリクス様をお慕いしている。けれど今の私はあの頃のように、ただ純粋な気持ちで、無邪気な気持ちだけで、フェリクス様を想う事ができなくなってしまった。
「一パーセントの確率だそうですよ」
ハリスが手を止め、突然そんな事を言い出した。
「何の話?」
「いえね、一般的に、初恋の人と結婚出来る確率だそうです」
「でも私は、政略結婚だもの」
ハリスの言葉にすぐに訂正を入れる。
私とフェリクス様は、物心つく前から、それこそ私達の意志など関係なく、結ばれる事が決まっていた。よって、「一般的」というくくりには入らない。
「それでも、です。お嬢様は叱られるとわかっていても、ノイラート公のお坊ちゃまに、花壇のマーガレットを差し上げたのですよね?」
ハリスの言葉にハッとする。そして、彼の言いたい事を私は理解した。
「……そうね。それでもだわ。私の初恋は間違いなく、フィル様だものね」
私は揺れるマーガレットを見つめながら、純粋な気持ちでフェリクス様が好きだった。その頃の懐かしい気持ちを思い出す。
「あの頃に戻ってもう一度やり直せたらいいのに」
もし記憶を残したままやり直せたら、私はフェリクス様と結婚しない未来を選んだかも知れない。そう思いたいのに、王都で彼と共に過ごした日々を思い出し、泣きそうになる。
なぜなら、今のように悩める気持ちになる前の、輝く日々が頭の中を駆け巡るから。
初めて「おかえりなさい」と屋敷でフェリクス様の帰りを迎えた、幸せで誇らしい気持ちを思い出す。
あの頃の私は、世界で一番幸せだと信じて疑わなかった。
「そうね、私は幸せだったわ」
彼への未練を断ち切ろうと、あえて過去形で呟く。そんな私の頭の中を埋めるのは、「ただいま」と少し照れくさそうに私に手を伸ばす、フェリクス様のはにかんだ優しい笑みだった。
その日、私はビッテンフェルト伯爵領で一番大きな街に出かけるため、馬車の中にいた。
なぜなら、領地で伸びのびと生活しているうちに、ドレスのウエストが若干キツく感じるようになってしまったからだ。そのため、いくつか公爵家から持ってきたドレスのウエストサイズを、不本意ながらも街にある洋品店でサイズアップしてもらう予定なのである。
路面の凹凸や坂道などにより変化する不規則な揺れ。それから馬車の車輪が地面と接触するときに伝わる振動。それらを体に感じながら、私を乗せた馬車は小石や砂利で覆われた、舗装されていない道を軽快に街へと進む。
私は馬車の中のつり革をしっかりとつかみ、窓の外。流れる風景を楽しみながら揺られているという状況だ。
「食事が美味しい。そう思えると、こうも太ってしまうのね」
私は不本意極まりない目的で街へと向かう事に罪悪感を感じ、かつて、私の侍女をしていたアンネに言い訳を口にする。
「でも、お嬢様。結婚して四年です。体型が変わらない事のほうが珍しいと思いますよ。私なんてもう何度、サイズアップする羽目になったか分かりませんわ」
アンネは苦笑しながら、ドレスの脇腹をつまむ。
今や、男爵家の妻となっている彼女は、ビッテンフェルト伯爵領を拠点とし、国中に支店をいくつも構える商会の娘。いわゆるブルジョワジーと呼ばれる階級出身の友人だ。
『いずれ貴族にアンネを嫁がせたい』
彼女の父親がそんな野望を背負っていた為、アンネは私の侍女として、私のそばに置かれた。そして私の話し相手と身の回りの世話をする係をしつつ、マーサ先生の元、共に淑女教育を受けていた仲でもある。
私にとってアンネは、私が結婚するまでずっと一緒にいてくれた、良き友人であり、戦友。そして忠実な侍女でもある。
今回もアンネは私の帰省に合わせ、わざわざ侍女を申し出て、駆けつけてくれた。そんな心優しい彼女は、イレーネ同様、私の人生にかけがえのない友人であることは間違いない。
