SAYAでランチ(夏野菜カレーだった)を済ませた私たちは、別荘に戻ってまったりと時間を過ごしていた。
あんなにはしゃいでいた瑞希も、午前中の海遊びで満足したのか、テラスのロッキングチェアを揺らしながら、隣で本を読んでいる桐原先輩にちょっかいを出している。
時計を見ると、午後二時を過ぎていた。二日酔いでダウンしたきりの瑛輔くんの様子を見に行ったら、ベッドはもぬけの殻だった。
調子が戻ってご飯でも食べに行ったのかな。SAYAから砂浜を通って帰ってきた私たちとは入れ違いになってしまったのかもしれない。だいぶ具合が悪そうだったけど大丈夫かな……。
「そうだ」
ちょっとSAYAまで行ってみよう、と思いついた。
まさか行き倒れてるなんてことはないだろうけど、瑛輔くんのことも気になるし。ついでに、レジ横で売っていた手作りパウンドケーキを買ってきて、みんなでお茶にするのもいいかもしれない。
階段を下りてリビングに戻ると、遥はソファに体を沈めて眠っていた。少し日に焼けたのか、鼻先が赤くなっている。
瑞希と桐原先輩は話が盛り上がってるみたいだし、ぐっすり眠っている遥を起こすのも気が引けて、私は一人でそっと別荘を出た。
海水浴客が多い大通りを避けて、人気のない小道を通ってSAYAに向かう途中、どこからかイカを焼いているにおいとソースが焦げるにおいがした。
鼻をくすぐる食べ物のにおいに、私はチーのお母さんのことを思い出した。
顔はチーとはあんまり似ていなかったけれど、チーのようによく笑ってハキハキ喋る人だった。
古いアパートでチーと二人暮らしをしていたおばさんは、いつもなにかを揚げていた。
ジャガイモ、ちくわ、サツマイモ、パンの耳。
私が一番好きだったのは、スプーンですくったホットケーキミックスの生地を油に落として揚げた、穴のないドーナツ。ネズミのしっぽのようにちょろりと細く伸びたところがカリカリして、そこを食べるのが楽しみだった。
私のママが作る、バターや卵をたっぷり使ったふわふわのお菓子にはないその食感が新鮮だったから。
朝にはスーパー、夜にはパチンコ屋で働いていたおばさんは三時少し前に帰ってきて、夕飯の支度をする。
その時間を見計らって、私とチーはアパートに行く。廊下にぶーんと換気扇の音と油のにおいがするのを確認して、二人で声をそろえて合言葉を言うのだ。
「くーださい!」
すると、魔法のように窓が開いて、
「熱いから気を付けな」
と、おばさんは揚げたてのなにかを私とチー、それぞれ一つずつ渡してくれる。私とチーは、ティッシュにくるまれたそれを持って公園に行き、はふはふしながら食べた。
ママには言えない内緒のおやつ。それは、格別な美味しさだった。
SAYAの近くまで行くと瑛輔くんがいた。なにもかも溶かしてしまいそうな夏の日射しのなかで、瑛輔くんはまるで銅像みたいにじっと立っている。
「瑛輔くん、なにやって――」
その視線をたどって気付いた。その場所からはSAYAの店内が――沙耶さんがよく見えた。
顔見知りのお客さんと話しているらしく、大きな口を開けて笑っている。ガラスを隔てたここまで笑い声が聞こえてきそうな、沙耶さんの向日葵のような笑顔。
瑞希にさんざん「鈍い」と言われる私にも分かった。沙耶さんに向かう瑛輔くんの眼差しに含まれる感情はきっと――。
「俺もさ、『ぴーちゃん』なわけよ」
瑛輔くんが、ぽつりと呟いた。
「病院長の一人息子なんてなるもんじゃないよなぁ。強制こそされないけど、将来はうっすら決められてる。中学生のときから『うちの娘はどうですか』なんて二十歳のお姉さまを紹介されちゃうしさ。俺の結婚相手って、たぶん、そういう人たちから親が選ぶんだろうなー。これから先、俺が選べるものってどれくらい残ってんだろ」
