「チッカ、写真撮ってよ!」
「恥ずかしいからやめてよ」

 夏休み明けすぐの実力テストの結果が出て、廊下に貼り出された上位五十名の四十八位には「近藤瑞希」の名前があった。
 放課後、人気(ひとけ)の少ない廊下で瑞希が大いにはしゃいでいる。

「でもまあ、頑張ったじゃない」
「でっしょー! チッカのおかげ。チッカは当然一位で、遥くんは二十一位か。文芸部の面目躍如ってね」

 遥の名前に心臓がドキリとした。

「あれから遥くん、全然チッカに会いに来ないね。文芸部もずーっと休んでるし」

 瑞希が私の顔をのぞきこんだ。灰色がかったカラーコンタクトは、いつの間にか外されている。
 かつて瑞希がまとっていた鎧のような装飾はどんどんと剥がれ落ちて、いまはちょっとだけ派手な女子高生といったビジュアルになっていた。

「まだケンカしてるの?」
「……ケンカ、っていうか」

 ケンカなんて生易しいものじゃないんだけれど、今それを説明するのはなかなか難しい。
 いつかは話さなければならないことだけれど。……友達だし。

「もしなんかあったらこの恋愛マスターにちゃんと相談してよ」
「分かったってば。……ありがと」

 へへ、と瑞希が笑う。

「そんなわけで写真撮影!」
「しないってば」
「あーあー、やだやだ。ちょっと結果がよかっただけではしゃいじゃってさ」

 通りかかった吉田さんと西岡さんと伊東さんが、わざとらしく言った。
 あんなことがあっても未だに一緒にいるんだから、三人の絆は意外に固いのかもしれない。

「あ、ごっめーん。中学校時代くそダサで空気読まずのいじめられっ子で不登校なあたしがはしゃいでちゃ迷惑だよねぇ。ところでみなさんのお名前見つけられなかったんだけど、教えてもらっていいですかぁ?」
「う、うるさい!」

 パタパタと走って逃げた三人に向かって、瑞希がべーっと舌を出す。

「吉田さんって、昔、あたしをいじめてたやつらに似てるんだよね。だから大っ嫌いだったんだけど、案外、大したことないんだね」

 それは瑞希が強くなったからだ、と思う。
 だからもう外見をごてごて飾りつけなくても笑えるようになったんだ。
 見たこともないのに、過去の瑞希の笑っている姿をよく知っているような気がした。

「てか、チッカ。ぶちょーの告白どうすんの? もう断ったの?」
「う……それが」

 遥の目の前で突然の告白をした桐原先輩は、あれからずっと「お付き合いはできません」という私の答えをのらりくらりとかわし続けている。

「今はそうかもしれないけど、人の気持ちなんて一秒後に変わる不確かなものだから。僕は未来に賭けるよ」

 そう言って、いつものようにアガサ・クリスティに目を落としてシャットアウト。私の返事はいつだって宙ぶらりんでほったらかしだ。

「ガツンと言ってやるしかないんじゃない。あ、そうだ。あたしこれから面談だからさ、先に部室に行っててよ」

 面談とは、担任との二者面談のことだ。
 私たちもすでに「なんとなく」が通用しなくなる時期になっていた。
 目標とする進路に対し、いまの自分にはなにが足りないのか、なにをしなければならないのか、を確認する重要な面談だ。
 個人差はあるが、一人につきだいたい三十分ほどかかるので、数日に分けて行われる。瑞希は今日に割り振られていたらしい。
 桐原先輩がいるはずの部室に一人で行くのは気が重いけれど、今日こそちゃんと断らないと! と気合を入れてドアを開けた。
 それなのに、目に飛び込んできた光景に、私の気合なんて吹っ飛んでしまう。

「……遥」

 久し振りに目にしたその姿はやっぱりきれいで、世界がふわりと色づいた。

「ああ、千佳ちゃん。いいところに。遥くんがね、文芸部を辞めるっていうんだけどさ、引き止めてくれない?」

 桐原先輩が手にしているのは『三幕の殺人』。私が好きなポワロシリーズ。

「大した活動もしてないんだから、俺がいなくなってもいいじゃないですか」

 遥はうつむいたまま、そう吐き捨てた。私の姿を見るつもりはない、とでもいうように、その視線は爪先に縫い留められている。

「分かってないなぁ。僕は君や瑞希ちゃん、千佳ちゃんがいるこの場所が好きなんだよ」
「そんなの俺にはなんの関係もないです」
「君には『関係ない』ことばっかりだねぇ」

 桐原先輩は本を閉じて立ち上がった。

「背中を向けるだけで手にできる解決は、いつか絶対に後悔に変わる。僕はそう思うけど」
「……そんなの」
「関係ない、かな?」

 先回りされて、遥は唇をぐっと噛んだ。

「俺は、嘘が嫌いなんです。だから辞めます。お世話になりました」

 入口で立ち尽くしたままの私の横を遥が通り過ぎる。巻き上がった風に前髪が揺れた。

「遥くん。退部届は塚本先生からもらって、書いて僕に提出してね」

 桐原先輩が遥の背中に呼びかけて、ちらりと私を見た。遥は一瞬足を止めたが、そのまま行ってしまった。

「追いかけないの?」

 私は小さく首を横に振った。
 遥にかける言葉が――私の言葉が、まだ見つからない。

「そういえば瑞希ちゃんは?」
「……瑞希は二者面談があるから、遅れるって」
「ああもうそんな時期か。大変だよねぇ。まだ入学して半年もたたないのに進路の話なんてさ」

