スマホを持ち歩いていない初老の女性は、電車内で俯く人々を見て電車に揺られていた。ほとんどの人がスマホを用いている。繋がれる人がいるのを羨ましく思いながら、扉に体をもたせ掛け窓の外へと視線を向けた。春が訪れた四月半ばでも日が暮れるとまだ寒そうだ。日中は暖かかったから、薄いジャケットしか羽織っていない。日が暮れる前に帰るべきだった。帰宅者が多い夕暮れの時間帯。人も多く扉付近に立っているのが窮屈だった。
することがないから窓から流れる景色を見て、ぼうっとしてしまう。
地平線の向こうで太陽が沈み、徐々に闇が迫るグラデーションになっている。トワイライトのまどろみに一日の終わりの寂しさを感じていた。
その時、空から流れ星が筋を描いて落ちてきた。それは大きな明るい光となってぱっと発光する。あっと思った時には、落ちながら小さくなってすーっと消えていった。
もしかしてUFOかもと思えば、ちょっとドキドキだ。その決定的瞬間を撮影できなかったことを悔やんでしまう。
誰か他に見た人がいるだろうか。辺りをきょろきょろするがみんな下を向いてスマホを見ている。こういう時、スマホを持っていたら撮影できたかもしれない。それをまた誰かと共有してみたかった。
「きれいだったな」
その年老いた女性は小さく呟く。
せめて願い事でもするべきだった。離婚してから会っていない娘にいつか会えますようにくらいは――。
急に寂しさが募り、誰かと繋がりたい衝動に駆られる。
また次の流れ星が来ないか、その女性はじっと空を見つめていた。そして夜の闇はどんどん深くなっていった。
その夜、テレビのニュースで火球が現れたと話題になり、監視カメラに偶然収められていた映像が流れる。ネットの中でも話題になって大勢の人がそれを目にしていた。
「あのね、昨日の夜にお空から大きなお星さまが流れてきてね、ミカね、お願いしたの」
病室の窓を指差し、小学校に上がる前の小さな女の子がベッドで横たわりながら、興奮気味に母親に向かって話していた。
「それで何を願ったの?」
優しい笑顔を娘に向け、ミカの母親、国広優子は訊いた。
「早く退院して色んなところに行きたいって!」
ミカは屈託なく大きな声で答える。
「じゃあ、早く元気にならないとね」
できるだけにこやかに優子も答えるが、心の中では嘘をついているようで心苦しい。自分の娘が不治の病に侵され長く生きられないことを知っているからだ。
「それで、お星さまもね、色んなところに旅行したいから一緒に行こうって誘ってくれたの」
これくらいの小さな子供は自分の中で物語を勝手に作る。ずっと病院から出られないミカにとって空想することが唯一の楽しみだ。
優子は娘のために話を合わせる。
「優しいお星さまだね」
「でもね、ミカ、まだ病院から出られないでしょ。だからお星さまに、このクマのぬいぐるみをミカの代わりに連れて行って欲しいってお願いしたの」
枕元にいつも置いているミカが大切にしている三十センチ程の大きさのクマのぬいぐるみだった。
使われている素材にこだわりがあり、カールした茶色い毛並みでモコモコしている。手足が動く可動式だから、好きなポーズを取らせる事ができて愛らしい。左耳にはトレードマークのボタンとタグがついて世界でも名の知れたテディベアだ。普通の物よりも少し高かったけど、ミカの父親が娘かわいさに奮発して買ってきたものだった。
一人で寂しくないようにとミカが入院してからずっと一緒にいるお気に入りのぬいぐるみだ。
ミカはそれを手にして優子に差し出す。
「それでね、連れてってくれるって。だから、いっぱい写真も撮ってきてねって頼んだの」
ミカの話はどんどん膨らんでいく。
それが無理なことだから優子はどうしようかと思ってしまった。
「でも、このぬいぐるみはパパがミカのために買ってきて、ミカも大切にしていたでしょ? いなくなると寂しいじゃない」
どうにかして、ぬいぐるみがどこにも行かないことにしないといけない。
「大丈夫。パパもきっといいよって言ってくれる。だって私の変わりに旅行してくれて、写真をいっぱい撮ってきてくれるんだもん。全然寂しくないよ。あー、いつ行くんだろうな。楽しみだな」
現実と空想がごっちゃになっている娘を見て、優子は悲しくなっていく。
ミカはいつもより興奮気味だ。その時、ぐっと顔をしかめた。
「ママ、ちょっと胸が苦しい」
「ミカ、大丈夫よ。すぐに収まるからね」
ナースコールのボタンを押し、すぐに知らせる。
またミカの容態が悪くなっている。優子もその様子に胸が苦しく、娘を助けてやりたくてたまらない。
病室に慌ただしく看護師が現れる。
「ミカちゃん、どうされました?」
「ちょっと胸が苦しいといいだして」
優子が側で説明をすると、看護師はテキパキとミカの様子をチェックする。
「息を吸って、吐いて」
看護師と一緒にミカは呼吸をするうち、ミカの表情が和らいだ。
「ミカちゃん、ちょっと興奮したかな。何を話していたのかな?」
「あのね、これからお星さまとクマのぬいぐるみが旅行する話」
「面白い話だね」
