「……ッカ、チッカってば!」
「……え、瑞希、なに大きな声出してるの? 塚本先生に怒られるよ」
「ホームルーム、とっくに終わってますけど」
気が付けば、みんな席を立ってそれぞれの放課後を過ごしていた。
「なんか最近ずっと変。いっつもボーっとしちゃってさ。あ、遥くんロスでしょ」
そうか。私はもう遥を失ってるのか。と妙に納得してしまう。
言い返さない私に、瑞希は物足りなそうな顔をした。
「とにかく、部室行こ。次の試験はもっと上に行くんだから!」
二者面談の結果、瑞希は行きたい大学には少し足りないと言われたらしい。
「あと一年、今の三倍は頑張りなさい」
塚本先生にそう言われたらしく、最近の瑞希は気合が入りまくっている。
「遥くん、ホントに文芸部辞めちゃうのかなぁ」
と、瑞希がつぶやく。
いまの私にとって、遥は遠くから姿を見るだけの存在。でも、私がチーだなんて嘘をつかなければ、もともとこうなっていたはずだ。だから、これが私たちの「本当」なんだと、そう言い聞かせる。
吉田さんたちがどこか嬉しそうなのは気に入らないけれど。
「あ! 最悪、スマホ教室に忘れてきたー。ちょっと取ってくるから先に行ってて」
瑞希は部室の少し手前でそう言うと、Uターンして行ってしまった。いつも肌身離さずスマホを持ち歩いているのに、珍しいな。
部室では、いつものように桐原先輩が本を読んでいた。その手にあるのがクリスティの『そして誰もいなくなった』なのは、なんとも皮肉だ。
「いらっしゃい。……なんだか元気ないね」
私はそれに答えず、腰を下ろした。教科書とノートを出そうとして手がすべって、カバンの中身を床にぶちまけてしまう。ああもう、最近はなにもかもダメだ。
しゃがみこんで伸ばした手に、別の手が重ねられた。いつの間にか先輩が私の隣にいた。二人の間の空気が、わずかに熱をはらむ。
「僕が千佳ちゃんを好きになった理由はね、君が嘘つきだからだよ」
先輩の言葉に息をのんだ。この人はなにを、どこまで知ってるんだろう。
「僕のリサーチ能力を舐めてもらっちゃ困るね。千佳ちゃんが遥くんの『ちか』じゃないことくらい、もうとっくに分かってるんだよ」
薄い唇を歪めて、ふふっと笑いを漏らした。
「僕はね、きれいなだけのものはつまらないって思うんだ。少しくらい汚れていたほうがいいんだよ。それは、足掻いて生きた証だから」
「……でも、それを汚いって思う人もいるじゃないですか」
遥が、私をそう思ったように。
「君がついた嘘もなにもかも、僕なら丸ごと全部受け入れてあげるよ」
冷たさを感じさせる目に優しさをたたえて、私を見た。
「遥くんには負けるけどね、僕だってそう悪い見た目じゃない、と思うんだけど」
頬に触れた指先はひやりと冷たかった。
誰かに触れられるのは嫌い。
なのに、心のどこかが「誰か」を求めてる。私を一人にしない「誰か」を。
先輩の顔が近付く。鼻先が触れそうなほどの距離に、頬の冷たい感触に、絡めとるような視線に、私の心がゆっくりと麻痺していく。
「嘘つきな千佳ちゃん。君なら自分の気持ちに嘘をつくことなんて簡単でしょ? そうやってごまかしていれば、そのうち嘘が本当になるかもしれないよ」
そう――そうか。
私はどうしようもない嘘つきだ。だったら一生嘘に溺れて生きていけばいい。「本当」に目を閉じて、耳をふさいで、息を止めて、深い海の底に沈んでいけばいい。
縮まっていく先輩との距離に、私はゆっくりとまぶたを下ろした。
――わたし、はるかのこと、だいすきなの。
チーの声がした。
嘘なんかひとつも混じっていない、自分の心をそのまま言葉にした声が。
その瞬間、私は思い切り顔をそらして身を引いた。唇が空を切った先輩が前のめりに倒れこむ。
「いたた……ひどいなぁ」
「ご、ごめんなさい」
「――あっ、遥くん、ちょ、ちょっと待って!」
廊下から瑞希の声がして振り返ると、部室の入口に遥がいた。
床に座ったままの桐原先輩と私、そして散乱しっぱなしの教科書やノートを見て、遥の顔色が変わった。
「部長、千佳になにしてんですか?」
「あれ、『関係ない』んじゃないの?」
「いいから答えろよ」
遥が先輩の胸元をつかんで強引に立ち上がらせた。吉田さんたちの一件があったときのことを思い出す。なんかやばい気がする。