「アンネのそれは、幸せ太りでしょ?」
私は気心知れた彼女に、つい軽口を叩く。
「幸せを付けたって、太ってしまったという事実に変わりはありません」
アンネは少し頬を赤らめながらも、嬉しそうだ。
それは彼女が今、確実に幸せであるという、何よりの証拠だろう。
「昔は、私もお嬢様に負けないくらい、可憐だったはずなのに」
アンネはわざとらしく悲しげな表情を作ると、自分の体を見下ろしてため息をつく。
「あら? 今でも十分可愛いと思うわよ?」
私は本音を告げる。
かつてのアンナは小柄で華奢な体型。目鼻立ちが整っており、微笑むと愛らしい笑顔で周囲に可憐な印象を与える容姿をしていた。確かにその頃に比べると、現在のアンネは、程よく日焼けした肌に、丸みを帯びた女性らしい体型に変化していた。けれど、それは悪い事ではない。年相応、快活な印象を受ける夫人といった感じだし、彼女が気にするほど太ってもいないと、私は感じた。
「お世辞だとしても嬉しいです。ありがとうございます。……でも、うっかりマーサ先生的には、この体型はやっぱりまずいとおっしゃると思うんです」
アンネは自分のウエスト部分に手を当て、不安げに首を傾げる。
「……そうね。確かに完璧を目指すマーサ先生にお会いしたら、お小言は言われそうだわ。でもあなたは命懸けで立派な跡継ぎを残してる。だからきっと許して貰えると思うわ。問題は私の方よ」
アンネは昨年すでに、第一子となる男子を出産済み。貴族の夫人として、大きくて責務を果たしている。それに出産後、体型が崩れるのはある程度仕方のない事だ。そんなアンネに比べ私は、領地でリフレッシュしてしまったせいか、出産未経験なのにもかかわらず太ってしまった。
これは由々しき事態だ。
「お嬢様だってきっと大丈夫ですよ。まだお若いんですし。それに何より、旦那様とはまるで新婚のように仲も良いじゃないですか」
アンネは明るく笑いながら告げる。彼女の屈託のない笑顔に、胸がチクンと痛む。
「……そうね、フィル様はとっても優しいわ」
子に恵まれない私たちは、いつまでたっても新婚気分のまま。はたから見たら、そう感じるのかも知れない。けれど言い換えれば子がいないせいで、親になれないせいで、いつまでたっても恋人同士のまま、浮かれた夫婦に見えているということだ。それは決して褒められたことではない。そして、そうなってしまう全ての問題は、やはり私にあるのだ。
私は、突然思い出したかのように、襲いかかる憂鬱な気分のまま、窓の外に顔を向ける。
馬の足音や鞍の音、車輪の音などを耳にしながら、車内にかすかに吹き込む風が頬をなでる感触に、何とか心を落ち着けようと、窓の外を見つめるのであった。
***
「――それでは、こちらのドレスは数センチほど。そして新たに仕立てられるドレスについては、後日お屋敷のほうにおうかがいさせて頂きます」
「えぇ、それでお願い」
私は無事洋品店で、居た堪れない気持ちに包まれたまま、ウエストのサイズアップについて手配を完了させた。そして、私とアンネは数時間ぶりに、店の外に出た。
「アンネ、まだ時間があるもの。久しぶりだからカフェでお茶でもしていかない?」
久々訪れた故郷の街並みを懐かしみ、そして様変わりした景色に驚きながら気分転換をしたかった私は、隣を歩くアンネに問いかけた。
「いいですね!」
彼女は満面の笑みを浮かべると、私の提案に賛成してくれる。そして、私たちは近くのカフェまで徒歩で移動することにした。
ビッテンフェルト伯爵領地の街は、土地の豊かさに恵まれたため、市場や商業活動が盛んで、人々の往来が絶え間ない。朝早くから農民が持ち込んだ新鮮な野菜や果物、肉、卵などが市場に並び、多くの主婦たちが買い物にやって来る。商店街では、裁縫道具や家庭用品、文房具、服飾品、食器など、さまざまな商品が店先に並び、見ているだけで楽しい。