看護師は訳がわかってなくても、微笑んで楽しそうにしてくれた。
「本当だよ」
「うん、わかったから、今は、ミカちゃんがゆっくり休もうね」
「はい」
ミカは大人しく体を静かにベッドに沈ませた。窓に視線を向け空を見続ける。
今にもお星さまが迎えに来てくれると思わんばかりだった。
落ち着いたのを確認し、看護師と優子は病室を出て廊下で話した。
「ミカちゃん、もう大丈夫ですよ。少し興奮しただけですね」
看護師が心配ないと今度は優子を落ち着かせようとした。
「そうですか。どうもすみませんでした」
浮かない顔をした優子を見て、看護師は首を傾げた。
「どうしたんですか、何か他に心配事ですか?」
「娘が興奮した理由なんですけど……」
事の発端を優子は説明する。
「なるほど。そういえば、昨日、大きな流れ星が見られたみたいで、ちょっとしたニュースになってましたね。私もそれツイッターに流れてきたから見ました。しかも、ちょうどこの周辺は特に大きく見えたらしくて、向こうの山の方に落ちたんじゃないかって言われてました」
「そんなに大きいものだったんですね。だから娘は窓からそれを見て、びっくりしたでしょうし、本当に願いが叶うかもって思いこんだんですね」
娘にとってそれは特別なことだと優子は納得するも、そこからどうしていいのかわからない。
「でも、そのお星さまがクマのぬいぐるみを旅行に連れて行くのは無理がありますね……あっ!」
看護師は目を見開き、突然ひらめいたことに興奮し声を上げた。
「どうされたんですか?」
「あの、急にいいアイデアがおりてきました」
看護師はそれでいいのか自信がもてないながらも、優子に説明していた。
そして、優子は電話をして夫の秀則にその話を伝えていた。
男子校に通う高校生の武井俊也はとても消極的で友達も少ない。普段から無口であまり自分の事も話さない。当たり障りなくただ誰かにくっ付いて学校生活に波風立たないように過ごしている。
クラスで目立つ佐々木豊と隣の席になってから、その穏やかな生活に支障がきたすようになってしまった。
「俊也、数学の宿題ちょっと見せてくれ」
はっきりいって、自分が一生懸命やったものを、はいどうぞと簡単に見せるのは抵抗がある。だけど、圧を感じる笑顔で頼まれると断ることも出来ず、ずるずるということをきいてしまった。
「まちがっていても知らないよ……」
「大丈夫、大丈夫、俺、そんなの気にしねえから。ただやってきたという形が必要なだけ」
ノートを貸した後、それが戻ってきた時、一緒にキャンディが一個ついてきた。
「ちょっとしたお礼だ。ありがとな」
明るく言われると、知らずと俊也は笑っていた。
「お前、笑うとえくぼができるんだな」
頬に指を差され面と向かって豊から言われると、俊也は慌ててしまう。
「そうかな」
あまりいいことじゃないように思えて、俊也は頬を手で何度もさすった。
「恥ずかしがることなんてないよ。かわいいぜ」
茶化されているようで、俊也はいい気分じゃなかった。豊はそんなこともお構いなしにぐいぐいせまってくる。
「なぁ、よかったらこれ繋がらないか?」
スマホを見せられ、俊也は逡巡する。
豊からしつこくスマホを出せといわれると、仕方なく俊也は鞄から取り出した。無理やりライン登録させられ不安になっていた。
「これでよし。また分からないことがあったら、これで気軽に訊ける」
友達としてじゃなく、利用されているものを俊也は感じてしまう。
「俊也は他にもツイッターやインスタなんかやってる?」
「……やってない」
「それじゃさ、もしやったら、俺をフォローしてくれな。ほら、これ俺のツイッターアカウント」
それを見せられて俊也は苦笑いしてしまった。本当は嘘をついていた。俊也もツイッターはしていた。だけど自分を偽って違うキャラになりきっての配信だから知られたくはなかった。
「あっ、ミカチャレンジがアップされてる。おっ、これ結構近くじゃないか」
スマホを見つめ、豊はひとりで話していた。
俊也もついそれを覗き込む。そこにはクマのぬいぐるみが擬人化されたように駅名が入った看板と写りこんでいた。
「あっ、かわいい」
俊也はつい声が出た。男だけども、ぬいぐるみを集めるのが趣味だから、しっかりとした作りのクマのぬいぐるみは俊也の好みだった。
「これな、病気のミカちゃんのためにクマのぬいぐるみが旅行して励ましているんだぜ」
「クマのぬいぐるみが旅行?」
「ああ、なんでも人から人へと善意で手渡されて、そこでクマが旅行しているように写真を撮るらしい。ミカチャレンジってハッシュタグをつけて、このぬいぐるみが全国を旅している様子をツイッターにアップするんだ」
「写真撮ったあとはまた次の誰かにそのぬいぐるみを渡すの?」
「そんな感じ。そうやって、いろんな人がこのぬいぐるみを旅に連れて行くんだ。旅行をしたくてもできない病気のミカちゃんのためなんだって。またこれが自分の元にやってきたら願いが叶うとかっていう噂もあって、みんな来ないかなって待ってるらしい」
これをフォローしている豊もそのうちの一人かもしれない。
