うざい。
 頬杖をついて、何度目かのため息をついた。

「チッカ、すっかり有名人だね」

 なぜか嬉しそうな近藤さんをにらみつけると、わざとらしくそっぽを向いた。
 入学式の次の日、新入生代表として前代未聞のやらかしをしたあげく、全新入生に宣戦布告までした私が、すでに学校一のイケメンと認定されつつある遥にしつこく言い寄っている、といううわさが広まっていた。
 まだ高校生活二日目だというのに、いつの間にそんな隅々まで行き渡るネットワークが構築されていたのか、疑問でしかない。
 教室の中心から、伊東さんと西岡さん、それに吉田さんがクスクスと笑いながら、私を指さしている。

「地雷女」
「痛すぎ」

 なんて言葉が聞こえてくる。
 無視していればすぐに治まると思っていたけど、昼休みになってもまだ続いている。
 別にうわさをされるのは気にならないけれど、遥に敬遠されるようになるのは困る。

「しつこく追いかけ回せば嫌われる。いまは向こうからのアクションを待つべし。イイ女とは、男に追い回されてナンボよ、ぴーちゃん」

 瑛輔くんからはそうアドバイスされたけど、自分からなにもできないこの状況がもどかしくてイライラする。

「あたしはチッカと遥くんのこと応援してあげるね」
「いらない。あとその呼びかたやめて」

 近藤さんは、こんなふうに学校で浮きまくってる私の隣で平然としている。
 もしかして私は、彼女にズッ友的な存在として認定されてしまったのだろうか。私と近藤さんには共通点なんてないのに。
 どちらかと言えば、私よりも吉田さんたちのほうがずっと彼女に近いと思うんだけど、近藤さんはあの三人には近寄ろうともしない。

「ねー、今日ちょっと早く帰れるし、どっか寄り道していこーよ」
「ダメ。私、遅くなれないから」
「えー。三十分くらいダメ?」
「ダメ」
「二十五分」
「刻んでこないでよ」

 そのとき、波のようなざわめきを感じた。
 人の視線が一点に向かっていく、音のない空気の揺らぎ。その流れをたどると、入り口からのぞき込んでいる遥と目が合った。
 あ、と遥が片手を上げる。どこか緊張していたその表情がふわっと緩むと、教室のそこかしこから声にならない声が漏れた。

「あっ、遥くんじゃーん! ほら、チッカ!」

 近藤さんが私の肩をバシバシ叩く。めっちゃ痛い。
 この人、空気とか読めないんだな。いや、あえて読まないタイプなのか。

「あの、ちょっといいかな」
「どーぞどーぞ! ごゆっくりぃー」

 遥のおずおずとした申し出に答えたのは、私じゃなく近藤さんだった。

「あのね……」
「ほら早くチッカ。昼休み終わっちゃうよ!」

 抗議しようとしたけれど、近藤さんに背中をぐいぐいと押されて、私は教室を追い出されてしまった。
 遥は、こっち、と階段のほうを指さした。
 私の少し先を歩く遥の背中は、やっぱりどこにいても分かっちゃうくらい「特別」だった。
 人気(ひとけ)のない踊り場に到着し、遥が私に振り返る。

「ちか」

 という、私の名前と同じ音。でも、これは私の名前じゃない。
 遥は、ぱんっ、と拝むように両手を合わせ、深々と頭を下げた。

「ごめんっ!」

 予想外の展開で呆気に取られていると、遥はそのままの姿勢で話を続けた。

「なんかさ、変なうわさ立ってるだろ? それ、聞いた?」
「うん。聞いたけど、あんなの気にしてないよ」

 私がそう言うと、遥はがばっと頭を上げた。そして、ずいっと私の鼻先に顔を近付けてくる。
 びっくりして仰け反りそうになるのを堪えて、笑ってみせる……が、たぶん、唇が引きつっただけになった気がする。

