星山高校の入学式が行われたのは、四月のよく晴れた日だった。
それはまるで絵本の中みたいに、穏やかで、柔らかで、希望と期待に満ちていて、美しく、暖かな日。
体育館には、真新しいにおいが充満していた。
まだ着慣れない藍色のブレザーとか、パリッと糊のきいた白いシャツとか、今日初めて履いたダサい上履きとか、そういったものと、新入生である私たち自身が醸し出す雰囲気が混じり合ったにおいだ。
壇上では、校長先生のありがたいお話が延々と続いている。ほどよく温められた空気と単調なリズムは最高の子守唄で、先頭に座る私の斜め後ろで、ミルクティーベージュというのか、ずいぶん派手な髪色をした女の子の頭がぐらんぐらん揺れていた。
校長先生は間違いなく気付いていて、ときどき苦々しい視線をこちらに向けてくる。話が長いのはそのせいかもしれない。
「――では、我が星山高校の生徒として、皆さんの今後の活躍を期待します」
みんなが待ちわびていた結びの言葉に、生真面目な拍手が起こった。「ふぇっ」と変な声を上げて、派手頭がびくんと跳ねた。
やめろ、笑っちゃうだろ。
尻すぼみに拍手がやみ、進行役の先生が私に視線を送ってきた。小さくうなずいて、それに返す。
「――続きまして、答辞。新入生代表、澤野千佳」
「はい」
私はゆっくりと立ち上がり、ステージに向かって歩き出した。新品のダサい上履きが、きゅっと音を立てた。
来賓席の前で一礼し、階段を上る。演台の前に立って、原稿を広げ、深く息を吸う。
そんな私の動きひとつひとつに、たくさんの視線がまとわりついてくる。
開いた原稿の内容は完璧に暗記していたけれど、それでもこうして持っているのは、リハーサルのときに強く言われたからだ。
過去に、途中で言葉が出なくなってしまった生徒が何人もいたから、だそうだ。
「暖かな春の訪れとともに、私たちは今日、星山高校の入学式を迎えることができました」
星山高校の入学式で答辞を行う新入生代表は、入試でトップの成績を修めた生徒、というのが慣習だ。
県内トップクラスの進学校である星山高校に集まってくるのは、当然、それぞれの中学の成績上位者たち。その中には、今日この場所に立つのは自分だと疑わなかった人もいるだろう。
それなのに、その他大勢として自分以外の誰かを見上げることになるなんて、屈辱以外のなにものでもない。
敵意に満ちた視線は、ちりちりと私の肌を焼くようだった。パニックに陥ったという過去の代表者たちは、この視線に絡めとられてしまったのかもしれない。
この学校の新入生代表とは、分かりやすい「ライバル」の象徴であり、競争心を煽るための「生贄」なのだ。
なんてよくできた、あざといシステム。
「新しく始まった生活に戸惑いや不安もありますが、それを上回る希望や期待を胸に、多くのことを学んでいきたいと思っています」
ステージの上から見下ろす体育館は、巨大な藍色の絨毯が敷かれているみたいだった。
ネットの例文を繋ぎ合わせただけの、心のこもらぬ言葉を吐き出しながら、私はその藍色に目を滑らせていた。
「今日から星山高校の生徒としての自覚と責任を持ち、仲間として協力し合い、また切磋琢磨して――」
私の視線が一点に縫いとめられた。
「彼」と目が合う。
「彼」は、周りと同じ藍色の中にあって、まったく違っていた。
ぽっと光が灯っているようでもあったし、目印の旗が立っているみたいでもあった。それくらい、はっきり分かった。
私が言葉を切ったせいで、進行表に目を落としてた司会役の先生が顔を上げた。
かすかなざわめきが体育館をよぎる。それには、私の失態を期待する下卑た思いが含まれていた。でも、そんなのどうでもよかった。
「――遥」
その一点を見つめたまま、私は「彼」の名前を呟いた。
掠れた、小さな声だった。けれど、マイクはそれをしっかりと捕らえ、スピーカーを通して、体育館の真上からぽとりと落とした。
私から遠く離れたその声は、自分のものじゃないみたいだった。
少しの間を置いて「彼」の顔に驚きが浮かんだ。その視線が探るように私をなぞる。
体育館に、戸惑いと好奇心が音もなく広がっていく。
ステージの下から、こほん、と咳払いが聞こえた。進行役の先生が「大丈夫か」と口を動かしている。私はハッとして、慌てて原稿に目を落として、先を続けた。
「……切磋琢磨、して、いきたいと思います」
でも、ありきたりなつまらないスピーチなんて、もう誰も聞いていなかった。私の失敗を笑う、くすくすという囁きも聞こえてくる。
ああ。
くだらないなぁ。
――カーは、言われっぱなしで悔しくないの? わたしならぜったいやり返してやるんだから!