「は、遥。なんでもないの。ただちょっと転んじゃっただけっていうか」
「千佳は黙ってろよ」
「話も聞かないなんて遥くんも余裕がないなぁ。それじゃあ大切なものは守れないよ」
遥の目に怒りが走った。振り上げられた拳に息をのむ。
「だめーっ!」
そう叫んで遥に飛びついたのは、瑞希だった。
「遥くん、だめ! 違うんだってば、全部、違うの!」
瑞希の必死さに毒気を抜かれたのか、遥が先輩から手を離す。
「――書けって言われた退部届、持ってきましたから。ちゃんと辞めさせてくださいよ」
先輩は小さくため息をついた。
「本当にいいの?」
「お世話になりました」
出ていくとき、遥はちらりと私を見た。世界を色づかせるその目が、悲しげに歪んでいるように見えた。
しんとした部室で、先輩は困ったように窓の外を見ていた。瑞希は、私と、遥が去った方向、交互に視線をやっている。
私は、床に散らばった教科書を拾い上げ、
「ね、瑞希。今日はどの教科にするの?」
と聞いた。
「いつもどおり」にすればいい。遥と私には最初からなにもなかった。全部嘘。ただそれだけ。
「……ちょっとチッカ。なにやってんの。追いかけなきゃだめだよ」
私の肩をつかんだ瑞希の手を乱暴に払いのける。
鼻の奥がツンとした。こみ上げてくるものを抑え込むように、冷静を装って言葉を吐く。
「これでいいの。私と遥は、本当は出会うはずじゃなかったんだから」
「だからなによ。嘘をついたからなによ。そんなの、ぶつかる前から諦める理由になんかなんないでしょ」
胸のあたりを強く突かれた。ごまかそうとしていたのに私の心が揺さぶられてしまう。どうしようもないくらいに、揺れる。
「チッカのここはなんて言ってるの? チッカはどうしたいのよ。それがチッカの『本当』でしょ?」
瑞希の声に涙がにじんだ。
つられて私の視界も歪んだけれど、気付かれたくなくて、うつむいたまま床の上のものを拾い続ける。
ふとその手が止まった。そこに、あるはずのないものがあったから。
私がチーについて書き綴ったあのノートが、マットレスの下に隠し続けたあのノートがここに、どうして。
ああそうか、昨日参考書のあいだに隠したのを、そのまま持ってきてしまったんだ。
なにかに導かれるように、私は表紙をめくった。
『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』
チーと遥の約束。
そして――私と遥の始まり。
だけど、ここから始まったものは全部、私のものじゃない。
遥と私の過ごした時間は、全部、嘘でできてる。
『チーは遥が好き』
最後の書き込みをそっとなぞる。
――やっぱり私はどうしようもない嘘つきだ。このノートに紛れ込ませた嘘は、世界で私一人しか知らない。
シャープペンシルで書かれた「チー」の下には、一度書かれて消された「千佳」の跡が残っている。
指先に神経を集中して、触れて、ようやく分かる、私の「本当」。
『千佳は遥がすき』
こぼれた涙がノートに落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
「チー」がぼやけて薄くなる。そしてかすかに「千佳」が浮かび上がる。
「チッカ、このままじゃだめ。絶対だめ」
瑞希が私よりたくさんの涙を流して、声を震わせて、私を揺さぶる。この期に及んで私がまだ隠そうとする「本当」を揺さぶってくる。
「落ち着いて、瑞希。そんなに急かしたって千佳ちゃんを困らせるだけだよ」
桐原先輩が瑞希の肩に手を置いた。
だって、と鼻をすすりながら、瑞希は先輩の胸に顔を埋める。そのあまりに自然な流れは、ただの先輩と後輩だとは思えなかった。
「ごめんね、千佳ちゃん。僕らもけっこう嘘つきなんだよ」
先輩はそう言っていたずらっぽく笑った。
「仕掛け人は瑛輔さんだよ」
そう聞いてなぜか頭をよぎったのは、私に向かって中指を立てる女の人。
「三人で集まるようになったとき、千佳ちゃんが、同じ名前の別人に成りすまして遥くんに近付いたこと教えてもらった。それで、なんとか千佳ちゃんの助けになってほしいって頼まれたんだ」
私が知らないところでそんな作戦が進行していたなんて。
瑛輔くんが文芸部の合宿をあの別荘でやろうと言い出したときにはもう、そのつもりだったっていうこと?