そんな話を聞くと俊也も興味が湧いてきた。そのクマのぬいぐるみは今、写真を見る限り隣町の駅にいるらしい。俊也も手にして写真を撮ってみたくなっていた。
「そのクマはどのくらい旅をしているの?」
「まだ一ヶ月ちょいくらいかな。でもあっという間に広がって写真はいっぱいアップされてるんだ」
豊はスクロールして写真を確かめていた。
そこに、病室のベッドの上でにこっと笑っている女の子の姿が出てきた。
「その子がミカちゃん? かわいい」
俊也が訊くと豊はにやっと笑う。
「お前、もしかしてロリコンか?」
「違うよ。そういう年頃の女の子って無垢で自然なかわいらしさがあるからさ、素直にかわいいって思ったんだよ」
「言い訳して、なんか怪しいな」
「かわいいものをかわいいって何が悪いんだよ」
「ちょっとからかっただけだよ。お前、真面目な奴だな」
豊のようなガサツな奴から、からかわれると俊也にはストレスだった。豊はどこで害になるかもしれない。いいように扱われるのが嫌で、一線を引いて警戒する。
そして放課後、俊也はすぐに帰路につき、もしかしたらクマのぬいぐるみに会えないか、写真が撮られた場所へと出かけた。
自分のスマホを取り出し、ツイッターを確認する。ハッシュタグから検索した画像を元に駅のホームの中を見回すが、ぬいぐるみを持っている人はいなかった。
「一緒に写りたかったな」
ミカチャレンジに俊也は参加したかった。あのクマのぬいぐるみと一緒に写真が撮れたらきっと話題になったかもしれない。
自分のツイッターアカウントを見て、俊也は油断してニヤッと笑ってしまう。我に返った時、慌ててしまった。誰かに見られたような気がして逃げるように家路に着いた。
家に戻ると、父親が珍しく早く帰っていた。
「あれ、お父さん、今日は早いね」
家の中を慌ただしく動き回っている父親に俊也は声を掛けた。
「ああ、明日、急に東京の本社に出張でさ、早めに帰ってきた」
「ふーん、大変だね」
「あっそうだ。母さん、アレはどこ行った?」
父親は準備に忙しそうだ。それを尻目に俊也はリビングルームのソファに目が行った。そこに知っているものが座っていたからびっくりした。
「あっ、なんで、ここにいるの!?」
「ああ、そのクマのぬいぐるみだろ。今、なんかプロジェクトがあるらしいんだけど、これをもって東京に連れていけって言われたんだ。観光名所で写真撮って次の人にバトンタッチするんだとか」
「お父さん、ツイッターのアカウント持ってるの? それどうやるか、わかってる?」
「病気の女の子を励ますために色んなところで写真を撮るんだろ。IDカードも首にぶら下がってるだろ。そこに簡単な説明が書いてあったよ。写真のあげ方はよくわからないけど、とにかく本社の人に手伝ってもらうよ」
「ねえ、ちょっと貸して」
「いいけど、汚すなよ」
俊也は嬉しくてたまらない。
早速自分の部屋に篭り、制服を脱ぎ捨てる。クマのぬいぐるみと一緒に撮るために準備しだした。
「ウイッグかぶって、猫耳のカチューシャつけちゃおうかな。服は白いワンピースが清楚でいいかな。それとも、ゴスロリ風にしようかな」
俊也は女装が趣味だった。かわいい女の子に化けるのが楽しくてたまらない。ミカを見てかわいいと思ったのも、自分もそんな風に自然な女の子に見られたかったからだ。
こんな趣味があることは絶対に誰にも知られてはならない。気をつけながら、女装した自分の姿をツイッターにあげて反応を楽しんでいた。
俊也は童顔で体も細く、化粧をすると女の子に見えてしまう。姉の洋服を冗談で着たら、姉よりもかわいかったことに味を占めたのが事の始まりだった。
姉もそれが面白くて、化粧の仕方を教えるから、どんどんエスカレートしていった。
アニメキャラクターのコスプレをするのと同じ感覚だから、別人になれるのが俊也にとっては気持ちがよかった。
「さて、これでよし」
鏡を見て確認する。ピンクの髪のウィッグをかぶり、カラコンで目の色も変え、フリルのついた黒いスカートの裾を揺らしてポーズを取る。そこには女の子としか思えない姿の俊也が映っていた。
俊也は満足して、クマのぬいぐるみを抱きしめる。そして、自撮りをする。何回も写真を撮り、その中から一番いいのを選ぶ。
「クマちゃんは今、私のうちにお泊りしてます。#ミカチャレンジ、っと」
ブツブツ言いながら打ち込んでいく。そしてそれをアップした。
すぐさま、いいねやリツイートボタンがされて通知がすぐについた。「どっちもかわいい」とコメントもついていく。知名度があるハッシュタグのせいか、反応がすさまじい。
ツイッターでは相手からの反応があっても俊也はそれに答えない。性的対象として見る変な人からのコメントもあり、無視をしていた。
でもかわいいといわれるのは素直に嬉しかった。
「軽くバズってるかも」
短時間で一気にフォロワーが増え、初めての事に俊也が喜んでいた時だった。ラインの通知が入った。しかも、豊だ。
――おい、まさか、俊也なのか?
<なんの話だ?>
すぐに返事すれば、即効でまた送られてきた。
――今、クマのぬいぐるみがそこにあるのか?