市場や商店街以外でも、多くの人々が忙しく動き回っている。商業地区は、商人たちが商品を運ぶために従業員を連れ、荷物を運ぶ馬車が次々と通り過ぎていく。香辛料や食べ物の香りが漂う中、街には人々の喧騒やにぎわいの声が響き、活気溢れるものとなっていた。
目的地であるカフェを目指し歩いていると、私は人混みの中、一人の中年女性に目を奪われた。
「あら、あれは……」
思わず声を漏らす。そして、その姿を見失わないように、慌てて駆け寄った。
「えっ、リディアお嬢様?」
背後でアンネが驚く声が聞こえる。けれど私は構わず人混みの中に飛び込み、見つけた女性に声をかける。
「マーサ先生!!」
背後から声をかけた私に、ゆっくりと振り向く女性。
現在三十代後半と思われるマーサ先生は、相変わらず背が高く、長い黒髪をふんわりと束ねた上品な髪型。顔は細く、シワが目立たず、鼻筋が通った整った顔立ちのまま。目は深く澄んだ色合いで、瞳の奥には昔と変わらず厳しい印象を持ち合わせている。マーサ先生にしては珍しく明るい緑色の上品なドレスを身に着けていた。それでも以前と変わらず、全体的に落ち着いた雰囲気を持ち、品のある女性といった印象を私は彼女から受けた。
淑女のお手本といった感じで、ピンと張った姿勢でこちらに向き合った彼女は、私の記憶の中に未だ、色濃く印象に残るマーサ先生で間違いない。
「まぁ!」
マーサ先生は目を丸くし、心から驚いたという表情を浮かべた。
「リディア様、お久しぶりです。お元気でしたか?」
マーサ先生は優しく微笑んで、私に近づいた。その優しい声に、かつての厳しいマーサ先生とはまるで別人のようだと感じた。
「マーサ先生、お久しぶりです」
私は久々お会いした先生にかつて教えられた通り、丁寧に深く頭を下げた。すると、マーサ先生は私の姿勢に満足そうな表情を浮かべた。
「リディア様。そちらの方はお知り合いですか?あ、え?マ、マーサ先生!?」
少し遅れて驚きの声をあげたアンネが私達に合流する。
「まぁ、アンネ様とご一緒だったのね」
マーサ先生は、私たちに目を細める。
私は駆け寄ってしまったこと。それから少し太ってしまったこと。それらを叱られないかどうか、不安に思いつつも、懐かしい思いでマーサ先生に向き合うのであった。
マーサ先生と偶然街で再会した私とアンネ。
立ち話もなんだからと、マーサ先生を思い切ってカフェに誘ったところ、快く了承してくれた。
私たちが訪れたカフェは、エレガントで落ち着いた雰囲気漂う店だ。
カフェの内装は、彫刻が施された木製の椅子やテーブル、豪華な装飾の天井、そして繊細なシャンデリアなどで飾られている。また、壁には美術作品や鏡が掛けられ、大理石のカウンターには高級な食器が整然と並べられていた。
それもそのはず。カフェの客層は、貴族や経済的に豊かな者が多いからだ。現に私たちのように、シルクの手袋をはめ、美しいドレスを身にまとう女性たちが、友人同士テーブルを囲み優雅におしゃべりしている。
「それにしても、まさかお二人にお会いできるだなんて」
マーサー先生は紅茶を一口飲んでから、感慨深げに呟いた。
「先生は、どうしてこの街へいらしたのですか?」
私が尋ねると、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「実は……主人の使いで」
「え、マーサ先生はご結婚されていたんですか?」
「えぇ、昨年」
先生の言葉を耳にし、私は思わず息をのんだ。
