「千佳ちゃん、遅かったのね」
玄関のドアを開けた瞬間、待ち構えていたように声が飛んできた。
「ごめんなさい、ママ。まだ電車の乗り換えがうまくいかなくて」
「そう……。やっぱりあんなに遠くの学校じゃないほうがよかったんじゃない?」
近藤さんほどではないけれど、私の家から星山高校までも、電車で最低でも四十分はかかる。
私が星山高校に行きたいと言ったとき、ママは猛反対した。なんとか説得したけれど、その代わりにたくさんの条件を付けられた。
門限は六時半。過ぎるときは必ず連絡すること。学校に到着したときと、帰るときにも連絡。寄り道も禁止。買い食いも禁止。
条件は、これからもっともっと際限なく増えていくだろう。ママを完全に安心させる完璧な条件なんてこの世にないんだから。
「高校なんて、この辺にもたくさんあるじゃない」
「だけど私、どうしてもあの学校に行きたかったの」
「そう、そうね。千佳ちゃんはとっても頭がいいから。でもね、ママ心配なのよ。きっとこれから毎日、千佳ちゃんが家を出てから帰ってくるまでずーっと心配しちゃうわ。だって、ママが千佳ちゃんから目を離すと、また大変なことに――」
「やめて」
思ったより大きな声が出てしまったせいで、私とママの間にぎこちない沈黙が落ちた。
ママは視線をあちこちにさまよわせたあと、ぱちん、と手を打ち、空気を変えるようにことさら明るい声で喋り出した。
「そうだ。もうすぐ桜田先生がいらっしゃるわね。千佳ちゃん、今日はね、パウンドケーキを焼いたのよ。なかなかうまくできたの。先生もお好きだって言ってたし、きっと喜んでいただけると思うわ」
「そうだね。――私、先生が来るまで部屋でちょっと休むから」
邪魔しないで、という続きは胸の中でだけ唱えた。
二階への階段を上る私の背中に、ママの視線がべったりと絡みついてくる。それを断ち切るように、私は勢いよく部屋のドアを閉めた。
ピンク地に色とりどりのチューリップが咲いたカーテン、イチゴ柄のベッドカバー、白いファーの丸ラグ、ずらりと並んだイヌ、ネコ、クマ、パンダ、サルのぬいぐるみ。
十五歳にしてはずいぶん子どもっぽい部屋だった。それもそのはずで、レイアウトもインテリアも五歳のときからずっと変わっていない。
ママが「このままでいいわよね」と言うから、私も「うん」と答える。だからきっと、この部屋はずっとこのまま変わらないんだろう。
姿見の前に立ってくるりと一回転すると、黒地に白いラインが入ったチェックのスカートがひらりと翻った。
これは、チーが着たがってた制服。……私にはあんまり似合ってないかも。
チーだったらきっと、もっと似合ってたのかな。
着替えを済ませ、ベッドに寝転がって天井を見上げた。
白い天井。昔の家はもう少しくすんだ白だったな。今のこの家は、天井も壁も、やけに白すぎてどこか嘘っぽく感じてしまう。
「チー」
嘘みたいに真っ白な天井に呼びかける。
「藤原遥に会えたよ」
まばたきするたびに、視界がふるりと揺れた。
「チーの言ったとおり、すごくきれいな人だった」
――でしょう?
耳の奥でチーの声がする。
「ああいう人が好きだったんだね。チーってけっこうメンクイなんだ」
――そんなことない!
