「ふん、ぴーちゃん。上々の出来だね」
一学期最後の家庭教師の日、戻ってきた期末テストの結果を見た瑛輔くんがつまらなそうに言った。
「こんだけはちゃめちゃな高校生活でこの結果なら、俺いらなくね?」
実力テスト、中間、期末、と私は学年一位をキープしていた。そのせいで、最近はあのスピーチが伝説化してきている。
「瑛輔くんの教えかたがいいからだよ」
「そんな心にもないお世辞も言えるようになったんですね。お兄さん嬉しい」
無表情でテストの余白に落書きをしながら、瑛輔くんはちらっと私を見た。
「……で、遥くんとの進展は? 念願叶ってお付き合いが始まったんだろ?」
「……別に」
「なんだよ。協力してやったんだから照れないで教えてくれてもいいだろー?」
「別に、報告するほど変わってない。瑞希と一緒に三人でお弁当食べて、放課後は部室でお勉強して帰ってくる。それだけ」
私の答えに、瑛輔くんがあんぐりと口を開けた。
「なにそれ? いまどきの小学生のほうがもっと進んでるんじゃないの?」
「やっぱりそうだよね……」
転校と文芸部の退部こそ免れたものの、吉田さんの一件でママの門限と締め付けは厳しくなった。
そのせいで遥と過ごす時間が短くなったせいかな、とも思ったけれど、気をきかせた瑞希が私と遥を二人っきりにしてくれても、なぜか恋人同士の甘い雰囲気にはならない。
いや、私だって今まで彼氏がいたことはないから正解は知らないけど。でも、もっとこう……なにか、劇的な変化があるものだと思っていた。
「ううん。やっぱり聞いてたとおりか」
瑛輔くんは、国民的ネコ型ロボットのイラストを完成させるとペンを置いた。
「聞いてたとおりって?」
「瑞希ちゃんと桐原くんからの情報」
「……は?」
なんで瑛輔くんが? 確かに瑞希とは面識があるけれど、あれ以来二人が会う必要なんかなかったし、ましてや桐原先輩とは知り合う機会もなかったはずなのに。
「瑞希ちゃんとの勉強会のときさ、分かんないことあったら聞いてって連絡先交換したんだよ。そんで、仲良くなって、たまに会ったりしてたってわけ。桐原くんは、二人っきりだと誤解されるかもって、瑞希ちゃんが連れてきたんだよ」
いつの間にか構築されていたネットワークに唖然とする。物事というものは、私の知らないところで勝手に進むものなんだな……。
「ぴーちゃんと遥くんの進展について、瑞希ちゃんも頭を悩ませてたよ」
「瑞希が悩むことじゃないんだけど」
「友達として、でしょ」
瑛輔くんにそう言われて、私は照れくさくなって口をつぐんだ。
吉田さんの一件の顛末を報告したとき、ニヤニヤした瑛輔くんに「ぴーちゃんにも友達ができたんだねぇ」とさんざんからかわれたからだ。
「じゃあさ、ここはひとつ、俺から……というか、俺たちから提案があるんだけど」
提案? と私が聞き返すと、
「文芸部の夏合宿、と称した小旅行」
と、瑛輔くんは答えた。
「場所はうちの別荘。リゾートって呼ぶにはちょい寂しい場所だけど、まあ海はあるから。夏の海で進展しない恋なんてないからな」
夏の海。別荘。
急に部屋の温度が下がった気がした。子どもじみたカラフルな部屋が、途端に色を失っていく。
ドアが開いて、アールグレイとアップルパイの香りが部屋になだれこんでくる。
「お疲れさまです。ちょっと休憩しません?」
明るい声とは裏腹に、ママの顔には今日も不安が貼りついている。
ママは、おばさん――チーの母親からの電話も、なかったかのように振舞った。けれど、その日からママは、どこか私を探るような目で見るようになった。
「ありがとうございます」
瑛輔くんが、スイッチを切り替えたように、人好きのする笑顔をママに向ける。。
「千佳さんの今学期の結果はバッチリでしたね。それで頑張ったご褒美と、まあ、いろいろあったことの気分転換も兼ねて、千佳さんと千佳さんのお友達を、うちの別荘に招待しようと思ってるんです。海沿いで、なかなかいい場所なんですよ」
ママの手からトレイが落ちて、がちゃん、と陶器の割れる音がした。ぶちまけられた紅茶とひしゃげたアップルパイが、真っ白いファーのラグを汚していく。
「だめ!」
ママはアップルパイを踏みつけて私のもとに駆けよると、きつく抱きしめた。二本の白い腕が私を絡めとって縛り上げる。
――千佳ちゃん!