結婚してからは、年に数回ほど季節ごとに手紙をやりとりする。そんな仲になってしまったマーサ先生と私。けれど、お互いの近況を当たり障りのないように伝え合う関係ではあったはずだ。
そう言えば、マーサ先生から昨年引っ越されたと連絡があった。けれどその事を知らせる手紙の中には、結婚と言う単語は記されていなかった。いくら思い返してみても、マーサ先生が結婚された。そのような知らせを受けた記憶が私にはなかった。
「リディアお嬢様、私も初耳です。全然知らなかったわ」
私が驚いた表情を浮かべたからだろう。隣に座っているアンネがすかさずフォローを入れてくれた。
彼女も知らなかった。その事実が示すのは、私が先生に失礼な事をしたわけではなく、マーサ先生が意図的にご自身の結婚について、知らせてくれなかったということ。一般的にめでたいはずの結婚を隠している。それは、マーサ先生の結婚に何か問題があるという事だろうか。
私は根堀り葉掘り、今すぐ尋ねたい気持ちに駆られる。けれど淑女のイロハを教わったマーサ先生に対し、詮索するのは流石にためらわれるというものだ。なぜなら、人のプライベートにずかずかと土足で踏み込むこみ、隠し事を暴こうとする行為は無粋な行為だと教わったから。
「そうですね。いろいろあって、あなたたちになかなか言い出せなくて」
マーサ先生は苦笑すると、紅茶を口に運んだ。
「…………」
「…………」
私とアンネは、先生自らが結婚に関する話を切り出すまで待つべきだろうかと。そんな意味がこもる視線を交わし合う。すると、私たちの胸の内を見透かすかのように、マーサ先生は優しくほほ笑むと、ゆっくりと口を開く。
「私の主人は貴族ではなく、教師をしている方なの。そして私は彼にとって、二人目の妻。彼の一人目の奥さまが亡くなって、それで私と再婚したのよ。今は彼と前妻の子との間に産まれた女の子とともに、家族三人でつつましく暮らしています」
淡々と告げられた事実に私はただ、ただ、驚く。
「子育てしているのは女の子なんですか?え、あ、いいえ」
アンネが、思わずといった感じで声をあげる。しかしすぐにまずいと思ったらしく、口にした言葉を誤魔化すように、慌てて扇子で口元を隠す。
そんなアンネの様子を横目で確認しつつ、私も内心言いたい事はわかると、密かに同意する。
完璧主義である厳しいマーサ先生の元で育てられる。その事実に対し、単純に大変そうだなと、お節介気味に思ってしまうからだ。
「マーサ先生、ご結婚おめでとうございます。もしご迷惑でなければ、お祝いを贈らせて頂きたいのですが」
私はアンネの失態を過去のモノとすべく、努めて明るく振る舞いながら、話を逸らすように、マーサ先生に質問する。
「ありがとう。あなた達は変わらないわね。真面目なリディア様と、明るいアンネ。二人が今でも仲良くしているのを知って嬉しいわ」
「そんな、真面目だなんて」
真面目。その言葉は、完璧とはいい難い今の私にとって釣り合わない言葉だ。そう思った私は、ついつい否定してしまった。
「そうですよ。リディア様はともかくとして、私なんてこんなに太っちゃったのに」
アンネが私の腕に視線を落としながら、自分の腕と見比べるように告げる。
「私だって太ってしまったわ」
私も小声で、自分の失態を暴露する。
「リディア様は変わらないように見えますし、アンネ様は健康的でとても素敵ですよ。それに、結婚すると日々の食事のスタイルや内容が変化します。少しくらい太ったとしても、気にする事はないですよ」
マーサ先生が発した言葉に、私とアンネは驚き目を丸くする。
かつての先生は、「貴族の女性は、身なりや体型にも気を配らなければなりません。特に太っているというのは、だらしがない、品がない事なのですよ」と、口を酸っぱくして私たちに、しつこいくらい告げていたからだ。
