「では各自、机の上にある冊子の三ページ目を見てください」
静まり返った教室に神経質な声が響いた。
教壇に立っているのは、メタルフレームの眼鏡をかけた瘦せ型の男性教師、塚本先生だ。四十代前半、といったところだろうか。彼が私のクラスの担任だ。
明日からのスケジュールと今年一年の大まかな流れを淡々と説明するその表情からは、私たちを受け持った喜びなんかは微塵も感じられない。紺色のスーツの胸元につけた紅白の花飾りが、ひどく浮いていた。
浮いているといえば、私の目の前には、入学式で斜め後ろに座っていたミルクティーベージュの派手頭がいた。近藤瑞希、というらしい。
いまもぐらぐらと頭を揺らしている。どんだけ眠いんだ。
「以上です。なにか質問は?」
探り合うような沈黙。かさ、かさ、とプリントをめくる音だけが耳につく。
「では、今日はこれで終了です。明日からの授業に備えて、教科書には必ず目を通しておくこと。いいですね。スタートで躓く人は、たいてい巻き返せずに終わりますから」
レンズ越しの鋭い視線にねめつけられて、ぴりっと緊張が走った。
この瞬間からもう、三年後の大学受験のスタートが切られているのだと、はっきりと思い知らされる。
それでも、塚本先生が姿を消すと教室の空気がほっと緩んだ。あちこちから「どこの中学校?」なんて、入学式初日らしく初々しい会話が聞こえてきた。
遥は隣のクラスだった。帰る前に捕まえなければ、あんなクサい演技までして作ったせっかくのきっかけが無駄になってしまう。
プリント類をカバンに突っ込むと、私は急いで席を立った――が、背中に、どん、となにかがぶつかってきて、前につんのめってしまう。
振り返ると、ショートカットの女の子がニヤニヤ笑っていた。
「あっ、ごっめーん。『遥ちゃん』大丈夫?」
「ちょっとやめなよ、この人は『遥』じゃないって。えーっと……名前、なんだっけ?」
ショートの隣でクスクス笑っているのは茶髪のボブ。
「えーでもさぁ、あんな公衆の面前で『遥……』なんて、インパクト強すぎてそっちしか残ってないし」
「やらかしちゃったよねぇ。せっかくの新入生代表なのにさぁ」
「そのうえ開き直って全員にケンカ売るとかまじヤバ」
「西岡さん、伊東さん。そういう言いかたはよくないよ」
満を持して、といったふうに二人の後ろから登場したのは、人目を引くかわいらしい女の子だった。
ショートとボブがさっと左右に分かれて、当然のように彼女が真ん中に立つ。
校則よりほんの少し短いスカート、よく見ないと気付かれないくらいのナチュラルメイク、ゆるく巻いた長い髪の毛先を指先でもてあそびながら、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「誰にだって失敗くらいあるんだし、澤野さんだってきっとテンパってあんなこと言っちゃったんじゃないかなぁ。責めたらかわいそうだよ」
ねえ、と私に向かってとびっきりの笑顔を向ける。
たぶん、普通の男の子だったらイチコロだろうな、と思うような完璧なスマイル。
「澤野さん。私、吉田絵里奈っていうの。これからよろしくね」
差し出された手にぽかんとしてしまう。
なんなんだこの茶番は。私はいったいなにを見せられているんだ。
「あの、私は気にしてないんで。あと、ちょっと急いでるから」
そんなくだらないことで足止めしないでほしい、という本音はなんとかぎりぎり飲み込めた。
「なによそれ!」
「せっかく絵里奈ちゃんがあんたみたいなのに声かけてやってるんでしょ!」
ショート(西岡)とボブ(伊東)が詰め寄ってくる。
「いいのよ、二人とも。澤野さんは恥ずかしがってるだけ」
「そうじゃなくて、私ホントにどうでもいいって言うか」
「なんですってー!」
ああもう、こんなめんどくさいのに絡まれるなんて予定になかったのに。早くしないと遥が帰っちゃうじゃない!