俊也はドキッとする。豊になぜかばれている。
<ないよ、そんなの>
すぐに否定の返事を送った。
――でも今、例の#タグつけて写真アップしただろ
<僕じゃないよ>
やっぱり、豊にばれている。俊也はなんとか白を切りたい。ばれるはずがないのに、なぜ豊はすぐに見破ったのかがわからない。
――うそだ。俊也の女装じゃないか。えくぼでわかった。
えくぼと言われ、俊也ははっとする。まさかそんな小さなことでばれるなんて思いもよらなかった。
よりによって豊にばれるなんて、これからみんなに言いふらされて虐められてしまう。絶望的にお先真っ暗になる俊也。
手も震え、どう返事をしていいのかわからない。時間が経てば経つほど、ごまかしがきかなくなってしまう。
――やっぱり俊也なんだな。
そうしているうちにまた返事がくる。
俊也は覚悟を決めた。
<あのさ、黙っててくれる?>
――やっぱりそうか。条件次第で黙ってやってもいいぜ。
条件次第――。お金だろうか。でも一度払えばこれからもずっと脅してくるだろう。しかしそうするしかなかった。クラスで虐められるよりはいい。
<どうしたらいいの?>
豊と隣の席になんてなるんじゃなかった。ラインなんて交換するんじゃなかった。そんな後悔をしながら返事を待った。そしてそれが返ってくる。
――俺と付き合ってくれる?
「えっ、ええ!!」
俊也は驚きのあまり強くクマのぬいぐるみを抱きしめる。
その時、脳内で「つきあっちゃえ」とどこから背中を押してくれる声が聞こえるような気がした。はぁーっと息を吐きながら指を動かした。
<わかった>
いつものように断れずに返事してしまった。
女装を楽しんでいるのだから、気に入ってくれる男子がいる方がいいのかもしれない。自分で理由をつけて乗り切ろうとしていた。
でも次の返事が来てふっーと力が抜けた。
――これで親しくなれたな。これからもよろしく、俊也。
きっと男子校のノリとしての豊の友達になりたいという計らいなのだろう。
そう思うと、今までのネガティブな感情が払拭され豊がいい奴に思えてくる。
<こちらこそ、よろしく>
趣味を理解してくれる友達が出来て、俊也は急に高校生活が楽しくなったように思えた。だが次の瞬間また固まった。
――それでいつデートする?
「えっ、ま、まじなのか……」
俊也はクマのぬいぐるみを見つめる。物言わぬ相手に自分からおかしくて笑ってしまった。
「ママ、お星さまとクマちゃん、色んなところに旅行に行ってるんだね。これ、東京だよね」
優子のタブレットを手にし、スカイツリーをバックにした写真を見てミカは喜んでいた。
「本当に色んなところに行っているね」
「お友達もたくさんできたんだね。色んな人も写ってる。パパにも見せてあげた?」
「もちろん、パパも見てるわよ」
看護師からアドバイスをもらった後、夫の秀則に相談した。ミカが望むなら叶えてやろうと、ミカが寝ている間にクマのぬいぐるみを持ち出して、知り合いに事情を話した後、すぐに事が始まった。
『クマのぬいぐるみが旅行をしています。見かけたら写真を撮って下さい』
ツイッターのアカウントを作り、ミカチャレンジとハッシュタグを作った。
最初は知り合いの友達から友達へと信用が置ける人たちが手渡してクマのぬいぐるみを旅行させてくれた。写真をアップする度、次第にそれは広がってフォロワー数が毎日増えていく。
軌道に乗ってそれはあっという間に広がっていった。
ミカは毎日、アップされる写真を見るのを楽しみにするようになった。
そのお陰で元気が出て、しっかりとご飯を食べ、車椅子で外に出られるようにまでなっていた。
「ミカちゃん、最近とても顔色がよくなって、元気になったね。なんかいいことがあったのかな?」
医者から言われると、ミカは思いっきり笑顔になった。
「先生、あのね、お星さまとクマちゃんが旅行して写真をいっぱい撮ってきてくれるの。ミカそれを見るのがとても楽しいの」
「そうか。それはよかったね」
事情を知っている医者も一緒になって喜んでくれた。
看護師がひらめいたアイデアのお陰で、それがここまで広がって効果がでるとは思わなくて、優子はとても感謝していた。
みんなの善意のお陰で、クマのぬいぐるみは順調に旅行が続いている。
これで活気のある毎日が送れると思っていた時だった。新しくアップされた画像を見てミカは首を傾げる。
「ねぇ、ママ、これ、クマちゃん? ちょっと違うんじゃない?」
ハッシュタグがついているけど、アップされた画像に写るクマはミカのものじゃなかった。色は似ているが、トレードマークの耳のボタンもなく作りが違う。手足が動かないクマのぬいぐるみだった。
流行りものに乗っかって、真似をする人も中にはいる。この場合どうしたらいいのだろうかと優子が戸惑っていると、そういう偽物の情報には誰かが指摘するコメントがついていた。
――これ、偽物ですよね。やめて下さい。ミカちゃんのクマはこんな安物じゃないですよ。
――こんなことしていいと思ってるんですか。ルール違反です。
――目立ちたいからといって、馬鹿じゃないの。
否定的なものが多い。
そこにアップした本人からのコメントがついていた。
――ミカちゃんのために、何かできないかと思って、うちの子を撮りました。
――そういうの売名行為でしょ。
人それぞれだから、いろんな受け取り方がある。ルールもあってないようなものだ。人々の常識範囲で事が起こっている。でも過激なやり取りが続いているのを見て、優子は複雑だった。
――そこまで責められることかな。別にいいんじゃないの?