あの日のママの声だ、と思った。
「だめよ。絶対だめ。海なんてとんでもない。二度と行かせるもんですか。桜田先生もなんでそんなひどいこと。だめ。だめよ。行かせない」
「お、おばさん……あの、二泊くらいのちょっとした旅行で……。もちろん俺が責任を持って……」
「そんな約束なんて、なにかあったときにはなんの意味もないの! だめ、絶対に行かせないんだから!」
瑛輔くんは目を丸くして固まってしまった。
多少過保護な母親だとは思っていただろうけれど、まさか二泊三日の旅行を提案されただけで、こんな拒絶反応を示すなんて想像もしていなかったはずだ。
「どうした」
階段を上がってくる足音とともに、久し振りに聞く声がした。
「あなた!」
パパは私の部屋の前に立つと、床にこぼれた紅茶と陶器のかけら、つぶれたアップルパイ、私をきつく抱きしめるママ、呆然と立ち尽くす瑛輔くん、それぞれ番号が振られているように、一つひとつ視線を巡らせた。
だけど、私にだけ番号が振られていない。素通りしていくパパの視線に胸がきゅっとした。
「先生が、千佳ちゃんを海に連れていくって……お願い、やめさせてちょうだい。きっとまたなにかひどいことが起こるわ!」
あの日から――チーがいなくなった日から、ママは私のことを心配し続けている。パパは私を見なくなった。嘘を抱えた私は、どうにかチーをこの世界にとどめておこうと足掻いている。
嘘みたいに真っ白なこの家で、歪んだまま、時間だけが過ぎていく。
――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。
――……分かるね、千佳。
「行かせてやりなさい」
瑛輔くんから事情を聞いたパパは、あっさりと言った。
私を抱きしめる腕に力が入った。体が二つに千切れてしまいそうだった。
「いや。いやよ。ねえ、千佳ちゃんだっていやでしょう? 海なんて、行きたくないでしょう? あなたはいつもそう。千佳ちゃんのこと、どうでもいいの?」
いやだ。
誰かに触れられるのも、汗をかくのも、夏も、海も、あの日を思い出すのも、チーを失った世界で生きるのも。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
「千佳はどうしたいんだ」
パパの目が、ようやく私を捉えた。あの日と同じようにママに抱きしめられ、なにも言えないでいる私を見た。
――言うとおりにしなさい。分かるね、千佳。
あのときは、私の意見なんか聞かなかったくせに。うなずく以外の選択肢を与えてくれなかったくせに。
「私は」
唇が勝手に動いて、掠れた声がこぼれ落ちる。いやだ、やめて。
「行きたい」
ねえ、チー。もしかしてこれは、私のなかにいるチーが言わせてるの?