「びっくりしたけど、でも、どうにかしたかった。だってあたし、約束したもん。チッカと遥くんのこと応援するって」
先輩のブレザーを涙でぐしょぐしょにしながら、瑞希が言った。私の恋を応援しながら、ちゃっかり自分の恋も叶えていたとは、さすが恋愛マスターというべきか。
「そこで僕が一芝居打ったってわけ。ライバルが現れたら遥くんも素直になるんじゃないかと思ったんだけどなぁ」
桐原先輩が突然私に告白をしたのは、そういうことだったのか。一つひとつが繋がっていく。
全部、全部、みんなの嘘。
「でも遥くんにはそういう回りくどいやり方は効かないみたいだね。千佳ちゃんがどうしても嘘をつけないその気持ちをぶつけるのが一番有効だと思うよ」
やっぱり世界は嘘であふれている。
だけど、みんなの嘘は、とても優しい。
「私、遥のこと追いかける」
私がそう言うと、瑞希と桐原先輩がうなずいた。
「大事なのは、いまの二人の気持ちだよ。その始まりが嘘でも本当でも、どっちでもいいんじゃないかな」
「はい。あと――私が一番好きなクリスティの作品は『杉の柩』です」
かつて答えそびれた質問にようやく答えを返すと、先輩はおかしそうに笑った。
「千佳ちゃんらしいね」
「ほらほら急がなきゃ。チッカ、走れ!」
瑞希と先輩が私の背中を押した。それを合図に、私は走り出す。部室を出るとき、あのノートを見た。
さよなら、チー。
チーとカー。私たちはあのころ、二人で一人だった。
だけどもう私は一人で生きなくちゃいけない。
私のなかのあなたの居場所はずいぶんと小さくなってしまうけど、絶対になくしたりしないから。だから――さよなら。
すれ違う生徒を弾き飛ばす勢いで、私は走った。廊下を爆走する元新入生代表を、みんなが目を丸くして見ている。
鼓動が跳ねる。額に汗がにじむ。
生きている証を存分に感じながら私は走った。
汗にまみれた青春なんてまっぴらごめんだって思ってた。いまだってそう思ってる。
だけど、そうでもしなきゃ遥に追いつけない。遥に伝えられない。
遥に――会いたい。どうしても。
生徒玄関に着いた私は飛びつくようにして遥の靴箱を確認した。
外履きがない。靴を履き替えるのももどかしく、外に飛び出した私は、また駆け出した。
遥、どこ? どこにいるの?
遥を助けるために飛び込んだ海で、同じように叫んだことを思い出す。音も光も消えてしまう真っ暗な世界で、私が呼び続けたのは、大切な人の名前。
夕暮れの橙色に染まるグラウンドに、運動部のかけ声がこだましている。視界の片隅をよぎった姿に、私の全細胞が反応した。
星山高校のどこにでもある藍色の背中。だけど、あれは「特別」な色。
「遥!」
声の限りに叫んだ。
振り返った遥が私を見て、わずかにたじろいだ。そして、足早にグラウンドを横切ろうとする。
「待ってよ!」
全速力で走った。心臓はフルスロットル。激しい呼吸を繰り返したせいで肺が痛い。足だってもう限界だ。だけど、もう諦めない。
伸ばした手が、遥の背中に届く。ブレザーを強くつかむ。もう二度と離すもんか。
「……なんだよ」
さすがに足を止めた遥が、ぶっきらぼうに言った。
「遥に、言わなくちゃ、いけないことが、あるの」
息が上がっていまにも倒れてしまいそうだった。でも、そのおかげで、ためらう理性も働かなかった。
「ごめんなさい。遥の大切な人を、私が、いなくしてしまった。本当にごめんなさい」
「……それは、千佳のせいだけじゃないだろ。……それくらい、俺にだって分かるよ」」
遥が、ぽつりと言った。
「あとね、あと――私、遥が好き」
息を切らしながらの矢継ぎ早な告白に、遥は呆気にとられた顔をした。
「……そういうの、もうやめろよ」
「好き。遥が私のこと許せないのも、嫌いなのも分かってるけど――」
「千佳は、知花の……ああもう、ややこしい!」
遥が私を見た。
「お前は、あいつの代わりに俺を好きになったんだろ。そんな嘘なら、俺はいらない」
「違う。遥を好きなのは私。他の誰でもない」
グラウンドの真ん中で言い争う私たちを、部活動に励む生徒たちがちらちら見てくる。
私は、ぐいと前髪を上げた。チーの傷跡が残っていた場所をむき出しにする。
「私はチーじゃない。だから、私のこの気持ちは私だけのもの。誰にも譲れない『本当』なの」
残照が空を染めていた。今日を名残惜しむようなそのとろりとした光が、少しずつ消えていく。
「千佳」
遥が呼ぶのは、私の――私だけの名前。
私の左手を取った遥は、薬指のあたりをブレザーの袖でごしごしと擦った。