――籠の中の鳥。だからぴーちゃん。
初めて会ったときに瑛輔くんが私に付けた名前。
変えられない「過去」に囚われて生きる私と、逃げられない「未来」が待つ瑛輔くん。
私たちは、よく似ている。
「沙耶さんには、なにも言わないの?」
「俺が沙耶に好きだって言ったところで、完全にただの自己満足だろ? あいつの気持ちをぐちゃぐちゃにかき回したあげく、どうしようもないからさようなら、なんてさ」
愛人になれって言ったらぶっ飛ばされるだろうしな、と瑛輔くんはちょっと笑った。
「でも……」
私には、沙耶さんが瑛輔くんをただの腐れ縁の相手として見ているとは思えなかった。
からかうような言葉や仕草の端々に、さっき瑛輔くんが沙耶さんを見ていた視線と同じ感情が潜んでいる気がした。
「普段の俺があんな服装してんのはさ、沙耶に会いに行かないようにするためなんだぜ。沙耶に見られたら、確実に大笑いされてバカにされるからな」
医学生としてはぶっ飛んだ瑛輔くんのあのファッションの理由に、私はその想いの深さを知ってしまう。
だって、そうでもしないと、瑛輔くんは沙耶さんに会いにいってしまうということだから。
「ああ、ついでだから教えとくけど、ぴーちゃんだって俺の結婚相手候補だったんだぜ」
「……はぁっ?」
思わず変な声が出た。
「ぴーちゃんの親父さんはR製薬でも一番の出世頭だし、繋がっておけばこっちにも旨味があるんじゃないかってうちの両親もどっかで期待してっぽい。家庭教師のバイトだって、その仕込みみたいなもんでさ」
「な……ない! そんなの、ないないない!」
大きく首を横に振りながら、瑛輔くんと一歩距離を取る。私にとって瑛輔くんは兄のような存在で、付き合うとか、ましてや結婚とか、そんなの絶対無理!
「そこまで否定されると、俺だって傷付くんですけど」
「だって!」
「俺は、別にそれでもいいかなーなんて思ってたんだけどね。ぴーちゃんのことは嫌いじゃないし。籠の中の鳥同士、籠の中で幸せに暮らしました……ってのが、誰も傷付かないハッピーエンドかなってさ。でも、それはぴーちゃんが遥くんに会うまでの話」
小さく首を傾げた私の頭に、瑛輔くんの手が乗せられた。誰にでも容赦なく降り注ぐ太陽の無差別な熱とは違う、意思を持った柔らかい熱を感じる。
「もうそろそろ気付いてるんじゃないの? 遥くんに恋をしたのは自分だってこと。このまま時間が経てば経つほど、苦しくなるのはぴーちゃんだぞ」
窓の向こうで、沙耶さんが私たちに気付いて手を振った。瑛輔くんはそれに手を振り返しながら「経験者からの忠告」と、苦笑した。
「瑛輔、カレーあと少ししか残ってないから早く早く! 千佳ちゃん、どうしたの? またお腹すいちゃった?」
ドアを開けた沙耶さんの向日葵のような笑顔が夏空の下、明るく弾けた。
プレーンとオレンジ、二本のパウンドケーキを買った帰り道、足が次第に速まって、気が付けば私は走っていた。
心臓が跳ねる。汗が流れる。
そんな私が生きている証をすべて置き去りにしてしまいたくて、ワンピースの裾を翻して全力で走った。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。
なのに、チーは死んで、私は生きてる。
半分しか残っていないのに生きてるなんて、そんなの変だ。おかしい。間違ってる。
チーがいないと私は生きられないのに。生きていちゃいけないのに。
だから――チーは私のなかにいてくれないと困るの。
お願い、チー。いなくならないで。
ずっと、私のなかにいて。
そのためならなんでもするよ。どんな嘘だってつくから。
ほら、チーの初恋だって叶えてあげたでしょう? チーは今も、私のなかで遥に恋をしてるんでしょう?