ぐいぐい迫ってくるショートとボブ、その後ろでほほ笑む吉田さんをどうやって振り切ろうかと考えを巡らせていると、さらに予定になかったものが飛び込んできた。
「チッカはあたしと一緒に帰るって約束してるんで」
近藤瑞希。ミルクティーベージュの派手頭だ。
オレンジ色のネイルを施した指先が、私の手をにぎる。
「えっ、ちょ、ちょっと」
「じゃあウチら急ぐんで、まったねー」
ミルクティーベージュ、こと、近藤さんは、呆気に取られている吉田さんたちを残して私を連れて教室を飛び出した。
「ちょっと待って」
階段を下りる途中で、私は彼女の手を振り払った。
私より三段下にいる近藤さんの、ダークブラウンのアイラインと極盛りのマスカラに縁取られた大きな目(カラーコンタクトのせいで薄く灰色がかっている)が、私を見上げる。
「私、あなたと帰る約束なんかしてないけど」
「それっていま問題にするとこ? 助けてあげたんじゃん」
初めて正面からちゃんと見た彼女は、髪色も含め、とても有名進学校である星山高校にふさわしい生徒とは思えなかった。スカートだって、規定より十センチは短い。
成績さえ問題なければ、外見における校則違反はある程度黙認されるとはいえ、入学初日からこの格好で現れるのはよっぽど自己主張が強いのか、この姿に彼女なりのポリシーを持っているかのどちらかだろう。
「あーいうやつらってさ、最初が肝心なの。鼻っ柱一発ガツンとやっておかないと、三年間ずっとナメられるよ。ってなわけでぇ、さっさと行こ。追いつかれたら厄介っしょ?」
たしかにまたあの三人に絡まれたら面倒だ。それに、遥のクラスはまだホームルームが終わっていなかったから、昇降口で待っていればきっと会えるはずだ。
そう判断した私は、しぶしぶ彼女のあとに続いて階段を下りた。
彼女につかまれた腕をそっと撫でさすると、じんと熱を帯びているような気がした。
誰かに触られるのは嫌いだ。そこから、私が崩れてしまいそうになる。
近藤さんが階段の最後の二段をぴょんと飛び降りると、短いスカートが翻って、近くを歩いていた男子生徒が慌てて目をそらした。
「あ、見えた? よかったら全然見てもいーよ。今日はかわいいパンツだから」
見てないし! と顔を真っ赤にして走り去ったこの高校そのものみたいにまじめそうな男子生徒の後ろ姿を、この高校にちっとも似合わない近藤さんがケラケラ笑いながら見送る。
「ねぇねぇチッカ」
「ていうか、そのチッカってなに?」
「だって千佳よりカワイイっしょ?」
「やめてよ。センスなさすぎ」
そんな下っ端妖精みたいな名前で呼ばれてたまるか。
「えー、そっかなぁ」
近藤さんは首をかしげながら、私の隣を歩く。
不釣り合いな私たちが連れ立っているせいで、嫌でも注目が集まってしまう。
近藤さんはそんな周囲の視線などちっとも気にせず、ぺらぺらと自分語りを始めた。
それによれば、彼女は電車で一時間半以上かかるところから通ってきているのだという。
「このメイクとか髪巻くのとかすっごく時間かかるから、めっちゃ早起きしなきゃいけなくてさぁ。もう大変なんだよぉ」
だから、入学式で居眠りするなんて事態になったのか。
「だったらどうしてこの高校を選んだの? もっと楽に通えるところなんていくらでもあるでしょ」
「んーと、なんとなく?」
答えにならない答えを口にして、近藤さんはニカっと笑った。
変なやつ。
私は、近藤さんのキャラクターをそう定義して、靴箱からローファーを取り出した。
外に出ると、ふわりと暖かい風が吹いた。
春の陽光に桜の柔らかいピンクが舞う美しい世界に、思わず目を細める。
そこには、真新しいブレザーの藍色を身にまとった新入生。祝福と喜び、そして希望に満ちた興奮がきらきらと輝いている。
美しい。なんて、美しい。
この景色を目にするのは、本当は私じゃなかったのに。そう思うと、胸が小さく傷んだ。
ごめんね、チー。
「チッカ?」
「……私、ちょっと人を待つから」
「じゃああたしも一緒に」
「あなた、帰るのにも時間かかるんでしょ? 急いだほうがいいんじゃない?」
「いーのいーの、気にしないで」
しつこく追いかけてくる近藤さんに、くるりと振り返る。この人には遠回しな言いかたじゃ分からないみたいだから、はっきりきっぱり言ってやらないと!