 私たちよりずっと差し迫った現実であるはずなのに、桐原先輩にはそんな焦りなんかみじんもないみたいだった。

「先輩、あの、私……」

 今日こそ断ろうという決意を思い出して口を開いた私に、先輩が、すっと顔を近づける。

「遥くんはもう君のことなんかどうでもいいみたいだね」

 その顔は少しだけ爬虫類を連想させる。触れたらひやりと冷たそうな――。

「千佳ちゃんだってそうなんじゃない? だから追いかけないんだろ?」
「ち、違います……っ!」
「近藤瑞希、ただいま参上しましたぁー」

 勢いよく部室に飛び込んできた瑞希がおどけて敬礼ポーズをとったが、微妙な空気を察したのか問うような視線を私に向けた。一瞬の沈黙のあと、最初に「いつもどおり」を取り戻したのは桐原先輩だった。

「瑞希ちゃん、お疲れさま。進路相談大変だったろ」
「あ、そうなんですよー。塚本先生ってばいい加減なこと言うとすぐにらんでくるから参っちゃう」

 二人の会話はいつもの文芸部と変わりないのに、私だけ全然違うところにいる気がした。

******

「ふーん、とうとう遥くんとは関係断絶ってわけか」

 瑛輔くんが大きく息をついた。
 夏合宿から戻るとすぐに、瑛輔くんの髪は真っ赤に染められ、ファッションも、私にとっての「いつもどおり」に戻った。
今日は、中指を立てた女の人がプリントされたTシャツと、ぎちぎち音を立てる黒い皮のパンツだ。海辺の別荘がよく似合う爽やか好青年の面影なんてどこにもない。

「まあ、でもこれをきっかけに最初からやり直してみたらいいんじゃない? ぴーちゃん本人として、ちゃんと遥くんに向き合ったらきっと応えてくれるよ」
「そんな簡単に言わないでよ」
「でも、好きなんだろ?」
「無理だよ。遥にとっての『ちか』はチーだけだもの」

 私はチーを死なせたニセモノ。
 しかも、遥に嘘をついてチーになろうとした。そんな私を、遥が許してくれるわけがない。

――俺は、嘘が嫌いなんです。

 私がチーになろうなんて思ったから。
 そんな浅ましい嘘で、自分の罪を償おうとしたから。自分のことばかりで、遥のことなんか考えてなかった。
 私がついた嘘は、遥とチーの約束を奪い取って、めちゃくちゃにした。
 それは、チーに二度目の死を与えたのと同じ。ひどい行為だったっていまなら分かる。
 遥にちゃんと謝らないと。そして――それを最後にしなくちゃ。

「ぴーちゃん、自分の気持ちをごまかしてたら後悔するだけだぞ」
「いいの」
「ぴーちゃん。少し落ち着いて考えろって」
「……うるさい! えらそうにアドバイスなんてしないでよ!」

 Tシャツの女の人が、ずっと私に向かって中指を立てている。なによ、なによ、なんなのよ! 私は瑛輔くんに向かって怒鳴った。急に立ち上がった弾みで椅子が倒れる。

「瑛輔くんだって沙耶さんになにも言えないくせに。自分の気持ちごまかしてるのはそっちじゃない! 本当は瑛輔くんが傷付きたくないだけなんでしょ? だから私だってそうする。もうほっといてよ!」

 しん、と沈黙が落ちる。瑛輔くんはじっと私を見つめたあと、

「言えてる」

 ぽつりとそう言った。
 階段を上がってくる足音。物音に気付いたママのものだ。
 瑛輔くんは小さく笑った。

「悪かったな」

 部屋を出ていく瑛輔くんに、私はなにも言えなかった。
 五歳のときに戻ったような気がした。一人、二人と私の大切な人たちが私の周りから消えていく。それを止める術が私にはない。

「先生、どうかされたんですか。なんだかすごい音がしたんですけど」
「すみません。俺、ちょっと辞書を落としちゃって。それより、千佳さん少し疲れているみたいだから、今日はここまでにしようと思います。ああそういえば、今日はブラウニーを焼いたって言ってましたね。食べられないの、残念だな」
「あら、せっかくですから召し上がっていってくださいな。じゃあ千佳ちゃんも一緒に――」
「千佳さんは少し寝るって言ってましたから、そっとしておきましょう。おじさんは今日も仕事ですか。大変ですね」
「ええ、でも最近は早く帰ってくるようになったんですよ」

 二人の声が遠ざかっていく。
 嘘つき。
 瑛輔くんは他人が作った食べ物は苦手なくせに。やっぱりみんな嘘つきだ。世界は嘘であふれている。
 それなのに、いま瑛輔くんがついた嘘はすごく優しい。
 どうして私は、誰かを傷付ける嘘しかつけないんだろう。
 どうして。
 そんな純粋な問いだけがずっと胸の中で渦巻いていた。
 マットレスの下からノートを取り出して、ゆっくりとページをめくる。

『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』

 この約束は私のものじゃない。ちゃんと全部チーに返してあげなくちゃ。
 最後の一ページに、最後の書き込みをする。

『チーは遥が好き』

 これだけは、どんなことがあっても揺るがない「本当」だ。
 その文字を何度も指でなぞっていると、階段を上がってくるママの足音がして、慌てて参考書のあいだに突っ込んで隠した。

「千佳ちゃん、大丈夫? なにか飲みたいものある?」
「ううん、大丈夫。寝てればよくなるから」

 ちっとも眠くなかったけれど、そう言った手前、ベッドに入って目を閉じた私は、意外にもすぐ眠りに落ちた。