波の音がする。まとわりつくように、ずっと波の音がする。
別荘のドアを開けると同時に、遥がリビングから飛び出してきた。
「どこ行ってたんだよ!」
ものすごい剣幕で怒鳴りつけられて、汗ばんだ体がびくりと跳ねる。
「これを、買いに」
私がおずおずと差し出したパウンドケーキの入った紙袋を見て、遥は大きく息をついた。
「……今度からは一人で行かないで。俺も一緒に行くから」
「う、うん。ごめんなさい」
少しの沈黙。それから、遥の表情がふっと緩んだ。
「暑かっただろ。すごい汗」
遥の指先が私の額に貼りついた前髪をすくいとる。右の生え際をそっと撫でられたとき、私はハッとして一歩後ずさった。
「傷、消えると思わなかった」
細めた目に優しさをたたえて、遥はもう一度、私の額を撫でる。
「あのとき、痛かったろ」
――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。
チーと遥をつなぐ二人だけの秘密に、どんな嘘をついたら紛れ込むことができるんだろう。
「あ、チッカ戻ってきた」
瑞希がリビングからひょっこりと顔を出した。
「勝手に出歩いちゃダメだよー? 遥くんめっちゃ心配してたんだから!」
「それは瑞希ちゃんが『今ごろナンパされてたりして』とか『えーすけ先生と愛の逃避行中かも』とか、さんざん遥くんを脅かしたせいじゃないかな。探しに行くって言い張る遥くんを止めるのは、なかなか大変だったよ」
「……二人とも。デリカシーとかないんすか」
遥の頬が、うっすらと赤く染まった。甘く騒ぎ始めた私の胸に、瑛輔くんの言葉がよぎる。
――もうそろそろ気付いてるんじゃないの? 遥くんに恋をしたのは自分だってこと。
そんなわけないって振り切るために全力で走ったのに、どうやっても「私」がついてくる。
汗をかいて、心臓を鳴らして、息を弾ませて、遥の声に胸をときめかせてしまう「私」が。
桐原先輩が私の手からパウンドケーキの紙袋を受け取って、にっこりと笑う。
「千佳ちゃんは愛されてるね。さ、せっかくだし、お茶にしようか」
「じゃあそのあとでビーチバレーしましょーよ。夜のバーベキューに備えてお腹すかせておかないと! あたし、午前中にボール買っておいたんだ」
「だったらケーキをやめたほうがいいと僕は思うけどね」
「甘いものは別腹なんですー。ぶちょーはちっとも分かってないなぁ」
くだらない会話をしながらキッチンに向かう二人の後ろで、遥が私の耳元に唇を寄せた。
「もう一人でどっか行くなよ。俺が、ずっと千佳を守るって約束しただろ」
ねえ遥、その「ちか」は私じゃないんだよ。
膨らみ始めた「私」が、そう呟いた。
あんなにはしゃいでいた瑞希も、午前中の海遊びで満足したのか、テラスのロッキングチェアを揺らしながら、隣で本を読んでいる桐原先輩にちょっかいを出している。
時計を見ると、午後二時を過ぎていた。二日酔いでダウンしたきりの瑛輔くんの様子を見に行ったら、ベッドはもぬけの殻だった。
調子が戻ってご飯でも食べに行ったのかな。SAYAから砂浜を通って帰ってきた私たちとは入れ違いになってしまったのかもしれない。だいぶ具合が悪そうだったけど大丈夫かな……。
「そうだ」
ちょっとSAYAまで行ってみよう、と思いついた。
まさか行き倒れてるなんてことはないだろうけど、瑛輔くんのことも気になるし。ついでに、レジ横で売っていた手作りパウンドケーキを買ってきて、みんなでお茶にするのもいいかもしれない。
階段を下りてリビングに戻ると、遥はソファに体を沈めて眠っていた。少し日に焼けたのか、鼻先が赤くなっている。
瑞希と桐原先輩は話が盛り上がってるみたいだし、ぐっすり眠っている遥を起こすのも気が引けて、私は一人でそっと別荘を出た。
海水浴客が多い大通りを避けて、人気のない小道を通ってSAYAに向かう途中、どこからかイカを焼いているにおいとソースが焦げるにおいがした。
鼻をくすぐる食べ物のにおいに、私はチーのお母さんのことを思い出した。