「あのね――」
「あ、チッカ!」
「一緒には帰らないって言ってるでしょ。あとその呼びかたやめてって――」
「じゃなくて、上、上!」
「危ないぞー!」
近藤さんと知らない声に促されて視線を上げると、ふっと太陽の光が陰った。
澄み渡る青空に、球体が浮かんでいる――と思ったら、それは、重力に従って落ちてきた。落下地点はたぶん、私。
ぐんぐん近づいてくる球体には白と黒が混在しているらしいことだけ、かろうじて分かった。
反射的に両手を上げて自分をかばい、ぎゅっと目をつぶった。
その瞬間、強い力で腕をつかまれて引っ張られる。
――いや、離して!
喉の奥で炸裂した叫びが、幼いころの記憶を揺さぶる。
頬が、ざらりとしたものに触れた。体育館に満ちていた、あの、真新しいにおいがする。
ぽぉん。
空っぽが弾むような音におそるおそる目を開けると、足元に白と黒のサッカーボールが転がっていた。
「いやーごめんごめん!」
危ないぞー、と同じ声が、人ごみをかき分けてやってくる。
赤いユニフォームを着た上級生と思しき男子生徒は、胸元に「サッカー部員、マネージャー大募集!」と書いた段ボールを下げていた。
「ちょっとコントロールミスっちゃって。でもこれも何かの縁だし、君たちをサッカー部にご招待!」
「いらないです」
彼からは、かすかに汗のにおいがした。汗をかくのは大嫌いだ。
――かさかさ、しゃらしゃら。
なにかがまとわりいてくる感触を思い出して、私は顔をしかめた。
「そんなこと言わないでさぁ。あ、君って新入生代表やってた子だろ? 威勢のいいスピーチしてたじゃん。そんな子が入ってくれたら、うちの部も盛り上がるし」
「いやですやりませんごめんなさい」
「ねえチッカ、それより」
「ほら、せっかくだし」
「せっかくって何が――」
「チッカ、ねえってば」
「だからその名前で呼ばないでってば!」
怒鳴りつけた勢いで近藤さんに振り返ると、彼女は私の斜め上の方向を見て固まっていた。
そういえば――と、目の前の藍色に気付いて視線を上げる。真新しいにおい。
美しい世界の時間が止まり、音が消え、色が弾けた。
「……大丈夫そうだな」
藤原遥。
その名前と写真で見た姿、それにチーのとりとめのない話でしか知らなかったその人が、私の目の前にいた。
遥は、飛んできたボールからかばうために、私を抱きかかえるようにしていた。じわり、と染み込んでくる体温を、急上昇する私の体温が跳ね返す。
チャンスだ。これは、絶好のチャンス。
「……遥が助けてくれたんだね。ありがとう」
「えーっ! チッカが入学式で言ってた『遥』ってこの人? やっば! ちょーイケメンじゃん!」
硬直から解放された近藤さんが、大声ではしゃぎ出す。
白くてつるりとした肌に切れ長の目、一八〇センチ近い長身で真新しい制服を着こなして、うっすらと茶色がかった髪に、春の日射しが柔らかく反射してきらめいていた。
春の陽光、暖かく優しい風、桜のピンク、祝福と喜び、そして興奮を帯びたざわめき。
そんな美しい世界さえ、彼の前ではなんの価値もないガラクタみたいだった。
瑛輔くんが手に入れてきた写真を見たとき、たしかにカッコいい人だな、と思った。でも、直接、目に映した遥は、イケメン、なんて安っぽい言葉で表していい人じゃなかった。
――はるかはねぇ、すごく、きれいなんだ。どこにいてもすぐ分かっちゃうの。
そう。
チーの言ったとおり、遥はとてもきれいだ。
「さわの、ちか」
遥の唇が、私の――ううん、私のだけど、私じゃない人の名前を口にする。
「……うん、そうだよ」
あなたにつく、最初の嘘。
これから私はあなたにたくさんの嘘をつきます。
「約束覚えてたんだ?」
「当たり前でしょ。この制服を着て、一緒に星山高校に通おうって言ったの、私だもん」
そう、チーが何度も私に話してくれた。
瑛輔くんのシナリオどおりの、甘くて、運命的な再会。
こんなにうまくいくなんて。もしかして、チーが力を貸してくれたの?