******
カーエアコンの風に、潮のにおいが混じった。
車の窓の向こうには太陽の光を反射してきらきらと輝く海、空には大きな入道雲そびえ立っている。嘘みたいに美しい夏の景色は、あの日とは全然違っていた。
あの日は、すごく天気が悪かったから。
「チッカ、酔った? 大丈夫?」
顔を伏せた私に気付いて、隣に座る瑞希が声をかけてきた。
「ぴーちゃん、少し休もうか」
「――ううん、平気。少し眠いだけだから」
ぐいと肩を引き寄せられる。潮のにおいが遠ざかり、その代わりに遥の香りが私の呼吸に紛れ込む。
「寝るなら俺に寄りかかっていいよ」
Tシャツ越しに伝わってくる体温に胸が音を立てた。
私たち星山高校文芸部はいま、瑛輔くんが運転する車で、桜田家の所有する別荘に向かっていた。部長特権で桐原先輩は助手席に座り、瑞希と私、そして遥は、後部座席でぎゅうぎゅうと身を寄せ合っている。
「海沿いの別荘なんてロマンチックだよねー。そんなとこで過ごせるなんて夢みたい!」
瑞希がはしゃいだ声を上げる。
「本当にお邪魔していいんですか?」
「今さらなに言ってんすか、部長。誰よりもノリノリだったくせに」
遥が手にしたお茶のペットボトルで、助手席の背を突いた。緑色の液体がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れる。
「僕だって遠慮ってものくらい知ってるよ」
「どうだか」
「いつもは友達と行くんだけど、今回はみんな都合がつかなかったし。それに君たちも……特に遥くん、君もいろいろ大変だったんだって? 少しは気晴らしになるかなと思ってさ。それに、ぴーちゃんの彼氏にも会ってみたかったし」
「ちょっと、瑛輔くん!」
ははは、と笑って瑛輔くんは、車を左折させた。
引率という立場もあってか、ハンドルを握る瑛輔くんの髪色は常識的なダークブラウンだった。いつものパンキッシュスタイルは鳴りを潜めて、白い半袖シャツに紺のサマージャケット、七分丈のコットンパンツという爽やか好青年スタイル。
瑛輔くんらしくないその姿は、なぜか私を不安にさせた。
「千佳、ほら少し寝とけって」
遥がもう一度、私の肩を引いた。
「だ、大丈夫! もうすっかり目が覚めたし!」
「そう? じゃあ、俺が寝るから肩貸して」
遥の頭が私の肩に乗せられた。柔らかい髪の毛が頬をくすぐる。
じわりと熱を帯びた一点から緊張が走って体が強張った。なんとか距離を保とうと身をよじっていると、
「ちょっとチッカ、こっちに寄り過ぎ。ほらー、詰めて詰めて」
瑞希がぐいと私を遥のほうに押しやって、ぺろりと舌を出した。
こいつ……絶対わざとだ。後で覚えてろよ。
しばらくすると、遥はすぅすぅと規則正しい寝息を立て始めた。
窓の外の景色に向かってスマートフォンを構える瑞希と、好きな小説の話で盛り上がる先輩と瑛輔くん。この狭い空間で、それぞれがそれぞれの時間を過ごしながら一緒にいる。
その雰囲気が、あの日のことを思い出させた。
――カー。見て! 海だよ!
前の席でパパとママが親戚の結婚式についてああだこうだと話しているとき、私とチーは海を見てはしゃいでいた。
――もっとキラキラしていると思ってたけど、なんか真っ黒だね。
そうか。チーはこんなふうに青い海を見たことがないままなんだ。
私に寄りかかる遥の寝顔をそっと観察する。
目を閉じた遥もやっぱりきれいだった。長いまつげ、形のよい鼻、少し薄い唇。もう少しよく見たくて、まぶたにかかった前髪を指先でそっと払うと、突然遥の目が開いた。ばっちりと目が合ってしまう。
遥はくすりと笑って、人差し指を唇の前に立てた。そして、もう一度目を閉じると、さっきより深く私にもたれかかる。
「――っ」
顔が熱くなる。
遥の体温も、においも、私の頬をくすぐる髪の毛の感触も、呼吸に合わせて上下するお腹の動きも、一つ残らず感じ取ってしまう。いっそ私も眠ってしまえば、と目を閉じてみたけれど、感覚がより鋭敏になるだけだった……。
別荘に到着したのは午後二時を少し回ったころだった。
長距離ドライブを終えた全員が、車を降りるなり大きく伸びをした。体中の関節がぱきぱきと音を立てている気がした。
桜田家の別荘があるこの土地は、よく名前を聞くリゾート地だった。
けれど、最近は不景気の影響もあって少しずつ廃れてきているらしい。美しい海から目をそらせば「売家」や「売地」という看板がちらほらと目についた。