また誰かはそれを擁護する。
それがまた気に入らないものが横から出てきて、平気で誹謗中傷が始まり反応が増えていった。
目的からそれてしまうのが優子にとって辛かった。
「ねぇ、ミカはクマちゃんじゃない違う写真を見てどう思う?」
「旅行しているのはお星さまとクマちゃんだから、そのクマのぬいぐるみも二人に会えたらいいね」
ミカはそんなに気にしてない。偽物であっても、友達を紹介されたくらいにしか思わないのだろう。
それにしても当人じゃない人たちで、こんなにも言い合いをするのが怖い。
<いつも写真をありがとうございます。それで小さな子供が見てますので、過激な発言はできたらお控え頂くと幸いです。今後ともミカチャレンジをよろしくお願いします。ミカママより>
後に優子は呟いていた。
「遅れてごめんなさい」
里奈子はハアハアと息を切らして、待ち合わせしていた駅の広場に走ってきた。初夏の汗ばむ季節。額から汗が出ていた。
「俺もさっき来たところ」
二十分近くは待っていた篤志だが、そこは嘘をついて罪悪感を負わせないように気遣う。
「本当に? それならよかった」
ほっとして笑うと、目じりが下がって里奈子は可愛らしい。そんな彼女を見て篤志はデレデレとしてしまう。
里奈子と付き合ってまだ間もない。
同じ大学だからお互い面識はあったけど、共通の友達を通じて話すきっかけができてから、急に意気投合して恋心が芽生えて交際が始まった。
好きという気持ちが膨らんでも、まだお互いのことを良く知らないから、篤志は緊張してしまう。だから自分の事を思って、里奈子が走って来てくれたことがとても嬉しい。
「里奈子が遅れても、俺はずっと待ってるし、それよりも慌ててこけたりしないかが心配」
「やだ、私そんなにドジじゃないよ、えへ」
かわいい声でおっとりとした話し方に篤志は癒される。以前付き合っていた彼女ははきはき物を申す方だったから、里奈子のようなタイプは初めてだった。
「里奈子はつい一生懸命になりすぎるから、俺は心配なんだ」
「ちょっと無理するところは確かにあるかな。スイッチがはいると夢中になって周りが見えないかも。だけど篤志君がそこまで私のことを思ってくれてるんだ。ありがとうね」
ふたりの甘ったるいやり取りを少し離れた街路樹の陰で聞いている女性が、気に入らなさそうに口元を歪ませていた。バケットハットを目深に被り、サングラスを掛けて紫外線対策をしっかりしているせいで、顔がよくわからず怪しい。
のろけているカップルを尻目に「ちっ」と舌打ちする。
里奈子がその様子にいち早く気がつき、サングラスの女性に視線を向けた。慌ててその女性はそっぽを向く。内心ヤバイと思っていそうだ。
「どうしたんだ、里奈子?」
「ううん、なんでもない」
周りに人が沢山行き交い、偶然のことだと里奈子はそれ以上気にも留めなかった。
「じゃあ、遊びに行こうか」
デートの準備を予めしている篤志は、里奈子をさりげなくエスコートする。
「ねぇ、篤志君、実は私ね、クマのぬいぐるみと観光地で写真が撮りたいの」
「クマのぬいぐるみと写真が撮りたい?」
「篤志君はミカチャレンジって知ってる?」
「うん、ツイッターで流行ってるやつだろ」
里奈子は肩に掛けていたカバンから、クマのぬいぐるみを取り出して見せた。
「実は、私に回ってきたんだ。だからいい写真を撮りたいんだ」
「へぇ、すごい。マジなのか」
篤志も実物を見て驚いていた。
その時、どこかへ行こうとしていたサングラスの女性も振り返った。里奈子が持っていたクマのぬいぐるみを見て「うそっ」と声が漏れた。サングラスをずらしてまじまじと見つめる。
「ミカちゃんが行きたいところで写真を撮りたいな」
「里奈子は優しいな。写真を撮るときも相手の身になって考えるなんて」
「ミカちゃんが元気になれますようにって、思ってるんだ」
二人のイチャイチャを邪魔するようにサングラスの女性が、ずかずかと割り込んでくる。
「あの!」
勢いつけてきた割には、篤志を前にして急に怖気付いた。
「な、なんですか?」
篤志は嫌なものを見る目を向けた。じっと見ているうちにどこかで見たような気になってきた。
「ん? あれ、お前、もしかして亜季?」
篤志に名前を言われ、亜季と呼ばれた女性はサングラスを外した。
「久しぶり、篤志」
一生懸命笑おうとするが顔が引き攣っていた。
「篤志君のお知り合いですか?」
里奈子はおっとりと尋ねる。篤志はすぐに答えられない。
仕方がないので亜季が小さく答えた。
「……元カノです」
「えっ、篤志君の元カノ? 嘘っ」
さすがに里奈子は動揺していた。
「お前こんなところで何してんだよ。まさか、俺のことストーカーしてたのか?」
「そうよ、そっちから急に一方的に別れるっていうんだもん。こっちは納得いかないじゃない。真の原因を確かめたかったの! 勉強に忙しいとかいいながら、結局は好きな人が出来て私を捨てたってことじゃない!」
「おい、言いがかりはやめろよ」
里奈子の前で騒がれるのはまずい。里奈子を見れば、眉間に皺を寄せて訝しんでいる。
