夏合宿の打ち上げと称したバーベキューは、沙耶さんと沙耶さんの両親も参加して、大いに盛り上がった。
 二日酔いからようやく復活して、朝と昼の分を取り戻すように勢いよく食べる瑛輔くんに、沙耶さんが、

「こら、肉ばっかり食べないの」

 と、叱っている。瑛輔くんは子どもみたいにムッとして、

「いいだろ、別に。飯くらい好きに食わせろ」

 と、言い返した。

「だめだめ。これからお医者さんになる人が不摂生なんてありえないんだから」

 鉄板で焼いたトマトにモッツァレラチーズをのせたものを鼻先に突き付けられて、しぶしぶ口に入れた瑛輔くんはその熱さに目を白黒させた。
 沙耶さんの両親は、そんな二人の姿を微笑ましく見つめている。

「私ね、お父さんとお母さんの店を継ぐのが夢なの。二人が私の名前を付けてくれた店だから」

 さっき、ワインを飲んでほんのり頬を染めた沙耶さんがそんな話をしてくれた。
 もしも瑛輔くんの想いが叶ったとしたら、もしかしたら沙耶さんの夢は叶わないかもしれない。だからって、このまま二人の想いが繋がらないのも正しい答えじゃない気がする。
 瑛輔くんに押し付けられた義務のような未来と、沙耶さんが大切にする夢。
 それに二人の想いが乗っかって絡んだものは、私なんかじゃとても(ほぐ)せそうにない。
 しゅうっと音がして、火薬のにおいがした。砂浜で、瑞希が手持ち花火を持って桐原先輩を追いかけていた。暗くなり始めた空に、ピンク色の火花が散る。

「待て待てー!」
「瑞希ちゃん、遊びかたが違うんじゃないかな!」

 瑞希は、弾けるように笑っていた。
 吉田さんたちとの一件を終えて、瑞希は少し変わった。
 メイクが薄くなって、髪色も落ち着いたものになった。その変化は、過去の瑞希と今の瑞希がちょっとずつ歩み寄っているようにも見えた。
 そして、今の瑞希は本当に楽しそうに笑う。

「チッカも遥くんもおいでよー!」

 隣で骨付きカルビを頬張っていた遥が、私に「行く?」ともごもごしながら聞いた。

「ううん。ゆっくり食べて。あとで一緒に行こう」

 と答える。
 最近、瑞希の笑顔を見るたびに、私はひどく居心地が悪くなる。
 あの笑顔には「嘘」がない。
 夜が更けて、沙耶さんのご両親は帰っていった。沙耶さんと瑛輔くんはちびちびとワインを舐めるようにして飲みながら、ぽつぽつと言葉を交わしていた。
 ウッドデッキの階段に腰掛けた私と瑞希の手のなかでは、線香花火がぱちぱちと火花を散らしている。

「チッカ、遥くん誘って出かけてきなよ」

 遥と桐原先輩は砂浜で花火を連発で打ち上げていて、波の音に紛れてわあわあ騒ぐ声が聞こえていた。

「出かけるって、どこに?」
「どこでもいいの! 二人っきりになるのが目的なんだから」

 ぐっと身を寄せた拍子に、瑞希の線香花火から火種が落ちた。あ、と声を漏らす私に、

「このまま、楽しい旅行でしたー、で終わらせる気? 付き合って初めての旅行なんだよ。なんかなきゃおかしいでしょ」

 と、囁くが早いか、立ち上がって砂浜の遥に向かって叫んだ。

「遥くーん、チッカがどっか行こうって!」
「ちょ……っ!」

 了解、というように遥が大きく手を振った。遠くても、笑っているのが分かる。体がびくりと揺れて、私の線香花火の火種も落ちた。

「でも……」

 と、保護者である瑛輔くんをちらりと見る。

「あんまり遠くまで行かないように」

 瑛輔くんはそう言って、おどけたように両手で目をふさいだ。
 みんなに生温かく見送られて、遥と私は夜の海へと歩き出した。
 いつの間にか空は暗くなっていた。誰かが指で突いて開けた穴のように、満月が浮かんでいる。
 遥は、なにも言わずに私の手を引いて歩き続けた。肉が焦げたにおいや花火のにおい、みんなの声が少しずつ遠くなっていく。世界が、私と遥の二人だけになっていく。
 ああ……でも私のなかにはチーがいるから三人か。そう思ったら胸が苦しくなった。
 月明かりに照らされた遥の白いTシャツは、まるで光を放っているように見えた。
 さく、さく、と砂を鳴らして歩き続け、遥は砂浜から海上へと突き出た堤防に上がった。私もそれに続く。砂の柔らかさに慣れた足裏が、硬いコンクリートの感触に戸惑っている気がした。
 突端にたどり着いて、遥はようやく足を止めた。繋いでいた手が離れて、その隙間を潮風が抜けていく。