「ほら見て、チッカ。こんなに近くに海があるよ」
Tシャツにショートパンツの瑞希が私の肩を叩く。
海面に反射する太陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
――カー。わたしね、海で泳ぐの初めてなんだ! プールとちがうのかなぁ。
あの日のチーもすごく楽しそうだった。私だって、チーと一緒に海で遊ぶのが楽しみだった。前日はなかなか眠れなかったくらい、楽しみだった。
「ほら、ぼーっと突っ立ってないで行くよ、ぴーちゃん」
別荘の鍵を開けた瑛輔くんが私に叫んだ。
中に入ると、ふわりと木の香りがした。無垢のフローリングが敷かれているせいかもしれない。
吹き抜けの二階建てで、一階にはリビングとキッチンがあり、リビングには巨大なグレーのソファと、シングルソファが二つ、それに大きなセンターテーブルが置かれていた。
キッチンのほうにはこれまた巨大な一枚板のダイニングテーブル、それに木製のチェアが六脚セットされており、あらかじめ連絡してあったらしく、テーブルの上にはフルーツやお菓子が用意されていた。
海に面するウッドデッキには、バーベキュー用のグリルや、焚火スペース、ハンモックまであった。
「やばーい! あたしここに住みたい!」
「こういうとこはたまに来るからいいんだよ――。ああよかった、飲み物とかも用意してある。この辺、コンビニとかないから不便なんだよな」
瑛輔くんが冷蔵庫をのぞき込みながら言った。
「……ねえ。もしかして、食事って私たちが作るの?」
私の言葉に、瑞希と遥、桐原先輩が顔を見合わせた。
「料理できる人ー?」
桐原先輩が挙手を求めたけれど、手を挙げた者は一人もいない。
ママは「怪我したら大変」と私がキッチンに立つことを禁止していたから、料理の経験は家庭科の調理実習だけだ。
瑞希は「カップラーメンならプロ級」と胸を張っているし、遥も首を横に振った。
こんな優雅な別荘にいる間、カップラーメンしか食べられないかもしれない……なんて、私たちが途方に暮れていると、瑛輔くんがフルーツを盛ったカゴからバナナを取ってもぐもぐやりながら、
「最初からぴーちゃんたちをあてにするわけないでしょ。ちゃんと考えてるから心配しないの」
と、言った……。
二階にはシャワールーム付きのツインの客室が三室あり、私と瑞希、遥と桐原先輩がそれぞれ同室で、瑛輔くんは一人で一部屋を使うことになった。
部屋に入って荷物を置くと、ベッドに横たわった。頬にあたるシーツさらさらした感触が気持ちいい。目を閉じたら一瞬で眠ってしまいそうだ。
「ねーねー、チッカ。内緒で遥くんと部屋変わってあげようか?」
「……うるさい」
瑞希が弾けるように笑った。
ドアが開いて顔をのぞかせた瑛輔くんが、ベッドに寝転がる私たちを見て呆れたように笑った。
「こらこらお嬢さまがた、休憩はもう終わりだよ」
「レディーの部屋にノックも無しに入ってくるの、よくないと思いまーす」
「以後気を付けまーす。ほら動いた動いた」
瑞希の抗議をさらりとかわして、瑛輔くんが急かすようにパンパンと手を叩く。
「それでは、これからみんなで勉強会です」
のそのそと起き上がっていた私たちは、瑛輔くんの発言に動きをストップさせた。
「……勉強会?」
「当たり前だろ。君たちなんのためにここに来たの? 文芸部の合宿でしょうが。そして君たちが普段文芸部でやっているのは?」
勉強会。桐原先輩は本を読んでいるだけだけど。
「星山高校の夏休みの課題ってめちゃくちゃ大変だって聞いてるぞ。おじさんとおばさんにも、ぴーちゃんのこと責任もって預かるって約束したし、やることはちゃんとやる。自由時間はそれから」
死にそうな顔をしている瑞希に、瑛輔くんがわざとらしくウインクした。
「頑張ったお嬢さまがたには、ご褒美に特別ディナーを用意してあるから」
階段を下りながら、瑞希がこそこそと私に話しかけてくる。
「特別ディナーって、どっかにすてきなお店でもあるのかな」
「あんまり期待しないほうがいいんじゃない? 寂れたリゾート地にしぶとく残ってるだけのお店かもしれないんだから。それより、瑞希大丈夫? 本気の瑛輔くんの授業って超スパルタだよ。しかも、出来が悪いとペナルティーもあるし。ディナーがお預けにならないように頑張ってね」
嘘だけど、と心の中で舌を出す。車の中でされたことのお返しだ。