「言いがかりって何よ。本当のことじゃない。私だって、こんな風に波風立てるつもりじゃなかった。確かめたら、潔く黙って去るつもりだったの。でもこの人がクマのぬいぐるみを見せたから、黙っていられなくなったの」
「クマのぬいぐるみ? そんなに今これが流行ってるのか?」
篤志は里奈子のもつクマのぬいぐるみに視線を向けた。
「ねぇ、そのクマのぬいぐるみ、どうしたの?」
亜季は里奈子ににじり寄ると、里奈子は後ずさる。篤志は庇おうと前に立ちはだかった。
「おいおい、亜季やめろよ。里奈子がクマのぬいぐるみを持ってるからって、嫉妬するなよ」
「嫉妬なんかしてない。その子、嘘ついてるから黙っていられなかったの」
亜季は篤志を手でよけて、里奈子に向き合った。
「な、何よ。篤志君に振られたからって、私に八つ当たることないでしょ」
おっとりだと思っていた里奈子の目が三角になり亜季を睨んでいた。
篤志はそんな里奈子の姿を見てショックを受けていた。このままでは二人は喧嘩しそうだ。
「とにかく、クマの写真が撮りたかったら、撮っていいから。それに嘘ついて振って悪かった。里奈子は何も関係ないから」
篤志はなんとか一触即発のこの場を納めようとする。
「違うのよ、その子がもっているクマのぬいぐるみが偽物なの。だって、本物はここにあるから」
今度は亜季が鞄の中からクマのぬいぐるみを取り出した。
「どういうことだよ」
篤志にはどっちが本物かわからない。でも亜季が持っている方にはIDタグがついていて、ミカチャレンジの事が説明されていた。
「偽物の写真が最近アップされていたけど、それあなただったのね」
亜季が問い詰めれば、里奈子は泣き出した。
「だって私もミカチャレンジがしたかったんだもん。自分のクマのぬいぐるみを使ってもいいじゃない」
「でも、それはあなたのためであって、ミカちゃんのためじゃないよね」
「篤志に振られた人に、言われたくなんかないわ。何よ、えらっそうに」
「今、それ関係ないじゃない。間違ってるのはあなたでしょ。それに篤志の前では猫被ってさ」
「何よ、ストーカー女の癖に」
「そっちこそ、嘘つき女じゃない」
二人のやり取りが篤志には恐ろしく感じておどおどしてしまう。
「何よ、ひどいわね、そっちが先に絡んできたくせに。謝りなさいよ。お詫びにその本物を私にちょうだい」
里奈子は亜季からぬいぐるみを奪い取ろうと襲い掛かる。
亜季はそれをさっとかわした。
「無理に奪うなんてすごい子ね、そうやって篤志にも近づいたんでしょうね」
「まるで私が無理やり篤志君をあなたから奪ったような言い方ね。私、篤志君に彼女がいるなんて知らなかったわよ。訊いてもいないって言ったのは篤志君の方よ」
二人は篤志にきつい視線を向けた。
「これは二股だったのか。そっか、私だけじゃなく、里奈子さんにも嘘をついてたということか」
亜季は悟ったように呟いた。
「亜季と付き合っているときに里奈子が好きになったけど、時期はそんなに被ってない。亜季には傷つかないように配慮しただけだ」
篤志も言い訳する。
「それは卑怯よ。好きな人が出来たんだったら正直に言えばいいじゃない。その方がこっちだって、ぱっと諦められたんだから」
亜季の目から涙が溢れてくる。
「結局、一番悪いのは男の方だ」
誰かが声に出して言い放った。
周りを見れば、見世物のように人がじろじろと見ていた。三人は我に返って、バツが悪くなる。
亜季はたくさんの人目に晒されて耐えられない。言い合いしていた自分が馬鹿に見えた。
「もういいわ。ほら、あなたがこれをもっていいから」
亜季はクマのぬいぐるみを里奈子に押し付けた。
「えっ、急に殊勝になって、何よ」
情けをかけられたみたいで、里奈子も悔しい。
「私、もう帰る。どうかお幸せに」
亜季は投げやりになっていた。篤志への未練もこれで吹っ切れた。
「ちょっと待ってよ」
里奈子は引きとめようとすると、篤志が遮る。
「もうこれでいいじゃないか。放っておけよ」
里奈子はその時、篤志への気持ちが急に冷めていた。元カノに誠意を示さずに別れる男は自分もいつか同じ事をされるかもしれない。
本物のクマのぬいぐるみを見つめ、自分のおろかさにも気づかされた。
篤志を振り払い、里奈子は走り出す。
「待って、亜季さん」
亜季は立ち止まり、振り返る。里奈子が篤志を放っておいて、自分を追いかけて来たことに驚いた。再び里奈子と向き合った時、不思議と心にはわだかまりがなかった。
「ねぇ、このクマと一緒に写真を撮らない?」
里奈子に言われ、亜季は暫く考えて「うん」と面映く返事する。
緊張が解けたようにふたりは軽く微笑みあった。
その二人の様子を見ながら篤志は、一人突っ立って何も出来ないでいた。
その日、ツイッターには本物と偽物のクマのぬいぐるみが一緒に並んだ写真がアップされた。一時は偽物を載せたことで炎上していたけど、本物と並ぶことで皆その奇跡に興奮していた。
その陰で何があったかは当の本人たち以外誰も知る由がなかった。