固まる私たちを見て、マーサ先生は申し訳なさそうな表情を浮かべると、そっと目を伏せた。
「ごめんなさい。あの頃の私は、本当にどうかしていたのよ。特にあなた達には完璧を求めすぎたと反省しているの。だから、謝らせて欲しい。ごめんなさい」
先生の謝罪に、私たちはさらに慌てふためく。
「そんな。先生は間違ってませんわ」
「そうです。むしろ感謝しています。おかげで、私は貴族と結婚できたんですし」
私とアンネは、全力で先生をかばおうとする。
「ありがとう。でもね、あの頃の私は、お父様が投資に失敗したせいで、世間でいうところ没落貴族といった状態。すでに地位と財産を失い、貧困に苦しんでいたの」
マーサ先生は、初めて私たちにご自身の過去を語り始めた。
「そのせいで、幼い頃から決められていた許婚には、婚約破棄されたし、私は一人で生きていかなければならなかった。だから、いずれ公爵家に嫁ぐ事が決まっているリディア様。それから爵位こそないけれど、大きな商会の娘であるアンネ様を立派に教育すれば、家庭教師として私の名が広まり、確固たる地位を築けると思い込んでいた」
先生はそこまで話すと、ティーカップに口をつける。
「けれど、今思えば、明るい未来が約束されたあなた達を羨む、そして嫉妬するような気持ちもあって、必要以上に厳しくしつけていたような気がするの」
「そんな事ありませんわ。先生は素晴らしい教師です。先生がきちんと私をしつけて下さったから、私はノイラート公爵家の皆様に、受け入れてもらえたんですもの」
先生の言葉を否定しようと、私は必死に訴える。
何故なら、先生が今口にした事を認めてしまえば、私が今まで正しいと信じてきたものが、「一体何だったの?」と根底から揺らいでしまうからだ。
「そうですね。私がお二人に教えたこと。その全てが間違っていた訳ではないし、見当違いである淑女教育をあなた方に施したつもりはありません。けれど、理想を求めすぎていた事、それによって、厳しくしすぎてしまったこと。それは決して、褒められたものではなかったという事も確かなんです」
マーサ先生は、真剣な眼差しで私を見つめると、ゆっくりと語り始める。
「……私は今、主人と前妻との子。リディア様のように、お母様を亡くした子を育てています。彼女はあの頃のリディア様よりずっと可愛げなくて、生意気で、意地悪で、頑固な子です。けれど、それは自然なこと」
マーサ先生は、お子様を思い出しているのか、ふっと頬を緩める。
「なぜなら、母親を亡くしているという過去を持つ子は、感情的に不安定になることがあるから。そういう子に必要なのは、厳しい淑女教育ではなく、子どもたちの気持ちをしっかりと受け止め、話を聞いてあげること。今はそう思うのです」
マーサ先生は、私が知っている彼女の様々な表情の中で一度も見たことがない、とても穏やかな顔でほほ笑む。そんな彼女の笑顔を見た私は、先生もお子さんも、旦那様と共に幸せな家庭を築いているのだろうと、どこか安心する気持ちになる。
「そしてあの頃の私にはそれが足りなかった。リディア様が私に褒められるとうれしそうな顔をする。それを上手く利用し、私は自分の将来の基盤を築こうとしていたのですから。今は娘の成長を見る度に、昔自分がリディア様にした仕打ちを思い出し、後悔の念に襲われるのです」
先生は悲しげな瞳で私を見つめる。その瞳は私の中に残る、かつての幼い私を探しているように、遠くを見つめている。
正直いまさら懺悔されても戸惑うばかりだ。
ただ、イレーネと最後に話した時、私は完璧を求めすぎていると言われた。そしてその原因の一つである、マーサ先生からやり過ぎていたと謝罪されたというのが現状だ。