瑞希が再び死にそうな顔になったのを確認して、窓の外に広がる海に目をやった。
嘘みたいにきれいな海。
だけど、嫌いだ。海は大嫌い。
チーを飲み込んで、さらってしまったから。
一学期最後の家庭教師の日、戻ってきた期末テストの結果を見た瑛輔くんがつまらなそうに言った。
「こんだけはちゃめちゃな高校生活でこの結果なら、俺いらなくね?」
実力テスト、中間、期末、と私は学年一位をキープしていた。そのせいで、最近はあのスピーチが伝説化してきている。
「瑛輔くんの教えかたがいいからだよ」
「そんな心にもないお世辞も言えるようになったんですね。お兄さん嬉しい」
無表情でテストの余白に落書きをしながら、瑛輔くんはちらっと私を見た。
「……で、遥くんとの進展は? 念願叶ってお付き合いが始まったんだろ?」
「……別に」
「なんだよ。協力してやったんだから照れないで教えてくれてもいいだろー?」
「別に、報告するほど変わってない。瑞希と一緒に三人でお弁当食べて、放課後は部室でお勉強して帰ってくる。それだけ」
私の答えに、瑛輔くんがあんぐりと口を開けた。
「なにそれ? いまどきの小学生のほうがもっと進んでるんじゃないの?」
「やっぱりそうだよね……」
転校と文芸部の退部こそ免れたものの、吉田さんの一件でママの門限と締め付けは厳しくなった。
そのせいで遥と過ごす時間が短くなったせいかな、とも思ったけれど、気をきかせた瑞希が私と遥を二人っきりにしてくれても、なぜか恋人同士の甘い雰囲気にはならない。
いや、私だって今まで彼氏がいたことはないから正解は知らないけど。でも、もっとこう……なにか、劇的な変化があるものだと思っていた。
「ううん。やっぱり聞いてたとおりか」
瑛輔くんは、国民的ネコ型ロボットのイラストを完成させるとペンを置いた。
「聞いてたとおりって?」
「瑞希ちゃんと桐原くんからの情報」
「……は?」
なんで瑛輔くんが? 確かに瑞希とは面識があるけれど、あれ以来二人が会う必要なんかなかったし、ましてや桐原先輩とは知り合う機会もなかったはずなのに。
「瑞希ちゃんとの勉強会のときさ、分かんないことあったら聞いてって連絡先交換したんだよ。そんで、仲良くなって、たまに会ったりしてたってわけ。桐原くんは、二人っきりだと誤解されるかもって、瑞希ちゃんが連れてきたんだよ」
いつの間にか構築されていたネットワークに唖然とする。物事というものは、私の知らないところで勝手に進むものなんだな……。
「ぴーちゃんと遥くんの進展について、瑞希ちゃんも頭を悩ませてたよ」
「瑞希が悩むことじゃないんだけど」
「友達として、でしょ」
瑛輔くんにそう言われて、私は照れくさくなって口をつぐんだ。
吉田さんの一件の顛末を報告したとき、ニヤニヤした瑛輔くんに「ぴーちゃんにも友達ができたんだねぇ」とさんざんからかわれたからだ。
「じゃあさ、ここはひとつ、俺から……というか、俺たちから提案があるんだけど」
提案? と私が聞き返すと、
「文芸部の夏合宿、と称した小旅行」
と、瑛輔くんは答えた。
「場所はうちの別荘。リゾートって呼ぶにはちょい寂しい場所だけど、まあ海はあるから。夏の海で進展しない恋なんてないからな」
夏の海。別荘。
急に部屋の温度が下がった気がした。子どもじみたカラフルな部屋が、途端に色を失っていく。
ドアが開いて、アールグレイとアップルパイの香りが部屋になだれこんでくる。
「お疲れさまです。ちょっと休憩しません?」
明るい声とは裏腹に、ママの顔には今日も不安が貼りついている。
ママは、おばさん――チーの母親からの電話も、なかったかのように振舞った。けれど、その日からママは、どこか私を探るような目で見るようになった。
「ありがとうございます」
瑛輔くんが、スイッチを切り替えたように、人好きのする笑顔をママに向ける。。
「千佳さんの今学期の結果はバッチリでしたね。それで頑張ったご褒美と、まあ、いろいろあったことの気分転換も兼ねて、千佳さんと千佳さんのお友達を、うちの別荘に招待しようと思ってるんです。海沿いで、なかなかいい場所なんですよ」
ママの手からトレイが落ちて、がちゃん、と陶器の割れる音がした。ぶちまけられた紅茶とひしゃげたアップルパイが、真っ白いファーのラグを汚していく。
「だめ!」
ママはアップルパイを踏みつけて私のもとに駆けよると、きつく抱きしめた。二本の白い腕が私を絡めとって縛り上げる。
――千佳ちゃん!