「やっぱり、お星さまの力はすごいな。私のクマちゃんを旅行に連れて、そして別のクマさんと出会うなんて、すごい、すごい」
ミカはとても喜んでいた。優子もこの展開には驚いてしまう。それはまるで仕組まれていたかのようなドラマティックな演出すら感じてしまう。
「次はどこに行って、誰と会うんだろう」
ミカは毎日がわくわくして楽しみで仕方がない。そんな明るい娘の様子を見ていて、優子も涙ぐんでしまう。色んな人のご厚意で奇跡が起こっている。有難い。
だけどそんな気持ちが、ツイッターを見てすっと消えていく。
――ミカチャレンジって、なんかのやらせじゃないの? あまりにも出来すぎてるよね。
――あとで寄付を募ってきたりして。
――みんなの協力があるからできることなのに、ミカママって仕切って何様だよね。
いい人がいれば、心無い言葉を掛けてくる者もいる。顔が見えないから、歯に衣着せぬ言い方だ。
「ママ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないのよ」
娘にはいい部分しか見せられない。SNSの威力は励ましにもなるし、落ち込みにもなる。嫌なことは無視をしよう。
<皆さん、いつもありがとうございます。写真のアップが楽しみで、ミカもとても喜んでいます。>
書き込みと一緒にミカのかわいい元気な写真をアップした。
すぐさまいいねが沢山ついていく。
優子はそれに励まされ救われた。まさに一喜一憂だ。
全体的には好意的なコメントで埋め尽くされているが、そこに例え一つの心無いコメントがあると、それが驚異的に全てをネガティブ思考に変えてしまう。
沢山の嬉しい言葉よりもなぜほんのちょっとの嫌な言葉に翻弄されてしまうのだろう。
心の奥に届きやすいSNSの言葉の難しさを感じていた。
それから暫く順調に写真が投稿され、観光で有名な場所、美しい景色や美味しい食べ物といったものと一緒に様々な写真が登場した。そうされるのが当たり前に思っていた節があった。平和に事が起こることの方がとても珍しいことだったと気がついたのは、急にぱたりと投稿がなくなった時だった。
「最近、写真がないね。クマちゃん、今どこにいるんだろう」
ミカの顔が曇り、心配になっていた。
優子も不安になってくる。もしかしたらクマのぬいぐるみは故意に捨てられて紛失したかもしれない。そうじゃないことを願いながら優子は書き込んだ。
<今、クマのぬいぐるみはどこにいますか? 見かけた方はぜひ写真を撮ってアップして下さい。ミカが気にしております。どうかよろしくお願いします。>
自分が書き込む度、ネガティブなコメントがつかないか少しドキドキしてしまう。
でも杞憂だった。
――本当にどこにいるんだろう。私も会いたいです。
――大丈夫。クマちゃんはきっと移動中ですよ。
――今、誰がクマちゃんを持ってるの。早く旅行させてあげて。
様々なコメントが付いた後、ようやく連絡が入った。
――これがあのクマのぬいぐるみかわからないのですが、二人の男性がもみ合って奪い合っているのを前に見ました。とりあえずその時の様子を撮影したのでアップします。
距離があるが、行き交う人々の中で、二人の男性がクマのぬいぐるみを引っ張り合っている映像だった。それは十秒程度のもので詳細がよくわからない。一体何が起こっているのか、それをミカに見せていいものか優子は戸惑っていた。
「ねえ、どこで撮影したらいいと思う」
女性が袋から取り出したクマのぬいぐるみを驚かせるように彼氏に見せていた。
「あっ、それ、ミカチャレンジじゃないか。君のところに来たなんてすごい。これがあの有名なクマちゃんか。なんか神々しいかも。これはちゃんとした場所で撮らないといけないね」
「でしょ。映える場所ってどこだろうね」
「結構、迷うね」
それでも楽しく行き先を決めていた時だった。いかついチンピラ風の男性が二人に近づいてきた。
「あんた、写真すぐに撮らないんだったら、俺にそれをまわしてくれない?」
カップルを脅すように睨みを効かす。
「あの、これ、ミカチャレンジですけど、どうするか知ってるんですか?」
彼女を庇い、自分も多少怯みながらそのチンピラに若い男性は一応尋ねる。どうも素直に渡したくない。
「それぐらい知ってるってんだよ。だから次は俺がするっていってんだろ。早く貸せよ」
けんか腰に言われて、若い男性は渋ってしまう。
「なんだよ、その目つきは。お前、俺を馬鹿にしてんのか」
唾を飛ばして叫ばれると危険を感じ、若い男性はクマのぬいぐるみを咄嗟に差し出してしまった。
「最初から、素直に渡せばいいんだよ。ほら、さっさと行けよ」
悪態をついて、カップルを追い払う。
カップルは納得がいかないまま、どうすることも出来ず去っていく。
「悔しいけど、あんなのに絡まれたら怖いわ」
「とにかく危ないから離れよう」
カップルは何度も後ろを振り返っていた。
チンピラはクマのぬいぐるみと見詰め合う。
「これで一商売できるってもんだ」
にやりと笑ってどこかへと去っていった。
その次の日、クマのぬいぐるみと一緒にミカチャレンジと書かれた箱を手にして人通りが多い駅前でチンピラは佇んでいた。