「……そっか。ならよかった」

 ホッとしたように遥が笑った。世界を色づかせるような、きれいな笑顔。
 私とは大違いだ。

「でも、本当にこの学校で千佳に会えるなんて思わなかった」
「私だって遥が約束覚えてるかどうか心配だったよ。だって、遥は忘れやすいんだもん。ぜったい持ってくるって約束したおもちゃも、連れてってくれるって言った秘密基地も、全部忘れちゃったもんね」

……って、チーがさんざん愚痴ってたっけ。

「ほんとゴメン」
「いいよ。大事な約束はちゃんと覚えててくれたから。全部許してあげる」

 チーの口調を真似てそう言うと、遥は私をじっと見つめて、また笑った。
 この人が、チーの初恋の人。

「そのうち落ち着くと思うし、心配しないで」
「……でも、なんか変なこと言われたりされたりしたら教えて。俺、必ずなんとかするからさ」
「うん」
「どんなことでも、ぜったい」
「う、うん」

 たかがうわさごときで、ちょっと過保護すぎない? ってくらい、遥は何度も念を押した。

「俺が、千佳を守るから。約束」

 遥は私の目の前に小指を差し出した。

――カー。やくそくだよ。

 チーの声がして、体が固まる。
 ぼうっと見つめるだけの私に焦れたのか、遥が「ほら」と私の小指を絡めとった。

「ゆーびきーりげーんまん」

 チーはことあるごとに約束したがった。
 あとで人形遊びをしよう。明日は幼稚園の裏に咲いたタンポポを見に行こう。大きくなったらいっしょに暮らそう。おばあちゃんになっても友達でいよう。
 私はいつも「仕方ないなぁ」と、差し出された小指と指切りをした。何度も、何度も。
 きっと遥ともそうだったんだろうな、と思った。
 チーは、遥が忘れっぽいと怒っていたけれど、きっと約束をしすぎて覚えきれなかったんじゃないかな。

「うーそついたら針千本のーます」

 いま私の小指に絡まっている遥の小指も、私よりずっと遠くの時間の向こうでチーの小指と繋がっていたんだ。
 そう思うとくらくらした。

――指切った。

 遥の歌声にチーの声が重なった。
 昼休み終了のチャイムが鳴って、遥が今度は手を差し出した。

「行こうぜ」
「え、あの」

 戸惑う私に、遥がにっと笑う。

「俺たちが仲良くしてれば、うわさも早く消えるだろ」
「それはそれで別のうわさが立っちゃうんじゃ……」
「いいうわさなら、別にいいだろ」

 私に向けられた遥の目はとても優しかった。
 でも、そこに映るべきなのは、私じゃない。
 遥が私に与えるものはぜんぶ、私のものじゃない。
 遥の手を取った。体温が混じり合う。
 誰かに触れられるのは嫌い。大嫌い。あの日(・・・)のことを思い出すから。
 遥に手を引かれて戻った私に、教室がざわついた。吉田さんの完璧なスマイルが固まって、少し引きつった気がした。

「今日さ、終わったら時間ある? もっといろいろ話したいし」
「う、うん」

 ひらひらと手を振って遥が姿を消すと、好奇心たっぷりの視線が全部私に向かってきて、地味にダメージを喰らう。

「おかえりなさいませ、お姫様。王子様との逢瀬はいかがでしたか?」

 ニヤニヤした近藤さんが、わざとらしい口調で聞いてくる。

「お姫様ってなによ」
「だってぇ、遥くんにエスコートされて戻ってきたチッカ、まじ、姫って感じだったよ。ほら、シンデレラとかみたいなさ」

 現代文担当の塚本先生が教室に入ってきて、近藤さんは慌てて前に向き直った。

「今日は初日なので一人ずつ名前を呼んで出欠を取りますが、明日からは日直がまとめて報告を行ってください。各授業、先生によってやりかたは違うでしょうが、基本的にはそのように。では――」