「部長のやつ、やっぱり殴ってやればよかったな」
「ち、違うの。遥、あれはね――」
私の言葉が途切れる。遥が、私の薬指にキスを落としたから。
「これで、消えたかな」
少し顔が赤く見えるのは、きっと消えかけている夕日のせいだけじゃない。
「えっと――プリンセス、あなたが何者でもかまわない。どうか僕の――ああ、なんか違うな」
遥ががりがりと頭を掻いて、仕切り直すように大きく息をついた。
「千佳が好きだ。かっこいいスピーチも、瑞希ちゃんのために変な女に突っかかっていったのも、俺を助けるのに海に飛び込んだりするのも、嘘つきでも大事なことにはちゃんと正直なとこも、好きだ。俺は、これからもそんな千佳のそばにいたい」
もう一度、唇が薬指に触れた。
くすぐったい感触はまばゆい光のようだった。
これは、私と遥が積み上げた思い出から生まれた「本当」。放たれた光は、私のためだけに作られたガラスの靴になる。
これを履いて、遥と一緒に歩いていくんだ。
「遥、私も遥が好きだよ」
「――危ないぞーっ!」
無粋な声が割り込んできた。
空を見上げると、薄く紫がかった空から私に向かって落ちてくる、白と黒の球体。
避けようとしたとき、酷使した私の足がかくりと折れた。
あ、と思う間もなく膝をついてしまう。立てない。衝撃を覚悟して私はぎゅっと目を閉じた。
けれど、聞こえてきたのは、トンッ、と軽く弾む音。
目を開けると、そこに広がるのは藍色。星山高校のブレザーの色。この校舎にあふれた、ありきたりな色。
だけど、これは私をときめかせるたった一つの「特別」だった。
振り返った遥はちょっと照れくさそうに笑って、私を助け起こす。
「意外と、体って覚えてるもんだな」
そう言いながら、足元のサッカーボールを爪先で小さく蹴った。
グラウンドの向こうのサッカー部から「ナイストラップー!」と声が飛んできて、そのうちの一人がこちらに向かって走ってくる。
「あれー?」
近付いてきた人影が変な声を出した。こんなところ見られたらまたうわさになっちゃうな。でも、まあいいか。
「あーやっぱり、入学式のときの二人だ。なんだよ、こんなところでまたラブシーン?」
遥と私は顔を見合わせた。
そうだ、この人は私たちが出会ったあのときの赤いユニフォームの人。今日は黒いTシャツにハーフパンツだけど。
「いやーでもナイストラップだったよ。どう、サッカー部入らない? ちなみにマネージャーも募集しております」
「遠慮しておきます」
二人で声を合わせてお断りした。
ちぇーっと口をとがらせた名も知らぬ私たちのキューピッドに思わず笑ってしまう。
「ま、いいや。ボール、サンキュ」
遥が私の前にサッカーボールを蹴ってよこす。
行け、というように、いたずらっぽくウインクされて、私は思い切りボールを蹴った――が、その行く先はあらぬ方向。
「あ」
「あ」
「あーっ!」
名もなきキューピッドが叫ぶ。
高く上がったボールはフェンスを越えて、止まっていた車のボンネットにきれいに落下して直撃した。ヤバいかも……と三人で顔を見合わせる。
ふと、その車に見覚えがある気がした。遥も「なあ、あの車ってさ」と口にする。そう、あれは――。
「ちょっとぴーちゃん、ひどすぎるだろ!」
運転席から飛び出してきたのは瑛輔くんだった。
赤い髪に緑色の革ジャン、ダメージジーンズ、じゃらじゃらとチェーンの音をさせるその姿に、キューピッドが「ひっ」と小さく叫ぶ。このスタイルの瑛輔くんを見るのが初めての遥も、目を丸くしていた。
「もう、別にいいじゃない。瑛輔は器が小さいんだから」
助手席から現れたのはしろいワンピース姿の沙耶さんだった。
向日葵のような笑顔を私たちに向けて大きく手を振っている。驚く私に、瑛輔くんは照れくさそうに燃えるような赤い頭を掻いた。
瑛輔くんが放り投げたサッカーボールを受け取ると、キューピッドは光の速さで逃げていった。きっともう私たちをサッカー部に誘うことはないだろうな。
「ここにいたらまたボール飛んでくるから行ったほうがいいかも」
「あ、瑞希と先輩どうしよう。まだ待ってるかな。瑛輔くんと沙耶さんも」
私を送り出してくれた二人と、フェンスの向こうで私たちを待っている二人。さすがに置いて帰るのは……。
遥の手が私の手を握った。いままでと違う、指を絡める深いつなぎかたに顔が熱くなった。
「だめ。今日は二人きり。いいだろ?」
甘えるようなそのささやきに、背筋がぞくりとする。それに抗う術なんか私にあるはずがない。
「逃げるぞ」