そうだね。チー。
そのほうがずっとチーらしいもんね。
浮かんでくる笑みをこらえて、もう一度言葉を止めた。私の次の失敗を心配して、あるいは期待して、体育館がしんとなる。
「言っておきますが」
原稿から顔を上げ、藍色の絨毯にひたと視線を据える。
「私は卒業生代表も務めてみせますよ。この学校で、誰にも負けるつもりなんかないですから」
星山高校の新入生代表が入試のトップなら、卒業生代表は三年間の高校生活におけるトップだ。未だかつて、その両方を務めた者はいない、と聞く。
ぽかんとした表情を浮かべている全員に向かって、にっこりと微笑んでみせる。
「では、校長先生をはじめ、先生方、先輩方、そして来賓のみなさま。本日はありがとうございました。今後も温かいご指導をお願いします」
締めの言葉を言って、体育館を満たす無音の混乱に向かって自分の名前を告げる。
「新入生代表、澤野千佳」
その瞬間「彼」がわずかに目を見開いたような気がした。
私が一礼すると、ステージの下からぱちぱちと拍手が聞こえた。校長先生が立ち上がって、大きくうなずきながら手を打っている。司会役の先生が、来賓が、職員がそれに続く。
それにつられるように、体育館に盛大な拍手が巻き起こった。
その中をゆっくりと歩き、自分の席に戻る。
ミルクティーベージュの彼女が目を丸くして私を見ていたけれど、それは無視した。
まっすぐ伸ばした背中には、汗がにじんでいた。
……なんとかやり終えたけど、うまくできたのかな。わざとらしくなかったかな。
ついうっかり、思わず、というふうに聞こえただろうか。信じられない、という表情は、一瞬でも崩れなかっただろうか。
瑛輔くんが書いたシナリオはやたらとドラマチックだったし、演技指導だって、私には過剰演出にしか思えなかった。
最後の一言は予定になかったけど、このほうがチーらしい。
チーの振りをするならこれくらいやらなくちゃ。
だって、私はこのために星山高校に来たんだ。
私が、人生を、命を、なにより心をかけてやらなくちゃいけないことをするために。
藤原遥。
「彼」の名前を、胸の内で呟く。
大丈夫だよ、チー。
私、ちゃんとやってみせる。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人なら半分。
だけど二人なら何もこわくない。そうでしょ?
「新入生、起立」
星山高校の入学式が終わる。
それはまるで絵本の中みたいに、穏やかで、柔らかで、希望と期待に満ちていて、美しく、あたたかな日だった。
たった一つ、私の嘘が落とした混乱をのぞいては。
それはまるで絵本の中みたいに、穏やかで、柔らかで、希望と期待に満ちていて、美しく、暖かな日。
体育館には、真新しいにおいが充満していた。
まだ着慣れない藍色のブレザーとか、パリッと糊のきいた白いシャツとか、今日初めて履いたダサい上履きとか、そういったものと、新入生である私たち自身が醸し出す雰囲気が混じり合ったにおいだ。
壇上では、校長先生のありがたいお話が延々と続いている。ほどよく温められた空気と単調なリズムは最高の子守唄で、先頭に座る私の斜め後ろで、ミルクティーベージュというのか、ずいぶん派手な髪色をした女の子の頭がぐらんぐらん揺れていた。
校長先生は間違いなく気付いていて、ときどき苦々しい視線をこちらに向けてくる。話が長いのはそのせいかもしれない。
「――では、我が星山高校の生徒として、皆さんの今後の活躍を期待します」
みんなが待ちわびていた結びの言葉に、生真面目な拍手が起こった。「ふぇっ」と変な声を上げて、派手頭がびくんと跳ねた。
やめろ、笑っちゃうだろ。
尻すぼみに拍手がやみ、進行役の先生が私に視線を送ってきた。小さくうなずいて、それに返す。
「――続きまして、答辞。新入生代表、澤野千佳」
「はい」
私はゆっくりと立ち上がり、ステージに向かって歩き出した。新品のダサい上履きが、きゅっと音を立てた。
来賓席の前で一礼し、階段を上る。演台の前に立って、原稿を広げ、深く息を吸う。
そんな私の動きひとつひとつに、たくさんの視線がまとわりついてくる。
開いた原稿の内容は完璧に暗記していたけれど、それでもこうして持っているのは、リハーサルのときに強く言われたからだ。
過去に、途中で言葉が出なくなってしまった生徒が何人もいたから、だそうだ。
「暖かな春の訪れとともに、私たちは今日、星山高校の入学式を迎えることができました」
星山高校の入学式で答辞を行う新入生代表は、入試でトップの成績を修めた生徒、というのが慣習だ。
県内トップクラスの進学校である星山高校に集まってくるのは、当然、それぞれの中学の成績上位者たち。その中には、今日この場所に立つのは自分だと疑わなかった人もいるだろう。
それなのに、その他大勢として自分以外の誰かを見上げることになるなんて、屈辱以外のなにものでもない。