 塚本先生が淡々と名前を読み上げ、さまざまな「はい」が繰り返される。その合間に、クラスメイトがちらちらと視線を向けてくる。だけど、私は顔を上げて前だけを見ていた。
 私は、お姫様なんかじゃない。
 爪先を切り落としたり、踵を切り落としたりする覚悟がなければ、自分のものじゃないガラスの靴なんて履けるわけがない。
 ガラスの靴が血に染まっていても、たとえみんなが「靴が真っ赤だ」と指をさしたとしても、胸を張って堂々と王子の隣に立たなくちゃいけない。
 それが、私の役どころだから。

「澤野千佳」
「はい」

 塚本先生がちらりと私を見て、名簿に丸を付けた。

******

「だ、か、ら。なんであなたまで一緒に来るのよ」
「なんでって、先にチッカを誘ったのはあたしだし。それにチッカと遥くんのこと応援するって言ったじゃん」

 遥の教室の前でホームルームが終わるのを待ちながら、私と近藤さんは言い争いをしていた。

「あなたのお誘いは断ったし、応援とか余計なお世話」
「でもさ、いきなり二人っきりってハードル高くない? まだ慣れないうちの沈黙ってちょー気まずいんだよー。あたしならいい潤滑油になると思うんだけどなぁ」

 そりゃあ、これだけ喋る人がいたら沈黙も恐れおののいて寄ってこないだろうけど。

「あたしだってチッカともっと仲良くなりたいんだもん。いいじゃん、お願い!」

 近藤さんは両手を合わせ、頭を下げた。
 なんか今日はやたらと頭を下げられる日だな、と、ミルクティーベージュの頭頂部を見ながら思う。

「やだー、ギャルが廊下でなんか変なことしてる」

 伊東さんと西岡さんが、からかうように笑っていた。

「新入生代表のくせに、ああいう人とつるんでるのってヤバくない?」
「仕方ないよ。スピーチ失敗しちゃうような人だもん」
「うっさいなぁ。勝手に失敗とか言わないでよ。チッカにとってはあれが成功なんだから」

 思わず息をのんだ。
 まさか、この人なにか知ってる……?

「だってあれのおかげで遥くんと再会できたんだよ? こんなにドラマチックで運命的なことってないじゃん」

 ……わけないか。
 瑛輔くんが作ったベッタベタなシナリオの思惑どおりに踊らされている近藤さんは、伊東さんたちに向かって、ふん、と鼻を鳴らす。

「あんたたちもさぁ、人のことばっか気にしてないで、自分たちのこと考えたらー? ずーっとあいつの金魚のフンやってて楽しい? まじダッサ」
「なっ!」

 二人の顔が赤くなる。

「……金魚のフンって、どういうこと?」

 吉田絵里奈が二人の後ろから現れた。
 お、真打登場。私が胸の中で呟くのと同じタイミングで、

「うげ、親玉登場かよ」

 と、近藤さんも口にした。。

「私たち、ただの友達だよ。それに、澤野さんとも仲良くなりたいなって思ったから声をかけたのに」
「チッカはあたしと仲良くしてるんでお構いなく」
「近藤さんと澤野さんじゃ釣り合わないんじゃない?」

 吉田さんは、ふふ、と人差し指で口元を押さえながら笑った。

「ところで、入学式で澤野さんが言ってた『遥』って、藤原遥くんのことだったんだね。二人ってどういう関係なの? 一目惚れ……ってわけじゃなさそうだけど」
「それって吉田さんに関係ある?」

 私がそう返すと、西岡さんと伊東さんが「絵里奈ちゃんになんてことを!」と騒ぎ出した。

「関係あるっていうか、私と遥くん、小学校と中学校が一緒なの。だから、ちょっと気になっちゃって」
「ちなみに私たちも一緒なんだから!」

 と、西岡さんたちも主張したが、吉田さんがちらっと視線をやると、しおしおと小さくなってしまう。
 長いあいだ金魚のフンとして過ごすと、もう言葉すら必要なくなるんだな、と変に感心してしまう。

「だって、澤野さんが遥くんに言い寄ってるって聞いたから心配になっちゃって。ほら、遥くんって……」

 吉田さんがそっと私の腕に触れ、内緒話をするように声を潜めた。
 誰かに触れられるのは嫌い。吉田さんの体温には、どこか粘つくような感覚があって、振り払いたい衝動に駆られる。