「今日、怒鳴ってごめんな」

 月の光が海面に白い道を作っている。美しい、と思った。
 けれど、その奥にはすべてを飲み込んでしまう巨大な闇が潜んでいるって私は知っている。

「俺、千佳をずっと守るって約束したのに、いつも全然ダメだからさ。また千佳になにかったらどうしようって不安だったんだ」

 その約束は、私のものじゃない。遥が口にする「ちか」は私じゃないの。

「瑞希ちゃんも変なこと言うし」

 振り返った遥は、やっぱりきれいだった。
 モノクロの世界に色を着けて、美しいと思わせてくれる「特別」な人。

「……心配してくれて嬉しかったよ」

 これはチーの言葉。遥と想いを通じ合わせたチーの言葉。
 チーは私のなかにいる――でも、じゃあ「私」はどこにいるんだろう。
 いま、遥の目の前に立っているのは、私? それとも、チー?
 遥の指先が私の前髪をはらった。

「千佳は、変わったな。昔と全然違う」

 違う、という言葉に心臓がどくん、と音を鳴らす。

「じゃあ……遥が覚えてる私ってどんなだったの?」

 なぜだろう。
 遥が急に遠くへ行ってしまったような感覚を覚える。

「俺が覚えてるのは、人前に立つのは苦手で、いじめられたらすぐ泣いてた。好きな食べ物はハンバーガーで、本なんか読まなかった。もちろん勉強は苦手で、それに――」

 遥がひたと私を見つめる。

「あいつは嘘なんかつかなかった」

 あいつ(・・・)
 息を止めて、瞬きもせずに遥を見つめ返す。

「お前は、誰?」
 
******

「偽物にしてはよく似てるし、あいつと俺以外知らないこともよく知ってる。あいつの振りをして俺を騙したところでなんにもならないのに、なんでって思った。だから、お前の目的が分かるまで騙された振りをしようと思ったんだ」

――お前は、誰?

 遥の問いがぐるぐると目の前で回り続けていて、その他の言葉がうまく理解できないでいた。
 それに、さっき遥が語った「ちか」は、私のなかにいるチーとは大違いだ。
 チーは、かけっこも速くて、お転婆で元気いっぱい、男の子と取っ組み合いのケンカするくらい気が強かった。私が泣いていると、いつも助けてくれた。
 そして、チーは嘘つきで、藤原遥が大好きだった。

「嘘」

 違う。

「そんなの、嘘」
「嘘ついてるのはそっちだろ。いい加減、本当のこと話してくれる?」

 遥が、ぐいと私の前髪をかき上げる。いつもと違う乱暴な手つきに、頭がぐらりと揺れた。

「俺と一番仲良かったせいで、あいつはいつもいじめられてた。よく泣いてたから、俺がずっと守ってやるから泣くなって約束した。でも――」

 遥は苦しそうに顔をしかめた。

「俺がサッカーしてる間に、一人で砂場で遊んでたあいつを女子たちが囲んで、俺に近付くなって詰め寄った。突き飛ばされて転んだとこにデカい石があって、あの傷ができたんだ」

 遥の親指の先で、なにもない生え際をなぞられる。

「完全には消えないって医者に言われたんだってさ。だから、こんなふうにきれいさっぱり無くなるわけがないんだよ」

――これはねぇ、わたしとはるかのひみつ。

 チーと遥。二人を繋ぐ秘密と約束。

「知らなかったんだろ? 俺が『ずっと千佳を守る』って言っても、よく分からないって顔してたもんな」

 で、と遥が私から手を離した。

「お前は、誰?」

 繰り返された問いに、どう答えたらいいのか分からなくて、私は一歩後ずさった。

「私、は」

 もう一歩、もう一歩、と後ろに下がるたびに私と遥の距離が遠くなる。
 足元では堤防のコンクリートにぶつかって砕ける波が、ちゃぷん、ちゃぷん、と音を立てている。まるで、私を誘う声みたいだった。
 もしかしたらチーは今もまだ海のどこかで私を探し続けているのかもしれない。ふと、そんな考えが頭をよぎる。

「私は……」

 体がふっと浮いて、言葉が途切れた。空に浮かんだ月が揺れ、コンクリートの硬い感触が足裏から消える。
 あ、と思って手を伸ばした先にあるのは、暗い海。

――もういいかい。

 チーの声がした。

……もういいよ。
 これでやっと終わる。長い、長いかくれんぼ。

「千佳!」

 その「ちか」は私? それともチー? 
 ああもう分からない。もうどうでもいい。
 目を閉じて、息を止めて、私は闇に落ちる覚悟を決めた。
 そのとき、腕に鈍い痛みが走った。ぐい、と強く引き上げられ、体が重力に逆らって浮かび上がる。その勢いのまま放り投げられて倒れ込んだ拍子に、膝と手のひらをコンクリートに擦ってしまう。

「い……った」

 またか、と顔をしかめた私の背後で派手な水音がした。まるで、なにか大きなものが落ちたような――。
 少しの間を置いて、一気に血の気が引く。

「……遥?」

 いくら見回しても、その姿を見つけられない。

「遥! ねえ、どこにいるの!」

――俺、カナヅチなんだよね。
「遥!」

 どんなに叫んでも、帰ってくるのは波の音だけ。目の前に広がる海は、さっきと少しも変りなく、月の光を反射してただ美しく揺らめいているだけだ。
 また……またなのか。
 無数の命が潜む海は、たった一つの死なんか簡単になかったことにしてしまう。
 チーを、遥を、私の大切なものを飲み込んでしまったくせに、知らん顔でいる。
 だから、海は嫌いだ。――大嫌いだ!
 大きく息を吸うと、私は地面を蹴って海に飛び込んだ。