「よろしくお願いします」
大胆にもいき行く人に声を掛けると、みんな何事かと振り返る。
「難病のミカちゃんのための寄付を集めています。皆さんのご協力をお願いします」
「今、ツイッターで出回っているあのミカチャレンジなの?」
物怖じしないおばさんが不思議そうに声を掛けた。
「そうです」
「あなた、ミカちゃんの関係者の方?」
「はい、そうです。寄付を集めております」
「あら、そうなの。だったら、少しだけど、協力するわ」
詳しいことを良く知らないために、おばさんはすっかり人助けだと信じて小銭を丸く切り抜いた部分に落とした。
「ありがとうございます」
その後もチンピラはみんなに訴える。
何人かはクマのぬいぐるみを見たいために寄っては、箱をちらつかされて仕方なく小銭を落としていく。
チンピラはお金を集めるためなら、腰を低くしてへつらうのも朝飯前だった。
「ありがとうございます。どうか引き続きミカチャレンジをサポートお願いします」
堂々と嘘をつくとそれが嘘に見えなくなってくる。ツイッターで広がっているせいもあって、お金を寄付する人が結構いた。
小一時間経った後、箱にはじゃらじゃらと小銭が溜まっていた。
「もっと集まるかと思ったけど、たったこれっぽっちか。ばれないうちにさっさと稼がないと」
ブツブツと言っていると、スマホをかざす男性が現れチンピラを撮ろうとする。
それに気づいてチンピラはすぐに近寄った。
「写真を撮るのはご遠慮下さい」
「どうしてですか? 写真を掲載するのがミカチャレンジの目的でしょ?」
「そうなんですけど、こういう部分はネットでは否定的に取る人がいますから、慎重にしてるんです。あまり表ざたにならずに寄付を募ってます」
話し方は丁寧だが、雰囲気がいかつくて違和感を覚えてしまう。その男性は怪しんだ目つきをするも、クマのぬいぐるみはタグがついていて本物なため、なんだか状況がよくわからなくて強く問い質すことができない。
「でもなんか怪しいな」
つい口をつくと、チンピラの目が急に鋭くなった。
「なあ、兄ちゃん。さっさとどこかへ行く方があんたのためだぜ」
雰囲気が急に変わった。堅気じゃない異様な態度に男性はびくっとする。だがその時、クマのぬいぐるみと目が合い、「助けて」といわれたような気がして勇気を出して立ち向かった。
「やっぱり詐欺なんですね。そのぬいぐるみを利用してお金を得ようとしているだけなんですね」
「おいおい、俺を誰だと思ってそんな口を聞いてるんだ」
チンピラも脅すことで男性を黙らそうとする。しかし、男性は正義感に溢れていた。今、クマのぬいぐるみを救わないと、ミカチャレンジはここで終わってしまうと思えた。
普段全然とり得のない目立たない存在だが、クマのぬいぐるみと目が合うと助けたいという感情が湧き起こる。
「そのクマを返せ」
チンピラから奪い取ろうと男性は手を出した。
「俺は盗んだわけじゃないぞ。なんでお前に返せって言われないといけないんだよ」
「そのクマは旅行に行かないといけないんだよ。あんたみたいな人にはふさわしくないからだよ」
「なんだよ、この野郎」
二人はクマを奪い合う。辺りは騒然とし、中にはスマホでその様子を撮影しているものもいた。
「お巡りさんが来たよ」
誰かが叫ぶと、チンピラは条件反射ではっとして箱を抱えて逃げていく。
男性は取り戻せてほっとするも、クマのぬいぐるみの片腕がだらんと取れかけていて悲しくなってしまう。
「どうしよう。僕のせいで壊しちゃった」
肩をがっくりとさせてしょんぼりしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
振り返れば女性が心配そうに見ていた。きれいな人だったから男性はドキッとしてしまった。
「はい、だ、大丈夫です」
「それ、ミカチャレンジのクマちゃんですよね」
「そうなんですけど」
女性に見せようとするも、腕が取れかけたクマのぬいぐるみは痛々しい。女性も不安そうに顔が強張っている。
「あの、僕、さっき詐欺師と奪い合いしちゃって、それで」
「はい、一部始終見てました。私も寄付を募っていておかしいなって思っていたんです。あれでよかったと思いますよ」
「でも、そのせいで腕が……」
「あの、私直しましょうか? ちょっとした手芸ならできると思います」
「本当ですか」
男性は喜んでクマのぬいぐるみを女性に渡した。
「ああ、結構派手に壊れてますね……」
女性は手にして難しそうな顔をする。
「無理そうですか?」
「いえ、なんとかします!」
急に心を決めたようにぐっとお腹に力の入った声が返ってきた。
男性はそれが頼もしくて笑顔になった。
「あの、僕、熊田といいます」
「あら、熊が付くお名前なんですね。あの、私も熊谷といいます」
「えっ、そうなんですか。いや、お互い熊に縁がありますね」
二人は急に愉快になって打ち解けあう。
熊という字が名前に付くから、二人はどうしてもクマのぬいぐるみが放っておけない性分だった。