私は、今まで信じていた事がたった今、失われた事に気付く。けれど、不思議とマーサ先生を恨む気持ちにはならなかった。
何故なら、長いこと私を縛り付けていたマーサ先生という、絶対的な存在から解き放たれるような、そんな解放的な気分になっていたからだ。
――ああ、そうか。私にとっての「完璧」とは、ある意味ただの自己満足。
誰かに認めてもらいたい、褒められたい。そして嫌われたくないという、それだけの気持ちだったのだ。そう思い至った時、私の心の中にあった重りが、すとんと落ちた。
どうして羽が生えたような、そんな軽い気持ちになるのかわからない。もしかしたら領地の懐かしい雰囲気に包まれ、のびのびとした生活を送っているからかも知れない。
とにかく今私は、完璧な淑女でいなければならないという、長年の、イレーネいわく呪いと呼ぶに相応しい気持ちから解き放たれたような気がし、心が軽くなっていた。
「先生は、その子を愛していらっしゃるのですか?」
私の口からそんな言葉が自然に飛び出した。
「ええ。愛しているわ。たとえ血は繋がっていなくとも。彼女は私の大事な娘ですわ」
先生の迷いのない言葉を聞いた瞬間、私は胸の中にあった、もやもやとした、もう一つの何かが消えていくのを感じた。
「先生。ご結婚おめでとうございます」
私は改めて、マーサ先生の結婚を祝う言葉を告げた。
「おめでとうございます。先生が幸せそうで、それから太ったって叱られなくて嬉しいです」
アンネが実に彼女らしく、お祝いの言葉を述べた。
「ありがとう。リディア様。アンネ様」
マーサ先生は、実に幸せそうな笑みを私たちに返してくれたのであった。
領地に里帰りをして、一カ月がたった。
私は美味しい空気と、広がる自然のおかげか、フェリクス様によって実家に戻された時よりもずっと、明るく前向きな気分で日々を過ごす事ができていた。
そんな中、来月から始まる議会のセッション開催に向け、ビッテンフェルト伯爵家でも王都のタウンハウスに、家族が移動するための準備に忙しくなってきていた。
特に今回は、兄の第二子となる娘、エレオノーラのお披露目も兼ねての王都訪問となる。そのため、いろいろと準備が大変なようだ。もちろん私も手伝うつもりだったのだが。
『リディ、君には大事な仕事がある。これは君にしかできない、大事な、それはもうとても大事な仕事だ』
やたら「大事な」という言葉を連呼し、ニヤニヤする兄から押し付けられたのは、やっぱりと言った感じ。三歳になる小さな紳士、カミルだ。
母親が伯爵家に戻った事で、幾分落ち着きを取り戻すかと思われたカミルだったが、自分より小さな妹に母親がかかりきりになりがちな事に不満なのか、カミルはエレオノーラにかみついた。
その事件をきっかけに、家族会議が開催されることとなる。そしてカミルが妹を自分と同じように、家族の一員であるという認識を持つまで、ひとまず、私が面倒を見るという案に満場一致で決定されたのである。
そして私は現在、屋敷の前に広がる広大な庭園にて、小さなカミルとお散歩中という訳だ。
「いいわよね。私もカミルも、お荷物仲間だものね。二人で仲良く遊びましょ」
不貞腐れつつ、素直になれない愛情に飢えた状態のカミルに対し、いつの間にか仲間意識を持ち始めた私。
「リディ、すき」
一緒にいる時間が多いせいか。それとも、生まれつき備わった生存本能によるものなのか。
カミルもいつの間にか私に懐き、現在私たちは、「のけもの仲間」として、なかなか良い関係を築けているという状態だ。
「うわぁ」
突然丘の向こう側から吹いてきた突風に、思わず目を閉じてしまう。私のスカートの裾が大きく広がり、ふわりと舞い上がる。片手でスカートを押さえた私が、あっと思った時には、すでに遅かった。私の視界に手をつなぐカミルの頭から、白い帽子が風に乗って飛んで行く様子が映り込む。