「えー、もしかしてこれってなんか感動的な再会ってやつ?」
「すげーじゃん! じゃあ積もる話もあるだろうし、よかったらサッカー部の部室貸してあげるよ。そんで、ついでにみんなまとめてサッカー部に入部しちゃおー」
近藤さんがはしゃいで飛び上がり、赤いユニフォームの先輩がまったく空気を読まない提案をしてくる。
「「けっこうです」」
私と遥が声を合わせてきっぱり断ると、先輩はちぇ、と舌を鳴らした。
転がっていたサッカーボールを拾い上げ、ぽん、ぽん、と何度かリフティングしたあと、人ごみに紛れていった。その後ろ姿は、藍色の波間を、赤い魚がすいすいと泳いでいくようにも見えた。
「あのさ。俺、今日ちょっと急ぐから。また今度ゆっくり話そうぜ」
そう言って、ひらひら手を振った遥も、先輩のあとを追って藍色の海に消えた。
同じ藍色のなかにあって、遥の藍色はやっぱり「特別」だった。
遥の通ったあとには、光の欠片がきらきらと線を描いているみたいに見えた。
静まり返った教室に神経質な声が響いた。
教壇に立っているのは、メタルフレームの眼鏡をかけた瘦せ型の男性教師、塚本先生だ。四十代前半、といったところだろうか。彼が私のクラスの担任だ。
明日からのスケジュールと今年一年の大まかな流れを淡々と説明するその表情からは、私たちを受け持った喜びなんかは微塵も感じられない。紺色のスーツの胸元につけた紅白の花飾りが、ひどく浮いていた。
浮いているといえば、私の目の前には、入学式で斜め後ろに座っていたミルクティーベージュの派手頭がいた。近藤瑞希、というらしい。
いまもぐらぐらと頭を揺らしている。どんだけ眠いんだ。
「以上です。なにか質問は?」
探り合うような沈黙。かさ、かさ、とプリントをめくる音だけが耳につく。
「では、今日はこれで終了です。明日からの授業に備えて、教科書には必ず目を通しておくこと。いいですね。スタートで躓く人は、たいてい巻き返せずに終わりますから」
レンズ越しの鋭い視線にねめつけられて、ぴりっと緊張が走った。
この瞬間からもう、三年後の大学受験のスタートが切られているのだと、はっきりと思い知らされる。
それでも、塚本先生が姿を消すと教室の空気がほっと緩んだ。あちこちから「どこの中学校?」なんて、入学式初日らしく初々しい会話が聞こえてきた。
遥は隣のクラスだった。帰る前に捕まえなければ、あんなクサい演技までして作ったせっかくのきっかけが無駄になってしまう。
プリント類をカバンに突っ込むと、私は急いで席を立った――が、背中に、どん、となにかがぶつかってきて、前につんのめってしまう。
振り返ると、ショートカットの女の子がニヤニヤ笑っていた。
「あっ、ごっめーん。『遥ちゃん』大丈夫?」
「ちょっとやめなよ、この人は『遥』じゃないって。えーっと……名前、なんだっけ?」
ショートの隣でクスクス笑っているのは茶髪のボブ。
「えーでもさぁ、あんな公衆の面前で『遥……』なんて、インパクト強すぎてそっちしか残ってないし」
「やらかしちゃったよねぇ。せっかくの新入生代表なのにさぁ」
「そのうえ開き直って全員にケンカ売るとかまじヤバ」
「西岡さん、伊東さん。そういう言いかたはよくないよ」
