幼い頃からの、無二の親友であるイレーネが領地に帰省してしまい、私はどんどん憂鬱(ゆううつ)な気分になっていった。

 勿論イレーネの助言通り、フェリクス様にはっきりと、私達の間に立ちふさがる問題。このまま子に恵まれなかった場合、跡取りをどうするのか。という難題について、二人で(ひざ)を交えて話しあおうともした。

「でも、そんなこといまさらだし」

 結婚してから四年も経っているのだ。その話題について、今まで一度も触れたことがないせいで、どう切り出していいのか、もはやわからない。何より私がその話題を出す事により、フェリクス様の口から離縁、もしくは今後愛人を持つかどうかについて話題に上がる事が怖かった。

 結局勇気が出ない私は今までと同じ。出来るだけその話題に触れないよう、そしてせめてもという思いで、完璧な淑女である妻をこなそうと努力する日々を、繰り返している。

 そして本日私は、二ヶ月後に迫った議会のセッション開催に向け、準備するため登城したフェリクス様宛に、彼が忘れた書類を届けに王城に出向いていた。本来ならば、執事であるアルバートに任せればよいのだが、彼が運悪くぎっくり腰になってしまったため、私が直接手渡ししたいと申し出たのである。

「だって、お仕事中のフィル様を見られるなんて、レアですもの」

 日差しが優しく降り注ぐ中、王城に向かうため、淡い黄色い花柄のドレスに、揃いの帽子をかぶり、手には小さなスティック傘を持った私は、久しぶりに浮かれた気分で、馬車に乗り込んだ。

 王城の入り口に到着し、厳粛(げんしゅく)な門をくぐり、庭園を通り抜けて城内に入る。来客用の馬車停めにたどり着くと、私は何度か足を運んだ時の事を思い出し、彼がいるという、議員控室に向かう。

 議場と議員控室をつなぐ、中庭に面した回廊(かいろう)を進む。議会開催中は、慌ただしく行き交う人で賑わうその場所は、外の光が明るく差し込み、床や壁にも陽の光が反射し輝いていた。
 中庭に面した通路からは、外の景色を眺めることができるため、議論の合間にリフレッシュすることもできそうだ。

 私は周囲を見回し、呑気にそんな感想を(いだ)いていたのだが。

「あれは……どういう事?」

 目の前で繰り広げられる光景を見て、思わず柱の影に素早く隠れる。私が見つめる先。そこには見知らぬ女性と親しげに話しているフェリクス様の姿があった。

 咄嗟に浮かぶのは「何でこんな所に女性が?」という疑問だ。そしてすぐに「あれは誰?」という不信感たっぷりな疑問へと続く。

 私は動揺しつつも、二人の様子を柱の影からじっと見つめていた。すると私の視線を感じたのか、フェリクス様がこちらを振り向く。私は反射的に、慌てて身を隠す。そして心できっちり二十数え、私はまた柱の影からそっと顔をだす。すると、フェリクス様はもうこちらを向いておらず、再び向かい合う女性と話し始めていた。

 私の視線を釘付けにする女性は、私より少し上。二十代中盤といった感じ。黒髪をゆったりとしたアップにまとめ上げ、深い瞳には知的な光が宿っている。彼女は薄緑色のドレスを着用し、スカートには控えめな花柄が施されていた。全体的に上品で落ち着いた印象を受ける女性だ。

「おっと」

 柱の横を通り過ぎた、文官らしき制服を着た青年が立ち止まる。

「あなたは、一体こちらで何を……」

 青年は柱の影に隠れる私の存在に気付くと目を丸くし、問いかけてきた。

 私はこの、緊急事態である状況に、完璧な淑女である事も忘れ、(いぶか)しげな表情をした青年の(そで)を引っ張り、柱の影に引き込む。

「えっ」

 青年は驚きつつも、私に引っ張られるまま、共に柱の影に隠れてくれた。

「ねえ貴方。あそこにいる方は一体どなたかご存知かしら? あの男性のお知り合いの方なのかしら」
「さあ、存じ上げませんが……」

 青年も小声で返してくれた。

「でも、とても仲良しそうに見えるわ」
「そうですね。しかし、あのような場所に若い娘がいるなど、あまりよろしくない状況ではありますね。まぁ、あなたもですが。それにノイラート公も、女性をお迎えになるになるのであれば、もう少し場所を選ぶべきかと思いますが……。それとも、ノイラート公の愛人なのでしょうか?」
「えっ!?」
「あ、いえ、失言でした。今のはご内密に願います」

 青年の言葉に、思わず声をあげてしまい、私は手袋をした手で慌てて自分の口を塞いだ。

「申し訳ありません。あなたのような若いご令嬢の前では、少々刺激が強すぎるお話でしたね」

 青年は気まずそうな顔で謝ってきた。

「いえ、大丈夫よ。確かに驚いたけれど、それよりも……」

 私は柱の陰に目を向ける。そこでは相変わらずフェリクス様と黒髪の女性が、笑顔を向け合い、楽しそうに会話を続けていた。

「愛人ってどういうことなのかしら?」

 私は思い切って尋ねたみた。

「実はノイラート公の奥様は、少々複雑な事情を抱えているそうで」
「複雑なって、それって」
「ご結婚されて四年目なのですが、跡継ぎとなる子に恵まれておりません」

 遠慮がちに告げられた、青年の返答に、「あぁやっぱり、噂になっているのだ」と、私は肩に玉ねぎを詰めた麻袋を乗せられたように、どんよりと重い気分に(おちい)る。

「いえ、大丈夫よ。確かに驚いたけれど、それよりも……」

 あの女性は一体誰で、フェリクス様とどのような関係なのか気になる。

 私は柱の影に隠れたまま、フェリクス様に視線を戻す。そこでは相変わらずフェリクス様と黒髪の女性が笑顔を向け合い、親しげに会話を続けていた。

「そのような事情もあり、この場所で、ノイラート公に女性が近づいてくる事が度々(たびたび)あるのです」
「度々あるの?」
「えぇ、王城は貴族であれば、顔パスも同然の場所ですからね。父親に忘れ物を届けにきたとでも言い、身分が証明出来れば侵入出来ますから」
「まぁ、セキュリティーに問題がありそうな発言ね。でもそれをわかっていて、侵入する令嬢は、もっとタチが悪いわ」

 私が指摘すると、青年は苦笑した。

「そもそも夜会や舞踏会では、隣に奥様がいらっしゃいます。よってこの場所はノイラート公を狙う女性からすれば、絶好の機会。格好の狩り場なのですよ」
「……なるほどね。それで、あの女性はフェ……ノイラート公のあ、愛人なのかしら?」

 認め難い気持ちのせいか、上ずった声になってしまった。

「さぁ。それは何とも。しかし、これは噂ですが、ノイラート公は離婚を申し立てる(むね)を陛下に相談されたとか、なんとか」
「え」

 私はまるで踏みしめる大地が地割れを起こしたかのように、足元がぐらつく感覚に襲われた。そして「離婚を申し立てる旨を陛下に相談された」という言葉だけが、頭の中で何度もリフレインされる。

「ですから、あなたにもチャンスがありますよ。頑張って下さい。では、私はこれで。あ、もしノイラート公に相手にされなかったら、私なんかどうですか?こう見えて、私は……って、大丈夫――」

 青年の声を最後まで聞き取る前に私は、「離婚を申し立てる旨を陛下に相談された」という言葉に支配され、目の前に広がる闇の中にぐらりと沈んでいったのであった。