遥が私の手を引いて走り出した。限界を超えていた足が、また動き出す。
「腹減ったなー。なんか食って帰る?」
「なにがいいかなー?」
「ハンバーガーにしようぜ。千佳の特訓、まだ終わってないし」
「今日はもっとうまく食べられるから!」
「へー、期待してる!」
景色が流れていく。ああ、世界はなんて美しい。
嘘も本当も全部ひっくるめて受け入れているその姿を美しいと思わせてくれたのは、私の目の前にいる大切な人なんだ。
遥の背中を追って走りながら、私はそんなことを考えていた。
「……え、瑞希、なに大きな声出してるの? 塚本先生に怒られるよ」
「ホームルーム、とっくに終わってますけど」
気が付けば、みんな席を立ってそれぞれの放課後を過ごしていた。
「なんか最近ずっと変。いっつもボーっとしちゃってさ。あ、遥くんロスでしょ」
そうか。私はもう遥を失ってるのか。と妙に納得してしまう。
言い返さない私に、瑞希は物足りなそうな顔をした。
「とにかく、部室行こ。次の試験はもっと上に行くんだから!」
二者面談の結果、瑞希は行きたい大学には少し足りないと言われたらしい。
「あと一年、今の三倍は頑張りなさい」
塚本先生にそう言われたらしく、最近の瑞希は気合が入りまくっている。
「遥くん、ホントに文芸部辞めちゃうのかなぁ」
と、瑞希がつぶやく。
いまの私にとって、遥は遠くから姿を見るだけの存在。でも、私がチーだなんて嘘をつかなければ、もともとこうなっていたはずだ。だから、これが私たちの「本当」なんだと、そう言い聞かせる。
吉田さんたちがどこか嬉しそうなのは気に入らないけれど。
「あ! 最悪、スマホ教室に忘れてきたー。ちょっと取ってくるから先に行ってて」
瑞希は部室の少し手前でそう言うと、Uターンして行ってしまった。いつも肌身離さずスマホを持ち歩いているのに、珍しいな。
部室では、いつものように桐原先輩が本を読んでいた。その手にあるのがクリスティの『そして誰もいなくなった』なのは、なんとも皮肉だ。
「いらっしゃい。……なんだか元気ないね」
私はそれに答えず、腰を下ろした。教科書とノートを出そうとして手がすべって、カバンの中身を床にぶちまけてしまう。ああもう、最近はなにもかもダメだ。
しゃがみこんで伸ばした手に、別の手が重ねられた。いつの間にか先輩が私の隣にいた。二人の間の空気が、わずかに熱をはらむ。
「僕が千佳ちゃんを好きになった理由はね、君が嘘つきだからだよ」
先輩の言葉に息をのんだ。この人はなにを、どこまで知ってるんだろう。
「僕のリサーチ能力を舐めてもらっちゃ困るね。千佳ちゃんが遥くんの『ちか』じゃないことくらい、もうとっくに分かってるんだよ」
薄い唇を歪めて、ふふっと笑いを漏らした。
「僕はね、きれいなだけのものはつまらないって思うんだ。少しくらい汚れていたほうがいいんだよ。それは、足掻いて生きた証だから」
「……でも、それを汚いって思う人もいるじゃないですか」
遥が、私をそう思ったように。
「君がついた嘘もなにもかも、僕なら丸ごと全部受け入れてあげるよ」
冷たさを感じさせる目に優しさをたたえて、私を見た。
「遥くんには負けるけどね、僕だってそう悪い見た目じゃない、と思うんだけど」
頬に触れた指先はひやりと冷たかった。
誰かに触れられるのは嫌い。
なのに、心のどこかが「誰か」を求めてる。私を一人にしない「誰か」を。
先輩の顔が近付く。鼻先が触れそうなほどの距離に、頬の冷たい感触に、絡めとるような視線に、私の心がゆっくりと麻痺していく。
「嘘つきな千佳ちゃん。君なら自分の気持ちに嘘をつくことなんて簡単でしょ? そうやってごまかしていれば、そのうち嘘が本当になるかもしれないよ」
そう――そうか。
私はどうしようもない嘘つきだ。だったら一生嘘に溺れて生きていけばいい。「本当」に目を閉じて、耳をふさいで、息を止めて、深い海の底に沈んでいけばいい。
縮まっていく先輩との距離に、私はゆっくりとまぶたを下ろした。
――わたし、はるかのこと、だいすきなの。
チーの声がした。
嘘なんかひとつも混じっていない、自分の心をそのまま言葉にした声が。
その瞬間、私は思い切り顔をそらして身を引いた。唇が空を切った先輩が前のめりに倒れこむ。
「いたた……ひどいなぁ」
「ご、ごめんなさい」
「――あっ、遥くん、ちょ、ちょっと待って!」
廊下から瑞希の声がして振り返ると、部室の入口に遥がいた。
床に座ったままの桐原先輩と私、そして散乱しっぱなしの教科書やノートを見て、遥の顔色が変わった。
「部長、千佳になにしてんですか?」