満を持して、といったふうに二人の後ろから登場したのは、人目を引くかわいらしい女の子だった。
ショートとボブがさっと左右に分かれて、当然のように彼女が真ん中に立つ。
校則よりほんの少し短いスカート、よく見ないと気付かれないくらいのナチュラルメイク、ゆるく巻いた長い髪の毛先を指先でもてあそびながら、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「誰にだって失敗くらいあるんだし、澤野さんだってきっとテンパってあんなこと言っちゃったんじゃないかなぁ。責めたらかわいそうだよ」
ねえ、と私に向かってとびっきりの笑顔を向ける。
たぶん、普通の男の子だったらイチコロだろうな、と思うような完璧なスマイル。
「澤野さん。私、吉田絵里奈っていうの。これからよろしくね」
差し出された手にぽかんとしてしまう。
なんなんだこの茶番は。私はいったいなにを見せられているんだ。
「あの、私は気にしてないんで。あと、ちょっと急いでるから」
そんなくだらないことで足止めしないでほしい、という本音はなんとかぎりぎり飲み込めた。
「なによそれ!」
「せっかく絵里奈ちゃんがあんたみたいなのに声かけてやってるんでしょ!」
ショート(西岡)とボブ(伊東)が詰め寄ってくる。
「いいのよ、二人とも。澤野さんは恥ずかしがってるだけ」
「そうじゃなくて、私ホントにどうでもいいって言うか」
「なんですってー!」
ああもう、こんなめんどくさいのに絡まれるなんて予定になかったのに。早くしないと遥が帰っちゃうじゃない!
ぐいぐい迫ってくるショートとボブ、その後ろでほほ笑む吉田さんをどうやって振り切ろうかと考えを巡らせていると、さらに予定になかったものが飛び込んできた。
「チッカはあたしと一緒に帰るって約束してるんで」
近藤瑞希。ミルクティーベージュの派手頭だ。
オレンジ色のネイルを施した指先が、私の手をにぎる。
「えっ、ちょ、ちょっと」
「じゃあウチら急ぐんで、まったねー」
ミルクティーベージュ、こと、近藤さんは、呆気に取られている吉田さんたちを残して私を連れて教室を飛び出した。
「ちょっと待って」
階段を下りる途中で、私は彼女の手を振り払った。
私より三段下にいる近藤さんの、ダークブラウンのアイラインと極盛りのマスカラに縁取られた大きな目(カラーコンタクトのせいで薄く灰色がかっている)が、私を見上げる。
「私、あなたと帰る約束なんかしてないけど」
「それっていま問題にするとこ? 助けてあげたんじゃん」
初めて正面からちゃんと見た彼女は、髪色も含め、とても有名進学校である星山高校にふさわしい生徒とは思えなかった。スカートだって、規定より十センチは短い。
成績さえ問題なければ、外見における校則違反はある程度黙認されるとはいえ、入学初日からこの格好で現れるのはよっぽど自己主張が強いのか、この姿に彼女なりのポリシーを持っているかのどちらかだろう。
「あーいうやつらってさ、最初が肝心なの。鼻っ柱一発ガツンとやっておかないと、三年間ずっとナメられるよ。ってなわけでぇ、さっさと行こ。追いつかれたら厄介っしょ?」
たしかにまたあの三人に絡まれたら面倒だ。それに、遥のクラスはまだホームルームが終わっていなかったから、昇降口で待っていればきっと会えるはずだ。