「遥くんって、しつこい女の子が苦手だから。澤野さんも気を付けたほうがいいよ」
「……はあ」

 私が心底どうでもいいような声を出したから、近藤さんがぷっと噴き出した。伊東さんと西岡さんが「なによ」と気色ばむ。

――はるかってねぇ、カッコよくて、やさしくて、きれいだから、すっっっっっっごくモテるの! わたしがいちばんはるかと仲良しだから、いろんな女の子にいやがらせされて、ホントにたいへんだったんだから!

 チーの言葉を思い出して、ふと気付く。もしかしてこれは、俗に言う「牽制」ってやつなのかな……?
 遥の教室のとびらが開いて、藍色のブレザーを着た生徒が溢れ出てきた。

「千佳、お待たせ」

 私たちのところへやって来た遥が、吉田さんを見て「あれ」と声を漏らした。

「遥くん、久しぶりだね。クラス離れちゃって残念だったね」
「あー、そうだな」

 小中一緒だっただけあって、二人の会話にはどこか親しさがあった。

「今日は澤野さんたちと遊びに行くの? いいなー、今度は私も誘ってね」

 甘えるような声。とびっきりのかわいい笑顔。ほんの少しだけ近い距離。モテテクの教科書の一ページ目に掲載されそうなくらい完璧な構図だった。

「じゃあ遥くん、またね。みんな、行こ」

 後ろに控えた二人を連れて、吉田さんは去っていった。

「いーだ!」

 その後ろ姿を威嚇するように、近藤さんは口を思いっきり横に引いて歯を見せつけている。
 なんて子どもっぽいことを……。

「遥って吉田さんと仲いいの?」
「うーん、まあ、何度か同じクラスだったから、それなりには」

 ずいぶんと歯切れの悪い返事にちょっと引っかかってしまう。もしかして、遥ってああいうあざとい系の女子が好きなのかな……。
 だとしたら、私も吉田さんを見習うべきなのか。ううむ。

「さーって、あんなやつらは放っておいて、うちらも行こっか!」

 短いスカートを翻し、振り返った近藤さんがにっこりと笑う。

「千佳の友達?」

 遥が私を見て聞いた。

「そーなの! チッカの大親友、近藤瑞希です! 今日は二人のお供ができて光栄です!」

 びしっと敬礼ポーズを決める近藤さんに、思わず笑ってしまった。不覚。 

「ねえ近藤さん、一緒に来るのはいいけど、変なこと言わないでよ」

 遥のうしろを歩きながら、私は声を潜めて近藤さんに念を押す。

「近藤さんじゃなく瑞希って呼んでくれたら約束してあげるんだけどなー。あたし、呼び捨てしてくれない人の言うことは聞けないって病気なんだよねー」
「そんな病気があってたまるか」
「み・ず・き。はいリピートアフターミー」
「……瑞希。これでいいでしょ」

 根負けした私が捨て鉢にそう言うと、近藤さん――瑞希は嬉しそうに笑って、私の腕に自分の腕を絡めた。

「よぉーっし! これでうちらの友情成立っ!」

 駆け出した瑞希に引きずられて、少し先を行く遥に追いつく。
 誰かに触れられるのは嫌い。なのに、瑞希の感触は、吉田さんのときのように、振り払いたい気持ちにはならなかった。
 チーがいなくなって以降、私には友達らしい友達はいなかった。新しい友情を得ることは、チーへの裏切りに思えたから。

「仲いいんだね」
「いやぁ、遥くんとチッカには及びませんよぉ」
「ちょっと。さっそく約束破らないでよ」

 慌てて囁くと、瑞希はぺろりと舌を出した。
 ダメ。
 楽しい、とか思ってしまう自分の心にブレーキをかける。
 ここにいるべきだったのは、この時間を受け取るべきなのは、私じゃなく、チーなんだから。