敵意に満ちた視線は、ちりちりと私の肌を焼くようだった。パニックに陥ったという過去の代表者たちは、この視線に絡めとられてしまったのかもしれない。
この学校の新入生代表とは、分かりやすい「ライバル」の象徴であり、競争心を煽るための「生贄」なのだ。
なんてよくできた、あざといシステム。
「新しく始まった生活に戸惑いや不安もありますが、それを上回る希望や期待を胸に、多くのことを学んでいきたいと思っています」
ステージの上から見下ろす体育館は、巨大な藍色の絨毯が敷かれているみたいだった。
ネットの例文を繋ぎ合わせただけの、心のこもらぬ言葉を吐き出しながら、私はその藍色に目を滑らせていた。
「今日から星山高校の生徒としての自覚と責任を持ち、仲間として協力し合い、また切磋琢磨して――」
私の視線が一点に縫いとめられた。
「彼」と目が合う。
「彼」は、周りと同じ藍色の中にあって、まったく違っていた。
ぽっと光が灯っているようでもあったし、目印の旗が立っているみたいでもあった。それくらい、はっきり分かった。
私が言葉を切ったせいで、進行表に目を落としてた司会役の先生が顔を上げた。
かすかなざわめきが体育館をよぎる。それには、私の失態を期待する下卑た思いが含まれていた。でも、そんなのどうでもよかった。
「――遥」
その一点を見つめたまま、私は「彼」の名前を呟いた。
掠れた、小さな声だった。けれど、マイクはそれをしっかりと捕らえ、スピーカーを通して、体育館の真上からぽとりと落とした。
私から遠く離れたその声は、自分のものじゃないみたいだった。
少しの間を置いて「彼」の顔に驚きが浮かんだ。その視線が探るように私をなぞる。
体育館に、戸惑いと好奇心が音もなく広がっていく。
ステージの下から、こほん、と咳払いが聞こえた。進行役の先生が「大丈夫か」と口を動かしている。私はハッとして、慌てて原稿に目を落として、先を続けた。
「……切磋琢磨、して、いきたいと思います」
でも、ありきたりなつまらないスピーチなんて、もう誰も聞いていなかった。私の失敗を笑う、くすくすという囁きも聞こえてくる。
ああ。
くだらないなぁ。
――カーは、言われっぱなしで悔しくないの? わたしならぜったいやり返してやるんだから!
そうだね。チー。
そのほうがずっとチーらしいもんね。
浮かんでくる笑みをこらえて、もう一度言葉を止めた。私の次の失敗を心配して、あるいは期待して、体育館がしんとなる。
「言っておきますが」
原稿から顔を上げ、藍色の絨毯にひたと視線を据える。
「私は卒業生代表も務めてみせますよ。この学校で、誰にも負けるつもりなんかないですから」
星山高校の新入生代表が入試のトップなら、卒業生代表は三年間の高校生活におけるトップだ。未だかつて、その両方を務めた者はいない、と聞く。
ぽかんとした表情を浮かべている全員に向かって、にっこりと微笑んでみせる。
「では、校長先生をはじめ、先生方、先輩方、そして来賓のみなさま。本日はありがとうございました。今後も温かいご指導をお願いします」
締めの言葉を言って、体育館を満たす無音の混乱に向かって自分の名前を告げる。
「新入生代表、澤野千佳」
その瞬間「彼」がわずかに目を見開いたような気がした。
私が一礼すると、ステージの下からぱちぱちと拍手が聞こえた。校長先生が立ち上がって、大きくうなずきながら手を打っている。司会役の先生が、来賓が、職員がそれに続く。
それにつられるように、体育館に盛大な拍手が巻き起こった。
その中をゆっくりと歩き、自分の席に戻る。
ミルクティーベージュの彼女が目を丸くして私を見ていたけれど、それは無視した。
まっすぐ伸ばした背中には、汗がにじんでいた。
……なんとかやり終えたけど、うまくできたのかな。わざとらしくなかったかな。
ついうっかり、思わず、というふうに聞こえただろうか。信じられない、という表情は、一瞬でも崩れなかっただろうか。
瑛輔くんが書いたシナリオはやたらとドラマチックだったし、演技指導だって、私には過剰演出にしか思えなかった。
最後の一言は予定になかったけど、このほうがチーらしい。
チーの振りをするならこれくらいやらなくちゃ。
だって、私はこのために星山高校に来たんだ。
私が、人生を、命を、なにより心をかけてやらなくちゃいけないことをするために。
藤原遥。
「彼」の名前を、胸の内で呟く。
大丈夫だよ、チー。
私、ちゃんとやってみせる。
チーとカー。
私たちは二人で一人。一人なら半分。
だけど二人なら何もこわくない。そうでしょ?
「新入生、起立」
星山高校の入学式が終わる。
それはまるで絵本の中みたいに、穏やかで、柔らかで、希望と期待に満ちていて、美しく、あたたかな日だった。
たった一つ、私の嘘が落とした混乱をのぞいては。