「あれ、『関係ない』んじゃないの?」
「いいから答えろよ」
遥が先輩の胸元をつかんで強引に立ち上がらせた。吉田さんたちの一件があったときのことを思い出す。なんかやばい気がする。
「は、遥。なんでもないの。ただちょっと転んじゃっただけっていうか」
「千佳は黙ってろよ」
「話も聞かないなんて遥くんも余裕がないなぁ。それじゃあ大切なものは守れないよ」
遥の目に怒りが走った。振り上げられた拳に息をのむ。
「だめーっ!」
そう叫んで遥に飛びついたのは、瑞希だった。
「遥くん、だめ! 違うんだってば、全部、違うの!」
瑞希の必死さに毒気を抜かれたのか、遥が先輩から手を離す。
「――書けって言われた退部届、持ってきましたから。ちゃんと辞めさせてくださいよ」
先輩は小さくため息をついた。
「本当にいいの?」
「お世話になりました」
出ていくとき、遥はちらりと私を見た。世界を色づかせるその目が、悲しげに歪んでいるように見えた。
しんとした部室で、先輩は困ったように窓の外を見ていた。瑞希は、私と、遥が去った方向、交互に視線をやっている。
私は、床に散らばった教科書を拾い上げ、
「ね、瑞希。今日はどの教科にするの?」
と聞いた。
「いつもどおり」にすればいい。遥と私には最初からなにもなかった。全部嘘。ただそれだけ。
「……ちょっとチッカ。なにやってんの。追いかけなきゃだめだよ」
私の肩をつかんだ瑞希の手を乱暴に払いのける。
鼻の奥がツンとした。こみ上げてくるものを抑え込むように、冷静を装って言葉を吐く。
「これでいいの。私と遥は、本当は出会うはずじゃなかったんだから」
「だからなによ。嘘をついたからなによ。そんなの、ぶつかる前から諦める理由になんかなんないでしょ」
胸のあたりを強く突かれた。ごまかそうとしていたのに私の心が揺さぶられてしまう。どうしようもないくらいに、揺れる。
「チッカのここはなんて言ってるの? チッカはどうしたいのよ。それがチッカの『本当』でしょ?」
瑞希の声に涙がにじんだ。
つられて私の視界も歪んだけれど、気付かれたくなくて、うつむいたまま床の上のものを拾い続ける。
ふとその手が止まった。そこに、あるはずのないものがあったから。
私がチーについて書き綴ったあのノートが、マットレスの下に隠し続けたあのノートがここに、どうして。
ああそうか、昨日参考書のあいだに隠したのを、そのまま持ってきてしまったんだ。
なにかに導かれるように、私は表紙をめくった。
『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』
チーと遥の約束。
そして――私と遥の始まり。
だけど、ここから始まったものは全部、私のものじゃない。
遥と私の過ごした時間は、全部、嘘でできてる。
『チーは遥が好き』
最後の書き込みをそっとなぞる。
――やっぱり私はどうしようもない嘘つきだ。このノートに紛れ込ませた嘘は、世界で私一人しか知らない。
シャープペンシルで書かれた「チー」の下には、一度書かれて消された「千佳」の跡が残っている。
指先に神経を集中して、触れて、ようやく分かる、私の「本当」。
『千佳は遥がすき』
こぼれた涙がノートに落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
「チー」がぼやけて薄くなる。そしてかすかに「千佳」が浮かび上がる。
「チッカ、このままじゃだめ。絶対だめ」
瑞希が私よりたくさんの涙を流して、声を震わせて、私を揺さぶる。この期に及んで私がまだ隠そうとする「本当」を揺さぶってくる。
「落ち着いて、瑞希。そんなに急かしたって千佳ちゃんを困らせるだけだよ」
桐原先輩が瑞希の肩に手を置いた。
だって、と鼻をすすりながら、瑞希は先輩の胸に顔を埋める。そのあまりに自然な流れは、ただの先輩と後輩だとは思えなかった。
「ごめんね、千佳ちゃん。僕らもけっこう嘘つきなんだよ」
先輩はそう言っていたずらっぽく笑った。
「仕掛け人は瑛輔さんだよ」
そう聞いてなぜか頭をよぎったのは、私に向かって中指を立てる女の人。
「三人で集まるようになったとき、千佳ちゃんが、同じ名前の別人に成りすまして遥くんに近付いたこと教えてもらった。それで、なんとか千佳ちゃんの助けになってほしいって頼まれたんだ」
私が知らないところでそんな作戦が進行していたなんて。
瑛輔くんが文芸部の合宿をあの別荘でやろうと言い出したときにはもう、そのつもりだったっていうこと?