顔はチーとはあんまり似ていなかったけれど、チーのようによく笑ってハキハキ喋る人だった。
古いアパートでチーと二人暮らしをしていたおばさんは、いつもなにかを揚げていた。
ジャガイモ、ちくわ、サツマイモ、パンの耳。
私が一番好きだったのは、スプーンですくったホットケーキミックスの生地を油に落として揚げた、穴のないドーナツ。ネズミのしっぽのようにちょろりと細く伸びたところがカリカリして、そこを食べるのが楽しみだった。
私のママが作る、バターや卵をたっぷり使ったふわふわのお菓子にはないその食感が新鮮だったから。
朝にはスーパー、夜にはパチンコ屋で働いていたおばさんは三時少し前に帰ってきて、夕飯の支度をする。
その時間を見計らって、私とチーはアパートに行く。廊下にぶーんと換気扇の音と油のにおいがするのを確認して、二人で声をそろえて合言葉を言うのだ。
「くーださい!」
すると、魔法のように窓が開いて、
「熱いから気を付けな」
と、おばさんは揚げたてのなにかを私とチー、それぞれ一つずつ渡してくれる。私とチーは、ティッシュにくるまれたそれを持って公園に行き、はふはふしながら食べた。
ママには言えない内緒のおやつ。それは、格別な美味しさだった。
SAYAの近くまで行くと瑛輔くんがいた。なにもかも溶かしてしまいそうな夏の日射しのなかで、瑛輔くんはまるで銅像みたいにじっと立っている。
「瑛輔くん、なにやって――」
その視線をたどって気付いた。その場所からはSAYAの店内が――沙耶さんがよく見えた。
顔見知りのお客さんと話しているらしく、大きな口を開けて笑っている。ガラスを隔てたここまで笑い声が聞こえてきそうな、沙耶さんの向日葵のような笑顔。
瑞希にさんざん「鈍い」と言われる私にも分かった。沙耶さんに向かう瑛輔くんの眼差しに含まれる感情はきっと――。
「俺もさ、『ぴーちゃん』なわけよ」
瑛輔くんが、ぽつりと呟いた。
「病院長の一人息子なんてなるもんじゃないよなぁ。強制こそされないけど、将来はうっすら決められてる。中学生のときから『うちの娘はどうですか』なんて二十歳のお姉さまを紹介されちゃうしさ。俺の結婚相手って、たぶん、そういう人たちから親が選ぶんだろうなー。これから先、俺が選べるものってどれくらい残ってんだろ」
――籠の中の鳥。だからぴーちゃん。
初めて会ったときに瑛輔くんが私に付けた名前。
変えられない「過去」に囚われて生きる私と、逃げられない「未来」が待つ瑛輔くん。
私たちは、よく似ている。
「沙耶さんには、なにも言わないの?」
「俺が沙耶に好きだって言ったところで、完全にただの自己満足だろ? あいつの気持ちをぐちゃぐちゃにかき回したあげく、どうしようもないからさようなら、なんてさ」
愛人になれって言ったらぶっ飛ばされるだろうしな、と瑛輔くんはちょっと笑った。
「でも……」
私には、沙耶さんが瑛輔くんをただの腐れ縁の相手として見ているとは思えなかった。
からかうような言葉や仕草の端々に、さっき瑛輔くんが沙耶さんを見ていた視線と同じ感情が潜んでいる気がした。
「普段の俺があんな服装してんのはさ、沙耶に会いに行かないようにするためなんだぜ。沙耶に見られたら、確実に大笑いされてバカにされるからな」
医学生としてはぶっ飛んだ瑛輔くんのあのファッションの理由に、私はその想いの深さを知ってしまう。
だって、そうでもしないと、瑛輔くんは沙耶さんに会いにいってしまうということだから。
「ああ、ついでだから教えとくけど、ぴーちゃんだって俺の結婚相手候補だったんだぜ」
「……はぁっ?」
思わず変な声が出た。
「ぴーちゃんの親父さんはR製薬でも一番の出世頭だし、繋がっておけばこっちにも旨味があるんじゃないかってうちの両親もどっかで期待してっぽい。家庭教師のバイトだって、その仕込みみたいなもんでさ」
「な……ない! そんなの、ないないない!」
大きく首を横に振りながら、瑛輔くんと一歩距離を取る。私にとって瑛輔くんは兄のような存在で、付き合うとか、ましてや結婚とか、そんなの絶対無理!