「あ、ぼくの、ぼうし!」
カミルが私の手を払い、ふわふわと空を舞う帽子を追いかける。
「あ、ちょっと待って」
私も慌ててカミルの跡を追うため、走り出す。
「今の風はすごかったですね。ふふ、久々よーいどんですわね!」
私たちの散歩に付きあってくれていたアンネも、元気ハツラツと言った感じ。
私に負けじと、カミルの跡を追うため、ドレスの裾を翻し走り出す。
「たいへん。リディ、みて」
大きなナラの木の下で停止したカミルが枝を指差す。
私は少し息を整えてから、カミルの隣に立ち、顔を上にあげる。するとそこには、しっかりとした幹につかまるように、木の上に引っかかっている帽子があった。
「木登りをすれば取れそうじゃない。カミルは登れそう?」
とりあえず帽子はそこにあると、ほっとした表情を浮かべる私とは対照的に、カミルの顔色は青ざめている。
「こわいよ……」
「大丈夫よ。 いざとなったら、私が助けてあげるから」
そう言って安心させようとするのだが、カミルは今にも泣き出しそうな顔のままだ。
「こわくて、いけない、やだ」
カミルはブンブンと首をふる。木の上の帽子を取るためには、木に登る必要がある。しかし、正直たいした高さではない。しかし、私よりずっと背の低いカミルにとってみれば、帽子が引っ掛かった位置は、はるか上空に感じるのかも知れない。
「じゃ、私にまかせて」
「リディア様、まさか、登るつもりなのですか?」
アンネが驚いた様子で声をかけてくる。
「えぇ、小さな頃、この木は隠れんぼの定番だったし。天辺まで登るわけじゃないから、何とかなると思うの」
「でも危険ですわ。私が誰か呼んで来ます」
「大丈夫よ。みんな王都へ行く準備で忙しいだろうし、たまには木登りも悪くないもの。それにカミルにいいところを見せたいし」
私は不安げな表情で、木に引っかかる自分の帽子を見上げるカミルにほほ笑む。
「私にまかせて。こんな木、余裕なんだから」
私がカミルの小さな手を離そうとすると、カミルはギュッと握り返してきた。
「リディ、いかないで」
「えっ!?」
「ひとりはやだよぉ」
カミルの大きな瞳から、ポロっと涙がこぼれ落ちる。私はそんなカミルの様子に、「兄さんの子なのに」と思わず動揺してしまう。なぜなら、幼い頃の兄のイメージは私と変わらず、野生児といった感じ。この辺の木は全て登った事があるし、しょっちゅう泥んこになって庭を駆け回っていたからだ。
「いくら大事な嫡男だからって、兄様は少し過保護すぎるのよ。それに、妹に見本を見せるのは兄の義務なのよ」
私は自分に言い聞かせるように、カミルの手を握り返しつつ、しゃがみ込む。
「いい、カミル」
「うん」
「あなたの妹、エレオノーラはあと数年もしたら多分、いいえ絶対に、あなたに遊んでほしいと、跡を追い回すようになるわ。その時に、木登りを怖がっていたら、格好悪いと思わない?」
「あそぶの?」
「そう。エレオノーラはきっと、あなたが好きになるもの」
「そうなんだ」
カミルは少し嬉しそうに頬を染めると、コクリと首を縦に振る。
「もし、エレオノーラの帽子が飛んでしまうような事があったら、カミルが格好良く取ってあげるの。それが出来たら、エレオノーラはきっとあなたの事がもっとすてきに思うようになるわ」
「うん……ぼく、がんばる」
「よし、いい子ね。じゃ、まずは私が見本を見せてあげるわ」
カミルの頭を撫でた後、私はゆっくりと立ち上がる。そしてスカートの裾を軽く持ち上げながら、カミルの手を引きつつ、木に向かって歩き出す。
「本当に気をつけてくださいませ」