あの日のママの声だ、と思った。
「だめよ。絶対だめ。海なんてとんでもない。二度と行かせるもんですか。桜田先生もなんでそんなひどいこと。だめ。だめよ。行かせない」
「お、おばさん……あの、二泊くらいのちょっとした旅行で……。もちろん俺が責任を持って……」
「そんな約束なんて、なにかあったときにはなんの意味もないの! だめ、絶対に行かせないんだから!」
瑛輔くんは目を丸くして固まってしまった。
多少過保護な母親だとは思っていただろうけれど、まさか二泊三日の旅行を提案されただけで、こんな拒絶反応を示すなんて想像もしていなかったはずだ。
「どうした」
階段を上がってくる足音とともに、久し振りに聞く声がした。
「あなた!」
パパは私の部屋の前に立つと、床にこぼれた紅茶と陶器のかけら、つぶれたアップルパイ、私をきつく抱きしめるママ、呆然と立ち尽くす瑛輔くん、それぞれ番号が振られているように、一つひとつ視線を巡らせた。
だけど、私にだけ番号が振られていない。素通りしていくパパの視線に胸がきゅっとした。
「先生が、千佳ちゃんを海に連れていくって……お願い、やめさせてちょうだい。きっとまたなにかひどいことが起こるわ!」
あの日から――チーがいなくなった日から、ママは私のことを心配し続けている。パパは私を見なくなった。嘘を抱えた私は、どうにかチーをこの世界にとどめておこうと足掻いている。
嘘みたいに真っ白なこの家で、歪んだまま、時間だけが過ぎていく。
――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。
――……分かるね、千佳。
「行かせてやりなさい」
瑛輔くんから事情を聞いたパパは、あっさりと言った。
私を抱きしめる腕に力が入った。体が二つに千切れてしまいそうだった。
「いや。いやよ。ねえ、千佳ちゃんだっていやでしょう? 海なんて、行きたくないでしょう? あなたはいつもそう。千佳ちゃんのこと、どうでもいいの?」
いやだ。
誰かに触れられるのも、汗をかくのも、夏も、海も、あの日を思い出すのも、チーを失った世界で生きるのも。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
「千佳はどうしたいんだ」
パパの目が、ようやく私を捉えた。あの日と同じようにママに抱きしめられ、なにも言えないでいる私を見た。
――言うとおりにしなさい。分かるね、千佳。
あのときは、私の意見なんか聞かなかったくせに。うなずく以外の選択肢を与えてくれなかったくせに。
「私は」
唇が勝手に動いて、掠れた声がこぼれ落ちる。いやだ、やめて。
「行きたい」
ねえ、チー。もしかしてこれは、私のなかにいるチーが言わせてるの?