「そこまで否定されると、俺だって傷付くんですけど」
「だって!」
「俺は、別にそれでもいいかなーなんて思ってたんだけどね。ぴーちゃんのことは嫌いじゃないし。籠の中の鳥同士、籠の中で幸せに暮らしました……ってのが、誰も傷付かないハッピーエンドかなってさ。でも、それはぴーちゃんが遥くんに会うまでの話」
小さく首を傾げた私の頭に、瑛輔くんの手が乗せられた。誰にでも容赦なく降り注ぐ太陽の無差別な熱とは違う、意思を持った柔らかい熱を感じる。
「もうそろそろ気付いてるんじゃないの? 遥くんに恋をしたのは自分だってこと。このまま時間が経てば経つほど、苦しくなるのはぴーちゃんだぞ」
窓の向こうで、沙耶さんが私たちに気付いて手を振った。瑛輔くんはそれに手を振り返しながら「経験者からの忠告」と、苦笑した。
「瑛輔、カレーあと少ししか残ってないから早く早く! 千佳ちゃん、どうしたの? またお腹すいちゃった?」
ドアを開けた沙耶さんの向日葵のような笑顔が夏空の下、明るく弾けた。
プレーンとオレンジ、二本のパウンドケーキを買った帰り道、足が次第に速まって、気が付けば私は走っていた。
心臓が跳ねる。汗が流れる。
そんな私が生きている証をすべて置き去りにしてしまいたくて、ワンピースの裾を翻して全力で走った。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。
なのに、チーは死んで、私は生きてる。
半分しか残っていないのに生きてるなんて、そんなの変だ。おかしい。間違ってる。
チーがいないと私は生きられないのに。生きていちゃいけないのに。
だから――チーは私のなかにいてくれないと困るの。
お願い、チー。いなくならないで。
ずっと、私のなかにいて。
そのためならなんでもするよ。どんな嘘だってつくから。
ほら、チーの初恋だって叶えてあげたでしょう? チーは今も、私のなかで遥に恋をしてるんでしょう?
波の音がする。まとわりつくように、ずっと波の音がする。
別荘のドアを開けると同時に、遥がリビングから飛び出してきた。
「どこ行ってたんだよ!」
ものすごい剣幕で怒鳴りつけられて、汗ばんだ体がびくりと跳ねる。
「これを、買いに」
私がおずおずと差し出したパウンドケーキの入った紙袋を見て、遥は大きく息をついた。
「……今度からは一人で行かないで。俺も一緒に行くから」
「う、うん。ごめんなさい」
少しの沈黙。それから、遥の表情がふっと緩んだ。
「暑かっただろ。すごい汗」
遥の指先が私の額に貼りついた前髪をすくいとる。右の生え際をそっと撫でられたとき、私はハッとして一歩後ずさった。
「傷、消えると思わなかった」
細めた目に優しさをたたえて、遥はもう一度、私の額を撫でる。
「あのとき、痛かったろ」
――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。
チーと遥をつなぐ二人だけの秘密に、どんな嘘をついたら紛れ込むことができるんだろう。
「あ、チッカ戻ってきた」
瑞希がリビングからひょっこりと顔を出した。
「勝手に出歩いちゃダメだよー? 遥くんめっちゃ心配してたんだから!」
「それは瑞希ちゃんが『今ごろナンパされてたりして』とか『えーすけ先生と愛の逃避行中かも』とか、さんざん遥くんを脅かしたせいじゃないかな。探しに行くって言い張る遥くんを止めるのは、なかなか大変だったよ」
「……二人とも。デリカシーとかないんすか」
遥の頬が、うっすらと赤く染まった。甘く騒ぎ始めた私の胸に、瑛輔くんの言葉がよぎる。
――もうそろそろ気付いてるんじゃないの? 遥くんに恋をしたのは自分だってこと。
そんなわけないって振り切るために全力で走ったのに、どうやっても「私」がついてくる。
汗をかいて、心臓を鳴らして、息を弾ませて、遥の声に胸をときめかせてしまう「私」が。
桐原先輩が私の手からパウンドケーキの紙袋を受け取って、にっこりと笑う。
「千佳ちゃんは愛されてるね。さ、せっかくだし、お茶にしようか」
「じゃあそのあとでビーチバレーしましょーよ。夜のバーベキューに備えてお腹すかせておかないと! あたし、午前中にボール買っておいたんだ」
「だったらケーキをやめたほうがいいと僕は思うけどね」
「甘いものは別腹なんですー。ぶちょーはちっとも分かってないなぁ」
くだらない会話をしながらキッチンに向かう二人の後ろで、遥が私の耳元に唇を寄せた。
「もう一人でどっか行くなよ。俺が、ずっと千佳を守るって約束しただろ」
ねえ遥、その「ちか」は私じゃないんだよ。
膨らみ始めた「私」が、そう呟いた。