ふふっと笑って目を閉じた。このほうがずっとチーを近くに感じられる。
「大丈夫だよ。チーの初恋は私が叶えてあげる。言ったでしょう? 私はもう、チーにはぜったい嘘をつかないって。だから安心してて。だから――」
許して。
******
沢野知花、という女の子が私の通う幼稚園に転園してきたのは四歳のときだった。
澤野千佳と沢野知花。
まったく同じ音の名前を持っていた私たちは、すぐに仲良くなった。
「名前、半分こしよ」
砂場でトンネルを掘りながら彼女が言ったその日から、彼女は「チー」、私は「カー」になった。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人だと半分だね、なんて笑いながら、お互いの新しい名前を呼び合った。
私がチーを真似たのか、チーが私を真似たのか、それとも、もともと似ていたのか、時間が経つにつれ、私たちは、背格好も、髪形も、選ぶ服装も、仕草も、どんどんそっくりになっていった。
一緒に遊んでいる私たちを見た人たちは、口をそろえて「双子みたい」と言った。私たちの母親でさえ、ぱっと見では判断に迷うほど、私たちは同じになっていった。
だけど、私たちの中身は正反対だった。
私は、運動音痴で、部屋で本ばっかり読んで、男の子にもからかわれて泣かされてばかり。
チーは、かけっこも速くて、お転婆で元気いっぱい、男の子と取っ組み合いのケンカするくらい気が強かった。私が泣いていると、いつも助けてくれた。
そして、チーはときどき突拍子のない嘘をついた。
「お星さまにさわったことがあるの」
「カー、たいへん! わたし、きのうのよる、まほうつかいになっちゃったの!」
そんなチーの嘘を、私はいつも「ええっ! すごいね!」とあっさり信じていた。嘘だと分かって私が怒ると、チーは本当に申し訳なさそうな、泣き出しそうな顔をした。
怒っていたのに、それがなんかおかしくて、私はついつい笑っちゃうんだ。
「もう! 次やったらもう『ぜっこう』だからね!」
私がそう言ったらケンカは終わり。二人の「ぜっこう」は仲直りの合図だった。そんなことを何度も繰り返した。
そして、チーには大切な人がいた。初恋相手の藤原遥だ。
引越してくる前にチーが暮らしていた町にいた男の子。
「わたしね、はるかのこと世界でいちばん、だいすきなの」
藤原遥のことを話したあと、チーはいつもそう言った。切実さをにじませたチーの言葉を聞きながら、子ども心に、その想いが叶えばいいなと思った。
私たちはいつも一緒だった。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。
合言葉のようにそう言って笑い合った。
でも、そんなチーが、突然消えた。
あの日、私が嘘をついたから。
波が、世界が、チーをさらってしまったんだ。
玄関のドアを開けた瞬間、待ち構えていたように声が飛んできた。
「ごめんなさい、ママ。まだ電車の乗り換えがうまくいかなくて」
「そう……。やっぱりあんなに遠くの学校じゃないほうがよかったんじゃない?」
近藤さんほどではないけれど、私の家から星山高校までも、電車で最低でも四十分はかかる。
私が星山高校に行きたいと言ったとき、ママは猛反対した。なんとか説得したけれど、その代わりにたくさんの条件を付けられた。
門限は六時半。過ぎるときは必ず連絡すること。学校に到着したときと、帰るときにも連絡。寄り道も禁止。買い食いも禁止。
条件は、これからもっともっと際限なく増えていくだろう。ママを完全に安心させる完璧な条件なんてこの世にないんだから。
「高校なんて、この辺にもたくさんあるじゃない」
「だけど私、どうしてもあの学校に行きたかったの」
「そう、そうね。千佳ちゃんはとっても頭がいいから。でもね、ママ心配なのよ。きっとこれから毎日、千佳ちゃんが家を出てから帰ってくるまでずーっと心配しちゃうわ。だって、ママが千佳ちゃんから目を離すと、また大変なことに――」
「やめて」
思ったより大きな声が出てしまったせいで、私とママの間にぎこちない沈黙が落ちた。
ママは視線をあちこちにさまよわせたあと、ぱちん、と手を打ち、空気を変えるようにことさら明るい声で喋り出した。
「そうだ。もうすぐ桜田先生がいらっしゃるわね。千佳ちゃん、今日はね、パウンドケーキを焼いたのよ。なかなかうまくできたの。先生もお好きだって言ってたし、きっと喜んでいただけると思うわ」
「そうだね。――私、先生が来るまで部屋でちょっと休むから」
邪魔しないで、という続きは胸の中でだけ唱えた。
二階への階段を上る私の背中に、ママの視線がべったりと絡みついてくる。それを断ち切るように、私は勢いよく部屋のドアを閉めた。
ピンク地に色とりどりのチューリップが咲いたカーテン、イチゴ柄のベッドカバー、白いファーの丸ラグ、ずらりと並んだイヌ、ネコ、クマ、パンダ、サルのぬいぐるみ。
十五歳にしてはずいぶん子どもっぽい部屋だった。それもそのはずで、レイアウトもインテリアも五歳のときからずっと変わっていない。
ママが「このままでいいわよね」と言うから、私も「うん」と答える。だからきっと、この部屋はずっとこのまま変わらないんだろう。
姿見の前に立ってくるりと一回転すると、黒地に白いラインが入ったチェックのスカートがひらりと翻った。
これは、チーが着たがってた制服。……私にはあんまり似合ってないかも。
チーだったらきっと、もっと似合ってたのかな。
着替えを済ませ、ベッドに寝転がって天井を見上げた。
白い天井。昔の家はもう少しくすんだ白だったな。今のこの家は、天井も壁も、やけに白すぎてどこか嘘っぽく感じてしまう。
「チー」
嘘みたいに真っ白な天井に呼びかける。
「藤原遥に会えたよ」
まばたきするたびに、視界がふるりと揺れた。
「チーの言ったとおり、すごくきれいな人だった」
――でしょう?