「びっくりしたけど、でも、どうにかしたかった。だってあたし、約束したもん。チッカと遥くんのこと応援するって」
先輩のブレザーを涙でぐしょぐしょにしながら、瑞希が言った。私の恋を応援しながら、ちゃっかり自分の恋も叶えていたとは、さすが恋愛マスターというべきか。
「そこで僕が一芝居打ったってわけ。ライバルが現れたら遥くんも素直になるんじゃないかと思ったんだけどなぁ」
桐原先輩が突然私に告白をしたのは、そういうことだったのか。一つひとつが繋がっていく。
全部、全部、みんなの嘘。
「でも遥くんにはそういう回りくどいやり方は効かないみたいだね。千佳ちゃんがどうしても嘘をつけないその気持ちをぶつけるのが一番有効だと思うよ」
やっぱり世界は嘘であふれている。
だけど、みんなの嘘は、とても優しい。
「私、遥のこと追いかける」
私がそう言うと、瑞希と桐原先輩がうなずいた。
「大事なのは、いまの二人の気持ちだよ。その始まりが嘘でも本当でも、どっちでもいいんじゃないかな」
「はい。あと――私が一番好きなクリスティの作品は『杉の柩』です」
かつて答えそびれた質問にようやく答えを返すと、先輩はおかしそうに笑った。
「千佳ちゃんらしいね」
「ほらほら急がなきゃ。チッカ、走れ!」
瑞希と先輩が私の背中を押した。それを合図に、私は走り出す。部室を出るとき、あのノートを見た。
さよなら、チー。
チーとカー。私たちはあのころ、二人で一人だった。
だけどもう私は一人で生きなくちゃいけない。
私のなかのあなたの居場所はずいぶんと小さくなってしまうけど、絶対になくしたりしないから。だから――さよなら。
すれ違う生徒を弾き飛ばす勢いで、私は走った。廊下を爆走する元新入生代表を、みんなが目を丸くして見ている。
鼓動が跳ねる。額に汗がにじむ。
生きている証を存分に感じながら私は走った。
汗にまみれた青春なんてまっぴらごめんだって思ってた。いまだってそう思ってる。
だけど、そうでもしなきゃ遥に追いつけない。遥に伝えられない。
遥に――会いたい。どうしても。
生徒玄関に着いた私は飛びつくようにして遥の靴箱を確認した。
外履きがない。靴を履き替えるのももどかしく、外に飛び出した私は、また駆け出した。
遥、どこ? どこにいるの?
遥を助けるために飛び込んだ海で、同じように叫んだことを思い出す。音も光も消えてしまう真っ暗な世界で、私が呼び続けたのは、大切な人の名前。
夕暮れの橙色に染まるグラウンドに、運動部のかけ声がこだましている。視界の片隅をよぎった姿に、私の全細胞が反応した。
星山高校のどこにでもある藍色の背中。だけど、あれは「特別」な色。
「遥!」
声の限りに叫んだ。
振り返った遥が私を見て、わずかにたじろいだ。そして、足早にグラウンドを横切ろうとする。
「待ってよ!」
全速力で走った。心臓はフルスロットル。激しい呼吸を繰り返したせいで肺が痛い。足だってもう限界だ。だけど、もう諦めない。
伸ばした手が、遥の背中に届く。ブレザーを強くつかむ。もう二度と離すもんか。
「……なんだよ」
さすがに足を止めた遥が、ぶっきらぼうに言った。
「遥に、言わなくちゃ、いけないことが、あるの」
息が上がっていまにも倒れてしまいそうだった。でも、そのおかげで、ためらう理性も働かなかった。
「ごめんなさい。遥の大切な人を、私が、いなくしてしまった。本当にごめんなさい」
「……それは、千佳のせいだけじゃないだろ。……それくらい、俺にだって分かるよ」」
遥が、ぽつりと言った。
「あとね、あと――私、遥が好き」
息を切らしながらの矢継ぎ早な告白に、遥は呆気にとられた顔をした。
「……そういうの、もうやめろよ」
「好き。遥が私のこと許せないのも、嫌いなのも分かってるけど――」
「千佳は、知花の……ああもう、ややこしい!」
遥が私を見た。
「お前は、あいつの代わりに俺を好きになったんだろ。そんな嘘なら、俺はいらない」
「違う。遥を好きなのは私。他の誰でもない」
グラウンドの真ん中で言い争う私たちを、部活動に励む生徒たちがちらちら見てくる。
私は、ぐいと前髪を上げた。チーの傷跡が残っていた場所をむき出しにする。
「私はチーじゃない。だから、私のこの気持ちは私だけのもの。誰にも譲れない『本当』なの」
残照が空を染めていた。今日を名残惜しむようなそのとろりとした光が、少しずつ消えていく。
「千佳」
遥が呼ぶのは、私の――私だけの名前。
私の左手を取った遥は、薬指のあたりをブレザーの袖でごしごしと擦った。
「部長のやつ、やっぱり殴ってやればよかったな」
「ち、違うの。遥、あれはね――」
私の言葉が途切れる。遥が、私の薬指にキスを落としたから。
「これで、消えたかな」
少し顔が赤く見えるのは、きっと消えかけている夕日のせいだけじゃない。