******
カーエアコンの風に、潮のにおいが混じった。
車の窓の向こうには太陽の光を反射してきらきらと輝く海、空には大きな入道雲そびえ立っている。嘘みたいに美しい夏の景色は、あの日とは全然違っていた。
あの日は、すごく天気が悪かったから。
「チッカ、酔った? 大丈夫?」
顔を伏せた私に気付いて、隣に座る瑞希が声をかけてきた。
「ぴーちゃん、少し休もうか」
「――ううん、平気。少し眠いだけだから」
ぐいと肩を引き寄せられる。潮のにおいが遠ざかり、その代わりに遥の香りが私の呼吸に紛れ込む。
「寝るなら俺に寄りかかっていいよ」
Tシャツ越しに伝わってくる体温に胸が音を立てた。
私たち星山高校文芸部はいま、瑛輔くんが運転する車で、桜田家の所有する別荘に向かっていた。部長特権で桐原先輩は助手席に座り、瑞希と私、そして遥は、後部座席でぎゅうぎゅうと身を寄せ合っている。
「海沿いの別荘なんてロマンチックだよねー。そんなとこで過ごせるなんて夢みたい!」
瑞希がはしゃいだ声を上げる。
「本当にお邪魔していいんですか?」
「今さらなに言ってんすか、部長。誰よりもノリノリだったくせに」
遥が手にしたお茶のペットボトルで、助手席の背を突いた。緑色の液体がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れる。
「僕だって遠慮ってものくらい知ってるよ」
「どうだか」
「いつもは友達と行くんだけど、今回はみんな都合がつかなかったし。それに君たちも……特に遥くん、君もいろいろ大変だったんだって? 少しは気晴らしになるかなと思ってさ。それに、ぴーちゃんの彼氏にも会ってみたかったし」
「ちょっと、瑛輔くん!」
ははは、と笑って瑛輔くんは、車を左折させた。
引率という立場もあってか、ハンドルを握る瑛輔くんの髪色は常識的なダークブラウンだった。いつものパンキッシュスタイルは鳴りを潜めて、白い半袖シャツに紺のサマージャケット、七分丈のコットンパンツという爽やか好青年スタイル。
瑛輔くんらしくないその姿は、なぜか私を不安にさせた。
「千佳、ほら少し寝とけって」
遥がもう一度、私の肩を引いた。
「だ、大丈夫! もうすっかり目が覚めたし!」
「そう? じゃあ、俺が寝るから肩貸して」
遥の頭が私の肩に乗せられた。柔らかい髪の毛が頬をくすぐる。
じわりと熱を帯びた一点から緊張が走って体が強張った。なんとか距離を保とうと身をよじっていると、
「ちょっとチッカ、こっちに寄り過ぎ。ほらー、詰めて詰めて」
瑞希がぐいと私を遥のほうに押しやって、ぺろりと舌を出した。
こいつ……絶対わざとだ。後で覚えてろよ。
しばらくすると、遥はすぅすぅと規則正しい寝息を立て始めた。
窓の外の景色に向かってスマートフォンを構える瑞希と、好きな小説の話で盛り上がる先輩と瑛輔くん。この狭い空間で、それぞれがそれぞれの時間を過ごしながら一緒にいる。
その雰囲気が、あの日のことを思い出させた。
――カー。見て! 海だよ!
前の席でパパとママが親戚の結婚式についてああだこうだと話しているとき、私とチーは海を見てはしゃいでいた。
――もっとキラキラしていると思ってたけど、なんか真っ黒だね。
そうか。チーはこんなふうに青い海を見たことがないままなんだ。
私に寄りかかる遥の寝顔をそっと観察する。
目を閉じた遥もやっぱりきれいだった。長いまつげ、形のよい鼻、少し薄い唇。もう少しよく見たくて、まぶたにかかった前髪を指先でそっと払うと、突然遥の目が開いた。ばっちりと目が合ってしまう。
遥はくすりと笑って、人差し指を唇の前に立てた。そして、もう一度目を閉じると、さっきより深く私にもたれかかる。
「――っ」
顔が熱くなる。
遥の体温も、においも、私の頬をくすぐる髪の毛の感触も、呼吸に合わせて上下するお腹の動きも、一つ残らず感じ取ってしまう。いっそ私も眠ってしまえば、と目を閉じてみたけれど、感覚がより鋭敏になるだけだった……。
別荘に到着したのは午後二時を少し回ったころだった。
長距離ドライブを終えた全員が、車を降りるなり大きく伸びをした。体中の関節がぱきぱきと音を立てている気がした。
桜田家の別荘があるこの土地は、よく名前を聞くリゾート地だった。
けれど、最近は不景気の影響もあって少しずつ廃れてきているらしい。美しい海から目をそらせば「売家」や「売地」という看板がちらほらと目についた。
「ほら見て、チッカ。こんなに近くに海があるよ」