そう判断した私は、しぶしぶ彼女のあとに続いて階段を下りた。
彼女につかまれた腕をそっと撫でさすると、じんと熱を帯びているような気がした。
誰かに触られるのは嫌いだ。そこから、私が崩れてしまいそうになる。
近藤さんが階段の最後の二段をぴょんと飛び降りると、短いスカートが翻って、近くを歩いていた男子生徒が慌てて目をそらした。
「あ、見えた? よかったら全然見てもいーよ。今日はかわいいパンツだから」
見てないし! と顔を真っ赤にして走り去ったこの高校そのものみたいにまじめそうな男子生徒の後ろ姿を、この高校にちっとも似合わない近藤さんがケラケラ笑いながら見送る。
「ねぇねぇチッカ」
「ていうか、そのチッカってなに?」
「だって千佳よりカワイイっしょ?」
「やめてよ。センスなさすぎ」
そんな下っ端妖精みたいな名前で呼ばれてたまるか。
「えー、そっかなぁ」
近藤さんは首をかしげながら、私の隣を歩く。
不釣り合いな私たちが連れ立っているせいで、嫌でも注目が集まってしまう。
近藤さんはそんな周囲の視線などちっとも気にせず、ぺらぺらと自分語りを始めた。
それによれば、彼女は電車で一時間半以上かかるところから通ってきているのだという。
「このメイクとか髪巻くのとかすっごく時間かかるから、めっちゃ早起きしなきゃいけなくてさぁ。もう大変なんだよぉ」
だから、入学式で居眠りするなんて事態になったのか。
「だったらどうしてこの高校を選んだの? もっと楽に通えるところなんていくらでもあるでしょ」
「んーと、なんとなく?」
答えにならない答えを口にして、近藤さんはニカっと笑った。
変なやつ。
私は、近藤さんのキャラクターをそう定義して、靴箱からローファーを取り出した。
外に出ると、ふわりと暖かい風が吹いた。
春の陽光に桜の柔らかいピンクが舞う美しい世界に、思わず目を細める。
そこには、真新しいブレザーの藍色を身にまとった新入生。祝福と喜び、そして希望に満ちた興奮がきらきらと輝いている。
美しい。なんて、美しい。
この景色を目にするのは、本当は私じゃなかったのに。そう思うと、胸が小さく傷んだ。
ごめんね、チー。
「チッカ?」
「……私、ちょっと人を待つから」
「じゃああたしも一緒に」
「あなた、帰るのにも時間かかるんでしょ? 急いだほうがいいんじゃない?」
「いーのいーの、気にしないで」
しつこく追いかけてくる近藤さんに、くるりと振り返る。この人には遠回しな言いかたじゃ分からないみたいだから、はっきりきっぱり言ってやらないと!
「あのね――」
「あ、チッカ!」
「一緒には帰らないって言ってるでしょ。あとその呼びかたやめてって――」
「じゃなくて、上、上!」
「危ないぞー!」
近藤さんと知らない声に促されて視線を上げると、ふっと太陽の光が陰った。
澄み渡る青空に、球体が浮かんでいる――と思ったら、それは、重力に従って落ちてきた。落下地点はたぶん、私。
ぐんぐん近づいてくる球体には白と黒が混在しているらしいことだけ、かろうじて分かった。
反射的に両手を上げて自分をかばい、ぎゅっと目をつぶった。
その瞬間、強い力で腕をつかまれて引っ張られる。
――いや、離して!