「えっと――プリンセス、あなたが何者でもかまわない。どうか僕の――ああ、なんか違うな」
遥ががりがりと頭を掻いて、仕切り直すように大きく息をついた。
「千佳が好きだ。かっこいいスピーチも、瑞希ちゃんのために変な女に突っかかっていったのも、俺を助けるのに海に飛び込んだりするのも、嘘つきでも大事なことにはちゃんと正直なとこも、好きだ。俺は、これからもそんな千佳のそばにいたい」
もう一度、唇が薬指に触れた。
くすぐったい感触はまばゆい光のようだった。
これは、私と遥が積み上げた思い出から生まれた「本当」。放たれた光は、私のためだけに作られたガラスの靴になる。
これを履いて、遥と一緒に歩いていくんだ。
「遥、私も遥が好きだよ」
「――危ないぞーっ!」
無粋な声が割り込んできた。
空を見上げると、薄く紫がかった空から私に向かって落ちてくる、白と黒の球体。
避けようとしたとき、酷使した私の足がかくりと折れた。
あ、と思う間もなく膝をついてしまう。立てない。衝撃を覚悟して私はぎゅっと目を閉じた。
けれど、聞こえてきたのは、トンッ、と軽く弾む音。
目を開けると、そこに広がるのは藍色。星山高校のブレザーの色。この校舎にあふれた、ありきたりな色。
だけど、これは私をときめかせるたった一つの「特別」だった。
振り返った遥はちょっと照れくさそうに笑って、私を助け起こす。
「意外と、体って覚えてるもんだな」
そう言いながら、足元のサッカーボールを爪先で小さく蹴った。
グラウンドの向こうのサッカー部から「ナイストラップー!」と声が飛んできて、そのうちの一人がこちらに向かって走ってくる。
「あれー?」
近付いてきた人影が変な声を出した。こんなところ見られたらまたうわさになっちゃうな。でも、まあいいか。
「あーやっぱり、入学式のときの二人だ。なんだよ、こんなところでまたラブシーン?」
遥と私は顔を見合わせた。
そうだ、この人は私たちが出会ったあのときの赤いユニフォームの人。今日は黒いTシャツにハーフパンツだけど。
「いやーでもナイストラップだったよ。どう、サッカー部入らない? ちなみにマネージャーも募集しております」
「遠慮しておきます」
二人で声を合わせてお断りした。
ちぇーっと口をとがらせた名も知らぬ私たちのキューピッドに思わず笑ってしまう。
「ま、いいや。ボール、サンキュ」
遥が私の前にサッカーボールを蹴ってよこす。
行け、というように、いたずらっぽくウインクされて、私は思い切りボールを蹴った――が、その行く先はあらぬ方向。
「あ」
「あ」
「あーっ!」
名もなきキューピッドが叫ぶ。
高く上がったボールはフェンスを越えて、止まっていた車のボンネットにきれいに落下して直撃した。ヤバいかも……と三人で顔を見合わせる。
ふと、その車に見覚えがある気がした。遥も「なあ、あの車ってさ」と口にする。そう、あれは――。
「ちょっとぴーちゃん、ひどすぎるだろ!」
運転席から飛び出してきたのは瑛輔くんだった。
赤い髪に緑色の革ジャン、ダメージジーンズ、じゃらじゃらとチェーンの音をさせるその姿に、キューピッドが「ひっ」と小さく叫ぶ。このスタイルの瑛輔くんを見るのが初めての遥も、目を丸くしていた。
「もう、別にいいじゃない。瑛輔は器が小さいんだから」
助手席から現れたのはしろいワンピース姿の沙耶さんだった。
向日葵のような笑顔を私たちに向けて大きく手を振っている。驚く私に、瑛輔くんは照れくさそうに燃えるような赤い頭を掻いた。
瑛輔くんが放り投げたサッカーボールを受け取ると、キューピッドは光の速さで逃げていった。きっともう私たちをサッカー部に誘うことはないだろうな。
「ここにいたらまたボール飛んでくるから行ったほうがいいかも」
「あ、瑞希と先輩どうしよう。まだ待ってるかな。瑛輔くんと沙耶さんも」
私を送り出してくれた二人と、フェンスの向こうで私たちを待っている二人。さすがに置いて帰るのは……。
遥の手が私の手を握った。いままでと違う、指を絡める深いつなぎかたに顔が熱くなった。
「だめ。今日は二人きり。いいだろ?」
甘えるようなそのささやきに、背筋がぞくりとする。それに抗う術なんか私にあるはずがない。
「逃げるぞ」
遥が私の手を引いて走り出した。限界を超えていた足が、また動き出す。
「腹減ったなー。なんか食って帰る?」
「なにがいいかなー?」
「ハンバーガーにしようぜ。千佳の特訓、まだ終わってないし」
「今日はもっとうまく食べられるから!」
「へー、期待してる!」
景色が流れていく。ああ、世界はなんて美しい。
嘘も本当も全部ひっくるめて受け入れているその姿を美しいと思わせてくれたのは、私の目の前にいる大切な人なんだ。
遥の背中を追って走りながら、私はそんなことを考えていた。