Tシャツにショートパンツの瑞希が私の肩を叩く。
海面に反射する太陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
――カー。わたしね、海で泳ぐの初めてなんだ! プールとちがうのかなぁ。
あの日のチーもすごく楽しそうだった。私だって、チーと一緒に海で遊ぶのが楽しみだった。前日はなかなか眠れなかったくらい、楽しみだった。
「ほら、ぼーっと突っ立ってないで行くよ、ぴーちゃん」
別荘の鍵を開けた瑛輔くんが私に叫んだ。
中に入ると、ふわりと木の香りがした。無垢のフローリングが敷かれているせいかもしれない。
吹き抜けの二階建てで、一階にはリビングとキッチンがあり、リビングには巨大なグレーのソファと、シングルソファが二つ、それに大きなセンターテーブルが置かれていた。
キッチンのほうにはこれまた巨大な一枚板のダイニングテーブル、それに木製のチェアが六脚セットされており、あらかじめ連絡してあったらしく、テーブルの上にはフルーツやお菓子が用意されていた。
海に面するウッドデッキには、バーベキュー用のグリルや、焚火スペース、ハンモックまであった。
「やばーい! あたしここに住みたい!」
「こういうとこはたまに来るからいいんだよ――。ああよかった、飲み物とかも用意してある。この辺、コンビニとかないから不便なんだよな」
瑛輔くんが冷蔵庫をのぞき込みながら言った。
「……ねえ。もしかして、食事って私たちが作るの?」
私の言葉に、瑞希と遥、桐原先輩が顔を見合わせた。
「料理できる人ー?」
桐原先輩が挙手を求めたけれど、手を挙げた者は一人もいない。
ママは「怪我したら大変」と私がキッチンに立つことを禁止していたから、料理の経験は家庭科の調理実習だけだ。
瑞希は「カップラーメンならプロ級」と胸を張っているし、遥も首を横に振った。
こんな優雅な別荘にいる間、カップラーメンしか食べられないかもしれない……なんて、私たちが途方に暮れていると、瑛輔くんがフルーツを盛ったカゴからバナナを取ってもぐもぐやりながら、
「最初からぴーちゃんたちをあてにするわけないでしょ。ちゃんと考えてるから心配しないの」
と、言った……。
二階にはシャワールーム付きのツインの客室が三室あり、私と瑞希、遥と桐原先輩がそれぞれ同室で、瑛輔くんは一人で一部屋を使うことになった。
部屋に入って荷物を置くと、ベッドに横たわった。頬にあたるシーツさらさらした感触が気持ちいい。目を閉じたら一瞬で眠ってしまいそうだ。
「ねーねー、チッカ。内緒で遥くんと部屋変わってあげようか?」
「……うるさい」
瑞希が弾けるように笑った。
ドアが開いて顔をのぞかせた瑛輔くんが、ベッドに寝転がる私たちを見て呆れたように笑った。
「こらこらお嬢さまがた、休憩はもう終わりだよ」
「レディーの部屋にノックも無しに入ってくるの、よくないと思いまーす」
「以後気を付けまーす。ほら動いた動いた」
瑞希の抗議をさらりとかわして、瑛輔くんが急かすようにパンパンと手を叩く。
「それでは、これからみんなで勉強会です」
のそのそと起き上がっていた私たちは、瑛輔くんの発言に動きをストップさせた。
「……勉強会?」
「当たり前だろ。君たちなんのためにここに来たの? 文芸部の合宿でしょうが。そして君たちが普段文芸部でやっているのは?」
勉強会。桐原先輩は本を読んでいるだけだけど。
「星山高校の夏休みの課題ってめちゃくちゃ大変だって聞いてるぞ。おじさんとおばさんにも、ぴーちゃんのこと責任もって預かるって約束したし、やることはちゃんとやる。自由時間はそれから」
死にそうな顔をしている瑞希に、瑛輔くんがわざとらしくウインクした。
「頑張ったお嬢さまがたには、ご褒美に特別ディナーを用意してあるから」
階段を下りながら、瑞希がこそこそと私に話しかけてくる。
「特別ディナーって、どっかにすてきなお店でもあるのかな」
「あんまり期待しないほうがいいんじゃない? 寂れたリゾート地にしぶとく残ってるだけのお店かもしれないんだから。それより、瑞希大丈夫? 本気の瑛輔くんの授業って超スパルタだよ。しかも、出来が悪いとペナルティーもあるし。ディナーがお預けにならないように頑張ってね」
嘘だけど、と心の中で舌を出す。車の中でされたことのお返しだ。
瑞希が再び死にそうな顔になったのを確認して、窓の外に広がる海に目をやった。
嘘みたいにきれいな海。
だけど、嫌いだ。海は大嫌い。
チーを飲み込んで、さらってしまったから。