耳の奥でチーの声がする。
「ああいう人が好きだったんだね。チーってけっこうメンクイなんだ」
――そんなことない!
ふふっと笑って目を閉じた。このほうがずっとチーを近くに感じられる。
「大丈夫だよ。チーの初恋は私が叶えてあげる。言ったでしょう? 私はもう、チーにはぜったい嘘をつかないって。だから安心してて。だから――」
許して。
******
沢野知花、という女の子が私の通う幼稚園に転園してきたのは四歳のときだった。
澤野千佳と沢野知花。
まったく同じ音の名前を持っていた私たちは、すぐに仲良くなった。
「名前、半分こしよ」
砂場でトンネルを掘りながら彼女が言ったその日から、彼女は「チー」、私は「カー」になった。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人だと半分だね、なんて笑いながら、お互いの新しい名前を呼び合った。
私がチーを真似たのか、チーが私を真似たのか、それとも、もともと似ていたのか、時間が経つにつれ、私たちは、背格好も、髪形も、選ぶ服装も、仕草も、どんどんそっくりになっていった。
一緒に遊んでいる私たちを見た人たちは、口をそろえて「双子みたい」と言った。私たちの母親でさえ、ぱっと見では判断に迷うほど、私たちは同じになっていった。
だけど、私たちの中身は正反対だった。
私は、運動音痴で、部屋で本ばっかり読んで、男の子にもからかわれて泣かされてばかり。
チーは、かけっこも速くて、お転婆で元気いっぱい、男の子と取っ組み合いのケンカするくらい気が強かった。私が泣いていると、いつも助けてくれた。
そして、チーはときどき突拍子のない嘘をついた。
「お星さまにさわったことがあるの」
「カー、たいへん! わたし、きのうのよる、まほうつかいになっちゃったの!」
そんなチーの嘘を、私はいつも「ええっ! すごいね!」とあっさり信じていた。嘘だと分かって私が怒ると、チーは本当に申し訳なさそうな、泣き出しそうな顔をした。
怒っていたのに、それがなんかおかしくて、私はついつい笑っちゃうんだ。
「もう! 次やったらもう『ぜっこう』だからね!」
私がそう言ったらケンカは終わり。二人の「ぜっこう」は仲直りの合図だった。そんなことを何度も繰り返した。
そして、チーには大切な人がいた。初恋相手の藤原遥だ。
引越してくる前にチーが暮らしていた町にいた男の子。
「わたしね、はるかのこと世界でいちばん、だいすきなの」
藤原遥のことを話したあと、チーはいつもそう言った。切実さをにじませたチーの言葉を聞きながら、子ども心に、その想いが叶えばいいなと思った。
私たちはいつも一緒だった。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。
合言葉のようにそう言って笑い合った。
でも、そんなチーが、突然消えた。
あの日、私が嘘をついたから。
波が、世界が、チーをさらってしまったんだ。