喉の奥で炸裂した叫びが、幼いころの記憶を揺さぶる。
頬が、ざらりとしたものに触れた。体育館に満ちていた、あの、真新しいにおいがする。
ぽぉん。
空っぽが弾むような音におそるおそる目を開けると、足元に白と黒のサッカーボールが転がっていた。
「いやーごめんごめん!」
危ないぞー、と同じ声が、人ごみをかき分けてやってくる。
赤いユニフォームを着た上級生と思しき男子生徒は、胸元に「サッカー部員、マネージャー大募集!」と書いた段ボールを下げていた。
「ちょっとコントロールミスっちゃって。でもこれも何かの縁だし、君たちをサッカー部にご招待!」
「いらないです」
彼からは、かすかに汗のにおいがした。汗をかくのは大嫌いだ。
――かさかさ、しゃらしゃら。
なにかがまとわりいてくる感触を思い出して、私は顔をしかめた。
「そんなこと言わないでさぁ。あ、君って新入生代表やってた子だろ? 威勢のいいスピーチしてたじゃん。そんな子が入ってくれたら、うちの部も盛り上がるし」
「いやですやりませんごめんなさい」
「ねえチッカ、それより」
「ほら、せっかくだし」
「せっかくって何が――」
「チッカ、ねえってば」
「だからその名前で呼ばないでってば!」
怒鳴りつけた勢いで近藤さんに振り返ると、彼女は私の斜め上の方向を見て固まっていた。
そういえば――と、目の前の藍色に気付いて視線を上げる。真新しいにおい。
美しい世界の時間が止まり、音が消え、色が弾けた。
「……大丈夫そうだな」
藤原遥。
その名前と写真で見た姿、それにチーのとりとめのない話でしか知らなかったその人が、私の目の前にいた。
遥は、飛んできたボールからかばうために、私を抱きかかえるようにしていた。じわり、と染み込んでくる体温を、急上昇する私の体温が跳ね返す。
チャンスだ。これは、絶好のチャンス。
「……遥が助けてくれたんだね。ありがとう」
「えーっ! チッカが入学式で言ってた『遥』ってこの人? やっば! ちょーイケメンじゃん!」
硬直から解放された近藤さんが、大声ではしゃぎ出す。
白くてつるりとした肌に切れ長の目、一八〇センチ近い長身で真新しい制服を着こなして、うっすらと茶色がかった髪に、春の日射しが柔らかく反射してきらめいていた。
春の陽光、暖かく優しい風、桜のピンク、祝福と喜び、そして興奮を帯びたざわめき。
そんな美しい世界さえ、彼の前ではなんの価値もないガラクタみたいだった。
瑛輔くんが手に入れてきた写真を見たとき、たしかにカッコいい人だな、と思った。でも、直接、目に映した遥は、イケメン、なんて安っぽい言葉で表していい人じゃなかった。
――はるかはねぇ、すごく、きれいなんだ。どこにいてもすぐ分かっちゃうの。
そう。
チーの言ったとおり、遥はとてもきれいだ。
「さわの、ちか」
遥の唇が、私の――ううん、私のだけど、私じゃない人の名前を口にする。
「……うん、そうだよ」
あなたにつく、最初の嘘。
これから私はあなたにたくさんの嘘をつきます。
「約束覚えてたんだ?」
「当たり前でしょ。この制服を着て、一緒に星山高校に通おうって言ったの、私だもん」
そう、チーが何度も私に話してくれた。
瑛輔くんのシナリオどおりの、甘くて、運命的な再会。
こんなにうまくいくなんて。もしかして、チーが力を貸してくれたの?
「えー、もしかしてこれってなんか感動的な再会ってやつ?」
「すげーじゃん! じゃあ積もる話もあるだろうし、よかったらサッカー部の部室貸してあげるよ。そんで、ついでにみんなまとめてサッカー部に入部しちゃおー」
近藤さんがはしゃいで飛び上がり、赤いユニフォームの先輩がまったく空気を読まない提案をしてくる。
「「けっこうです」」
私と遥が声を合わせてきっぱり断ると、先輩はちぇ、と舌を鳴らした。
転がっていたサッカーボールを拾い上げ、ぽん、ぽん、と何度かリフティングしたあと、人ごみに紛れていった。その後ろ姿は、藍色の波間を、赤い魚がすいすいと泳いでいくようにも見えた。
「あのさ。俺、今日ちょっと急ぐから。また今度ゆっくり話そうぜ」
そう言って、ひらひら手を振った遥も、先輩のあとを追って藍色の海に消えた。
同じ藍色のなかにあって、遥の藍色はやっぱり「特別」だった。
遥の通ったあとには、光の欠片がきらきらと線を描いているみたいに見えた。