心配するアンネをよそに、私はカミルから手を離すと、木へと近づき、よじ登っていく。
「リディ、あぶないよ」
「平気よ。ほら見て。もうすぐ届くわ」
幹の太さは私の腰回りくらいだが、意外と枝が多くて足場になりそうな場所も多い。これならば、思ったより簡単に登れるかもと、安心して手を伸ばす。そして私は難なくカミルの帽子を奪回する事に成功した。
「すごい、リディ、かっこいぃ!」
木の下にいる、カミルが目をキラキラさせて褒めてくれる。
「なんだか、昔に戻ったみたいですわ」
アンネがどこか懐かしそうにつぶやく。
「ふふふ、ありがとう。小さい頃は毎日のように登ってたんだもの。これくらいどうってことないわ」
私はカミルに笑顔を向けたあと、木の合間から久しぶりに、広がる領地の景色を見下ろす。柔らかな草の感触と、木々から漂う爽やかな香りに包まれながら、夫となったフェリクスと一緒に木登りをしたことを思い出す。
私の心は領地からはるか先、王都にいるフェリクス様の元に向かっていた。元気だろうか、会いたいなと、切ない気持ちが込み上げてくる。そして私の心に同調するように、風が吹き荒れ、木々が揺れ動く。
「おや、私の愛する人は、随分と楽しそうだね」
聞き慣れた声が地上から聞こえ、私はまさかと下を向く。
するとそこには、光を反射し、まるで宝石のように輝く銀色の髪。それから、澄みきった空のような、青く美しい瞳を持つ男性が笑顔でこちらを見上げている姿があった。
「フェ、フェリクス様!?」
私は驚きのあまり、木から転げ落ちそうになる。
「危ないよ」
フェリクス様は素早く木の下までやってきて、足を滑らせた私を抱きかかえる。
「ど、どうしてここに?」
「どうしてって、君を迎えに来たんだよ」
「え、でもだって……」
フェリクス様は私と離縁したいから、実家に私を返したはずだ。
「リディ、エレオノーラみたい」
くすくす笑うカミルに指摘され、私はフェリクス様に抱きかかえられているという状況に気付く。しかも領地に来て太った私を、フェリクス様は抱きかかえているわけで。
「し、失礼しました。それより、早く下ろしてください」
「嫌だね。君にせっかく会えたのだから」
「でも、カミルが見てますし。アンネもおりますし、恥ずかしいので!」
私が強めに告げると、フェリクス様はしぶしぶといった様子で私を地面に下ろす。
「君は、その、見違えたようだ」
そう言って私を見つめる青い瞳は、どこまでも優しい。けれど、心なしか目の下のクマがひどいし、フェリクス様に限ってヒゲの剃り残しもある。気付くと、私は彼の頬に手を伸ばしていた。
「ひどいだろう?君がいなくなってから、何だか眠れなくてね。仕事にも支障が出てしまうし……。君がいないと僕はダメなんだ。だから、どうか僕の元へ帰ってきて欲しい」
フェリクス様は懇願するように、そう告げると私の答えを待たずに、またもや私を抱き寄せると、おでこに優しく口づけをする。
「リディア、愛している」
やつれたフェリクス様が優しい顔を私に向ける。
「私もです。私、ずっと寂しかったんです」
私は思うまま、自分の気持ちを告げた。
「会いたかったんです」
ついに我慢できず、フェリクス様の背中に腕を回す。するとフェリクス様はぎゅっと抱きしめ返してくれた。その瞬間、私の戻る場所はやっぱり彼の腕の中がいいと強く思う。
「ねぇ、ふたりはなかなおりをしたの? 」
突然カミルの無邪気で、冷静な指摘が飛び込んでくる。
「えっ!?」
私は慌ててフェリクス様から離れようとするが、彼は逃すまいとするかのように、私の腰に手を回してくる。
「そうだよ。仲直りしたんだ」
「よかった。なかよしがいちばん!」
カミルが嬉しそうに笑いながら、私たちの周りをぐるりと回るのであった。